2021年6月24日木曜日

日本根子高端淨足姫天皇:元正天皇(7) 〔523〕

日本根子高端淨足姫天皇:元正天皇(7)


養老二年(西暦718年)正月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀1(直木考次郎他著)を参照。

二年春正月庚子。詔授二品舍人親王一品。從四位上廣湍王正四位下。無位大井王從五位下。從四位下忌部宿祢子人。阿倍朝臣廣庭並從四位上。正五位下賀茂朝臣吉備麻呂從四位下。正五位下穗積朝臣老。紀朝臣男人並正五位上。從五位上道君首名正五位下。正六位上坂合部宿祢賀佐麻呂。久米朝臣三阿麻呂。當麻眞人東人。高橋朝臣安麻呂。巨勢朝臣足人。縣犬養宿祢石足。大伴宿祢首。村國連志賀麻呂。王仲文並從五位下。

正月五日に舍人親王に一品、廣湍王(廣瀬王)に正四位下、「大井王」に從五位下、忌部宿祢子人(首)・阿倍朝臣廣庭(首名に併記)に從四位上、賀茂朝臣吉備麻呂(鴨朝臣吉備麻呂)に從四位下、穗積朝臣老紀朝臣男人に正五位上、道君首名(道公首名)に正五位下、「坂合部宿祢賀佐麻呂」・久米朝臣三阿麻呂(尾張麻呂に併記)・當麻眞人東人高橋朝臣安麻呂(若麻呂、父親笠間に併記)・「巨勢朝臣足人」・「縣犬養宿祢石足」・大伴宿祢首(山守に併記)・村國連志賀麻呂(志我麻呂、等志賣に併記)・「王仲文」に從五位下を授けている。

<大井王>
● 大井王

系譜は全く見当たらず、である。無位から従五位下の叙位とのことだから天武天皇の孫でもなさそうである。名前の「大井」も特定するには難しい有様である。

がしかし、「大井」の名称は書紀の『壬申の乱』で登場していた。「倭京」の攻防の際、西から攻める近江軍と東からの吹負軍の激闘があった場所で、吹負軍が劣勢の時に矢を放って加勢したのが「大井寺」の奴、德麻呂等であった(こちら参照)。

結果的には三輪君高市麻呂・置始連菟が率いる味方の一隊が敵の背後に到着し、勝利したと記載されていた。

書紀編者が渾身の力を込めて捻くり回した表記を行った場面である。懐かしさに溺れそうであるが、その「大井寺」の場所を出自としていたのではなかろうか。山稜の端で大井=平らな頂で四角く取り囲まれた地である。後に同名の王が登場されるようだが、詳細はその時とする。

<坂合部宿禰賀佐麻呂>
● 坂合部宿祢賀佐麻呂

「坂合部宿禰」の出自の場所は現在の直方市下境辺りと推定した。「境」=「坂合(山稜の端が出合うところ)」である。決して”境界”の意味を表わすのではないが、結果として山稜がぶつかれば境となっても不思議ではない、と言う表現である。

名前の賀佐麻呂は、既に出現していて例えば佐味朝臣賀佐麻呂が登場していた。勿論、類似の地形をしている筈である。

賀佐=押し広げられた谷間にある左手のような山稜が延びているところと読み解いた。「坂合部」の登場人物は極めて多いが、その中に「大分」、「三田麻呂」があり(こちら参照)、彼らの近傍で「賀佐」の地形を求めると、図に示した場所辺りと推定される。

登場人物間の系譜は殆ど知られていないようで、やはり、大臣クラスが出現しないと記録は残されなかったのかもしれない。「賀佐麻呂」も正六位上からの叙位だから、そもそもそれなりの出自であったと思われる。

<巨勢朝臣足人>
● 巨勢朝臣足人

この人物も系譜が知られていないようで、名前だけで出自の場所を求めることになる。「巨勢朝臣」も人材輩出の地であって、大臣も含めて主要な人物も出現している。

また現在の直方市頓野(大字)も長く広がった地域であって、本来は系譜が分からないとなかなかに面倒な作業になることもある。

ただこの人物の足=山稜が長くなだらかに延びた様であることから、遠賀川・彦山川の合流域に限りなく近い場所と推測される。人=谷間とすると、小ぶりではあるが、現在の西尾神社の南側の谷間を示していると思われる。前出の巨勢朝臣馬飼の西隣となる。中納言の「麻(萬)呂」が前年に亡くなっているが、関係ありそうな感じでもある。

こうしてそれぞれの配置が求まって来ると、近津神社辺りがすっぽりと空いているように見える。この地は古事記の大倭根子日子國玖琉命(孝元天皇)の輕之堺原宮があった場所と推定した。”天領”には足を踏み入れることはなかった・・・この宮の場所の確からしさが高まった、かもしれない。

<縣犬養宿禰石足>
● 縣犬養宿祢石足

「縣犬養」一族については、前記で縣犬養橘宿祢三千代が登場して、全体を示したつもりであったが(こちら参照)、更なる人物の出現である。

どうやら二系統があるようで、「三千代」とは別系統かと思いきや、この人物の系譜はどうも定かでないようである。と言うことは、詳細が分かっていない系統、即ち「三千代」とは谷間を挟んで反対側の地が出自の場所だったのではなかろうか。

石足=山麓の台地が長くなだらかに延びた様であり、それらしき場所が「広刀自」の南隣に見出せる。なだらかさに些か欠けるようだが、正に「足」のような山稜と見做すことができるかと思われる。「犬養」の中心の谷間から少々外れたようにも見える地は、また別系統の一族が住まっていたのかもしれない。

● 王仲文

調べると、高句麗を由来とする渡来人であり、後に陰陽に優れる者として褒賞に与ったと伝えられている。”倭風”の氏名を持たなかったのであろう。後に武藏國高麗郡に入植された一族として背奈公行文が登場する。仲文が地形象形しているとして読み解いた結果を「行文」に併記した。

二月壬申。行幸美濃國醴泉。甲申。從駕百寮。至于輿丁。賜絁布錢有差。己丑。行所經至。美濃。尾張。伊賀。伊勢等國郡司及外散位已上。授位賜祿各有差。

二月七日に美濃國醴泉(多度山美泉)に行幸されている。十九日、従者の官人から輿を担ぐ者までにそれぞれ絁・麻布・銭を与えている。二十四日に経路の美濃・尾張・伊賀・伊勢等の國郡司、外散位以上の者にそれぞれ進位・禄を授けている。

今回の行程は西回りとなろう。『壬申の乱』の天武天皇の逃亡ルートである。勿論到着地点は尾張國を経て美濃國不破となる(こちら参照)。通説は、伊賀國、伊勢國はともかく、この尾張國経由が腑に落ちないらしく、前記の養老町の資料では、尾張國も出迎えたのであろう、と記載されている。

木曽三川の対岸の國が出迎えるとは?…やはり腑に落ちていない。更に当時の海面を考慮すると、養老山脈から現在の熱田神宮辺りまで入江であって(東海道五十三次:桑名宿~宮宿間七里の渡)、尾張國はその東側に位置し、今回の行程とは無縁であり、とても隣国とは言えない地形だった思われる。

書紀ならば、当然、尾張國は抹消であろう。『壬申の乱』の時も伊勢國桑名を登場させるが、尾張國からの寝返りなどの記述は行っても、行程上はそれを飛ばして美濃國不破となる。伊勢國と美濃國の間に尾張國があっては不都合だからである。續紀は、もう小賢しい記述は止めにしよう、なのであろう。

三月戊戌。車駕自美濃至。乙巳。以正三位長屋王。安倍朝臣宿奈麻呂並爲大納言。從三位多治比眞人池守。從四位上巨勢朝臣祖父。大伴宿祢旅人並爲中納言。乙夘。以少納言正五位下小野朝臣馬養。爲遣新羅大使。

三月三日に美濃より帰還されている。十日に長屋王安倍朝臣宿奈麻呂を大納言に、多治比眞人池守巨勢朝臣祖父(邑治)・大伴宿祢旅人を中納言に任じている。二十日、少納言の小野朝臣馬養を遣新羅大使に任じている。

夏四月乙丑朔。從四位下佐伯宿祢百足卒。乙亥。筑後守正五位下道君首名卒。首名少治律令。曉習吏職。和銅末。出爲筑後守。兼治肥後國。勸人生業。爲制條。教耕營。頃畝樹菓菜。下及鶏肫。皆有章程。曲盡事宜。既而時案行。如有不遵教者。隨加勘當。始者老少竊怨罵之。及收其實。莫不悦服。一兩年間。國中化之。又興築陂池。以廣漑潅。肥後味生池。及筑後往往陂池皆是也。由是。人蒙其利。于今温給。皆首名之力焉。故言吏事者。咸以爲稱首。及卒百姓祠之。癸酉。太政官處分。凡主政主帳者。官之判補。出身灼然。而以理解任更從白丁。前勞徒廢。後苦實多。於義商量。甚違道理。宜依出身之法。雖解見任。猶上國府。令續其勞。内外散位。仍免雜徭。

四月一日に佐伯宿祢百足が亡くなっている。十一日に道君首名(道公首名)が亡くなっている。この人物の事績が詳細に述べられている。概略は、若くして律令を習得し、官吏の職務に熟練した。和銅末年に筑後守に出向し、「肥後國」の統治も兼務した。民に生業を奨励し、農作業を教えて耕地には果物、野菜を植えさせた。また鶏・豚の飼育方法も規程を作り実に適切なものであった。初めは人々は抵抗があったが成果が上がるにつれ、一、二年もすると従うようになった、と記している。灌漑も行い、肥後の「味生池」や筑後の処々の堤池は首名が造ったものである。官人の職務について論じる者は彼の名前を挙げて称え、人々は亡くなってからは祠を作って祭祀している。

九日に太政官処分が記されている。郡司の主政・主帳は太政官判断で任命される。令にその規定がある。一旦解任されると白丁(庶民)となり、郡司としての履歴は失効してしまい辛苦も多い。故に解任後も国府に出勤し、勤務を継続すること、としている。内外の散位は、雑徭を免除する。

<肥後味生池>
肥後味生池

和銅六年(713年)八月に筑後守に任じたと記載されていたが、近接する「肥後國」も治めさせていたようである・・・なるほど、もっともらしい表記なのだが・・・。

「肥後國」は書紀の持統天皇紀に肥後國皮石郡の記述があった。古事記の肥國(出雲國)との関係もあり、極めて捻じれた表記を行っていたが、現在の北九州市門司区伊川辺りと推定した。

筑後國(福津市)とは、全く離れた場所であり、兼務はあり得ない状況であろう。と言うことは、續紀が地名の再配置を含めて独自に記述している可能性が高い。

あらためて筑後國周辺の「肥」(山稜の端が丸く小高くなっている様)の地形を求めると、宗像市にある許斐山を示していることが解った。筑前國の南、筑後國の東に当たる地であって、勿論これまでに人物も含めて登場した例がない。續紀の「肥後國」はこの山の南麓の谷間と推定される。

味生池の既出の「味」=「口+未」=「山稜を区切る谷間がある様」とすると、味生池=山稜を区切る谷間に生え出た山稜の傍にある池と読み解ける。地図で確認される池かどうかは定かではないが、谷間に平たく広がった地に幾つかの池が確認される。

これまでに記紀を通じて重なる國名として伯耆國、大隅國、伊豫國があったが、それに肥後國が加わることになる。續紀編者がどのようにこれを纏め上げたのか、今暫く様子を伺うことにする。

五月甲午朔。日有蝕之。乙未。割越前國之羽咋。能登。鳳至。珠洲四郡。始置能登國。割上総國之平群。安房。朝夷。長狹四郡。置安房國。割陸奥國之石城。標葉。行方。宇太。曰理。常陸國之菊多六郡。置石城國。割白河。石背。會津。安積。信夫五郡。置石背國。割常陸國多珂郡之郷二百一十烟。名曰菊多郡。属石城國焉。庚子。土左國言。公私使直指土左。而其道經伊与國。行程迂遠。山谷險難。但阿波國。境土相接。往還甚易。請就此國。以爲通路。許之。甲辰。禁三關及大宰陸奥等國司傔仗取白丁。丙辰。遣新羅使等辞見。庚申。定衛士數。國別有差。癸亥。從四位上石上朝臣豊庭卒。

五月一日に日蝕があったと記している。二日に越前國の「羽咋・能登・鳳至・珠洲」の四郡を割いて初めて「能登國」としている。上総國の「平群・安房・朝夷・長狹」の四郡を割いて「安房國」としている。陸奥國の「石城・標葉・行方・宇太・曰理」及び常陸國の「菊多」の六郡を割いて「石城國」としている。また「白河・石背・會津・安積・信夫」の五郡を割いて「石背國」としている。常陸國「多珂郡」の郷二百十戸を割いて菊多郡と名付けて「石城國」に属させている。

七日に土左國が以下のように上申している。公私の使いは直接土左國に向かおうとしても官道は伊与國(伊豫國?…下記参照)を経由しており、行程は遠く、山や谷も険しく難儀である。ただ(境土)境にある地が阿波國とは(相接)よく付き合っており、往還は甚だ容易である。以上のことから阿波國を通る経路とされることを願う、と述べている。

十一日に三關(不破關・鈴鹿關・愛發關;こちら参照)及び大宰府・陸奥國等の傔仗(護衛)に白丁(庶民)を採用することを禁じている。二十三日、遣新羅使等が出発の暇乞いをしている。二十七日に衛士の員数を国別に決めている。三十日、石上朝臣豊庭(宇麻乃の子、麻呂の兄弟)が亡くなっている。

能登國:羽咋郡・能登郡・鳳至郡・珠洲郡

「越前國」の四つの郡を割いて能登國とした、と述べている。原文表記は「割越前國”之”羽咋。能登。鳳至。珠洲四郡。始置能登國」であり、○○國”之”△△郡・・・の構文である。”之”がなければ越前國を四つの郡に割ったと読むことになる。「能登」は、古事記の御眞木入日子印惠命(崇神天皇)の子、大入杵命が祖となった能登臣で出現した地であり、書紀が無視した地である。

<能登國>
古事記も若干の配慮をしたようで、直接的には述べないが、大帶日子淤斯呂和氣命(景行天皇)紀の倭建命に関わる記述に淡海之柴野入杵を登場させる。

「柴野入杵」(柴野にある杵のような様)は出雲の地形を示す最も特徴ある場所である。書紀は「淡海」と「出雲」とが繋がることを避けている。正に曰く因縁のある地を晴れて國として認知したようである。

鳳至郡鳳=凡+鳥=凡の形の谷間に鳥のような山稜が延びている様と読み解ける。至=尽きる様であり、図に示した谷間を表していると思われる。

羽咋郡の幾度か登場の羽咋=羽のように広がった地がギザギザとしている様と読み解ける。鳳至郡の東側の谷間と推定される。この谷間の出口は海であって、当時は広がった谷間の奥が居所だったと推測される。

珠洲郡は、その名の通り珠のような山稜の端が海に突き出たところと推定される。現在の東側の台地はおそらく大半が海面下であったと推測される。現地名の北九州市門司区猿喰の谷間を能登國としたと記載している。「猿喰新田潮抜き穴」と言う水門が有名な地でもある。過酷な環境を水田にした”倭族”の後裔達が住み着いた國だったと思われる。

安房國:平群郡・安房郡・朝夷郡・長狹郡

<上総安房國>
上総國安房郡は既に登場していた。大少領の父子兄弟での連任を申し出て、許された、と記載されていた。安房=山稜に囲まれて嫋やかに曲がる平らな尾根が広がった様と読み解き、現地名は北九州市門司区上吉田辺りと推定した。

この郡の近辺の郡を纏めて國にしたのであろう。朝夷郡の「朝」=「𠦝+月」=「山稜の端に挟まれて丸く区切られた様」と読み解いた。前出の人物、朝來直賀須夜に含まれていた文字である。

「夷」=「夷の文字形」と解釈した。蘇我蝦夷に含まれる。纏めると朝夷郡=夷の地形の上にある山稜の端に囲まれた丸く小高いところがある郡と読み解ける。安房郡の西側に隣接する場所と推定される。

長狹郡はそのまま読んで長い平らな山稜に挟まれたところの郡となろう。安房郡の北西側に隣接する場所であり、平群郡も既出と同じようにして平らな台地が寄せ集まったような郡と解釈される。北東側に隣接する郡と推定される。既に登場の紀伊國及び下野國と上総國の隙間がぴったりと埋まったようである。

石城國:石城郡・標葉郡・行方郡・宇太郡・曰理郡
常陸國:菊多郡・多珂郡            

陸奥國の石城郡は、その最も南側の高台が広がった地と思われる。現在の北九州市門司区吉志新町辺りである。地図から分かるように山稜の端を広大な団地にした場所であり、残念ながら当時の地形を伺うには些か困難を伴うようである。

<石城國>
陸奥國は、古事記では神倭伊波禮毘古命(神武天皇)の子、神八井耳命が祖となった道奥石城國造と記載されるだけであり、書紀及び續紀でこの地を出自に持つ幾人かが登場するが、「石城郡」は初登場となる(例えば陸奥國優𡺸曇郡など)。

当時は山稜の端であるが、未だ開拓されていなった地と推測したが、續紀が記述する時には郡別されていたようである。上記したように残念ながら当時を偲ぶことは叶わず、辛うじて石城郡らしき場所が推定されるに留まるようである。

隣國の常陸國の郡を割いているが、こちらは何とか求めることができそうである。菊多郡の「菊」=「艸+勹+米」と分解される。地形象形的には、菊=[ク]の形の山稜に囲まれた米粒のような地がある様と読み解ける。多=山稜の端とすると、図に示した場所を表していると思われる。古事記が「道」と表記したところである。

多珂郡は、その西側にある三角州()が二つ寄り集まった場所と思われる。珂=玉+可=谷間に玉のような地がある様と読み解けるが、そもそも珂=馬の轡(くつわ)と解説される。その形と見做したと解釈することもできそうである。東側の三角州を「菊多郡」に含ませ、それと併せて「石城國」に属させたと記述している。

石背國:白河郡・石背郡・會津郡・安積郡・信夫郡

「石背」は記紀を通じて初めて登場する文字列である。續紀編者が名付けた地であろう。ヒントは會津郡であり、古事記の相津を示していると思われる。但し「相」の文字を使っていない以上、そのものではないことも重要であろう。

<石背國>
すると現在の北九州市門司区猿喰の山稜の端が広がって海に突き出た場所を示していると思われる。
會津郡會津=水辺で筆のような山稜が寄り集まっているところと読める。図に示した山稜の形を「會」の文字形になっていると見做したと思われる。

信夫郡信夫=谷間の耕地が寄り集まっているところであり、「會津郡」の北側に当たる場所と推定される。白河郡の「白河」は少し慎重に読み解く必要がある。勿論「白い川」なんて表記はあり得ない。

「河」=「氵+可」=「谷間の出口が海に接する様」と読み解いた。書紀で幾度か用いられた表記である。白河=谷間の出口がくっ付いて海に接しているところと読み解ける。当時は図に示した台地の周辺は海面下であったと推測される。「信夫郡」の北側である。

安積郡安積=山稜に挟まれて嫋やかに曲がる谷間の傍らが積み上がっているとことと読める。白河郡の北に接する場所と推定される。石背郡は図に示した通りに石を背にしたところと思われる。「石背國」は短命で、また元の「陸奥國」に併合されるとのこと、上記の國もこの後に変遷を繰り返すようである。古事記では若狹國と表記された地と思われる。まだまだ地形象形表記であるが、さて、如何なる”変遷”だったのであろうか・・・。

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最後に「土左國」の上申内容について、些か捻じれた表記と思われる。「公私使直指土左」と原文に記載されるように、「土左國」に直入する場合は、西海道の航路(響灘)が伊与國の海上を通過する故に官道とされたのであろう。ところが南海道(洞海湾)を奥まで進めば行き着く地でもある。そちらを官道として認めてくれ、と述べていると読み取れる(こちら参照)。

伊与國の表記を用いたの何故であろうか?…与(ヨ)・予(ヨ)と読みが同じだから、ではないであろう。それぞれの文字が表す意味は、全く異なっているのである。「与」の旧字体は「與」であり、「互いに噛み合う様」を表す文字である。「予(豫)」は「横に延びて広がる様」を表す。古事記では「余(ヨ)」も用いられている(こちら参照)。

気紛れ気分で文字を選択しているのであろうか?…それは、決して、あり得ない。全て”イヨ”國の地形の側面を表しているのである。即ち、「伊与」は、土左國の北側に接する地、古事記で五百木(連なっている小高い地が交差するように並んでいるところ)と表記された場所を示していることが解る。「交差するような様」を「与」で表したことになる。

南海道への変更の根拠である「境土相接」を読み飛ばせば、通訳されるように、”国境が互いに接する國”ようになるが、上記のように解釈した。現在の四国の高知県・徳島県の配置を匂わすような表記に惑わされているのである。

地図を見れば、この二県の境界は「往還甚易」な地形ではなく、標高1,500m前後の峰が連なる山脈で幅60km以上の山岳地帯である(土佐山田から阿南市までの国道195号線では126km)。そもそも「土左國」は南海道で直入の國だった筈であろう。

いずれにしても奈良大和の平城宮を中心とした世界観に引き摺り込もうとした續紀編者の、ちょっとした戯れ、と思われる。いや、そんな大きな山岳地帯の地形を想像できなかったのかもしれない。ともあれ、逆に、土左國と阿波國は、高知県と徳島県ではないことを曝しているのである。

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<追記>

<石城國各郡>
石城國の現在の地形が大きく変化していることから、各郡の配置を求めることは叶わないように思われたが、国土地理院航空写真1945~50年を少し修正すると、辛うじてだが、各郡の場所と当て嵌めることができるようである。
北から・・・、

曰理郡曰理=谷間から延び出た山稜が区分けされているところ
宇太郡宇太=谷間に延びる山稜が広がっているところ
標葉郡標葉=ひらひらとした葉っぱのようなところ
行方郡行方=山稜が交差して四角く延びているところと読み解ける。

後に、再び陸奥國に属されたり、幾度かの変遷を経るようである。「曰理郡」は後の「亘理郡」とされている。そのうちに「宮城」の地名も登場するのかもしれない。