2022年2月25日金曜日

天璽國押開豐櫻彦天皇:聖武天皇(37) 〔574〕

天璽國押開豐櫻彦天皇:聖武天皇(37)


天平十六年(西暦744年)正月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀2(直木考次郎他著)を参照。

十六年春正月丙申朔。廢朝。饗五位已上於朝堂。庚戌。任裝束次第司。爲幸難波宮也。戊午。太政官奏。鎭西府將軍准從五位官。判官准從六位官。主典准從七位官。倍給二季祿及月料。並留應入京調庸物相折。通融隨時便給。又特賜公廨田。將軍十町。副將軍八町。判官六町。主典四町。奏可之。辛酉。給鎭西府印一面。

正月一日、朝賀を取り止め、朝堂で五位以上の官人を招いて饗応している。十五日に難波宮(以下同様)に行幸するために装束の次第司を任命している。二十三日に太政官が[鎮西府の将軍は従五位の官に、判官は従六位の官に、主典は従七位に准じ、二季の禄及び月料は二倍給うことにしたい。それとともに京に運ぶべき調・庸の物を鎮西府に留め、そのなかからとりわけてやりくりし、その時に応じて給いたい。また特に公田を将軍には十町、副将軍には八町、判官には六町、主典には四町賜ることを望みます。]と奏上している。二十六日に鎮西府に印一面を与えている。

閏正月乙丑朔。詔喚會百官於朝堂。問曰。恭仁難波二京何定爲都。各言其志。於是陳恭仁京便宜者。五位已上廿四人。六位已下百五十七人。陳難波京便宜者。五位已上廿三人。六位已下一百卅人。戊辰。遣從三位巨勢朝臣奈弖麻呂。從四位上藤原朝臣仲麻呂。就市問定京之事。市人皆願以恭仁京爲都。但有願難波者一人。願平城者一人。癸酉。更仰京職令諸寺百姓皆作舍宅。乙亥。天皇行幸難波宮。以知太政官事從二位鈴鹿王。民部卿從四位上藤原朝臣仲麻呂爲留守。是日。安積親王縁脚病從櫻井頓宮還。丁丑。薨。時年十七。遣從四位下大市王。紀朝臣飯麻呂等。監護喪事。親王天皇之皇子也。母夫人正三位縣犬養宿祢廣刀自。從五位下唐之女也。

閏正月一日に詔されて、百官を朝堂に呼び集め、次のように尋ねている・・・恭仁・難波の二宮のいずれを都と定めるべきか。各々の考えを述べよ・・・。この問いに対して恭仁京が都合が良いと述べた者は、五位以上が二十四人で六位以下が百五十七であった。難波京が都合が良いと述べた者は、五位以上が二十三人で六位以下が百三十人であった。

四日に巨勢朝臣奈弖麻呂藤原朝臣仲麻呂を遣わして市に赴かせ、京をどちらに定めるべきかを尋ねさせている。市人は皆恭仁京を都とすべきことを願っていた。但し、難波を望む者が一人、平城を望む者が一人いた、と記している。

九日に京職に命じて諸寺の人々すべてに舎宅(住家)を造らせている。十一日に「難波宮」(難波長柄豐碕宮跡地)に行幸されている。知太政官事の鈴鹿王と民部卿の藤原朝臣仲麻呂を留守官に任じている。この日、「安積親王」は脚の病気で「櫻井頓宮」から恭仁京に還っている。十三日に「安積親王」が亡くなっている。時に年は十七であった。大市王紀朝臣飯麻呂等を遣わして、葬儀を監督・護衛させている。親王は天皇の皇子であり、母は夫人の「縣犬養宿祢廣刀自」、「唐」の娘であった(こちら参照)。

<安積親王・縣女王・不破内親王>
● 安積親王

この親王は、聖武天皇の皇子でありながら、初登場であり、それが死亡記事という扱いとなっている。

皇太子は姉の「阿倍内親王」が受けていることから、同じ縣犬養一族なのだが、「光明皇后」(父親は不比等)と「廣刀自」の系列の格差の大きさに驚かされる(こちら参照)。背景に存在する藤原一族の思惑が見え隠れするところであろう。

一説には、藤原朝臣仲麻呂による毒殺だったかも?…も存在するようである。同族間の確執が最も凄惨な事件を発生させることは、古事記が幾度となく語るところではある。それは兎も角、聖武天皇の御子ならば、出自の場所は限定的であろう。頻出の安=宀+女=山稜の挟まれて嫋やかに曲がって延びる様積=禾+責=積み重なった様と解釈した。図に示した場所を見出すことができる。

少し後に縣女王が登場する。全く系譜は知られていないようである。齋宮に入られるのであるが、何らかの事情があって延び延びになっていたと記載されている。確たる根拠はないが、図に示した場所が出自としたみた。平城宮の門前である。

後(淳仁天皇紀)に「井上内親王」の同母(縣犬養宿祢廣刀自)の妹、不破内親王が登場する。既出の文字列である不破=「不」の文字形のように山稜の端が広がった先に段差があるところと解釈した。図に示した場所にその地形を見出すことができる。

<櫻井頓宮>
櫻井頓宮

行幸に随行していた「安積親王」が脚の病気が原因で、その日出発した恭仁京へ帰ったと記載している。と言うことは、この頓宮は恭仁京から難波宮へ向かう途中にあった頓宮だったことになる。

櫻井は、かなりの頻度で登場する文字列であって、勿論、固有の名称ではない。櫻井=二つの谷間が寄り集まった前に四角く区切られた地があるところと解釈した。

恭仁京から難波宮に向かうには、前記の東北道を通り、現在の御所ヶ岳山塊(千草山の東側の峠)を横切って難波に出る行程と推測される。すると、上記の地形を示す図に示した場所に見出せる。現在の航空写真にも「櫻井」の「井」の地形を確認することができる。

「東北道」の山道を抜けたところで脚が動かなくなったのかもしれない。「櫻井頓宮」は、およそ恭仁京から4km弱の場所にあったと思われる。通説では、諸説あるが、全て30kmを優に超える距離であり、発ったその日に届く場所では、到底あり得ない。時空を超越した解釈をして平然としているのには閉口するのだが・・・。

二月乙未朔。遣少納言從五位上茨田王于恭仁宮。取驛鈴内外印。又追諸司及朝集使等於難波宮。丙申。中納言從三位巨勢朝臣奈弖麻呂持留守官所給鈴印詣難波宮。以知太政官事從二位鈴鹿王。木工頭從五位下小田王。兵部卿從四位上大伴宿祢牛養。大藏卿從四位下大原眞人櫻井。大輔正五位上穗積朝臣老五人爲恭仁宮留守。治部大輔正五位下紀朝臣清人。左京亮外從五位下巨勢朝臣嶋村二人爲平城宮留守。甲辰。幸和泉宮。丙午。免天下馬飼雜戸人等。因勅曰。汝等今負姓人之所耻也。所以原免同於平民。但既免之後。汝等手伎如不傳習子孫。子孫弥降前姓。欲從卑品。又放官奴婢六十人從良。丁未。車駕自和泉宮至。甲寅。運恭仁宮高御座并大楯於難波宮。又遣使取水路運漕兵庫器仗。乙夘。恭仁京百姓情願遷難波宮者恣聽之。丙辰。幸安曇江遊覽松林。百濟王等奏百濟樂。詔授无位百濟王女天從四位下。從五位上百濟王慈敬。從五位下孝忠。全福並正五位下。戊午。取三嶋路行幸紫香樂宮。太上天皇及左大臣橘宿祢諸兄留在難波宮焉。庚申。左大臣宣勅云。今以難波宮定爲皇都。宜知此状。京戸百姓任意往來。

二月一日に少納言の茨田王(茨田女王と谷間を分け合っていた?)を恭仁宮に遣わして、駅鈴と内・外印(天皇御璽・太政官印)を取りに行かせている。また、諸司及び朝集使等を難波宮に召集している。二日に中納言の巨勢朝臣奈弖麻呂は留守官が支給した駅鈴と内・外印を持って難波宮に到着している。知太政官事の鈴鹿王と木工頭の小田王と兵部卿の大伴宿祢牛養と大藏卿の大原眞人櫻井(櫻井王)と大藏大輔の穂積朝臣老(佐渡嶋配流から復活)の五人を、恭仁宮の留守官に任じている。治部大輔の紀朝臣清人と左京亮の巨勢朝臣嶋村(巨勢斐太朝臣)の二人を平城宮の留守官に任じている。

十日に「和泉宮」(珍努宮)に行幸されている(十三日に帰還)。十二日に天下の馬飼の雑戸の人達を解放して公民としている。そこで次のように勅されている・・・汝等の今名乗っている姓は人の恥じる姓である。そこで解放することを許し、平民の身分と同じにする。但し一旦解放された後、汝等の身についた技術をもし子孫に伝え習わせなかったならば、子孫はあまねく前の姓に降ろして卑しい等級に戻させようと思う・・・。また官奴婢六十人を解放して良民としている。

二十日に恭仁宮の高御座と大楯を難波宮に運んでいる。また使者を遣わして、水路を用いて恭仁宮の兵庫にあった武器を船で運ばせている。二十一日に恭仁宮の人民で難波に遷りたいと心から願う者には、自由にこれを許している。二十二日に「安曇江」に行幸されて、松林を遊覧し、百濟王等が百濟の樂を演奏している。詔して、「百濟王女天」に従四位下を、百濟王(慈敬・孝忠・全福)にそれぞれ正五位下を授けている。

二十四日に「三嶋路」を通って、紫香樂宮に行幸されている。太上天皇と左大臣の橘宿祢諸兄(葛木王)は難波宮に留まっている。二十六日に左大臣が勅を次のように宣べている・・・今日から難波宮を皇都と定める。この事態をわきまえた上で、京戸の人々はその意に任せて旧都と新都の間を往来するように・・・。

<安曇江>
安曇江

何せ止まるところを知らない天皇であって、和泉宮に行かれたと思ったら、海辺の松林を御見学された、と記している。多分攝津國にあった場所と推測されるが・・・。

頻出の安=宀+女=山稜に挟まれた嫋やかに谷間が曲がっている様、幾度か登場の曇=日+雨+云=[炎]のような山稜がゆらゆらと延びている様と解釈した。古事記の阿曇連の解釈に類似する。

この地形は、現在の地図からでは求めることは叶わず、当時を推測すために現在の標高約10mを海岸線として見做すことにする。すると、古事記の帶中津日子命(仲哀天皇)紀に謀反を起こした忍熊王に与した将軍、難波吉師部之祖・伊佐比宿禰の出自の場所に行き着く。

渡来系の人々を住まわせた難波吉師の地の周辺であり、百濟王の子孫もこの地に住まわせていたのであろう。天平六(734)年に難波宮に行幸された時には、四天王寺の僧等に布施をし、吉師部楽を観賞されたと記載されていた。十年も以前から天皇が着目していた地であろう。

阿曇(アズミ)の読みは、墨江之三前大神に由来すると思われる。そしてその地は「墨=隅」にある地である。上記の「安曇江」もそれを踏襲する場所、いや、そうでなければ「安曇」とは名付けることはなかったのである。

調べると・・・新羅江庄の文書に「東安曇江 南堀江」とある・・・と解説されている。新羅江そのものも不確かなのだが、書紀によると四天王寺があった場所は難波荒陵であり、新羅江は、「荒陵」の近辺と推測される(新⇔荒)。上図は、その位置関係を示していることが解る。古事記の大雀命(仁徳天皇)紀に記載されている難波之堀江・小椅江(安曇江に該当)が續紀で復活した感じである。

● 百濟王女天 百済王昌成からの系譜で知られている郎虞・南典・遠寶の子等が多く登場している。それとは全く別系統だったのであろう。系譜不詳の人物のようである。然るに無位から従四位下に、いきなり叙爵されている。皇孫並みの扱いであるにも拘らず、出自が不明。抹消する理由があったようにも伺える。

どうやら百濟王の子孫は安曇江周辺が出自と分った。地形が平坦で、尚且つ当時の海面を考慮する必要があり、極めて難解な状況である。後日に機会があれば、読み解いてみよう。

<三嶋路>
三嶋路

「三嶋」は、古事記の神倭伊波禮毘古命(神武天皇)に登場した三嶋湟咋の出自の場所であろう。書紀は三野縣に置換えている。現地名は京都郡みやこ町勝山箕田である。

すると難波宮から「三嶋」を経る行程を示していることが解る。即ち観音山の西麓を通過する行程である。東麓には和泉宮があり、それを経て紫香樂宮に達することもできる。

本文に「取三嶋路行幸紫香樂宮」と記載されている。同じような行程があるのだが、三嶋経由の道を”取捨選択”した、と述べている。通説は、きちんと読み取れているのであろうか?・・・三嶋郡なんて解釈したら選択の余地はないのでは?・・・。

多くの宮が登場し、且つそれを頻繁に往来している状況を記載している。関連する宮などを纏めて図に示した。北から紫香樂宮、和泉宮、難波宮の三つの宮の場所は、実に興味深いことに、”近淡海”の三つの入江、即ち墨江・長江・大江までの距離が、それぞれ最近接で1~1.5km以内に位置していることが分る。

聖武天皇は、”近淡海”(書紀・續紀は近江)のどの入江の奥に宮を構えるべきかを調査したのである。恭仁宮は、防御上は、極めて優れてはいるが、これでは山奥にすっこんだ状態となって、何ともその後の発展を見込めない有様と感じたのであろう。安曇江にまで足を運んだのは、この地が近淡海を一望する、とりわけ宮を海側から眺めることも加えて、都合が良い場所であったから、と推測される。

百濟王一族を昇進させたのは、この地が防衛上の最前線であり、そこに住まう人々の協力は欠かせないものと考えたのであろう。決して、百濟楽に感心したのではない。聖武天皇は、何としても”近淡海”に面する地に宮を置きたかったのではなかろうか。山稜に囲まれて海に面する「葦原中國」、それは天照大御神以来の天神族に課せられた使命だったのかもしれない。

三月甲戌。石上榎井二氏樹大楯槍於難波宮中外門。丁丑。運金光明寺大般若經致紫香樂宮。比至朱雀門。雜樂迎奏。官人迎礼。引導入宮中奉置大安殿。請僧二百。轉讀一日。戊寅。難波宮東西樓殿。請僧三百人。令讀大般若經。

三月十一日に石上(乙麻呂等)と榎井(廣國等)の二氏(共に物部一族)が大楯と槍を難波宮の中外門に立てている。十四日に金光明寺(大養德國)の大般若経を運んで、紫香樂宮に到着している。朱雀門に至るころ、雅楽が迎えて演奏され、官人は迎えて礼拝を行っている。大般若経を宮中に導き入れて大安殿に恭しく安置し、僧二百人を招いて一日中転読を行っている。十五日に難波宮の東西の楼殿に僧三百人を招いて大般若経を読ませている。

夏四月丙午。紫香樂宮西北山火。城下男女數千餘人皆趣伐山。然後火滅。天皇嘉之。賜布人一端。甲寅。廢造兵鍛冶二司。丙辰。以始營紫香樂宮。百官未成。司別給公廨錢惣一千貫。交關取息永充公用。不得損失其本。毎年限十一月。細録本利用状令申太政官。

四月十三日に紫香樂宮の西北の山で火事があり、城下の男女数千人が皆山へ行き木を伐って、その後火は消えている。天皇はこのことを喜んで各人に麻布一端を与えている。二十一日に造兵司と鍛冶司を廃止している。

二十三日、紫香樂宮を造営し始めたが、百官の官衙が未だ完成しないので、司別に 公廨銭を合計一千貫給い、それを元手にして利息を得て、永く公用に充て、その元本を失うことがないようにさせている。毎年十一月を限って、詳しく元本と利息の使用状況を記録して、太政官に申告させることにしている。

五月庚戌。肥後國雷雨地震。八代。天草。葦北三郡官舍。并田二百九十餘町。民家四百七十餘區。人千五百廿餘口被水漂沒。山崩二百八十餘所。有壓死人卌餘人。並加賑恤。

五月庚戌(?)に肥後國に雷雨と地震があったと記している。「八代・天草・葦北三郡」の官舎と田二百九十余町、民家四百七十余区と人千五百二十余口が水中に漂い没している。更に山崩れが二百八十余所あり、四十人が圧死している。それぞれに憐れんで物を与えている。

<肥後國:八代郡・天草郡・葦北郡>
肥後國:八代郡・天草郡・葦北郡

大変は災害が発生したのだが、日付が怪しい。単なる記述ミスのようなのだが、貴重な記録が不確かになってしまったようである。

とは言え、肥後國の詳細が語られている。元正天皇紀の養老二(718)年に筑後守の道君(公)首名が亡くなった時に兼務した肥後國も含めて農業技術を現地人に教え、灌漑(味生池造成など)を行って素晴らしい成果を上げたと記載されている。

当時は郡建てが行われていなかったのであろう。その後に彼の努力の結果多くの人々が住まい、繁栄した地のようである。災害の様子から推測すると、津波による水没と背後にある山塊の崖崩れが発生したのであろう。入江に面して山稜に囲まれた地形を有する國であった、と告げている。

三つの郡名が示す地形を求めてみよう。八代=谷間に延びた杙のような山稜の前が二つに岐れているところとなる。「天草」の「天=阿麻」であろうが、「天」=「一+大」=「一様に平らな山稜が延びている様」と解釈すると、天草=一様に平らな山稜が草のように延びているところと読み解ける。

「葦北」の「葦」=「艸+韋」=「取り囲まれた地で山稜が延びている様」、葦原中國に用いられた文字である。「北」=「背中合わせの様」であり、葦北=取り囲まれた地にある山稜が背中合わせに延びているところと読み解ける。これら三郡が図に示したように寄り集まっていることが解る。現地名は、葦北郡が福津市、八代郡が古賀市、天草郡が両市に跨っている。

六月壬子。雨氷。

六月二十一日、参考にしている資料では、「氷が雨のように降った」と訳されている。現在では、「雨氷」は、「0℃以下でも凍っていない過冷却状態の雨(着氷性の雨)が、地面や木などの物体に付着することをきっかけに凍って形成される硬く透明な氷のこと。着氷現象の一種でもある。 」と解説されている。

以下のような解説もされている・・・雨氷は、物体表面に硬く滑らかで透明な氷の層を作る。同じ着氷現象の一種である樹氷や粗氷とは、色や性質により区別されている。樹氷は白色不透明、粗氷は半透明なのに対して、雨氷は透明である。また樹氷より粗氷の方が固いがどちらも手で触れば崩れる程度の硬さであるのに対して、雨氷は固く手で触った程度では崩れない。色や脆さの違いは、気泡の含有率に起因している。樹氷は小さな気泡をたくさん含むため白色で脆く、粗氷は樹氷よりは固いがそれでも気泡を多く含むため半透明を呈する。一方の雨氷は気泡の含有率が低いため透明であり、氷が形成されるとき水滴同士が融合しあうため表面が滑らかになる。雨氷の密度は約0.9であり、純粋な氷とほぼ同じである・・・。因みに”氷雨”は「空から降ってくる氷の粒のこと。あるいは、冬季に降る冷たい雨のこと。気象学で定義された用語ではない。」と記されている。

いずれにせよ、六月に見られたことが稀有なことだったのであり、ここで記載された雨氷(Wikipedia)のことであろう。記紀・續紀の自然現象の記述は、決して侮ってはいけない、のである。





 

2022年2月18日金曜日

天璽國押開豐櫻彦天皇:聖武天皇(36) 〔573〕

天璽國押開豐櫻彦天皇:聖武天皇(36)


天平十五年(西暦743年)六月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀2(直木考次郎他著)を参照。

六月癸巳。山背國司言。今月廿四日自酉至戌。宇治河水涸竭。行人掲渉。丁酉。以從五位下中臣朝臣清麻呂爲神祇大副。從五位下當麻眞人鏡麻呂爲少納言。從五位下多治比眞人木人爲中務少輔。從五位下藤原朝臣許勢麻呂爲中宮亮。從五位下高丘王爲右大舍人頭。從五位下林王爲圖書頭。外從五位下小野朝臣綱手爲内藏頭。從五位下大原眞人麻呂爲式部少輔。外從五位下大伴宿祢三中爲兵部少輔。從四位下大市王爲刑部卿。正五位上平羣朝臣廣成爲大輔。外從五位上倭武助爲典藥頭。外從五位下紀朝臣男楫爲彈正弼。從四位上藤原朝臣仲麻呂爲左京大夫。外從五位下鴨朝臣角足爲右京亮。從五位下多治比眞人土作爲攝津亮。從四位下下道朝臣眞備爲春宮大夫。皇太子學士如故。正五位下背奈王福信爲亮。正五位下藤原朝臣清河爲大養徳守。從五位下佐伯宿祢毛人爲尾張守。外從五位下秦井手乙麻呂爲相摸守。從五位下百濟王敬福爲陸奥守。外從五位下葛井連廣成爲備後守。從五位下小治田朝臣廣千爲讃岐守。外從五位上引田朝臣虫麻呂爲土左守。

六月二十六日に山背國司が、[今月二十四日の酉刻(午後六時)から戌刻(午後八時)の間、宇治河の水が枯れて通行する人が徒歩で渡った。]と言上している。現在の航空写真参照すると山稜の端が大河犀川(今川)に接する地形である。渇水によって枯れたのであろうが、通行する人々にとっては特筆すべき出来事だったと推測される。

三十日に以下の人事を行っている。中臣朝臣清麻呂(東人に併記)を神祇大副、當麻眞人鏡麻呂を少納言、多治比眞人木人を中務少輔、藤原朝臣許勢麻呂(巨勢麻呂。仲麻呂に併記)を中宮亮、高丘王(久勢王に併記)を右大舍人頭、林王を圖書頭、小野朝臣綱手を内藏頭、大原眞人麻呂を式部少輔、大伴宿祢三中を兵部少輔、大市王を刑部卿、平羣朝臣廣成を大輔、倭武助を典藥頭、紀朝臣男楫(小楫)を彈正弼、藤原朝臣仲麻呂を左京大夫、鴨朝臣角足(治田に併記)を右京亮、多治比眞人土作(家主に併記)を攝津亮、下道朝臣眞備を春宮大夫・皇太子學士(以前と同じ)、背奈王福信(背奈公福信)を亮、藤原朝臣清河を大養徳守、佐伯宿祢毛人を尾張守、秦井手乙麻呂を相摸守、百濟王敬福()を陸奥守、葛井連廣成(白猪史廣成)を備後守、小治田朝臣廣千()を讃岐守、引田朝臣虫麻呂を土左守に任じている。

秋七月戊戌朔。日有蝕之。庚子。天皇御石原宮。賜饗於隼人等。」授正五位上佐伯宿祢清麻呂從四位下。外從五位下葛井連廣成從五位下。外從五位下曾乃君多利志佐外正五位上。外正六位上前君乎佐外從五位下。外從五位上佐須岐君夜麻等久久賣外正五位下。壬寅。出雲國司言。楯縫出雲二郡雷雨異常。山岳頽崩。壞廬舍埋田畝。庚寅。地震。癸亥。行幸紫香樂宮。以左大臣橘宿祢諸兄。知太政官事鈴鹿王。中納言巨勢朝臣奈弖麻呂爲留守。

七月一日に日蝕があったと記している。三日に天皇は石原宮に出御して隼人等を饗応している。佐伯宿祢清麻呂(淨麻呂。人足に併記)に従四位下、葛井連廣成に従五位下、曾乃君多利志佐(贈唹君多理志佐)に外正五位上、「前君乎佐」に外従五位下、佐須岐君夜麻等久久賣に外正五位下をそれぞれ授けている。

五日に出雲國司が、[「楯縫・出雲」の二郡に雷雨が常とは異なって降り、山岳が崩れ落ち、人家を壊して田圃を埋めてしまった。]と言上している。十七日(?)に地震があったと記している。二十六日に紫香樂宮に行幸している。左大臣の橘宿祢諸兄(葛木王)と知太政官事の鈴鹿王と中納言の巨勢朝臣奈弖麻呂を留守官に任じている。

<前君乎佐>
● 前君乎佐

「前君」は記紀・續紀を通じて初出であり、またその他の情報も皆無の状況のようである。この表記で読み手に通じるわけだから、当時では”常識”だったのであろう。

では「〇〇前」は一体何処を示すのであろうか?…思い巡らした結果は、古事記の氣多之前に行き着いた。そして、この人物を挟んで曽乃君多利志佐及び佐須岐君夜麻等久久賣が叙爵された記述となっている。

日向國を出自を持つ人物二人である。これがヒントだよ!…なんだろうか。現地名は遠賀郡岡垣町である。既出の文字列である、乎佐=息を吐きだすように開いた谷間から左手の形の山稜が延び出ているところと読み解ける。図に示した場所にその地形を求めることができる。

当然のことながら、續紀編者は「前君」の場所をあからさまには記述しなかったであろう。「氣多之前」を回れば隱伎・因幡に届くのである。これらの國が”氣多”の山稜を挟んで「日向國」と背中合わせなんて、口が裂けても言えない配置だったからである。

<出雲國:楯縫郡・出雲郡>
出雲國:楯縫郡・出雲郡

出雲國にあった郡の詳細は、極めて少なく、書紀の斉明天皇紀に嚴神之宮があった於友郡が記載されている。現地名は、戸ノ上山の西北麓である北九州市門司区柳町辺りと推定した。

その後には新たな郡名が記述されることはなく、續紀の聖武天皇紀になって、その地に関わる人物を登場させている。大原采女勝部鳥女であり、「大原郡」があったと知られている。意宇郡の南に接する地と思われる。

そんな背景で、今回楯縫郡出雲郡の二郡が登場している。「出雲郡」は、出雲の中心地、出雲國造である出雲臣一族が住まう谷間の前に広がった場所と推定される。古事記が記す大年神の出自の場所である。

「楯縫郡」の「楯」=「木+⺁+十+目」=「山稜が谷間を塞ぐように延びている様」、「縫」=「糸+辶+夆」=「山稜が寄せ合わされている様」と解釈した。纏めると楯縫=谷間を塞ぐような山稜が縫ったように寄せ合わされているところと読み解ける。図に示した場所、出雲郡の西隣の地を表していることが解る。勿論それぞれの郡の南部は、崖崩れを起こした山岳地帯であることも確認される。

少し後に出雲臣屋麻呂が外従五位下を叙爵されて登場する。この人物は、天平十九(747)年六月に「臣」姓を賜ったと記載されている(同時に前出の茨田弓束・枚麻呂が宿祢姓)。即ち、前出の出雲臣系列とは異なっていたのであろう。屋=山稜の端が延び至った様と解釈すると、図に示した「楯縫郡」の場所が出自と推定される。出来が良かった人物のようで、目出度く臣姓を賜ることができたとのことである。

八月丁夘朔。幸鴨川。改名爲宮川也。乙亥。上総國司言。去七月大風雨數箇日。雜木長三四丈已下二三尺已上一万五千許株漂着部内海濱也。

八月一日に「鴨川」に行幸されて、川の名前を「宮川」に改めている(こちら参照)。九日に上総國司が[去る七月に大風雨が数ヶ日に及び、長さ三、四丈以下で二、三尺以上の一万五千本ほどの株が、國内の海浜に漂着した。]と言上している。

九月壬寅。正五位上石川朝臣賀美授從四位下。己酉。免官奴斐太從良。賜大友史姓。斐太始以大坂沙治玉石之人也。丁巳。甲賀郡調庸准畿内收之。又免當年田租。

九月六日に石川朝臣賀美(加美。枚夫に併記)に従四位下を授けている。十三日に官奴の「斐太」を解放して良民とし、「大友史」氏姓を賜っている。「斐太」は初めて「大坂沙」を用いて玉石を治した人である。二十一日に甲賀郡の調・庸を畿内に准じて収めさせ、今年の田租を免じている。

大坂沙とは?…古事記の品陀和氣命(応神天皇)紀の挿入歌にある「伊知比韋能 和邇佐能邇」(壹比韋の丹[辰砂])を示していると思われる。大坂は大坂山の東南麓に長く延びる山稜を形を捉えた表記と解釈した。本文は「以大坂沙治玉石」と記載されている。まかり間違っても金剛砂のような研磨剤で玉石を研磨したのではない。

銅鏡の鏡面仕上げに辰砂が使われていたことが知られている。研磨剤としての機能もさることながら、摩擦による発熱で辰砂から発生する水銀が銅の表面に極薄の水銀(銅との合金)被膜を形成させていたのであろう。即ち、表面が傷付いた玉石を辰砂を使って鏡面に仕上げた、その手法を編み出した人物だったと推測される。既に知られていた錫(文武天皇即位四[700]年正月、こちら)との合金を用いた可能性が高い。

<大友史斐太>
● 大友史斐太

上記のように考え、「壹比韋」(現地名は田川郡赤村内田)近辺での出自場所探索を試みた。大友の文字列は書紀で登場した大友皇子(伊賀皇子)で用いられていた。大友=平らな頂の山稜が寄り添いように並んでいるところと解釈した。

山稜の端ではなく、谷奥の地であることから些か山稜の形が異なるが、「友」=「又(手)+又(手)」と分解される、「手」が二つ寄り添っている場所が見出せる。

斐太も既出であり巨勢斐太朝臣で用いられていた。斐太=交差するような谷間で山稜が平らに大きく広がったところと解釈した。「大友」の谷間の西側に当たる場所にその地形を確認できる。頻出の史=中+又=山稜が真ん中を突き通すような様であり、「友」の片手がそれを示していることが解る。

国土地理院航空写真1961~9を参照すると、その当時は「大友」の谷間を突っ切る道が通り、現地名京都郡みやこ町犀川大坂に抜けている。今からでは想像もできないくらいに人々が住まい、そして交流していたのではなかろうか。ひょっとすると、近飛鳥と遠飛鳥を繋ぐ、大坂越の道だったのかもしれない。古事記の御眞木入日子印惠命(崇神天皇)紀に記載された山代之幣羅坂、また、後日に調べてみよう。

冬十月辛巳。詔曰。朕以薄徳恭承大位。志存兼濟。勤撫人物。雖率土之濱已霑仁恕。而普天之下未浴法恩。誠欲頼三寳之威靈乾坤相泰。修萬代之福業動植咸榮。粤以天平十五年歳次癸未十月十五日。發菩薩大願奉造盧舍那佛金銅像一躯。盡國銅而鎔象。削大山以構堂。廣及法界爲朕知識。遂使同蒙利益共致菩提。夫有天下之富者朕也。有天下之勢者朕也。以此富勢造此尊像。事也易成心也難至。但恐徒有勞人無能感聖。或生誹謗反墮罪辜。是故預知識者。懇發至誠。各招介福。宜毎日三拜盧舍那佛。自當存念各造盧舍那佛也。如更有人情願持一枝草一把土助造像者。恣聽之。國郡等司莫因此事侵擾百姓強令收斂。布告遐邇知朕意矣。壬午。東海東山北陸三道廿五國今年調庸等物皆令貢於紫香樂宮。乙酉。皇帝御紫香樂宮。爲奉造盧舍那佛像。始開寺地。於是行基法師率弟子等勸誘衆庶。

十月十五日に以下のように詔されている・・・朕は、德の薄い身でありながら、かたじけなくも天皇の位を受け継いで、その志は広く諸々の人を救うことであり、つとめて人物を慈しんで来た。この国土の果てまで、既に憐れみ深さと思いやりの恩恵を受けているけれど、未だ天下の果てまで仏の法恩はゆき渡っていない。そこでほんとうに三宝(仏法僧)の威力・霊力に頼って、天と地は安泰になり、万代までのめでたい事業を行って、生きとし生けるもの皆栄んことを望むものである。<続>

ここに天平十五年十月十五日に、朕は菩薩の大願をおこして、廬舎那仏の金銅像一体を、お造りすることにする。そのためには国中の銅を全て費やして像を鋳造し、大きな山を削って堂を建設し、広く仏法を全宇宙にひろめて、朕の仏道への貢献としよう。そして最後に朕も皆も同じように仏の功徳をこうむり、共に仏道の悟りを開く境地に至ろう。<続>

天下の富を所有する者は朕である。天下の権勢を所有する者も朕である。この富と権勢をもってこの尊像を造るのは、こと容易いが、精神には到達しにくい。だからと言って、むやみに人を苦労させては、神聖な意義を感じることができなくなることや、あるいは非難する者が出て、かえって罪に陥ることを恐れる。従って参加し貢献しようとする者は、心を込めて至誠の志を持ち、各々が大きな幸福を招くという気持ちで、毎日三たび廬舎那仏を拝し、自らがその思いを持って、それぞれが廬舎那仏を造ることに努めるべきであろう。<続>

もしそれ以外に更に一枝の草や一握りの土を持って像を造ることを助けようという願いを心に抱いている人がいたならば、自由にそれを許そう。國・郡などの役人は、このことを理由にして百姓の仕事を侵し乱したり、無理やり物資を取り立てたりしてはいけない。遠近にかかわらず全国に布告して朕の意向を知らしめよ・・・。

十六日に東海・東山・北陸三道の二十五國の今年の調・庸などの物品を、全て紫香樂宮に貢納させている。十九日に皇帝(天皇)は紫香樂宮に出御されている。廬舎那仏像をお造りするために、初めて寺地(後の甲賀寺)を開いている。そこで行基法師は弟子達を率いて、多くの民衆を仏像建立に勧め誘っている。

現在に残る東大寺大仏造営の詔である。紫香樂宮に落ち着かれることはなく、それに伴って甲賀寺での廬舎那仏の完成は果たせず、仏像そのものは東大寺に移ったようである。さて、そんな経緯を垣間見ることができるのか、楽しみにしておこう。

「行基法師」は、元正天皇紀に、人心を惑わす不逞の輩として僧尼令で罰せられている。”弾圧”されても民衆からの信望は減じることはなかったのであろう。むしろ民衆の気持ちを煽ったのかもしれない。聖武天皇は、それを利用したわけで、この天皇は、前記での国防体制構築も含めて、なかなかの戦略家だったように伺える。

<甲賀寺(金鐘寺)>
ここで初めて開いた寺である甲賀寺の場所を求めてみよう。ただ「甲賀」の表記では、一に特定することが叶わないのであるが、金鐘寺と別称されていると思われる。

前記で東大寺の前身が金鍾寺と知られていると述べた。「鐘」、「鍾」は同じ意味ではないか?…一見ではそう受け取ることになるが、やはり、見事な地形象形表記を行っていることが解った。

そして前記で求めた紫香樂宮の詳細を明らかにすることができたように思われる。「鐘」=「金+童」と分解される。「童」=「突き通す様」を表す文字と解説されている。

「紫香樂」の「紫」が示す山稜を「釣鐘」と見立てて、「金」=「山稜が三角形の高台になっている様」から、金鐘=三角形の高台が釣鐘を突き通すようなところと読み解ける。金鍾=三角形の高台が釣鐘を突いているようなところと解釈した。釣鐘と金との位置関係が異なっているのである。

紫香樂宮は、図に示したような配置で造営されたのではなかろうか。後に朱雀路が登場する。現在に残る道は、その名残なのかもしれない。勿論、見事に南面する場所である。

十一月丁酉。天皇還恭仁宮。車駕留連紫香樂。凡四月焉。戊申。宴群臣於内裏。外從五位下倭武助授從五位下。五位已上賜祿有差。

十一月二日に恭仁宮に帰還されている。紫香樂宮での滞在は、およそ四ヶ月であった。十三日に群臣を内裏に招いて宴を行っている。倭武助に従五位下を授けている。五位以上の官人に、それぞれ禄を賜っている。

十二月己丑。始運平城器仗収置於恭仁宮。辛夘。始置筑紫鎭西府。以從四位下石川朝臣加美爲將軍。外從五位下大伴宿祢百世爲副將軍。判官二人。主典二人。初壞平城大極殿并歩廊。遷造於恭仁宮四年。於茲其功纔畢矣。用度所費不可勝計。至是更造紫香樂宮。仍停恭仁宮造作焉。

十二月二十四日に初めて平城宮にあった武器を運んで恭仁宮に収め置いている。二十六日に初めて「筑紫鎮西府」を置き、石川朝臣加美(賀美。枚夫に併記)を将軍、大伴宿祢百世(美濃麻呂に併記)を副将軍に任じている。他に判官二人、主典二人を置いている。

最初に平城宮の大極殿並びに歩廊を壊し、恭仁宮へ移し替えをしてから四年が過ぎ、その工事は漸く終わっている。その造営に要した費用は、悉く計算することができないくらいに多額であった。ここに至って、更に紫香樂宮を造ろうとしている。やはり恭仁宮の造営は停止することになった、と記している。

<筑紫都督府>
新たに設置された筑紫鎮西府は、旧大宰府(筑紫大宰)と推定される。現在の北九州市小倉北区足原と推定した。

天智天皇紀に記載された筑紫都督府は、その東側であり、同一の場所ではない。現地名は同区足立・黒原となる(左図再掲)。

通説では、「大宰府」(現在の太宰府市・筑紫野市)は筑前國にあって、それを廃して筑前國司に全権を委ねた、とされている。筑前國司から「鎮西」が示す機能を分離して将軍等を任命した、とするのであろう。

更に後の天平十七(745)年六月に「復置大宰府」と記載されているが、筑紫鎮西府は大宰府の別称とされ、単なる名称変更と解釈されているようである。尚、前記で太宰府市は夜久(掖玖)、筑紫野市の一部は度感と推定したところである。

太宰府の機能は、西海からの使者を迎える正式な場所であり、唯一の外交拠点である。また西海道に属する國々を統括する役目を担っていたと記述されている。「鎮西」ならば、後者の役目を分離独立させたことになる。さて、物語の進行は如何なることになるのか、また、後日に述べてみよう。



 

2022年2月12日土曜日

天璽國押開豐櫻彦天皇:聖武天皇(35) 〔572〕

天璽國押開豐櫻彦天皇:聖武天皇(35)


天平十五年(西暦743年)正月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀2(直木考次郎他著)を参照。

十五年春正月辛丑朔。遣右大臣橘宿祢諸兄。在前還恭仁宮。壬寅。車駕自紫香樂至。癸夘。天皇御大極殿。百官朝賀。丁未。天皇御大安殿宴五位已上。賜祿有差。壬子。御石原宮樓。〈在城東北。〉賜饗於百官及有位人等。有勅。鼓琴任其彈歌五位已上賜摺衣。六位已下祿各有差。癸丑。爲讀金光明最勝王經。請衆僧於金光明寺。其詞曰。天皇敬諮卌九座諸大徳等。弟子階縁宿殖嗣膺寳命。思欲宣揚正法導御蒸民。故以今年正月十四日。勸請海内出家之衆於所住處。限七七日轉讀大乘金光明最勝王經。又令天下限七七日。禁斷殺生及斷雜食。別於大養徳國金光明寺。奉設殊勝之會。欲爲天下之摸。諸徳等或一時名輩。或萬里嘉賓。僉曰人師咸稱國寳。所冀屈彼高明隨茲延請。始暢慈悲之音。終諧微妙之力。仰願梵宇増威。皇家累慶。國土嚴淨。人民康樂廣及羣方綿該廣類。同乘菩薩之乘並坐如來之座。像法中興實在今日。凡厥知見可不思哉。

正月一日に右大臣の橘宿祢諸兄(葛木王)を先に恭仁宮に帰らせている。二日に天皇は紫香樂から恭仁宮に到着している。三日に天皇は大極殿に出御して百官の朝賀を受けている。七日に天皇は大安殿に出御して五位以上と宴会し、それぞれに禄を賜っている。

十二日に天皇は石原宮樓<城の東北にあり>に出御して百官及び有位の人等に饗宴を賜っている。勅により、琴を賜い、それを弾じて歌うことができた五位以上の官人には摺衣を授け、六位以下には、それぞれ禄を賜っている。

十三日に金光明最勝王経を読ませるために多くの僧を「金光明寺」に招いている。その時の詞は次のようである・・・天皇は慎んで四十九人の諸大德(高僧)等に相談する[朕は仏の弟子の宿縁に依って先帝より大切な天命を受け継いで皇位に就いている。そこで正法をこの世に延べ広め、諸々の民を導き治めたいと願っている。そこで今年正月十四日を以って国中の出家の人達に要請して住んでいる処で七々日(四十九日)を限って大乗金光明最勝王経を転読させることにする。また天下の人々に対して、七々日を限って殺生禁じ雑食を止めさせることにする。<続>

それとは別に「大養德國金光明寺」で特に優れた法会を丁重に設けて天下の模範としようと思う。諸大徳の方々は或いは当代の有名な人々であり、或いは万里の彼方より渡来の嘉い賓客であり、皆は、あなた方を人の師と言い、また国の宝と褒め称えている。朕の願いは、その学德の高い方々に願って、朕の請いに従ってもらい、初めは慈悲の言葉をよく通じさせ、ついには仏の微妙な味わい深い力を行き渡らせてもらいたい。<続>

そして寺院がその威厳を増し、皇室に慶びが重なり、国土は厳かで浄く、人民は健やかで幸福があり、それが広く諸方に及んで、ながく諸々の人々を包み、等しく菩薩の乗り物に乗って、共に如来の座に坐ることを、仰ぎ願いものである。像法(釈迦没後の時代を正法・像法・末法と分ける思想)の中興の時は、まさに今日にある。およそ以上のことを知見する者は、どうして思わないでいられようか。]・・・。

<大養德國金光明寺(金鍾寺・東大寺)>
大養徳國金光明寺

天平十三(741)年三月、國毎に金光明四天王護國之寺を造れと命じられていた。その内の一つである大養德國に造られた寺を示すのであろう(こちら参照)。

場所は、間違いなく大養德(大倭)忌寸が住まう地、古事記では伊波禮と記載されたところと思われる。本文の記述のみからでは、ここまでなのだが、この寺は後の東大寺となった伝えられている。

そして、元は金鍾寺と称されていたとも知られている。漸く本寺の場所を求められる名称に辿り着いたようである。伊波禮の「金」と言えば、廣國押建金日命(安閑天皇)が坐した勾之金箸宮に含まれていた。

また、白髮大倭根子命(清寧天皇)が坐した伊波禮之甕栗宮は、”甕に栗が入っているような地形”と見做した表記であった。その「甕」をひっくり返して「鍾」と表現したと気付かされる。「金鍾寺」は、「金」の台地の上に造られていたと推定される。正に「金」で「鍾」を突いている様の地形である。

後の天平十八(746)年十月に「天皇。太上天皇。皇后行幸金鍾寺。燃燈供養盧舍那佛」、そして天平勝寶元(749)年四月に「天皇幸東大寺。御盧舍那佛像前殿」と記載されている。上記の場所が今に知られる東大寺大仏の”本貫”の地であろう。

ところで「東大寺」は、平城宮の”東”にある寺と解釈されている。正にその通りであるが、そんな一様な命名ではなかろう。頻出の東=突き通すような様と解釈した。図に示したように「金」の頭が山稜に突き刺さっているように見える。やはり、万葉の表記を行っていることが解る。

二月辛巳。以佐渡國并越後國。乙未。夜月掩熒惑。丁酉。夜月掩太白。
三月癸夘。金光明寺讀經竟。詔遣右大臣橘宿祢諸兄等。就寺慰勞衆僧。乙巳。筑前國司言。新羅使薩飡金序貞等來朝。於是。遣從五位下多治比眞人土作。外從五位下葛井連廣成於筑前。検校供客之事。

二月十一日に佐渡國越後國に併合している(後に復置されるようだが…)。二十五日の夜に月が熒惑(火星)を、二十七日の夜には太白(金星)を覆っている。

三月四日に「金光明寺」の読経が終わっている。詔されて、右大臣の橘宿祢諸兄(葛木王)等を遣わして寺の中で多くの僧を慰労している。六日に「筑前國司」が[新羅の使者、金序貞等が来朝した]と言上している。そこで多治比眞人土作(家主に併記)葛井連廣成(白猪史廣成)を筑前に遣わして、客の接待のことを検討させている。

「大宰府」を廃止して、その任務を筑前國司が務めるようにした、と記載されていた。ところが、この國司(筑前守)について記述されたことがない。三年後の天平十八(746)年九月に「粟田朝臣馬養爲筑前守」で初めて記載されることになる。移管手続きのゴタゴタで誰かが代役を務めていたのであろうか、記述は曖昧である。

夏四月壬申。行幸紫香樂。以右大臣正二位橘宿祢諸兄。左大弁從三位巨勢朝臣奈弖麻呂。右大弁從四位下紀朝臣飯麻呂爲留守。遣宮内少輔從五位下多治比眞人木人爲平城宮留守。乙酉。車駕還宮。辛夘。賜陪從五位已上廿八人。六位已下二千三百七十人祿有差。甲午。検校新羅客使多治比眞人土作等言。新羅使調改稱土毛。書奥注物數。稽之舊例。大失常礼。太政官處分。宜召水手已上。告以失礼之状。便即放却。

四月三日に紫香樂に行幸されている。右大臣の橘宿祢諸兄(葛木王)、左大弁の巨勢朝臣奈弖麻呂(奈氐麻呂。少麻呂に併記)、右大弁の紀朝臣飯麻呂を恭仁宮の留守官に、宮内少輔の多治比眞人木人を遣わして平城宮の留守官に任じている。十六日に帰還されている。二十二日、行幸に随行した従五位以上の者二十八人、六位以下の二千三百七十人に、それぞれ禄を賜っている。

二十五日に新羅の客を取り調べる使者の多治比眞人土作等が次のように言上している。[新羅の使いは調の名称を改めて土毛(その土地から産出するもの、土産)と称し、書の奥に物の数を注している。これは旧例を考えてみるに、大いに常の礼を失している]。太政官は次のように処分している。[水手以上の者を召して、礼を失している状態を告げ、即座に追い返せ]。

五月辛丑。自三月至今月不雨。奉幣帛于畿内諸神社祈雨焉。癸夘。宴群臣於内裏。皇太子親舞五節。」右大臣橘宿祢諸兄奉詔。奏太上天皇曰。天皇大命〈尓〉坐〈西〉奏賜〈久〉掛〈母〉畏〈岐〉飛鳥淨見御原宮〈尓〉大八洲所知〈志〉聖〈乃〉天皇命天下〈乎〉治賜〈比〉平賜〈比弖〉所思坐〈久〉。上下〈乎〉齊〈倍〉和〈氣弖〉无動〈久〉靜〈加尓〉令有〈尓八〉礼〈等〉樂〈等〉二〈都〉並〈弖志〉平〈久〉長〈久〉可有〈等〉隨神〈母〉所思坐〈弖〉此〈乃〉舞〈乎〉始賜〈比〉造賜〈比伎等〉聞食〈弖〉与天地共〈尓〉絶事無〈久〉弥繼〈尓〉受賜〈波利〉行〈牟〉物〈等之弖〉皇太子斯王〈尓〉學〈志〉頂令荷〈弖〉我皇天皇大前〈尓〉貢事〈乎〉奏。」於是。太上天皇詔報曰。現神御大八洲我子天皇〈乃〉掛〈母〉畏〈伎〉天皇朝廷〈乃〉始賜〈比〉造賜〈弊留〉寳國寳〈等之弖〉此王〈乎〉令供奉賜〈波〉天下〈尓〉立賜〈比〉行賜〈部流〉法〈波〉可絶〈伎〉事〈波〉無〈久〉有〈家利止〉見聞喜侍〈止〉奏賜〈等〉詔大命〈乎〉奏。又今日行賜〈布〉態〈乎〉見行〈波〉直遊〈止乃味尓波〉不在〈之弖〉。天下人〈尓〉君臣祖子〈乃〉理〈乎〉教賜〈比〉趣賜〈布等尓〉有〈良志止奈母〉所思〈須〉。是以教賜〈比〉趣賜〈比奈何良〉受被賜持〈弖〉不忘不失可有〈伎〉表〈等之弖〉。一二人〈乎〉治賜〈波奈止那毛〉所思行〈須等〉奏賜〈止〉詔大命〈乎〉奏賜〈波久止〉奏。」因御製歌曰。蘇良美都。夜麻止乃久尓波。可未可良斯。多布度久安流羅之。許能末比美例波。又歌曰。阿麻豆可未。美麻乃弥己止乃。登理母知弖。許能等与美岐遠。伊寸多弖末都流。又歌曰。夜須美斯志。和己於保支美波。多比良氣久。那何久伊末之弖。等与美岐麻都流。」右大臣橘宿祢諸兄宣詔曰。天皇大命〈良麻等〉勅〈久〉今日行賜〈比〉供奉賜態〈尓〉依而御世御世當〈弖〉供奉〈礼留〉親王等大臣等〈乃〉子等〈乎〉始而可治賜〈伎〉一二人等選給〈比〉治給〈布〉。是以汝等〈母〉今日詔大命〈乃期等〉君臣祖子〈乃〉理〈遠〉忘事無〈久〉繼坐〈牟〉天皇御世御世〈尓〉明淨心〈乎〉以而祖名〈乎〉戴持而天地与共〈尓〉長〈久〉遠〈久〉仕奉〈礼等之弖〉冠位上賜〈比〉治賜〈布等〉勅大命衆聞食宣。又皇太子宮〈乃〉官人〈尓〉冠一階上賜〈布〉。此中博士〈等〉任賜〈部留〉下道朝臣眞備〈尓波〉冠二階上賜〈比〉治賜〈波久等〉勅天皇大命衆聞食宣。」授右大臣正二位橘宿祢諸兄從一位。正三位鈴鹿王從二位。正四位下藤原朝臣豊成從三位。從四位上栗栖王。春日王並正四位下。從四位下船王從四位上。无位阿刀王。御室王並從四位下。從五位上矢釣王正五位下。无位高丘王。林王。市原王並從五位下。從四位下大伴宿祢牛養。石上朝臣乙麻呂。藤原朝臣仲麻呂並從四位上。正五位上多治比眞人廣足。佐伯宿祢常人。正五位下下道朝臣眞備並從四位下。正五位下多治比眞人占部。石川朝臣加美。從五位上藤原朝臣八束。橘宿祢奈良麻呂。正五位下阿倍朝臣虫麻呂。佐伯宿祢清麻呂。坂上忌寸犬養並正五位上。從五位上阿倍朝臣佐美麻呂。從五位下藤原朝臣清河。從五位上紀朝臣清人。石川朝臣年足。背奈王福信並正五位下。從五位下大伴宿祢稻君。百濟王孝忠。佐味朝臣虫麻呂。巨勢朝臣堺麻呂。佐伯宿祢稻麻呂並從五位上。外從五位下縣犬養宿祢大國。正六位上大伴宿祢駿河麻呂。從六位上大原眞人麻呂。正六位上中臣朝臣清麻呂。佐伯宿祢毛人並從五位下。從六位上下毛野朝臣稻麻呂。正六位上高橋朝臣國足。鴨朝臣角足。秦井手乙麻呂。紀朝臣小楫。若犬養宿祢東人。井上忌寸麻呂並外從五位下。」既而以右大臣從一位橘宿祢諸兄拜左大臣。兵部卿從三位藤原朝臣豊成。左大弁從三位巨勢朝臣奈弖麻呂爲中納言。從四位上藤原朝臣仲麻呂。從四位下紀朝臣麻路爲參議。乙丑。詔曰。如聞。墾田依養老七年格。限滿之後。依例收授。由是。農夫怠倦。開地復荒。自今以後。任爲私財無論三世一身。咸悉永年莫取。其親王一品及一位五百町。二品及二位四百町。三品四品及三位三百町。四位二百町。五位百町。六位已下八位已上五十町。初位已下至于庶人十町。但郡司者。大領少領三十町。主政主帳十町。若有先給地過多茲限。便即還公。姦作隱欺科罪如法。國司在任之日。墾田一依前格。丙寅。禁斷諸國司等不住舊舘更作新舍。又到任一度須給鋪設。而雖經年序。更亦給之。又各置養郡勿令煩資養。」備前國言。邑久郡新羅邑久浦漂着大魚五十二隻。長二丈三尺已下。一丈二尺已上。皮薄如紙。眼似米粒。聲如鹿鳴。故老皆云。未甞聞也。

五月三日、三月から今月に至るまで雨が降らなかったので、幣帛を畿内の諸神社に奉り、雨が降ることを祈願している。五日に群臣を内裏に招き、宴を行っている。そこで皇太子(阿倍内親王)は自ら五節舞(こちら参照)を舞っている。

右大臣の橘宿祢諸兄(葛木王)が詔を奉じて、太上天皇に次のように奏上している<以下宣命体>・・・天皇のお言葉を慎んで奏上します。口に出すのも恐れ多い飛鳥淨御原宮で、大八洲國をお治めになされた聖の天皇(天武)が天下をお治めになり平定されてお思いになるのには、上の者と下の者の秩序を整え、和やかにさせて動揺なく安静にさせるには、礼と楽と二つ並べてこそ、平穏に長く続くであろうと、神としてお思いになられて、この舞をお始めになりお造りなったと天皇がお聞きになって、天地と共に絶えることなく、次から次へと受け継がれていくところのものとして、皇太子の王(阿倍内親王)に習わせ、謹んで身に付けさせて、我が皇天皇(元正太上天皇)の御前で舞をご覧にいれることを、奏上します・・・。

これに対して太上天皇より次のように返詔されている<以下宣命体>・・・現つ御神として大八洲國をお治めになる我が子である天皇(聖武、実の子ではなく甥)が、口に出すのも恐れ多い我が朝廷がお始めになりお造りになられた宝(舞)を国の宝として、この王に演じて奉らせているもので、天下に立てられて行われている国法は絶えることはないのだと、この舞を見聞きして喜んでいると奏上します、と仰せになる太上天皇お言葉を奏上します。また今日挙行された五節の舞をご覧になると、単に歌や舞の遊びではなくて、天下の人に君臣・親子の道理をお教えになりお導きになるということと思います。それ故に天下の人が承り身に体して忘れず失わずにあるように印として、一、二の人に褒賞して頂きたいとお思いになります。太上天皇のお言葉を奏上します・・・。

このことにより太上天皇が御作りになった歌は、次の通りである・・・そらみつ やまとのくには かみからしく とうとくあるらし このまいみれば・・・。また別の御歌は・・・あまつかみ みまのみことの とりもちて このとよみきを いまたてまつる・・・。また別の歌は・・・やすみしし わがおおきみは たいらけくながくいまして とよみきまつる・・・。

右大臣の橘宿祢諸兄(葛木王)が詔を宣べている<宣命体>・・・天皇のお言葉として仰せになるには、今日挙行され太上天皇にお目にかけた五節舞によって、各御世御世に当たってお仕え申し上げている親王等や大臣等の子等を初めとして、褒賞のご沙汰のあるべき一、二人等を選ばれ、ご沙汰を下された。そこで汝等も今日仰せられたお言葉のように、君臣・親子の道理を忘れることなく、お継なられる天皇の御世御世に、明るく浄い心をもって先祖の名を大切に保持して、天地と共に長く遠くお仕え申し上げよというお考えで、冠位をお上げになり、ご沙汰される、と仰せなるお言葉を皆承れと申し渡す。また、皇太子宮の官人に冠位一階をお上げになり、この中に博士と任ぜられた下道朝臣眞備には冠位二階をお上げになりご沙汰される、と宣べられる天皇のお言葉を、皆承れと申し渡す・・・。

右大臣の橘宿祢諸兄(葛木王)に從一位、鈴鹿王に從二位、藤原朝臣豊成に從三位、栗栖王春日王に正四位下、船王に從四位上、阿刀王(大市王に併記)・御室王(三室王)に從四位下、矢釣王(八釣王)に正五位下、高丘王(久勢王に併記)・「林王」・市原王(父親の阿紀王に併記)に從五位下、大伴宿祢牛養石上朝臣乙麻呂(土左國配流から復活)・藤原朝臣仲麻呂に從四位上、多治比眞人廣足(廣成に併記)佐伯宿祢常人(豐人に併記)下道朝臣眞備に從四位下、多治比眞人占部石川朝臣加美(枚夫に併記)藤原朝臣八束(眞楯)・橘宿祢奈良麻呂阿倍朝臣虫麻呂佐伯宿祢清麻呂(淨麻呂。人足に併記)・坂上忌寸犬養に正五位上、阿倍朝臣佐美麻呂藤原朝臣清河紀朝臣清人石川朝臣年足(石河朝臣)・背奈王福信(背奈公福信)に正五位下、大伴宿祢稻君(宿奈麻呂に併記)・百濟王孝忠()・佐味朝臣虫麻呂巨勢朝臣堺麻呂・「佐伯宿祢稻麻呂」に從五位上、縣犬養宿祢大國(筑紫に併記)・大伴宿祢駿河麻呂(三中に併記)・「大原眞人麻呂」・中臣朝臣清麻呂(東人に併記、最終正二位・右大臣)・「佐伯宿祢毛人」に從五位下、下毛野朝臣稻麻呂(信に併記)・「高橋朝臣國足」・鴨朝臣角足(父親治田に併記)・「秦井手乙麻呂」・「紀朝臣小楫」・若犬養宿祢東人(檳榔に併記)・「井上忌寸麻呂」に外從五位下を授けている。また、右大臣の橘宿祢諸兄(葛木王)を左大臣、兵部卿の藤原朝臣豊成、左大弁の巨勢朝臣奈弖麻呂を中納言、藤原朝臣仲麻呂紀朝臣麻路(古麻呂に併記)を參議に任じている。

二十七日に以下のように詔されている・・・聞くところによると、墾田は養老七年の格によって、期限が満ちた後、例に従って収め授ける。そのために農夫は怠けて投げやりになり、折角土地を開墾してもまた荒れてしまう。そこで今から後は開墾した土地は希望に任せて開墾者に個人の財産として三世一身の法を当て嵌めることなく、全て悉く永年にわたって収公することないようにせよ。その土地の広さは親王の一品と一位には五百町、二品と二位には四百町、三品・四品と三位には三百町、四位には二百町、五位には百町、六位以下八位以上には五十町、初位以下庶民に至るまでは十町とせよ。但し、郡司には、大領・少領には三十町、主政・主帳には十町とせよ。もし以前に与えられた土地で、この限度より多いものがあれば、速やかに公に還せ。不正に土地を所有して隠し欺く者があれば、罪を科すことは法の如くにする。國司が在任中の場合の墾田は、全て前格の規定に従え・・・。<以上を墾田永年私財法と呼ぶ>

二十八日に諸國司等が旧館に住むことなく、更に新しい建物を造ることを禁止している。また任命された國に行く場合は、そのたびごとに備品を支給すべきである。そして同一人物が年月を重ねて在任しても、更にまた備品の支給はしない。また各々の國司のための費用を賄う養郡を置くこととし、生活のための費用に心を煩わせることがあってはならない。

この日、備前國が次のように言上している。[「邑久郡新羅邑久浦」に「大魚五十二隻」が漂着した。長さは二丈三尺以下、一丈二尺以上で皮の薄いことは紙のようであり、眼は米粒に似ており、その声は鹿の鳴き声のようである。故老が皆言うには、いまだかつて聞いたことがない、とのことである。]

<林王>
● 林王

調べても定かなことは知られていない人物のようで、一説に長屋王の子ではないかと推測されていることが分った。それを念頭にして出自の場所を探索してみよう。

「林」の文字で思い出されるのが、蘇我入鹿大臣を書紀の皇極天皇紀に「林臣。(林臣、入鹿也。)」と記載されていた。別名に「鞍作」があったり、多くの別称を持っていた大臣だったようである(こちら参照)。

林=木+木=山稜が小高くなって並んでいる様であるが、「入鹿」の谷間の出口の地形を表してると思われる。ならば、それに類似する地形を持つ場所出自に持つ王であったと思われる。図に示したように長屋王の北側、門部王の谷間の出口の地形を「林」と表記したことが解る。

● 佐伯宿祢稻麻呂 群臣でありながら、初登場で従五位上に叙位されている。それから考えると別名で既に登場していたのではなかろうか。「稻」が示す地形に類するのは佐伯宿祢人足のように思われる。「百足」の子、淨麻呂の兄であり、天平三(731)年に外従五位下・右衛士督と記載されているが、その後登場されることがない。

多くの息子もあって、それぞれが活躍されたことも知られている(一人は正三位・参議)。この後の天平二十(748)年二月に「從五位上佐伯宿祢稻麻呂贈從四位上」と記載されていることからも「佐伯宿祢」の主要な人物であったことが伺える。

<大原眞人麻呂>
● 大原眞人麻呂

百濟王の子孫と伝えられいる高安王が天平十一(739)年に臣籍降下して賜った「大原眞人」姓である。兄弟である櫻井王・門部王も同様であったことが知られている。

また「高安」が前年の天平十四(742)年十二月に亡くなっており、どうやら息子だったような感じなのであるが、伝えられてはいない。

「麻呂」は、おそらく「萬呂(侶)」であろう。すると図に示した谷間にその地形を見出すことができる。この配置も親子関係であっても不思議ではないようである。初出が従五位下であることからも、素性は明確であったと推測される。

尚、「大原」の原=厂+泉=山麓に泉があるところの解釈が適している。上記の市原王(安貴王の子)と同様である。他の「原」も見直した方がよいのかもしれないが、その都度にしておこう。

<佐伯宿祢毛人-木節>
● 佐伯宿祢毛人

「佐伯宿祢」の狭い谷間に毛=鱗のような様を見出すことは不可能なのでは?…大概が山稜の端が広がった地であった。

ところが少し前に佐伯宿祢伊益が登場していた。「益」も平らな台地が広がった様であるが、ならば「伊益」の場所を「毛人」の出自場所では?…など悩ましい状況に陥った気分であった。

やはり山稜の端が平たく広がった様として探すと、図に示した場所、些か小ぶりではあるが、「鱗」の様相を示しているのではなかろうか。少し後に「人足」の子の今毛人が登場する。子であるから父親の近隣として求めた場所が上図「毛人」の下流である。

後(淳仁天皇紀)に佐伯宿祢木節が従五位下を叙爵されて登場する。系譜は不詳であり、名前が示す地形を求めると、木節=山稜に節のような形があるところと解釈して、図に示した場所が出自と推定される。いよいよ中腹の斜面に蔓延ることになったようである。

<高橋朝臣國足-男河-三綱-子老-人足-廣人>
● 高橋朝臣國足

「高橋朝臣」の祖は古事記に記載された膳臣と知られている。若倭根子日子大毘毘命(開化天皇)の兄である大毘古命の子、比古伊那許士別命が祖となったとも記されている。

古くから開かれた地であり、書紀・續紀に多くの人物が登場している。とは言え、実に狭い地であり、犇めき合っているような出自の場所となるが、ある意味見事に収まっているようである。

些か立て込んで来たこともあって、新たに図を作成したみた。頻出の文字列である國足=大地が長く延びているところと読むと、図に示した辺りがこの人物の出自と思われる。「國」=「大地」と読んで差し支えなしであるが、元来は「囲まれた地」を意味する。「國益」の「國」の地形である。系譜は知られていないが、何らかの関係があったのではなかろうか。

後に高橋朝臣男河高橋朝臣三綱が従五位下に叙爵されて登場する。系譜を調べると、「國益」の子、「笠間」の兄弟に呼具須比がおり、その子であったようである。男河=[男]のような地が水辺の谷間の出口のところ三綱=三段になった綱のような山稜の麓のところと読み解ける。父親の場所も併せて図に示した。”古事記風”の名称であるが、きっちりと地形を象形していることが解る。

更に後(孝謙天皇紀)に高橋朝臣子老・高橋朝臣人足従五位下に叙爵されて登場する。系譜は不詳のようである。とすると谷間の西側と推測して、子老=生え出た山稜が海老のように曲がって延びているところ人足=谷間ある足のように山稜が延びているところ地形が隣り合って図に示した場所に見出せる。

更に後(淳仁天皇紀)に高橋朝臣廣人が従五位下を叙爵されて登場する。纏めて上図に併記した。廣人=谷間が広がっているところと読むと、谷間の奥で広がっている場所を示していると思われる。

<秦井手乙麻呂>
● 秦井手乙麻呂

「秦井手」の「秦」は山背國に散らばった一族を表す表記であるが、「井手」は何処の場所にあったのか?…調べると山背國綴喜郡井手が知られていることが分った。

綴喜は、古事記の”筒木”を捩った、実に巧みな表記であると既に読み解いた地である(詳細はこちら参照)。

図に示したように井=四角く取り囲まれた様手=山稜が手のように延びている様と解釈される。乙麻呂乙=[乙]の文字形のような様であり、「手」の山稜の端に見出せる。

図に示した山背部小田は、書紀の『壬申の乱』で高市皇子の配下に属した人物と記載されている。図では省略しているが、その西側を出自として天武天皇の舎人であった山背直小林と同様に、吉野を脱出して不破で戦闘態勢を整える時に貢献した人達であったようである。歴史の表舞台に登場する機会は少ないが、古くから渡来系の人々が住まっていた地だったのであろう。

<紀朝臣小楫-伯麻呂>
● 紀朝臣小楫

またもや登場の「紀朝臣」一族なのであるが、系譜は全く知られていないようである。不詳の「紀朝臣」については、直近では馬主・犬養親子、あるいは豐川(河)等が登場していた。

海辺で蔓延った系列ではなく、山側の地が彼等の出自の場所と推定した。おそらくこの人物も、未だ登場していない山麓に居処を構えていたのであろう。

既出の文字列である小楫=山稜の端に三角の形をした地がくっ付いているところと読み解ける。その地形を探すと、「馬主」等の北側の谷間に延びている山稜の端辺りを示していると思われる。男楫とも表記され、後に地方官を勤められて頻度高く登場されるが、昇進はなく、天平寶字四(760)年以降の消息は不明である。

後(光仁天皇紀)に紀朝臣伯麻呂が従五位下を叙爵されて登場する。「小楫」同様に系譜不詳である。頻出の伯=人+白=二つの谷間がくっ付いている様とすると、図に示した場所が出自と推定される。「伯」の地形はこの地域では多く見られるが、最も典型的な地形と思われる。その後に二度ばかり登場されている。「小楫」の息子だったのかもしれない。

<井上忌寸麻呂>
● 井上忌寸麻呂

この人物に関する情報は皆無であるが、「井上氏」としては後代の氏族を含めて詳細に解説されている。その中の「東漢系井上氏」と分類された一族だったと推測される。

彼等の出自の地は、河内國志紀郡であったと知られている。古事記の倭建命の白鳥御陵があった場所であり、元明天皇紀には見事な染色技術を顕わにし、爵位と物を与えられた刀母離余叡色奈が住まっていたと推定した。

多くの天皇陵が造られた近淡海國を渡来人達が開拓していった歴史を物語っているのであろう。”近淡海=近江”としては、古代はロマンの世界に留まるばかりである。それは兎も角として、その地に井上=四角く区切られた地の上にあるところが見出せる。麻呂の「麻」=「萬」とすれば、図に示した場所が出自と思われる。

少々余談になるが、Wikipediaに「西安で墓誌が発見された奈良時代の日本人井真成をこの氏族の出身とする説がある」と記載されている。眞成=平らな台地が寄り集まった窪んだところと読み解ける。図に示した辺りが出自だったのではなかろうか。

備前國邑久郡:新羅邑久浦・大魚五十ニ隻
 
<備前國邑久郡:新羅邑久浦>
<大魚五十ニ隻>
「白龜」でもなく「赤烏」でもない、「大魚」が漂着した、と告げている。備前國邑久郡は既出であって、この地が次第に北方に開かれて行った様子を伝えていると推測した。現地名は下関市豊浦町である。

些か戸惑わせる表記の新羅邑久浦が続く。邑久浦=邑久の傍らの水辺で広がったところと解釈される。がしかし、「新羅」は何とするのか?…通常は困り果てて、「新羅人」が多く住まっていたからであろう…ぐらいの解釈で済まされているようである。

何処かで述べたように、「新羅」も立派な地形象形表記なのである。新羅=切り分けられた山稜が連なっているところと解釈される。図に示した場所の谷間は、現在の標高で10m前後であり、当時は海面下であったと推測される。

その谷間の東側に「魚」の地形が見出せる。とりわけ尻尾に見える山稜の端が細かく岐れた様子が認められる。図の下方部に国土地理院航空写真1961~9年を示した。そして、最も興味深い表現が五十二隻であろ。「五十二匹」と読んでは、勿体ない・・・五十(交差するように)二隻(二匹)が並んでいる、と読み解く。

備前國の北方への広がりは、留まるところ知らないように見受けられる。「皮薄如紙。眼似米粒。聲如鹿鳴」の記述は、何やら告げているようだが、また後日に読み解いてみよう・・・現在は広大な宅地になっていて、些か地形を読むのは難しいのだが・・・。