2021年3月30日火曜日

日本根子天津御代豐國成姫天皇:元明天皇(5) 〔501〕

日本根子天津御代豐國成姫天皇:元明天皇(5)


和銅二年(西暦709年)七月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀1(直木考次郎他著)を参照。

秋七月乙夘朔。以從五位上上毛野朝臣安麻呂爲陸奥守。」令諸國運送兵器於出羽柵。爲征蝦狄也。丁夘。令越前。越中。越後。佐渡四國船一百艘送于征狄所。

七月一日に上毛野朝臣安麻呂(小足に併記)を陸奥守に任じている。四月の記事に前任者の上毛野朝臣男(小)足が亡くなったとあり、その後任であろう。同日、蝦狄を征伐する為に諸國から「出羽柵」に兵器を運び送らせている。前記で建郡された越後國出羽郡に、設置の記述は省略されているが、造られていたようである。おそらく郡司が居住する場所を兼ねていたと思われる。十三日に越前越中・越後・佐渡の四國に「征狄所」へ百艘の船を送らせている。

律令施行が辺境の地に行き渡るには些か時間を要したことを告げているようである。「蝦狄」にしてみれば調・庸などを納めることへの不満は解消するわけはなく、継続的に反抗する機運が潜んでいたと推測される。「征狄所」は如何にも曖昧な表現である。

文武天皇即位四年(700年)正月に越後・佐渡の二國に「石船柵」を修繕させている。この柵は、書紀の孝徳天皇紀に「治磐舟柵、以備蝦夷。遂選越與信濃之民、始置柵戸」と記載された「磐舟柵」であろう。この記述の流れからすると「石船柵」近隣を「征狄所」と呼んでいたと思われる。

「百艘の船」は越前國は海路で、越中・越後・佐渡は現在の奥畑川を下って搬入しろと命じられたと推測される。佐渡は自国で造って標高差50m強の”船越”をするか、越後國への協力で事なきを得たのかは、確かではないようだが・・・。

八月乙酉。廢銀錢。一行銅錢。」太政官處分。河内河内鑄錢司官属。賜祿考選。一准寮焉。戊申。征蝦夷將軍正五位下佐伯宿祢石湯。副將軍從五位下紀朝臣諸人。事畢入朝。召見特加優寵。辛亥。車駕幸平城宮。免從駕京畿兵衛戸雜徭。

八月二日に銀銭を廃止して全て銅銭を使用することにしている。この日、太政官処分として河内の鋳銭司の官人の禄、叙位などを寮に準じるとしている。二十五日、征蝦夷將軍の佐伯宿祢石湯、副将軍の紀朝臣諸人(古麻呂に併記)が事を終えて入朝し、特別の恩寵を与えられている。二十八日に平城宮に行幸。随行した京・畿内の兵衛の労役を免じている。

三月に征越後蝦夷將軍として出向いたと記載されていた。文武天皇即位元年(697年)十二月に越後蝦狄に物を与えているが、懐柔策は万全ではなかったのであろう。大寶二年(文武天皇即位六年、702年)三月の記事で越中國四郡を越後國に属させたと記載されたが、この目的も越後蝦狄取り込みの一環であったと推測される。手を尽くしたが、結局征伐するしかなかったのであろう。

<征越後蝦夷戦闘配置>
ここで改めて本蝦夷征伐の戦闘状況を眺めてみよう。三月に「佐伯宿祢石湯」を将軍に任命して征蝦夷軍を北陸道から越後國に向かわせている。

七月に入って出来たばかりの出羽郡に柵を設け(おそらくこの征伐用に)、兵器を搬入させている。かなり大掛かりな様相を漂わせている。

更に船(百艘)を「征狄所」に運び送れと命じているのだが、その目的は何であったのか?…その場所は上記で蝦夷侵攻に備える石船柵(磐舟柵)と推測したが、もう一つ備えるべき場所があった。

書紀の斉明天皇即位六年(660年)正月の記事に「阿倍臣闕名率船師二百艘」が陣取った場所、大河側である(こちら参照)。

この地を拠点として肅愼國との戦闘に入り、征伐したと記載されていた。「渡嶋」の南西麓であり、「佐渡國」の北端に当たる場所と推定した。「征狄所」と曖昧な表記を續紀が行った所以である。船百艘を揃えれば、敵はたじろぐ、とでも言っているようである。

配置図を示したが、征蝦夷軍が出羽柵に陣取り、越後蝦夷(狄)を攻める時に、東西の蝦夷(狄)の背後攻撃を防ぐ必要があったのである。越後蝦夷にすれば完全孤立状態に陥った状況を作り出したわけである。戦闘の詳細は語られないが、天皇の喜びようからすると完勝だったと推測される。

九月乙夘。授大倭守從五位下佐伯宿祢男從五位上。造宮大丞從六位下臺忌寸宿奈麻呂從五位下。是日。車駕巡撫新京百姓焉。丁巳。賜造宮將領已上物有差。戊午。車駕至自平城。乙丑。賜征狄將軍等祿各有差。己夘。遠江。駿河。甲斐。常陸。信濃。上野。陸奥。越前。越中。越後等國軍士。經征役五十日已上者。賜復一年。」遣從五位下藤原朝臣房前于東海東山二道。検察關剗。巡省風俗。仍賜伊勢守正五位下大宅朝臣金弓。尾張守從四位下佐伯宿祢大麻呂。近江守從四位下多治比眞人水守。美濃守從五位上笠朝臣麻呂。當國田各一十町。穀二百斛。衣一襲。美其政績也。

九月二日に大倭守の佐伯宿祢男に一階進めて從五位上を、造宮大丞の臺忌寸宿奈麻呂に二階進めて從五位下を授けている。この日に天皇は新京を巡って、百姓を慰撫している。四日に造宮の將領(木工の技術者)以上に、それぞれ物を与えている。五日、平城宮から藤原宮に帰っている。十二日に征狄將軍等にそれぞれ禄を与えている。

二十六日に遠江・駿河・甲斐・常陸・信濃・上野・陸奥・越前・越中・越後等の國(こちらなどを参照)の兵士で征狄の役に五十日以上参加した者には租税を一年間免除している。また、藤原朝臣房前を東海・東山二道に遣わして、關や剗(柵)を検察し、その風俗(生活文化の程度)を巡察させている。その結果、伊勢守の大宅朝臣金弓、尾張守の佐伯宿祢大(太)麻呂、近江守の多治比眞人水守、美濃守の笠朝臣麻呂にそれぞれの國の田十町や穀・衣類を政治の業績を褒めて与えている。

冬十月癸未朔。日有蝕之。甲申。制。凡内外諸司考選文。先進弁官。處分之訖。還附本司。便令申送式部兵部。庚寅。備後國葦田郡甲努村。相去郡家。山谷阻遠。百姓往還。煩費太多。仍割品遲郡三里。隷葦田郡。建郡於甲努村。癸巳。勅造平城京司。若彼墳隴。見發堀者。隨即埋斂。勿使露棄。普加祭酎。以慰幽魂。丙申。禁制。畿内及近江國百姓。不畏法律。容隱浮浪及逃亡仕丁等。私以駈使。由是多在彼。不還本郷本主。非獨百姓違慢法令。亦是國司不加懲肅。害蠧公私。莫過斯弊。自今以後。不得更然。宜令曉示所部検括。十一月卅日使盡。仍即申報。符到五日内。无問逃亡隱藏。並令自首。限外不首。依律科罪。若有知情故隱。与逃亡同罪。不得官當蔭贖。國司不糺者。依法科附。戊申。薩摩隼人郡司已下一百八十八人入朝。徴諸國騎兵五百人。以備威儀也。庚戌。詔曰。比者。遷都易邑。搖動百姓。雖加鎭撫。未能安堵。毎念於此。朕甚愍焉。宜當年調租並悉免之。

十月一日に日蝕があったと記している。二日、以下のように制定している。京内外の諸司の考選文(勤務評定の文書)は、先ずは弁官に進め、決済の後に元の司に返し、その後に式部・兵部に申し送るようにせよ、としている。

八日、「備後國葦田郡」の「甲努村」は郡家から隔たり、山や谷が険しく遠く、百姓の往還に際して煩いや費えが甚だ多い。故に「品遲郡」の三里を割いて、「葦田郡」に属させ、甲努村に郡を建てることにした(甲努郡)、と記載している。十一日に造平城京司に勅して、若し古墳墓を発き掘り出すことがあれば、即座に埋め直し棄てることがあってはならない。酒を祭って幽魂(死者の魂)を慰めよ、と述べている。

十四日に禁制を下している。概要は、畿内・近江國の百姓が法を恐れずに浮浪者や逃亡者を囲って使用している。國司が取り締まらないことも一因である。公私を損なう忌々しき事である。今より所管の國の実情を調べ終えること(十一月三十日まで)、自首しなければ罰則を与え、國司が糾明しなければ法に従って処する、と記載している。求人倍率が極めて高い時代であっただろう。國司ぐるみの違反がかなり多かったのかもしれない。

二十六日に薩摩隼人郡司以下百八十八人が入朝している。諸國の騎兵五百人を儀礼に備えさせている。二十八日、天皇が詔されて、遷都の為に百姓が動揺しているようであり、当年の調・租を悉く免じることにしている。

備後國甲努郡
備後國葦田郡甲努村

前記で備後國龜石郡が登場した。下関市に鬼ヶ城・竜王山山系を横切り吉見峠の東側の谷間を推定した。備後國は、この山系の東麓で南北に広がる地域であると思われる。

今回は葦田郡と記される。幾度か登場した葦=艸+韋=山稜に囲まれた様であり、盆地に田が張り巡らされて地形を示している。容易に龜石郡の北隣の地に見出すことができる。

その北端に甲=平らに広がった様努=女+又+力=山稜が嫋やかに曲がり長く押し延ばされた様の地形要素を満足する山稜が一目で認めることができる。この地を甲努村と名付けていたと思われる。

また品遲郡も登場する。品遲=犀の角のような山稜の麓が段々になった様と読み解ける。図では省略されているが、石畑川の東側の山稜の地形を表していると推定される。この郡の三里を甲努村と併せ新しく甲努郡としたと記載している。備後國の地形要素が盛り沢山に記述された記事であり、それらを満たす場所が現地名の下関市内日上(ウツイカミ)であると思われる。

十一月甲寅。以從三位長屋王爲宮内卿。從五位上田口朝臣益人爲右兵衛率。從五位下高向朝臣色夫智爲山背守。從五位下平羣朝臣安麻呂爲上野守。從五位下金上元爲伯耆守。正五位下阿倍朝臣廣庭爲伊豫守。
十二月丁亥。車駕幸平城宮。壬寅。式部卿大将軍正四位下下毛野朝臣古麻呂卒。

十一月二日に長屋王を宮内卿、田口朝臣益人を右兵衛率、高向朝臣色夫智を山背守、平羣朝臣安麻呂を上野守、金上元を伯耆守、阿倍朝臣廣庭(首名に併記)を伊豫守に任じている。

十二月五日に平城宮に行幸されている。二十日、式部卿大将軍の下毛野朝臣古麻呂が亡くなっている。

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『續日本紀』巻四巻尾。











2021年3月25日木曜日

日本根子天津御代豐國成姫天皇:元明天皇(4) 〔500〕

日本根子天津御代豐國成姫天皇:元明天皇(4)


和銅二年(西暦709年)正月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀1(直木考次郎他著)を参照。

二年春正月丙寅。授正四位上阿倍朝臣宿奈麻呂。正四位上小野朝臣毛野並從三位。正五位上大伴宿祢手拍。大神朝臣安麻呂。土師宿祢馬手。正五位下多治比眞人水守並從四位下。正六位下上毛野朝臣荒馬。正六位上土師宿祢甥。從六位上大伴宿祢牛養。從六位下笠朝臣長目。大春日朝臣赤兄。穂積朝臣老。正六位上調連淡海。正六位下椋垣忌寸子人。正六位上大私造虎並從五位下。戊寅。下総國疫。給藥療之。壬午。詔。國家爲政。兼濟居先。去虚就實。其理然矣。向者頒銀錢。以代前銀。又銅錢並行。比姦盜逐利。私作濫鑄。紛乱公錢。自今以後。私鑄銀錢者。其身沒官。財入告人。行濫逐利者。加杖二百。加役當徒。知情不告者。各与同罪。

正月九日に阿倍朝臣宿奈麻呂(少麻呂)小野朝臣毛野に從三位、大伴宿祢手拍大神朝臣安麻呂(狛麻呂に併記)土師宿祢馬手多治比眞人水守に從四位下、「上毛野朝臣荒馬」・土師宿祢甥大伴宿祢牛養(”壬申の大将軍”吹負の子)・笠朝臣長目(諸石の子)・「大春日朝臣赤兄」・穗積朝臣老調連淡海(調首淡海)・椋垣忌寸子人(倉垣連子人)・「大私造虎」に從五位下を授けている。

二十一日に下総國で疫病が発生し、医薬を給して治療させている。二十五日に以下のことを詔している。概略は、国の政治は民を区別なく救済することが優先され、虚偽を排することが道理である。然るに昨今新たに銀銭に併せて銅銭も頒布したが、姦(邪)な盗人が濫りに鋳造して公の銭と紛らわしく混乱が生じている。私(密かに)銀銭を鋳造した者は身柄を没する、即ち賎民とし、その財産は告発者に与える。また、杖で打つ刑、更には強制労働を課し、事情を知っていて告発しない者も同罪とする、と述べている。偽札(銭)造りの歴史は古い、と言うことであろう。それにしてもその発生は早期だったようである。

<上毛野朝臣荒馬・今具麻呂・足人>
● 上毛野朝臣荒馬

「上毛野朝臣」一族もかなりの数の人物が登場して来た。現地名では築上郡上毛町下唐原辺りと推定した。直近では上毛野朝臣廣人(小足に併記)の叙位が記載されていた。

と言うことで「毛」(鱗状)の地形で「荒馬」を探索することにする。「荒」=「艸+亡+川」=「山稜が水辺で途切れる様」と読み解いた。荒陵寺(四天王寺の別称)などで用いられた文字である。

それに従うならば、荒馬=馬の形の山稜が水辺で途切れる様と読み解ける。「毛」の台地の東側の縁にその地形を見出すことができる。

図に幾人かの人物を記載したが、天智天皇紀に百濟救援で活躍した人物である上毛野君稚子の南隣に位置する場所が出自と推定される。「稚子」の活躍は白村江敗戦の前であり、その後の消息は定かではなく、おそらく敗戦に関わっていたのであろうが、彼の系譜が語られることはないようである。

後(聖武天皇紀)に上毛野朝臣今具麻呂が外従五位下に叙爵されて登場する。今=亼+一=蓋をするように覆い被さる様閉じ込められた様具=鼎+廾(両手)=山稜に囲まれて窪んでいる様と解釈して来たが、現在は大きな溜池となっている場所と思われる。地形の詳細が不明なため、上図に併記することにした。

また、上野國勢多郡少領を務めた上毛野朝臣足人が同じく外従五位下を叙爵されて登場する。地形の変形を辛うじて免れた場所に足人=谷間に足のような山稜が延びているところが見出せる。「馬」に跨った構図となっているが、特に何も関りなしなのであろう。

<大春日朝臣赤兄・家主・果安>
● 大春日朝臣赤兄

「大春日朝臣」は書紀の天武天皇紀における改姓の記事に記載されていた。勿論古事記の御眞津日子訶惠志泥命(孝昭天皇)の子、天押帶日子命が祖となった春日臣に由来する一族であろう。

また壹比韋臣の祖でもあり、この地には後に穗積臣等之祖・內色許男命が住まっていたとされている。その妹の內色許賣命を大倭根子日子國玖琉命(孝元天皇)が娶って大毘古命若倭根子日子大毘毘命(開化天皇)等が誕生したと伝えている。

図に示したように「大春日臣」は、古事記の「壹比韋臣」の後裔氏族を示すのであろう。即ち、大=平らな頂の麓を表す名称と思われる。幾度か登場した赤=大+火=平らな頂の麓で交差するような山稜に挟まれた谷間に山稜が延び出ている様であり、兄=谷間の奥が広がっている様と読み解いた。おそらく「赤兄」の出自の場所は、古くは「壹比韋臣」と名付けられた場所と思われる。

後(元正天皇紀)に大春日朝臣家主が登場する。頻出の家=宀+豕=山稜が谷間に突き出た豚口のような様であり、主=山稜が真っ直ぐに延びる様と併せて、図に示した場所が出自と推定される。書紀の天武天皇紀に登場した桑内王の出自の場所に隣接しているようである。またその後(聖武天皇紀)に大春日朝臣果安が登場する。頻出の果安=丸く小高い地がある山稜に囲まれて嫋やかに曲がる谷間と解釈した。「家主」の北側に当たる場所と思われる。三者は兄弟、親子関係のようであるが、定かではない。

<大私造虎>
● 大私造虎

文武天皇紀の大寶三年(703年)五月の記事で、由緒正しいことを訴えて賎民から良民となった一族に私小田・私比都自・長嶋等が登場していた(詳細はこちら参照)。

この一族に属すると見做して、出自の場所を求めることにする。「大」は上記と同様であり、「虎」=「虎の縦縞のように山稜が並んでいる様」と読み解いて来た。

多くの例があるが、魏志倭人伝の末盧國に含まれていることを挙げておこう。柱状節理の地形を表現していると解釈した。江南から逃れて来た倭族(人)に共通する”漢字文化”を伺い知れ、古事記編者安萬侶君の暗号ではなかったことが氷解した貴重な文字である。

それは兎も角として、その地形を図に示した場所に見出せる。現在の松田池の水辺の当時の様子を知る術はないが、おそらくもう少し後退していたのではなかろうか。良民認知からほどなくして従五位下に叙位されるにはその地の開拓が大きく進捗したのであろう。

二月戊子朔。詔曰。筑紫觀世音寺。淡海大津宮御宇天皇奉爲後岡本宮御宇天皇誓願所基也。雖累年代。迄今未了。宜大宰商量充駈使丁五十許人。及逐閑月。差發人夫。專加検校。早令營作。丁未。遠江國長田郡。地界廣遠。民居遥隔。往還不便。辛苦極多。於是分爲二郡焉。

二月一日に詔されて、筑紫觀世音寺は淡海大津宮御宇天皇(天智天皇)が母親である後岡本宮御宇天皇(斉明天皇)を誓願して基を置かれたところなのだが、今迄未了である。人を当てて早く造営せよ、と述べている。本寺の登場は大寶元年(701年)で、その時三十年が過ぎた近江國志我山寺と併せて五年の本寺も食封を停止されている。天智色が浮かび上がって来たように感じられるが・・・。

二十日に「遠江國長田郡」が地の境が広く遠いので民が住まうところが遥かに隔たっていて、往還に不便故に、二郡に分けることにする、と述べている。

<遠江國:長田郡(長上/下郡)-敷智郡-佐益郡>
<山名郡-蓁原郡-磐田郡-城飼郡>
遠江國長田郡

遠江國は現在の遠賀川の河口付近(古遠賀湾)に面する國と推定して来た。地名では遠賀郡水巻町・中間市・北九州市八幡西区に跨る山稜が長く延びた地形の場所である。

この國の詳細は未だ語られることはなく、古事記の淡海之久多綿之蚊屋野、書紀では大井河などの記述が見受けられる。

幾つかの郡に分けられていたことは容易に想像できるが、あらためて續紀中に具体的な郡の名称が挙げられているかを調べてみた。どうやら八郡が記載されているようであり、今回の長田郡を含めて敷智郡佐益郡山名郡(佐益郡から分離)・蓁原郡磐田郡城飼郡であることが分った。

最北の佐益郡(谷間に挟まれた左手のような地が一様に平らで広がったところ)など、図に示したような配置になると思われる。長田郡はそのまま長く延びた山稜の傍らに田がある様と解釈される。上記で二郡に分けたとしているが、おそらく図に示した谷間辺りを境界としたのではなかろうか(長上下郡)。

磐田郡(山稜の端が広がり延びたところ)、敷智郡(布を敷いたような鏃の形の地に炎のような山稜が延びているところ)、城飼郡(狭い谷間の前に平らに整えられた地が広がっているところ)と読み解けるが、詳細は登場時に述べることにする。現在の磐田市及び浜松市の西部(湖西市を含む)と解説されているが、遺跡から出土した”木簡”に基づくと言われている。

三月辛酉。隱岐國飢。賑恤之。壬戌。陸奥越後二國蝦夷。野心難馴。屡害良民。於是遣使徴發遠江。駿河。甲斐。信濃。上野。越前。越中等國。以左大弁正四位下巨勢朝臣麻呂爲陸奥鎭東將軍。民部大輔正五位下佐伯宿祢石湯爲征越後蝦夷將軍。内藏頭從五位下紀朝臣諸人爲副將軍。出自兩道征伐。因授節刀并軍令。辛未。取海陸兩道。喚新羅使金信福等。庚辰。初置造雜物法用司。以從五位上采女朝臣枚夫。多治比眞人三宅麻呂。從五位下舟連甚勝。笠朝臣吉麻呂爲之。甲申。制。凡交關雜物。其物價銀錢四文已上。即用銀錢。其價三文已下。皆用銅錢。

三月四日、隱岐國が飢饉となり、物を与えている。和銅元年(708年)七月に長雨と大風があったと記されていた。かなりの災害が発生したのであろう。五日、陸奥・越後の二國の蝦夷は野蛮な心で馴らすことが難しく、屡々良民に害を加えている。それ故に遠江・駿河・甲斐・信濃・上野・越前・越中等の國(こちら参照、上野:上毛野、現地名築上郡上毛町)から徴兵して遣わすことにしたと述べている。

左大弁の巨勢朝臣麻呂を陸奥鎭東將軍、民部大輔の佐伯宿祢石湯を征越後蝦夷將軍、内藏頭の紀朝臣諸人(古麻呂に併記)を副將軍として、兩道(東山・北陸)から征伐させることにしたと記している。節刀並びに軍令を授けている。

十四日に海陸両道を取らせて、(大宰府に着いた)新羅の使者を召喚している。二十三日に初めて「雜物法用司」(平城京造営の資材調達?)を置き、采女朝臣枚夫多治比眞人三宅麻呂・舟連甚勝(船連秦勝)・笠朝臣吉麻呂を任じている。二十七日に以下の様に制定している。種々の物を交易する場合、その物の価値が銀銭四文以上ならば銀銭を、三文以下なら銅銭を用いることにする。

夏四月丁亥朔。日有蝕之。壬寅。從四位下上毛野朝臣男足卒。

四月一日、日蝕があったと記している。十六日に和銅元年(708年)三月に陸奥守に任じられていた上毛野朝臣男(小)足が亡くなっている。

五月庚申。筑前國宗形郡大領外從五位下宗形朝臣等抒授外從五位上。尾張國愛知郡大領外從六位上尾張宿祢乎己志外從五位下。乙亥。河内。攝津。山背。伊豆。甲斐五國。連雨損苗。是日。新羅使金信福等貢方物。壬午。宴金信福等於朝堂。賜祿各有差。并賜國王絹廿疋。美濃絁卅疋。絲二百絢。綿一百五十屯。是日。右大臣藤原朝臣不比等引新羅使於弁官廳内。語曰。新羅國使。自古入朝。然未曾与執政大臣談話。而今日披晤者。欲結二國之好成往來之親也。使人等即避座而拜。復座而對曰。使等。本國卑下之人也。然受王臣教。得入聖朝。適從下風。幸甚難言。况引升榻上。親對威顏。仰承恩教。伏深欣懼。

五月五日に筑前國宗形郡大領の「宗形朝臣等抒」に一階進めて外從五位上を、及び「尾張國愛知郡」大領の「尾張宿祢乎己志」に一階進めて外從五位下を授けている。二十日、河内・攝津・山背・伊豆・甲斐の五國(こちらこちらを参照)で降り続く雨で苗に損害が発生している。この日に新羅の使者金信福等がその地の産物を献上している。

二十七日に金信福等と宴会して禄を与え、併せて新羅國王に絹、美濃特産品、綿を贈っている。この日、右大臣の藤原朝臣不比等が新羅使を弁官廳内に招いて以下の様に述べたと記載している。その概略は、新羅國使者は古くから入朝して来ているが、執政大臣との談話することはなかった。今日そうするのは親しく往来することを願うからである。そう告げられた使者等が恐れ入り、畏まった、と述べている。

<宗形朝臣等抒・鳥麻呂>
● 宗形朝臣等抒

「宗形」の文字が示す場所は、前記で述べたように現在の釣川の西岸、当時は山麓近くまで汽水の状態であったと推測されるが、南北に長く延びた地域と推定される。

その中心地は、間違いなく現在の宗像大社がある場所と思われる。幾度も登場の等=山稜に挟まれた谷間に蛇行する川が流れる様である。

「抒」=「手+予」と分解される。地形象形的には「山稜が横切るように延びる様」と読み解ける。既出の「杼」と類似の解釈である。

図に示したように宗像大社の背後の山稜は極めて特徴的な地形をしており、延びる山稜が大きく曲がっていることが解る。この配置を「抒」で表現したと思われる。頻出の「等」=「竹+寺」=「揃って並んでいる様」と解釈する。纏めると抒=揃って並んでいる山稜を横切るように延びているところと読み解ける。出自の場所は図に示した場所と推定される。

後(聖武天皇紀)に宗形朝臣鳥麻呂が宗形の神に仕えることになったと奏上し、外従五位下を授けられている。の地形の麓辺りが出自の場所と思われる。併せて図に記載した。

古事記の天照大御神と速須佐之男命の宇氣比で最初に誕生する胸形之邊津宮の田寸津比賣命が坐した地であり、時代が少し進んで大國主神の子、高(下光)比賣命が坐した地でもある。”国譲り”されない唯一の地点である。悠久の時を経て登場した人物達であろう。

<尾張國愛知郡・尾張宿禰乎己志>
尾張國愛知郡

愛知國尾張郡ならば・・・要するに現在の地名は勝手気儘に名付けられたと言うことであろう。調べてみても、この地の真面な解説に出くわすことは不可である。

正史續紀の記述は殆ど無視されているようであるが、本著は真面目に愛知の場所を求めてみよう。

前記した愛=旡+心+夂=山稜の端が足のように延びて尽きる様と解釈した。愛發關などを参照。頻出の知=矢+口=鏃の様であり、これらの地形要素を満足する地を探すと図に示した現地名小倉南区長野本町辺りに見出すことができる。

当時は現在の長野川流域は海面下であったと推測され、「愛」の山稜は海に突き出た半島のような地形であったと思われる。勿論、この地に書紀が記す尾張熱田社があったのである。その風景をそっくりそのまま、南北反転しているが、”国譲り”である。

● 尾張宿禰乎己志 「尾張宿禰乎己志」の「乎」=「口を開いて息を吐きだす様」と象った文字と知らる。魏志倭人伝の卑彌呼に含まれている。地形象形的には「谷間に延びる山稜がある様」となる。既出の「己」、「志」を用いて纏めると乎己志=谷間に延びる山稜が畝るように延びた先に蛇行する川があるところと読み解ける。

正に古事記風の名称であるが、地形そのものを忠実に表していると思われる。上記の「宗形朝臣等抒」も「外」が付く叙位と記されている。「天神族」との繋がりが定かではない人物達だったのであろう。

六月丙戌朔。金信福等還國。甲午。上総越中二國疫。給樂療之。辛丑。遣使雩于畿内。乙巳。令諸國進驛起稻帳。」筑前國御笠郡大領正七位下宗形部堅牛。賜益城連姓。嶋郡少領從七位上中臣部加比。中臣志斐連姓。辛亥。紀伊國疫。給藥療之。癸丑。散位正四位下犬上王卒。」從七位下殖栗物部名代。賜姓殖栗連。」勅。自大宰率已下至于品官。事力半減。唯薩摩多祢兩國司及國師僧等。不在減例。

六月一日に新羅使者が帰国している。九日、上総・越中の二國(こちら参照、但し上総は下総の北側、越中は越後の南側)で疫病が発生し、医薬を給し治療させている。十六日に畿内に於いて雨乞いをさせている。二十日、諸國に驛起稻(駅の費用に充てる稲)の帳簿を進上させている。また「筑前國御笠郡」の大領の「宗形部堅牛」に「益城連」姓を、「嶋郡」の少領の「中臣部加比」に「中臣志斐連」姓を与えている。

二十六日、紀伊國で疫病が発生し、医薬を給し治療させている。二十八日に犬上王が亡くなっている。同日、「殖栗物部名代」に「殖栗連」姓を与えている。天皇は勅され、大宰率以下品官に至るまで事力(従者・雑役担当)を半減する。但し薩摩・多祢(薩摩多褹)の両國司及び國師の僧等は除く、とされている。

外敵の脅威が未知であったか、やはりそれなりの備えを要していたのかもしれない。薩摩の属国のような表記から、「薩摩」と「多禰」がそれぞれ國として存在していたことを告げているようである。

<筑前國御笠郡・嶋郡>
筑前國御笠郡・嶋郡

筑前國の詳細が述べられる。前記の宗形郡に加えて御笠郡・嶋郡の登場である。容易にこれらの二郡は釣川の東岸地域と推測されるが、地形を表しているかを確認することになる。

御笠=笠のような山を束ねる様と読むと、図に示した孔大寺山系から延びる山稜の端が高くなり、三つの山が並んでいる様を捩っていると思われる。

その東南隣にある島状、当時は川幅が大きく広がっていたと推測されるが、の嶋郡があったと推定される。勿論、嶋=山+鳥=山稜が鳥のような様も重ねた表記であろう。

登場する人物二名については下記に詳細を述べるが、その一人「宗形部堅牛」は宗形の近隣の地が出自であることを示している。即ち宗形郡と御笠郡とは隣接していることを意味する名称と思われる。

記紀・續紀を通じて人名・地名が密接に関わっていることを見逃しては編者等の伝えることが読み取れないのである。古事記の胸形三柱神の次女、「市寸嶋比賣命者、坐胸形之中津宮」と記されている。この比賣は「嶋」に坐していたことを表しているが、現在の大島(古事記では大嶋)ではないと解釈した。上図「嶋郡」の東南の角辺りが中津宮があった場所と推定した。全てが繋がり、以前にも述べたが、古事記は”神話風”に記述した史書、更に言えば地政学書であることが確認されたように思われる。

<宗形部堅牛(益城連)・加麻麻伎(穴太連)>
● 宗形部堅牛

「御笠郡」は釣川の東岸であって、全て「宗形部」に当たる故に名前の「堅牛」が残された情報となる。幾度か登場の堅=臣+又(手)+土=谷間で延びた山稜が手のような様と読み解いた。

「牛」は牛の頭部を象った表記とすると、「御笠郡」の最北部にその地形を見出すことができる。「手」の中に牛の角が含まれると言う貴重な地形を示している。現地名は宗像市江口辺りである。

益城連の氏姓を賜ったと記載されている。頻出の益=八+八+一+皿=二つの谷間で挟まれた一様に平らな様と読み解いたが、更に城=平らに盛り上げられた様を加えて、正にその通りの地形であることが解る。現存する地形が明瞭であり、極めて確度の高い場所と思われる。

直ぐ後に宗形部加麻麻伎穴太連姓を授けたと記載される。[麻]=[擦り潰されたような様]として、加麻麻伎=[麻]に[麻]を加えて分岐したところと読むと、「堅牛」の南隣の地と思われる。穴太=谷間の地に広がって延びる山稜があるところと読み解ける。更に南側の山稜の地形を表していることが解る。

<中臣部(志斐連)加比・漢人法麻呂>
● 中臣部加比

「中臣」一族と関連付ける根拠は全くなく、中臣=山稜が谷間を真っ直ぐに突き通るところに合致する地形を探索することになる。すると「嶋」の最北部にその地形を見出すことができる。

「中臣部」=「中臣の近隣」であることを表している。既出の文字列である加比=並んでいる山稜を押しくっ付けているところと読むと、「中臣」の西側の細い谷間を示していることが解る。

現地名は宗像市池浦であり、出自の場所はその谷間の出口辺りではなかろうか。中臣志斐連の氏姓を賜っている。これも既出の文字列である志斐=蛇行する川が流れる狭い谷間が括れているようなところと読み解けば、正にその地形を忠実に再現した表記と思われる。

後(聖武天皇紀)に漢人法麻呂が同じく「中臣志斐連」姓を賜っている。幾度か登場の法=氵+去=水辺で区切られて囲まれた様と解釈した。漢人=谷間で川が大きく曲がるところとすると、図に示した場所と推定される。現在は小学校の校庭が広がっているが、国土地理院年代別写真(1961~9年)を参照すると、「法」の地形がより鮮明に確認される。

<殖栗物部名代>
● 殖栗物部名代

多くの分家がある物部一族の一家と思われる。例えば「物部」の北側に隣接する谷間には置始連大伯が居を構えていたと推定した。

「殖栗」の殖=歹+直=真っ直ぐに延びた山稜が岐れて尽きる様と読み解いた。書紀の天武天皇紀に積殖山口などに用いられた文字である。「置始連大伯」の谷間の東北にある谷間に「殖」が延びる栗のような山稜を見出すことができる。

名代=谷間(人)で杙のような(弋)山稜の端に三角州(夕+囗)がある様と読み解けば、その場所がこの人物の出自と推定される。「物部」を外して「殖栗連」としたと記載している。現地名は北九州市小倉南区母原である。

物部一族は、古事記の邇藝速日命(天火明命、邇邇芸命の兄)の子、宇摩志麻遲命を祖として、現地名の田川郡赤村内田・赤の戸城山麓から采女の地、北九州市小倉南区長行辺りまで広がっていたと推測してきたが、記紀が語らない部分を續紀が埋め尽くそうとしているように伺える。











2021年3月21日日曜日

日本根子天津御代豐國成姫天皇:元明天皇(3) 〔499〕

日本根子天津御代豐國成姫天皇:元明天皇(3)


和銅元年(西暦708年)五月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀1(直木考次郎他著)を参照。

五月壬寅。始行銀錢。庚戌。給近江守傔仗二人。庚申。長門國言。甘露降。辛酉。從四位下美弩王卒。

五月十一日に初めて銀錢を発行している。十九日、近江守に仗(武官)二人を給している。二十九日に長門國が「甘露」が降ったと告げている。中国の伝承で、天地陰陽の気が調和すると天から降る甘い液体で、後世、王者が高徳であると、これに応じて天から降るともされた、と知られる。天武天皇即位七年(西暦678年)十月の記事に難波での出来事に登場している。治世が安定していることを表しているのであろう。

三十日に美弩王(三野王、美努王とも表記)が亡くなっている。『壬申の乱』の際、父親の栗隈王が近江朝の使者の要請を撥ねつけた時、弟と共に傍にいて使者を威嚇したと記されていた。その日より多くの任務を与えられ、三十数年が経っている。縣犬養三千代を娶って幾人かの子を誕生させている。また後日に登場されるかもしれない。

六月丙戌。三品但馬内親王薨。天武天皇之皇女也。己丑。詔爲天下太平百姓安寧。令都下諸寺轉經焉。

六月二十五日に但馬内親王が亡くなっている。天武天皇が藤原大臣の氷上娘を娶って誕生した皇女であった。二十八日、天下太平と百姓の安寧の為に都下の諸寺で轉經(順番に読経)をさせている。

秋七月丁酉。内藏寮始置史生四員。」但馬伯耆二國疫。給藥療之。甲辰。隱岐國霖雨大風。遺使賑恤之。乙巳。召二品穗積親王。左大臣石上朝臣麻呂。右大臣藤原朝臣不比等。大納言大伴宿祢安麻呂。中納言小野朝臣毛野。阿倍朝臣宿奈麻呂。中臣朝臣意美麻呂。左大弁巨勢朝臣麻呂。式部卿下毛野朝臣古麻呂等於御前。勅曰。卿等情存公平。率先百寮。朕聞之憙慰于懷。思由卿等如此。百官爲本至天下平民。埀拱開衿。長久平好。又卿等子子孫孫。各保榮命。相繼供奉。宜知此意各自努力。又召神祇官大副。太政官少弁。八省少輔以上。侍從。彈正弼以上及武官職事五位。勅曰。汝王臣等。爲諸司本。由汝等勠力。諸司人等須齊整。朕聞。忠淨守臣子之業。遂受榮貴。貪濁失臣子之道。必被罪辱。是天地之恒理。君臣之明鏡。故汝等知此意。各守所職。勿有怠緩。能堪時務者。必擧而進。乱失官事者。必无隱諱。因授從四位上阿倍朝臣宿奈麻呂正四位上。從四位上下毛野朝臣古麻呂。中臣朝臣意美麻呂。巨勢朝臣麻呂並正四位下。文武職事五位已上及女官。賜祿各有差。丙午。有詔。京師僧尼及百姓等。年八十以上賜粟。百年二斛。九十一斛五斗。八十一斛。丙辰。令近江國鑄銅錢。

七月七日に内藏寮(中務省、金銀・珠玉・宝器などを管理し、天皇、皇后の装束や祭祀の奉幣などを担う)に史生(四等官の下)四人を初めて置いている。また但馬伯耆の二國で疫病が発生し、薬を給して治療させている。十四日、隱岐國で長雨と大風があり、物を与えている。

十五日に穗積親王石上朝臣麻呂藤原朝臣不比等大伴宿祢安麻呂小野朝臣毛野阿倍朝臣宿奈麻呂(少麻呂)中臣朝臣意美麻呂巨勢朝臣麻呂下毛野朝臣古麻呂等を御前に召して以下のように勅している。卿等が公平な情を持ち、百寮を率先していることをとても嬉しく思う。思うに卿等がかくの如くあるから百官から平民に至るまで永久に平和で好ましい状態となっている。また卿等の子々孫々も次々と継承して仕えてくれている。この意を知って各自努めて欲しい、と述べている。

また神祇官の大副、太政官の少弁と八省の少輔以上、侍從、彈正弼以上、及び武官職事五位の者を召して勅している。その概略は、王臣等が諸官司の手本となる行いをし、整然として勤めているが、臣下として子のように仕えれば栄誉と貴い地位を得るであろう。そうでなければ罪や辱めを受けることになろう。これは天地の道理である。能力のある者は必ず抜擢し進位する、と述べている。

阿倍朝臣宿奈麻呂を正四位上、下毛野朝臣古麻呂中臣朝臣意美麻呂巨勢朝臣麻呂を正四位下を授けている。文武職事の五位以上及び女官に禄を、それぞれ与えている。

十六日に京師の僧尼と百姓の八十歳以上の者に粟を与えている。百歳に二斛(石)、九十歳に一斛(石)五斗、八十歳に一斛(石)としている。二十六日、近江國に銅錢を鋳造させている。

八月己巳。始行銅錢。庚辰。兵部省更加史生六員。通前十六人。左右京職各六員。主計寮四員。通前十人。閏八月丙申。制。自今以後。衣褾口闊。八寸已上一尺已下。隨人大小爲之。又衣領得接作。但不得褾口窄小。衣領細狹。丁酉。攝津大夫從三位高向朝臣麻呂薨。難波朝廷刑部尚書大花上國忍之子也。

八月十日に初めて銅銭を使用させている。二十一日、兵部省に、更に史生を六人加え、合せて十六人としている。左右京職に各六人、主計寮に四人、合せて十人としている。閏八月七日に以下の様に制定している。今後は衣の袖口は八寸以上一尺以下とし、人の大小に従うこと。また領(襟)は袷せ作っても良い。但し袖口を狭めたり、襟を細く狭めてはならないと定めている。

八日に攝津大夫の高向朝臣麻呂が亡くなっている。難波朝廷(孝徳朝)刑部尚書の「國忍」の子と記している。「國忍」は書紀では「國押」と記載されていた。古事記の「忍坂」を書紀は「押坂」と表記(こちら参照)、ここでも續紀は古事記の表現に戻っているようである。

九月壬戌。以從四位下安八万王爲治部卿。從四位下息長眞人老爲左京大夫。正五位上大神朝臣安麻呂爲攝津大夫。壬申。行幸菅原。戊寅。巡幸平城。觀其地形。庚辰。行幸山背國相樂郡岡田離宮。賜行所經國司目以上袍袴各一領。造行宮郡司祿各有差。并免百姓調。特給賀茂。久仁二里戸稻卅束。乙酉。至春日離宮。大倭國添上下二郡勿出今年調。丙戌。車駕還宮。」越後國言。新建出羽郡。許之。戊子。以正四位上阿倍朝臣宿奈麻呂。從四位下多治比眞人池守。爲造平城京司長官。從五位下中臣朝臣人足。小野朝臣廣人。小野朝臣馬養等爲次官。從五位下坂上忌寸忍熊爲大匠。判官七人。主典四人。

九月四日に安八万王(安八萬王)を治部卿、息長眞人老を左京大夫、大神朝臣安麻呂(狛麻呂に併記)を攝津大夫に任じている。「安八万王」については、慶雲二年(705年)正月に無位から從四位下を授けられ、高市皇子の子として既に出自の場所を求めた。十四日に菅原に行幸されている。二十日、平城に巡行し、その地形を観ている。

「菅原」は現地名田川郡福智町伊方、田川市夏吉に隣接した地、「平城」は現地名田川市夏吉、「藤原」は現地名田川市夏吉、田川郡香春町に隣接した地と推定した。今回の行幸は「藤原」を出発し、最も西側の「菅原」に赴き、帰りがてらに「平城」を視察した(巡幸)と述べている。

二十二日に山背國相樂郡にある「岡田離宮」に行幸され、途中経過した國司の目以上に袍袴(上着と袴)を、行宮を造営した郡司にそれぞれ禄を与えている。併せて百姓の調を免じている。特に「賀茂・久仁」の二里では戸ごとに稲三十束を給している。二十七日、「春日離宮」に至り、大倭國添上下二郡の今年の調を免じている。翌日、帰還。この日に越後國が「出羽郡」を建てたいと申し出て、許されている。

三十日に阿倍朝臣宿奈麻呂多治比眞人池守を造平城京司の長官に、中臣朝臣人足小野朝臣廣人小野朝臣馬養等を次官に、坂上忌寸忍熊を大匠に任じ、判官七名、主典四名としている。

<山背國相樂郡:岡田離宮>
山背國相樂郡:岡田離宮

山背國相樂郡は既に登場していて、書紀の文武天皇紀に「山代國相樂郡令」の記述があった。この地は古事記の伊久米伊理毘古伊佐知命(垂仁天皇)紀に記載された山代國之相樂と解釈した。

また續紀の文武天皇紀に双子三連荘で誕生させた鴨首形名の記事があった。今回は賀茂里久仁里の二つの里が登場している。すると賀茂里鴨首の西側の麓辺りを示していると思われる。

久仁=[く]の字形の谷間が二つくっ付いて並ぶ様と読み解ける。北側の谷間を示していると推定される。これが相樂郡にあった里の詳細な配置を表していることが解る。

岡田離宮の「岡」=「网+山」=「二つの山稜に挟まれた山の様」であり、岡田=二つの山稜に挟まれた山の傍らに田がある様と読み解ける。現在の山浦大祖神社辺りが離宮があった場所と推定される。古事記の筑紫之岡田宮など類似の地形を示している。

<春日離宮>
春日離宮

春日ならば・・・ではなく、調の免除した郡からして、どうやら添上・下郡にあった離宮のようである。

添下郡については、書紀の天武天皇紀に倭國添下郡鰐積吉事が海石榴華のような瑞鶏を献上した記事があった(こちら参照)。

その「海石榴」を表す山稜の地形を眺めると、「春」=「艸+屯+日」=「草のように山稜が曲がりながら生え出ている様」であることが解る。既に読み解いた春日=太陽のような山の前で延び出た山稜が[炎]のように細かく岐れているところである。「太陽=岩石山」と見做しているのである。

本家の「春日」(現地名田川郡赤村内田)の図を併記したが、実に相似な地形を示している。おそらく離宮の場所は、現在の添田神社天満宮辺りだったのではなかろうか。通説は、邇藝速日命後裔の穗積臣が蔓延った地、そこに開化天皇が伊邪河宮を造った「春日」の地も全て同じ場所とするようである。地名ありきでは、前記の柿本朝臣人麻呂も苦笑するしかなかったであろう。

<越後國出羽郡>
越後國出羽郡

文武天皇紀に越中國四郡を越後國に属するようにしたと言う記事があった。調べるとその四郡名は頸城郡古志郡魚沼郡蒲原郡と言われていたと分かった。

出羽=羽のような地形が延び出た様と読み解ける。山稜の端が細かく岐れている地形を表していると思われる。図に四郡と共に示した。

ここまでしっかりと郡制が敷かれたら、出羽の地を残すわけには行かなかったであろう。ほぼ埋まった感じであるが、さてこの後登場される郡があるや否や、期待しておこう。余談だが、現地名の「春日町」、山稜の形が上記に類似していように伺えるが、果たして由来は?・・・。

冬十月庚寅。遣宮内卿正四位下犬上王。奉幣帛于伊勢太神宮。以告營平城宮之状也。
十一月己未朔。日有蝕之。乙丑。遷菅原地民九十餘家給布穀。己夘。大甞。遠江但馬二國供奉其事。辛巳。宴五位以上于内殿。奏諸方樂於庭。賜祿各有差。癸未。賜宴職事六位以下。訖賜絁各一疋。乙酉。神祇官及遠江但馬二國郡司。并國人男女惣一千八百五十四人。叙位賜祿各有差。
十二月癸巳。鎭祭平城宮地。

十月二日に宮内卿の犬上王を遣わして伊勢太神宮に幣帛を奉納し、平城京の造営を報告している。

十一月一日、日蝕があったと記している。七日に菅原の民の九十余家を移住させ、布・穀物を給している。行幸された時に現状を見たことに依る対応なのであろうが、詳細は不明。二十一日に遠江・但馬の二國(こちらこちら参照)が大甞祭の行事に奉仕している。

二十三日に内殿で五位以上の者と宴会、禄を与えている。二十五日は職事六位以下と宴会し、絹織物を与えている。二十七日、神祇官及び遠江・但馬の二國の郡司、並びに男女合せて一千八百五十四人にそれぞれ叙位し、禄を与えている。

十二月五日に平城京の地鎮祭を行っている。いよいよ京の造営が始まるところまで整ったようである。









2021年3月17日水曜日

日本根子天津御代豐國成姫天皇:元明天皇(2) 〔498〕

日本根子天津御代豐國成姫天皇:元明天皇(2)


和銅元年(西暦708年)二月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀1(直木考次郎他著)を参照。

二月甲戌。始置催鑄錢司。以從五位上多治比眞人三宅麻呂任之。」讃岐國疫。給藥療之。戊寅。詔曰。朕祗奉上玄。君臨宇内。以菲薄之徳。處紫宮之尊。常以爲。作之者勞。居之者逸。遷都之事。必未遑也。而王公大臣咸言。往古已降。至于近代。揆日瞻星。起宮室之基。卜世相土。建帝皇之邑。定鼎之基永固。無窮之業斯在。衆議難忍。詞情深切。然則京師者。百官之府。四海所歸。唯朕一人。豈獨逸豫。苟利於物。其可遠乎。昔殷王五遷。受中興之號。周后三定。致太平之稱。安以遷其久安宅。方今平城之地。四禽叶圖。三山作鎭。龜筮並從。宜建都邑。宜其營構資須隨事條奏。亦待秋収後。令造路橋。子來之義勿致勞擾。制度之宜。令後不加。

二月十一日に初めて「催鑄錢司」を置き、多治比眞人三宅麻呂を任じている。同じ日、讃岐國で疫病が発生し、薬を給して治療させている。「鑄錢司」については書紀の持統天皇即位八年(694年)三月に大宅朝臣麻呂等三名が任じられ、續紀の文武天皇即位三年(699年)十二月に中臣朝臣意美麻呂を長官としている。<鑄錢司」に「催」が冠されたのは「和銅」から「鑄錢」にすることを催促する役目を担ったのであろう。差し詰め国家プロジェクトの様相を伝えているように思われる>

十五日に以下のことを詔されている。その概略は、遷都は民の労を強いるものであり、必ずしも急がないが、王公大臣が言うには古より日や星から占い、殷や周の諸王は遷都することによって「太平之稱」(太平の誉れ)に至ったと知れらる。今「平城」の地を見ると真に適切な場所であり、建都すべきと思われるが、くれぐれも民に労を掛け過ぎないように配慮せよ、と述べている。平城京遷都が命じられている(所在地はこちら参照)。

三月乙未。山背備前二國疫。給藥療之。丙午。以從四位上中臣朝臣意美麻呂爲神祇伯。右大臣正二位石上朝臣麻呂爲左大臣。大納言正二位藤原朝臣不比等爲右大臣。正三位大伴宿祢安麻呂爲大納言。正四位上小野朝臣毛野。從四位上阿倍朝臣宿奈麻呂。從四位上中臣朝臣意美麻呂並爲中納言。從四位上巨勢朝臣麻呂爲左大弁。從四位下石川朝臣宮麻呂爲右大弁。從四位上下毛野朝臣古麻呂爲式部卿。從四位下弥努王爲治部卿。從四位下多治比眞人池守爲民部卿。從四位下息長眞人老爲兵部卿。從四位上竹田王爲刑部卿。從四位上廣瀬王爲大藏卿。正四位下犬上王爲宮内卿。正五位上大伴宿祢手拍爲造宮卿。正五位下大石王爲彈正尹。從四位下布勢朝臣耳麻呂爲左京大夫。正五位上猪名眞人石前爲右京大夫。從五位上大伴宿祢男人爲衛門督。正五位上百濟王遠寳爲左衛士督。從五位上巨勢朝臣久須比爲右衛士督。從五位上佐伯宿祢垂麻呂爲左兵衛率。從五位下高向朝臣色夫知爲右兵衛率。從三位高向朝臣麻呂爲攝津大夫。從五位下佐伯宿祢男爲大倭守。正五位下石川朝臣石足爲河内守。從五位下坂合部宿祢三田麻呂爲山背守。正五位下大宅朝臣金弓爲伊勢守。從四位下佐伯宿祢太麻呂爲尾張守。從五位下美弩連淨麻呂爲遠江守。從五位上上毛野朝臣安麻呂爲上総守。從五位下賀茂朝臣吉備麻呂爲下総守。從五位下阿倍狛朝臣秋麻呂爲常陸守。正五位下多治比眞人水守爲近江守。從五位上笠朝臣麻呂爲美濃守。從五位下小治田朝臣宅持爲信濃守。從五位上田口朝臣益人爲上野守。正五位下當麻眞人櫻井爲武藏守。從五位下多治比眞人廣成爲下野守。從四位下上毛野朝臣小足爲陸奥守。從五位下高志連村君爲越前守。從五位下阿倍朝臣眞君爲越後守。從五位上大神朝臣狛麻呂爲丹波守。正五位下忌部宿祢子首爲出雲守。正五位上巨勢朝臣邑治爲播磨守。從四位下百濟王南典爲備前守。從五位上多治比眞人吉備爲備中守。正五位上佐伯宿祢麻呂爲備後守。從五位上引田朝臣尓閇爲長門守。從五位上大伴宿祢道足爲讃岐守。從五位上久米朝臣尾張麻呂爲伊豫守。從三位粟田朝臣眞人爲大宰帥。從四位上巨勢朝臣多益首爲大貳。

三月二日に山背國備前國疫病が発生し、薬を給して治療させている。十三日に以下の人事を発令している。中臣朝臣意美麻呂を神祇伯、右大臣の石上朝臣麻呂を左大臣、大納言の藤原朝臣不比等を右大臣、大伴宿祢安麻呂を大納言、小野朝臣毛野阿倍朝臣宿奈麻呂(少麻呂)中臣朝臣意美麻呂を中納言、巨勢朝臣麻呂を左大弁、石川朝臣宮麻呂を右大弁、下毛野朝臣古麻呂を式部卿、弥努王を治部卿、多治比眞人池守を民部卿、息長眞人老を兵部卿、竹田王を刑部卿、廣瀬王を大藏卿、犬上王を宮内卿、大伴宿祢手拍を造宮卿、大石王を彈正尹、布勢朝臣耳麻呂を左京大夫、猪名眞人石前を右京大夫、大伴宿祢男人を衛門督、百濟王遠寳()を左衛士督、巨勢朝臣久須比を右衛士督、佐伯宿祢垂麻呂を左兵衛率、高向朝臣色夫知(智)を右兵衛率、高向朝臣麻呂を攝津大夫、佐伯宿祢男を大倭守、「石川朝臣石足」を河内守、坂合部宿祢三田麻呂を山背守、大宅朝臣金弓を伊勢守、佐伯宿祢太麻呂を尾張守、美弩連淨麻呂(美努連淨麻呂)を遠江守、上毛野朝臣安麻呂(小足に併記)を上総守、賀茂朝臣吉備麻呂(鴨朝臣吉備麻呂)を下総守、阿倍狛朝臣秋麻呂を常陸守、多治比眞人水守を近江守、笠朝臣麻呂を美濃守、小治田朝臣宅持を信濃守、田口朝臣益人を上野守、當麻眞人櫻井を武藏守、多治比眞人廣成を下野守、上毛野朝臣小足を陸奥守、高志連村君を越前守、阿倍朝臣眞君を越後守、大神朝臣狛麻呂を丹波守、忌部宿祢子首を出雲守、巨勢朝臣邑治を播磨守、百濟王南典()を備前守、「多治比眞人吉備」を備中守、佐伯宿祢麻呂を備後守、引田朝臣尓閇(引田朝臣爾閇)を長門守、大伴宿祢道足を讃岐守、「久米朝臣尾張麻呂」を伊豫守、粟田朝臣眞人を大宰帥、巨勢朝臣多益首(多益須)を大貳に任じている。

<石川朝臣石足-年足-足人>
● 石川朝臣石足

調べると「安麻呂」の子と分かった。蘇賀連子大臣の系譜が広がったのであろう。右図に一族を纏めて示した。石足=山麓の台地が山稜が長く延びた端にある様と読むと、父親の西側に当たる場所と推定される。

更に、後に登場する子に年足が居たと知られている。石足の北側、年=禾+人=谷間に細いが山稜がしなやかに曲がって延びた端(足)が出自の場所と思われる。

少し後に石川朝臣足人が登場する。系譜は不詳のようであるが、出自の場所は図に示すことができる。配置からすると「安麻呂」の子のように思われる。

「連子」の後裔は、現在の白川の支流、舟入川が流れる谷間に広がって行った配置であったことが解る。ともあれ「蘇賀」の地が古代に果たした役割は極めて大きかったことが伺える。書紀に暈されたままの状態、それが悲しい現状であろう

<多治比眞人夜部(吉備)・吉提>
● 多治比眞人吉備

全く素性が知られていない人物のようである。既に読み解いた「丹比(多治比)公麻呂」の三男に「(比)夜部」が登場していた。図を再掲したが、その人物の別名表記ではなかろうか。

その出自の地形は、見事な吉備を表していることが解る。今回彼は備中守に任じられている。それに乗じて改名したと推測される。

後に多治比眞人吉提が「吉備」と並んで正五位下に叙位されている。同じようにその系譜は不詳のようである。吉提=蓋の山稜が匙のようなところと読み解け、「吉備」の北隣に見出せる。「夜部」の別名が「吉備」である確度が高まったようである。多分、「丹比公麻呂」のご落胤だったように推測されるが、定かではない。

「麻呂」一族から輩出している兄の嶋大臣、その息子(上記中では水守・廣成)に加えて弟の「夜部」等が進位され地方官へと任官されて行く様子が述べられている。

<久米朝臣尾張麻呂・麻呂・三阿麻呂>
● 久米朝臣尾張麻呂

書紀には「久米」の文字列は登場しない。代わりに「來目」と表記されている。ここでも續紀は古事記の表現を採用していると思われる。

右図に示したように古事記では「久米王」(上宮之厩戸豐聰耳命の兄弟)と記述されるが、書紀では「來目皇子」となっている。

いずれにせよこの「久米」の地に関わる朝臣と推測される。名前が尾張=山稜が尾のように延びた端が張り出している様と読み解いた。言うまでもなく「尾張國」の解釈と寸分も異なることはない。

すると難なくこの人物の出自の場所を推定することができるようである。「尾張」の地は、現在の行政区分では田川市夏吉と田川郡福智町とに跨っていて、出自の場所は福智町に属している。

後に久米朝臣麻呂が登場する。正月(713年)の叙位で若手の登用の一人として正七位上から從五位下に躍進している。同族なのであろうが、「尾張麻呂」とのつながりは不詳のようである。「麻呂」では特定不可であるが、「萬侶」の表記とすると図に示した辺りと推定される。「麻呂」の「麻」=「萬」としている例が見られる。例えば、太安萬侶藤原朝臣萬理などがあった。

更に後(元正天皇紀)に、同じように正月(718年)の叙位で久米朝臣三阿麻呂が登場している。系譜は不明であるが、三阿=三つの台地が並んでいる様と読んで図に示した場所と推定した。

乙夘。勅。大宰府帥大貳。并三關及尾張守等。始給傔仗。其員。帥八人。大貳及尾張守四人。三關國守二人。其考選事力及公廨田。並准史生。」以從五位下鴨朝臣吉備麻呂爲玄蕃頭。從五位上佐伯宿祢百足爲下総守。丙辰。以從五位下小野朝臣馬養爲帶劔寮長官。庚申。美濃國安八郡人國造千代妻如是女一産三男。給稻四百束。乳母一人。

三月二十二日に以下のことを勅している。大宰府帥及び大貳、並びに「三關」と尾張守等に傔仗(武官)を給している。帥は八人、大貳及び尾張守には四人、「三關」・國守には二人としている。彼らの勤務評定・叙位及び公廨田(官衙の費用にあてる田)などは史生(官吏四等官の下)に準じること、と記載されている。

その日、上記で下総守となっていた鴨朝臣吉備麻呂を玄蕃頭(寺院・僧尼の名籍や外国使節の接待などを司る役所の長官)に任じ、後任に佐伯宿祢百足がなったと記している。翌二十三日には小野朝臣馬養を帶劔寮(授刀舎人寮と同じ、親衛隊)の長官に任じている。

二十七日に美濃國安八郡の人、「國造千代」の妻、「如是女」が三つ子の男子を産んでいる。稲、乳母を与えている。

三關:鈴鹿關・不破關・???

「記紀・續紀」を通じて明確に「關」と記載されるのは鈴鹿山道を塞ぐ鈴鹿關だけである。また同じく『壬申の乱』に「關」とは記載されないが、不破道を塞ぐと言う重要な戦略拠点があった。道を塞ぐことによって敵を遮断できる場所として「不破關」と呼べるであろう。

『壬申の乱』ではもう一つ、勝敗を決定する最も直接的な道が記述されていた。倉歷道である。近江直入ルートでは避けることができない、近江と東國との間にある深い谷間の道と記述されていた。当然この道に「關」を設けることは極めて効果的な場所となろう。名付ければ「倉歷關」である。

<愛發關>
勿論こんな名称は何処にも出現しない。調べてみると「愛發關」と呼ばれた場所があったようである。

「愛」=「旡+心+夂(足)」と分解される。「旡」=「満ちる、尽きる」の意味を表す文字要素である。「發」=「癶+弓+殳」と分解される。「両足を開いて弓矢を放つ様」と解説されている。

両文字共に些か解釈が難しいようだが、地形象形的には、文字要素を組み合わせて解釈できると思われる。愛=広げた足のような山稜の端()が延びて尽きる様發=二つの山稜に挟まれた谷間()に弓なりになった地と矛(殳)のような地がある様と読み解ける。

この地形要素を有する場所を求めると、「倉歷道」の谷間を出て、暫く北方に向かったところが見出せる。この深い谷間に「關」を設けることは不可能であって、その入り口付近が選択されたのではなかろうか。

あらためて『壬申の乱』の全体図を眺めると、「三關」は倭國中心地への侵入ルート上に位置することが明らかであろう。古事記の神倭伊波禮毘古命(神武天皇)が筑紫之岡田宮から青雲之白肩津、紀國竈山、熊野村を経て高倉下・八咫烏の助けを借り、何とか切り抜けた道(こちらこちら参照)、その由緒ある道への出入口を抑える「關」、それが「愛發關」だったと推測される。

太宰府帥・尾張守・不破關・愛發關に「傔仗」を与えたと言う記述は、倭國侵入東回りルート上に配置されていることが解る。南下の直入ルート上には鈴鹿關を配置、実に合理的な倭國防衛体制であったことを伝えているのである。

通説の解釈では、倭國中心地の飛鳥及び近江大津を取り囲む「關」とされているが、飛鳥は当然としても何故今頃になって近江大津を防がねばならないのか、全く不自然であろう。飛鳥は奈良大和の最南端にあったとする。ここでも空間認識の欠如が露呈されているようである。

<國造千代・如是女>
● 國造千代・如是女

「美濃國安八郡」は書紀で美濃國安八磨郡と記載されていた地であろう。現在の貫川が流れる谷間が広がった領域を表す表記と読み解いた。

國造千代の「千」=「人+一」=「谷間が寄り集まった様」、「代」=「人+弋」=「谷間にある杙のような様」と解釈して来た。

千代=谷間が寄り集まった地に杙のような地がある様と読み解ける。図に示した谷間の出口辺りの場所と推定される。國造=大地が造(牛)の様と読むとこの人物の出自の場所をより正確に表していると思われる。

彼の妻、如是女の「如」=「女+囗」=「大地が嫋やかに曲がる様」、「是」=「匙のような様」とすると、如是=大地が嫋やかに曲がった端が匙のようになっている様と読み解ける。「千代」の西隣の場所を表していると推定される。太安萬侶の出自場所が貫川の対岸となる。

夏四月己巳。授无位村王從五位下。癸酉。制。貢人位子。无考之日。浪入常選。白丁冐名。預貢人例。此色且多。是由式部不察之過焉。今宜按覆検實申知。其式部史生已上。若能知罪自首者免其罪。終隱執不首者准律科罪。亦其位子。准令。嫡子唯得貢用。庶子不合。今即兼用。此亦式部違令。若其庶子雖授位記。皆追還本色。但其才堪時務。欲從貢人例者聽之。又諸國博士醫師等。自朝遣補者。考選一准史生例。考第各從本色。若取土人及傍國者。並依令條。又諸位子貢人堪貢名籍。皆令本部案記。臨用。式部乃下本部追召之。壬午。從四位下柿本朝臣佐留卒。

四月七日に無位の「村王」に従五位下を授けている。十一日に以下のことを制定している。その概略は、貢人(官吏に採用されるように推挙された諸国の国学生)及び位子(内六位以下八位以上の位階を有する者の子)の叙位期間が水増しされたり、「貢人・位子」の資格のない白丁(庶民)が成り済ましたりしている。これは式部省の監察不行き届き結果である。実情を調べ、また官人で犯した罪を自首すれば免じるが、さもなくば令に従って処罰する、と述べている。

また本来は「位子」は「嫡子」に限られるが「庶子」も区別なく登用されている。調べて元の身分に戻すようにするが、能力あれば「貢人」の扱いとせよ、述べている。諸国の博士・医師も定められた職位で評価すること、また「貢人・位子」の名簿を作成し、登用する時の資料とせよ、と定めている。

<柿本朝臣佐留-建石-濱名・大庭・人麻呂>
● 柿本朝臣佐留

二十日に「柿本朝臣佐留」が亡くなっている。書紀の天武天皇紀に柿本臣猨として登場していた人物であろう。「猨」の表記ではかなり広い場所を示すと読み解いたが、今一度詳細に調べてみよう。

父親が大庭、弟に人麻呂が居たと伝えられている。大庭=平らな頂の麓で平らに延び出た様と解釈される。図に示した愛宕山の山麓にある平らな場所を表している。

「佐」=「人+左」=「谷間で左手のような山稜が延びている様」、「留」=「卯+田」=「隙間を押し開く様」と解釈した。纏めると、佐留=押し広げたように谷間から左手のような山稜が延びているところと読み解ける。「大庭」の西側の谷間を表していることが解る。おそらく現在の須佐神社辺りが出自の場所と推定される。

の地形象形を大坂山・愛宕山の山稜から長く延びた山稜を手長猿の手と見做した解釈を行ったが、改めて見ると、「猨」=「犬+爪+于+又」と分解される。「爪」=「三本の山稜が延びている様」、「于」=「山稜が長く延びている様」、「又」=「山稜が手のような形をしている様」、そして「犬」=「平らな頂の山稜」である。これらは図に示した「佐留」の地形を満たす文字構成であることが解る。実に多様に重ねられた、巧みな表記でだったのである。

息子に柿本朝臣建石柿本朝臣濱名がいたと知られている。前者は後(聖武天皇紀)に従五位下の位階を授かって登場する。建=廴+聿=筆のように山稜が延びた様であり、「佐留」の南側の山稜辺りが出自の場所と推定される。後者は外従五位下からの叙爵と記載されている。濱名=水辺の近くに山稜の端があるところと読み解ける。図に示した父親の左手の先辺りが出自の場所と推定される。

「佐留」の弟の柿本人麻呂は記紀・續紀には登場しない。勿論超有名な万葉歌人であり、本著でも幾度か登場して頂いた人物である。人麻呂=谷間で平らに積み重なった様と読めるが、人丸と別称していたとも知られている。すると「大庭」の東側の谷間に一際目立つ「丸」があることに気付かされる。その麓、少々入組んでいるが、辺りが出自の場所と推定される。

万葉歌人として多くの事績を残したが、その生涯については不明なままとのこと。梅原猛氏の「佐留(猨)」との同一人物説などがあるが、別名表記ではない。石見國(現地名北九州市小倉南区石代)の湯抱鴨山で生涯を閉じたと言われる。幾度も登場した「湯」が絡む場所(急流の河畔)は何らかの処罰を受けて流されたようにも思われる。續紀が片付いたら、次は万葉集かな?・・・。