2021年1月28日木曜日

天之眞宗豐祖父天皇:文武天皇(16) 〔487〕

天之眞宗豐祖父天皇:文武天皇(16)


大寶三年(即位七年、西暦703年)正月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、和訳はこちらを参照。

三年春正月癸亥朔。廢朝。親王巳下百官人等拜。太上天皇殯宮也。甲子。遣正六位下藤原朝臣房前于東海道。從六位上多治比眞人三宅麻呂于東山道。從七位上高向朝臣大足于北陸道。從七位下波多眞人余射于山陰道。正八位上穗積朝臣老于山陽道。從七位上小野朝臣馬養于南海道。正七位上大伴宿祢大沼田于西海道。道別録事一人。巡省政績。申理寃枉。

正月元日の朝賀を止めて親王以下百官人等は太上天皇の殯宮で拝礼している。二日、「藤原朝臣房前」を東海道へ、多治比眞人三宅麻呂を東山道へ、高向朝臣大足を北陸道へ、「波多眞人余射」を山陰道へ、穗積朝臣老を山陽道へ、「小野朝臣馬養」を南海道へ、「大伴宿祢大沼田」を西海道へ道別に録事を一人付けて遣わし、各国司の治績の巡視及び冤罪を申告させ、正している。各使者は全て初登場であり、人心一新の年が明けたようである(リンクがあるのは以前に父親の登場に従って併記)。

<藤原四家:武智麻呂・房前・宇合・麻呂>
● 藤原朝臣房前

藤原不比等の四兄弟、武智麻呂・房前・宇合・麻呂の次男である。後にそれぞれ南家北家式家京家の家系となって、空前の権勢を有することになる。

またライバルでもあり、競い合いながら一層の権力を増大させて行ったようである。聖武天皇紀天平九年(西暦737年)、疫病により四兄弟はこの世を去ったと伝えられている。

さて、狭い中臣の谷間に彼らの出自の場所を求めてみよう。房前は、不比等の「不」の片割れの前と解釈される。不=花の子房を象った文字に置き換えた表記である。

兄の武智麻呂は、頻出の武=矛のような様智=鏃の傍らに炎の形がある様、共に幾度も登場した文字列である。房前の東側の山稜を示していると思われる。その矛先辺りが出自の場所であろう。三男の宇合=谷間で延びた山稜が出合う様と読み解けるが、更に別名に馬養=馬の地形の傍のなだらかな谷間が広がる様があったと知られている。武智麻呂の南側に当たる場所と思われる。

四男の麻呂は、これだけでは何ともし難いのであるが、別名が萬里と知られている。麻呂は「萬侶」の表記があったのかもしれない。すると中臣の谷間から外に出た山稜が見事な萬=蠍の形をしていることが解る。不比等の山裏に当たる場所である。

四家の由来は如何であろうか?…兄より北側で北家、弟より南側で南家、式部卿だったから式家、左京大夫だったから京家なんて言われているようであるが・・・[北]の字形の麓にある家[南]の字形の麓にある家折れ曲がった山の麓にある家大きな岡の麓にある家となる。藤原四兄弟の出自の場所、申し分なく確定である。

いずれにしても房前は、おそらく二十歳前後の年齢のように思われ、不比等の威光もさることながら、秀でた人物だったように伺える。四家の中で最も権勢を誇った北家の祖である。

<波多眞人余射>
<波多朝臣廣麻呂-僧麻呂-安麻呂-古麻呂-孫足>
● 波多眞人余射

「波多朝臣」ではなく「眞人」だから書紀の羽田公矢國の近隣と思われる。残念ながら系譜は定かではないようで、勿論矢國との繋がりは不明である。

余=谷間で山稜が延びた端の様射=身+寸(手)=山稜の端が弓なりに曲がった様と読み解いて来た。既出の文字列の組合せである。

すると「矢國」の東側で矢筈山から延びた山稜の端が身の地形を示していることが解る。更に別名が與射と表記されるとのことで、與=複数の手が差し伸べられた様を表すと解説されている。

図に示したように矢筈山から延びる「手」(山稜)は、複数寄り集まって延びているように見える。残念ながらこの高台の何処が出自の場所かは分かりかねるが、谷間に近接、即ち高台の北側辺りではなかろうか。

後に波多朝臣廣麻呂が登場する。「眞人」とは別系列であろう。既出の羽田朝臣齋の台地が延びて広がった場所が出自と推定される。更に後の聖武天皇紀に波多朝臣僧麻呂・安麻呂・古麻呂が登場する。僧=人+曾=谷間で積み重なった様と解釈すると「廣麻呂」の前の小高くなった場所と推定される。

頻出の安麻呂安=宀+女=山稜の囲まれた谷間が嫋やかに曲がっている様と解釈すると、「僧麻呂」の南側の谷間と推定される。同様に頻出の古麻呂の古=丸く小高い様とすると、「波多」の山稜の端の地形を表していると思われる。「羽田(波多)朝臣」の系譜は定かではないように思われる。後(聖武天皇紀)に波多朝臣孫足が登場する。孫(子+系)足=生え出た山稜に連なっている山稜があるところと読み解ける。図に示した場所と推定される。

<小野朝臣馬養・老・東人>
● 小野朝臣馬養

「小野朝臣」については小野臣妹子からの系譜が伝えられている。一族の出自の場所は現地名田川郡赤村内田、平成筑豊鉄道田川線内田駅の近傍と推定した。

古事記の御眞津日子訶惠志泥命(孝昭天皇)の御子、天押帶日子命が祖となった小野臣の地、かなり由緒のある一族であろう。

「毛」(鱗)の地とは異なる場所に「馬養」を求めるとこの一族が御祓川の西岸に広がって行った様子が伺える。

幾度か登場の馬養=馬の地形の傍にある谷間がなだらかに広がった様と読み解いて来た。「毛野」の南側にその地形を見出すことができる。その兄と共に活躍した兄弟であったようである。

後(元正天皇紀)に「毛野」の子と知られる小野朝臣老が登場する。正六位下から従五位下に進位されたと記載されている。老=海老のように山稜が曲がっている様と読み解いて来たが、図に示したようにその傍らの谷間が出自の場所と推定される。

更に後(聖武天皇紀)に小野朝臣東人が外従五位下を叙爵されて登場する。「廣人」の子とする系図が残されているようで、その近辺を探すと、それらしき場所が見出せる。頻出の東人=谷間を突き通すようなところである。謀反に加担して、自白の後に拷問を受け獄死したと伝えられている。

<大伴宿禰大沼田>
● 大伴宿禰大沼田

この人物の系譜は不詳のようである。書紀の天武天皇紀に登場した大伴連馬來田のように田が付くことからも大伴の谷間の出口辺りと推測される。

その地で沼=氵+召=水辺で曲がった様を探すと、図に示した場所辺りが候補となるであろう。「馬來田」登場の段に大伴朴本連大國も登場する。この二人の出自に近接する場所と思われる。

一に特定することは叶わないが、石川(河)(現白川)の西岸の高台に田を作っていたのであろう。系譜も分らず、この後も昇位の記述に記される程度で活躍は伝えられていないようである。

東海道・東山道・北陸道・山陰道・山陽道・西海道・南海道

所謂畿内七道と呼ばれた中の「七道」の名称が記載されている。このうち書紀の天武天皇紀に東海道・東山道・山陰道・山陽道・南海道」の五道が記述されていて、「北陸道」と「西海道」が加わったことになる。この二道を加えた全体図を示す。

<七道:東海・東山・北陸・山陰・山陽・西海・南海>

❸北陸道は❷東山道の北側に位置し、越前國・越中國・越後國・飛騨國・佐渡國などが含まれていると思われる。更に上記の記述のみでは不確かなのであるが、飽田・渟代・津軽蝦夷などに繋がる道と推測される。位置関係からすると肅愼國は❹山陰道に含まれるのであろう。あらためて❷東山道を見ると、やはりそれは陸奥國(かつては陸奥蝦夷)で行き止まっている。「北陸」=「陸奥の北側」を表していると思われる。

❻西海道は、西の海である。そして前記された筑紫七國が含まれると思われる。安藝國・因幡國(書紀の因播國)・伯耆國・隱伎國は西海道に属することになる。「筑紫七國」の表記は、❻西海道を登場させるのに必要な記述だったのであろう。現在では中国地方西部に位置する場所(❹山陰道・❺山陽道)であろうが、国譲りによって大きく変化した地と思われる。

古事記の東方十二道、それに続く書紀・續紀の「七道」の記述は決して明解ではない。拡大膨張させた後での編集であることから、曖昧にせざるを得なかったように推測される。この後も引き続き修正をしながら本来の「七道」を辿ってみようかと思う。

丁夘。奉爲太上天皇。設齋于大安。藥師。元興。弘福四寺。辛未。新羅國遣薩飡金福護。級飡金孝元等。來赴國王喪也。是日。制。主礼六人。元以大舍人爲之。宜准斯例蠲其課役。壬午。詔三品刑部親王知太政官事。

一月五日に太上天皇を奉らん為に大安寺藥師寺元興寺(法興寺)・「弘福寺」の四寺で齋を設けている。尚、「弘福寺」は川原寺にあった中金堂(伽藍の中心)を指すようである。九日に新羅の使者が國王の喪を知らせている(孝昭王、702年7月逝去)。その日、主礼六名は元来大舎人が任に当たっていたので同様にその課役を免じるようにしている。二十日、刑部親王に太政官を統括させている。

二月丁未。詔。從四位下下毛野朝臣古麻呂等四人。預定律令。宜議功賞。於是。古麻呂及從五位下伊吉連博徳。並賜田十町封五十戸。贈正五位上調忌寸老人之男。田十町封百戸。從五位下伊余部連馬養之男。田六町封百戸。其封戸止身。田傳一世。丙申。從七位下茨田足嶋。衣縫造孔子。並賜連姓。癸夘。是日當太上天皇七七。遣使四大寺及四天王山田等卅三寺。設齋焉。」大宰史生更加十員。

二月十五日に下毛野朝臣古麻呂等四人に律令選定の功により賞を与えられている。「古麻呂」と伊吉連博徳には田十町と封戸五十、調忌寸老人の息子には田十町と封戸百、伊余部連馬養(馬飼)の息子には田六町と封戸百を与えている。但し封戸は一代限り、田は子の代までとすると記載されている。

二月四日、茨田足嶋と「衣縫造孔子」に連姓を授けたと記載されているが、記述順からして上記の「丁未(十五日)」で良いのか、少々戸惑う箇所である。また「茨田足嶋」への連姓授与は既出でもある。十一日は太上天皇も七七(四十九日)に当たり、四大寺及び四天王寺山田寺等三十三寺に使者を遣わして齋を設けている。この日大宰の史生(官司の書記官)を十名増やしている。

<衣縫造孔子>
● 衣縫造孔子

「衣縫造」は大藏衣縫造內藏衣縫造の二つが登場している。「大藏」でも「內藏」でもない場所を表しているようである。孔=穴である。すると「內藏」の「內」が表す場所ではなかろうか。

子=生え出た様であり、纏めると孔子=穴の傍らにある生え出たところと読み解ける。図に示した「香來山」(持統天皇の万葉歌登場)の東麓の山稜の端に当たる場所と推定される。

「孔子」の地形象形表記が示す場所が求まったことになる。さぞかし天下の四聖人も苦笑い・・・「諱は丘、字は仲尼」と知られている。丘を谷間が突き通す様子を表しているのかもしれないが、偶然であろう。

三月戊辰。賜從四位下下毛野朝臣古麻呂功田廿町。辛未。詔四大寺讀大般若經。度一百人。丁丑。下制曰。依令。國博士於部内及傍國取用。然温故知新。希有其人。若傍國無人採用。則申省。然後省選擬。更請處分。又有才堪郡司。若當郡有三等已上親者。聽任比郡。戊寅。信濃。上野二國疫。給藥療之。乙酉。以義淵法師爲僧正。

三月七日にまたもや下毛野朝臣古麻呂に功田として二十町が与えられている。十日に四大寺で大般若経を読経し、百人を出家させたと記している。十六日に國博士はその国内もしくは隣国から採用する決まりであったが、そんな人は稀であって、隣国に居ないならば、申し出よと述べている。また郡司の才があるが、三等以上の者が既に郡司となっている場合は、隣国の郡司とすることを許可している。

十七日、信濃國上野國に疫病が発生、薬を給して治療させている。二十四日に義淵法師を僧正にしている。即位三年(西暦699年)十一月の記事に稲一万束を貰ったと記載されていた。