2018年3月29日木曜日

夜麻登の高佐士野 〔192〕

夜麻登の高佐士野


「師木」に侵出した神倭伊波禮毘古命は畝火之白檮原宮に坐して天下を治めたと伝えられる。初代神武天皇の誕生である。その地「伊波禮」は…、


伊波禮=伊(神の)|波(端:ハタ)|禮(山裾の高台)

「畝火山(神)の傍にある高台」と紐解いた。歴代の天皇の宮の場所と併せて再掲する。

現在は山とは言えない、高台のようになっているが「石上」にいる神を奉り国の繁栄に勤めた古代の人々の日常を示す場所である。

その発端となった「畝火之白檮原宮」は「高佐士野」あったと伝えている。右図に示した通り、場所は間違いなく比定できるのであるが、「佐士」の意味を今一度考えてみようかと思う。

地形を象形する「当て字」手法の原形のような記述と思われる。

古事記原文[武田祐吉訳]…、

於是七媛女、遊行於高佐士野佐士二字以音、伊須氣余理比賣在其中。爾大久米命、見其伊須氣余理比賣而、以歌白於天皇曰、
[ある時七人の孃子が大和のタカサジ野で遊んでいる時に、このイスケヨリ姫も混っていました。そこでオホクメの命が、そのイスケヨリ姫を見て、歌で天皇に申し上げるには]
夜麻登能 多加佐士怒袁 那那由久 袁登賣杼母 多禮袁志摩加牟
[大和の國のタカサジ野を七人行く孃子たち、その中の誰をお召しになります]
爾伊須氣余理比賣者、立其媛女等之前。乃天皇見其媛女等而、御心知伊須氣余理比賣立於最前、以歌答曰、
[このイスケヨリ姫は、その時に孃子たちの前に立っておりました。天皇はその孃子たちを御覽になって、御心にイスケヨリ姫が一番前に立っていることを知られて、お歌でお答えになりますには]
加都賀都母 伊夜佐岐陀弖流 延袁斯麻加牟
[まあまあ一番先に立っている娘を妻にしましようよ]

早速婚活をして娶ったという件である。見初めたのが前記で登場の「伊須氣余理比賣」そう、大物主大神の比賣である。

この比賣は元々「富登多多良伊須須岐比賣命」と呼ばれたが、それを嫌って改名したのだそうである。下記にこの長たらしい名前を紐解いてみよう。

さて、話を戻して・・・「高佐士野」中では「多加佐士怒」であり…、


佐士=佐(タスクル)|士(天子)

…と解釈した。「高佐士野」=「高い所にある宮殿を奉り仕えるところの野原」と紐解いて、宮は畝火之白檮原宮とすると、その傍らにあったところを示している。

「夜麻登*」これが「大和(ヤマト)」の語源と言われるものであろう。1300年間多くの人々を煩わせてきた…中国史書も含めて…ものの正体である。何の雑念もなく読み下せば、「夜麻登能」=「山登りの」となる。

「夜麻登能 多加佐士怒」=「山登りの高い所にある宮殿を奉り仕えるところの野原」と解釈される。現在に残る、福岡県田川郡香春町「高野」ここに「畝火之白檮原宮」があったところであると紐解いて来た。


余談だが・・・後にネットで調べると「高野」の地を挙げられている方もおられるようである。何を根拠にされたのか不詳であるが高野にある「鶴岡八幡神社」に比定されている。ここは本ブログで安閑天皇が坐した「勾之金箸宮」としたところである。今も残る「勾金」の地である。


上記古事記原文の註記に「佐士二字以音」とある。では元の表記は何であったのか?…「佐士」は地形象形ではなく、意味を示す表現であった。

元の「佐士」が見つかればきっと地形を示唆するものと推測される。関連する「サシ」「サジ」などの漢字表記を探すと、意外や簡単に現れたのである。


佐士=匕(サジ:匙)

…の置き換えと読み解ける。山稜の形を象形したものではなかろうか。

匙の先っぽの平たくなったところが「高佐士野」に当たると比定される。解釈不明の命名だと思われてきたところが漸くその姿をみせてくれたように思われる。「伊波禮」の地は後の履中天皇などが坐したところである。神倭伊波禮毘古命に因む地名であろう。彼らの名前から上図のような地域であったと推定した。

勿論「白檮原宮」はその地に含まれる。現在の貴船神社辺りと思われる。「高佐士野」に囲まれた地形を示している。

そもそも神倭伊波禮毘古命の「神」は「神様のような」と言う意味であろうか?…やはり「稲妻」であろう。

大坂山から延びる長く大きな山稜が示す「稲妻」その広がるところが「倭」であり、裾野を「伊波禮」と告げている。

流石に初代天皇の居場所、複数の表現で伝えようと工夫されているのである。複数の表現が収束するところが現在の皇統の発祥の地であると言えよう。



上記した「富登多多良伊須須岐比賣命」を紐解いてみよう。その前にWikipediaを引用すると・・・、

『日本書紀』では「媛蹈鞴五十鈴媛命」と記す。『古事記』では「比売多多良伊須気余理比売」(ヒメタタライスケヨリヒメ)と記し、別名、「富登多多良伊須須岐比売」(ホトタタライススキヒメ)としている。島根県の郷土史家、加藤義成の説によると、皇后の名の中にある「タタラ」とは、たたら吹きを指したり、その時に用いられる道具を示す場合もあり、このことは、皇后の出身氏族が、製鉄と深い関係がある東部出雲(島根県松江市、安来市、奥出雲町を含む)地域であったことを物語っているとする。『古事記参究』素行会(1986年)など。

・・・と記載される。

「富登」を「たたら吹き」してどうするんでしょうか?…当然島根が登場するのだが、はっきり申して支離滅裂であろう。

「富」の解釈がポイントである。大国主命の後裔に「國忍富神」が誕生する。また新羅の青沼馬沼押比賣の御子の名前に「布忍富鳥鳴海神」がある。そして大年神の御子に「曾富理神」が登場する。各々原報を参照願うが、全て「富」=「宀(山麓)+酒樽(坂)」=「山麓の坂」と紐解いた。

「多多良」は「たたら吹き」では決してなく「多多(真直ぐ)|良(~のように)」と読み解く。「意富多多泥古」「丹波比古多多須美知能宇斯王」に含まれる「多多」と同じ解釈であろう。すると「富登多多良伊須須岐」は…、


富(山麓の坂)|登(登る)|多多良(真直ぐのように)|
伊(小ぶりな)|須須(二つの州に)|岐(分ける)

…「山麓を登り真直ぐに小ぶりな二つの州に分ける」と紐解ける。下図を参照願う。一本の川が山麓を流れて州が二つに分かれているのが見て取れる。

一見戯れのように読取れる表現は見事な地形象形だったのである。女陰が爛れて・・・そうとも言ってることも確かであろう。狭井河(犀川)の畔に住まわせるための布石でもあろう、と推測される。

…と、安萬侶コードは健在である・・・。

…全体を通しては古事記新釈を参照願う。


2018年3月26日月曜日

神倭伊波禮毘古命:三嶋の娶り、その詳細 〔191〕

神倭伊波禮毘古命:三嶋の娶り、その詳細


前記で神倭伊波禮毘古命は、出自不明の美和之大物主神が三嶋湟咋之女・名勢夜陀多良比賣に産ませた子、比賣多多良伊須氣余理比賣を娶って、日子八井命、神八井耳命、神沼河耳命の三人の御子が誕生する」と書き出してその概略を紐解いた(本ブログ〔082〕参照)。

その後「美和之大物主神」の出自も見えて来たところで今一度読み下してみよう。安萬侶くんが伝えることが更に見つかるかもしれない。出雲の御諸山(現在の谷山)に座していた大物主神が悪さをした「三嶋湟咋之女・名勢夜陀多良比賣」の詳細から始める。

三嶋湟咋・勢夜陀多良比賣

三嶋」は現在の京都郡みやこ町勝山箕田にある「三島団地」辺りとした。由来などは不明であるが、図に示したように「三つの島」があったように見ることもできる。障子ヶ岳の枝山稜が延び、長峡川と初代川に挟まれた中州の地である。

古墳が複数あり、古代から人々が住み着いていた場所なのであろう。湟咋」=「堀を作って杭を打つ」「用水路」を作り、治水に長けた人物だったと告げている。図を参照願うが無数の谷川が流れるところ…「橘」の地でもある。

「八俣遠呂智」を退治したら英雄になる、と既に教えられた。谷川を制した者が豊かな財を為していた時代であろう。比賣の名前が「勢夜陀多良比賣」とある。何処に居たのか紐解いてみよう。


勢(丸く小高い山稜)|夜(谷)|陀(崖)|多(三角州)|良(なだらか)

「丸く小高い山稜の端にある谷の崖の麓で三角州がなだらかに連なっているところ」に坐す比賣と紐解ける。現地名は京都郡みやこ町勝山松田上野辺りと思われる。上図を参照願う。上流部に複数の谷があり、更に小ぶりな「宇陀」を抜けて川が流れる地形を示している。

三嶋湟咋」は山麓の谷川を利用して豊かな田にしていたと伝えているのである。その山麓の美人の比賣を大物主大神が狙って、誕生したのが「伊須氣余理比賣」である。

伊須須岐比賣命(伊須氣余理比賣)

「伊須氣余理比賣」は「富登多多良伊須須岐比賣命」の別名であるが、ほぼ同じような意味かと…名前の前半部がマズイ、ということなのだろう。一応紐解くと…、


伊須須岐=伊(小ぶりな)|須(州)|須(州)|岐(二つに分かれる)

…「小ぶりな州の中が二つに分かれている」ところの比賣と解釈できる。「多多良」=「真直ぐのように」*と読み解ける。前半だけでなく、このフルネームはかなりの戯れである。古事記らしい、と言うべきか・・・。


因みに「伊須氣余理」=「僅かばかり州が勢い余って区分けされた」ぐらいかも…。

多くありそうだが母親の近隣で探すと現地名みやこ町勝山松田上野ヶ丘辺りではなかろうか。

この近隣に住まって居た「意富多多泥古」の「多多」に関連付けていると推察される。

事実、三嶋湟咋によって見事に治水されていたのであろう。全てが繋がる表現である。

上記されているようにここには住まず「伊須氣余理比賣命之家、在狹井河之上」と記されている。

御所ヶ岳山塊を越えたところに居たのであろう。地名は京都郡みやこ町犀川大村辺りである。


彼女はどうも命名からしてこの地を離れたかったのではなかろうか・・・。

既に求めた御子の「日子八井命、神八井耳命、神沼河耳命」の居場所と併せて下図に示した。

古事記の水田作りに関する記述は貴重と思われるが、それを取り上げた著書は見当たらない。

浅学ゆえかどうか、なければ真にもったいないことである。見事な棚田が続いていることが判る。古代を偲ばせるものと思われるが・・・。

上図一番手前の大きな棚田(茨田=松田)を担当した日子八井命はこの地に残り引き続いて開拓して行ったのであろう。神八井耳命は各地に飛ぶことになる。最後の神沼河耳命が神武天皇の日向時代の御子「多藝志美美命」との争いに勝って第二代綏靖天皇となり、葛城に移るのである。

通説は大物主大神を大国主命の御霊としたり、伊須氣余理比賣を事代主神の比賣としてみたり(日本書紀)様々である。古事記が伝えているのは、大国主命系列は歴史の表舞台から消え去った、のである。天神達の大失態を隠すことはないが、その捻れた表現で記述しているのである。

神倭伊波禮毘古命が畝火山の麓に辿り着くまでにどれだけの犠牲を払わねばならなかったかを、その捻って戯れた表記で記されたのが古事記と読み解ける。

…全体を通しては古事記新釈の「神武天皇」を参照願う。

2018年3月23日金曜日

天津日高日子から神倭伊波礼毘古へ 〔190〕

天津日高日子から神倭伊波礼毘古へ


夢のような三年間を過ごした山佐知毘古は国に帰ることになったが、豊玉毘賣がご懐妊であった。そこで事件が発生…見てはいけないものを見てしまう。擬人化手法による神話風記述は最終章となる。

古事記原文[武田祐吉訳]…、

於是、海神之女・豐玉毘賣命、自參出白之「妾已妊身、今臨時。此念、天神之御子不可生海原。故、參出到也。」爾卽於其海邊波限、以鵜羽爲葺草、造殿。於是、其殿未葺合、不忍御腹之急、故入坐殿。爾將方之時、白其日子言「凡佗國人者、臨時、以本國之形生。故、妾今以本身爲。願勿見妾。」
於是思奇其言、竊伺其方者、化八尋和邇而、匍匐委蛇。卽見驚畏而遁退。爾豐玉毘賣命、知其伺見之事、以爲心恥、乃生置其御子而、白「妾恒通海道欲往來。然伺見吾形、是甚怍之。」卽塞海坂而返入。是以、名其所之御子謂天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命。訓波限云那藝佐、訓葺草云加夜。
然後者、雖恨其伺情、不忍戀心、因治養其御子之緣、附其弟玉依毘賣而、獻歌之。其歌曰、
阿加陀麻波 袁佐閇比迦禮杼 斯良多麻能 岐美何余曾比斯 多布斗久阿理祁理
爾其比古遲三字以音答歌曰、
意岐都登理 加毛度久斯麻邇 和賀韋泥斯 伊毛波和須禮士 余能許登碁登邇
故、日子穗穗手見命者、坐高千穗宮、伍佰捌拾。御陵者、卽在其高千穗山之西也。
是天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命、娶其姨・玉依毘賣命、生御子名、五瀬命、次稻氷命、次御毛沼命、次若御毛沼命、亦名豐御毛沼命、亦名神倭伊波禮毘古命。四柱。故、御毛沼命者、跳波穗渡坐于常世國、稻氷命者、爲妣國而入坐海原也。
[ここに海神の女、トヨタマ姫の命が御自身で出ておいでになつて申しますには、「わたくしは以前から姙娠にんしんしておりますが、今御子を産むべき時になりました。これを思うに天の神の御子を海中でお生み申し上ぐべきではございませんから出て參りました」と申し上げました。そこでその海邊の波際なぎさに鵜うの羽を屋根にして産室を造りましたが、その産室がまだ葺き終らないのに、御子が生まれそうになりましたから、産室におはいりになりました。その時夫の君に申されて言うには「すべて他國の者は子を産む時になれば、その本國の形になつて産むのです。それでわたくしももとの身になつて産もうと思いますが、わたくしを御覽遊ばしますな」と申されました。ところがその言葉を不思議に思われて、今盛んに子をお産みになる最中さいちゆうに覗のぞいて御覽になると、八丈もある長い鰐になつて匐いのたくつておりました。そこで畏れ驚いて遁げ退きなさいました。しかるにトヨタマ姫の命は窺見のぞきみなさつた事をお知りになつて、恥かしい事にお思いになつて御子を産み置いて「わたくしは常に海の道を通つて通かよおうと思つておりましたが、わたくしの形を覗いて御覽になつたのは恥かしいことです」と申して、海の道をふさいで歸つておしまいになりました。そこでお産まれになつた御子の名をアマツヒコヒコナギサタケウガヤフキアヘズの命と申し上げます。しかしながら後には窺見のぞきみなさつた御心を恨みながらも戀しさにお堪えなさらないで、その御子を御養育申し上げるために、その妹のタマヨリ姫を差しあげ、それに附けて歌を差しあげました。その歌は、
赤い玉は緒までも光りますが、白玉のような君のお姿は貴といことです。
そこでその夫の君がお答えなさいました歌は、
水鳥の鴨が降り著つく島で契を結んだ私の妻は忘れられない。世の終りまでも。
このヒコホホデミの命は高千穗の宮に五百八十年おいでなさいました。御陵ごりようはその高千穗の山の西にあります。 アマツヒコヒコナギサタケウガヤフキアヘズの命は、叔母のタマヨリ姫と結婚してお生みになつた御子の名は、イツセの命・イナヒの命・ミケヌの命・ワカミケヌの命、またの名はトヨミケヌの命、またの名はカムヤマトイハレ彦の命の四人です。ミケヌの命は波の高みを蹈んで海外の國へとお渡りになり、イナヒの命は母の國として海原におはいりになりました]

どうやら「和邇」シリーズのようでここでも登場である。「化八尋和邇而、匍匐委蛇」鰐に化けてのたうつ、その通りの訳で、他の解釈などあり得ない・・・そうであろうが、やはり試みは不可欠。「化八尋和邇」を「化八尋和・邇」と区切ってみる。「化」=「形を変える」、「尋」の原義は「髪を手繰り寄せる動作」を表し「尋ねる」の意味を示す。すると「化八尋和邇」は…、


化(形を変える)|八尋(長い髪を手繰り寄せ)|和(輪)・邇(近く)

…「長い髪を手繰り寄せて形を変えて輪にしたところの近く」と紐解ける。傍らでのたうっている姿を見てしまった、のである。古事記の紐解きはほぼ格闘技である、勿論筋力は不要だが、体力は欠かせないようで・・・。

この段の少し前に「凡佗國人者、臨時、以本國之形生。故、妾今以本身爲。願勿見妾」と記述される。要するに産んでいるところを見てはならないと告げるところである。そこに含まれる「本身」の武田氏の訳は「もとの身」とされる。「鰐」の姿になると解釈される。「もと」には「元、基、下、本」の四つの文字が使われるが、それぞれ意味するところは異なる。「本」を使うならば…、


本身=本(本来の、正しい)|身(姿)

…本国(これも本来の国の意味)のお産の形(やり方)に従って「本来の正しい姿」になると告げているのである。実に肌理細やかな記述である。そして「鰐」と解釈できるように、だが、よく読めばそうは言っていないという表現をしているのである。

「八俣之遠呂智」しかり、動物を擬人化した表現である。その目的は、神話風にして物語を久遠の過去に遡らせることであろう。併せて場所を示す文字を使って本来の目的を果たそうとしている。複数の意味に解釈されることになる手法は、思いを一に伝えることが目的には不向きであろう…と我々は信じ込んでいるが、果たしてそうであろうか?・・・。

複数に解釈されて尚且その解が伝えることの複数の側面を示しているとならば、物事の捉え方がより高次になるのではなかろうか。複数の解が収束せず発散してしまう故にその技法が途絶えてしまっているのであろう。真に残念なことである。



天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命

約束を破ったことで豊玉毘賣はお帰りになってしまう。御子は誕生して、そして叔母の玉依毘賣と結ばれたと伝える。先を急ぐように四人の御子が生まれ、その中に神倭伊波禮毘古命が誕生する。

さて、誕生した御子もなかなかの長さの名前である。「於其海邊波限、以鵜羽爲葺草、造殿」と記される。それをそのまま使ったように見えるが全体を通して眺めてみると・・・。「天津日高日子」は前記と同じとして「波限」=「那藝佐」と註記される。


日高日子波限=日高(日々高くなる)|日子(稲穂)|波限(波打ち際)

…「日々高くなる稲穂の波が打寄せる際」と紐解ける。「天」から波が打寄せるように一族が遣って来たことの終焉を告げる命名であろう。「鵜葺草葺不合」=「鵜の羽と萱で屋根を葺いたが間に合わず」その通りの意味であり、その地が未開で、物語はこれから始まるという宣言でもあろう。

「天津日高」の地から遠く離れて行くことを示す命名ではなかろうか。豊葦原水穂国へと移り住んでいく彼らの思いを伝えている。当然のことながら次代の名前に「天津」は付かないのである。


玉依毘賣命と御子

叔母の玉依毘賣命を娶って四人の御子が誕生する。「五瀬命、次稻氷命、次御毛沼命、次若御毛沼命、亦名豐御毛沼命、亦名神倭伊波禮毘古命」と記述される。既稿の五瀬命、若御毛沼命(神倭伊波禮毘古命)は少々追記してみよう

御毛沼命」は常世国に、「稻氷命」は母親のところに向かったと伝えられる。常世国は既に登場、壱岐島の勝本町仲触・東触辺りとしたところである。「天」に戻らなかった?…不詳である。母親のところに向かった「稻氷命」の名前を紐解く…実はこの名前が母親・豊玉毘賣命の前記の居場所を突き止める重要なヒントを含んでいたのである。


稻氷命

「氷」=「冫+水」川に沿って二つに割れた(分かれた)地形象形と紐解く。後に三川之穂という地名が登場するが、三本の川によって穂が二つ生じる地形である。また氷羽州比賣も同様の地形の州を象形したものと解釈した。


<稲氷命>
稲(稲穂の形)|氷(二つに割れた)

…「稲穂が二つに割れた」は「三川之穂」の異なる表現であろう。

この場所は現在の足立山の南麓、北九州市小倉北区湯川新町・蜷田若園辺りと推定した(参照:現在の川)。

現在の地形は内陸の山麓の地形であるが当時は川と海の入り交じる「綿津見」の地と推測されたのである。

また筑紫嶋の南西端、白日別、豊日別の分岐点である。

古事記が最も重要な地点と述べるところの一つである。残存する「蜷田」の地名に干潟が形成されていたことを伺わせる。


御毛沼命

神倭伊波禮毘古命の本名、若毛沼命である。二人続いての命名となっている。「古事記のルール」に従えば…、


御毛沼=御(三つの)|毛(鱗状の)|沼


…であろう。形状変化が想定される沼、池の特定は難しい。

がしかし、三つの鱗状の池があること、二人の御子を養えるだけの水田が作られる場所と併せて探すと、現地名の岡垣町手野辺りではなかろうか。

ここが初代神武天皇の出自のところと推定される。

となると五瀬命は何処に居たのか気に掛かってくる。

「五瀬=多くの瀬」と読めるとすると、現地名の岡垣町高倉の百合野辺りと思われる。地図を参照願う。

結果的にはこの地には誰も残らなかったことになる。本来なら末っ子の若御毛沼命が引継ぐのであろうが「東に向かう」のである。出雲の二の舞のようにその地に埋没することなく「天」から離れ東へ東へと進む。それが天神達のミッションなのである。

高千穂宮

さて、火遠理命「日子穗穗手見命」は何と五百八十年間*高千穂宮」に坐して「高千穗山之西」に葬られたと伝える。この宮は何処であろうか?…情報はほぼなし、それらしきところを推定してみよう。孔大寺山系の東麓に「高倉」という地名がある。古事記風に紐解けば「高いところまで(高千穂)延びる谷間」であろうか。

由来が奈良時代以前に遡る「高倉神社」が麓にある。神社そのものが該当するかはどうか定かでないが、この谷筋にあったと推定される。伊邪那岐命が禊をした「橘小門」の上流部に当たるところである。日向国の中心地として存在していたと思われる。現地名は福岡県遠賀郡岡垣町高倉である。

御陵が「高千穗山之西」とだけ記される。おそらく孔大寺山西側の中腹にある孔大寺神社辺りではなかろうか。余談だが、宗像周辺は「国譲り」されていない唯一の場所である。世界遺産登録を切掛にして古代の調査が進めばと願うばかりである。



神倭伊波禮毘古命はこの近隣から倭国に出立する。その物語が始まろうとしているのである。それにしても神武天皇の出自が何やら怪し気なものとされて来たのだが、漸くその母親の出自が見えたような思いである。

「神」=「稲妻」と解釈する。彼の居場所は下図に示したところ、詳細はこちらを参照願う。



…全体を通しては古事記新釈海佐知毘古・山佐知毘古を参照願う。

五百八十年間*

さて、火遠理命「日子穗穗手見命」は何と五百八十年間「高千穂宮」に坐して「高千穗山之西」に葬られたと伝える。幾ら何でも古事記の真面目な編者達がヌケヌケと「年=歳」として記述したとは思われない。ということで、何方かが考察、要するに「歳」の意味を紐解いてられるであろう、と探すと・・・。

出てきました。詳細は原報のこちらを参照願うが、納得できる記述かと思われる。「歳」=「一ヶ月(陰暦)」である。580歲=580月≒46.8年(46年と10ヶ月) 約五十年間の在位であったと告げているのである。安萬侶コード「歳」=「一ヶ月(陰暦)」、登録である。


他の例として、神武天皇についても「凡此神倭伊波禮毘古天皇御年、壹佰參拾漆。御陵在畝火山之北方白檮尾上也」と記される。亡くなったのが137歳ではない。「御年」=「御(統治)した年月」が「137ヶ月」と記述しているのである。同様に求めれば137歲≒11.1年(11年と1ヶ月)となる。畝火之白檮原宮に坐した期間が約十一年と一ヶ月であったと述べている。(2018.04.19)





2018年3月20日火曜日

『和邇』と『菟』 〔189〕

『和邇』と『菟』 


海神の宮に居着いて早三年の月日が過ぎたと言う。火遠理命が大きな溜息を見せたことからこの宮に来た仔細を話し、それに対して海神が色々貴重な助言をする。「鹽盈珠・鹽乾珠」と言う水を自由に扱える珠を授けられ、尚且それの使い方まで事細かに教えられると記述される。前記の「鹽椎神」同様に真に親切な年寄り達なのである。

その説話の中に「魚」が登場する。そもそも兄との諍いは釣り針の紛失に事の発端があったわけで、それさえ取り戻せれば・・・当然魚に問合せるのが一番手っ取り早いという筋書きである。とすると、何と赤海鯽魚(どうやら鯛らしい)が喉に骨を詰まらせて困っているとの情報が得られ、調べるとその通りでその鉤を取り出して、一件落着となった。そんな筋書きで、いよいよご帰還の時を迎えたのである。

古事記原文[武田祐吉訳](以下同様)…、

卽悉召集和邇魚問曰「今、天津日高之御子虛空津日高、爲將出幸上國。誰者幾日送奉而覆奏。」故各隨己身之尋長、限日而白之中、一尋和邇白「僕者、一日送、卽還來。」故爾告其一尋和邇「然者汝送奉。若渡海中時、無令惶畏。」卽載其和邇之頸送出。故如期、一日之送奉也。其和邇將返之時、解所佩之紐小刀、著其頸而返。故其一尋和邇者、於今謂佐比持神也。
[悉く鰐どもを呼び集め尋ねて言うには、「今天の神の御子の日ひの御子樣みこさまが上の國においでになろうとするのだが、お前たちは幾日にお送り申し上げて御返事するか」と尋ねました。そこでそれぞれに自分の身の長さのままに日數を限つて申す中に、一丈の鰐が「わたくしが一日にお送り申し上げて還つて參りましよう」と申しました。依つてその一丈の鰐に「それならばお前がお送り申し上げよ。海中を渡る時にこわがらせ申すな」と言つて、その鰐の頸にお乘せ申し上げて送り出しました。はたして約束通り一日にお送り申し上げました。その鰐が還ろうとした時に、紐の附いている小刀をお解きになつて、その鰐の頸につけてお返しになりました。そこでその一丈の鰐をば、今でもサヒモチの神と言つております]

「悉召集海之大小魚」魚のことは魚に聞こう…なんだが単なる「魚」ではない。「和邇魚」が登場する。


和邇魚

「和邇」はほぼ揺るぎなく「鰐」もしくは「鮫」と解釈されて来た。説話としてそのように読み取れるように記述されてもいるし、話しの流れはそれで筋は通る、がしかし、それでは納得しかねる内容でもある。鰐、鮫が語る神話の類で片付けるのが最適とされる所以である。過去に誰か一人ぐらいこれは比喩であってこんな人物であろうくらいの解釈があっても良さそうなのだが、ネットで検索した程度では見つからない。


和邇魚=和(輪の形)|邇(近い)|魚(漁:漁夫)

…「輪の形をしたところの近くにいる漁夫」と紐解ける。「和」「邇」の解釈は古事記の文字使用の定番である。「漁(スナドリ)」=「魚や貝を採ること、漁をする人」との意味がある。明らかに「豊玉」の近隣で漁をする人を示している。前記図を再掲すると…、

この説話で用いられている「魚」は「漁夫」の意味を持つと紐解ける。後に登場する「丸邇」一族は「丸に近い」である。

「丸」=「壹比韋」即ち辰砂の取れる場所である。「和」と「丸」が混同して記述されることは全く無い古事記である。

そんなわけでこの「和邇」が「一日」で送った…古事記の「時間」は些かその文字通りには読めないが、「尋」=「両手を左右に伸ばした長さ」又は「至る、及ぶ」の意味もある。「一」に掛けた戯れ表現と解釈できそうである。いずれにしても近いところと告げている。

この段の続きはいよいよ御子が誕生して「神倭伊波禮毘古命」へと繋がって行く。それは後日に述べることとして・・・。

「和邇」の表記で有名なのが大国主命の「稲羽之素菟」(稲羽の白兎)と言われる段である。これも全く疑いもなく「鰐」として解釈され、そう信じてきたのである。だが、上記のような「和邇」の解釈があることを知れば、同様に従来からの解釈以外の意味が含められているのではなかろうか。


海和邇

八十神の後を布袋の大穴牟遲神(後の大国主命)がノコノコと歩いていた時の説話である。関連するところを抜粋して示すと…全体の解釈はこちらを参照願う…、


最後之來大穴牟遲神、見其菟言「何由、汝泣伏。」菟答言「僕在淤岐嶋、雖欲度此地、無度因。故、欺海和邇此二字以音、下效此言『吾與汝競、欲計族之多小。故汝者、隨其族在悉率來、自此嶋至于氣多前、皆列伏度。爾吾蹈其上、走乍讀度。於是知與吾族孰多。』如此言者、見欺而列伏之時、吾蹈其上、讀度來、今將下地時、吾云『汝者、我見欺。』言竟、卽伏最端和邇、捕我悉剥我衣服。
[最後に來た大國主の命がその兎を見て、「何なんだつて泣き伏しているのですか」とお尋ねになつたので、兎が申しますよう、「わたくしは隱岐の島にいてこの國に渡りたいと思つていましたけれども渡るすべがございませんでしたから、海の鰐を欺いて言いましたのは、わたしはあなたとどちらが一族が多いか競べて見ましよう。あなたは一族を悉く連れて來てこの島からケタの埼まで皆竝んで伏していらつしやい。わたしはその上を蹈んで走りながら勘定をして、わたしの一族とどちらが多いかということを知りましようと言いましたから、欺かれて竝んで伏している時に、わたくしはその上を蹈んで渡つて來て、今土におりようとする時に、お前はわたしに欺されたと言うか言わない時に、一番端に伏していた鰐がわたくしを捕えてすつかり着物を剥いでしまいまし]

淤岐嶋」(現在の宗像市地島)在住の「菟」がその島から「氣多前」(現在の鐘ノ岬)へ渡ろうとして「海和邇」を利用する場面である。それを見破られて身包み剥がれて泣いている時に八十神達に出会い、酷い仕打ちをされたのだが、それを最後に来た大国主命が救ったという心優しき主人公の物語なのである。



さて「海和邇」とは何を意味しているのであろうか?…「和邇」は上記と同じ意味かと思われるが・・・「和」=「輪の形」?…「海」は?…何と紐解くのか・・・。



「鐘ノ岬」とは・・・福岡県宗像(むなかた)市鐘崎(かねざき)北方の玄界灘(げんかいなだ)に突出している岬。孔大寺(こだいじ)山系の丘陵が海岸まで伸びて佐屋形(さやがた)山となり、海食崖(がい)を形成、北西2キロメートルの海上にある地島(じのしま)に続いている。岬から皐月(さつき)松原に続く海岸は、風光明媚(めいび)で玄海国定公園に指定されている。岬の根元にある鐘崎は海女(あま)で有名な漁港で、フグ延縄(はえなわ)などの漁業も盛んである・・・と解説されている。

読んでみるものである。これに全てのヒントが含まれていたのである。

「和」=「輪の形」=「佐屋形山」であり、「海」=「海女」を意味していることが判った。

「海」の原義は「氵+毎」=「水の流れ+髪飾りを付けて結髪する女性」と知られる。母なる海なのである。海も大地も母である。「海和邇」は…、


海(海女)|和(輪の形)|邇(近い)

…「輪の形(佐屋形山)の近くに居る海女」と紐解ける。海女の発祥地と言われるこの地、何と古事記が記述していたのである。孔大寺山系の主稜線が延びた地形は豊かな漁場を形成し、山系から流れる川が運ぶ恵みに満たされた「都」であったろう。上記と「和邇」で繋がる古代人達の生業である。


稻羽之素菟

それでは「菟」は何を意味しているのであろうか?…「和邇」が解けると気に掛かる。下図を参照願う。


(俯瞰図はこちら)

地島に見事な「斗」の地形が見つかる。宗像市地島豊岡の地名かと思われる。

「斗」↔「菟」既に幾度か登場した表記である。

天菩比命の御子、建比良鳥命が祖となった「上菟上國造」「下菟上國造」大斗の山向こう、後に高志国と呼ばれたところである。

淤岐嶋の「菟」とは「斗」の住人を意味していると紐解ける。


古事記原文に記述される「稻羽之素菟」は…「稲羽に居る」…、


素菟=素(本来は)|菟(斗の住人)

…と紐解ける。「素」=「白」の意味に掛けた実に多様な表現で書かれているのである。

秋津、日向、筑紫及び出雲の国は古遠賀湾、洞海湾及び淡海を通じて東西に延びる古代の一大交流圏であったことがあらためて伺える。いずれ彼らの向かう先は大倭豊秋津嶋となるのである。それにしても通説、その根拠を洗い直して見る必要があることを思い知らされた。

今回の紐解きによって、上記に加えて邇邇芸命の降臨地が宗像市と遠賀郡岡垣町の境にある孔大寺山系、これが「竺紫日向之高千穂之久士布流多氣」と導かれることである。古事記の一貫性のある記述に感服する。


少し余談になるが…大国主命の説話に登場する「八上比賣」の居場所について…、

八上=八(谷)|上(畔)

…湯川山頂に繋がる谷筋の畔に坐していたのではなかろうか。現在の地名宗像市「上八(コウジョウ)」という難読地名である。

湯川山の頂上までを含む古くからある地域名ではなかろうか。引っ繰り返したのかも・・・。伝えられる由来は多分に漏れず決定的ではない。


「八俣之遠呂智」しかり、動物を擬人化した表現である。その目的は、神話風にして物語を久遠の過去に遡らせることであろう。併せて場所を示す文字を使って本来の目的を果たそうとしている。複数の意味に解釈されることになる手法は、思いを伝えることが目的に不向きであろう…と言われるが、果たしてそうであろうか?・・・。


複数に解釈されて尚且その解が伝えることの複数の側面を示しているとならば、物事の捉え方がより高次になるのではなかろうか。複数の解が収束せず発散してしまう故にその技法が途絶えてしまっているのであろう。真に残念なことである。

言い過ぎではないと思うが、漢字という文字を使う人々にしか為し得ない優れた表現ではなかろうか。一対一ではなく、一対多の相関で物事を伝えていくこと、決して蔑ろにしてはならないことと思われる。



2018年3月16日金曜日

豐玉毘賣命は何処に? 〔188〕

豐玉毘賣命は何処に?


日子番能邇邇芸命が神阿多都比賣(木花之佐久夜毘賣)を娶って誕生するのが火照命(後の海佐知毘古)、火須勢理命、火遠理命(後の山佐知毘古)の三名。この海と山の佐知毘古の物語である。兄との諍いを嘆き悲しむ山佐知毘古の前に賢人が現れる。いや、神様であった。

古事記原文[武田祐吉訳]…、

於是其弟、泣患居海邊之時、鹽椎神來、問曰「何虛空津日高之泣患所由。」答言「我與兄易鉤而、失其鉤。是乞其鉤故、雖償多鉤、不受、云猶欲得其本鉤。故泣患之。」爾鹽椎神、云「我爲汝命、作善議。」卽造无間勝間之小船、載其船、以教曰「我押流其船者、差暫往。將有味御路、乃乘其道往者、如魚鱗所造之宮室、其綿津見神之宮者也。到其神御門者、傍之井上、有湯津香木。故坐其木上者、其海神之女、見相議者也。」訓香木云加都良、木。
[そこでその弟が海邊に出て泣き患うれえておられた時に、シホツチの神が來て尋ねるには、「貴い御子樣の御心配なすつていらつしやるのはどういうわけですか」と問いますと、答えられるには、「わたしは兄と鉤を易えて鉤をなくしました。しかるに鉤を求めますから多くの鉤を償いましたけれども受けないで、もとの鉤をよこせと言います。それで泣き悲しむのです」と仰せられました。そこでシホツチの神が「わたくしが今あなたのために謀をしましよう」と言つて、隙間の無い籠の小船を造つて、その船にお乘せ申し上げて教えて言うには、「わたしがその船を押し流しますから、すこしいらつしやい。道がありますから、その道の通りにおいでになると、魚の鱗のように造つてある宮があります。それが海神の宮です。その御門の處においでになると、傍の井の上にりつぱな桂の木がありましよう。その木の上においでになると、海神の女が見て何とか致しましよう」と、お教え申し上げました]


鹽椎神

早速「鹽椎神」の登場である。主役が困った時に現れる有り難い神様達である。通説では「潮流を司る神」「航海の神」「製塩の神」と謂れ、とある神社では主祭神として祀られているとのことである。それはそれとして「鹽椎」は何を意味しているのであろうか?…「椎」=「背骨」と紐解いた経緯がある。

伊邪那岐・伊邪那美の神生みの中で風神、木神、山神、そして野神:鹿屋野比賣神、亦名謂野椎神で登場した。「山稜の端で狭い隙間の枝稜線」を表現したものと解釈した。

また後に出て来る「針間国」(針のような細い隙間の国)の場所を求めた時に現地名が「椎田」(福岡県築上郡築城町)と言われるところに比定した。

では「鹽」は「塩」の古字である。通常の塩以外の解釈は難しいようでもある。一応、原義に戻ってみると「しっかり見ひらいた目・人・水の入ったタライ」のようである。

これが紐解きのヒントとなった。背骨の形をしているのが(海)水なのである。上図を参照願う。塩水が椎の形となっている。日向の海辺(現地名遠賀郡岡垣町)にあった。その近隣で悩める御子は教えを受けたのである。


鹽椎神=鹽(海水)|椎(背骨の形)|神

…と読み解ける。だとすると、当時はここは海であったことを示している。もう少し正確には「忍海」(海水と川水が交じる海)であったと推測される。現在の標高からしても十分に納得できる場所であろう。現在の多くの池があるが「日向の依網池」と後に呼ばれるところと重なるのである。

「背骨」を示すのが海、川の「液体」だから鹽の「固体」で記述した。本当かな?…とも思えるような精緻さ…おかげで見つけ出すのに手間取るではないか!…ちょっとした顛末記であった。

火遠理命が泣いていたのは上図の「椎」の東側の海辺ではなかろうか…そこは古遠賀湾に面するところと推測される。「鹽椎神」に舟に乗せられ押し出されて「味御路」を行けと教えられた。その教えに従って「道」を行くと「魚鱗」ような宮に行き着いたと記述される。そこが綿津見神之宮でその海神に比賣が居ることまで、細々と情報を貰ったのである。


味御路

流石にここら辺りの紐解きは難しい…が、臆せず進んでみよう。先ずは「味御路」は何と読むか?…「味」は幾度か古事記に登場し、多くは「アジ」の意味で解釈可能かと思われるが、やはり何らかの地形象形の表現であろう。


<味御路>
「味」=「口+未」と分解する。上記は明らかに海路を示すので「口」=「入口」として、「未」の解釈を如何にするか・・・、


未=木(山稜)+一

…に砕く。すると、「山稜を横切る」地形が浮かび上がって来る。「味御路」は…、
 
味(入口がある山稜を横切るところ)|御(統べる)|路(道)

…「幾つかの入口がある山稜を横切るところが纏まって一つになった道」と紐解ける。

古遠賀湾から洞海湾へ抜ける際に幾つかの山稜の谷間が纏まって一つの道になっている状態を述べている。

「御」=「御する、統べる、支配する」=「纏めて一つにする」と解釈した。「御」=「馬を操る」という意味がある。

手綱を纏めて一つにする様を模していると思われる。複雑な地形、かつ縄文海進による当時の海面上昇を考慮する必要があるが、基本的な地形に決定的な相違はないと思われる。

押し出された「无間勝間之小船」は、三つの入口のどれかを選択して、勿論それはすぐに合流して洞海湾に入る。「味」の解釈、安萬侶コードに登録するや否やは後に登場した時に行おう。それにしても何とも味な使い方である。

後の允恭天皇紀に登場する味白檮と同様に「味御路」も全く解釈されて来なかった。殆ど無視と言って良いものである。「味御路」は「海の路」を意味する。大海原を茫洋と進むのではなく「路」を示すところを進めと鹽椎神が告げているのである。この説話の舞台はそれを満たす地形のところを…明確に…示している。それほど重要なキーワードなのである。

では、豐玉毘賣命は何処に居たのか?…「玉」探しである。


豐玉毘賣命

下図を参照願うが「勾玉」の地が見出せる。よく見ると「魚鱗」の形の丘である。現地名北九州市小倉南区湯川新町。後に「三川之穂」「三川之衣」と表現され「豐」が冠される地である。現在の三河地方に「豊」が付く、豊田(挙母)、豊川(穂)、豊橋(穂)これら全て国譲りをされた結果であろう。きちんと譲られたら遡及できるのである。


<豐玉毘賣命>
三川之衣の「衣」=「襟」であり、首元の開いた状態を示している。

山麓を模した表現と解釈できる。その開いたところにある「玉」が豐玉毘賣の居場所と推定される。

流石に龍宮城などに比喩されて海の底にあった宮、通常の地図では識別不可能であった。見難くはなるが、明らかに標高が異なるのである。

当時は山稜の端が一段高くなって干潟に突き出た岬のような地形だったのではなかろうか。

舟が進んだ道筋を下図に示した。何だか解けてみれば呆気ない感じのルートである。



上図に示したように邇邇芸命が降臨した「竺紫日向」から古遠賀湾、洞海湾そして現在の小倉北区の大半を占めた淡海を過ぎれば届く。この地域は古代の地形から大きく変化したことが知られている。がしかし、その特徴は残されているようである。古代の人々にとってこの移動は非日常の出来事では決してなかったと推測される。

少し余談になるが…伊邪那岐・伊邪那美が生んだ「綿津見神」の解釈を前記で以下のようにした。


海神:大綿津見神

次いで海神が生まれる。名を「綿津見神」と言う。一文字一文字を紐解くと…「大=偉大な」として…、


綿津見神=綿(海)|津(海と川が集まる)|見(見張る)|神


偉大な「海と川が集まるところを見張る」神となる。通説のような単なる海の神ではないと解釈する。


Wikipedia:「ワタ」は海の古語、「ツ」は「の」、「ミ」は神霊の意であるので、「ワタツミ」は「海の神霊」という意味になる…と記述されている。「津」「見」の解釈は全く当て嵌まらないのである。古事記は「霊」を語ることはない。下記するように「日子番能邇邇芸命」であり「日子穗穗手見命」である。「番」→「見」としていることが判る。

古代の海面を考慮せずしてこの地は浮かび上がって来ない。ましてや「海の神霊」がこんな内陸に居ることはあり得ないであろう。神霊とすれば存在場所などどうでもよい、のかも。些細なことを…と言われそうだが、古事記全体解釈上、極めて重要な差異であることを付け加えて置きたい。

虛空*津日高

山佐知毘古(火遠理命)には別名の「天津日高日子穗穗手見命」が付加される。邇邇芸命のフルネームに類似するようである。「穂手」=「揺らぐ穂先」即ち「火(ホ)の手」のように解釈し、「天津日高」=「天津(天の津)|日高(日々高くなる)」として、「日子穗穗手見命」は…


日子穂(日が生んだ稲穂)|穂手(揺らぐ穂先)|見(見張る)


…命・・・何と息子になると「豊かに実った穂先を見張る」に変化する。安萬侶くんの戯れにほぼ近いようである。が、彼らの名前の紐解きは、ほぼ間違いないように感じさせられることになる。

上記では「天津」ではなくて「虛空津」と記述される。「天=ソラ」に読み替えたとも言えるが、邇邇芸命が降臨して「邇岐志国の天」は「虚空」になったことを表しているようである。戯れもここまで来ると文化であろう。漢字を用いて表現することを継続するなら、やはりこの戯れは残しておきたいものである。

押し流されて豊玉毘賣命を娶り、海神・綿津見神の宮に三年も居候するのだが、そのままでは皇統が途切れる。突然あの日のことが蘇ってと記される。時を超越した物語である。いつものことだが・・・。

2018年3月15日木曜日

神阿多都比賣亦名謂木花之佐久夜毘賣 〔187〕

神阿多都比賣・亦名木花之佐久夜毘賣


邇邇芸命は竺士日向の地に落ち着いたら、早速娶りに取り掛かる。笠沙御前で美人に出会ったと伝える。大山津見神の比賣と言うが、母親は不詳。八上比賣が居た稲羽辺りかもしれないが・・・。伊邪那岐が禊祓をして最後は淡海之多賀に引き籠ったり、大国主命が八上比賣を娶ったり、後には神倭伊波禮毘古命が阿多之阿比良比賣を娶ったりと、日向と出雲との繋がりが頻出する。

この二つの国の地理的環境がそれを可能にしていることが解釈の要点であろう。偶然では済まされない深い繋がりなのである。出雲に降臨した速須佐之男命の関連では日向(現遠賀郡岡垣町)の西にある「秋津」(現宗像市)との繋がりも見逃せないところである。

日本の古代史を紐解く際の「定点」はこの「秋津」である。如何なる権威を持っていてもこの地を動かすことはできなかったのである。常にこの地に視点を置いた認識こそが古代を真っ当に再現することができる紐解きとなろう。現時点で判った唯一の定点を大切にしよう。

さて、歴史上有名な「木花之佐久夜毘賣」、さらりと流していたこの毘賣の素性をもう少し明らかにしてみたく・・・。

古事記原文[武田祐吉訳]…、

於是、天津日高日子番能邇邇藝能命、於笠紗御前、遇麗美人。爾問「誰女。」答白之「大山津見神之女、名神阿多都比賣此神名以音亦名謂木花之佐久夜毘賣。此五字以音。」又問「有汝之兄弟乎。」答白「我姉石長比賣在也。」爾詔「吾欲目合汝奈何。」答白「僕不得白、僕父大山津見神將白。」故乞遣其父大山津見神之時、大歡喜而、副其姉石長比賣、令持百取机代之物、奉出。故爾、其姉者、因甚凶醜、見畏而返送、唯留其弟木花之佐久夜毘賣、以一宿爲婚。
[さてヒコホノニニギの命は、カササの御埼みさきで美しい孃子おとめにお遇いになつて、「どなたの女子むすめごですか」とお尋ねになりました。そこで「わたくしはオホヤマツミの神の女むすめの木この花はなの咲さくや姫です」と申しました。また「兄弟がありますか」とお尋ねになつたところ、「姉に石長姫いわながひめがあります」と申し上げました。依つて仰せられるには、「あなたと結婚けつこんをしたいと思うが、どうですか」と仰せられますと、「わたくしは何とも申し上げられません。父のオホヤマツミの神が申し上げるでしよう」と申しました。依つてその父オホヤマツミの神にお求めになると、非常に喜んで姉の石長姫いわながひめを副えて、澤山の獻上物を持たせて奉たてまつりました。ところがその姉は大變醜かつたので恐れて返し送つて、妹の木の花の咲くや姫だけを留とめて一夜お寢やすみになりました]

木花之佐久夜毘賣」は本名ではない、いや逆か?…それは横に置いて、いつものことながら毘賣の居場所を示す名前の方を紐解く。


神阿多都比賣

「阿多」は既に何度も登場で、「大斗」の「斗」=「柄杓」の地ではなく「阿」=「台地」形状の地であることを示している。


阿多=阿(台地)|多(大:出雲)

…「台地の出雲」と紐解く。現地名は門司区大字黒川であるが、現住居表示は改名・細分化されているようである。

人名の最初に付く「神」は、ほぼ全て「稻妻のような山稜」として解釈することができる。最近では速須佐之男命の後裔に多数登場する。例えば「神大市比賣」「神活須毘神」「神屋楯比賣命」などがある。戸ノ上山の北~西山稜を比喩したものと解釈した。とすると「神阿多都比賣」は…、


神(稻妻の山稜)|阿多(台地の出雲)|都(集まる)


…「稲妻の山稜があって台地の出雲にある川の合流点の傍らに坐す」比賣と紐解ける。

これに合致する地形は北九州市門司区黒川東・西辺りと推定される。右図を参照願う。

砂利山から延びた山稜を「神」と表現している。山間ではあるが阿多の中心地であったと告げているようである。

「都」は「みやこ」の意味も込められていると思われる。「津」ではなく「都」と表現する。「川」のみに限られず様々なものが寄り集まった地を意味しているのであろう。

山に囲まれ、決して広くはないが自然環境に優れたところであり、当時の「都」となり得る地形と思われる。こんな地には独自の文化が発生することが多いようである。「阿多」が示す意味をしっかりと受け止めることが肝要かと思われる。

この後に登場する御子の「火照命」は「隼人阿多君之祖」と註記される。古事記は多くを語らないが「隼人」の出自に関わる場所であることが述べられる。

例によって姉妹が登場して「因甚凶醜、見畏而返送」となる。「木花」と「石」を対比した比喩はそれなりに面白いのだが・・・。

火照命(後の海佐知毘古)、火須勢理命、火遠理命(後の山佐知毘古)の三人を全て燃え盛る火の中で産んだとか…漸くにして天孫降臨の物語は終わりを告げる。

何と言っても三貴神の一人須佐之男命が降臨して以来物語の舞台は常に出雲の地であった。

だからこそ古事記の記述の中で占める分量が多く、また内容も詳細で具体的である。

通説の出雲国、その地における伝説を付け加えたかの解説は全く当たらない。伊邪那岐・伊邪那美の「国生み」「神生み」の後に途切れることなく続く物語である。古代における「大斗」の出雲国の果たした役割は極めて大きいとあらためて感じるところである。

古事記は「神阿多都比賣」が生んだ三人の御子達の説話に進む。そして「日向」における彼らの生業を伝えていく。また後日に述べてみよう・・・。

…全体を通しては古事記新釈の「日子番能邇邇芸命」を参照願う。



2018年3月14日水曜日

邇邇芸命に随行した天忍日命・天津久米命 〔186〕

邇邇芸命に随行した天忍日命・天津久米命


邇岐志国の天津日子番能邇邇藝命を降臨させることが決まり、随行の神々に申渡しをして、いよいよ出陣という場面である。父親の忍穂耳命が天浮橋で葦原中国の様子を伺ったように邇邇芸命達もそこで陣容を整えたと記述される。それからは迅速、一気に天降ったのである。

古事記原文[武田祐吉訳]…

故爾詔天津日子番能邇邇藝命而、離天之石位、押分天之八重多那此二字以音雲而、伊都能知和岐知和岐弖自伊以下十字以音、於天浮橋、宇岐士摩理、蘇理多多斯弖自宇以下十一字亦以音天降坐于竺紫日向之高千穗之久士布流多氣自久以下六字以音。故爾、天忍日命・天津久米命、二人、取負天之石靫、取佩頭椎之大刀、取持天之波士弓、手挾天之眞鹿兒矢、立御前而仕奉。
故其天忍日命此者大伴連等之祖・天津久米命此者久米直等之祖也、於是詔之「此地者、向韓國眞來通、笠紗之御前而、朝日之直刺國、夕日之日照國也。故、此地甚吉地。」詔而、於底津石根宮柱布斗斯理、於高天原氷椽多迦斯理而坐也。
[そこでアマツヒコホノニニギの命に仰せになって、天上の御座を離れ、八重立つ雲を押し分けて勢いよく道を押し分け、天からの階段によって、下の世界に浮洲があり、それにお立ちになって、遂に筑紫の東方なる高千穗の尊い峰にお降り申さしめました。ここにアメノオシヒの命とアマツクメの命と二人が石の靫を負い、頭が瘤になっている大刀を佩いて、強い弓を持ち立派な矢を挾んで、御前に立ってお仕え申しました。このアメノオシヒの命は大伴の連等の祖先、アマツクメの命は久米の直等の祖先であります。
ここに仰せになるには「この處は海外に向つて、カササの御埼に行き通つて、朝日の照り輝く國、夕日の輝く國である。此處こそはたいへん吉い處である」と仰せられて、地の下の石根に宮柱を壯大に立て、天上に千木を高く上げて宮殿を御造營遊ばされました]

降臨の地など詳細はこちらを参照願う。前例のようにそのまま出雲に降りるのではなく全くの迂回ルートを採ったことになる。この記述の布石が随行の神々のへの申渡しの中にある。原文を引用すると…、

天照大御神・高木神之命以、詔天宇受賣神「汝者、雖有手弱女人、與伊牟迦布神面勝神、故專汝往將問者『吾御子爲天降之道、誰如此而居。』」故問賜之時、答白「僕者國神、名猨田毘古神也。所以出居者、聞天神御子天降坐故、仕奉御前而、參向之侍。[天照らす大神・高木の神の御命令で、アメノウズメの神に仰せられるには、「あなたは女ではあるが出會った神に向き合って勝つ神である。だからあなたが往って尋ねることは、我が御子のお降りなろうとする道をかようにしているのは誰であるかと問え」と仰せになりました。そこで問われる時に答え申されるには、「わたくしは國の神でサルタ彦の神という者です。天の神の御子がお降りになると聞きましたので、御前にお仕え申そうとして出迎えております」と申しました]

両神の信頼厚き天宇受賣神へ伝えたこと、武田氏の訳で概ね論旨は通じるが、ここは微妙な表記なのである。今一度詳細に読み解いてみる。「與伊牟迦布神面勝神」→「出會った神に向き合って勝つ神」と宇受賣のことを言っている。「伊牟迦布神」→「出會った神」は読み解けず意訳されたのであろう。


伊(僅かに)|牟(奪う)|迦(道を施す)|布(敷く)|神

…と紐解く。「施し敷いた道を僅かに奪う神」と解釈される。「迦」=「辶+加」と分解して「道を加える」→「道を施す(作る)」の意と解釈する。「迦」=「出会う、合せる」などと訳するが「モノが繋がっていく様」を表現してるとすると同義となろう。

引き続いて「天降之道」と言う。これで論旨が繋がることになる。上記の「道」とは「天降之道」のことを指し示している。全体を見直してみると「伊」の表現をそのまま受け取るわけにはいかないことが解って来る。即ち現実は「僅かに」ではなく「遍く」、ほぼ全てと言っていいくらいに、と読み解くべきなのである。

降りろ、と言ってはみたものの降りるところがない有様、だから宇受賣よしっかりせよ!と伝えている。更に国神の猨田毘古神を引き摺り出して案内させたと告げているのである。出雲に手こずった天神達(古事記は語らないが、邇藝速日命の件も…)の苦悩を長々と書き連ねたのは、この現状を知らしめるためであったと思われる。

宇岐士摩理、蘇理多多斯弖」緊張感を漂わせて迂回の地に降り立ったと記述される。降臨の難しさ、多くの犠牲を払わなければ達成できないことを語る。たとえ降臨できたしてもその地を開拓していくことは一層の困難を伴うこと、それらを語る古事記と読み取ることができる。「天」の地からは想像を遥かに越える厳しい環境の地への移動、それを語っていると思われる。

今日は何を書こうかと…忘れるところであった・・・。随行者の話であった。


天忍日命

帯同した天忍日命・天津久米命について少々書き加えて置こうかと思う。「其天忍日命此者大伴連等之祖・天津久米命此者久米直等之祖也」と記述され、大伴氏、久米氏として後々まで天皇を支える大将軍の祖となる命達である。彼らの出自として名前に潜められた場所を紐解いてみよう。


忍日=忍(目立たぬ)|日(火の頭)

…「火の頭」は前記の「萬幡豐秋津師比賣命」の「秋」に関連すると読む。「秋」→「火」と紐解いた。伊邪那岐・伊邪那美が最初に生んだ十神の内:水戸神の速秋津日子神・妹速秋津比賣神に含まれる文字である。現在の宗像市に居た神々とした。

「日」=「火」は幾度となく登場する置き換えである(借字)。最近の例で言えば、前記の多藝志に居た飯日比賣命、大国主命の後裔である天日腹大科度美神に含まれる「日」は「火(頭)」を示すと解釈した。

「忍」も度々の登場で「目立たない、隠れている、一見ではそう見えない」など状況によって適当な訳にする文字である。「忍穂耳命」=「一見では穂(川に挟まれた州)に見えないところの縁」などと解釈した・・・いずれ「古事記で用いられる地形象形文字」ととして纏めるかも…あ、万葉集も、である。

幸運にも「萬幡豐秋津師比賣命」の居場所が突き止められた今ではこの命の居場所は容易に推定することができる。下図を参照願うが、真に「忍」の「火」が鎮座しているのである。大伴氏の祖先はここに居た。

天津久米命

「天津」は現谷江川の最大の合流点の近傍に居た命に間違いはなかろう。それを背景に「久米」を紐解いてみる。「久」は川の形で「米」合流点そのものを示しているのではなかろうか。

久(久の形)|米(川の合流点)

…と紐解けるが、さて本当であろうか?…下図を参照願う。地図を右方向に45度回転したものである。

「久」と読めるかどうかは読み手に依存する、かな?…まぁ、概ね読めそうな感じである。

現在の地形と相違することは十分に理解できるが上記で紐解いた「久米」の意味するところと合致した結果である。

後に出てくる阿久斗比賣に類似する。また後に「久米=黒米」と解釈する場合が生じるが、掛けてあるのかもしれない。下図に纏めて二人の命の居場所を示した。





天之波士弓・天之眞鹿兒矢

彼らが所持したのが「取持天之波士弓、手挾天之眞鹿兒矢」と記述される。高御巢日神・天照大御神が天若日子を出雲に派遣する時に授けたのが「天之麻迦古弓・天之波波矢」別名「天之波士弓・天之加久矢」と記されていた。別名と合せて…、

縛り合わせ固定して端が反り曲がった弓
二枚の羽が交差した角のある矢

…であると読み解けた。

並べて整理すると…弓は「波士弓(端が反り曲がった弓)」で同じ、矢の表現が更に追加されているように思われる。

「眞鹿兒」は文字通りでは「本物の鹿の児」であろうが、弓矢に関連するとすれば、接着に使用する「膠(ニカワ)」のことを述べていると解釈される。鹿皮などから加熱抽出し、接着剤として古代でも利用されていたことが知られている。


眞鹿兒矢=本物の鹿皮の膠で作った矢

…と読み解ける。矢羽及び矢尻(鏃)を矢柄(篦)に取り付けるには不可欠のものであったろう。この接着が不完全では矢の性能に大きく影響する。重要なキーワードなのである。

「眞鹿兒」=「麻迦古(縛り合せて固定する)」と読み替えることができる。膠を使って縛り合せて固定して矢を作ったのである。武器については、真に捻れた表現をしている。本来は極秘であったから、と憶測しておこう。Youtubeに自作の矢が載っていた。