2018年3月29日木曜日

夜麻登の高佐士野 〔192〕

夜麻登の高佐士野


「師木」に侵出した神倭伊波禮毘古命は畝火之白檮原宮に坐して天下を治めたと伝えられる。初代神武天皇の誕生である。その地「伊波禮」は…、


伊波禮=伊(神の)|波(端:ハタ)|禮(山裾の高台)

「畝火山(神)の傍にある高台」と紐解いた。歴代の天皇の宮の場所と併せて再掲する。

現在は山とは言えない、高台のようになっているが「石上」にいる神を奉り国の繁栄に勤めた古代の人々の日常を示す場所である。

その発端となった「畝火之白檮原宮」は「高佐士野」あったと伝えている。右図に示した通り、場所は間違いなく比定できるのであるが、「佐士」の意味を今一度考えてみようかと思う。

地形を象形する「当て字」手法の原形のような記述と思われる。

古事記原文[武田祐吉訳]…、

於是七媛女、遊行於高佐士野佐士二字以音、伊須氣余理比賣在其中。爾大久米命、見其伊須氣余理比賣而、以歌白於天皇曰、
[ある時七人の孃子が大和のタカサジ野で遊んでいる時に、このイスケヨリ姫も混っていました。そこでオホクメの命が、そのイスケヨリ姫を見て、歌で天皇に申し上げるには]
夜麻登能 多加佐士怒袁 那那由久 袁登賣杼母 多禮袁志摩加牟
[大和の國のタカサジ野を七人行く孃子たち、その中の誰をお召しになります]
爾伊須氣余理比賣者、立其媛女等之前。乃天皇見其媛女等而、御心知伊須氣余理比賣立於最前、以歌答曰、
[このイスケヨリ姫は、その時に孃子たちの前に立っておりました。天皇はその孃子たちを御覽になって、御心にイスケヨリ姫が一番前に立っていることを知られて、お歌でお答えになりますには]
加都賀都母 伊夜佐岐陀弖流 延袁斯麻加牟
[まあまあ一番先に立っている娘を妻にしましようよ]

早速婚活をして娶ったという件である。見初めたのが前記で登場の「伊須氣余理比賣」そう、大物主大神の比賣である。

この比賣は元々「富登多多良伊須須岐比賣命」と呼ばれたが、それを嫌って改名したのだそうである。下記にこの長たらしい名前を紐解いてみよう。

さて、話を戻して・・・「高佐士野」中では「多加佐士怒」であり…、


佐士=佐(タスクル)|士(天子)

…と解釈した。「高佐士野」=「高い所にある宮殿を奉り仕えるところの野原」と紐解いて、宮は畝火之白檮原宮とすると、その傍らにあったところを示している。

「夜麻登*」これが「大和(ヤマト)」の語源と言われるものであろう。1300年間多くの人々を煩わせてきた…中国史書も含めて…ものの正体である。何の雑念もなく読み下せば、「夜麻登能」=「山登りの」となる。

「夜麻登能 多加佐士怒」=「山登りの高い所にある宮殿を奉り仕えるところの野原」と解釈される。現在に残る、福岡県田川郡香春町「高野」ここに「畝火之白檮原宮」があったところであると紐解いて来た。


余談だが・・・後にネットで調べると「高野」の地を挙げられている方もおられるようである。何を根拠にされたのか不詳であるが高野にある「鶴岡八幡神社」に比定されている。ここは本ブログで安閑天皇が坐した「勾之金箸宮」としたところである。今も残る「勾金」の地である。


上記古事記原文の註記に「佐士二字以音」とある。では元の表記は何であったのか?…「佐士」は地形象形ではなく、意味を示す表現であった。

元の「佐士」が見つかればきっと地形を示唆するものと推測される。関連する「サシ」「サジ」などの漢字表記を探すと、意外や簡単に現れたのである。


佐士=匕(サジ:匙)

…の置き換えと読み解ける。山稜の形を象形したものではなかろうか。

匙の先っぽの平たくなったところが「高佐士野」に当たると比定される。解釈不明の命名だと思われてきたところが漸くその姿をみせてくれたように思われる。「伊波禮」の地は後の履中天皇などが坐したところである。神倭伊波禮毘古命に因む地名であろう。彼らの名前から上図のような地域であったと推定した。

勿論「白檮原宮」はその地に含まれる。現在の貴船神社辺りと思われる。「高佐士野」に囲まれた地形を示している。

そもそも神倭伊波禮毘古命の「神」は「神様のような」と言う意味であろうか?…やはり「稲妻」であろう。

大坂山から延びる長く大きな山稜が示す「稲妻」その広がるところが「倭」であり、裾野を「伊波禮」と告げている。

流石に初代天皇の居場所、複数の表現で伝えようと工夫されているのである。複数の表現が収束するところが現在の皇統の発祥の地であると言えよう。



上記した「富登多多良伊須須岐比賣命」を紐解いてみよう。その前にWikipediaを引用すると・・・、

『日本書紀』では「媛蹈鞴五十鈴媛命」と記す。『古事記』では「比売多多良伊須気余理比売」(ヒメタタライスケヨリヒメ)と記し、別名、「富登多多良伊須須岐比売」(ホトタタライススキヒメ)としている。島根県の郷土史家、加藤義成の説によると、皇后の名の中にある「タタラ」とは、たたら吹きを指したり、その時に用いられる道具を示す場合もあり、このことは、皇后の出身氏族が、製鉄と深い関係がある東部出雲(島根県松江市、安来市、奥出雲町を含む)地域であったことを物語っているとする。『古事記参究』素行会(1986年)など。

・・・と記載される。

「富登」を「たたら吹き」してどうするんでしょうか?…当然島根が登場するのだが、はっきり申して支離滅裂であろう。

「富」の解釈がポイントである。大国主命の後裔に「國忍富神」が誕生する。また新羅の青沼馬沼押比賣の御子の名前に「布忍富鳥鳴海神」がある。そして大年神の御子に「曾富理神」が登場する。各々原報を参照願うが、全て「富」=「宀(山麓)+酒樽(坂)」=「山麓の坂」と紐解いた。

「多多良」は「たたら吹き」では決してなく「多多(真直ぐ)|良(~のように)」と読み解く。「意富多多泥古」「丹波比古多多須美知能宇斯王」に含まれる「多多」と同じ解釈であろう。すると「富登多多良伊須須岐」は…、


富(山麓の坂)|登(登る)|多多良(真直ぐのように)|
伊(小ぶりな)|須須(二つの州に)|岐(分ける)

…「山麓を登り真直ぐに小ぶりな二つの州に分ける」と紐解ける。下図を参照願う。一本の川が山麓を流れて州が二つに分かれているのが見て取れる。

一見戯れのように読取れる表現は見事な地形象形だったのである。女陰が爛れて・・・そうとも言ってることも確かであろう。狭井河(犀川)の畔に住まわせるための布石でもあろう、と推測される。

…と、安萬侶コードは健在である・・・。

…全体を通しては古事記新釈を参照願う。


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<夜麻登*
「夜麻」=「山」のように読んで来たが、文字列の紐解きとしては不十分であったと思われる。
 
夜(谷)|麻(狭い)|登(登る)

…「狭い谷を登る」となる(下図参照)。「麻」=「近接する、細い」とする。図に示したように深くはないが狭い谷を登った場所に野がある地形を表している。


<夜麻登・高佐士野>
                                   (2018.11.01)

閑話休題・・・「夜」=「谷」と解釈したが、もう少し丁寧に紐解いてみる。「夜」=「亦+夕(月)」と分解され、月が脇の下に落ちた時(夜)を示すからなどと解説されているが、些か腑に落ちない・・・と洒落てみても致し方なし。

「亦」は、二つの稜線に挟まれたところを表し、平らな頂の山(稜)を持つ谷であって、その谷の中に幾つかの稜線(谷川)があるところの象形と読み取れる。類似の文字の「赤」(雄略天皇紀の赤猪子など)、更には「血」(血原など)も複数の稜線が延びる山腹の様相を象った表記と解釈した。

纏めると「夜」=「複数の川が作る三角州(月)のある谷」と解読される。関連する「八」=「谷」と解釈するが、これは大雑把な形状(地形)を表す表記であって、「夜」はその谷の微細構造の情報が付加されていると読み解く。以後も簡便に「谷」と訳すが、上記の内容を含んでいるとする。

裾野の地形は当時との相違が大きいと推測される。石野比賣と木花之佐久夜毘賣(「夜」を含んでいる)の説話ではないが、裾野は移ろい易いものである。地図上に小川の詳細が記されている場合は少ないようでもある。検証・実証することが目的ならば、課題を抱えることになるが、それは本著の範囲を越えるものであろう。

いずれにしても「夜(ヤ)」=「谷(ヤ)」の洒落で解読したわけではないことを付け加えておく。万葉の世界の当て字、全て闇雲に当てていると思うなら、それは悲しいことである。(2019.04.04)

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佐士怒」を…、

佐(促す)|士(之:蛇行する川)|怒(嫋やかな曲がって寄り集まる中心)
 
<夜麻登・高佐士野>
…と解釈すると、「多加佐士怒」は「山稜の端の三角州が重なって蛇行が促された川が寄り集まった中心のところ」と読取れる。

当該の場所の地形を、より一層的確に表現している。多様ではあるが、特定の場所に収束する表記は古事記の真髄を垣間見ることになったようである。

「怒」の解釈については、「怒」=「女+又(手)+心」と分解できる。

既出(八嶋士奴美神など)の解釈と同じく、「心」=「中心のところ」として「怒」=「嫋やかに曲がって寄り集まる中心のところ」と解釈した。(2019.04.04)

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