百濟王氏

百濟王氏


Wikipdia:百済最後の王である義慈王の子である善光を始祖とする日本の氏族。持統朝に百済王の氏姓を賜与された。「こにきし」は、古代朝鮮の三韓の王を指す言葉であり、古代朝鮮語に由来すると考えられている。

・・・と記載されている。「善光」も含めて名前が表す地形より居処(出自)の地を求めた結果を下図に示す。田川郡香春町中津原・田川市夏吉一帯である。

<百濟王①>


<百濟王②>


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百濟王氏(参考)

古代日本における百済出身の渡来氏族。渡来時期は一定しないが,ほとんど7世紀後半の百済滅亡前後であろう。狭義の百済氏は公(君)・連姓や姓のないものなどがあり,奈良時代下級官人になるものが多い。百済王族より出る余氏や鬼室氏は奈良時代以降百済朝臣を称した。余氏系には9世紀初,官人・画家百済河成がいる。また滅亡前の舒明朝ごろ渡来した百済義慈王の子禅広(善光)は693年(持統7)百済王の姓を与えられた。百済王氏は多く東北経営の担い手として重用され,百済敬福は749年(天平勝宝1)陸奥守として東大寺盧遮那仏(るしやなぶつ)鍍金用の黄金を朝廷に献じた。その後桓武・嵯峨・仁明朝の後宮に入ったものも少なくなく,藤原継縄の妻明信は尚侍として桓武朝後宮の中心的存在になった。百済王氏の居住地の河内国交野郡へ桓武天皇はしばしば鷹狩りにいき,そのつど同氏一族の位階を進めた。ほかに桓武の生母高野新笠は百済武寧王の子孫と称する和(やまと)氏の出で,天皇は〈百済王らは朕の外戚なり〉といい優遇した。
執筆者:鈴木 靖民
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」