2021年6月4日金曜日

日本根子高端淨足姫天皇:元正天皇(2) 〔518〕

日本根子高端淨足姫天皇:元正天皇(2)


靈龜二年(西暦716年)四月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀1(直木考次郎他著)を参照。

夏四月癸丑。詔。壬申年功臣贈少紫村國連小依息從六位下志我麻呂。贈大紫星川臣麻呂息從七位上黒麻呂。贈大錦下坂上直熊毛息正六位下宗大。贈小錦上置始連宇佐伎息正八位下虫麻呂。贈小錦下文直成覺息從七位上古麻呂。贈直大壹文忌寸知徳息從七位上塩麻呂。贈直大壹丸部臣君手息從六位上大石。贈正四位上文忌寸祢麻呂息正七位下馬養。贈正四位下黄文連大伴息從七位上粳麻呂。贈從五位上尾張宿祢大隅息正八位下稻置等一十人。賜田各有差。戊午。雨霰。甲子。割大鳥。和泉。日根三郡。始置和泉監焉。乙丑。詔曰。凡貢調脚夫。入京之日。所司親臨。察其備儲。若有國司勤加勸課。能合上制。則与字育和惠肅清所部之最。不存教喩。事有闕乏。則居撫養乖方。境内荒蕪之科。依其功過。必從黜陟。又比年計帳。具言如功。推勘物數。足以掩身。然入京人夫。衣服破弊。野菜色猶多。空著公帳。徒延聲譽。務爲欺謾。以邀其課。國郡司如此。朕將何任。自今以去。宜恤民隱以副所委。仍録部内豊儉農桑増益言上。壬申。以從四位下大野王爲彈正尹。從五位上坂本朝臣阿曾麻呂爲參河守。從五位下高向朝臣大足爲下総守。從五位下榎井朝臣廣國爲丹波守。從五位下山上臣憶良爲伯耆守。正五位下船連秦勝爲出雲守。從五位下巨勢朝臣安麻呂爲備後守。從五位下當麻眞人大名爲伊豫守。

四月八日に以下のように詔されている。壬申の功臣である少紫(従三位相当)村國連小依の息子の志我麻呂(等志賣に併記)(從六位下)大紫(正三位相当)星川臣麻呂(摩呂)の息子黒麻呂(父親に併記)(從七位上)大錦下(従四位相当)坂上直熊毛の息子の宗大(忍熊に併記)(正六位下)小錦上(正五位相当)置始連宇佐伎(菟)の息子の虫麻呂(秋山に併記)(正八位下)小錦下(従五位相当)「文直成覺」の息子の「古麻呂」(從七位上)、直大壹(正四位上相当)文忌寸知徳(書直智德)の息子の塩麻呂(尺加に併記)(從七位上)、直大壹(正四位上)丸部臣君手(和珥部臣君手)の息子の大石(父親に併記)(從六位上)、正四位上の文忌寸祢麻呂の息子の「馬養」(正七位下)、正四位下の黄文連大伴の息子の粳麻呂(備に併記)(從七位上)、從五位上の「尾張宿祢大隅」の息子の稻置(父親に併記)(正八位下)等十人にそれぞれ田を授けている。

十三日に霰が降っている。十九日、大鳥・和泉・日根の三郡を割いて初めて「和泉監」を置いている。後に「和泉國」として建國されることになる。各郡の配置は前記のこちらを参照。現在の行政区分では和泉・日根郡は京都郡みやこ町、大鳥郡は行橋市となっている。ひょっとすると和泉國建國時には、この地を離れていたのかもしれない。

二十日に以下ように詔されている。概略は、人夫が運んだ調について所司は実見して調べ、品質・量が規格に合格していれば、國司の勤務評定を最(良い評定)とせよ。規格に合格しない場合は罪科とし、その功績と過失により評価せよ、と述べている。近年の計帳を見る限り、功があるようだが、入京した人夫を見ると服装・顔色は物が足りているとは到底思えない様子である。これは國郡司が欺いていると思う。そんな彼等にどうして委ねることができようか。今後は朕の思いの通りにし、管内の豊かさ・貧しさと農業・養蚕の状態を記録して言上せよと、述べている。

二十七日に「大野王」(天武天皇の忍壁皇子の子)を彈正尹、坂本朝臣阿曾麻呂(鹿田に併記)を參河守、高向朝臣大足を下総守、榎井朝臣廣國を丹波守、山上臣憶良(山於億良)を伯耆守、船連秦勝を出雲守、巨勢朝臣安麻呂を備後守、當麻眞人大名を伊豫守に任じている。

<文直成覺・古麻呂>
● 文直成覺・古麻呂

『壬申の乱』の場面では登場しなかった父親ではあるが、同時に褒賞されている文忌寸知徳(書直智德)と行動を共にした人物だったのであろう。「智德」は天武天皇の舎人として吉野脱出時からの貢献と記載されているが、同じく舎人だったのではなかろうか。

「文忌寸」も多数の登場人物があり、かつ決して広い土地でもなく、更にまた当時とは大きく地形が変化した場所と思われる。後世の炭鉱開発が盛んとなった以上致し方ないように思われる。

そんな背景で「智德」等の近隣で成覺の出自の場所を求めることになる。成=平たく整えられた台地覺=爻+目+儿=延びた谷間が交差するような様と読み解いた。すると何とかそれらしき場所を「赤麻呂」の東側に見出すことができる。息子の古麻呂は、谷の西縁にある丸く小高い場所の麓辺りだったのではなかろうか。

調べると「成覺」の父親が福因と知らている。「福」=「酒樽のような高台」、「因」=「囗+大」=「平らな頂の山稜が区切られて囲まれた様」と解釈した。纏めると福因=平らな頂の山稜が区切られて囲まれた地の上に酒樽のような高台があるところと読み解ける。図の右下隅の地形がそれを示していると思われる。「古麻呂」の祖父まで遡ると、どうやらこの一族の出自の場所が確からしくなったようである。

<文忌寸禰麻呂-馬養-廣田>
● 文忌寸禰麻呂・馬養

「文忌寸禰麻呂」は書首根摩呂の名前で登場していた。現地名は京都郡みやこ町勝山黒田が出自の場所と推定した。改姓で上記の「書直」一族と同じ姓となって区別が付かなくなっている。

父親の名前には更に「尼麻呂」があり、少し整理の意味も込めて図を掲載した。根=山稜の端が細かく岐れた様禰=高台が広がった様であるが、尼=尸+匕=背中合わせのように近付いて離れる様を表すと解釈した。視点を変えた表記であることが解る。

文忌寸馬養については、更に視点を変えてその地形を「馬」と見做し、馬養=馬の地形の傍らにある谷間がなだらかに延びている様と表記しているのである。当時は和泉郡の中心の地だったように思われる。「禰麻呂」は「智德」と同様に天武天皇の舎人として、『壬申の乱』では近江直入して連戦連勝した村國連小依隊の主要な一員(丸部臣君手も)として活躍し、慶雲四年(707年)十月に亡くなった記載されていた。

後に和琴師としてその芸を褒められて文忌寸廣田が登場する。「廣田」ではあるが、その出自の場所は曖昧である。図に示した場所としておこう。

五月己丑。制。諸國軍團大少毅。不得連任郡領三等以上親也。其先已任訖。轉補他國。庚寅。詔曰。崇餝法藏。肅敬爲本。營修佛廟。清淨爲先。今聞。諸國寺家。多不如法。或草堂始闢。爭求額題。幢幡僅施。即訴田畝。或房舍不脩。馬牛羣聚。門庭荒廢。荊棘弥生。遂使無上尊像永蒙塵穢。甚深法藏不免風雨。多歴年代。絶無構成。於事斟量。極乖崇敬。今故併兼數寺。合成一區。庶幾。同力共造。更興頽法。諸國司等。宜明告國師衆僧及檀越等。條録部内寺家可合。并財物。附使奏聞。又聞諸國寺家。堂塔雖成。僧尼莫住。礼佛無聞。檀越子孫。惣攝田畝。專養妻子不供衆僧。因作諍訟。諠擾國郡。自今以後。嚴加禁斷。其所有財物田園。並須國師衆僧及國司檀越等相對検校。分明案記。充用之日。共判出付。不得依舊檀越等專制。近江國守從四位上藤原朝臣武智麻呂言。部内諸寺。多割疆區。无不造脩。虚上名籍。觀其如此。更無異量。所有田園。自欲專利。若不匡正。恐致滅法。臣等商量。人能弘道。先哲格言。闡揚佛法。聖朝上願。方今人情稍薄。釋教陵遲。非獨近江。餘國亦爾。望遍下諸國。革弊還淳。更張弛綱。仰稱聖願。許之。辛夘。以駿河。甲斐。相摸。上総。下総。常陸。下野七國高麗人千七百九十九人。遷于武藏國。始置高麗郡焉。」大宰府言。豊後伊豫二國之界。從來置戍不許往還。但高下尊卑。不須無別。宜五位以上差使往還不在禁限。又薩摩大隅二國貢隼人。已經八歳。道路遥隔。去來不便。或父母老疾。或妻子單貧。請限六年相替。並許之。」始徙建元興寺于左京六條四坊。丙申。勅。大宰府佰姓家有藏白鑞。先加禁斷。然不遵奉。隱藏賣買。是以。鑄錢惡黨。多肆姦詐。連及之徒。陷罪不少。宜嚴加禁制。無更使然。若有白鑞。搜求納於官司。丁酉。制。大學典藥生等。業未成立。妄求薦擧。如是之徒。自今以去。不得補任國博士及醫師。癸夘。充僧綱及和泉監印。」弓五千三百七十四張充大宰府。

五月十四日、諸國の軍団の大少毅(長官・次官)に郡領の三等親以内の親族を同時期に任用してはならない。そうなっている場合は他國に転任させること、と定めている。

十五日に以下のように詔されている。概略は、仏の教えを崇めるには慎みが、仏寺を営むには清浄であることが第一とする。しかるに諸國の寺は法に従わず、みすぼらしい堂を建てて額を求め、寺を飾る旗やのぼりをわずかなのに田を施せと訴えている。また住居や門・庭の整備もせずに挙句には尊い仏像が埃をかぶり、経典も風雨から守ることを怠っている。それ故に数寺を併合し、力を合せて仏法を再び興隆させたく思う。この旨を國司は國師、一般の僧、檀越(土地の有力な寄進者)に伝え、併合する寺、その財産を記録し、奏聞せよ、と述べている。更に諸國寺には僧侶がおらず礼拝が行われず、また檀越の子孫が寺への寄進を怠ったり、訴訟が生じたりしている。今後は一切そのようなことがないように寺の財産・田地・園地を調べ、記録せよ、と述べている。

近江國守の藤原朝臣武智麻呂が以下のように言上している。管内の多くの寺が境域を分けとるだけで造営せず、僧侶の名籍も虚偽である。これは所有する田園の利益を独り占めする魂胆であり、このまま放置すれば仏法を滅ぼすことになりかねない。仏法を顕すことは天皇の願いである故に綱紀が緩んだ状態を元に戻すように命じて頂きたい、と述べ、許されている。

十六日に駿河・甲斐・相摸・上総・下総・常陸・下野の七國の高麗人千七百九十九人を武藏國に遷し、初めて高麗郡(西側に隣接する秩父郡に併記)を設置したと記している。前記したが、”高麗人”と”高麗の地形”を重ねた表記を行っていると思われる。駿河から下野の七國は、現地名では北九州市門司区の沼から吉志に連なっている地域と推定した。この一帯に多くの高麗からの渡来があったことを告げている。

同じ日に大宰府が以下のように言上している。概略は、「豊後・伊豫の二國の堺」は、従来「戍」(兵士の屯所)を置いて往来が許されなかったが、五位以上の官人の使者の往来は許されるべきである。また薩麻・大隅二國(こちら参照)が貢進した隼人は既に八年が過ぎ、往来が不便であったり家族の事情などから六年を限度で交替すべき、と述べている。これを許している。また同じ日に「元興寺」を左京の六條四坊に徙建(移し建てる)している。

さて、この十六日の記述はかなり手の込んだもののようであり、少々丁寧に読み解く必要がありそうである。本来は対外的な役割を担う筈の大宰府が、薩摩はともかくも豊後・伊豫に関わる言上をしたと記しているが、大宰府を九州一円の”都督府”を暗示する記述となっている。通説ではこの二國は海で隔てられているが、そこに「戍」を設置できるのか?…釈然としないのである。

また”左京六條四坊”は如何にも後の有様を匂わせる表現なのだが、それでは現在の大安寺(本著では右京)の場所となってしまい、元興寺(極楽坊)は”左京四條六坊”なのである。原文の誤りと片付けるのは容易いこと故に何を伝えようとしたのかを下記で考察してみよう。

二十一日に大宰府の民が家に白鑞(鉛と鈴の合金)を所蔵することは既に禁じられているが、それに従わず売買している。それを用いて鋳銭し悪だくみを働く者が少なくない。厳しき禁じると共に隠匿された白鑞を官司に収納せよ、と勅されている。

二十二日、大学寮・典薬寮の学生・医生等の中に規定の学業・技術を習得していないのにむやみに任官を求める者がいる。このような者は國博士・医師に採用しない、と制定している。二十八日に僧綱(諸寺を監督する僧官の総称)と和泉監(上記参照)に印を支給している。また大宰府に弓五千三百七十四張を充当している。

<豐後伊豫二國之界>
豐後伊豫二國之界

豐後國は「豐」の地形の背後にある國と推定した。現地名では京都郡みやこ町犀川木井馬場・横瀬・伊良原である。既出の伊豫國(北九州市若松区)とは、まるで離れた場所となる。

伊豫=谷間で区切られた山稜が横切るように広がり延びる様と解釈した。豐後國の周辺で、その地形を求めることになる(伊豫之二名嶋の「伊豫」はこちら)。

即ち現在の祓川の谷間でこの二つの國は接していたと解釈される。何度も述べたように記載される地名は固有の名称ではない。地形象形した名称である。それを重々承知の上で、「豐後」と「伊豫」は海を挟んで隣にあるような記述にしているのである。續紀の第六巻までとは書き手が代わったのかもしれない。戯れと言えばそれまでだが・・・。

すると図に示した現在の祓川の対岸にある地形が、正に「伊豫」で表現できることが解った。そして二國の境を「界」の文字で表現している。「界」=「介+田」と分解される。その「介」の形が見出せる。なかなかに楽しみながらの仕事ぶりである。隣国同士、あまり良い関係ではなかったようである。

<元興寺・興福寺・隅院・松林宮>
元興寺

”移して建てた”とだけ記載され、元の寺は不詳であり、加えて”六條四坊”とされると現存の奈良平城京の配置と合わない。結局のところ不明なままであろう。

法興寺の時と同じく、地形象形表記として読み解いてみよう。元=〇+儿=丸く小高いところから山稜が延びている様興=左手+右手+同(+両手)=山稜に挟まれた筒のような谷間と解釈した。

すると図に示した場所に、極めて好都合な地形を見出すことができる。「法興」の漢字の意味を読んで、「元興」も同じであろう、とするのは全くの誤りと言える。たまたま「興」の地形の場所であり、寺がある場所の地形を示すのが記紀・續紀を通じての記述である。

そして更に”六條四坊”がその地形をより詳細に述べていることが解る。六=盛り上がって広がる様條=細長く延びた山稜四=谷間で四角く囲まれた様坊=広がり延びる様と読み解いた。図から判るように四角い谷間であり、その出口が広がっいる。極めて明解な地形であることから、ちょっとした遊び心で記載したのであろう。そして、”六條四坊”が実際とは異なることを承知で記載したならば、元興寺もさることながら、この平城宮は奈良大和には建っていなかったことを示唆しているのである。

後に藤原一族の氏寺と伝えられる興福寺が登場する。養老四年(720年)八月に藤原朝臣不比等が亡くなって本寺に、国が仏殿を造ったと記載されている。興福寺=[興]の傍らにあるふっくらと丸い地の麓にある寺と読み解ける。七大寺の一つに加えられ、藤原四家と共に隆盛誇ったようである。

更に後(聖武天皇紀)に隅院が登場する。Wikipediaを引用すると・・・、

海龍王寺は平城宮跡の東方、総国分尼寺として知られる法華寺の東北に隣接している。法華寺と海龍王寺のある一画は、かつては藤原不比等の邸宅であった。養老4年(720年)の不比等の死後、邸宅は娘の光明皇后が相続して皇后宮となり、天平17年(745年)にはこれが宮寺(のちの法華寺)となった。海龍王寺は、『続日本紀』、正倉院文書などの奈良時代の記録では「隅寺」「隅院」「角寺」「角院」などと呼ばれている。正倉院文書では天平8年(736年)には「隅院」の存在が確認できる。「隅寺」とは、皇后宮(藤原不比等邸跡)の東北の隅にあったことから付けられた名称と言われている。「平城京の東北隅にあったため」と解説する資料が多いが、位置関係から見て妥当でない。

・・・と記載されている。「平城京の東北隅にあったため」全く妥当な解説であることが解る。

また平城宮に付属した離宮として登場する松林宮の場所も上図に併記した。松林=松の葉のように二つに岐れた葉先が小高くなっているところと読み解ける。隅院に隣接するような配置となるが、別称に「北松林」と言われたようで、平城宮の北に位置する場所にあったと思われる。上記の結果と矛盾しないものであろう。

六月辛亥。正七位上馬史伊麻呂等獻新羅國紫驃馬二疋高五尺五寸。甲子。美濃守從四位下笠朝臣麻呂爲兼尾張守。乙丑。制。王臣五位已上。以散位六位已下。欲充資家者。人別六人已下聽之。丁夘。始置和泉監史生三人。

六月七日に馬史伊麻呂(河内國古市郡;高屋連藥に併記)等が新羅國の紫驃馬二頭を献上している。その馬は高五尺五寸あったと記している。二十日、美濃守の笠朝臣麻呂を尾張守を兼任させている。二十一日に五位以上の王・臣が六位以下の散位(無任)の者を資人・家令に充てようと望めば六人以下まで許す、と定めている。二十三日、和泉監に史生三人を初めて置いている。