2024年4月29日月曜日

天宗高紹天皇:光仁天皇(23) 〔674〕

天宗高紹天皇:光仁天皇(23)


寶龜十(西暦779年)正月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀4(直木考次郎他著)を参照。

春正月壬寅朔。天皇御大極殿受朝。渤海國遣獻可大夫司賓少令張仙壽等朝賀。其儀如常。」以忠臣從二位藤原朝臣魚名爲内大臣。近衛大將大宰帥如故。丙午。渤海使張仙壽等獻方物。奏曰。渤海國王言。聖朝之使高麗朝臣殿嗣等失路漂着遠夷之境。乘船破損。歸去無由。是以。造船二艘。差仙壽等。隨殿嗣令入朝。并載荷獻物。拜奉天朝。丁未。授无位藤原朝臣友子從五位下。戊申。宴五位以上及渤海使仙壽等於朝堂。賜祿有差。詔渤海國使曰。渤海王使仙壽等來朝拜覲。朕有嘉焉。所以加授位階。兼賜祿物。癸丑。授无位藤原朝臣園人從五位下。甲寅。授從五位上紀朝臣船守正五位上。從六位下吉弥侯横刀外從五位下。丁巳。宴五位已上及渤海使於朝堂賜祿。己未。内射。渤海使亦在射列。」授從四位下紀朝臣形名正四位上。庚申。授從六位上大伴宿祢弟麻呂從五位下。辛酉。授從五位下内藏忌寸全成正五位下。癸亥。授正六位上酒部造上麻呂外從五位下。甲子。授正四位上藤原朝臣是公從三位。正五位下三方王從四位下。從五位下飯野王從五位上。正六位上塩屋王從五位下。正五位下豊野眞人奄智正五位上。從五位上安倍朝臣東人。百濟王利善。巨勢朝臣苗麻呂並正五位下。從五位下安倍朝臣常嶋。大中臣朝臣繼麻呂。安倍朝臣家麻呂。紀朝臣眞乙並從五位上。從六位上當麻眞人千嶋。正六位上多治比眞人年持。田中朝臣飯麻呂。中臣朝臣松成。大伴宿祢中主。大神朝臣三友。甘南備眞人豊次。縣犬養宿祢堅魚麻呂。紀朝臣白麻呂。采女朝臣宅守。石川朝臣美奈伎麻呂。藤原朝臣弓主並從五位下。正六位上和連諸乙。葛井連根道。船連住麻呂。土師宿祢古人並外從五位下。丙寅。授正六位上山上王。无位氷上眞人川繼並從五位下。

正月一日に大極殿に出御されて朝賀を受けられている。渤海國は献可大夫・司賓少令の張仙壽等を遣わして朝賀させている。その儀はいつもの通りであった。忠臣の藤原朝臣魚名(鳥養に併記)を近衛大将・大宰帥のままで内大臣に任じている。

五日に渤海使の張仙壽等が土地の産物を献上して、以下のように奏上している・・・渤海國王が申し上げる。聖朝の使である高麗朝臣殿嗣(殿繼)等は路に迷って、遠く夷の境域に漂着し、乗っていた船は破損し、帰るすべがなかった。そこで船二艘を造って「仙壽」等を遣わし、「殿嗣」に随って入朝させ、併せて献上物を載せて、天朝を拝し奉らせる・・・。

六日に藤原朝臣友子(仲男麻呂に併記)に従五位下を授けている。七日に五位以上及び渤海使張仙壽等と朝堂で宴会している。それぞれに禄を賜っている。渤海使に次のように詔されている・・・渤海王の使の「仙壽」等が来朝して拝しまみえた。朕の喜ぶところである。故に位階を加え授け、それと共に禄物を賜う・・・。

十二日に藤原朝臣園人(勤子に併記)に従五位下を授けている。十三日に紀朝臣船守に従五位上、吉弥侯横刀(吉弥侯根麻呂に併記)に外従五位下を授けている。十六日に五位以上及び渤海使と朝堂で宴会し、禄を賜っている。十八日に内射を行っている。渤海使も射手の列に入っている。また、紀朝臣形名(豊賣・方名)に正四位上を授けている。十九日に大伴宿祢弟麻呂(益立に併記)に従五位下を授けている。二十日に内藏忌寸全成(黒人に併記)に正五位下を授けている。二十二日に酒部造上麻呂(酒部公家刀自に併記)に外従五位下を授けている。

二十三日、藤原朝臣是公(黒麻呂)に從三位、三方王(三形王)に從四位下、飯野王()に從五位上、塩屋王()に從五位下、豊野眞人奄智(奄智王)に正五位上、安倍朝臣東人(廣人に併記)百濟王利善(①-)・巨勢朝臣苗麻呂(堺麻呂に併記)に正五位下、安倍朝臣常嶋大中臣朝臣繼麻呂(子老に併記)・安倍朝臣家麻呂紀朝臣眞乙に從五位上、當麻眞人千嶋(枚人に併記)・多治比眞人年持(歳主に併記)・田中朝臣飯麻呂(廣根に併記)・「中臣朝臣松成」・大伴宿祢中主(人成に併記)・大神朝臣三友(末足に併記)・甘南備眞人豊次(清野に併記)・「縣犬養宿祢堅魚麻呂」・紀朝臣白麻呂(本に併記)・「采女朝臣宅守」・石川朝臣美奈伎麻呂(眞人に併記)・藤原朝臣弓主()に從五位下、「和連諸乙」・葛井連根道(赦免による復位。惠文に併記)・船連住麻呂(淨足に併記)・「土師宿祢古人」に外從五位下を授けている。二十五日、「山上王」・氷上眞人川繼(河繼・志計志麻呂)に從五位下を授けている。

<中臣朝臣松成>
● 中臣朝臣松成

調べると「名代」の子と知られていることが分かった。既にその兄弟である「伊加麻呂・鷹主・竹成」が登場していた(こちら参照)。

最後に登場していた「竹成」は、幣帛を伊勢太神宮に奉る使者を務めたと記載され、爵位は不明であり、その後叙位の記述は見られない。「大中臣朝臣」一家に陰に隠れてしまったようである。

「中臣朝臣」の中で久々に従五位下を叙爵された人物であろう。いずにしても「名代」の周辺を出自としていたと思われるが、地図上ではなかなか判別が難しい状況であることが分かった。

通常、国土地理院航空写真1961~9年を用いるのであるが、幸運にも1974~8年の段階で開発が進んでおらず、それを用いて地形を推測してみることにした。既出の文字列である松成=山稜に挟まれて区切られた地が平らに整えられているところと解釈すると、図に示した場所、「鷹主」の谷間の奥の場所が出自と推定される。「竹成」同様、この後に登場されることはないようである。

<縣犬養宿祢堅魚麻呂-勇耳-繼麻呂>
● 縣犬養宿祢堅魚麻呂

光仁天皇紀に入って、多くの縣犬養宿祢一族が登場して来た。その多くは女官としての登用のように思われる(こちら参照)。

中でも中心人物であった八重の出自場所については、地形が大きく変化していて、国土地理院航空写真を参照せざるを得ない状況であった。

今回登場堅魚麻呂堅魚=谷間に延びた手のような山稜の先が魚の形をしているところの地形は、一見見渡す限りにおいて、該当するような場所を見出すことは叶わず、やはり地形変形した場所と推測された。

あらためて「八重」の周辺を見ると、その山稜の端に「魚」が鎮座していることに気付かされる。図に示したように「堅魚」の地形要件を満たす場所であることが解る。後に幾度か任官の記載が見られる。

少し後に女孺の縣犬養宿祢勇耳が従五位下を叙爵されて登場する。勇耳=突き通すように延びた山稜の先に耳の形の地があるところと解釈される。図に示した「八重」の東側の山稜の端辺りが出自と推定される。後に登場されることはないようである。

更に後(桓武天皇紀)に縣犬養宿祢繼麻呂が従五位下を叙爵されて登場する。繼麻呂=[麻呂]に繋がるところと解釈して、図に示した「内麻呂」の谷間に出自場所を求めた。その後に二度ばかり任官の記述がある。

<采女朝臣宅守>
● 采女朝臣宅守

一時は頻繁に新人登用されていた「采女朝臣」も孝謙天皇紀の淨庭以来途絶え気味の様相であり、久々の叙位であったように思われる。

何と言っても「采女朝臣」の居処は広大な宅地に変貌していて、またもや国土地理院航空写真のお世話になるのか、と思いきや、そうではなかったようである。

頻出の文字列である宅守=谷間で広がり延びる山稜に両肘を張り出したような地があるところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。

聖武天皇紀に登場のの谷間の出口辺りの場所となる。宅地開発に不向きな山稜地帯故に当時の地形を、多分、そのまま伝えている地域であろう。後に「宅守」は日向守に任じられたと記載されているが、その後の消息は不明である。

<和連諸乙・和史國守-家吉>
● 和連諸乙

「和連」は記紀・續紀を通じて初見であろう。類似するように思われる「大倭(和)連」は、大倭連深田田長(共に宿祢を賜姓)、もっと古くは大倭忌寸百足等は元は「大倭連」であった。

平らな頂の山稜の麓を表す「大」を省略しただけ、ではなかろう。勿論、姓が異なっては同じ氏族ではない。無姓の「倭(和)」の人物は、高野朝臣新笠の祖父である倭武助が登場していた。彼等の姓は「史」であった。

要するに、このままでは「和連」一族の居処は宙に浮いてしまうことになる。氏名は「和」であることには違いない・・・”和の山稜”の反対側、即ち東麓の地形を表しているのではなかろうか。前出の越前國坂井郡に属する地である。

諸乙=耕地が交差するような地にある山稜の麓が[乙]の形になっているところと解釈される。その地形を図に示した場所に見出せる。当然ながら「大」ではなく「高」の地形である。外従五位下の叙位後の消息は不詳であり、また関する情報も皆無であり、確証には至らないようである。

少し後に和史國守が外従五位下を叙爵されて登場する。調べると「乙繼」の子、「高野朝臣」とは兄妹(姉弟?)であることが分かった。國守=肘を張ったように曲がる山稜に囲まれているところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。

更に後(桓武天皇紀)に女孺の和史家吉が外従五位下を叙爵されて登場する。家吉=谷間にある端が豚の口のようになっている山陵が蓋をするように延びているところと解釈すると、図に示した場所、「國守」の西隣と推定される。両者は後に朝臣姓を賜ったと記載されている。

<土師宿祢古人-宇庭-道長-眞仲>
<土師宿祢虫麻呂>
● 土師宿祢古人

系譜を調べると「宇庭」の子と知られていることが分かった。がしかし、「宇庭」はこれまでに登場してはいないが、更に調べると「甥」の子であった(こちら参照)。

思い起こせば、「牛勝・弟勝」は「甥」の南~西側を出自としていたのだが、東側の山麓がすっぽりと抜け落ちていたのである。

既出の文字列である宇庭=谷間に延びる山稜の麓に平らに広がっているところと解釈すると、その山麓は現在では宅地に開発されて些か変形しているが、それらしき地形と見做すことができる。

古人古人=丸く小高い地の麓に[人]の形の谷間があるところと解釈すると出自場所は図に示した場所と推定される。この後に幾度か登場して、内位の従五位下を叙爵される。また、転居した地に因んで菅原宿祢の氏姓を賜っている。

直後に土師宿祢虫麻呂が外従五位下を叙爵されている。頻出の虫(蟲)=山稜の端が三つに細かく岐れている様であり、「宇庭」の東隣が出自と推定される。その後の消息は不明である。

更に後に土師宿祢道長が外従五位下を叙爵されて登場する。天応元(781)年六月に「古人・道長」等十五人が改姓(菅原宿祢)を申し出て許可されたと記載されている。詳細は、その時点で述べることにして、彼等二人は近隣に住まう兄弟のように推測される。道長=首の付け根のような窪んだ地が長く延びているところと解釈すると、地形変形があって些か判別し辛いが、図に示した辺りが出自と思われる。

後の桓武天皇紀に菅原(宿祢)眞仲大枝朝臣の氏姓を賜っている。多分、”菅原”の周辺であることから、その名称を賜ったのだが、系統は「大枝朝臣」だったのであろう。同時に土師宿祢菅麻呂も「大枝朝臣」を賜姓されているが、詳細は後に述べることにする。眞仲=谷間に突き通すように延びる山稜が窪んだ地に寄り集まっているところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。

<山上王・矢野女王・石淵王・犬甘王>
● 山上王

相変わらずのことだが、王に関する情報は極めて限られている。また、「山」も「上」も、全くありふれたもののように思われるが、「山上」も山上朝臣に用いられた例以外には見当たらず、勿論、その地に出自を求めることはできないであろう。

やはり、白壁王に関わる人物と推測される。山上=[山]の形に延びている山稜に盛り上がった地があるところと解釈すると、図に示した場所がその地形であることが解る。

国土地理院航空写真1974~8年を図に示したが、まだ九州縦貫自動車道の開通前のようであり、山稜の形を確認することができるように思われる。後に二度ばかり登場されるが、その後の消息は不明である。

少し後に矢野女王が従五位下を叙爵されて登場する。矢野=[矢]のような山稜の麓に野が広がっているところと解釈すると図に示した辺りが出自と推定される。その後に再度登場されることはないようである。

更に後に石淵王が従五位下を叙爵されて登場する。系譜不詳なのであるが、白壁王絡みと推測して、石淵=山麓の小高くなった地の脇に淵があるところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。何とも凄まじいばかりの叙位である。昇進はないが、幾度かの任官が記載されている。

後の桓武天皇紀に犬甘王が従五位下を叙爵されて登場する。多分、女王かと思われる。既出の文字列である犬甘=平らな頂の山稜が舌のように延び出ているところと解釈される。「山上王」の居処の山陵を「舌」と見做したものであろう。出自の場所を「矢野女王」の西側と推定した。續紀での登場は、この場限りのようである。

二月癸酉。授正六位上佐伯宿祢瓜作從五位下。正六位上久米連眞上外從五位下。」渤海使還國。賜其王璽書。并附信物。乙亥。贈故入唐大使從三位藤原朝臣清河從二位。副使從五位上小野朝臣石根從四位下。清河贈太政大臣房前之第四子也。勝寳五年。爲大使入唐。廻日遭逆風漂著唐國南邊驩州。時遇土人。及合船被害。清河僅以身免。遂留唐國。不得歸朝。於後十餘年。薨於唐國。石根大宰大貳從四位下老之子也。寳龜八年。任副使入唐。事畢而歸。海中船斷。石根及唐送使趙寳英等六十三人。同時沒死。故並有此贈也。」授正六位上大原眞人黒麻呂從五位下。丁丑。散位從四位下佐伯宿祢三野卒。庚辰。授外從五位下吉田連斐太麻呂從五位下。」從五位下藤原朝臣末茂爲左衛士員外佐。壬午。授外從五位下吉田連古麻呂外正五位下。甲申。以大宰少監正六位上下道朝臣長人爲遣新羅使。爲迎遣唐判官海上三狩等也。戊子。授命婦從四位下巨勢朝臣巨勢野正四位下。辛夘。授正六位上土師宿祢虫麻呂外從五位下。甲午。以從五位上利波臣志留志爲伊賀守。從五位下田口朝臣祖人爲尾張介。從五位下藤原朝臣長山爲參河守。從五位上當麻王爲遠江守。左衛士員外佐從五位下紀朝臣弟麻呂爲兼相摸守。從五位下百濟王仙宗爲安房守。從五位上紀朝臣眞乙爲上総守。從五位下紀朝臣豊庭爲下総守。從五位下藤原朝臣園人爲美濃介。中務大輔從五位上藤原朝臣鷲取爲兼上野守。衛門佐從五位下大中臣朝臣諸魚爲兼下野守。外從五位下久米連眞上爲介。從五位下廣田王爲越後守。造宮大輔從五位上紀朝臣犬養爲兼丹後守。從五位下廣河王爲因幡守。從五位下藤原朝臣眞縵爲備前介。從五位下氣多王爲安藝守。從五位下紀朝臣難波麻呂爲周防守。從五位下宗形王爲紀伊守。從五位下藤原朝臣大繼爲伊豫介。外從五位下賀祢公小津麻呂爲筑後介。從五位下藤原朝臣末茂爲肥後守。大學博士外從五位下膳臣大丘爲兼豊後介。」授正六位上上村主虫麻呂外從五位下。 

二月二日に「佐伯宿祢瓜作」に従五位下、「久米連眞上」に外従五位下を授けている。また、渤海使の帰還に際して、その王に天皇の印を捺した詔書を賜い、みやげ物を持たせている。

四日に故入唐大使の藤原朝臣清河に従二位、同じく副使の小野朝臣石根に従四位下を贈っている。「清河」は贈太政大臣の「房前」の第四子であった。天平勝寶五(753)年、大使として入唐し、帰る日に逆風に遭い、唐國の南辺の驩州(現在のベトナム北部)に漂着した。その時、現地人に遇い、船をこぞって被害を受けた。「清河」は辛うじて体一つで逃れたが、ついに唐國に留まり、帰朝できなかった。その後十余年経って、唐國で薨じた。「石根」は大宰大貮の「老」の子であった。寶龜八(777)年に副使に任じられ、入唐した。その使命を終えて帰る時に、海中で船が二つに折れ、「石根」と唐からの送使の趙寶英等六十三人は、同時に水没し死んだ。そこでそれぞれこの贈位を行なったのである。また、大原眞人黒麻呂(美氣に併記)に従五位下を授けている。

六日に散位の佐伯宿祢三野(今毛人に併記)が亡くなっている。九日に吉田連斐太麻呂に従五位下を授けている。藤原朝臣末茂()を左衛士員外佐に任じている。十一日に吉田連古麻呂(斐太麻呂に併記)に外正五位下を授けている。十三日に大宰少監の下道朝臣長人(色夫多に併記)を遣新羅使に任じている。遣唐判官の海上三狩等を迎えるためである。十七日に命婦の巨勢朝臣巨勢野に正四位下を授けている。二十日に土師宿祢虫麻呂(古人に併記)に外従五位下を授けている。

二十三日に利波臣志留志(砺波臣)を伊賀守、田口朝臣祖人を尾張介、藤原朝臣長山(長道に併記)を參河守、當麻王()を遠江守、左衛士員外佐の紀朝臣弟麻呂(宮子に併記)を兼務で相摸守、百濟王仙宗(②-)を安房守、紀朝臣眞乙を上総守、紀朝臣豊庭(豊賣に併記)を下総守、藤原朝臣園人(勤子に併記)を美濃介、中務大輔の藤原朝臣鷲取()を兼務で上野守、衛門佐の大中臣朝臣諸魚(子老に併記)を兼務で下野守、「久米連眞上」を介、廣田王()を越後守、造宮大輔の紀朝臣犬養(馬主に併記)を兼務で丹後守、廣河王()を因幡守、藤原朝臣眞縵(眞葛)を備前介、氣多王を安藝守、紀朝臣難波麻呂を周防守、宗形王を紀伊守、藤原朝臣大繼を伊豫介、賀祢公小津麻呂(雄津麻呂)を筑後介、藤原朝臣末茂()を肥後守、大學博士の膳臣大丘を兼務で豊後介に任じている。また、上村主虫麻呂(墨繩に併記)に外從五位下を授けている。 

<佐伯宿祢瓜作-葛城>
● 佐伯宿祢瓜作

「佐伯宿祢」は絶えることを知らない氏族の一つである。直近では「藤麻呂・牛養」が従五位下を叙爵されて登場している(「伊多治」に併記。こちら参照)。

『仲麻呂の乱』で功績を上げた「伊多治」(伊多智)が頭角を現し、彼の周辺の人材が一挙に登用されるようになったのであろう。ひょっとしたら、名乗られはしないが、戦に随行したのかもしれない。

そんな背景であらためてその地を眺めると、「瓜」も文字形の山稜に目が止まった。瓜作=[瓜]の形をした山稜の麓の谷間がギザギザとしているところと解釈される。

この地形であれば、従来は「蟲」で表現したように思われるが、丸く平らに小高くなっている様は「瓜」がより適切な表記であろう。希少な名称である。この後に二度ばかり叙任の記述が見受けられるが、以後の消息は不明である。

後(桓武天皇紀)に佐伯宿祢葛城が従五位下を叙爵されて登場する。「佐伯」の地に”葛城”の地形があるのか?…どうやらこじんまりとした、葛城=平らな高台が閉じ込められたように広がっているところの地が出自と推定される。「瓜」の地形の別表記となっていることが解る。その後に幾度か登場されるが、征東将軍として戦死されたようである。

<久米連眞上>
● 久米連眞上

「久米連」は聖武天皇紀に久米奈保麻呂に賜姓された氏名と記載されていた。その後「若賣」が登場し、「藤原朝臣雄田麻呂」(改名して「百川」)を誕生させることになる(こちら参照。「百川」はこちら)。

今回登場の「眞上」は、初見ではあるが既に外従五位下を叙爵されていて、「奈保麻呂・若賣」親子に何らかの係わりがある人物かと推測されるが、仔細は伝わっていないようである。

眞上=盛り上げられた地が寄り集まって窪んだところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。現在は谷間に貯水されている地形になっているが、当時は長い谷間のままであったと推測される。この後地方官に任じられたと記載されている。

三月甲辰。宴五位已上。令文人上曲水之詩。賜祿有差。辛亥。遣唐副使從五位下大神朝臣末足等自唐國至。丁巳。授无位久米連形名女從五位下。戊午。從三位高麗朝臣福信賜姓高倉朝臣。

三月三日に五位以上と宴会をし、文人に曲水の詩を奉らせ、それぞれに禄を賜っている。十日に遣唐副使の大神朝臣末足等が唐より帰っている。十七日に高麗朝臣福信に高倉朝臣の氏姓を賜っている。

夏四月己丑。夜暴風雨。折木發屋。辛夘。領唐客使等奏言。唐使之行。左右建旗。亦有帶仗。行官立旗前後。臣等稽之古例。未見斯儀。禁不之旨。伏請處分者。唯聽帶仗。勿令建旗。又奏曰。往時遣唐使粟田朝臣眞人等發從楚州。到長樂驛。五品舍人宣勅勞問。此時未見拜謝之禮。又新羅朝貢使王子泰廉入京之日。官使宣命。賜以迎馬。客徒斂轡。馬上答謝。但渤海國使。皆悉下馬。再拜舞踏。今領唐客。准據何例者。進退之礼。行列之次。具載別式。今下使所。宜據此式勿以違失。」授遣唐副使從五位下大神朝臣末足正五位下。判官正六位上小野朝臣滋野。從六位上大伴宿祢繼人並從五位下。録事正六位上上毛野公大川外從五位下。乙未。授女孺无位甘南備眞人久部從五位下。丁酉。授外從五位下羽栗臣翼從五位下。正六位上紀朝臣繼成從五位下。戊戌。散事正四位下紀朝臣形名卒。庚子。唐客入京。將軍等率騎兵二百。蝦夷廿人。迎接於京城門外三橋。

四月十九日の夜に暴風雨があり、木が折れ家屋を発き壊している。二十一日に領唐客使等が[唐使の行列は左右に旗を建て、また武器を帯び、行列を掌る官吏は前後に旗を立てている。臣等がこれを古例に照らしたところ、いまだかつてそのような儀礼は見当たらない。禁止するかどうか、伏して処分を願う]と奏上している。そこでただ武器を帯びるのは許すだけで、旗を立てさせてはならないとしている。

また、領唐客使が[昔、遣唐使(大寶二年)の粟田朝臣眞人等が楚州から出発して長樂驛に至った時、五品の舎人が勅を宣べ慰問をした。この時、拝謝の礼のことはみえていなかった。また、新羅の朝貢使の王子泰廉が入京した日(天平勝寶四年)、太政官の使が勅命を宣べて、迎えの馬を賜った。新羅の客は轡を引き締め、馬上で謝礼して答えた。但し、渤海國使は皆悉く馬を下りて二度拝礼して舞踏した。今、唐の客を導くのに、どの例に準拠すべきであろうか]と奏上している。

これに対して[進退に関する礼儀や行列の順序は、つぶさに別式に載せ、使の所に下させるから、この式より、間違うことのないようにせよ]と返答している。この日、遣唐副使の大神朝臣末足に正五位下、判官の小野朝臣滋野(小野虫賣に併記)・大伴宿祢繼人に従五位下、録事の上毛野公大川には外従五位下を授けている。

二十五日、女孺の甘南備眞人久部(清野に併記)に從五位下を授けている。二十七日、羽栗臣翼及び紀朝臣繼成(大純に併記)に從五位下を授けている。二十八日に散事の紀朝臣形名(豊賣・方名)が亡くなっている。三十日に唐の客が入京している。将軍等が騎兵二百・蝦夷二十人を率いて、京城門外の三橋(三崎)に迎接している。

五月癸夘。唐使孫興進。秦怤期等朝見。上唐朝書。并貢信物。詔曰。唐使上書。朕見之。唯客等遠來。艱辛行路。宜歸休於舘。尋欲相見。丁巳。饗唐使於朝堂。中納言從三位物部朝臣宅嗣宣勅曰。唐朝天子及公卿。國内百姓。平安以不。又海路難險。一二使人。或漂沒海中。或被掠耽羅。朕聞之悽愴於懷。又客等來朝道次。國宰祗供。如法以不。唐使判官孫興進等言。臣等來時。本國天子。及公卿百姓。並是平好。又朝恩遐覃。行路无恙。路次國宰。祗供如法。又勅曰。客等比在館中旅情愁鬱。所以聊設宴饗。加授位階。兼賜祿物。卿等宜知之。庚申。右大臣饗唐客於第。勅賜綿三千屯。辛酉。授女嬬正六位上賀茂朝臣御笠從五位下。乙丑。唐使孫興進等辞見。中納言從三位物部朝臣宅嗣宣勅曰。卿等到此。未經多日。還國之期。忽然云至。渡海有時。不可停住。今對分別。悵望而巳。又爲送卿等。新造船二艘。并差使令賚信物。領卿等遣廻。又令所司置一盃別酒。兼有賜物。卿等好去。孫興進等奏。臣等多幸。得謁天闕。今乍拜辞。不勝悵戀。丙寅。前學生阿倍朝臣仲麻呂在唐而亡。家口偏乏。葬礼有闕。勅賜東絁一百疋。白綿三百屯。丁夘。唐使孫興進等歸國。己巳。授散位正六位上百濟王元徳從五位下。

五月三日に唐使の孫興進・秦怤期等が朝廷で天皇に拝謁し、唐朝の書を奉り、土産物を貢上している。次のように詔されている・・・唐使の奉った書を朕は見た。唯々、客等は遠くから来て、途中で辛苦した。どうか客館に帰って休むように。その後で会いたいと思う・・・。

十七日に唐使と朝堂で宴会している。中納言の物部朝臣宅嗣(石上朝臣)が勅を宣べている・・・唐朝の天子と公卿、人民は平安であろうか。また海路は困難かつ危険で、一、二の使人は海中に漂流して沈んだり、「耽羅」(現在の済州島。こちら参照)に掠められたという。朕はこれを聞いて心から悲しみ悼む。また客等の来朝の途中、國司のもてなしは法の通りであったであろうか・・・。

唐使の判官の孫興進等は以下のように述べている・・・臣等が来る時、天子及び公卿や人民はそれぞれ平穏に変わりなくしていた。また、朝廷の恩が遥かに及んで、行路はつつがなく、路次の國司のもてなしは法の通りであった・・・。

また勅されている・・・客等はこのごろ、客館の中に居て、旅のうれいが深い事であろう。そこで些か宴饗を設けて、位階を加授し、併せて禄物を与えよう。卿等はそう承知するように・・・。

二十日に「右大臣」(大中臣朝臣清麻呂)が唐の客を邸宅に招いて饗宴している。勅して真綿三千屯を与えている。二十一日に女孺の「賀茂朝臣御笠」に従五位下を授けている。

二十五日に唐使の孫興進等が暇乞いに拝謁している。中納言の物部朝臣宅嗣が次のように勅を宣べている・・・卿等がここに至って、あまり日数が経っていないのに、帰る時期が突然やって来た。海を渡るには時期があるので、留まることができない。今別れるに際して、恨めしく思うばかりである。また、卿等を送るため、新しく船二艘を造り、併せて使を遣わして土産物を持たせて、卿等を伴って帰らせよう。また、担当の役所に命じて僅かでも送別の酒を用意させた。それとともに賜物もある。では卿等の無事を祈る・・・。

孫興進等は以下のように奏上している・・・臣等は多大の幸運により、天皇に拝謁できた。今にわかにお暇乞いをするが、嘆き慕う気持ちを、こらえることができない・・・。

二十六日に前の留学生である阿倍朝臣仲麻呂は唐で亡くなったが、日本の家族は甚だ貧しく、葬礼を十分に行えなかった。勅して東絁百疋・白真綿三百屯を与えている。二十七日に唐使の孫興進等が帰っている。二十九日に散位の百濟王元德(②-)に従五位下を授けている。

<賀茂朝臣御笠-三月>
● 賀茂朝臣御笠

「賀茂朝臣」一族の女人の登場は限られている。古くは藤原朝臣不比等が娶った「比賣」の子の「宮子」(文武天皇の首皇子、後の聖武天皇の母親)及び「長娥子」(長屋王の妾、安宿王等の母親)が登場していた(こちら参照)。

その後は殆ど記載されることはなく、孝謙天皇紀に女孺の鴨朝臣子鯽が従五位下を叙爵され、後に飯高公笠目(飯高宿祢諸高)と並んで正五位下を叙位されている。

久々に登場した「子鯽」と同じである女孺の「御笠」の系譜は伝わっていないようであり、御笠=[笠]のような山稜を束ねているところの地形を頼りに出自の場所を求めることになる。

[笠]の地形は容易に見出せるかと思いきや、案外に梃子摺る羽目になった。視点を変えて、「笠」の地形を平面状に三角の地を表すと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。「鴨」の高台は平らに広がっていて、地形的な特徴がないことから採用された表記ではなかろうか。

後(桓武天皇紀)に賀茂朝臣三月が従五位下を叙爵されて登場する。三月=山稜の端の三角の地が三つ揃って並んでいるところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。平らな高台は三つの山稜が並び重なっている様子を表しているようである。その場限りの登場のようである。

――――✯――――✯――――✯――――

孫興進等の唐からの客を迎えて、てんやわんやの顛末が記載されている。最近では渤海使が頻繁に来朝しているのだが、唐からの正使としては最初で最後だったわけである。本文で長々と語られた件は、出迎えの儀礼に前例がなく、困っていた様子が伺える。この時の作法が後の正式な”格”となったようである。

大使は、記載の通りに海に没してしまったのであるが、孫等を入京させている。そして、すったもんだしながらも「肥前國」あるいは「肥後國」に辿り着いた後の行程は、全く省略されている。勿論、全ての遣〇〇使について記載されたことがないのである。本著によれば「平城宮」までは、二、三日もあれば帰着できるから当然と思われるのだが・・・。

ところが通説では、ヤマト政権の平城京までの行程が必要となって来る。史書に記載された例がなく、それ故に歴史学者は黙して語らず、門外漢と称する方々が推論されているのが現状であろう。現在の瀬戸内海航路については未だ闇の中、ということになる。

今回の遣唐使の帰朝報告は、実に詳細に述べており(「滋野」及び「繼人」の上奏文)、とりわけ、「繼人」の遭難漂流記は、時刻まで記載され、漂着した「肥前國天草郡西仲嶋」において九死に一生を得た臨場感を読み手に抱かせるもののように思われる。危機に際して沈着冷静な判断が下せる人物だったのであろう。

「滋野」の報告は無駄なく簡潔に、座礁後の処置をして航行可能とし、七日目の十月二十三日に「肥後國松浦郡橘浦」に着船したことを述べている。そして光仁天皇は、「滋野」の上奏文(二十五日付)を読み、二十八日に大宰府に唐使の慰問を指示している。「滋野」の肥後國着船後五日しか経っていない。瀬戸内海が介在することはあり得ないことを記述しているのである。

――――✯――――✯――――✯――――