2018年3月26日月曜日

神倭伊波禮毘古命:三嶋の娶り、その詳細 〔191〕

神倭伊波禮毘古命:三嶋の娶り、その詳細


前記で神倭伊波禮毘古命は、出自不明の美和之大物主神が三嶋湟咋之女・名勢夜陀多良比賣に産ませた子、比賣多多良伊須氣余理比賣を娶って、日子八井命、神八井耳命、神沼河耳命の三人の御子が誕生する」と書き出してその概略を紐解いた(本ブログ〔082〕参照)。

その後「美和之大物主神」の出自も見えて来たところで今一度読み下してみよう。安萬侶くんが伝えることが更に見つかるかもしれない。出雲の御諸山(現在の谷山)に座していた大物主神が悪さをした「三嶋湟咋之女・名勢夜陀多良比賣」の詳細から始める。

三嶋湟咋・勢夜陀多良比賣

三嶋」は現在の京都郡みやこ町勝山箕田にある「三島団地」辺りとした。由来などは不明であるが、図に示したように「三つの島」があったように見ることもできる。障子ヶ岳の枝山稜が延び、長峡川と初代川に挟まれた中州の地である。

古墳が複数あり、古代から人々が住み着いていた場所なのであろう。湟咋」=「堀を作って杭を打つ」「用水路」を作り、治水に長けた人物だったと告げている。図を参照願うが無数の谷川が流れるところ…「橘」の地でもある。

「八俣遠呂智」を退治したら英雄になる、と既に教えられた。谷川を制した者が豊かな財を為していた時代であろう。比賣の名前が「勢夜陀多良比賣」とある。何処に居たのか紐解いてみよう。


勢(丸く小高い山稜)|夜(谷)|陀(崖)|多(三角州)|良(なだらか)

「丸く小高い山稜の端にある谷の崖の麓で三角州がなだらかに連なっているところ」に坐す比賣と紐解ける。現地名は京都郡みやこ町勝山松田上野辺りと思われる。上図を参照願う。上流部に複数の谷があり、更に小ぶりな「宇陀」を抜けて川が流れる地形を示している。

三嶋湟咋」は山麓の谷川を利用して豊かな田にしていたと伝えているのである。その山麓の美人の比賣を大物主大神が狙って、誕生したのが「伊須氣余理比賣」である。

伊須須岐比賣命(伊須氣余理比賣)

「伊須氣余理比賣」は「富登多多良伊須須岐比賣命」の別名であるが、ほぼ同じような意味かと…名前の前半部がマズイ、ということなのだろう。一応紐解くと…、


伊須須岐=伊(小ぶりな)|須(州)|須(州)|岐(二つに分かれる)

…「小ぶりな州の中が二つに分かれている」ところの比賣と解釈できる。「多多良」=「真直ぐのように」*と読み解ける。前半だけでなく、このフルネームはかなりの戯れである。古事記らしい、と言うべきか・・・。


因みに「伊須氣余理」=「僅かばかり州が勢い余って区分けされた」ぐらいかも…。

多くありそうだが母親の近隣で探すと現地名みやこ町勝山松田上野ヶ丘辺りではなかろうか。

この近隣に住まって居た「意富多多泥古」の「多多」に関連付けていると推察される。

事実、三嶋湟咋によって見事に治水されていたのであろう。全てが繋がる表現である。

上記されているようにここには住まず「伊須氣余理比賣命之家、在狹井河之上」と記されている。

御所ヶ岳山塊を越えたところに居たのであろう。地名は京都郡みやこ町犀川大村辺りである。


彼女はどうも命名からしてこの地を離れたかったのではなかろうか・・・。

既に求めた御子の「日子八井命、神八井耳命、神沼河耳命」の居場所と併せて下図に示した。

古事記の水田作りに関する記述は貴重と思われるが、それを取り上げた著書は見当たらない。

浅学ゆえかどうか、なければ真にもったいないことである。見事な棚田が続いていることが判る。古代を偲ばせるものと思われるが・・・。

上図一番手前の大きな棚田(茨田=松田)を担当した日子八井命はこの地に残り引き続いて開拓して行ったのであろう。神八井耳命は各地に飛ぶことになる。最後の神沼河耳命が神武天皇の日向時代の御子「多藝志美美命」との争いに勝って第二代綏靖天皇となり、葛城に移るのである。

通説は大物主大神を大国主命の御霊としたり、伊須氣余理比賣を事代主神の比賣としてみたり(日本書紀)様々である。古事記が伝えているのは、大国主命系列は歴史の表舞台から消え去った、のである。天神達の大失態を隠すことはないが、その捻れた表現で記述しているのである。

神倭伊波禮毘古命が畝火山の麓に辿り着くまでにどれだけの犠牲を払わねばならなかったかを、その捻って戯れた表記で記されたのが古事記と読み解ける。

…全体を通しては古事記新釈の「神武天皇」を参照願う。



*「多多」は複数の解釈があるが、古事記では後に登場する丹波比古多多須美知能宇斯王の「多多須美知」=「真直ぐな州の道」の解釈に類似すると思われる。意富「多多泥古」は…、


多多(真直ぐに)|泥(水田)|古(固:定める)

…意富の「真直ぐに水田を定める」命と紐解ける。長峡川、初代川に挟まれたところで治水を行っていたのであろう。