2021年6月29日火曜日

日本根子高端淨足姫天皇:元正天皇(8) 〔524〕

日本根子高端淨足姫天皇:元正天皇(8)


養老二年(西暦718年)六月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀1(直木考次郎他著)を参照。

六月丁夘。令大宰所部之國輸庸同於諸國。先是減庸。至是復舊焉。」始置大炊寮史生四員。
秋八月甲戌。齋宮寮公文。始用印焉。乙亥。出羽并渡嶋蝦夷八十七人來。貢馬千疋。則授位祿。
九月庚戌。以從四位上藤原朝臣武智麻呂。爲式部卿。正五位上穗積朝臣老爲大輔。從五位下中臣朝臣東人爲少輔。從五位下波多眞人与射爲員外少輔。甲寅。遷法興寺於新京。

六月四日に大宰府管轄の國の庸を諸國と同じにし、軽減していたのを元に戻したことになる。この日、大炊寮に史生四名を初めて置いている。

八月十三日、齋宮寮の公文書に初めて印を使用している。十四日に出羽及び渡嶋蝦夷八十七人が入京し、馬千匹を貢進している。位階と禄を授けた、と記している。

九月十九日、藤原朝臣武智麻呂を式部卿、穗積朝臣老を大輔、中臣朝臣東人(意美麻呂の子)を少輔、波多眞人与射(余射)を定員外の少輔に任じている。二十三日に法興寺を新京に遷している。前記の「元興寺」の元の名称、”元興”の地形の場所に移されたと解釈される。ただ、記述が重なるのは移転完了を記したのかもしれない。その場所は奈良大和の平城京ではなかったと述べた(六條四坊、こちら参照)。

冬十月庚午。太政官告僧綱曰。智鑒冠時。衆所推讓。可爲法門之師範者。宜擧其人顯表高徳。又有請益無倦繼踵於師。材堪後進之領袖者。亦録名臘。擧而牒之。五宗之學。三藏之教。論討有異。辨談不同。自能該達宗義。最稱宗師。毎宗擧人並録。次徳根有性分。業亦麁細。宜隨性分皆令就學。凡諸僧徒。勿使浮遊。或講論衆理。學習諸義。或唱誦經文。修道禪行。各令分業。皆得其道。其崇表智徳。顯紀行能。所以燕石楚璞各分明輝。虞韶鄭音不雜聲曲。將須象徳定水瀾波澄於法襟。龍智慧燭芳照聞於朝聽。加以。法師非法還墜佛教。是金口之所深誡。道人違道。輙輕皇憲。亦玉條之所重禁。僧綱宜迴靜鑒。能叶清議。其居非精舍。行乖練行。任意入山。輙造菴窟。混濁山河之清。雜燻煙霧之彩。又經曰。日乞告穢雜市里。情雖逐於和光。形無別于窮乞。如斯之輩愼加禁喩。庚辰。大宰府言。遣唐使從四位下多治比眞人縣守來歸。

十月十日に太政官が僧綱に次のように告示している。聡明で判断力が優れ、人々にも推されて仏門の模範とするべき人物を推挙するようにすること、また教えを乞うて倦むことがなく、師の後を継承して後進の領袖となるに足る資質をある者を僧侶になってからの年数を記録し、推薦して報告せよ、と記載している。五宗(華厳・法相・三論・倶舎・成実)の学や教・律・論の三分野に関わる仏教の教えには、論究するところに差異があり論議する方法も同じではない。自らその宗の教義に広く達していればその宗の師として称え、宗ごとに人物の名を挙げ、記録すること、次に德を発揮する力にには生まれつきの違いがあり、学業にも大まかなことと細密なことがある。故に素質に従って就学させること、と述べている。僧侶はあちこちに移転させてはならない。多くの教理を講じたり論じたり、教義を学習したり、経文を暗唱して唱えたり、静かに仏道を修行したりするなど、各々の学業を分けて、その分野を習得させるようにせよ、記している。智德を顕彰し、品行と才能を明らかに記録するのは、これによって燕石(紛い物)と楚璞(磨けば光る玉)の輝き方を別け、虞韶(麗しい音楽)と鄭音(淫猥な音楽)が混じり合わないようにするためであり、傑僧の静かな水のような心がさざ波となって他の僧たちの胸に澄み渡り、高僧の知恵の光が美しく照り輝いて朝廷に届くであろう。そればかりではなく、僧侶が仏法を誹謗し、かえって仏教を貶めることになることは、仏陀が深く戒めている。仏徒が道を踏み外し、法を輕んじることも律令が厳重に禁じている。僧綱はよく見極めて僧侶に相応しい清らかな議論を行わせよ、と述べている。僧侶が寺院に住まず、修練の方法に背いて思いのままに山に入り、たやすく庵や岩屋を造ることは清浄な山河を濁らせ、霞や霧の美しさを汚してしまうことになる。また経典によれば、教えを説いて市井に雑居し、その心情は才能を外に表さないことを目指していても、その姿は窮乏した乞食と変りがない、このような輩を戒め、禁制を加えて説諭せよ、と通告している。

二十日に遣唐使の多治比眞人縣守が帰国した、と大宰府が告げている。

十一月壬寅。彗星守月。癸丑。始差畿内兵士。守衛宮城。

十一月十二日に彗星が月に接近している。二十三日、初めて畿内の兵士を派遣して宮城を守らせている。

十二月丙寅。詔曰。朕虔承寳位。仰憑霄構。君臨天下。四年于茲。上則昊穹。下字黎庶。庸愚之民。自挂踈網。有司之法。寘于常憲。毎念於此。朕甚愍焉。思欲廣開至道。遐扇淳風。爲惡之徒。感深仁以遷善。有犯之輩。遵令軌以靡風。但自昔及今。雜言大赦。唯該小罪。八虐不霑。朕恭奉爲太上天皇。思降非常之澤。可大赦天下。養老二年十二月七日子時已前大辟罪已下。罪无輕重。繋囚見徒。私鑄錢并盜人及八虐。常赦所不原。咸赦除之。其癈疾之徒。不能自存。量加賑恤。仍令長官親自慰問。兼給湯藥。僧尼亦同。布告天下知朕意焉。壬申。多治比眞人縣守等自唐國至。甲戌。進節刀。此度使人略無闕亡。前年大使從五位上坂合部宿祢大分亦隨而來歸。

十二月七日に以下のように詔されている。概略は、皇位を慎んで受け、天を頼りにこの四年間を君主として天下に臨んで天を規範として民を養って来たが、平凡で愚かな民はゆるやかな法さえにも触れ、官司の法律はそれを取り締まるために常置されている。広く最善の道を示し、悪行を行う者も深い慈悲を感じて改心し、既に罪を犯した者にも法に従って良い風俗に馴染ませたいと思う。しかしながら昔からの大赦は、ただ小罪のみを許し。八虐(大罪)は除外して来た。そこで太上天皇のために通り一遍ではない恵みを与えようと思う。よって養老二年十二月七日の子の刻より以前の死罪以下、罪の軽重を問わず、偽銭造りも含めて悉く放免せよ、また自活できな者など、程度に応じて物を恵み、長官は自ら訪問して煎じ薬を下賜せよ、と述べている。僧尼についても同様な措置を取り、全国に布告せよ、と結んでいる。

十三日に多治比眞人縣守等が唐より帰京している。十五日に節刀を返上している。今回では欠けた者は、ほぼなかったようである。先回の大使であった坂合部宿祢大分も随行して帰朝している。大寶二年(702年)六月に副使から大使に昇格して出向していた。

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三年春正月庚寅朔。廢朝。大風也。」以舶二艘。獨底船十艘。充大宰府。辛夘。天皇御大極殿。受朝。從四位上藤原朝臣武智麻呂。從四位下多治比眞人縣守二人。賛引皇太子也。己亥。入唐使等拜見。皆着唐國所授朝服。壬寅。授從四位上路眞人大人。巨勢朝臣邑治。石川朝臣難波麻呂。大伴宿祢旅人。多治比眞人三宅麻呂。藤原朝臣武智麻呂。從四位下多治比眞人縣守並正四位下。從四位下阿倍朝臣首名。石川朝臣石足。藤原朝臣房前並從四位上。正五位下小治田朝臣安麻呂。縣犬養宿祢筑紫。大伴宿祢山守。藤原朝臣馬養並正五位上。從五位上坂合部宿祢大分。阿倍朝臣安麻呂並正五位下。正六位上三野眞人三嶋。吉智首。角兄麻呂。正六位下大野朝臣東人。小野朝臣老。酒部連相武。從六位上板持連内麻呂。從六位下石上朝臣堅魚。佐伯宿祢馬養。大宅朝臣小國。笠朝臣御室並從五位下。乙巳。正四位下安八萬王卒。

養老三年(西暦719年)正月の記事である。一日、大風のために朝賀を廃している。舶(大型船)二艘と獨底船(独木船:丸木船だが?)十艘を大宰府に充当している。二日に大極殿にて朝賀を受けているが、藤原朝臣武智麻呂と多治比眞人縣守が皇太子(後の聖武天皇、十九歳)を先導している。十日に遣唐使等が拝謁しているが、皆唐から授けられた朝服を着ていたようである。

十三日に路眞人大人巨勢朝臣邑治石川朝臣難波麻呂(宮麻呂に併記)・大伴宿祢旅人多治比眞人三宅麻呂藤原朝臣武智麻呂多治比眞人縣守に正四位下、阿倍朝臣首名石川朝臣石足藤原朝臣房前に從四位上、小治田朝臣安麻呂縣犬養宿祢筑紫大伴宿祢山守藤原朝臣馬養(宇合)に正五位上、坂合部宿祢大分阿倍朝臣安麻呂に正五位下、「三野眞人三嶋」・「吉智首」・「角兄麻呂」・大野朝臣東人小野朝臣老(毛野の子、馬養に併記)・「酒部連相武」・「板持連内麻呂」・石上朝臣堅魚(物部一族に併記)・佐伯宿祢馬養(大目の子、垂麻呂・蟲麻呂に併記)・大宅朝臣小國(父親の金弓に併記)・笠朝臣御室(兄弟の麻呂[滿誓]に併記)に從五位下を授けている。十六日、安八萬王が亡くなっている。

さて、例によって新人の登場であるが、既出の一族であれば出自の場所の詳細が解り、大昔の”皇別”の古豪ならば、あらためて出自の場所の確認にもなる。續紀の記述が古事記に近いのは、幸運とするべきであろう。書紀の捻くれた表記と併せるとより確度の高いものになると信じられる。

<三野眞人三嶋-馬甘>
<美乃眞人廣道>
● 三野眞人三嶋

「三野」は些か混乱を生じさせる表記であって、とりわけ「王」の名称に用いられた時には複雑な様相である。「美濃」、「美努」の表記も併せて、「ミノ」の読みに拘ると、正に大混乱、書紀編者の思う壺、である。

「眞人」は元は「公」であって、”皇別”の出自を有する人物と推測されるが、書紀には登場せず、「三野眞人」は今回が初めてである。調べると路眞人(公)から派生した一族だったことが分かった。

そんな背景で「路眞人」近辺に、この一族の出自を求めることになるが、「路」の谷間の西側に広がる、何とものっぺりとした台地を「三野」と称したのであろう。よく見ると三段になっていることが解る。

三嶋=三つの島状の小高い地があるところと解釈するが、陰影の強度を上げないと確認できない有様であった。何とかその出自を特定することができたようである。
ところが少し後に美乃眞人廣道という人物が正月の叙位(例に依って従五位下)で登場する。何ともややこしい記述なので、記紀にも出現しない姓名である。

おそらく「三野(ミノ)眞人」と同族なのだが、「三野」の地形ではない場所を居処としていたのではなかろうか。既出の美=谷間が広がる様乃=曲がって垂れ下がる山稜に囲まれた様と解釈したが、図に示した場所がその地形を表してることが解る。廣道=首の付けのようなところが広がったいる様から、その谷間に見出せる。確かにこの地は「三野」ではない。

ずっと後(淳仁天皇紀)に三野眞人馬甘が従五位下を叙爵されて登場する。は「三野」の地を馬の形と見做した表記であろう。甘=口から舌を出したような様と解釈したが、その地形を「三嶋」に東側に見出せる。別名馬養も申し分のない表記と思われる。

<吉智首・吉宜>
● 吉智首

「吉宜」は文武天皇即位四年(700年)八月の記事に僧惠俊を還俗させて授けた名前として、また和銅七年(714年)正月の叙位に名を連ねていたが、出自不詳として扱って来た。二名揃ったところで求めることができたようである。

古事記の御眞木入日子印惠命(崇神天皇)紀に登場する丸邇臣之祖、日子國夫玖命の後裔らしいことが判った。系譜は定かではないが、おそらく「宜・智首」は近隣を出自とする人物だったかと推測される。

現地名は田川郡香春町中津原と柿下との境の場所と推定した。大坂山と愛宕山から延びる山稜が交差するように延びた地形を示している。邇藝速日命の後裔の穂積一族が蔓延った地であろう。一時は皇統に絡む人材を輩出したのだが、絶えて久しいかったと思われる。

宜=宀+且=谷間で小高く盛り上がった様であり、図に示した場所が吉宜の出自の場所かと思われる。智=矢+口+日=鏃の形と炎の形の地がある様首=首の付け根のような様であり、「宜」の西側の場所と推定される。丸邇氏(柿本人麻呂も含めて)の登場はもっと御祓川に近い場所であり、山麓の地からは殆ど見られなかった。「吉」は全く埋もれていたのであろう。

<角兄麻呂・角朝臣家主>
● 角兄麻呂

大寶元年(701年)八月に僧惠耀等を還俗させ、「觮兄麻呂」の姓名を与えたと記されていた。天智天皇紀に徐自信等と共に百濟から帰化した「角福牟」の後裔かと言われているようである。

上記のように埋もれていた”皇別”の一族とすると、古事記の大倭根子日子國玖琉命(孝元天皇)の孫、木角宿禰が祖となった都奴臣の地が出自ではなかろうか。

「觮」=「角+彔」と分解される。觮=角の傍らで剥がされたような様と解釈される。図に示したように「角」の外側に谷間を表していると思われる。兄=谷間の奥が広がっている様であり、その通りの地形が見出せる。

後に都能兄麻呂と記され、羽林連姓を賜ったと記載される。都=者+邑=交差するような山稜が寄り集まった様能=隅であり、西側の谷間の斜面を示していることが解る。また谷間を挟む山稜が平らな頂であり、それらが並んでいる様羽林と表記したと解釈される。別名表記により、この人物の出自の場所は間違いないように思われる。陰陽に優れていて、丹後守などを任じられるが、法を犯したとして流罪に処せられた伝えられている。

後に角朝臣家主が登場する。「朝臣」姓を持つことから正真正銘の「都奴臣」の後裔で、「都奴」に挟まれた谷間と推定される。すると一目で出自の場所が見出せる。家主=真っ直ぐに延びた山稜の先で豚口のようになっているところと読み解ける。現地名は豊前市中村となっているが、「角」の学校、神社がある、正に残存地名と見做せる地であろう。

<酒部連相武>
● 酒部連相武

「酒部」も上記と同様に”皇別”の一族とすると、古事記の大帶日子淤斯呂和氣命(景行天皇)の子、神櫛王が祖となった木國之酒部阿比古に関わる地と推定される。

相=木+目=離れて並ぶ様であり、頻出の武=戈+止=山稜が矛のような様と解釈すると、図に示した場所の地形を表していることが解る。

少々興味深いのが、この地は古事記では「木國」であり、書紀では「紀臣」の出自の場所である。多くの人材が登場して高官も輩出して来たのだが、確かに「酒部」の地からは見られなかった。斉明天皇紀に登場した紀温湯が「相武」の北側辺りにあったと推定したぐらいであった。

古事記の表記の通り、この地は「木國」の「酒部」と解釈するのが妥当であろう。更に「木國」は、上記の木角宿禰が祖となった地であり、少し時が経って神櫛王が祖となっている。同じ”皇別”とは言え、別系統だったことになる。丸邇と同じように同族内での確執もあったのであろう。それを取り上げた叙位だったようである。

<板持連内麻呂-安麻呂・板安忌寸犬養>
● 板持連内麻呂

「板持」は、記紀には登場しない文字列である。調べると河内國錦部郡が出自の場所、現地名は行橋市下崎辺りと推定した地と分かった。

「板」=「木+反」と分解される。板=崖下に山稜が延びている様と解釈した。飛鳥板蓋宮で用いられた文字である。香春一ノ岳西麓の急峻な崖下の宮であった。

すると幸ノ山の東麓にある山稜が「板」の地形を示していることが解り、持=手+寺=山稜に包まれた様と読み解き、內=冂+入=谷間の入り口とすると、図に示した場所がこの人物の出自の場所と推定される。

少し後に武藝に秀でているとして褒賞された板安忌寸犬養が登場する。全く出自は不詳なのだが、同様の地形が「板持」に並んでいることが解る。その山稜の傍の谷間を板安と表現したと思われる。名前が犬養=平らな山稜に挟まれた谷間がなだらかに延びている様であり、出自の場所は、その出口辺りと推定される。

後(聖武天皇紀)に太政官大史の板持連安麻呂が登場する。幾度も登場の安麻呂が示す場所は、図に示した「内麻呂」の奥の谷間と思われる。当時には池は存在していなかったのではなかろうか。

二月壬戌。初令天下百姓右襟。」職事主典已上把笏。其五位以上牙笏。散位亦聽把笏。六位已下木笏。甲子。正三位粟田朝臣眞人薨。己巳。遣新羅使正五位下小野朝臣馬養等來歸。庚午。行幸和泉宮。丙子。車駕還宮。
三月辛夘。始置造藥師寺司史生二人。乙夘。地震。

二月三日に初めて衣服の襟を右前にさせ、職事官(管掌する職務がある官人)の四等以上の者に笏(本来はコツ、一尺の長さ故にシャクと呼ばれた)を持たせ、そのうち五位以上の者は象牙の笏としている。散位(無管掌者)も笏を持つことを許している。六位以下は木の笏としている。

五日、粟田朝臣眞人が亡くなっている。十日に遣新羅使の小野朝臣馬養等が帰国している。十一日に和泉宮(前出の珍努宮)に行幸、十七日に帰還している。

三月二日に初めて造藥師寺司に史生二人を配置している。二十六日に地震があったと記している。




 

2021年6月24日木曜日

日本根子高端淨足姫天皇:元正天皇(7) 〔523〕

日本根子高端淨足姫天皇:元正天皇(7)


養老二年(西暦718年)正月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀1(直木考次郎他著)を参照。

二年春正月庚子。詔授二品舍人親王一品。從四位上廣湍王正四位下。無位大井王從五位下。從四位下忌部宿祢子人。阿倍朝臣廣庭並從四位上。正五位下賀茂朝臣吉備麻呂從四位下。正五位下穗積朝臣老。紀朝臣男人並正五位上。從五位上道君首名正五位下。正六位上坂合部宿祢賀佐麻呂。久米朝臣三阿麻呂。當麻眞人東人。高橋朝臣安麻呂。巨勢朝臣足人。縣犬養宿祢石足。大伴宿祢首。村國連志賀麻呂。王仲文並從五位下。

正月五日に舍人親王に一品、廣湍王(廣瀬王)に正四位下、「大井王」に從五位下、忌部宿祢子人(首)・阿倍朝臣廣庭(首名に併記)に從四位上、賀茂朝臣吉備麻呂(鴨朝臣吉備麻呂)に從四位下、穗積朝臣老紀朝臣男人に正五位上、道君首名(道公首名)に正五位下、「坂合部宿祢賀佐麻呂」・久米朝臣三阿麻呂(尾張麻呂に併記)・當麻眞人東人高橋朝臣安麻呂(若麻呂、父親笠間に併記)・「巨勢朝臣足人」・「縣犬養宿祢石足」・大伴宿祢首(山守に併記)・村國連志賀麻呂(志我麻呂、等志賣に併記)・「王仲文」に從五位下を授けている。

<大井王>
● 大井王

系譜は全く見当たらず、である。無位から従五位下の叙位とのことだから天武天皇の孫でもなさそうである。名前の「大井」も特定するには難しい有様である。

がしかし、「大井」の名称は書紀の『壬申の乱』で登場していた。「倭京」の攻防の際、西から攻める近江軍と東からの吹負軍の激闘があった場所で、吹負軍が劣勢の時に矢を放って加勢したのが「大井寺」の奴、德麻呂等であった(こちら参照)。

結果的には三輪君高市麻呂・置始連菟が率いる味方の一隊が敵の背後に到着し、勝利したと記載されていた。

書紀編者が渾身の力を込めて捻くり回した表記を行った場面である。懐かしさに溺れそうであるが、その「大井寺」の場所を出自としていたのではなかろうか。山稜の端で大井=平らな頂で四角く取り囲まれた地である。後に同名の王が登場されるようだが、詳細はその時とする。

<坂合部宿禰賀佐麻呂>
● 坂合部宿祢賀佐麻呂

「坂合部宿禰」の出自の場所は現在の直方市下境辺りと推定した。「境」=「坂合(山稜の端が出合うところ)」である。決して”境界”の意味を表わすのではないが、結果として山稜がぶつかれば境となっても不思議ではない、と言う表現である。

名前の賀佐麻呂は、既に出現していて例えば佐味朝臣賀佐麻呂が登場していた。勿論、類似の地形をしている筈である。

賀佐=押し広げられた谷間にある左手のような山稜が延びているところと読み解いた。「坂合部」の登場人物は極めて多いが、その中に「大分」、「三田麻呂」があり(こちら参照)、彼らの近傍で「賀佐」の地形を求めると、図に示した場所辺りと推定される。

登場人物間の系譜は殆ど知られていないようで、やはり、大臣クラスが出現しないと記録は残されなかったのかもしれない。「賀佐麻呂」も正六位上からの叙位だから、そもそもそれなりの出自であったと思われる。

<巨勢朝臣足人>
● 巨勢朝臣足人

この人物も系譜が知られていないようで、名前だけで出自の場所を求めることになる。「巨勢朝臣」も人材輩出の地であって、大臣も含めて主要な人物も出現している。

また現在の直方市頓野(大字)も長く広がった地域であって、本来は系譜が分からないとなかなかに面倒な作業になることもある。

ただこの人物の足=山稜が長くなだらかに延びた様であることから、遠賀川・彦山川の合流域に限りなく近い場所と推測される。人=谷間とすると、小ぶりではあるが、現在の西尾神社の南側の谷間を示していると思われる。前出の巨勢朝臣馬飼の西隣となる。中納言の「麻(萬)呂」が前年に亡くなっているが、関係ありそうな感じでもある。

こうしてそれぞれの配置が求まって来ると、近津神社辺りがすっぽりと空いているように見える。この地は古事記の大倭根子日子國玖琉命(孝元天皇)の輕之堺原宮があった場所と推定した。”天領”には足を踏み入れることはなかった・・・この宮の場所の確からしさが高まった、かもしれない。

<縣犬養宿禰石足>
● 縣犬養宿祢石足

「縣犬養」一族については、前記で縣犬養橘宿祢三千代が登場して、全体を示したつもりであったが(こちら参照)、更なる人物の出現である。

どうやら二系統があるようで、「三千代」とは別系統かと思いきや、この人物の系譜はどうも定かでないようである。と言うことは、詳細が分かっていない系統、即ち「三千代」とは谷間を挟んで反対側の地が出自の場所だったのではなかろうか。

石足=山麓の台地が長くなだらかに延びた様であり、それらしき場所が「広刀自」の南隣に見出せる。なだらかさに些か欠けるようだが、正に「足」のような山稜と見做すことができるかと思われる。「犬養」の中心の谷間から少々外れたようにも見える地は、また別系統の一族が住まっていたのかもしれない。

● 王仲文

調べると、高句麗を由来とする渡来人であり、後に陰陽に優れる者として褒賞に与ったと伝えられている。”倭風”の氏名を持たなかったのであろう。後に武藏國高麗郡に入植された一族として背奈公行文が登場する。仲文が地形象形しているとして読み解いた結果を「行文」に併記した。

二月壬申。行幸美濃國醴泉。甲申。從駕百寮。至于輿丁。賜絁布錢有差。己丑。行所經至。美濃。尾張。伊賀。伊勢等國郡司及外散位已上。授位賜祿各有差。

二月七日に美濃國醴泉(多度山美泉)に行幸されている。十九日、従者の官人から輿を担ぐ者までにそれぞれ絁・麻布・銭を与えている。二十四日に経路の美濃・尾張・伊賀・伊勢等の國郡司、外散位以上の者にそれぞれ進位・禄を授けている。

今回の行程は西回りとなろう。『壬申の乱』の天武天皇の逃亡ルートである。勿論到着地点は尾張國を経て美濃國不破となる(こちら参照)。通説は、伊賀國、伊勢國はともかく、この尾張國経由が腑に落ちないらしく、前記の養老町の資料では、尾張國も出迎えたのであろう、と記載されている。

木曽三川の対岸の國が出迎えるとは?…やはり腑に落ちていない。更に当時の海面を考慮すると、養老山脈から現在の熱田神宮辺りまで入江であって(東海道五十三次:桑名宿~宮宿間七里の渡)、尾張國はその東側に位置し、今回の行程とは無縁であり、とても隣国とは言えない地形だった思われる。

書紀ならば、当然、尾張國は抹消であろう。『壬申の乱』の時も伊勢國桑名を登場させるが、尾張國からの寝返りなどの記述は行っても、行程上はそれを飛ばして美濃國不破となる。伊勢國と美濃國の間に尾張國があっては不都合だからである。續紀は、もう小賢しい記述は止めにしよう、なのであろう。

三月戊戌。車駕自美濃至。乙巳。以正三位長屋王。安倍朝臣宿奈麻呂並爲大納言。從三位多治比眞人池守。從四位上巨勢朝臣祖父。大伴宿祢旅人並爲中納言。乙夘。以少納言正五位下小野朝臣馬養。爲遣新羅大使。

三月三日に美濃より帰還されている。十日に長屋王安倍朝臣宿奈麻呂を大納言に、多治比眞人池守巨勢朝臣祖父(邑治)・大伴宿祢旅人を中納言に任じている。二十日、少納言の小野朝臣馬養を遣新羅大使に任じている。

夏四月乙丑朔。從四位下佐伯宿祢百足卒。乙亥。筑後守正五位下道君首名卒。首名少治律令。曉習吏職。和銅末。出爲筑後守。兼治肥後國。勸人生業。爲制條。教耕營。頃畝樹菓菜。下及鶏肫。皆有章程。曲盡事宜。既而時案行。如有不遵教者。隨加勘當。始者老少竊怨罵之。及收其實。莫不悦服。一兩年間。國中化之。又興築陂池。以廣漑潅。肥後味生池。及筑後往往陂池皆是也。由是。人蒙其利。于今温給。皆首名之力焉。故言吏事者。咸以爲稱首。及卒百姓祠之。癸酉。太政官處分。凡主政主帳者。官之判補。出身灼然。而以理解任更從白丁。前勞徒廢。後苦實多。於義商量。甚違道理。宜依出身之法。雖解見任。猶上國府。令續其勞。内外散位。仍免雜徭。

四月一日に佐伯宿祢百足が亡くなっている。十一日に道君首名(道公首名)が亡くなっている。この人物の事績が詳細に述べられている。概略は、若くして律令を習得し、官吏の職務に熟練した。和銅末年に筑後守に出向し、「肥後國」の統治も兼務した。民に生業を奨励し、農作業を教えて耕地には果物、野菜を植えさせた。また鶏・豚の飼育方法も規程を作り実に適切なものであった。初めは人々は抵抗があったが成果が上がるにつれ、一、二年もすると従うようになった、と記している。灌漑も行い、肥後の「味生池」や筑後の処々の堤池は首名が造ったものである。官人の職務について論じる者は彼の名前を挙げて称え、人々は亡くなってからは祠を作って祭祀している。

九日に太政官処分が記されている。郡司の主政・主帳は太政官判断で任命される。令にその規定がある。一旦解任されると白丁(庶民)となり、郡司としての履歴は失効してしまい辛苦も多い。故に解任後も国府に出勤し、勤務を継続すること、としている。内外の散位は、雑徭を免除する。

<肥後味生池>
肥後味生池

和銅六年(713年)八月に筑後守に任じたと記載されていたが、近接する「肥後國」も治めさせていたようである・・・なるほど、もっともらしい表記なのだが・・・。

「肥後國」は書紀の持統天皇紀に肥後國皮石郡の記述があった。古事記の肥國(出雲國)との関係もあり、極めて捻じれた表記を行っていたが、現在の北九州市門司区伊川辺りと推定した。

筑後國(福津市)とは、全く離れた場所であり、兼務はあり得ない状況であろう。と言うことは、續紀が地名の再配置を含めて独自に記述している可能性が高い。

あらためて筑後國周辺の「肥」(山稜の端が丸く小高くなっている様)の地形を求めると、宗像市にある許斐山を示していることが解った。筑前國の南、筑後國の東に当たる地であって、勿論これまでに人物も含めて登場した例がない。續紀の「肥後國」はこの山の南麓の谷間と推定される。

味生池の既出の「味」=「口+未」=「山稜を区切る谷間がある様」とすると、味生池=山稜を区切る谷間に生え出た山稜の傍にある池と読み解ける。地図で確認される池かどうかは定かではないが、谷間に平たく広がった地に幾つかの池が確認される。

これまでに記紀を通じて重なる國名として伯耆國、大隅國、伊豫國があったが、それに肥後國が加わることになる。續紀編者がどのようにこれを纏め上げたのか、今暫く様子を伺うことにする。

五月甲午朔。日有蝕之。乙未。割越前國之羽咋。能登。鳳至。珠洲四郡。始置能登國。割上総國之平群。安房。朝夷。長狹四郡。置安房國。割陸奥國之石城。標葉。行方。宇太。曰理。常陸國之菊多六郡。置石城國。割白河。石背。會津。安積。信夫五郡。置石背國。割常陸國多珂郡之郷二百一十烟。名曰菊多郡。属石城國焉。庚子。土左國言。公私使直指土左。而其道經伊与國。行程迂遠。山谷險難。但阿波國。境土相接。往還甚易。請就此國。以爲通路。許之。甲辰。禁三關及大宰陸奥等國司傔仗取白丁。丙辰。遣新羅使等辞見。庚申。定衛士數。國別有差。癸亥。從四位上石上朝臣豊庭卒。

五月一日に日蝕があったと記している。二日に越前國の「羽咋・能登・鳳至・珠洲」の四郡を割いて初めて「能登國」としている。上総國の「平群・安房・朝夷・長狹」の四郡を割いて「安房國」としている。陸奥國の「石城・標葉・行方・宇太・曰理」及び常陸國の「菊多」の六郡を割いて「石城國」としている。また「白河・石背・會津・安積・信夫」の五郡を割いて「石背國」としている。常陸國「多珂郡」の郷二百十戸を割いて菊多郡と名付けて「石城國」に属させている。

七日に土左國が以下のように上申している。公私の使いは直接土左國に向かおうとしても官道は伊与國(伊豫國?…下記参照)を経由しており、行程は遠く、山や谷も険しく難儀である。ただ(境土)境にある地が阿波國とは(相接)よく付き合っており、往還は甚だ容易である。以上のことから阿波國を通る経路とされることを願う、と述べている。

十一日に三關(不破關・鈴鹿關・愛發關;こちら参照)及び大宰府・陸奥國等の傔仗(護衛)に白丁(庶民)を採用することを禁じている。二十三日、遣新羅使等が出発の暇乞いをしている。二十七日に衛士の員数を国別に決めている。三十日、石上朝臣豊庭(宇麻乃の子、麻呂の兄弟)が亡くなっている。

能登國:羽咋郡・能登郡・鳳至郡・珠洲郡

「越前國」の四つの郡を割いて能登國とした、と述べている。原文表記は「割越前國”之”羽咋。能登。鳳至。珠洲四郡。始置能登國」であり、○○國”之”△△郡・・・の構文である。”之”がなければ越前國を四つの郡に割ったと読むことになる。「能登」は、古事記の御眞木入日子印惠命(崇神天皇)の子、大入杵命が祖となった能登臣で出現した地であり、書紀が無視した地である。

<能登國>
古事記も若干の配慮をしたようで、直接的には述べないが、大帶日子淤斯呂和氣命(景行天皇)紀の倭建命に関わる記述に淡海之柴野入杵を登場させる。

「柴野入杵」(柴野にある杵のような様)は出雲の地形を示す最も特徴ある場所である。書紀は「淡海」と「出雲」とが繋がることを避けている。正に曰く因縁のある地を晴れて國として認知したようである。

鳳至郡鳳=凡+鳥=凡の形の谷間に鳥のような山稜が延びている様と読み解ける。至=尽きる様であり、図に示した谷間を表していると思われる。

羽咋郡の幾度か登場の羽咋=羽のように広がった地がギザギザとしている様と読み解ける。鳳至郡の東側の谷間と推定される。この谷間の出口は海であって、当時は広がった谷間の奥が居所だったと推測される。

珠洲郡は、その名の通り珠のような山稜の端が海に突き出たところと推定される。現在の東側の台地はおそらく大半が海面下であったと推測される。現地名の北九州市門司区猿喰の谷間を能登國としたと記載している。「猿喰新田潮抜き穴」と言う水門が有名な地でもある。過酷な環境を水田にした”倭族”の後裔達が住み着いた國だったと思われる。

安房國:平群郡・安房郡・朝夷郡・長狹郡

<上総安房國>
上総國安房郡は既に登場していた。大少領の父子兄弟での連任を申し出て、許された、と記載されていた。安房=山稜に囲まれて嫋やかに曲がる平らな尾根が広がった様と読み解き、現地名は北九州市門司区上吉田辺りと推定した。

この郡の近辺の郡を纏めて國にしたのであろう。朝夷郡の「朝」=「𠦝+月」=「山稜の端に挟まれて丸く区切られた様」と読み解いた。前出の人物、朝來直賀須夜に含まれていた文字である。

「夷」=「夷の文字形」と解釈した。蘇我蝦夷に含まれる。纏めると朝夷郡=夷の地形の上にある山稜の端に囲まれた丸く小高いところがある郡と読み解ける。安房郡の西側に隣接する場所と推定される。

長狹郡はそのまま読んで長い平らな山稜に挟まれたところの郡となろう。安房郡の北西側に隣接する場所であり、平群郡も既出と同じようにして平らな台地が寄せ集まったような郡と解釈される。北東側に隣接する郡と推定される。既に登場の紀伊國及び下野國と上総國の隙間がぴったりと埋まったようである。

石城國:石城郡・標葉郡・行方郡・宇太郡・曰理郡
常陸國:菊多郡・多珂郡            

陸奥國の石城郡は、その最も南側の高台が広がった地と思われる。現在の北九州市門司区吉志新町辺りである。地図から分かるように山稜の端を広大な団地にした場所であり、残念ながら当時の地形を伺うには些か困難を伴うようである。

<石城國>
陸奥國は、古事記では神倭伊波禮毘古命(神武天皇)の子、神八井耳命が祖となった道奥石城國造と記載されるだけであり、書紀及び續紀でこの地を出自に持つ幾人かが登場するが、「石城郡」は初登場となる(例えば陸奥國優𡺸曇郡など)。

当時は山稜の端であるが、未だ開拓されていなった地と推測したが、續紀が記述する時には郡別されていたようである。上記したように残念ながら当時を偲ぶことは叶わず、辛うじて石城郡らしき場所が推定されるに留まるようである。

隣國の常陸國の郡を割いているが、こちらは何とか求めることができそうである。菊多郡の「菊」=「艸+勹+米」と分解される。地形象形的には、菊=[ク]の形の山稜に囲まれた米粒のような地がある様と読み解ける。多=山稜の端とすると、図に示した場所を表していると思われる。古事記が「道」と表記したところである。

多珂郡は、その西側にある三角州()が二つ寄り集まった場所と思われる。珂=玉+可=谷間に玉のような地がある様と読み解けるが、そもそも珂=馬の轡(くつわ)と解説される。その形と見做したと解釈することもできそうである。東側の三角州を「菊多郡」に含ませ、それと併せて「石城國」に属させたと記述している。

石背國:白河郡・石背郡・會津郡・安積郡・信夫郡

「石背」は記紀を通じて初めて登場する文字列である。續紀編者が名付けた地であろう。ヒントは會津郡であり、古事記の相津を示していると思われる。但し「相」の文字を使っていない以上、そのものではないことも重要であろう。

<石背國>
すると現在の北九州市門司区猿喰の山稜の端が広がって海に突き出た場所を示していると思われる。
會津郡會津=水辺で筆のような山稜が寄り集まっているところと読める。図に示した山稜の形を「會」の文字形になっていると見做したと思われる。

信夫郡信夫=谷間の耕地が寄り集まっているところであり、「會津郡」の北側に当たる場所と推定される。白河郡の「白河」は少し慎重に読み解く必要がある。勿論「白い川」なんて表記はあり得ない。

「河」=「氵+可」=「谷間の出口が海に接する様」と読み解いた。書紀で幾度か用いられた表記である。白河=谷間の出口がくっ付いて海に接しているところと読み解ける。当時は図に示した台地の周辺は海面下であったと推測される。「信夫郡」の北側である。

安積郡安積=山稜に挟まれて嫋やかに曲がる谷間の傍らが積み上がっているとことと読める。白河郡の北に接する場所と推定される。石背郡は図に示した通りに石を背にしたところと思われる。「石背國」は短命で、また元の「陸奥國」に併合されるとのこと、上記の國もこの後に変遷を繰り返すようである。古事記では若狹國と表記された地と思われる。まだまだ地形象形表記であるが、さて、如何なる”変遷”だったのであろうか・・・。

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最後に「土左國」の上申内容について、些か捻じれた表記と思われる。「公私使直指土左」と原文に記載されるように、「土左國」に直入する場合は、西海道の航路(響灘)が伊与國の海上を通過する故に官道とされたのであろう。ところが南海道(洞海湾)を奥まで進めば行き着く地でもある。そちらを官道として認めてくれ、と述べていると読み取れる(こちら参照)。

伊与國の表記を用いたの何故であろうか?…与(ヨ)・予(ヨ)と読みが同じだから、ではないであろう。それぞれの文字が表す意味は、全く異なっているのである。「与」の旧字体は「與」であり、「互いに噛み合う様」を表す文字である。「予(豫)」は「横に延びて広がる様」を表す。古事記では「余(ヨ)」も用いられている(こちら参照)。

気紛れ気分で文字を選択しているのであろうか?…それは、決して、あり得ない。全て”イヨ”國の地形の側面を表しているのである。即ち、「伊与」は、土左國の北側に接する地、古事記で五百木(連なっている小高い地が交差するように並んでいるところ)と表記された場所を示していることが解る。「交差するような様」を「与」で表したことになる。

南海道への変更の根拠である「境土相接」を読み飛ばせば、通訳されるように、”国境が互いに接する國”ようになるが、上記のように解釈した。現在の四国の高知県・徳島県の配置を匂わすような表記に惑わされているのである。

地図を見れば、この二県の境界は「往還甚易」な地形ではなく、標高1,500m前後の峰が連なる山脈で幅60km以上の山岳地帯である(土佐山田から阿南市までの国道195号線では126km)。そもそも「土左國」は南海道で直入の國だった筈であろう。

いずれにしても奈良大和の平城宮を中心とした世界観に引き摺り込もうとした續紀編者の、ちょっとした戯れ、と思われる。いや、そんな大きな山岳地帯の地形を想像できなかったのかもしれない。ともあれ、逆に、土左國と阿波國は、高知県と徳島県ではないことを曝しているのである。

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<追記>

<石城國各郡>
石城國の現在の地形が大きく変化していることから、各郡の配置を求めることは叶わないように思われたが、国土地理院航空写真1945~50年を少し修正すると、辛うじてだが、各郡の場所と当て嵌めることができるようである。
北から・・・、

曰理郡曰理=谷間から延び出た山稜が区分けされているところ
宇太郡宇太=谷間に延びる山稜が広がっているところ
標葉郡標葉=ひらひらとした葉っぱのようなところ
行方郡行方=山稜が交差して四角く延びているところと読み解ける。

後に、再び陸奥國に属されたり、幾度かの変遷を経るようである。「曰理郡」は後の「亘理郡」とされている。そのうちに「宮城」の地名も登場するのかもしれない。







2021年6月20日日曜日

日本根子高端淨足姫天皇:元正天皇(6) 〔522〕

日本根子高端淨足姫天皇:元正天皇(6)


養老元年(西暦717年)十月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀1(直木考次郎他著)を参照。

冬十月戊寅。正三位阿倍朝臣宿奈麻呂。正四位下安八萬王。從四位下酒部王。坂合部王。智努王。御原王。百濟王良虞。中臣朝臣人足等。益封各有差。丁亥。以從四位下藤原朝臣房前參議朝政。

十月十二日に阿倍朝臣宿奈麻呂(少麻呂)安八萬王酒部王坂合部王智努王御原王百濟王良虞(郎虞)・中臣朝臣人足等の封戸をそれぞれ増やしている。二十一日、藤原朝臣房前を朝政に參議させている。

十一月丁酉朔。日有蝕之。甲辰。高麗百濟二國士卒。遭本國乱。投於聖化。朝庭憐其絶域。給復終身。」又遣唐使水手已上一房徭役咸免。」又九等戸以賎多少勿長。准財爲定矣。丙午。賜故左大臣從一位石上朝臣麻呂第。絁一百疋。絲四百絢。白綿一千斤。布二百端。癸丑。天皇臨軒。詔曰。朕以今年九月。到美濃國不破行宮。留連數日。因覽當耆郡多度山美泉。自盥手面。皮膚如滑。亦洗痛處。無不除愈。在朕之躬。甚有其驗。又就而飮浴之者。或白髪反黒。或頽髪更生。或闇目如明。自餘痼疾。咸皆平愈。昔聞。後漢光武時。醴泉出。飮之者。痼疾皆愈。符瑞書曰。醴泉者美泉。可以養老。盖水之精也。寔惟。美泉即合大瑞。朕雖庸虚。何違天貺。可大赦天下。改靈龜三年。爲養老元年。天下老人年八十已上。授位一階。若至五位。不在授限。百歳已上者。賜絁三疋。綿三屯。布四端。粟二石。九十已上者。絁二疋。綿二屯。布三端。粟一斛五斗。八十已上者。絁一疋。綿一屯。布二端。粟一石。僧尼亦准此例。孝子順孫。義夫節婦。表其門閭。終身勿事。鰥寡惸獨疾病之徒。不能自存者。量加賑恤。仍令長官親自慰問。加給湯藥。亡命山澤。挾藏兵器。百日不首。復罪如初。又美濃國司及當耆郡司等。加位一階。又復當耆郡來年調庸。餘郡庸。賜百官人物各有差。女官亦同。癸丑。授美濃守從四位下笠朝臣麻呂從四位上。介正六位下藤原朝臣麻呂從五位下。戊午。詔曰。國輸絹絁。貴賎有差。長短不等。或輸絹一丈九尺。或輸絁一丈一尺。長者直貴。短者直賎。事須安穩。理應均輸。絲有精麁。賦無貴賎。不可以一概。強貴賎之理。布雖有端。稍有不便。宜隨便用更定端限。所司宜量一丁輸物。作安穩條例。自今以後。宜蠲百姓副物及中男正調。其應供官主用料等物。所司宜支度年別用度。並隨郷土所出付國。役中男進。若中男不足者。即以折役雜徭。於是。太政官議奏精麁絹絁長短廣闊之法。語在格中。丁巳。車駕幸和泉離宮。免河内國今年調。賜國司祿有差。

十一月一日に日蝕があったと記している。八日に高麗・百濟の二國の士卒が祖国の戦乱に遭って天皇の德化に帰服している。朝廷は遠く離れていることを憐れんで租税を終身免除している。『白村江の敗戦』(663年)に関わる混乱期からおよそ半世紀を経ているが、十年間免除を終身にしたのであろう。

また遣唐使の水手以上の者の房戸(郷戸の下に設置された戸の単位、715~40年間)の徭役を減免している。また九等戸の賎民(奴婢)の多少と幼長を家財の場合に準じて定めている。十日に故石上朝臣麻呂の邸宅に絹・綿・麻など織物を授けている。

十七日に天皇は宮殿の庇近くに出御して以下のように詔されている。概略は、九月に美濃國不破の行宮に行き、逗留すること数日、當耆郡の多度山の美泉を観て、自ら手や顔を洗ったら皮膚が滑らかになった。また痛いところを洗うと全て除かれて癒えた。またこれを飲んだり浴びたりすると白髪が元のように黒くなったり、禿げた髪が生えたり、見えない者が見えるようになったり、不治の病が癒えたりしている。中国では光武帝の時代に「醴泉」を飲むと病気が治ったと言う故事もある。書によれば、醴泉は美泉であり、老人を養うことができる。水の精霊であろう、と記されている。考えれば美泉は大瑞に叶っている。故に靈龜三年を養老元年とする。

天下の老人で八十歳以上の者を進位一階とするが、五位未満とせよ。百歳以上、九十歳以上、八十歳以上に分けて、それぞれ絹・綿・麻・粟を与える。僧尼もまたこれに準じる。「孝子順孫、義夫節婦」は終身租税を免じる。「鰥寡惸獨疾病之徒」にはその状態に応じて物を与える。但し、山や沢に逃亡し、禁じられている兵器を持ち自首しない者は元通りに罰せよ、と述べている。

また、美濃國司及び當耆郡(多伎郡)の郡司等を進位一階とする。当郡の来年の調・庸を免除する。男女を問わず官人に、それぞれ物を授ける。美濃守の従四位下笠朝臣麻呂(尾張國守兼任)は従四位上を、介の正六位下藤原朝臣麻呂(萬里、藤原四家の京家)に従五位下を授ける。

二十二日に以下のように詔されている。概略は、諸國からの税である絹・絁は高価であったり、安値なものがあり、長短も様々である。賦課に高い安いの区別がない。布には端の規格があるが、他に転用するには不便であり、それを改定する条例を作成せよ、と述べている。今後は調の副物と中男(十七~二十歳の男子)の免除する。官と封戸の主に供する品物は、所管の官司があらかじめ年別に入用の物の予算を立てて、それぞれ郷土が産出する物に割り振り、それを中男を使役して進上するようにするが、中男の不足については雑徭(年六十日以下の力役)を流用せよ、と述べている。太政官が絹・絁それぞれの長さ・広さの規格を奏上している。

二十一日に和泉離宮(前出の珍努宮)に行幸されている。河内國の今年の調を免除し、國司に身分に応じて禄を授けている。

美濃國當耆郡多度山美泉
 
<美濃國當耆郡多度山美泉・養老>
「美泉」は、その美しさではなく「醴泉」の意味であった。書紀の持統天皇即位八年(694年)三月に近江國益須郡都賀山(京都郡苅田町下片島)の「醴泉」で疾病が癒えたと噂になり、大変な賑わいになったと記載されていた(こちらこちら参照)。

勿論関連者に進位と調役の免除(関連の地と人物はこちら)も同様に行われていた。これらの二つの場所は現在の貫山・水晶山山系の北と南に位置し、清水の湧き出る地であったと推測される。

「多度山美泉」の場所は既に求めたが、図を拡大して詳細を眺めると、窪んで広がった地の泉であることが確認される。地図では二つの池らしきところが見られるが、湧水の場所は御祖神社の南側と思われる。

養老

頻出の「養」=「羊+良」=「谷間がなだらかな様」と解釈する。養老=谷間がなだらかに海老のように曲がっているところと読み解ける。この泉から流れ出す川の流れがそれを示している。この山稜は美濃國と信濃國の境にあって概ね急峻な地形であるが、この場所のみに見られる穏やかな勾配の場所と思われる。

勿論「養老」は「老人を養う」と読み取れるが、「老いを養う」とすると、老いることは必然としても衰えないようにすると解釈される。言い換えれば若さを保つとも読み取れる。何とも奥ゆかしい表現となろう。元正天皇、才色兼備かも、である。”靈龜”のような即物的な元号は趣向に合わなかったようである。下記の、”若水”、”豊若権現”に掛かる表記でもある。

ところでこの段の初めに「到美濃國不破行宮。留數日」と記載されている。不破行宮(現在の朽網西にある朽網小学校辺りと推定)を拠点にして當耆郡多度山に出向いた、と読み取れる。地図上での距離を見積もると片道2km強であり、山道であること、醴泉をしっかりと堪能したとしても半日の行動であったと推測される。現在の不破と多度山とは40kmほど離れているが・・・。

十二月壬申。太政官處分。始授五位。及從外任遷京官者。會賜祿日。仍入賜例。丁亥。令美濃國。立春曉挹醴泉而貢於京都。爲醴酒也。

十二月七日に太政官処分が発令されている。初めて五位を授けられた者や、地方官で京官に遷任した者が禄を賜う日に出会ったならば、そのまま支給すること、とされている。二十二日、美濃國に命じて、立春の暁に醴泉を汲み、京都に貢進させている。醴酒(甘酒)を作るためである。

少し調べると最後の貢進は恒例化されて、”立春若水奉献”と呼ばれるようになったようである。また「美泉」は山から湧き出る清水だったとも記載されている(廣岡義隆「多度山美泉と田跡河の瀧」pdf_file)。辞書に依れば、”若水”とは、往古、立春の日に宮中の主水司から天皇に奉じた水と記載されている。

上図に示した地の情報は極めて少ないが、現在ではトレッキングルートの一つのようで、御祖神社の狛犬が有名とのことである。とあるブログに貫山林道を経て宇土林道に入り、御祖神社へ向かった時の写真の中に”豊若権現”と名付けられた大岩と清水が載せられている。多分、豊若=ゆたかな若水なのであろう。かつては、ひょっとしたら、近江國益須郡都賀山の醴泉のように賑わっていたのかもしれない。

ところで、「多度山美泉」であって「多度山醴泉」とは表記しない。都賀山醴泉は、見事な地形象形表記だったからである。同様に「美泉」も、立派に地形を表しているのである。きめ細かな記述であろう。もう少し、他にも気配って頂ければ・・・些か短くなったが、切が良いので・・・最後に、”養老”と”滝”とは、全く相容れない表現である。

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全くの余談であるが、通常の「多度山美泉」の解釈は、現在の岐阜県養老郡養老町にある渓谷にあったとされている。文化十一年(1814年)頃から「美泉」は”養老の滝”か”菊水泉”(現在の養老神社近隣)かの大論争が繰り広げられたそうである(養老町の歴史文化資源、また養老町教育委員会編の養老美泉を参照)。上記の廣岡氏の論説によれば湧水の”菊水泉”のようであるが、氏はそうとは断定していない。

勿論、養老町の資料は元正天皇紀の續紀の記述に基づいた論考なのであるが、いつの間にやら”多度山美泉”が”養老美泉”にすり替わっている。”醴泉”を、慎重に言葉を選んで”美泉”とした續紀も苦笑いかも、である。續紀には”養老美泉”の文字列は存在しない(前記の[521]参照)。

<養老と多度>
図に現在の養老山脈の地図を示した。濃尾平野の西に聳える山脈で鈴鹿山脈の北部と並行して延びる、なかなかユニークな独立した山塊である。

濃尾平野は、勿論当時は海面下であって、実に広大な入江になっていたと推測される。即ちこの山脈の東麓は海に面した急峻な地形をしていたことが解る。

この山脈の北側に「養老山」があり、ぐんと離れた南端に「多度山」が鎮座している。續紀の記述は、この二地点は同じ場所であることを、より正確には「多度山」の山腹に「美泉」があり、それから湧き出る清水を大瑞の”醴泉”と見做して、”老いを養う(養老)”の元号とした、と記載している。

”若さを保つ”と読むことができる”養老”とその「美泉」が出る地形とを重ねた、お見事な表記だと、上記で述べた。図に示した”養老”は、全く違った地形であり、ましてや大滝のある川が流れる渓谷ではあり得ない。”菊水泉”の場所もしかりであろう。

ならば「養老山」を何故「多度山」と命名しなかったのか?…上記の養老町の資料によれば、昔は「養老山」から南は全て「多度山」と呼んでいた、との言い伝えがあったとか…養老山脈の四分の三が多度山?…これもあり得ない話であろう。

更に興味深いのが、養老山脈が県境になっているかと単純に思いがちだが、現在の「養老山」は岐阜県(美濃國)、そして「多度山」は三重県(伊勢國)に属していることである。これでは”伊勢國多度山美泉”となってしまうのである。續紀はあくまで美濃國と主張している。大混乱なのだが、歴史学は黙しているだけであろう。もう少し、こましな地名割り振りができなかったのか?…と他人事ながら心配する有様である。

何故を繰り返していると、実に面白いことに気付かされた。現在の多度山の麓が、本貫の多度山(北九州市小倉南区朽網東、前記[521]参照)の山容と極めて類似した地形を示し、多度=山稜の広がった端を跨ぐように延びた山稜があるところが確認される。この地も記紀・續紀を通じての表記で、”立派な多度山”なのである。

現在の多度山周辺のかつての住人は、多度大社として大切にする全山御神体の山の名前を譲ることなど毛頭考えず、この山から以南は、美濃國から離脱し、伊勢國に属した、と憶測される。上記以上のバトルがあったのかもしれない。結局、元正天皇の「美濃國多度山美泉」を放棄したことになる。そして地形に基づく名称が残る、極めて希少な場所になったと思われる。

Wikipediaには元正天皇の段のことが記載されているが、全くの無神経さであろう。不破↔多度山美泉の距離が約40kmとなっては、あり得ないのである(不破↔養老の滝:約15km、これでも往復一泊二日所要)。宗像の邊津宮とは全く違った意味で、日本の”不動点”かもしれない。”多度”が地形象形しているなんて、わかりっこない、とお上もお許し下さったのであろう。

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『續日本紀』巻七巻尾



 

2021年6月16日水曜日

日本根子高端淨足姫天皇:元正天皇(5) 〔521〕

日本根子高端淨足姫天皇:元正天皇(5)


養老元年(西暦717年)五月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀1(直木考次郎他著)を参照。

五月辛丑日。制諸國織綾。以六丁成疋。丁未。令上総信濃二國始貢絁調。丙辰。詔曰。率土百姓。浮浪四方。規避課役。遂仕王臣。或望資人。或求得度。王臣不經本属。私自駈使。囑請國郡。遂成其志。因茲。流宕天下。不歸郷里。若有斯輩。輙私容止者。揆状科罪。並如律令。又依令。僧尼取年十六已下不輸庸調者聽爲童子。而非經國郡。不得輙取。又少丁已上。不須聽之。辛酉。以大計帳。四季帳。六年見丁帳。青苗簿。輸租帳等式。頒下於七道諸國。乙丑。以從四位下大伴宿祢男人爲長門守。

五月二日に諸國は綾を織るに当たって六人の正丁(二十一~六十歳の男子)が納める調の分を一疋と定めている。八日に上総・信濃の二國に命じて、初めて絁の調を納めさている。

十七日に以下のように詔されている。概略は、人民は四方に浮浪して課役を逃れ、挙句には何処かの王臣に仕えて資人になることを望んだり、得度(正式な僧)することを求めている。王臣の方は、本籍の役所を通さずに密かに使役し思い通りにしようとする。天下を流離って彼らを匿うならば律令の従って罰せよ、と述べている。また僧尼令によれば十六歳以下で庸・調を出さない者を童子(僧尼の従者)にすることが許されているが、國郡司の許可を得ずに行ってはならない。少丁(十七~二十歳の男子)以上にこのようなことを許してはならない、と述べている。

二十二日に大計帳(國別の戸数・口数などの帳簿)、四季帳(官人となって課役免除となった者の名簿、年四回)、六年見丁(正丁・次丁・少丁など課役対象者の名簿)、青苗簿(戸別の耕作状況の帳簿)、輸租帳(田租徴収帳)等の書式を七道諸國に頒布している。二十六日、大伴宿祢男人を長門守に任じている。

六月己巳朔。右京職言。素性仁斯一産三女。賜衣粮并乳母一人。自四月不雨。至于是月。
秋七月己未。加左右京職史生各四員。庚申。以沙門辨正爲少僧都。神叡爲律師。賜從五位下紀朝臣清人穀一百斛。優學士也。
八月庚午。正三位安倍朝臣宿奈麻呂言。正七位上他田臣萬呂。本系同族。實非異姓。追尋親道。理須改正。請賜安倍他田朝臣姓許之。甲戌。遣從五位下多治比眞人廣足於美濃國。造行宮。

六月一日に右京職が「素性仁斯」が三つ子の女子を産み、衣服・食料・乳母一人を与えている。四月より雨が降らず、この月まで続いている。

七月二十二日に左右京職に史生をそれぞれ四人加えている。二十三日、沙門辨正を少僧都に、神叡を律師に任じている。また紀朝臣清人に穀一百石を与えているが、學士として優れていたことによる、と記載している。

八月三日に安倍朝臣宿奈麻呂(阿倍、少麻呂)が「他田臣萬呂」は本来は同族であり、姓を元に戻されるべき、と言上し、許されて「安倍他田朝臣姓」を賜っている。七日、多治比眞人廣足(廣成に併記)を美濃國に遣わし、行宮を造らせている。

<素性仁斯>
● 素性仁斯

「右京」の地で、この四文字の地形を求めることになるが、前記の支半于刀と同様な出自かと思われる。暈繝色の染色物を献上していた。そして一文字一文字が示す地形が合わさったものであろう。

「素」とくれば稲羽の素菟を思い浮かばせるが、やはりこの文字が示す地形を確認しておこう。「素」の文字解釈は簡単ではないようだが、「素」=「垂+糸」と分解するのが適切なようである。

地形象形的には「垂」=「山稜が谷間に挟まれて長く延びる様」と読み解ける。「性」=「心+生」=「中心で生え出た様」、既出の「仁」=「人+二」=「谷間が二つ並んでいる様」、「斯」=「其+斤」=「切り分けられた様」と解釈した。

これらを纏めると素性仁斯=谷間に挟まれた山稜(素)が中心に延びて(性)谷間が二つ並んでいる地(仁)を切り分けた(斯)ところと読み解ける。図に示したように四つの谷間が並んでいる場所であり、その中央にある山稜の端が出自と述べている。やはり「支半于刀」と同じように居場所の地形を忠実に表記していることが解る。

<他田臣萬呂>
● 他田臣萬呂

和銅五年(712年)十一月の記事に「阿倍朝臣宿奈麻呂が引田朝臣邇閇・引田朝臣東人・引田朝臣船人・久努朝臣御田次・長田朝臣太麻呂・長田朝臣多祁留の六人を同じ理由で”阿倍朝臣”姓に戻すように言上し、許された」と記載されていた。

その延長であろうが、今回賜ったのは「安倍他田朝臣」姓であって、微妙な関係が伺われる。かつても少し述べたように故あって分れていたのであろうから、時が解決していなければ、なかなか元の鞘に戻るのにも障害はあったであろう。「宿奈麻呂」の強引さが見え隠れするところであろう。

ともあれ、この人物の出自の場所は、かなり明確で、図に示した谷間と推定される。名前が「萬呂」であり、蠍の形をした山稜の麓辺りと思われる。西海の脅威が大きくならず、『壬申の乱』以後、皇位継承の小規模の波乱はあったとしても、安泰な雰囲気の中で、特に派閥抗争の布石が敷かれつつあったのであろう。

九月癸夘。從五位上臺忌寸少麻呂言。因居命氏。從來恒例。是以河内忌寸因邑被氏。其類不一。請少麻呂率諸子弟。改換臺氏。蒙賜岡本姓。許之。丁未。天皇行幸美濃國。戊申。行至近江國。觀望淡海。山陰道伯耆以來。山陽道備後以來。南海道讃岐以來。諸國司等詣行在所。奏土風歌舞。甲寅。至美濃國。東海道相摸以來。東山道信濃以來。北陸道越中以來。諸國司等詣行在所。奏風俗之雜伎。丙辰。幸當耆郡。覽多度山美泉。賜從駕五位已上物。各有差。戊午。賜從駕主典已上。及美濃國司等物有差。郡領已下。雜色卌一人。進位一階。又免不破當耆二郡今年田租。及方縣。務義二郡百姓供行宮者租。癸亥。還至近江國。賜從駕五位已上及近江國司等物各有差。郡領已下。雜色卌餘人。進位一階。又免志我。依智二郡今年田租。及供行宮百姓之租。甲子。車駕還宮。

九月七日に臺忌寸少麻呂(宿奈麻呂)が以下のように言上している。居住地に基づいて氏名を付けることは従来からの恒例となっている。例えば河内忌寸は村の名によって氏名を貰っている。そのような例は一つではなく、そこで私の子弟と共に「臺」の氏を改めて「岡本」の姓を賜りたい、と述べ、許されている。

十一日に美濃國に行幸されている。十二日に近江國に至り、淡海を觀望(景色などを遠く広く見渡すこと)されている。「山陰道伯耆」・山陽道備後・南海道讃岐が”以來(集団で来て)”、諸國司等が行在所(仮の住居)に参上し、その地の歌や舞いを奏上している。

十八日に美濃國に至っている。東海道相摸・東山道信濃・北陸道越中が”集団で来て”、諸國司等が行在所に参上し、それぞれの演技を奏上している。二十日、「當耆郡」に行幸し、「多度山美泉」を天覧されている。従者の五位以上の者にそれぞれ物を与えている。

二十二日に従者の主典以上、及び美濃國司等にそれぞれ物を与えている。郡領以下、雑色四十一人を進位一階している。また不破・當耆の二郡の今年の田租を免じ、「方縣」・「務義」の二郡の百姓で行宮に供奉した者の租を免じている。

二十七日に帰還する途中に近江國に至り、従者の五位以上の者及び近江國司等にそれぞれ物を与えている。郡領以下、雑色四十余人を進位一階している。また「志我」・「依智」の二郡の今年の田租、百姓で行宮に供奉した者の租を免じている。二十八日に帰還されている。

<山陰道伯耆國>
山陰道伯耆國

伯耆國は因幡國(書紀の因播國)の隣、現在の宗像市田野辺りと推定した。湯川山の南麓の谷間の地形を表わした名称である。

また筑紫七國の一國であり、日向國、筑前國・筑後國など「西海道」に属すると解釈して来た。

それがここでは「山陰道」に属すると記載されている。この道が出雲國に繋がる道である・・・その通りであって何の矛盾もない・・・ではなかろう。結論から言えば、伯耆國と表記される地が二つあったのである。

出雲國の西側に隣接する國の図を示した通り、これらの地の地形的類似は見事である。更に付け加えれば、書紀の天武天皇紀に伯耆造が登場する。現地名京都郡みやこ町犀川崎山辺りと推定した場所もある。固有の名称と解釈しては、混乱するだけ、いや、そうなるように記載されているのである。

古事記では伯伎國と記載されていた。筑紫國の別名表記である。「筑紫國謂白日別」に通じる表現であり、「山陰道伯耆國」が本家本元の伯耆國だったのである。古事記以外の編者達にとって出雲と筑紫が隣接することに最も神経を尖らせたわけである。

前出の大隅國、伊豫國に続く複数の地に付けられた名称と思われる。繰り返すが、固有の地名ではなく、類似の地形の場所であることを示している。嘘は書かないが、それによって曖昧な表現となることを目論んだ結果であろう。尚、この段で「以来」の表記が用いられている。何となくその地からこちらに向かう全てを含むように読んでしまうが、上記したような解釈とした。

<美濃國:當耆郡・多度山>
美濃國:當耆郡・多度山

前出の多伎郡の別名であろう。多伎=山稜の端が谷間で岐れている様から現在の北九州市小倉南区朽網東辺りと推定した。

當=向+八+田=同じように分かれて広がる様耆=老+日=海老のように曲がって炎の形をしている様と読み解いた。

確かに「多伎」の単純な表現ではなく、より詳細に地形を表していることが解る。特に「耆」が示す地形が重要な意味を持っているのである。

「多度」は如何に解釈されるであろうか?…「多伎」にあるのだから”多伎山”で良さそうなのだが、そうは言わず、「度」に置き換えている。

「度」=「广+廿+又」に分解される。皮革を敷物にするため寸法を測る様を表すと文字と知られる。「度」は、「廿」に注目して「皮を広げた様」を表す解釈されるが、本来は「広げたものを測る様」であり、地形象形的には「広がった地を跨いで渡る様」と解釈される。

すると、多度山=山稜の広がった端を跨ぐように延びた山稜がある山と読み解ける。「耆」の片割れがその役割を果たしていることが解る。他の情報からこの場所であることが推定されているから読み解けるが、少々骨の折れる表記かと思われる。古事記では若倭根子日子大毘毘命(開化天皇)の孫、神大根王が祖となった長幡部連の場所と記載されていた地である。由緒ある地だったわけである。

美泉

美泉があったと言う。山の中腹ある御祖神社の近くに二つの泉が地図に記載されている。Google Mapと言えども林道の奥にある場所まではViewがないようで、確認できないが、美泉=谷間に広がる泉、いや、本当に美しかったのであろう。そして、これが元号「養老」の所以となるようである。一目で地形象形していることが解るが、ご登場の際としよう。

大寶二年(702年)に「美濃國多伎郡」の民七百十六人を近江國蒲生郡に遷したと記載されている。それ以前にも百濟からの帰化人を大挙入植させてもいる。古い地から新しい地の開拓を積極的に行ったのであろう。”淡海”に面する過酷な地を公地にすることは極めて重要な課題だったと思われる。

<美濃國:方縣郡・務義郡>
美濃國:方縣郡・務義郡

記紀に登場していたと思われる務義郡から読み解いてみよう。書紀では「身毛君」の出自の場所と思われる。古事記では「牟宜都君」と記載されている。三野國に関わる地である(こちら参照)。

「身毛」及び「牟宜」の別名表記であろう。務=敄+力=矛のような山稜が太く延びる様義=羊+我=谷間の山稜がギザギザと突き出ている様と解釈される。

記紀の表現よりも更に詳細を表したものと思われるが、「義」はそれなりに認められるが、「務」は些か地形の変化が大きく、定かではない。間違いはないとして、図に示した場所としておこう。

方縣=四角く区切られた地が山稜にぶら下っているような様と読み解ける。大野郡の山稜から延びた場所と推定される。現在の行政区分はこの辺りから京都郡苅田町に属している。ともかくも古代の美濃國は広大であったようである。『壬申の乱』では、和蹔と記載された地があった場所である。

<近江國:志我郡・依智郡>
近江國:志我郡・依智郡

淡海に面した場所であろう。既に蒲生郡が登場していて現在の京都郡苅田町新津辺りと推定した。ならばあまり選択の余地はなく、この二郡はその北側に隣接していたのであろう。

依智郡依=人+衣=谷間にある山稜の端の三角の地、及び頻出の智=矢+口+日=鏃と炎の地形がある様と解釈して来た。「鏃」は難なく見出せるが、「日(炎)」は何処を示しているのか、暫し彷徨ったが、結果は図に示したような解釈となった。

現在の標高10m以下を青く表示するとこの地の海岸線が如何に複雑に入り組んでいたかを推測することができる。故に”淡海”(水が炎ような様)と言うのである。そしてこの地の「智」に重ねられていることが解る。何度も述べたように”淡水の海”のような矛盾する表記は、決して行われていないのである。

志我郡に含まれる頻出の志=蛇行する川であり、記紀・續紀を通じて用いられている文字である。我=ギザギザとした様であるが、それは互いに向きの異なるものが交差して生じる様である。「我」=「吾(五+口)」であり、「五」=「交差する様」そのものを表す文字である。

和銅六年(713年)十一月の記事に近江國が木連理十二株を献上したと記載されていた。山稜に十二の枝山稜(谷間は十一)が並んでいる様を表していると読み解いた。再度眺めると山稜が弓なりに曲がっていることが判る。即ち谷間から流れる川は幾重にも交差するように海に注ぐのである。示した図では一部にその様相が伺えるが、より詳細に眺めると全域に亘ってその様子が確認される。「木連理十二株」の谷間の特徴を見事に表現していると思われる。

ところで、行きも帰りも平城宮から近江國の行程は一日だ、と記載している。帰りならば、「近江國志我郡」の海辺で乗船し、近江大津で上陸後(半日)、前記の竹原井頓宮のルート(半日)を通れば宮に帰り着く。もしくは山背國まで川を遡って上陸するルートもあり得るであろう。総距離約30km、若い天皇にとっては苦にならなかった、かもしれない。いずれにしても一日の行程であることが分かる。独身で美人の天皇、何とも艶やかな道行き、だったのであろう。