2024年5月6日月曜日

天宗高紹天皇:光仁天皇(24) 〔675〕

天宗高紹天皇:光仁天皇(24)


寶龜十(西暦779年)閏五月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀4(直木考次郎他著)を参照。

閏五月甲申。贈故河内守正五位下佐伯宿祢國益正五位上。并賜稻千束。褒廉勤也。丙申。太政官奏曰。謹検令條。國無大小。毎國置史生三人。博士醫師各一人。神龜五年八月九日格。諸國史生。大國四人。上國三人。中下國各二人。但博士者惣三四國一人。醫師毎國一人。又天平神護二年四月廿六日格云。博士惣國一依前格。醫師惣任。更建新例。其史生者。博士醫師兼任之國。國別格外加置二人。而今望者既多。官員猶少。因茲。國無定准。任用淆乱。臣等商量。隨國大小。増減員數。大國五人。上國四人。中國三人。下國二人。其遷代法。一依天平寶字二年十月廿五日勅。以四歳爲限。其博士醫師兼國者學生勞於齎粮。病人困於救療。望請。毎國各置一人。並以六考遷替。自今以後。立爲恒式。謹録奏聞。伏聽天裁者。奏可之。

閏五月十五日に故河内守の佐伯宿祢國益(美濃麻呂に併記)に正五位上を贈り、併せて稲千束を賜っている。無欲で勤勉なことを褒めている。

二十七日に太政官が以下のように奏している・・・謹んで令の条文を調べると、國は大小に関係なく、國ごとに史生三人、博士・医師各一人を置くことになっている。神龜五(728)年八月九日の格には、[諸國の史生は大國には四人、上國には三人、中・下國には各二人、但し博士は三、四國を併せて一人、医師は國ごとに一人とする]とある。また、天平神護二(766)年四月二十六日の格には、[博士が國を兼任することは全て前の格による。医師が兼任することは改めて新例を建てよ。史生は博士・医師が兼任している國では、國別に格の定めの外に二人を加え置く]とある。---≪続≫---

ところが今、史生の希望者が既に多く、定員はやはり少ない。このため國では定まった基準がなく、任用は混乱している。私どもが協議したところ、國の大小に随って員数を増減しようと思う。大國には五人、上國には四人、中國には三人、下國には二人とする。その交替の任期の規制は、全て天平寶字二(758)年十月二十五日の勅により、四年を限りとする。博士と医師が國を兼任する場合は、学生は食料を持参するのに苦労し、病人は治療を受けるに苦しむ。どうか國ごとに各一人ずつ置いて、それぞれ六考(年)をもって交替・転任させ、これを今後、不変の方式としたいと思う。謹んで記録して奏聞し、伏して天皇の御裁定をお聞きする・・・。奏して、許可されている。

六月辛亥。從五位下清原王。從五位下池田朝臣眞枚。並爲少納言。從五位上山邊王爲大膳大夫。從五位下高橋朝臣祖麻呂爲内膳奉膳。紀伊國名草郡人外少初位下神奴百繼等言。己等祖父忌部支波美。自庚午年。至大寳二年四比之藉。並注忌部。而和銅元年造藉之日。據居里名。注姓神奴。望請。從本改正者。許之。辛酉。周防國周防郡人外從五位上周防凡直葦原之賎男公自稱他戸皇子。誑惑百姓。配伊豆國。

六月十三日に清原王(長嶋王に併記)池田朝臣眞枚(足繼に併記)を少納言、山邊王()を大膳大夫、高橋朝臣祖麻呂を内膳奉膳に任じている。また、紀伊國名草郡の人である「神奴百繼」等が以下ように言上している・・・自分達の祖父「忌部支波美」は庚午(670)年から大寶二(702)年までの四回の戸籍には、みな「忌部」と記してあった。ところが和銅元(708)年の造籍の日に、居住していた里の名によって姓を「神奴」と記された。どうか本に従って改姓して頂けるようにお願いする・・・。これを許可している。

二十三日に「周防國周防郡」の人である「周防凡直葦原」(称徳天皇紀に錢などを献上して外従五位下を叙爵)。の賎(奴)の「男公」(こちら参照)が、自ら他戸皇子と称して人民を欺き惑わしたため、伊豆國に配流している。

<神奴百継・忌部支波美>
● 神奴百継・忌部支波美

「神奴」は、初見ではなく孝謙天皇紀に攝津國住吉郡の人である神奴意支奈で登場していた文字列である。神社の賎奴を表すように受け取られるが、列記とした氏名である。

上記本文では「里名」だと述べている。その由来は?…それ以上は記述できないであろう。勿論、立派は地形象形表記である。既に読み解いたように神奴=長く延びている高台と嫋やかに曲がっている山稜が並んでいるところである。

紀伊國名草郡で、その地形を求めると図に示した場所が見出せる。名前の百繼=連なった丸く小高い地を繋げているところと読み解ける。図に示した谷間の出口辺りが、この人物の出自と推定される。

彼等の本来の氏名は忌部だと主張している。忌部=谷間の真ん中の山稜が[己]の形に曲がって延びている地に近隣のところと解釈される。「奴」の山稜の別表記である。祖父の名前が支波美=岐れた山稜の麓で水辺で覆い被さるように谷間が広がっているところと解釈される。図に示した場所が「百繼」等の本来の出自の場所だったことが解る。

単なる誤記ではないのである。「忌部」の地形は、國造を任じられている「紀直」一族との端境、と言うか、むしろ重なっているのである。これが「忌部」が抹消された理由であろう。時の勢いでそうなったのを本来の氏名に修正した、ことを述べているようである。地政学上極めて興味深い読み解きになった、と思われる。

秋七月戊辰朔。日有蝕之。丙子。參議中衛大將兼式部卿從三位藤原朝臣百川薨。詔遣大和守從四位下石川朝臣豊人。治部少輔從五位下阿倍朝臣謂奈麻呂等。就第宣詔。贈從二位。葬事所須官給。并充左右京夫。百川平城朝參議正三位式部卿兼大宰帥宇合之第八子也。幼有器度。歴位顯要。寳龜九年。至從三位中衛大將兼式部卿。所歴之職各爲勤恪。天皇甚信任之。委以腹心。内外機務莫不關知。今上之居東宮也。特属心焉。于時上不豫。已經累月。百川憂形於色。醫藥祈祷。備盡心力。上由是重之。及薨甚悼惜焉。時年卌八。延暦二年追思前勞。詔贈右大臣。丁丑。大宰府言。遣新羅使下道朝臣長人等。率遣唐判官海上眞人三狩等來歸。庚寅。駿河國飢。賑給之。 

七月一日に日蝕が起こっている。九日に参議・中衛大将で式部卿を兼任する藤原朝臣百川が亡くなっている。詔されて、大和守の石川朝臣豊人と治部少輔の阿倍朝臣謂奈麻呂(こちら参照)等を遣わして、邸宅に赴いて詔を宣べさせ、従二位を贈っている。葬儀に用いる物は官から給し、併せて左右京の人夫を充てている。「百川」は平城朝(聖武天皇)の参議・式部卿で大宰帥を兼任した宇合の第八子であった。

幼少から度量があり、高く重要な地位を歴任して、寶龜九(778)年、従三位。中衛大将で式部卿を兼任するに至った。歴任した職では、それぞれ勤勉でまじめに務めた。天皇ははなはだ「百川」を信任し、腹心の臣として委せた。内外の重要な政務で関係しないものはなかった。

今上(桓武天皇)が東宮に居た時、特に心を寄せた。ある時、上(光仁天皇)が病気になり、既に数ヶ月が経っても、「百川」の憂いはその様子に現れ、医薬や祈祷など全てに心力を尽くした。上(光仁天皇)は、このことで「百川」を重んじた。薨じた時、ことのほか悲しみ惜しんだ。時に四十八歳。四年後の延暦二(783)年、生前の苦労を思い返し、詔されて右大臣を贈っている。

十日に大宰府が[遣新羅使の下道朝臣長人(色夫多に併記)等が、遣唐判官の海上眞人三狩(三狩王)等を率いて帰って来た]と言上している。二十三日に駿河國に飢饉が起こったので物を恵み与えている。

八月己亥。因幡國言。去六月廿九日暴雨。山崩水溢。岸谷失地。人畜漂流。田宅損害。飢饉百姓三千餘人者。遣使賑恤之。壬子。勅。去寳龜三年八月十二日。太政官奏。永止舊錢。全用新錢。今聞。百姓徒蓄古錢。還憂無施。宜聽新舊同價並行。丙辰。勅。朕有所念。可赦天下。自寳龜十年八月十九日昧爽已前大辟已下。罪無輕重。已發覺。未發覺。已結正。未結正。繋囚見徒。悉皆赦除。但犯八虐。及故殺人。私鑄錢。強竊二盜。常赦所不免者。不在赦限。若入死罪者。並減一等。鰥寡惸獨。貧窮老疾。不能自存者。亦免其身今年田租。庚申。勅。牧宰之輩。就使入京。或無返抄。獨歸任所。或稱身病。延日京下。而求預考例。兼得公廨。又姦民規避。拙吏忘催。公用之日。還費正税。於理商量。甚乖治道。若有此類。莫須預釐務。國司奪料。附帳申送。郡司解任。更用幹了。阿容之司。亦同此例。」治部省奏曰。大寳元年以降。僧尼雖有本籍。未知存亡。是以。諸國名帳。無由計會。望請。重仰所由。令陳住處在不之状。然則官僧已明。私度自止。於是下知諸國。令取治部處分焉。癸亥。治部省言。今検造僧尼本籍。計會内外諸寺名帳。國分僧尼。住京者多。望請。任先御願。皆歸本國者。太政官處分。智行具足。情願借住。宜依願聽。以外悉還焉。

八月二日に因幡國が以下のように言上している・・・去る六月二十九日、激しい雨により、山が崩れ水が溢れ、岸や谷は土地が流失した。人や家畜は押し流され、田や宅は損害を受け、飢饉の百姓は三千人余りである・・・。そこで使を遣わして、被災者に物を恵み与えている。

十五日に次のように勅されている・・・去る寶龜三(772)年八月十二日、太政官の奏上により、永久に旧銭を止め、全て新銭を用いることになった。ところが今聞くところでは、人民はいたずらに古銭を蓄えており、もう一度古銭を用いることができないのではないかと憂えているという。そこで新銭も旧銭も、その価値を同じとして、共に流通することを許す・・・。

十九日に次のように勅されている・・・朕は思うところがあって、天下に赦を行う。寶龜十年八月十九日の夜明け前より以前の死罪以下、罪の軽重に関わりなく、既に発覚した罪、まだ発覚していない罪、既に罪名の定まった者、まだ罪名の定まらないも者、捕らわれて現に囚人となっている者は、悉く皆赦免する。但し、八虐を犯した者、及び故意の殺人、贋金造り、強盗・窃盗、常赦で免されない者は、赦の範囲には入れない。もし死罪に相当する者は、それぞれ罪一等を減じる。鰥寡惸獨及び貧乏や老齢や病気で自活できない者に対しても、また、その者の今年の田租を免ぜよ・・・。

二十三日に次のように勅されている・・・國司の者達は、使者となって京に入った場合、返抄(調・庸などの納入受取り)がないのに一人任地に帰ったり、病気と称してぐずぐずと京で日を過ごし、しかも勤務評定を受ける扱いに預かり、それと共に公廨を得ることを望んだりする者がいる。また私欲を謀る民は、口実をもうけて租税を逃れ、才能のない官吏は最速することを忘れ、公の仕事のある日には正税を浪費している。道理をもって考えみると、甚だ治政の道に背いている。もしこのような類の者がいれば、民を治める職務に預からせてはならない。國司は給料を奪い、書面に記録して申し送り、郡司は解任して、かわりに事を処理し終える者を用いよ。上司に諛官人も、またこれと同じ扱いにせよ・・・。

治部省が以下のように奏している・・・大寶元年より以降、僧尼は本籍があると言っても、僧籍に入ると生死を知ることができていない。このため諸國の僧尼名帳は、照合して調べる手掛かりがない。そこで重ねて所管の役所に命令して、住所に在住しているかどうかの状況を報告させるように願う。そうようにすれば官僧の存亡が明らかとなり、私度の僧尼は自然となくなるであろう・・・。諸國に下知し、治部省の奏した処分を実施させている。

二十六日に治部省は以下のように言上している・・・今、僧尼の本籍を検べ作成して、内外の諸寺の僧尼名帳と照らし合わせたところ、國分寺の僧尼は京に住んでいる者が多い。どうか先の天皇の願いの通り、諸國に帰すように願う・・・。

九月庚午。以參議從三位藤原朝臣田麻呂爲中務卿。從五位下佐伯宿祢瓜作爲近衛員外少將。外從五位下吉弥侯横刀爲將監。中納言從三位藤原朝臣繩麻呂爲兼中衛大將。勅旨卿侍從如故。從五位下大中臣朝臣今麻呂爲左兵衛員外佐。侍從從五位下石川朝臣弥奈支麻呂爲右兵衛佐。從五位下正月王爲左馬頭。從五位下文室眞人八嶋爲内兵庫正。正四位下佐伯宿祢今毛人爲大宰大貳。癸酉。從五位下大中臣朝臣諸魚爲中衛少將。下野守如故。從五位下藤原朝臣長河爲衛門佐。從五位下藤原朝臣弓主爲右兵衛員外佐。己夘。以刑部卿從四位上藤原朝臣弟繩爲參議。庚辰。勅。渤海及鐡利三百五十九人。慕化入朝。在出羽國。宜依例供給之。但來使輕微。不足爲賓。今欲遣使給饗自彼放還。其駕來船。若有損壞。亦宜修造。歸蕃之日。勿令留滯。癸未。勅。僧尼之名。多冐死者。心挾姦僞。犯乱憲章。就中頗有智行之輩。若頓改革。還辱緇侶。宜検見數一与公驗。自今以後。勿令更然。甲申。從五位下篠嶋王爲少納言。從五位下清原王爲越後守。丁亥。正五位上大伴宿祢益立爲右兵衛督。從五位下多治比眞人乙安爲出羽守。戊子。勅曰。依令條。全戸不在郷。依舊籍。轉寫并顯不在之由。而職検不進計帳之戸。無論不課及課戸之色。惣取其田。皆悉賣却。一取之後。更無改還。濟民之務。豈合如此。又差使雜徭。事須均平。是以。天平神護年中有格。外居之人聽取徭錢。而職令京師多輸徭錢。因茲百姓窮弊。遂竄他郷。爲民之蠧莫大於斯。而頻經恩降。不論其罪。自今以後。嚴加禁斷。壬辰。從五位下山上王爲内礼正。癸巳。勅陸奥出羽等國。用常陸調絁。相摸庸綿。陸奥税布。充渤海鐵利等祿。又勅。在出羽國蕃人三百五十九人。今属嚴寒。海路艱險。若情願今年留滯者。宜恣聽之。甲午。以從四位下藤原朝臣雄依爲式部員外大輔。侍從讃岐守如故。從五位下紀朝臣作良爲民部少輔。從四位下多治比眞人長野爲攝津大夫。從五位下石川朝臣宿奈麻呂爲亮。正五位下佐伯宿祢眞守爲河内守。從五位下大伴宿祢繼人爲能登守。」授正六位上佐味朝臣比奈麻呂從五位下。」勅曰。頃年百姓竸求利潤。或擧少錢貪得多利。或期重契。強責質財。未經幾月。忽然一倍。窮民酬償。弥致滅門。自今以後。宜據令條不得以過一倍之利。若不悛心。貸及與者。不論蔭贖科違勅罪。即奪其贓以賜告人。非對物主。賣質亦同。

九月四日に參議の藤原朝臣田麻呂(廣嗣に併記)を中務卿、佐伯宿祢瓜作を近衛員外少將、吉弥侯横刀(吉弥侯根麻呂に併記)を將監、中納言の藤原朝臣繩麻呂を勅旨卿・侍從のまま兼務で中衛大將、大中臣朝臣今麻呂を左兵衛員外佐、侍從の石川朝臣弥奈支麻呂(美奈伎麻呂)を右兵衛佐、正月王(牟都岐王)を左馬頭、文室眞人八嶋(久賀麻呂に併記)を内兵庫正、佐伯宿祢今毛人を大宰大貳に任じている。

七日に大中臣朝臣諸魚(子老に併記)を下野守ままで中衛少將、藤原朝臣長河(黒麻呂・眞葛に併記)を衛門佐、藤原朝臣弓主(黒麻呂・眞葛に併記)を右兵衛員外佐に任じている。十三日に刑部卿の藤原朝臣弟繩(乙縄。縄麻呂に併記)を參議に任じている。

十四日に次のように勅されている・・・渤海と鐵利三百五十九人が徳化を慕って入朝し、出羽國にいる。例に依って彼等に必要な物を供給するように。但し、来た使は身分が低いので、賓客とするには及ばない。今、使を遣わして饗宴を行ってから、そこから帰らせようと思う。その乗って来た船は、もし破損していれば、また修造してやるべきである。蕃國に帰る日を遅らせてはならない・・・。<天平十八年十二月に類似の記事あり。こちら参照>

十七日に次のように勅されている・・・僧尼の中には、死者の名を借りて名乗る者が多い。心に偽りの気持ちを抱き、法律を犯して乱している。しかし、その中には、頗る智識を修行の備わった者達もいる。もし、俄かに改めると、返って善良な僧侶を辱めることになろう。そこで現在の数を検べ、全てに公験を与えるのが良い。今後は二度とこのようなことがないようにせよ・・・。

十八日に篠嶋王()を少納言、清原王(長嶋王に併記)を越後守に任じている。二十一日に大伴宿祢益立を右兵衛督、多治比眞人乙安を出羽守に任じている。

二十二日に次のように勅されている・・・令の条文によると[全ての戸口が郷にいなければ、旧い戸籍の通りに転写し。併せて不在の理由を明らかにせよ]とある。ところが京職は、計帳を進上しない戸を調べ、課役を徴収しない戸と課役を徴収する戸の二種を区別することなく、全てその戸の田を取り上げ、悉く売却している。一たび取り上げ、再び返すことがない。人民を救う務めが、このようなことでよいであろうか。また、雑徭に使役するには、均等公平でなければならない。---≪続≫---

そこで、天平神護年中に格が出され、京内に本籍があり京外に居住する人からは、徭銭を取ることを許可した。それで京職は、京から多くの徭銭を取り立てている。このため人民は困窮疲弊して、遂に他郷に隠れる有様である。民を損なうこと、これより大きなものはない。しかも度々天子の恩恵を施し恩赦したことによって、その罪が論じられていない。今後は厳しく禁断を加えるように・・・。

二十六日に山上王を内礼正に任じている。二十七日、次のように勅されている・・・常陸國の調の絁・相摸國の庸の真綿・陸奥國の税の麻布を、渤海・鐵利等の禄に充てよ・・・また続いて・・・出羽國にいる蕃人三百五十九人は、今、厳寒の時に当たり、海路は困難かつ危険であるので、もし今年滞留したいことを願うならば、その願い通りに許すように・・・。

二十八日、藤原朝臣雄依(小依。家依に併記)を侍從・讃岐守のままで式部員外大輔、紀朝臣作良を民部少輔、多治比眞人長野を攝津大夫、石川朝臣宿奈麻呂を亮、佐伯宿祢眞守を河内守、大伴宿祢繼人を能登守に任じている。「佐味朝臣比奈麻呂」に從五位下を授けている。

また、次のように勅されている・・・近年、人民は競って利潤を求め、わずかの銭を出挙して、多くの利益をむさぼり得たり、重い負担のかかる契約を取り決め、無理矢理に質とした財産を取り立てたりしている。幾月も経たないうちにうちにたちまち利子は元本の十割になる。困窮した民は償還のため益々家を滅ぼすようになる。今後、令の条文に拠って、利子は十割を超えてはならない。---≪続≫---

<佐味朝臣比奈麻呂>
もし心を改めず、貸したり与えたりする者は、蔭や贖の特典を考慮せず、違勅の罪を科し、直ちにその贓(不正な手段で得た物)を取り上げて告げた人に与えよう。物の持ち主に対するだけではなく、質物を売った者も同様にする・・・。

● 佐味朝臣比奈麻呂

「佐味朝臣」一族は、決して高位な叙爵をされるわけではなかいが、着実に人材を輩出している。本紀になって、ややその勢いが増したようにも思われる(こちら参照)。

纏めて図にすることも可能であるが、些か混み入って来るので、別途とした。名前の比奈麻呂比奈=平らな高台がくっ付いて並んでいるところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。「廣麻呂」の南側に当たる場所である。この後續紀に登場されることはないようである。

冬十月乙巳。勅大宰府。新羅使金蘭孫等。遠渉滄波。賀正貢調。其諸蕃入朝。國有恒例。雖有通状。更宜反復。府宜承知研問來朝之由。并責表函。如有表者。准渤海蕃例。寫案進上。其本者却付使人。凡所有消息。驛傳奏上。己酉。是日當天長節。仍宴群臣賜祿。有差。又詔贈外祖父從五位上紀朝臣諸人從一位。壬子。詔以少僧都弘耀法師爲大僧都。惠忠法師爲少僧都。又施高叡法師封卅戸。優宿徳也。癸丑。勅大宰府。唐客高鶴林等五人。与新羅貢朝使。共令入京。丙辰。授從五位上藤原朝臣鷹取正五位下。丁巳。授正五位下藤原朝臣鷹取正五位上。庚申。授命婦正五位下藤原朝臣元信從四位下。

十月九日、大宰府に次のように勅されている・・・新羅使の金蘭孫等は、遠く大海を渡って正月を祝い、調を貢上した。諸蕃の國が入朝するのは、國に定まった前例がある。分かり合っているとはいえ、もう一度繰り返すべきである。大宰府はこの事を承知し、来朝の理由を調べ問い、併せて上表文を納めた函を進上するように責め求めよ。もし上表文があれば、渤海國の例に准じて、案(副本)を写して進上し、その原本は返して使人に付するように。全て使人がもたらした海外の消息は、驛傳で奏上せよ・・・。

十三日、この日は天長節に当たっている。そこで群臣と宴を催して、それぞれに禄を賜っている。また、詔されて外祖父の故「紀朝臣諸人」(母親「橡姫」の父親。こちら参照)に從一位を贈っている。十六日に詔されて、少僧都弘耀法師を大僧都、惠忠法師を少僧都に任じている。また、高叡法師に封戸三十戸を施している。年功を積んだ高僧を優遇するためである。

十七日に大宰府に勅されて、唐の客、高鶴林(唐判官)等五人を新羅の貢朝使と共に入京させるようにしている。二十日に藤原朝臣鷹取()に正五位下、続いて二十一日に正五位上を授けている。二十四日に命婦の藤原朝臣元信(玄信)に従四位下を授けている。

十一月戊辰。授從四位下阿倍朝臣古弥奈正四位下。己巳。遣勅旨少輔正五位下内藏忌寸全成於大宰府。問新羅國使薩飡金蘭蓀入朝之由。乙亥。勅。検校渤海人使。押領高洋粥等。進表無礼。宜勿令進。又不就筑紫。巧言求便宜。加勘當勿令更然。丙子。検校渤海人使言。鐵利官人爭坐説昌之上。恒有凌侮之氣者。太政官處分。渤海通事從五位下高説昌。遠渉滄波數廻入朝。言思忠勤。授以高班。次彼鐵利之下。殊非優寵之意。宜異其例位以顯品秩。辛巳。駿河國言。以去七月十四日。大雨汎溢。决二郡堤防。壞百姓廬舍。又口田流埋。其數居多。應役單功六万三千二百餘人者。給粮修築之。甲申。勅。中納言從三位物部朝臣宅嗣宜改物部朝臣賜石上大朝臣。乙酉。太政官奏稱。謹検去寳龜六年八月十九日格云。京官祿薄不免飢寒之苦。國司利厚自有衣食之饒。宜割諸國之公廨。以加在京之俸祿者。立格以來。年月稍積。霈澤之恩虚流。優賞之歡未洽。何者諸國正税略多欠負。或僅擧論定或全無公廨。而暗據出擧。或令割四分之一。今計一年送納之物。作差處分。毎人所得。仟錢已下佰錢已上。然則諸國煩於交替。厚秩負於多士。徒増勞擾不穩於行。臣等望請。停此新格行彼舊例。奏可之。甲午。以從五位下川村王爲少納言。參議正四位下大伴宿祢伯麻呂爲兼左大弁。從五位上參河王爲縫殿頭。從五位上文室眞人高嶋爲宮内大輔。從五位下三嶋眞人嶋麻呂爲大膳亮。從五位下多治比眞人歳主爲木工頭。從五位上紀朝臣佐婆麻呂爲大炊頭。從五位上文室眞人水通爲彈正弼。從五位下紀朝臣白麻呂爲造東大寺次官。從五位下文室眞人忍坂麻呂爲上野守。從五位下大伴宿祢清麻呂爲紀伊守。乙未。勅曰。出擧官稻。毎國有數。如致違犯。乃寘刑憲。比年在外國司。尚乖朝委。苟規利潤。廣擧隱截。無知百姓爭咸貸食。属其徴收無物可償。遂乃賣家賣田。浮逃他郷。民之受弊無甚於此。自今以後。隱截官稻者。宜隨其多少科斷。永歸里巷以懲贓汚。又調庸發期。具著令條。比來寛縱多不依限。苟事延引妄作逗留。遂使隔月移年交闕祭祀之供。自春亘夏既乏支度之用。自今以後。更有違犯者。主典已下所司科决。判官以上録名奏聞。不得曲爲顏面容其怠慢。

十一月二日に阿倍朝臣古弥奈(安倍朝臣子美奈)に正四位下を授けている。三日に、勅旨少輔の内藏忌寸全成(黒人に併記)を大宰府に遣わして、新羅國使の薩飡金蘭蓀が入朝した理由を尋ねさせている。九日に渤海人を調べる人に次のように勅されている・・・押領(使者の責任者)高洋粥等の進上した上表文は、礼に適っていないので、進上させてはならない。また、筑紫を経由せずに巧みな言葉で便宜を求めているが、罪科を取り調べて、再びそのようなことが起こらないようにせよ・・・。

十日に渤海人を取り調べる使は以下のように言上している・・・鐵利の官人が争って高説昌の上席に坐し、常に押しのけ侮る気配がある・・・。太政官は以下のように処分している・・・渤海の通事の高説昌は、遥かに大海を渡り、何度も入朝している。言葉や考えは忠誠で勤め励んでおり、高い位階を授けてある。かの鐵利の下に列しているのは、特別に寵遇している意向に背いている。序列を異にし、有位者であることを明らかにすべきである・・・。

十五日に駿河國が以下のように言上している・・・去る七月十四日に大雨が降ったため、水が溢れて二郡の堤防を決壊させ、人民の家屋を破壊した。また、口分田は流され埋まり、その数は甚だ多い。人夫延べ六万三千二百余人を使役すべきである・・・。そこで食料を給い、修築させている。十八日に中納言の物部朝臣宅嗣(石上朝臣)に勅されて、物部朝臣を改めて石上大朝臣の氏姓を賜っている。

十九日に太政官が以下のように奏上している・・・謹んで去る寶龜六年八月十九日の格を検べると、そこに[京官は禄が少なく寒さや飢えの苦しみから逃れられない。一方國司は利益が多く自然に衣食が豊かになる。諸國の役所の費用を割いて、在京官人の俸禄に加えるように]とある。この格が出されてから年月が幾らか過ぎたが、大雨の潤いのような恩は虚しく消えゆき、手厚いご褒美を頂く歓びはまだ広く行き渡っていない。何故かと申し上げると、諸國の正税はたいてい不足しており、僅かに論定稲を出挙するだけか、あるいは全く役所の費用に充てる稲がないからである。---≪続≫---

そこで秘かに他の出挙によって役所費用の四分の一を割かせたりしている。そのような状態なのだが、一年間に在京官人の俸禄として送納する物を計算して、それぞれの段階を付けて見積もったところ、各人の得るところは千銭以下百銭以上になる。結局、諸國は交替する際に事務手続きが煩わしく、京官の高い俸給は、多くの地方官吏に負っていることになる。従ってこの格は、徒に苦労や混乱を増やすだけで、実際に行うのは穏当ではない。私共は、どうかこの新格を停止して、あの旧い慣例によって頂くよう願うものである・・・。

二十八日に川村王を少納言、參議の大伴宿祢伯麻呂(小室に併記)を兼務で左大弁、參河王(三川王・三河王)を縫殿頭、文室眞人高嶋(高嶋王)を宮内大輔、三嶋眞人嶋麻呂を大膳亮、多治比眞人歳主を木工頭、紀朝臣佐婆麻呂(鯖麻呂)を大炊頭、文室眞人水通を彈正弼、紀朝臣白麻呂(本に併記)を造東大寺次官、文室眞人忍坂麻呂(文屋眞人。水通に併記)を上野守、大伴宿祢清麻呂(淨麻呂。小薩に併記)を紀伊守に任じている。

二十九日に次のように勅されている・・・官稲を出挙するについては、國ごとにその数が定められている。もしその数に違反したならば、刑罰を定めた法律によって処理される。近年、在外の國司は朝廷の委任に背いて、少しでも利潤を図ろうとし、隠れて出挙して、その利を着服することが広く行われている。無知の人民は争って皆それを借りて食料に充て、取り立てるに及んで、償還すべき物がなく、遂に家を売り田を売り、他郷に浮浪・逃亡している。民が弊害を受けること、これより甚だしいものはない。今後、官稲を隠れて出挙する者は、その多少に随って罪科を断じ、官職を解いて永く村里に帰らせて、不正に財を蓄える行為を懲らしめる。

また、調・庸を送り出して納入する時期は令の条文に詳しく述べられている。この頃この規定がなげやりになっており、多くの國は期限に依っていない。もしも納入の事が延び延びになって、勝手気ままに一ヶ所に留め置くと、遂に期限の月から遠ざかって、年も代わってしまい、祭祀の供物をどれもこれも欠き、春から夏にかけての予算支出に入用の物を、欠乏させてしまうことになる。今後、また違犯することがあれば、主典以下は関係の役人が罪科を決定し、判官以上は名を記録して奏聞せよ。法を曲げておもねり、その怠慢を許してはならない・・・。

十二月己酉。中納言從三位兼勅旨卿侍從勳三等藤原朝臣繩麻呂薨。詔遣大和守從四位下石川朝臣豊人。治部大輔從五位上藤原朝臣刷雄等。就第宣詔。贈從二位大納言。葬事所須官給并充鼓吹司夫。繩麻呂。右大臣從一位豊成之第四子也。以累世家門頻歴清顯。景雲二年至從三位。寳龜初拜中納言。尋兼皇太子傅勅旨卿。式部卿百川薨後。相繼用事。未幾而薨。時年五十一。戊午。検校渤海人使言。渤海使押領高洋弼等苦請云。乘船損壤。歸計無由。伏望。朝恩賜船九隻。令達本蕃者。許之。己未。勅。内侍司多置職員。給祿之品。懸劣比司。自今以後。宜准藏司。」正三位河内女王薨。淨廣壹高市皇子之女也。辛酉。以中務卿從三位藤原朝臣田麻呂爲兼中衛權大將。丙寅。以右衛士督從四位下常陸守藤原朝臣小黒麻呂爲參議。

十二月十三日に中納言で勅旨卿・侍従を兼任する勲三等の藤原朝臣繩麻呂が亡くなっている。詔されて、大和守の石川朝臣豊人を治部大輔の藤原朝臣刷雄(眞從に併記)等を遣わし、邸に赴いて詔を宣べさせ、従二位・大納言を贈っている。葬儀に用いる物は官から支給し、併せて鼓吹司の人夫を充てている。「繩麻呂」は右大臣豊成の第四子であった。代々名門の出身なので、度々重要な高い官職を歷任した。神護慶雲二(768)年、従三位に至り、寶龜の初めに中納言に任じられた。ついで皇太子傳・勅旨卿を兼任し、式部卿百川の薨じた後、その後を継いで事に当たった。それからいくらも月日の経たぬうちに薨じたが、時に五十一歳であった。

二十二日に渤海人を取り調べる使が以下のように言上している・・・渤海使押領の高洋弼等が[乗って来た船が損壊して、帰る計画が立たない。どうか天皇の恩恵により船九隻を賜って、本蕃に到達させて頂けますよう、伏して願う]と懇ろに請うている・・・。これを許している。

二十三日に次のように勅されている・・・内侍司は多くの定員を置いているが、禄を賜う等級ははるかに隣接の司に劣っている。今後は藏司に准ずるように・・・。この日、河内女王が亡くなっている。淨廣壹の高市皇子の娘であった。二十五日に中務卿の藤原朝臣田麻呂(廣嗣に併記)に中衛権大将を兼任させている。三十日に右衛士督・常陸守の藤原朝臣小黒麻呂を参議に任じている。

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『続日本紀』巻卅五巻尾


2024年4月29日月曜日

天宗高紹天皇:光仁天皇(23) 〔674〕

天宗高紹天皇:光仁天皇(23)


寶龜十(西暦779年)正月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀4(直木考次郎他著)を参照。

春正月壬寅朔。天皇御大極殿受朝。渤海國遣獻可大夫司賓少令張仙壽等朝賀。其儀如常。」以忠臣從二位藤原朝臣魚名爲内大臣。近衛大將大宰帥如故。丙午。渤海使張仙壽等獻方物。奏曰。渤海國王言。聖朝之使高麗朝臣殿嗣等失路漂着遠夷之境。乘船破損。歸去無由。是以。造船二艘。差仙壽等。隨殿嗣令入朝。并載荷獻物。拜奉天朝。丁未。授无位藤原朝臣友子從五位下。戊申。宴五位以上及渤海使仙壽等於朝堂。賜祿有差。詔渤海國使曰。渤海王使仙壽等來朝拜覲。朕有嘉焉。所以加授位階。兼賜祿物。癸丑。授无位藤原朝臣園人從五位下。甲寅。授從五位上紀朝臣船守正五位上。從六位下吉弥侯横刀外從五位下。丁巳。宴五位已上及渤海使於朝堂賜祿。己未。内射。渤海使亦在射列。」授從四位下紀朝臣形名正四位上。庚申。授從六位上大伴宿祢弟麻呂從五位下。辛酉。授從五位下内藏忌寸全成正五位下。癸亥。授正六位上酒部造上麻呂外從五位下。甲子。授正四位上藤原朝臣是公從三位。正五位下三方王從四位下。從五位下飯野王從五位上。正六位上塩屋王從五位下。正五位下豊野眞人奄智正五位上。從五位上安倍朝臣東人。百濟王利善。巨勢朝臣苗麻呂並正五位下。從五位下安倍朝臣常嶋。大中臣朝臣繼麻呂。安倍朝臣家麻呂。紀朝臣眞乙並從五位上。從六位上當麻眞人千嶋。正六位上多治比眞人年持。田中朝臣飯麻呂。中臣朝臣松成。大伴宿祢中主。大神朝臣三友。甘南備眞人豊次。縣犬養宿祢堅魚麻呂。紀朝臣白麻呂。采女朝臣宅守。石川朝臣美奈伎麻呂。藤原朝臣弓主並從五位下。正六位上和連諸乙。葛井連根道。船連住麻呂。土師宿祢古人並外從五位下。丙寅。授正六位上山上王。无位氷上眞人川繼並從五位下。

正月一日に大極殿に出御されて朝賀を受けられている。渤海國は献可大夫・司賓少令の張仙壽等を遣わして朝賀させている。その儀はいつもの通りであった。忠臣の藤原朝臣魚名(鳥養に併記)を近衛大将・大宰帥のままで内大臣に任じている。

五日に渤海使の張仙壽等が土地の産物を献上して、以下のように奏上している・・・渤海國王が申し上げる。聖朝の使である高麗朝臣殿嗣(殿繼)等は路に迷って、遠く夷の境域に漂着し、乗っていた船は破損し、帰るすべがなかった。そこで船二艘を造って「仙壽」等を遣わし、「殿嗣」に随って入朝させ、併せて献上物を載せて、天朝を拝し奉らせる・・・。

六日に藤原朝臣友子(仲男麻呂に併記)に従五位下を授けている。七日に五位以上及び渤海使張仙壽等と朝堂で宴会している。それぞれに禄を賜っている。渤海使に次のように詔されている・・・渤海王の使の「仙壽」等が来朝して拝しまみえた。朕の喜ぶところである。故に位階を加え授け、それと共に禄物を賜う・・・。

十二日に藤原朝臣園人(勤子に併記)に従五位下を授けている。十三日に紀朝臣船守に従五位上、吉弥侯横刀(吉弥侯根麻呂に併記)に外従五位下を授けている。十六日に五位以上及び渤海使と朝堂で宴会し、禄を賜っている。十八日に内射を行っている。渤海使も射手の列に入っている。また、紀朝臣形名(豊賣・方名)に正四位上を授けている。十九日に大伴宿祢弟麻呂(益立に併記)に従五位下を授けている。二十日に内藏忌寸全成(黒人に併記)に正五位下を授けている。二十二日に酒部造上麻呂(酒部公家刀自に併記)に外従五位下を授けている。

二十三日、藤原朝臣是公(黒麻呂)に從三位、三方王(三形王)に從四位下、飯野王()に從五位上、塩屋王(川村王に併記)に從五位下、豊野眞人奄智(奄智王)に正五位上、安倍朝臣東人(廣人に併記)百濟王利善()・巨勢朝臣苗麻呂(堺麻呂に併記)に正五位下、安倍朝臣常嶋大中臣朝臣繼麻呂(子老に併記)・安倍朝臣家麻呂紀朝臣眞乙に從五位上、當麻眞人千嶋(枚人に併記)・多治比眞人年持(歳主に併記)・田中朝臣飯麻呂(廣根に併記)・「中臣朝臣松成」・大伴宿祢中主(人成に併記)・大神朝臣三友(末足に併記)・甘南備眞人豊次(清野に併記)・「縣犬養宿祢堅魚麻呂」・紀朝臣白麻呂(本に併記)・「采女朝臣宅守」・石川朝臣美奈伎麻呂(眞人に併記)・藤原朝臣弓主(黒麻呂・眞葛に併記)に從五位下、「和連諸乙」・葛井連根道(赦免による復位。惠文に併記)・船連住麻呂(淨足に併記)・「土師宿祢古人」に外從五位下を授けている。二十五日、「山上王」・氷上眞人川繼(河繼・志計志麻呂)に從五位下を授けている。

<中臣朝臣松成>
● 中臣朝臣松成

調べると「名代」の子と知られていることが分かった。既にその兄弟である「伊加麻呂・鷹主・竹成」が登場していた(こちら参照)。

最後に登場していた「竹成」は、幣帛を伊勢太神宮に奉る使者を務めたと記載され、爵位は不明であり、その後叙位の記述は見られない。「大中臣朝臣」一家に陰に隠れてしまったようである。

「中臣朝臣」の中で久々に従五位下を叙爵された人物であろう。いずにしても「名代」の周辺を出自としていたと思われるが、地図上ではなかなか判別が難しい状況であることが分かった。

通常、国土地理院航空写真1961~9年を用いるのであるが、幸運にも1974~8年の段階で開発が進んでおらず、それを用いて地形を推測してみることにした。既出の文字列である松成=山稜に挟まれて区切られた地が平らに整えられているところと解釈すると、図に示した場所、「鷹主」の谷間の奥の場所が出自と推定される。「竹成」同様、この後に登場されることはないようである。

<縣犬養宿祢堅魚麻呂>
● 縣犬養宿祢堅魚麻呂

光仁天皇紀に入って、多くの縣犬養宿祢一族が登場して来た。その多くは女官としての登用のように思われる(こちら参照)。

中でも中心人物であった八重の出自場所については、地形が大きく変化していて、国土地理院航空写真を参照せざるを得ない状況であった。

今回登場堅魚麻呂堅魚=谷間に延びた手のような山稜の先が魚の形をしているところの地形は、一見見渡す限りにおいて、該当するような場所を見出すことは叶わず、やはり地形変形した場所と推測された。

あらためて「八重」の周辺を見ると、その山稜の端に「魚」が鎮座していることに気付かされる。図に示したように「堅魚」の地形要件を満たす場所であることが解る。後に幾度か任官の記載が見られる。

<采女朝臣宅守>
● 采女朝臣宅守

一時は頻繁に新人登用されていた「采女朝臣」も孝謙天皇紀の淨庭以来途絶え気味の様相であり、久々の叙位であったように思われる。

何と言っても「采女朝臣」の居処は広大な宅地に変貌していて、またもや国土地理院航空写真のお世話になるのか、と思いきや、そうではなかったようである。

頻出の文字列である宅守=谷間で広がり延びる山稜に両肘を張り出したような地があるところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。

聖武天皇紀に登場のの谷間の出口辺りの場所となる。宅地開発に不向きな山稜地帯故に当時の地形を、多分、そのまま伝えている地域であろう。後に「宅守」は日向守に任じられたと記載されているが、その後の消息は不明である。

<和連諸乙>
● 和連諸乙

「和連」は記紀・續紀を通じて初見であろう。類似するように思われる「大倭(和)連」は、大倭連深田田長(共に宿祢を賜姓)、もっと古くは大倭忌寸百足等は元は「大倭連」であった。

平らな頂の山稜の麓を表す「大」を省略しただけ、ではなかろう。勿論、姓が異なっては同じ氏族ではない。無姓の「倭(和)」の人物は、高野朝臣新笠の祖父である倭武助が登場していた。

要するに「高野新笠」の昇位に伴って、無姓の「倭(和)」に連姓が授けられたと推測される。諸乙=耕地が交差するような地にある山稜が[乙]の形になっているところと解釈される。その地形を図に示した「武助」の南隣に見出せる。当然ながら「大」ではなく「高」の地形である。

この配置からすると「諸乙」は「武助」の子、「新笠」の父親「乙繼」の兄弟であったように思われる。勿論、「高野朝臣」の氏姓を授けるわけにも行かず、連姓授与としたのではなかろうか。「乙繼」の”乙”は「諸乙」の”乙”に掛かっているのかもしれない。外従五位下の叙位後の消息は不詳である。

<土師宿祢古人-宇庭-虫麻呂>
● 土師宿祢古人

系譜を調べると「宇庭」の子と知られていることが分かった。がしかし、「宇庭」はこれまでに登場してはいないが、更に調べると「甥」の子であった(こちら参照)。

思い起こせば、「牛勝・弟勝」は「甥」の南~西側を出自としていたのだが、東側の山麓がすっぽりと抜け落ちていたのである。

既出の文字列である宇庭=谷間に延びる山稜の麓に平らに広がっているところと解釈すると、その山麓は現在では宅地に開発されて些か変形しているが、それらしき地形と見做すことができる。

古人古人=丸く小高い地の麓に[人]の形の谷間があるところと解釈すると出自場所は図に示した場所と推定される。この後に幾度か登場して、内位の従五位下を叙爵される。また、転居した地に因んで菅原宿祢の氏姓を賜っている。

直後に土師宿祢虫麻呂が外従五位下を叙爵されている。頻出の虫(蟲)=山稜の端が三つに細かく岐れている様であり、「宇庭」の東隣が出自と推定される。その後の消息は不明である。

<山上王・矢野女王>
● 山上王

相変わらずのことだが、王に関する情報は極めて限られている。また、「山」も「上」も、全くありふれたもののように思われるが、「山上」も山上朝臣に用いられた例以外には見当たらず、勿論、その地に出自を求めることはできないであろう。

やはり、白壁王に関わる人物と推測される。山上=[山]の形に延びている山稜に盛り上がった地があるところと解釈すると、図に示した場所がその地形であることが解る。

国土地理院航空写真1974~8年を図に示したが、まだ九州縦貫自動車道の開通前のようであり、山稜の形を確認することができるように思われる。後に二度ばかり登場されるが、その後の消息は不明である。

少し後に矢野女王が従五位下を叙爵されて登場する。矢野=[矢]のような山稜の麓に野が広がっているところと解釈すると図に示した辺りが出自と推定される。その後に再度登場されることはないようである。

二月癸酉。授正六位上佐伯宿祢瓜作從五位下。正六位上久米連眞上外從五位下。」渤海使還國。賜其王璽書。并附信物。乙亥。贈故入唐大使從三位藤原朝臣清河從二位。副使從五位上小野朝臣石根從四位下。清河贈太政大臣房前之第四子也。勝寳五年。爲大使入唐。廻日遭逆風漂著唐國南邊驩州。時遇土人。及合船被害。清河僅以身免。遂留唐國。不得歸朝。於後十餘年。薨於唐國。石根大宰大貳從四位下老之子也。寳龜八年。任副使入唐。事畢而歸。海中船斷。石根及唐送使趙寳英等六十三人。同時沒死。故並有此贈也。」授正六位上大原眞人黒麻呂從五位下。丁丑。散位從四位下佐伯宿祢三野卒。庚辰。授外從五位下吉田連斐太麻呂從五位下。」從五位下藤原朝臣末茂爲左衛士員外佐。壬午。授外從五位下吉田連古麻呂外正五位下。甲申。以大宰少監正六位上下道朝臣長人爲遣新羅使。爲迎遣唐判官海上三狩等也。戊子。授命婦從四位下巨勢朝臣巨勢野正四位下。辛夘。授正六位上土師宿祢虫麻呂外從五位下。甲午。以從五位上利波臣志留志爲伊賀守。從五位下田口朝臣祖人爲尾張介。從五位下藤原朝臣長山爲參河守。從五位上當麻王爲遠江守。左衛士員外佐從五位下紀朝臣弟麻呂爲兼相摸守。從五位下百濟王仙宗爲安房守。從五位上紀朝臣眞乙爲上総守。從五位下紀朝臣豊庭爲下総守。從五位下藤原朝臣園人爲美濃介。中務大輔從五位上藤原朝臣鷲取爲兼上野守。衛門佐從五位下大中臣朝臣諸魚爲兼下野守。外從五位下久米連眞上爲介。從五位下廣田王爲越後守。造宮大輔從五位上紀朝臣犬養爲兼丹後守。從五位下廣河王爲因幡守。從五位下藤原朝臣眞縵爲備前介。從五位下氣多王爲安藝守。從五位下紀朝臣難波麻呂爲周防守。從五位下宗形王爲紀伊守。從五位下藤原朝臣大繼爲伊豫介。外從五位下賀祢公小津麻呂爲筑後介。從五位下藤原朝臣末茂爲肥後守。大學博士外從五位下膳臣大丘爲兼豊後介。」授正六位上上村主虫麻呂外從五位下。 

二月二日に「佐伯宿祢瓜作」に従五位下、「久米連眞上」に外従五位下を授けている。また、渤海使の帰還に際して、その王に天皇の印を捺した詔書を賜い、みやげ物を持たせている。

四日に故入唐大使の藤原朝臣清河に従二位、同じく副使の小野朝臣石根に従四位下を贈っている。「清河」は贈太政大臣の「房前」の第四子であった。天平勝寶五(753)年、大使として入唐し、帰る日に逆風に遭い、唐國の南辺の驩州(現在のベトナム北部)に漂着した。その時、現地人に遇い、船をこぞって被害を受けた。「清河」は辛うじて体一つで逃れたが、ついに唐國に留まり、帰朝できなかった。その後十余年経って、唐國で薨じた。「石根」は大宰大貮の「老」の子であった。寶龜八(777)年に副使に任じられ、入唐した。その使命を終えて帰る時に、海中で船が二つに折れ、「石根」と唐からの送使の趙寶英等六十三人は、同時に水没し死んだ。そこでそれぞれこの贈位を行なったのである。また、大原眞人黒麻呂(美氣に併記)に従五位下を授けている。

六日に散位の佐伯宿祢三野(今毛人に併記)が亡くなっている。九日に吉田連斐太麻呂に従五位下を授けている。藤原朝臣末茂()を左衛士員外佐に任じている。十一日に吉田連古麻呂(斐太麻呂に併記)に外正五位下を授けている。十三日に大宰少監の下道朝臣長人(色夫多に併記)を遣新羅使に任じている。遣唐判官の海上三狩等を迎えるためである。十七日に命婦の巨勢朝臣巨勢野に正四位下を授けている。二十日に土師宿祢虫麻呂(古人に併記)に外従五位下を授けている。

二十三日に利波臣志留志(砺波臣)を伊賀守、田口朝臣祖人を尾張介、藤原朝臣長山(長道に併記)を參河守、當麻王()を遠江守、左衛士員外佐の紀朝臣弟麻呂(宮子に併記)を兼務で相摸守、百濟王仙宗を安房守、紀朝臣眞乙を上総守、紀朝臣豊庭(豊賣に併記)を下総守、藤原朝臣園人(勤子に併記)を美濃介、中務大輔の藤原朝臣鷲取()を兼務で上野守、衛門佐の大中臣朝臣諸魚(子老に併記)を兼務で下野守、「久米連眞上」を介、廣田王()を越後守、造宮大輔の紀朝臣犬養(馬主に併記)を兼務で丹後守、廣河王()を因幡守、藤原朝臣眞縵(眞葛)を備前介、氣多王を安藝守、紀朝臣難波麻呂を周防守、宗形王を紀伊守、藤原朝臣大繼を伊豫介、賀祢公小津麻呂(雄津麻呂)を筑後介、藤原朝臣末茂()を肥後守、大學博士の膳臣大丘を兼務で豊後介に任じている。また、上村主虫麻呂(墨繩に併記)に外從五位下を授けている。 

<佐伯宿祢瓜作>
● 佐伯宿祢瓜作

「佐伯宿祢」は絶えることを知らない氏族の一つである。直近では「藤麻呂・牛養」が従五位下を叙爵されて登場している(「伊多治」に併記。こちら参照)。

『仲麻呂の乱』で功績を上げた「伊多治」(伊多智)が頭角を現し、彼の周辺の人材が一挙に登用されるようになったのであろう。ひょっとしたら、名乗られはしないが、戦に随行したのかもしれない。

そんな背景であらためてその地を眺めると、「瓜」も文字形の山稜に目が止まった。瓜作=[瓜]の形をした山稜の麓の谷間がギザギザとしているところと解釈される。

この地形であれば、従来は「蟲」で表現したように思われるが、丸く小高くなっている様は「瓜」がより適切な表記であろう。希少な名称である。この後に二度ばかり叙任の記述が見受けられるが、以後の消息は不明である。

<久米連眞上>
● 久米連眞上

「久米連」は聖武天皇紀に久米奈保麻呂に賜姓された氏名と記載されていた。その後「若賣」が登場し、「藤原朝臣雄田麻呂」(改名して「百川」)を誕生させることになる(こちら参照。「百川」はこちら)。

今回登場の「眞上」は、初見ではあるが既に外従五位下を叙爵されていて、「奈保麻呂・若賣」親子に何らかの係わりがある人物かと推測されるが、仔細は伝わっていないようである。

眞上=盛り上げられた地が寄り集まって窪んだところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。現在は谷間に貯水されている地形になっているが、当時は長い谷間のままであったと推測される。この後地方官に任じられたと記載されている。

三月甲辰。宴五位已上。令文人上曲水之詩。賜祿有差。辛亥。遣唐副使從五位下大神朝臣末足等自唐國至。丁巳。授无位久米連形名女從五位下。戊午。從三位高麗朝臣福信賜姓高倉朝臣。

三月三日に五位以上と宴会をし、文人に曲水の詩を奉らせ、それぞれに禄を賜っている。十日に遣唐副使の大神朝臣末足等が唐より帰っている。十七日に高麗朝臣福信に高倉朝臣の氏姓を賜っている。

夏四月己丑。夜暴風雨。折木發屋。辛夘。領唐客使等奏言。唐使之行。左右建旗。亦有帶仗。行官立旗前後。臣等稽之古例。未見斯儀。禁不之旨。伏請處分者。唯聽帶仗。勿令建旗。又奏曰。往時遣唐使粟田朝臣眞人等發從楚州。到長樂驛。五品舍人宣勅勞問。此時未見拜謝之禮。又新羅朝貢使王子泰廉入京之日。官使宣命。賜以迎馬。客徒斂轡。馬上答謝。但渤海國使。皆悉下馬。再拜舞踏。今領唐客。准據何例者。進退之礼。行列之次。具載別式。今下使所。宜據此式勿以違失。」授遣唐副使從五位下大神朝臣末足正五位下。判官正六位上小野朝臣滋野。從六位上大伴宿祢繼人並從五位下。録事正六位上上毛野公大川外從五位下。乙未。授女孺无位甘南備眞人久部從五位下。丁酉。授外從五位下羽栗臣翼從五位下。正六位上紀朝臣繼成從五位下。戊戌。散事正四位下紀朝臣形名卒。庚子。唐客入京。將軍等率騎兵二百。蝦夷廿人。迎接於京城門外三橋。

四月十九日の夜に暴風雨があり、木が折れ家屋を発き壊している。二十一日に領唐客使等が[唐使の行列は左右に旗を建て、また武器を帯び、行列を掌る官吏は前後に旗を立てている。臣等がこれを古例に照らしたところ、いまだかつてそのような儀礼は見当たらない。禁止するかどうか、伏して処分を願う]と奏上している。そこでただ武器を帯びるのは許すだけで、旗を立てさせてはならないとしている。

また、領唐客使が[昔、遣唐使(大寶二年)の粟田朝臣眞人等が楚州から出発して長樂驛に至った時、五品の舎人が勅を宣べ慰問をした。この時、拝謝の礼のことはみえていなかった。また、新羅の朝貢使の王子泰廉が入京した日(天平勝寶四年)、太政官の使が勅命を宣べて、迎えの馬を賜った。新羅の客は轡を引き締め、馬上で謝礼して答えた。但し、渤海國使は皆悉く馬を下りて二度拝礼して舞踏した。今、唐の客を導くのに、どの例に準拠すべきであろうか]と奏上している。

これに対して[進退に関する礼儀や行列の順序は、つぶさに別式に載せ、使の所に下させるから、この式より、間違うことのないようにせよ]と返答している。この日、遣唐副使の大神朝臣末足に正五位下、判官の小野朝臣滋野(小野虫賣に併記)・大伴宿祢繼人に従五位下、録事の上毛野公大川には外従五位下を授けている。

二十五日、女孺の甘南備眞人久部(清野に併記)に從五位下を授けている。二十七日、羽栗臣翼及び紀朝臣繼成(大純に併記)に從五位下を授けている。二十八日に散事の紀朝臣形名(豊賣・方名)が亡くなっている。三十日に唐の客が入京している。将軍等が騎兵二百・蝦夷二十人を率いて、京城門外の三橋(三崎)に迎接している。

五月癸夘。唐使孫興進。秦怤期等朝見。上唐朝書。并貢信物。詔曰。唐使上書。朕見之。唯客等遠來。艱辛行路。宜歸休於舘。尋欲相見。丁巳。饗唐使於朝堂。中納言從三位物部朝臣宅嗣宣勅曰。唐朝天子及公卿。國内百姓。平安以不。又海路難險。一二使人。或漂沒海中。或被掠耽羅。朕聞之悽愴於懷。又客等來朝道次。國宰祗供。如法以不。唐使判官孫興進等言。臣等來時。本國天子。及公卿百姓。並是平好。又朝恩遐覃。行路无恙。路次國宰。祗供如法。又勅曰。客等比在館中旅情愁鬱。所以聊設宴饗。加授位階。兼賜祿物。卿等宜知之。庚申。右大臣饗唐客於第。勅賜綿三千屯。辛酉。授女嬬正六位上賀茂朝臣御笠從五位下。乙丑。唐使孫興進等辞見。中納言從三位物部朝臣宅嗣宣勅曰。卿等到此。未經多日。還國之期。忽然云至。渡海有時。不可停住。今對分別。悵望而巳。又爲送卿等。新造船二艘。并差使令賚信物。領卿等遣廻。又令所司置一盃別酒。兼有賜物。卿等好去。孫興進等奏。臣等多幸。得謁天闕。今乍拜辞。不勝悵戀。丙寅。前學生阿倍朝臣仲麻呂在唐而亡。家口偏乏。葬礼有闕。勅賜東絁一百疋。白綿三百屯。丁夘。唐使孫興進等歸國。己巳。授散位正六位上百濟王元徳從五位下。

五月三日に唐使の孫興進・秦怤期等が朝廷で天皇に拝謁し、唐朝の書を奉り、土産物を貢上している。次のように詔されている・・・唐使の奉った書を朕は見た。唯々、客等は遠くから来て、途中で辛苦した。どうか客館に帰って休むように。その後で会いたいと思う・・・。

十七日に唐使と朝堂で宴会している。中納言の物部朝臣宅嗣(石上朝臣)が勅を宣べている・・・唐朝の天子と公卿、人民は平安であろうか。また海路は困難かつ危険で、一、二の使人は海中に漂流して沈んだり、「耽羅」(現在の済州島。こちら参照)に掠められたという。朕はこれを聞いて心から悲しみ悼む。また客等の来朝の途中、國司のもてなしは法の通りであったであろうか・・・。

唐使の判官の孫興進等は以下のように述べている・・・臣等が来る時、天子及び公卿や人民はそれぞれ平穏に変わりなくしていた。また、朝廷の恩が遥かに及んで、行路はつつがなく、路次の國司のもてなしは法の通りであった・・・。

また勅されている・・・客等はこのごろ、客館の中に居て、旅のうれいが深い事であろう。そこで些か宴饗を設けて、位階を加授し、併せて禄物を与えよう。卿等はそう承知するように・・・。

二十日に「右大臣」(大中臣朝臣清麻呂)が唐の客を邸宅に招いて饗宴している。勅して真綿三千屯を与えている。二十一日に女孺の「賀茂朝臣御笠」に従五位下を授けている。

二十五日に唐使の孫興進等が暇乞いに拝謁している。中納言の物部朝臣宅嗣が次のように勅を宣べている・・・卿等がここに至って、あまり日数が経っていないのに、帰る時期が突然やって来た。海を渡るには時期があるので、留まることができない。今別れるに際して、恨めしく思うばかりである。また、卿等を送るため、新しく船二艘を造り、併せて使を遣わして土産物を持たせて、卿等を伴って帰らせよう。また、担当の役所に命じて僅かでも送別の酒を用意させた。それとともに賜物もある。では卿等の無事を祈る・・・。

孫興進等は以下のように奏上している・・・臣等は多大の幸運により、天皇に拝謁できた。今にわかにお暇乞いをするが、嘆き慕う気持ちを、こらえることができない・・・。

二十六日に前の留学生である阿倍朝臣仲麻呂は唐で亡くなったが、日本の家族は甚だ貧しく、葬礼を十分に行えなかった。勅して東絁百疋・白真綿三百屯を与えている。二十七日に唐使の孫興進等が帰っている。二十九日に散位の百濟王元德に従五位下を授けている。

<賀茂朝臣御笠>
● 賀茂朝臣御笠

「賀茂朝臣」一族の女人の登場は限られている。古くは藤原朝臣不比等が娶った「比賣」の子の「宮子」(文武天皇の首皇子、後の聖武天皇の母親)及び「長娥子」(長屋王の妾、安宿王等の母親)が登場していた(こちら参照)。

その後は殆ど記載されることはなく、孝謙天皇紀に女孺の鴨朝臣子鯽が従五位下を叙爵され、後に飯高公笠目(飯高宿祢諸高)と並んで正五位下を叙位されている。

久々に登場した「子鯽」と同じである女孺の「御笠」の系譜は伝わっていないようであり、御笠=[笠]のような山稜を束ねているところの地形を頼りに出自の場所を求めることになる。

[笠]の地形は容易に見出せるかと思いきや、案外に梃子摺る羽目になった。視点を変えて、「笠」の地形を平面状に三角の地を表すと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。「鴨」の高台は平らに広がっていて、地形的な特徴がないことから採用された表記ではなかろうか。

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孫興進等の唐からの客を迎えて、てんやわんやの顛末が記載されている。最近では渤海使が頻繁に来朝しているのだが、唐からの正使としては最初で最後だったわけである。本文で長々と語られた件は、出迎えの儀礼に前例がなく、困っていた様子が伺える。この時の作法が後の正式な”格”となったようである。

大使は、記載の通りに海に没してしまったのであるが、孫等を入京させている。そして、すったもんだしながらも「肥前國」あるいは「肥後國」に辿り着いた後の行程は、全く省略されている。勿論、全ての遣〇〇使について記載されたことがないのである。本著によれば「平城宮」までは、二、三日もあれば帰着できるから当然と思われるのだが・・・。

ところが通説では、ヤマト政権の平城京までの行程が必要となって来る。史書に記載された例がなく、それ故に歴史学者は黙して語らず、門外漢と称する方々が推論されているのが現状であろう。現在の瀬戸内海航路については未だ闇の中、ということになる。

今回の遣唐使の帰朝報告は、実に詳細に述べており(「滋野」及び「繼人」の上奏文)、とりわけ、「繼人」の遭難漂流記は、時刻まで記載され、漂着した「肥前國天草郡西仲嶋」において九死に一生を得た臨場感を読み手に抱かせるもののように思われる。危機に際して沈着冷静な判断が下せる人物だったのであろう。

「滋野」の報告は無駄なく簡潔に、座礁後の処置をして航行可能とし、七日目の十月二十三日に「肥後國松浦郡橘浦」に着船したことを述べている。そして光仁天皇は、「滋野」の上奏文(二十五日付)を読み、二十八日に大宰府に唐使の慰問を指示している。「滋野」の肥後國着船後五日しか経っていない。瀬戸内海が介在することはあり得ないことを記述しているのである。

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