対馬・関門海峡の海水準(海進)

対馬・関門海峡の海水準(海進)


国(島)生みとは一体何を意味しているのであろうか?…島が誕生する?…地球の表面の凹凸に海が広がって行く様ではなかろうか・・・山が島となる過程を表していると思われる。よく知られているように日本列島は、アジア大陸の東端にあった隆起部(大陸プレート下への海洋プレートの潜り込み)であったところであり、その後内陸(西側)の窪地に海が侵入して日本海を形成したものと考えられている。

更にその後の気候変動により海面水位(海水準:末尾の<付記>参照)が上昇・下降し、現在の水位に落ち着いて来たことが知られている。即ち現在の朝鮮半島と日本列島は陸続きの時があった。と言うか、そもそも同じ大陸の中にあった地である。それを念頭に置いて現在の地形を海底から見た地表の凹凸として眺めてみることにした。

現在の水深の値をそのまま当時の高度に置換えることは困難であろうが、それを目安として考えることの重要性を示すことにする。尚、海図はこちらのサイトを参照した。

 



対馬海峡(西水道と東水道)の地形を見ると、対馬は海深100~200mから最高標高654mの高度差であることが判る。

朝鮮海峡とも言われる西水道が深い地形を示す。その海底から見ると標高差約900mの切り立った山脈状をしている。

海深100mで島状の地形となり、海面水位によって形状に変化はあるものの島には変わりはない、と言える。

一方の壱岐島・小呂島は海深100m、更に50mのラインを見ても、すっぽりと日本列島側に含まれており、こちらは島になっておらず、海水準の影響を大きく受けることが判る。

 
壱岐島を詳細に調べると、水位が上昇するに連れて海深50mからがらりと様相が異なってくる。約40mで島の形状に変化するのである。

現在の九州本島から離脱し、更に約20mで幾つかの島が集まった状態になり、そして現在の地形になる。即ち海水準の上昇(海進)によって島が現れたことになる。

小呂島は海深50mまでは壱岐島と同様に日本列島に含まれた状態であるが、やはり40m(詳細には46m)で島の形状となる。大海に浮かぶ孤島「佐度嶋」(渡航を助くる島)である。

日本列島側に近付くに連れて島となる海深は小さくなって来るが、大島は約20m弱、地島では10m弱、完全に島状になるには海深5m前後になった時と思われる。その時点では「三子嶋」は水面上に頭を出し、これが「隱伎之三子嶋」と名付けられた所以であろう。



響灘の地形を見ると、上記と同じ状態であるが、海深40mでははるか沖に海岸線があったことになり、20mでもまだ島の形状とはなっていない。

ただ注目すべきは現在の関門海峡は20m弱で開通しているように見えることである。本州と九州はこの海水準で切り離されたと判る。

淡道之穗之狹別嶋(淡道嶋)及び筑紫嶋の誕生、である。筑紫嶋は現在の企救半島に当たり、海退に加え沖積の進行によって半島となったと思われる。




関門海峡付近の海進は複雑であった、と言うか現在の地形からの推定が難しい場所であろう。一例だが図に示したJR下関駅があるところは明らかに大きく広い浅瀬を埋立た地であることが判る。そのような背景を含めて考察してみると、上記したように海水準が海深約20m(水色)から開通し始めて10m(黄色)でほぼ現在の地形となる。
 
その時点では彦島(かつては引島とも)は本州の一部である。それ以降の海進によって大きく地形が変化したと思われる。

図中右側の水色破線(a)で示した淡嶋と淡道嶋の境界は、おそらく川によって区切られていたのではなかろうか。

川は海進とは無関係に存在するわけで、海深5m前後になった時に淡道嶋として分離独立したと見做すことができる。

現在の下関港がある小瀬戸については当時も川のような状態であったかどうかは不明であるが、海水準が更に進まないと谷の状態であって、海で東西が結ばれてはいなかったのであろう。
 
即ち国生みに加えられない「淡嶋」は、島の形状ではあるが本州と僅かに繋がった状態と見做したと思われる。淡嶋と同じく生んだのだが数に加えられなかった「水蛭子」については下記に述べる。彦島関連の過去の地形については大正時代の地図を参照。
 
<天沼矛>
国(島)生みをする前に「成嶋」とした淤能碁呂嶋と淡嶋とは、初見では何らかの川があったように推測した。

その後地質調査資料を入手でき、この地は陸繋砂州(南半分は埋立て地)であることが解った。

図中水色破線で囲んだ部分(b)は陸続きとなっているが、島生みの時点では全く独立した島であったと推測される。

海深5程度に海水準が達したところで孤立した島が並ぶ様相を示していたのではなかろうか。正に雫が垂落ちるように見えたのかもしれない。

これに関連して古事記本文に神倭伊波禮毘古命が「吉備國」からの帰途の途中に速吸門を通ると記載される。この門を図中の点々の場所と推定した。「速吸」=「点々と繋がっているものを束ねる」と解釈する。詳細はこちら、参考図はこちらを参照(「吉備國」は倭國の北方、西方ではない)。

さて、伊邪那岐・伊邪那美の国(島)生みは天浮橋に立つところから始まる(詳細はこちらを参照)。「天沼矛」とは?・・・「天(頭)」が沼の矛であろう。老の山を矛先に見立てた地形象形と思われる。その先から垂れ落ちた塩が固まってできた島を淤能碁呂嶋と名付けたと述べている。「天」は沼の状態、即ち水辺ではあるが、東西に貫通した地形と認識していないことが読み取れる。

 
上図に示したように淤能碁呂嶋は伊邪那岐・伊邪那美が作った島ではあるが、生んだわけではない。雫が垂れて思わずできてしまったのである。

淡嶋は確かに生みかけたのだが、「天沼矛」と離れることができず、一体になってしまい、思った通りの「島」にはならなかったのである。


下記の「水蛭子」には、一応理由「不良」が付いているが、淡嶋にはない。いや、付ける必要など全くない程できが悪かった、ということであろう。

蓋井島は20mで島となったと思われる。白島(男島・女島)は約10mぐらいに水位が上昇しないと島とはならないようである。

女嶋をよく見ると海深5m前後で孤立した島状になる。そしてそこから細く長く伸びた根のような島が僅かに水面上に頭を出していることが判る。

この根のような島々を「天一根」と表記したのであろう。女嶋は現在の島の形状からは、とても想像できないほど異なるものであったようである。

 
藍島は明確な海深が読みづらいが、海深10mでもまだ島状にはなっていなく、この島も海深5m前後で漸く島らしくなると推測される。

西側に白洲という名称の場所があることからも広い範囲で棚のような地形の上にある島である。現在の島の形状は、海底からも「豆」=「平らな高台」の状態を示すものであろう。
 
津嶋を除き、大八嶋国・六嶋に比定した島は概ね標高、即ち海深約40mより浅いところにある。海水準の上昇に伴って次第に日本列島の陸地から離れて島になって行く様相を示している。

特に海深20m前後のところで多くの島が誕生する。陸続きであった日本列島が、文字通りの列島へと離散していく海水準であることが判る。

対馬は端から島状であったと思われるが、「津」としたところは図に示すように広い高台の状態と思われる。この地が海面下に入り始めるのは海深10m弱に上昇した時と推定される。「津嶋」(入江の島)となるのは、やはり、海深5前後になった時と判る。

 
このように見て来ると吉備兒嶋(島に成り切ってない)を除き、「国(島)生み」は現在の海深20mぐらいから徐々に島になり始め、約5mぐらいの時の状況を表わしていると推察される。

言い換えると、ほぼ同じような高度の場所に配置されたところが海進によって島状の地形になったことを告げている。大八嶋国六嶋はその条件を満たすところにあったと読み解ける。

自然現象に対して実に素直に、そして注意深く認識する古事記の一貫した姿勢を示しているようである。

大切なことはこの地が何千年という期間の中で気候変動によって海になったり陸になったりを繰り返して今の姿があるということ、大地でさえ普遍ではなく様々な形を示すということであろう。それを記述した古事記の自然観に驚嘆させられる。

 
「水蛭子」について何と解釈できるであろうか?…「不良」の記述に基づいて奇形児(胎児)のような説が多く見られる。

確かに文字の印象はその通りのようである。話題は国(島)生みである。

島の奇形?…胎児?…上記の「淡嶋」のように微妙な状態を示すとすると、近隣に浮かぶ島を思い付くことができる。

彦島の西にある六連島・小六連(馬島)である。海深10m程度(黄色)で両島合せて島となるが、海深2m前後(赤色)にならないと離れて独立した島にはならない。

海深5m前後では淡嶋と同様に微妙な状態にあった島と判る。即ちそれ以上海進が進むと分かれて二つの島なってしまう状況にあったと見做されたのであろう。

仁徳天皇紀の歌中で呼ばれた名称を図に示したが、極めて重要な海上交通の要所であったのだが、伊邪那岐・伊邪那美の思惑とは異なっていたのである。

伊邪那岐・伊邪那美は淤能碁呂嶋(八尋殿)国(島)生んだと記述される。そこから関門海峡の潮流が西向きの時に葦舟に載せて流したとすると、まさに符合する場所であろう。両島合わせた形状(黄色)を頭でっかちな蛭(子)に模したのかもしれない。

国(島)生みは、海水準が上昇して海深5m前後のところまでの出来事であり、残り2~3mの上昇で島になっても認知しない…「不良」と告げている。実に神話らしくない(?)精緻な表記ではなかろうか。そして玄界灘、響灘に浮かぶ主要な島は全て伊邪那岐・伊邪那美の手にかかった島であったことを示しているのである。

また、筑紫嶋は現在の企救半島と比定した。海進とはほぼ無関係に紫川及び竹馬川の下流域が大きく広がっていた時に関門海峡が開通して孤立した島状になったと見做していたと推測される。同時に大倭豐秋津嶋は貫山・福智山山塊を中心とする地域であるが、遠賀川・彦山川・犀川(今川)に囲まれ、また現在の北九州市若松区に比定した伊豫之二名嶋も南面を洞海湾・江川に囲まれていたところに北面から響灘が迫って島状になったと見做されたのであろう。詳細はこちらを参照。

補足になるが、別格の沖ノ島は海深約80mで島になる。それまでは日本列島に含まれているが、海深100mの大地に聳える円錐形の独立した、標高差約350mの山であったと思われる。早期に島状になったであろうが、対馬海峡東水道における、まさにランドマークであり、二神が生む以前に島であった。

伊邪那岐・伊邪那美の「国(島)生み」は、日本列島に押し寄せる海進によって、ほぼ同じ時期に山が島になった様相を物語っていると結論付けられる。現在の海深からではあるが、対馬海峡及び関門海峡の海水準の変動を模したものと思われる。この対馬海峡の地に言い伝えられて来た島の伝承なのであろうか・・・。

――――✯――――✯――――✯――――

大八嶋國の「国生み」の順序は、島の誕生する順序や海に囲われた地に人が住まって行く順序を表わしているのではないようである。国生みの順序については、その結果から考察した本文を参照。興味深いことに、大八嶋國に「國」が付くが、六嶋には付かない。

古事記には六嶋の住人は登場しないのである。大八嶋國の一つ、隱伎之三子嶋には、唯一「菟」の住人がいた。明らかに区別されている。更に余談ぽくなるが、仁徳天皇紀に「吉備國兒嶋之仕丁」が登場する。この時には「吉備兒嶋」から「國」の文字が付加されている。何とも几帳面な記述である。

また、六嶋の一つ、大嶋(現在の宗像市大島)は、宗像三女神の一人、市寸嶋比賣命が坐した中津宮があった場所と推定されているが、上記のルールに反することになる。ルールを厳守する古事記にあるまじきことかと思えば、実は中津宮があったのは大島ではなかったことが解った。詳細はこちら

「古事記の胸形」=「現在の宗像」ではあるが、その詳細は決して”不動”の場所ではないようである。”不動点”は唯一「邊津宮」(現在の宗像大社近隣)のみである。古代の胸形は実に多様で多彩な地であったことが古事記に記されている。読み解けていなかっただけである。

――――✯――――✯――――✯――――


<付記>

海水準変動(かいすいじゅんへんどう)という言葉は、主に地質時代の世界的な海水準(陸地に対する海面の相対的な高さ)の変化に対して用いられる。海水準が上昇することは海進(かいしん)、下降することは海退(かいたい)と呼ばれる。
現在および未来の海水準変化の予測の際に、過去の海水準の変化を明らかにすることの重要性が認識されるようになった。古気候の研究者は現在を氷河期とみなし、地質時代の中でも海水準は比較的低く、海水準の上昇と低下が頻繁に起こる時代と認識している。過去の記録から、およそ1万8千年前の最終氷期最盛期から6千年前までの間にかけて、海水準が120m以上上昇したことがわかっている。3千年前以降19世紀までの海水準の変動率はほぼ一定で0.1-0.2 mm/年程度であったが、1900年以降は1-3 mm/年と上昇している。(Wikipedia)

縄文海進(じょうもんかいしん)は、縄文時代に日本で発生した海水面の上昇のことである。約6,500年前-約6,000年前にピークを迎え、ピーク時の海面は現在より約5m高く、気候は現在より温暖・湿潤[要出典]で平均気温が1-2℃高かった。地質学的には有楽町海進(日本では有楽町で最初に調べられたことから)、完新世海進、後氷期海進(Holocene glacial retreat)などと呼ばれる。
・・・<中略>・・・
一方、こうした高位海面論に対し、西ヨーロッパや北米大陸では現海水準よりも高い旧汀線は確認されず、日本列島等の「見かけの高位旧汀線」はすべて地盤変動の結果であり、現海水準が完新世の最高水準で、高位海面期はなかったとする低位海面論も有力な学説である。
さらに極地方の数千mに及んだとされる氷床の溶融による隆起と、逆に海水の増加が引き起こした加重による沈降で、沿海部が海側に引き込まれる現象(ハイドロアイソスタシー)によって、西部九州の海抜-3~4mにある縄文前期の海底遺跡群は現在、説明がなされている。
神奈川県小田原市羽根尾貝塚では標高22mの高所から縄文前期の旧中村湾汀線が確認され、もはや一律の海水準変動で貝塚分布を説明することはできなくなっている。縄文前期の温暖化についても、太平洋深海底の珪藻分析によって、当時黒潮由来の暖水渦の発生により黒潮の勢力が現在よりも北方まで及んでいたことが明らかとされ、必ずしも地球的な規模での温暖化ではなく日本近海における地域現象のひとつと考えられている。
仙台湾最奥の鹹水産貝塚は岩手県一関市藤沢町七日市貝塚(早期後葉~前期初頭)で海抜-3.5m、縄文前期の海水準が現在の海水準より高かったとする明確な証拠はなく、「仙台平野では縄文時代を通じ現海水面を上回る高海水準は存在しなかった。」「海抜1m前後であり,それを大幅に上回ることはない。」と関東地方とは大きく異なる評価となっている。
日本列島は四つのプレートがひしめき合う脆弱な構造の火山列島であり、貝塚の分布はその列島史とともに被災履歴をも示している可能性がある。(Wikipedia)

――――✯――――✯――――✯――――

「海水準」が定義されている。遠い過去ではあるが、その値も推定されているようである。対馬海峡に面する日本列島の海岸線が海水準の変動に伴って大きく変化したことは確かなことであろう。海水準の変動の原因を温暖化に伴う融氷のみに求めることは困難なようでもある。結局上記のようにプレートの変動も合わせた解析が求められるのであろうが、これも一層難解であろう。がしかし、日本人がこの日本列島に住まう以上決して蔑ろにしてはならない探求であろう。

※古事記全体を通してはこちらを参照。