2021年2月2日火曜日

天之眞宗豐祖父天皇:文武天皇(17) 〔488〕

天之眞宗豐祖父天皇:文武天皇(17)


大寶三年(即位七年、西暦703年)四月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、和訳はこちらを参照。

夏四月癸巳。奉爲太上天皇。設百曰齋於御在所。乙未。從五位下高麗若光賜王姓。辛亥。從七位下和氣坂本賜君姓。戊午。安藝國被畧爲奴婢者二百餘人。免從本籍。閏四月辛酉朔。大赦天下。」饗新羅客于難波舘。詔曰。新羅國使薩飡金福護表云。寡君不幸。自去秋疾。以今春薨。永辞聖朝。朕思。其蕃君雖居異域。至於覆育。允同愛子。雖壽命有終。人倫大期。而自聞此言。哀感已甚。可差使發遣弔賻。其福護等遥渉蒼波。能遂使旨。朕矜其辛勤。宜賜以布帛。是日。右大臣從二位阿倍朝臣御主人薨。遣正三位石上朝臣麻呂等弔賻之。

四月二日に太上天皇の百日齋を御在所(鸕野皇女の故郷:現地名田川郡福智町長浦)で設けている。四日、「高麗若光」に「王」姓を授けている。この人物は天智天皇五年(西暦666年)十月の記事に登場した高麗の使者であった「玄武若光」と推測されている(こちら参照)。多分武藏國辺りに住まわせていたのではなかろうか。

二十日に「和氣坂本」に「君」姓を授けている。二十七日、安藝國略奪されて奴婢となった者二百余人を良民とすることを免じている。閏四月一日に大赦をしている。また新羅の客を難波館(難波大郡か?)で饗応し、物を与えている(新羅の蕃君云々は略)。この日、大納言・右大臣の阿倍朝臣御主人が亡くなり、石上朝臣麻呂等を弔いに遣わしている。

<和氣坂本>
● 和氣坂本

「和氣君坂本」となったのであろう。がしかし、殆ど情報がない有様で、辛うじて「和氣」は備前國に関わる地名と分った。編纂の時代には至極よく知られていたのであろうが、こう言う場合が最も探索し辛い。

兎も角も備前國で「和氣坂本」を探すと、それらしき場所を求めることができそうである。坂本=山頂から腕のように延びた山稜の麓であり、和氣=しなやかに曲がりながらゆらゆらと延びる様を表してる。現地名は下関市永田郷の石王田辺りと推定される。

この地は古事記の伊久米伊理毘古伊佐知命(垂仁天皇)の御子、大中津日子命が祖となった吉備之石无別と推定した。和氣=別であり、山稜が深い谷間で区切られた地形を示す場所と思われる。確かに由緒ある地だったわけである。

五月壬辰。金福護等還蕃。」正七位上倉垣連子人。高祖根猪以來子孫。正七位上私小田。從七位上私比都自。長嶋。及昆弟等皆訴。得免雜戸。癸巳。流來新羅人付福護等還本郷。己亥。令紀伊國奈我。名草二郡停布調獻絲。但阿提。飯高。牟漏三郡獻銀也。丙午。相摸國疫。給藥救之。

五月二日に新羅の使者が帰国している。その日、「倉垣連子人」の高祖(祖父の祖父)である「根猪」の子孫である「私小田」、「私比都自・長嶋」及びその兄弟達は皆良民であると訴えて、雑戸の身分を免じられている。三日、流れ着いた新羅人を使者に付けて帰している。

九日に紀伊國の「奈我郡・名草郡」に調としての麻布の代わりに絹糸を、また「阿提郡・飯高郡・牟漏郡」には銀を献上させている。この國には高級な特産物があったようである。十六日、相摸國で疫病が発生、薬を与えて救っている。

<倉垣連子人・私小田・私比都自/長嶋>
● 倉垣連子人・私小田・私比都自/長嶋

「倉垣」の文字列は、書紀に、勿論古事記にも登場しない。調べると、「能勢(世)氏」の支流(分家)が名乗っていた様子である。

「能勢(世)氏」は攝津國に住まった一族と知られているが、多分、「倉垣氏」もその近隣だったと推測される。

ならば攝津國でその名称が表す地形を探索することにする。倉=谷の地形があるとすれば、現地名の行橋市矢留辺りと思われる。垣=土+亘=盛り上がった地で囲まれた様と解釈する。古事記に幾度か登場した文字である。

その地形が矢留山の東北麓に見出せる。図に示した裏ノ谷池の西岸に当たる場所である。子人=谷間にある生え出た山稜と読める。「倉垣」の場所が読み解けると、以下の人物の名前が芋づるのようにに見えて来る。

私=禾+ム=山稜に囲まれた様であり、「垣」と同様の地形を表す文字と解釈される。即ち大きな囲いが「垣」であり、その中にある小ぶりな囲いが「私」となっている。小田=三角形の田であり、比都自=並んで寄り集まった端であり、長嶋=長く延びた鳥の形の場所を示していると思われる。

高祖根猪根猪(犬+者)=根のような平らな山稜が交差するように集まった様と読み解ける。「倉垣」の別名として差支えのない表記であろう。能勢(世)はどの地形を表しているのであろうか?…能勢=隅(能)に丸く小高い地(勢)がある様と読み解ける。矢留山が東に張り出している場所と思われる。更に能世=隅(能)が引き継がれた(世)様と読める。川を挟んで繋がっているように見える地形を示していることが解る。

<紀伊國六郡>
紀伊國六郡

既に登場した郡は伊刀郡阿提郡牟婁郡(武漏郡、ここでは牟漏郡)であり、「奈我郡・名草郡・飯高郡」が新しく加わったことになる。

奈我郡の「奈」=「木+示」と分解される。この字の旧字体は「柰」である。地形象形的には「奈」=「山稜が高台のように延びている様」を表すと解釈される。

頻出の「我」=「ギザギザとした戈(矛)のような様」であり、纏めると奈我=山稜が高台のように延びてギザギザとした矛のようなところと読み解ける。図に示した阿提郡と牟婁郡に挟まれた場所と推定される。

名草郡の文字列は頻出であり、名草=山稜の端の三日月の形をした地にある丸く小高いところと読み解ける。山稜の端の近くにある小高いところが決め手となろう。図に示した國縣神が坐していた場所を中心とした郡と推定される。

飯高郡の「飯」=「食+反」と分解して「飯」=「山麓で山稜がなだらかに延びる様」と解釈した。それなりの頻度で登場する文字である。頻出の「高」=「皺が寄ったような山稜がある様」であり、飯高=皺が寄ったような麓で山稜がなだらかに延びているところと読み解ける。図に示した伊刀郡の南側に隣接する場所と思われる。伊太祁曾神があった地を含む場所と思われる。

「奈我郡・名草郡」は絹糸を差し出させたと記載されている。これら二郡は平地が広がった地形を有し、養蚕が行える場所であったと推測される。一方「飯高郡」を含む三郡の山間若しくは丘陵地形で銀が産出したかは定かではないが、それぞれの生業に準じていることが伺える記述と思われる。

少々余談だが、古事記の御眞津日子訶惠志泥命(孝昭天皇)の御子、天押帶日子命が祖となった地の一つに伊勢飯高君が記載されている。勿論「飯高」の文字解釈は上記と同様なのであるが、紀伊國と伊勢國では全く異なる場所と推定した。どうやら通説は同一場所(三重県松阪市・多気郡多気町)であって、かつては和歌山県、廃藩置県で三重県に属するなどの変遷を経たと解説されている。現存する地名の”あやふやさ”を物語っているようである。

六月乙丑。以從四位上大神朝臣高市麻呂爲左京大夫。從五位下大伴宿祢男人爲大倭守。從五位上引田朝臣廣目爲齋宮頭兼伊勢守。

六月五日に以下の人事を行っている。大神朝臣高市麻呂を左京大夫に、「大伴宿祢男人」を大倭守にしている。「男人」は持統天皇紀に不正な手段で金品を得た罪を問われて任を解かれ、二階級降格されていたが復活したのであろう。また引田朝臣廣目を齋宮頭兼伊勢守としている。

<大伴宿禰男人・道足・牛養・祖父麻呂>
● 大伴宿禰男人・道足

「男人」の父親が大伴連馬來田と知られる。また兄が「道足」であり、直ぐ後に登場する人物であることが分った。併せて出自の場所を求めてみよう。

「男人」は男性らしく突き出た地を表している。道足=山稜が延びた端に首の地形がある様と読み解くと、「馬來田」の山稜の端の地形を示していることが解る。

(元明天皇紀)に吹負の子、大伴宿禰牛養・祖父麻呂が登場する。前者は紆余曲折があったようだが最終では正三位、中納言に出世したと伝えられている。の頭部を図の山稜が示していると思われる。養=羊+良=谷間がなだらかに広がっている様と読み解ける。祖父=積み重なった地が交差するような様と解釈され、谷間の出口辺りと推定される。

一時は逡巡しながら大海人皇子に加担した馬來田・吹負兄弟、人生における選択を間違わなかった大伴氏の非嫡流の家族の物語を伝えているようである。いずれにしても蘇賀の東側(蘇我)が没落して行ったのに対して西側の一族の隆盛が伺える。

秋七月甲午。詔曰。籍帳之設。國家大信。逐時變更。詐僞必起。宜以庚午年籍爲定。更無改易。」以從五位上大石王爲河内守。正五位下黄文連大伴爲山背守。從五位下多治比眞人水守爲尾張守。從五位下引田朝臣祖父爲武藏守。正五位上上毛野朝臣男足爲下総守。正五位下猪名眞人石前爲備前守。」以災異頻見年穀不登。詔減京畿及大宰府管内諸國調半。并免天下之庸。」又詔。五位已上擧賢良方正之士。壬寅。令四大寺讀金光明經。丙午。近江國山火自焚。遣使祈雨于名山大川。壬子。贈從五位下民忌寸大火正五位上。正六位上高田首新家從五位上。並遣使弔賻。以壬申年功也。

七月五日に以下のことを命じられている。戸籍・計帳を設けることは重要であるが、時が経って変わると偽りが起きることも避け難い。「庚午年籍」(天智天皇即位九年[西暦670年]に作られた全国的規模のものとしては最古の戸籍、現存しない)を基準として変えることのないようにすること。

また、大石王を河内守、黄文連大伴を山背守、多治比眞人水守を尾張守、引田朝臣祖父(爾閇に併記)」を武藏守、上毛野朝臣男足(小足)を下総守、「猪名眞人石前」を備前守に任命している。災害のため穀物が不作故に京畿及び大宰府所管の諸國の調を半減、並びに天下の庸を免じている。また五位以上の賢明で品行方正の者を推挙するように命じている。

十三日に四大寺で金光明経を読経させている。十七日、近江國で自然発火の山火事があり、名山大川で雨乞いをしている。二十三日に民忌寸大火及び高田首新家にそれぞれ上位の階の爵位(壬申の功)を贈り、弔使を遣わしている。

<猪名眞人石前-石楯・大村・法麻呂>
● 猪名眞人石前

調べると韋那公磐鍬の子と判ったが、「石前」からでは特定に至るのであろうか?…「石」の前と読めば、至る所が候補となる感じであろう。

「前」=「剪」の原字でもある。「切って揃える様」を表す文字と知られている。そうすると「磐鍬」の南側の山稜の端が揃ったように見えるところを示しているのではなかろうか。

「韋那」は囲まれた様に従った表記であり、「石前」の場所は、猪名=猪の口のような山稜の端にあったことを表していると思われる。それ故に父親の「韋那」を用いずに「猪名」の表記を用いたのであろう。

『壬申の乱』の際父親は大友皇子側の将軍の一人であったが、子孫に影響ある罪には問われていなかった。一族の復活を示しているように思われる。弟の石楯は、更にその南側、山稜(石)が二つに岐れた()ところが出自の場所と推定される。併せて図に示した。尚、後の元正天皇紀に登場する。

また後に猪名眞人大村が登場する。頻出の村=木+寸=山稜が手を開いたような様であり、図に示した場所と推定される。韋那公磐鍬と兄弟で、鏡王の子とWikipediaに記載されている。猪名公高見のその兄弟の一人とか、そうなれば額田姫王とも姉弟(兄妹)となってしまうが、極めて根拠に欠ける解説であろう。いずれにしても出雲(淡海)に関係する人物の出自の解釈は頗る曖昧、と言うか、誤りであろう。

更に後(元正天皇紀)に法麻呂が登場する。法=氵+去=水際で区切られた様と読み解いた。法興寺田中朝臣法麻呂など幾つかの例が挙げられる。すると図に示した川縁の地と推定される。「大村」と「法麻呂」には何らかの関係があるような配置であるが、残念ながら「磐鍬」と「石前・石楯」の親子関係以外は不詳のようである。

八月辛酉。以從五位上百濟王良虞爲伊豫守。甲子。大宰府請。有勳位者作番直軍團。考滿之日送於式部。一同散位。永預選叙。許之。

八月二日に百濟王良虞(郎虞)を伊豫守に任じている。「良虞」は既に二度ほど登場している。最初が天武天皇の葬儀、次が持統天皇即位五年正月の記事に名前を連ねていて、すっかり日本に定着した様子である。地方官長を任されているが、人物的にも優れていたのであろう。

五日に大宰府が以下の様に申請して来て、それを許可している。位階がある者は交替で軍団に出仕させ、その日数が規定に達すれば交替し、いつでも選叙に預かれるように、所謂散位(位階をもちながら官職についていない者の称呼)と同じ扱いとしたい。

九月辛夘。賜四品志紀親王近江國鐵穴。庚戌。以從五位下波多朝臣廣足爲遣新羅大使。癸丑。施僧法蓮豊前國野卌町。褒医術也。

九月三日に志紀親王(施基、志基、志貴の別名あり)に「近江國鐵穴」を与えている。「施基皇子」は『吉野の盟約』にも登場する天智天皇の御子の一人である。大友皇子との関係とは微妙であったのであろう。父親ではなく叔父側に味方したのである。

「鐵穴」とは?…調べると「鐵穴流し」として知られる砂鉄採取の方法があるとのこと、ところが「鐵穴(カネアナ→カンナ)」そのものの由来は極めて曖昧であることも分った。採取した土鉄から鉄分が抜けて穴が開いた様から名付けられたようであるが、当時既にたたら製鉄がなされていたのであろうか?…間違いなく近江國の地形を表していると思われる。

二十二日に波多朝臣廣足を新羅大使として遣わしている。二十五日、「僧法蓮」に豐前國(現地名は京都郡みやこ町犀川上・下高屋)の野四十町を与えている。その医術を称えてのこととしている。「僧法蓮」は英彦山修験の中興の祖、現在の宇佐市周辺に多くの伝承があるとのこと。

<近江國鐵穴>
近江國鐵穴

先ずは近江國で「穴」の地を求めてみよう。穴=山稜に挟まれた長く深い谷間がある場所は、現地名の京都郡苅田町(苅田アルプス)の山麓として探すと図に示した、見事に対称形の谷間が見出せる。

既出の鐵=金+呈+戈+(土)=山麓の高台の先端が尖った戈のようになっている様と読み解いた。図から解るようにその戈が山稜を切り分けて谷間にしたような配置になっている。

通常の意味で用いられる「鐵」は、このすっぱりと切り分ける機能を表していることになる。漢字の成り立ちに戻って解釈することが肝要である。

上記で記したように「鐵穴(カンナ)」の由来は定かではないようであるが、この地から砂鉄が採取されていたのかもしれない。

”たたら”のような技法に仕上がる以前に存在した場所、それが「鐵穴流し」の由来となった、と勝手に憶測されるのだが・・・ともあれ、図に示したように近江國の東端が様々に開拓されて行く様子が伺える記述である。