2021年6月29日火曜日

日本根子高端淨足姫天皇:元正天皇(8) 〔524〕

日本根子高端淨足姫天皇:元正天皇(8)


養老二年(西暦718年)六月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀1(直木考次郎他著)を参照。

六月丁夘。令大宰所部之國輸庸同於諸國。先是減庸。至是復舊焉。」始置大炊寮史生四員。
秋八月甲戌。齋宮寮公文。始用印焉。乙亥。出羽并渡嶋蝦夷八十七人來。貢馬千疋。則授位祿。
九月庚戌。以從四位上藤原朝臣武智麻呂。爲式部卿。正五位上穗積朝臣老爲大輔。從五位下中臣朝臣東人爲少輔。從五位下波多眞人与射爲員外少輔。甲寅。遷法興寺於新京。

六月四日に大宰府管轄の國の庸を諸國と同じにし、軽減していたのを元に戻したことになる。この日、大炊寮に史生四名を初めて置いている。

八月十三日、齋宮寮の公文書に初めて印を使用している。十四日に出羽及び渡嶋蝦夷八十七人が入京し、馬千匹を貢進している。位階と禄を授けた、と記している。

九月十九日、藤原朝臣武智麻呂を式部卿、穗積朝臣老を大輔、中臣朝臣東人(意美麻呂の子)を少輔、波多眞人与射(余射)を定員外の少輔に任じている。二十三日に法興寺を新京に遷している。前記の「元興寺」の元の名称、”元興”の地形の場所に移されたと解釈される。ただ、記述が重なるのは移転完了を記したのかもしれない。その場所は奈良大和の平城京ではなかったと述べた(六條四坊、こちら参照)。

冬十月庚午。太政官告僧綱曰。智鑒冠時。衆所推讓。可爲法門之師範者。宜擧其人顯表高徳。又有請益無倦繼踵於師。材堪後進之領袖者。亦録名臘。擧而牒之。五宗之學。三藏之教。論討有異。辨談不同。自能該達宗義。最稱宗師。毎宗擧人並録。次徳根有性分。業亦麁細。宜隨性分皆令就學。凡諸僧徒。勿使浮遊。或講論衆理。學習諸義。或唱誦經文。修道禪行。各令分業。皆得其道。其崇表智徳。顯紀行能。所以燕石楚璞各分明輝。虞韶鄭音不雜聲曲。將須象徳定水瀾波澄於法襟。龍智慧燭芳照聞於朝聽。加以。法師非法還墜佛教。是金口之所深誡。道人違道。輙輕皇憲。亦玉條之所重禁。僧綱宜迴靜鑒。能叶清議。其居非精舍。行乖練行。任意入山。輙造菴窟。混濁山河之清。雜燻煙霧之彩。又經曰。日乞告穢雜市里。情雖逐於和光。形無別于窮乞。如斯之輩愼加禁喩。庚辰。大宰府言。遣唐使從四位下多治比眞人縣守來歸。

十月十日に太政官が僧綱に次のように告示している。聡明で判断力が優れ、人々にも推されて仏門の模範とするべき人物を推挙するようにすること、また教えを乞うて倦むことがなく、師の後を継承して後進の領袖となるに足る資質をある者を僧侶になってからの年数を記録し、推薦して報告せよ、と記載している。五宗(華厳・法相・三論・倶舎・成実)の学や教・律・論の三分野に関わる仏教の教えには、論究するところに差異があり論議する方法も同じではない。自らその宗の教義に広く達していればその宗の師として称え、宗ごとに人物の名を挙げ、記録すること、次に德を発揮する力にには生まれつきの違いがあり、学業にも大まかなことと細密なことがある。故に素質に従って就学させること、と述べている。僧侶はあちこちに移転させてはならない。多くの教理を講じたり論じたり、教義を学習したり、経文を暗唱して唱えたり、静かに仏道を修行したりするなど、各々の学業を分けて、その分野を習得させるようにせよ、記している。智德を顕彰し、品行と才能を明らかに記録するのは、これによって燕石(紛い物)と楚璞(磨けば光る玉)の輝き方を別け、虞韶(麗しい音楽)と鄭音(淫猥な音楽)が混じり合わないようにするためであり、傑僧の静かな水のような心がさざ波となって他の僧たちの胸に澄み渡り、高僧の知恵の光が美しく照り輝いて朝廷に届くであろう。そればかりではなく、僧侶が仏法を誹謗し、かえって仏教を貶めることになることは、仏陀が深く戒めている。仏徒が道を踏み外し、法を輕んじることも律令が厳重に禁じている。僧綱はよく見極めて僧侶に相応しい清らかな議論を行わせよ、と述べている。僧侶が寺院に住まず、修練の方法に背いて思いのままに山に入り、たやすく庵や岩屋を造ることは清浄な山河を濁らせ、霞や霧の美しさを汚してしまうことになる。また経典によれば、教えを説いて市井に雑居し、その心情は才能を外に表さないことを目指していても、その姿は窮乏した乞食と変りがない、このような輩を戒め、禁制を加えて説諭せよ、と通告している。

二十日に遣唐使の多治比眞人縣守が帰国した、と大宰府が告げている。

十一月壬寅。彗星守月。癸丑。始差畿内兵士。守衛宮城。

十一月十二日に彗星が月に接近している。二十三日、初めて畿内の兵士を派遣して宮城を守らせている。

十二月丙寅。詔曰。朕虔承寳位。仰憑霄構。君臨天下。四年于茲。上則昊穹。下字黎庶。庸愚之民。自挂踈網。有司之法。寘于常憲。毎念於此。朕甚愍焉。思欲廣開至道。遐扇淳風。爲惡之徒。感深仁以遷善。有犯之輩。遵令軌以靡風。但自昔及今。雜言大赦。唯該小罪。八虐不霑。朕恭奉爲太上天皇。思降非常之澤。可大赦天下。養老二年十二月七日子時已前大辟罪已下。罪无輕重。繋囚見徒。私鑄錢并盜人及八虐。常赦所不原。咸赦除之。其癈疾之徒。不能自存。量加賑恤。仍令長官親自慰問。兼給湯藥。僧尼亦同。布告天下知朕意焉。壬申。多治比眞人縣守等自唐國至。甲戌。進節刀。此度使人略無闕亡。前年大使從五位上坂合部宿祢大分亦隨而來歸。

十二月七日に以下のように詔されている。概略は、皇位を慎んで受け、天を頼りにこの四年間を君主として天下に臨んで天を規範として民を養って来たが、平凡で愚かな民はゆるやかな法さえにも触れ、官司の法律はそれを取り締まるために常置されている。広く最善の道を示し、悪行を行う者も深い慈悲を感じて改心し、既に罪を犯した者にも法に従って良い風俗に馴染ませたいと思う。しかしながら昔からの大赦は、ただ小罪のみを許し。八虐(大罪)は除外して来た。そこで太上天皇のために通り一遍ではない恵みを与えようと思う。よって養老二年十二月七日の子の刻より以前の死罪以下、罪の軽重を問わず、偽銭造りも含めて悉く放免せよ、また自活できな者など、程度に応じて物を恵み、長官は自ら訪問して煎じ薬を下賜せよ、と述べている。僧尼についても同様な措置を取り、全国に布告せよ、と結んでいる。

十三日に多治比眞人縣守等が唐より帰京している。十五日に節刀を返上している。今回では欠けた者は、ほぼなかったようである。先回の大使であった坂合部宿祢大分も随行して帰朝している。大寶二年(702年)六月に副使から大使に昇格して出向していた。

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三年春正月庚寅朔。廢朝。大風也。」以舶二艘。獨底船十艘。充大宰府。辛夘。天皇御大極殿。受朝。從四位上藤原朝臣武智麻呂。從四位下多治比眞人縣守二人。賛引皇太子也。己亥。入唐使等拜見。皆着唐國所授朝服。壬寅。授從四位上路眞人大人。巨勢朝臣邑治。石川朝臣難波麻呂。大伴宿祢旅人。多治比眞人三宅麻呂。藤原朝臣武智麻呂。從四位下多治比眞人縣守並正四位下。從四位下阿倍朝臣首名。石川朝臣石足。藤原朝臣房前並從四位上。正五位下小治田朝臣安麻呂。縣犬養宿祢筑紫。大伴宿祢山守。藤原朝臣馬養並正五位上。從五位上坂合部宿祢大分。阿倍朝臣安麻呂並正五位下。正六位上三野眞人三嶋。吉智首。角兄麻呂。正六位下大野朝臣東人。小野朝臣老。酒部連相武。從六位上板持連内麻呂。從六位下石上朝臣堅魚。佐伯宿祢馬養。大宅朝臣小國。笠朝臣御室並從五位下。乙巳。正四位下安八萬王卒。

養老三年(西暦719年)正月の記事である。一日、大風のために朝賀を廃している。舶(大型船)二艘と獨底船(独木船:丸木船だが?)十艘を大宰府に充当している。二日に大極殿にて朝賀を受けているが、藤原朝臣武智麻呂と多治比眞人縣守が皇太子(後の聖武天皇、十九歳)を先導している。十日に遣唐使等が拝謁しているが、皆唐から授けられた朝服を着ていたようである。

十三日に路眞人大人巨勢朝臣邑治石川朝臣難波麻呂(宮麻呂に併記)・大伴宿祢旅人多治比眞人三宅麻呂藤原朝臣武智麻呂多治比眞人縣守に正四位下、阿倍朝臣首名石川朝臣石足藤原朝臣房前に從四位上、小治田朝臣安麻呂縣犬養宿祢筑紫大伴宿祢山守藤原朝臣馬養(宇合)に正五位上、坂合部宿祢大分阿倍朝臣安麻呂に正五位下、「三野眞人三嶋」・「吉智首」・「角兄麻呂」・大野朝臣東人小野朝臣老(毛野の子、馬養に併記)・「酒部連相武」・「板持連内麻呂」・石上朝臣堅魚(物部一族に併記)・佐伯宿祢馬養(大目の子、垂麻呂・蟲麻呂に併記)・大宅朝臣小國(父親の金弓に併記)・笠朝臣御室(兄弟の麻呂[滿誓]に併記)に從五位下を授けている。十六日、安八萬王が亡くなっている。

さて、例によって新人の登場であるが、既出の一族であれば出自の場所の詳細が解り、大昔の”皇別”の古豪ならば、あらためて出自の場所の確認にもなる。續紀の記述が古事記に近いのは、幸運とするべきであろう。書紀の捻くれた表記と併せるとより確度の高いものになると信じられる。

<三野眞人三嶋-馬甘>
<美乃眞人廣道>
● 三野眞人三嶋

「三野」は些か混乱を生じさせる表記であって、とりわけ「王」の名称に用いられた時には複雑な様相である。「美濃」、「美努」の表記も併せて、「ミノ」の読みに拘ると、正に大混乱、書紀編者の思う壺、である。

「眞人」は元は「公」であって、”皇別”の出自を有する人物と推測されるが、書紀には登場せず、「三野眞人」は今回が初めてである。調べると路眞人(公)から派生した一族だったことが分かった。

そんな背景で「路眞人」近辺に、この一族の出自を求めることになるが、「路」の谷間の西側に広がる、何とものっぺりとした台地を「三野」と称したのであろう。よく見ると三段になっていることが解る。

三嶋=三つの島状の小高い地があるところと解釈するが、陰影の強度を上げないと確認できない有様であった。何とかその出自を特定することができたようである。
ところが少し後に美乃眞人廣道という人物が正月の叙位(例に依って従五位下)で登場する。何ともややこしい記述なので、記紀にも出現しない姓名である。

おそらく「三野(ミノ)眞人」と同族なのだが、「三野」の地形ではない場所を居処としていたのではなかろうか。既出の美=谷間が広がる様乃=曲がって垂れ下がる山稜に囲まれた様と解釈したが、図に示した場所がその地形を表してることが解る。廣道=首の付けのようなところが広がったいる様から、その谷間に見出せる。確かにこの地は「三野」ではない。

ずっと後(淳仁天皇紀)に三野眞人馬甘が従五位下を叙爵されて登場する。は「三野」の地を馬の形と見做した表記であろう。甘=口から舌を出したような様と解釈したが、その地形を「三嶋」に東側に見出せる。別名馬養も申し分のない表記と思われる。

<吉智首・吉宜>
● 吉智首

「吉宜」は文武天皇即位四年(700年)八月の記事に僧惠俊を還俗させて授けた名前として、また和銅七年(714年)正月の叙位に名を連ねていたが、出自不詳として扱って来た。二名揃ったところで求めることができたようである。

古事記の御眞木入日子印惠命(崇神天皇)紀に登場する丸邇臣之祖、日子國夫玖命の後裔らしいことが判った。系譜は定かではないが、おそらく「宜・智首」は近隣を出自とする人物だったかと推測される。

現地名は田川郡香春町中津原と柿下との境の場所と推定した。大坂山と愛宕山から延びる山稜が交差するように延びた地形を示している。邇藝速日命の後裔の穂積一族が蔓延った地であろう。一時は皇統に絡む人材を輩出したのだが、絶えて久しいかったと思われる。

宜=宀+且=谷間で小高く盛り上がった様であり、図に示した場所が吉宜の出自の場所かと思われる。智=矢+口+日=鏃の形と炎の形の地がある様首=首の付け根のような様であり、「宜」の西側の場所と推定される。丸邇氏(柿本人麻呂も含めて)の登場はもっと御祓川に近い場所であり、山麓の地からは殆ど見られなかった。「吉」は全く埋もれていたのであろう。

<角兄麻呂・角朝臣家主>
● 角兄麻呂

大寶元年(701年)八月に僧惠耀等を還俗させ、「觮兄麻呂」の姓名を与えたと記されていた。天智天皇紀に徐自信等と共に百濟から帰化した「角福牟」の後裔かと言われているようである。

上記のように埋もれていた”皇別”の一族とすると、古事記の大倭根子日子國玖琉命(孝元天皇)の孫、木角宿禰が祖となった都奴臣の地が出自ではなかろうか。

「觮」=「角+彔」と分解される。觮=角の傍らで剥がされたような様と解釈される。図に示したように「角」の外側に谷間を表していると思われる。兄=谷間の奥が広がっている様であり、その通りの地形が見出せる。

後に都能兄麻呂と記され、羽林連姓を賜ったと記載される。都=者+邑=交差するような山稜が寄り集まった様能=隅であり、西側の谷間の斜面を示していることが解る。また谷間を挟む山稜が平らな頂であり、それらが並んでいる様羽林と表記したと解釈される。別名表記により、この人物の出自の場所は間違いないように思われる。陰陽に優れていて、丹後守などを任じられるが、法を犯したとして流罪に処せられた伝えられている。

後に角朝臣家主が登場する。「朝臣」姓を持つことから正真正銘の「都奴臣」の後裔で、「都奴」に挟まれた谷間と推定される。すると一目で出自の場所が見出せる。家主=真っ直ぐに延びた山稜の先で豚口のようになっているところと読み解ける。現地名は豊前市中村となっているが、「角」の学校、神社がある、正に残存地名と見做せる地であろう。

<酒部連相武>
● 酒部連相武

「酒部」も上記と同様に”皇別”の一族とすると、古事記の大帶日子淤斯呂和氣命(景行天皇)の子、神櫛王が祖となった木國之酒部阿比古に関わる地と推定される。

相=木+目=離れて並ぶ様であり、頻出の武=戈+止=山稜が矛のような様と解釈すると、図に示した場所の地形を表していることが解る。

少々興味深いのが、この地は古事記では「木國」であり、書紀では「紀臣」の出自の場所である。多くの人材が登場して高官も輩出して来たのだが、確かに「酒部」の地からは見られなかった。斉明天皇紀に登場した紀温湯が「相武」の北側辺りにあったと推定したぐらいであった。

古事記の表記の通り、この地は「木國」の「酒部」と解釈するのが妥当であろう。更に「木國」は、上記の木角宿禰が祖となった地であり、少し時が経って神櫛王が祖となっている。同じ”皇別”とは言え、別系統だったことになる。丸邇と同じように同族内での確執もあったのであろう。それを取り上げた叙位だったようである。

<板持連内麻呂-安麻呂・板安忌寸犬養>
● 板持連内麻呂

「板持」は、記紀には登場しない文字列である。調べると河内國錦部郡が出自の場所、現地名は行橋市下崎辺りと推定した地と分かった。

「板」=「木+反」と分解される。板=崖下に山稜が延びている様と解釈した。飛鳥板蓋宮で用いられた文字である。香春一ノ岳西麓の急峻な崖下の宮であった。

すると幸ノ山の東麓にある山稜が「板」の地形を示していることが解り、持=手+寺=山稜に包まれた様と読み解き、內=冂+入=谷間の入り口とすると、図に示した場所がこの人物の出自の場所と推定される。

少し後に武藝に秀でているとして褒賞された板安忌寸犬養が登場する。全く出自は不詳なのだが、同様の地形が「板持」に並んでいることが解る。その山稜の傍の谷間を板安と表現したと思われる。名前が犬養=平らな山稜に挟まれた谷間がなだらかに延びている様であり、出自の場所は、その出口辺りと推定される。

後(聖武天皇紀)に太政官大史の板持連安麻呂が登場する。幾度も登場の安麻呂が示す場所は、図に示した「内麻呂」の奥の谷間と思われる。当時には池は存在していなかったのではなかろうか。

二月壬戌。初令天下百姓右襟。」職事主典已上把笏。其五位以上牙笏。散位亦聽把笏。六位已下木笏。甲子。正三位粟田朝臣眞人薨。己巳。遣新羅使正五位下小野朝臣馬養等來歸。庚午。行幸和泉宮。丙子。車駕還宮。
三月辛夘。始置造藥師寺司史生二人。乙夘。地震。

二月三日に初めて衣服の襟を右前にさせ、職事官(管掌する職務がある官人)の四等以上の者に笏(本来はコツ、一尺の長さ故にシャクと呼ばれた)を持たせ、そのうち五位以上の者は象牙の笏としている。散位(無管掌者)も笏を持つことを許している。六位以下は木の笏としている。

五日、粟田朝臣眞人が亡くなっている。十日に遣新羅使の小野朝臣馬養等が帰国している。十一日に和泉宮(前出の珍努宮)に行幸、十七日に帰還している。

三月二日に初めて造藥師寺司に史生二人を配置している。二十六日に地震があったと記している。