2021年6月8日火曜日

日本根子高端淨足姫天皇:元正天皇(3) 〔519〕

日本根子高端淨足姫天皇:元正天皇(3)


靈龜二年(西暦716年)七月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀1(直木考次郎他著)を参照。

秋七月庚子。從四位下阿倍朝臣爾閇卒。
八月壬子。大宰府言。帥以下事力。依和銅二年六月十七日符。各減半給綿。自此以來。駈使丁乏。凡諸属官並爲辛苦。請停綿給丁。欲得存濟。許之。甲寅。二品志貴親王薨。遣從四位下六人部王。正五位下縣犬養宿祢筑紫。監護喪事。親王天智天皇第七之皇子也。寳龜元年。追尊稱御春日宮天皇。癸亥。備中國淺口郡犬養部鴈手。昔配飛鳥寺燒塩戸。誤入賎例。至是遂訴免之。是日。以從四位下多治比眞人縣守爲遣唐押使。從五位上阿倍朝臣安麻呂爲大使。正六位下藤原朝臣馬養爲副使。大判官一人。少判官二人。大録事二人。少録事二人。己巳。授正六位下藤原朝臣馬養從五位下。

七月二十七日に阿倍朝臣爾閇(引田朝臣)が亡くなっている。

八月九日、大宰府が次のように言上している。概略は、帥(将軍)以下に与える事力(雑役の正丁)は和銅二年(709年)六月十七日の符(命令書)によってそれぞれ半減され、その分は真綿が支給された。以来馳せ使の丁が乏しくなり役所の属官が苦労している。真綿ではなく丁を支給されたく、と述べ、許されている。

十一日に志貴親王(施基皇子)が亡くなっている。六人部王縣犬養宿祢筑紫を遣わして喪事を執り行わせている。天智天皇の第七皇子であって、寶龜元年(770年)に春日宮天皇の尊称を贈っている(子の白壁王が即位)。

二十日に「備中國淺口郡」の「犬養部鴈手」が、その昔、飛鳥寺の燒塩戸(塩の生産人)に配属された時、誤って賎民の身分に入れられた。ここに至ってこれを訴え良民とされた。この日。多治比眞人縣守を遣唐押使(大使の上位の最高責任者)、阿倍朝臣安麻呂を大使、藤原朝臣馬養(宇合、不比等の三男:式家)を副使に任じ、大判官一人・少判官二人・大録事二人・少録事二人を随行させた、と記載している。二十六日、藤原朝臣馬養を從五位下に叙位している。

<備中國淺口郡・犬養部雁手>
備中國淺口郡

「備中國」の郡の登場は初めてかと思われる。ここ暫くは人材登用の機会が少なく、この段でも賎民と誤解されるような有様だったことが記されている。

古事記では上道・下道(現地名では吉見上・下)と区分されていたようだが、果たして如何なる郡別になっているのであろうか。

淺=氵+戈+戈=水辺で戈(矛)のような山稜が並んでいる様と読み解いた。多くはないが既出の文字である。すると些か並びが悪いが、それらしき場所が見出せる。

その一つは、書紀の天萬豐日天皇(孝德天皇)の「萬」の頭部であり、古事記の倭建命の段に記述される吉備臣之祖:御鉏友耳建日子の「鉏」に当たる地と思われる。淺口=二つの「戈」が口のように開いて並んでいる様を表していると思われる。この地の南側は海が接近し、入江の口に当たる場所でもある。重ねた表記であろう。

● 犬養部雁手 備中國は急峻な山麓であり、犬養=平らな頂の麓で谷間がなだらかに延びている様の地形は希少である。その地形が「口」の中にあり、部=近隣に住まっていたと思われる。雁=厂+人+隹=崖下の谷間にある鳥のような山稜であり、その「鳥」に手=手のような地がくっ付いている様を表している。図に示した場所が出自と推定される。

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余談だが、「燒塩戸」については不詳ようなのだが、「藻塩焼き」と言われる方法が万葉集などに記載されているとのことで、「海水のついた藻を天日に干し、その上から海水を注いで表面に析出した塩を海水で溶かす」方法らしく、いずれにせよ釜で水分を蒸発させて固形の塩を得ていたようである(こちら参照)。生き延びるために要する労力が半端ではなかった時代である。

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九月丙子。以從五位下大伴宿祢山守。代爲遣唐大使。癸巳。正七位上山背甲作客小友等廿一人。訴免雜戸。除山背甲作四字。改賜客姓。乙未。從三位中納言巨勢朝臣萬呂言。建出羽國。已經數年。吏民少稀。狄徒未馴。其地膏腴。田野廣寛。請令隨近國民。遷於出羽國。教喩狂狄。兼保地利。許之。因以陸奥國置賜最上二郡。及信濃。上野。越前。越後四國百姓各百戸。隷出羽國焉。」以從四位下太朝臣安麻呂爲氏長。

九月四日、阿倍朝臣安麻呂に代えて大伴宿祢山守遣唐大使に任じている。二十一日に「山背甲作客小友」等二十一人が訴えて雑戸の身分を免じられ、”山背甲作”の四字を除いて、改めて「客」姓を賜っている。

二十三日に中納言の巨勢朝臣萬呂(麻呂)が以下のように言上している。出羽國を建てて数年を経たが官人や人民が少なく狄徒(蝦夷)も未だ朝廷の統治に慣れていない。その土地は肥沃で田野は広く余裕がある。近くの國の民を移り住まわせて教導し、併せて土地の収益を維持できるようにしたい、と述べている。これを許し、陸奥國の置賜・最上の二郡信濃上野越前越後の四國からそれぞれ百戸を出羽國に属させている。この日、太朝臣安麻呂を氏長としている。

<山背甲作客小友・客君狛麻呂>
● 山背甲作客小友

慶雲三年(706年)に文武天皇が難波に行幸された時、その道中に関わった山背國の面々が褒賞を受けた記事があった。現在の京都郡みやこ町犀川大坂の笹原を通り御所ヶ岳山系を南から北へ抜けると難波に届く行程である。

無姓の人々が住まっていた場所が崖下に広がる地だったと思われる。「甲」=「兜のような山頂」、「作」=「人+乍」=「谷間で山稜がギザギザと突き出ている様」と解釈される。

甲作=兜のような頂の麓の谷間で山稜がギザギザと突き出ているところと読み解ける。客=宀+各=谷間で山稜が延び留まったような様と解釈される。

「甲作」と併せて図に示した地形を表していると思われる。小友=山稜の端の三角の地形が二つ並んでいる様と読み解ける。この人物の出自の場所はその麓辺りだったと推定される。明らかに見様見真似の地形象形表記であることが解る。賎民を脱するためにはそれらしき名前が必要だったのであろう。その努力に報いた「客」姓の授与のように思われる。

後(聖武天皇紀)に、外従五位下の客君狛麻呂が土左守に任じられたと記載される。その後の消息が語られることはないようだが、氏姓・爵位をもつ人物が存在していたことを伝えている。狛=犬+白=平たく小高いところがくっ付いている様と解釈した。図に示した場所が出自と思われる。

冬十月壬戌。以從四位下長田王爲近江守。」重禁内外記諸司薄紗朝服。六位以下羅幞頭。其武官人者。朝服之袋。儲而勿着。及幞頭後脚莫過三寸。

十月二十日、長田王(六人部王に併記)を近江守に任じている。また諸司が紗(薄絹)の朝服を着用すること、及び六位以下の者が羅(薄絹)の幞頭(朝服に用いた冠)を用いることを重ねて禁じている。武官は朝服の袋をあらかじめ準備し、身に着けてはならない。また幞頭の後に垂れた脚の長さは三寸を越えてはならない、としている。

十一月乙亥。以正五位下夜氣王爲備前守。辛夘。大甞。親王已下及百官人等。賜祿有差。由機遠江。須機但馬國郡司二人進位一階。
閏十一月癸夘朔。日有蝕之。

十一月三日、夜氣王を備前守に任じている。十九日に親王以下百官人等それぞれに禄を与えている。また由機(大嘗祭の時に新穀を奉じる第一の國)の遠江國と須機(同左の第二の國)但馬國の郡司二人に進位一階を授けている。
閏十一月一日に日蝕があったと記している。

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養老元年春正月乙巳。授從三位阿倍朝臣宿奈麻呂正三位。從四位上安八萬王正四位下。无位酒部王。坂合部王。智努王。御原王並從四位下。從五位下高安王。門部王。葛木王並從五位上。從四位下石川朝臣難波麻呂從四位上。正五位上百濟王良虞從四位下。正五位下中臣朝臣人足正五位上。從五位上大伴宿祢宿奈麻呂。穗積朝臣老。多治比眞人廣成。小野朝臣馬養。紀朝臣男人並正五位下。從五位下賀茂朝臣堅麻呂從五位上。正六位上佐伯宿祢虫麻呂。大藏忌寸伎國足。余眞眞人從六位上朝來直賀須夜並從五位下。戊申。授无位伊部王從五位下。又授從四位上縣犬養橘宿祢三千代從三位。己未。中納言從三位巨勢朝臣麻呂薨。小治田朝小徳大海之孫。飛鳥朝京職直大參志丹之子也。

養老元年(西暦717年)正月四日、阿倍朝臣宿奈麻呂(少麻呂)に正三位、安八萬王に正四位下、「酒部王」・「坂合部王」・智努王(大市王等兄弟に併記)・「御原王」に從四位下、高安王門部王葛木王に從五位上、石川朝臣難波麻呂(宮麻呂に併記)に從四位上、百濟王良虞(①-郎虞。元伊豫守)に從四位下、中臣朝臣人足に正五位上、大伴宿祢宿奈麻呂穗積朝臣老多治比眞人廣成小野朝臣馬養紀朝臣男人に正五位下、賀茂(鴨)朝臣堅麻呂(吉備麻呂の弟)に從五位上、佐伯宿祢虫麻呂(垂麻呂に併記、父親は大目)・大藏忌寸伎國足(老に併記)・「余眞眞人」・「朝來直賀須夜」に從五位下を授けている。

七日に無位の「伊部王」に從五位下、また從四位上の「縣犬養橘宿祢三千代」に從三位を授けている。十八日に中納言の巨勢朝臣麻呂が亡くなっている。小治田朝小德の「大海」の孫、飛鳥朝で京職の「志丹」(紫檀)の子であった(こちら参照)。

<酒部王・高橋女王>
● 酒部王

調べると天武天皇の孫、磯城皇子の子であった。無位からいきなり從四位下であり、二世王の蔭位に基づく叙位であろう。本著にとっては親の出自の場所が確認されることになる。

磯城皇子の西側に酒=氵+酉(樽)=水辺で山稜が並んで束ねられている様の地形が見出せる。部=近隣を表し、図に示した場所が出自と推定される。

その後の活躍は殆ど語られないようだが、最終的には従四位下弾正尹に任じられていたとのことである。父親の磯城皇子に関する情報も少なく、旧の冠位で終わっていることから律令制の位階を受ける以前に亡くなったいたのでは?…と推測されている。

後(聖武天皇紀)に従四位下に叙爵されて高橋女王が登場する。系譜は不詳であるが、名前が示す地形から図に示した場所が出自と推定される。既出の高橋=皺が寄ったような山稜が小高くしなやかに曲がって延びているところと解釈した。位置関係からすると、磯城皇子に関連する出自のように思われるが・・・。

尚、磯城皇子の子と知られている倭王廣瀬王についても、出自の場所を示した。ご登場のところで補足する。

<坂合部王・御原王・三嶋王>
<船王・池田王>
● 坂合部王・御原王

二王の父親は穂積皇子舎人皇子であり、金辺川の谷間にずらりと並んだ天武天皇の皇子達に含まれる。図に示した範囲では高市皇子・草壁皇子の出自の場所の近隣である。

と言うことは氷高皇女(元正天皇)の出自の場所の近隣でもあり、年が近ければ幼馴染となったであろう。輕皇子(文武天皇)も含めて何とも賑やかな、艶やかな場所であったと推測される。

坂合=山稜の端が出合う様であり、部=近隣を示すと読み解くと、穂積皇子の北側の谷間の出口辺りが坂合部王の出自の場所と推定される。草壁吉士の地であるが、この山稜の隅は登場していなかった。それなりの広さの地が与えられていたのであろう。

御原=野原を束ねる様と読み解ける。舎人の山稜の付け根辺りで三つの原が並んでいるような場所が見出せる。別名が三原王、その名の通りであろう。上記で述べたように「長皇子」の子である智努王も併せて天武天皇の孫が勢揃いしている。高位の親王勢力が一気に増えた授位だったと思われる。

少し後に舎人皇子の子、三嶋王が登場する。御原王の異腹の弟に当たる。地図上では確認が難しいが、金辺川に支流が多く流れ込む場所であり、その川に挟まれた中州が存在していたと推測される。それを三嶋と表記したのではなかろうか。

後(聖武天皇紀)に船王・池田王が登場する。前者は、例によって船の形の山稜が延び出ているところ、後者は池=氵+也=水辺で曲がりくねった様と解釈され、金辺川近隣の地形を示していると思われる。四人の王子が並んでいる配置であることが解る。舎人皇子(親王)は多くの子供を誕生させ、その後も引き継続き登場されるようである。

更に日下女王の従四位下に叙位されたと記載される。横並びの他の女王から見て、皇孫に関わる人物だったと推測される。「日下」の地とすると穂積皇子の子ではなかろうか。「日下(草壁)」ではなく、正真正銘の場所である。

<余眞眞人・余秦勝・余仁軍>
● 余眞眞人

全く情報が欠落している人物である。挙句に「眞」が”余”分のような扱いで「余眞人」と記載されている。「眞人」と記している限り”倭風”名称なのだが、やはり「余」は異なる趣であろう。

書紀の天智天皇八年(669年)十二月の記事に「佐平餘自信・佐平鬼室集斯等男女七百餘人、遷居近江國蒲生郡」と記載されていた。「餘(余)」を引き継ぎ、名前を”倭風”にしたのではなかろうか。従って「余」は地形象形表記となる。

これだけの前提を置くと、近江國の地で何とか見出せるのではなかろうか。案じるよりも、であって図に示した場所が余=山稜が延びた先で小高く盛り上がっている様の地形、前記の嘉禾:異畝同穗の地を献上した北側に当たる。帰化人を投入して盛んに土地開発が進んだ場所である。

眞人=窪んだ地に谷間が寄り集った様と読み解いた。「姓」ではない。「眞」=「鼎+匕」と分解され、「鼎(器)」に「匙」で物を詰め込む様から展開される意味を持つ文字と知られている。それに基づいて「眞人」の解釈が可能となっている。「眞」単独ではその文字形そのもの、即ち「窪んだところに匙がくっ付いている様」を表すと解釈される。纏めると余眞=山稜が延びて先で小高く盛り上がっている地が窪んところに匙のようにくっ付いている様と読み解ける。

”好字二字”もあり、何とかして”倭風”の名前を付けようと努力した結果ではなかろうか。若干スマートさに欠けるとは言え、実に直截的な表記で、大歓迎である。「余眞眞人」の出自の場所、確信に近いようである。「眞」抜けは遠慮願おう。

後に余秦勝が登場する。陰陽に長けた人物として褒賞された一人である。既出の秦=艸+屯+禾=二つの山稜が長く延び出ている様勝=朕+力=山稜の端が盛り上がっている様と解釈した。些か宅地開発で地表が変形しているが、それらしき場所が見出せる。「余」の東側がこの人物の出自と推定される。

更に後に余仁軍が登場する。「秦勝」は倭風そのものなのだが、「仁軍」は珍しい表記であろう。既出の「仁」=「人+二」=「二つの谷間が並んでいる様」である。「軍」を地名・人名に用いた例は殆どないが、勿論解釈は可能であろう。「軍」=「勹+車」=「丸く取り囲む様」と読むと、仁軍=並んでいる二つの谷間を丸く取り囲んでいるところと読み解ける。

「秦勝」の東側の地形が該当するように思われる。病気治療を行う、道教から派生した呪禁(ジュゴン)は一時は大変重宝されたようである。それに長けていたと伝えられている。

<朝來直賀須夜>
● 朝來直賀須夜

「朝來」は「記紀」には登場せず、續紀でもこの人物以外には表舞台に現れないようである。そんな時には、現在の「朝來」を調べると、兵庫県(但馬國)にある朝来市に含まれていると判った。近年では雲海の竹田城が有名になっているところである。

些かあやふなな情報に基づいて但馬の地に目を向けると・・・「朝」=「𠦝+月」=「谷間に挟まれた山稜の端の三角州が日の地形している様」と読み解ける。なんのことはない、但馬の中心の地を表している。古事記では多遲麻毛理の出自の場所と推定した場所である。

朝來=谷間に挟まれた山稜の端の三角州が日の形している地から山稜が延び広がっている様と読み解ける。「賀」=「加+貝」=「谷間が押し広げられている様」、「須」=「州」、「夜」=「亦+夕」=「山稜の端が延び出ている谷間」と読み解いて来た。

纏めると賀須夜=州で押し広げられたような谷間の傍で山稜の端が延び出ている谷間と読み解ける。谷の出口が広がった場所、「賀須夜」の詳細な居場所は不明だが、多分図に示したところ辺りではなかろうか。「直」は「須」の先端部を表しているかもしれない。「毛」の真ん中に小ぶりな谷間があるのは、当時からであろう。

● 伊部王 出自は全く不詳のようである。と言うことで、伊部=[伊]の近隣の地として、[伊]とくれば、やはり古事記の伊久米伊理毘古伊佐知命(垂仁天皇)の[伊]ではなかろうか。要するに師木玉垣宮が出自と思われる(こちらも併せて)。

<縣犬養一族>
● 縣犬養橘宿祢三千代

和銅三年(710年)正月に子の葛木王(父親は美努王、後に臣籍降下して橘姓となる)が従五位下を授けらた記事の時に少し触れている。正式な登場はこれが初めてである。

元明・元正天皇に仕え、藤原不比等の後妻となり、当時の政権に大きな影響を与えた女史と知られる。図に縣犬養一族の系譜と出自の場所を示したが、天皇の妃を輩出する手練を行ったように伝えられている。

「橘」は、勿論、地形象形表記である。橘=幾つもの谷(川)が寄り集まっている様と解釈され、古事記の男淺津間若子宿禰命(允恭天皇)の子、橘大郎女の出自の場所と推定した。上記の葛木王橘宿禰諸兄と名乗っている。諸兄=耕地が寄り集まった後ろで谷間の奥が広がっている様と読み解けるが、母親の「首」(道=辶+首)を「兄」に代えた表記であろう。

「千」=「人+一」=「谷間を束ねる様」、「代」=「人+弋」=「谷間にある杙のような様」と解釈した。三千代=三つの谷間を束ねる杙のようなところと読み解ける。別名の道代=首の付け根のような地の傍らの谷間にある杙のようなところとであり、同じ場所を示していることが解る。上記の「朝來」に関わる多遲麻毛理は、「橘」にも深く関わっていた。偶然であろうか?…定かではない。

養老四年(720年)正月の記事で弟の縣犬養宿禰石次が登場する。「三千代」の東側、山稜の麓()が口を開いたように二つに岐れた()ところと思われる。併せて図に記載した。