2021年4月6日火曜日

日本根子天津御代豐國成姫天皇:元明天皇(7) 〔503〕

日本根子天津御代豐國成姫天皇:元明天皇(7)


和銅三年(西暦710年)四月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀1(直木考次郎他著)を参照。

夏四月辛巳朔。日有蝕之。辛丑。陸奥蝦夷等請賜君姓同於編戸。許之。壬寅。奉幣帛于諸社。祈雨于名山大川。癸夘。以從三位長屋王爲式部卿。從四位下多治比眞人大縣守爲宮内卿。從四位下多治比眞人水守爲右京大夫。從五位上采女朝臣比良夫爲近江守。從五位上佐太忌寸老爲丹波守。從五位下山田史御方爲周防守。己酉。參河。遠江。美濃三國飢。並加賑恤。

四月一日に日蝕があったと記している。二十一日、「陸奥蝦夷等」(直近のこちら参照)が君の姓を賜り、編戸(戸主と戸口で戸を編成し、戸籍に編入され、公民として登録されること)を申請したので、これを許可している。二十二日に諸社に幣帛を奉納して、名山大川で雨乞いをしている。

二十三日に宮内卿の長屋王を式部卿、多治比眞人大縣守を宮内卿、多治比眞人水守を右京大夫、采女朝臣比良夫(牧夫)を近江守、佐太忌寸老を丹波守、山田史御方を周防守にそれぞれ任じている。二十九日、參河・遠江・美濃の三國(こちら参照)が飢饉となり、物を与えている。

五月戊午。以從五位下大伴宿祢牛養爲遠江守。
六月辛巳。大宰大貳從四位上巨勢朝臣多益須卒。

五月八日に大伴宿祢牛養を遠江守に任じている。
六月二日に大宰大貳の巨勢朝臣多益須が亡くなっている。

秋七月丙辰。左大臣舍人正八位下牟佐村主相摸瓜。文武百官因奏賀辞。賜祿各有差。京裏百姓。戸給穀一斛。相摸進位二階。賜絁一十疋。布廿端。
九月乙丑。禁天下銀錢。
冬十月戊寅朔。日有蝕之。辛夘。正五位上黄文連大伴卒。詔贈正四位下。并弔賻之。以壬申年功也。

七月七日に左大臣(石上朝臣麻呂)の舍人である「牟佐村主相摸」が「瓜」を献上した。文武の百官が賀辞を奏上し、それぞれ禄を賜っている。京内の百姓に戸毎に穀一石を給している。「相摸」には二階進位させ(従七位下)、絹布などを与えている。勿論、珍しい瓜、ではなかろう。

九月十八日、銀銭の使用を禁じている。
十月一日に日蝕があったと記載している。十四日、正五位上の黄文連大伴が亡くなっている。壬申の功により正四位下位を贈っている。

<牟佐村主相摸>
● 牟佐村主相摸

舎人の出自の場所は如何?…なのだが、京内の民に褒美を与えていることから藤原宮の近傍の地と推測する。牟=囗+牛=牛の頭部の地形佐=脇にある場所を表している。

既出の相摸=谷間が見えなくなっている様と読み解いた。これらの地形要素を満たす地が藤原宮の北側に見出せる。山稜の端がくっ付いて取り囲まれたような谷間の地形である。

その谷間の出口辺りに「瓜」の形をした小高い場所に目が止まる。その地を開拓したのであろう。

決して広い場所でもなく、それなりの褒賞だったかもしれないが、二階の進位は、有難かったのではなかろうか。久々の公地献上話しで、盛り上がった様子が伺える。働き者の舎人、と伝えているようである。大きな事件もなく和銅三年は早々と暮れを迎えたと記している。

四年春正月丁未。始置都亭驛。山背國相樂郡岡田驛。綴喜郡山本驛。河内國交野郡楠葉驛。攝津國嶋上郡大原驛。嶋下郡殖村驛。伊賀國阿閇郡新家驛。

和銅四年(西暦711年)正月二日に初めて「都亭」(寄り集まった大きな集落)に「驛」を置いている。それらを列記し、「山背國相樂郡岡田驛・綴喜郡山本驛」、「河内國交野郡楠葉驛」、「攝津國嶋上郡大原驛・嶋下郡殖村驛」、「伊賀國阿閇郡新家驛」であったと記載している。

「山背國相樂郡岡田驛」は前記の岡田離宮の近隣と思われる。参考にした書籍の解説に都を藤原から平城に遷したことから新しく交通路を整備し直したと記載されている。最もらしく読めるが奈良平城の位置からにしては雑駁であろう。中国漢代の「都亭」を用いた表記であり、「都」は「京」を表すのではなく、寄り集まった(都)集落(亭)を意味すると解釈される。

<山背國綴喜郡山本驛>
山背國綴喜郡山本驛

山背國には相樂郡など幾つかの郡が既に登場しているが、「綴喜」の文字列が示す地形の場所を求めてみよう。

「綴」=「糸+叕」と分解される。「糸でつづる」の意味を持つ文字である。地形象形的には綴=多くの山稜が延びる様と解釈される。

「喜」=「壴+口」と分解され、「壴」=「立ち上がっている様、真っ直ぐに立つ様」を表す文字要素と知られる。「樹」などの要素である。地形的には喜=立ち上がるように延びている様と解釈される。

綴喜=多くの山稜が立ち上がるように延びている様と読み解ける。御所ヶ岳の南麓、垂直にそそり立つ断崖の様相を表した表記であることが解る。現地名は京都郡みやこ町犀川木山である。山本驛の場所は、図に示した山裾にあったと推定される。山本=[山]の文字形のような山稜が延びた先で途切れているところと解釈する。書紀で記載された深草屯倉の近隣にあったのであろう。

「綴喜(ツヅキ)」と読むと、古事記の「山代之大筒木」の場所の別名である。大筒木垂根王筒木韓人・名奴理能美など多くの人物が記載されていた。即ち「筒木」を「綴喜」で表現したと思われる。和語の音(訓)、漢語による地形象形、それらを自在に、ある意味洒落で、表記しているのである。

<河内國交野郡楠葉驛>
河内國交野郡楠葉驛

河内國には既に幾つかの郡が登場して来ているが、新たな郡が記載されている。既出の文字列である交野=野が交差するようなところと読み解ける。

図に示した場所が最もそれらしき地形を示していることが解る。石河郡の南方に当たる。現地名は行橋市入覚である。

楠葉驛の「楠」=「木+南」と分解される。「南」=「日が当たって草木が勢いよく出る様」と解説される。地形象形としては、南=山稜が広がって延び出ている様と読み解ける。「驛」は、その山稜の先端ののように平たくなったところに設けられたのではなかろうか。現在でも主要な道路が交差する場所のようである。

後(聖武天皇紀)に安宿郡が登場する。既出の安=宀+女=山稜に囲まれた谷間が嫋やかに曲がって延びている様宿=宀+人+=谷間が広がった地に小高く細長いいところがある様と解釈したが、河内川の上流部の谷間とその出口に五社八幡宮が鎮座する小高い地形を表している。石河郡と交野郡に挟まれた地域と思われる。

既出の郡も併せて図に示したが、地形に拠って綺麗に区分けされた配置であることが判る。古事記の時代では墓所であった地域が時と共に人々が寄り集まって住まう地域に変貌して来たように伺える。

尚、補足すると、「交野郡」は茨田郡から分置された郡と知られている。しかしながら、「茨田郡」は後の称徳天皇紀及び桓武天皇紀に洪水が発生して堤を修理した事件で登場するのみである。およその郡域を図に示した。

<攝津國嶋上郡大原驛・嶋下郡殖村驛>
攝津國嶋上郡大原驛
・嶋下郡殖村驛

「攝津國」にある「嶋」と言えば、現在の矢留山を示すと思われる。「上下」は川の上流、下流を表している。

すると嶋上郡は、矢留山の南麓、大原驛は犀川(今川)の川辺に設置されたのであろう。嶋下郡は、山稜が真っ直ぐに延びた先()の東北麓となろう。殖村驛の場所も図に示した辺りと推測される。

難波津に面した地域であり、交易の拠点であったと思われる。人々が寄り集まって繁栄していたのであろう。港町の重要性を示しているようでもある。

思い起こせば古事記の神倭伊波禮毘古命(神武天皇)の豐國宇沙で登場し、書紀の天命開別天皇(天智天皇)が都した近江大津宮が近傍の地であった。今からでは想像できな程の賑わっていた地域であろう。

<伊賀國阿閇郡新家驛>
伊賀國阿閇郡新家驛

「伊賀國」で「阿閇」の地形を求めることになる。既出の文字列である阿閇=台地が閉じられた様である。谷間の出口が狭まっている地形を表す表現と読み解いて来た。

伊賀の地は細い谷間が連なる地形であり(采女の地形)、至る所「閇」かのように見受けられるが、やはり山稜が延びた先端部が最も適する表現と思われる。

図に示した伊賀の出口辺り、天智天皇の子、大友皇子の出自の場所と推定される。天武天皇が一時は大変に気に掛けた場所(伊賀山口)なのであるが、既にその当時の状況ではなくなっていたのであろう。

同様に頻出の文字列である新家=山稜を切り裂いて豚の口のようになった様とすると、谷間の出口の山麓に新家驛を設けたと伝えている。古事記に拠れば邇藝速日命の子、宇摩志麻遲命が祖となった婇(采女)臣の地、実に古くから人々の生業があった場所であろう。

二月辛丑。從四位下土師宿祢馬手卒。
三月辛亥。伊勢國人磯部祖父。高志二人。賜姓渡相神主。」割上野國甘良郡織裳。韓級。矢田。大家。緑野郡武美。片岡郡山等六郷。別置多胡郡。

二月二十六日に土師宿祢馬手が亡くなっている。
三月六日に伊勢國の人である「磯部祖父・高志」の二人が「渡相神主」の姓を賜っている。またこの日、「上野國甘良郡」の「織裳・韓級・矢田・大家」及び「緑野郡」の「武美」、「片岡郡」の「山等六郷」を割いて、別に「多胡郡」を置いている。

<渡相神主:磯部祖父・高志
● 渡相神主:磯部祖父・高志

「伊勢國」の「渡相」は、古事記の登由宇氣神(外宮之度相神)で初めて登場する文字列である。伊勢神宮(内宮)に対して対岸にある外宮の場所を表している。

その由緒ある場所がここで登場したと思われる。現地名は北九州市小倉南区守恒である。さて、二人の名前がその地を表しているのであろうか・・・。

幾度か登場している祖父=積み重なった地が交差するような様高志=皺が寄ったような地に蛇行する川が流れる様であり、図に示した場所に求めることができる。

残念ながら地図上で広大な団地となった山の谷間に川を見出すことは叶わないが、谷間が形成されるには川が不可欠であって、当時には存在していたのではなかろうか。伊勢神宮の神領が如何に広大であったかを推し量ることができる。とりわけ天武天皇以降は隆盛を極めていたのであろう。

上野國甘良郡・緑野郡・片岡郡:多胡郡
 
上野國甘良-緑野-片岡郡:多胡郡>
<池田朝臣子首
「上毛野」が「毛」を省略した名称である。確かに「毛」=「鱗のような様」の限られた地域から次第に広がって行った有様を反映していると思われる。

勿論、上記の郡は鱗外の地と推測してその場所を求めてみよう。甘良郡には四つの里(郷)から成っていると記載されている。甘良=舌を出したような地がなだらかなところであり、図に示した平らな山稜の端を示していると思われる。

同じような山稜が交差するように出会っている様子が見える。この地を織裳=交差する山稜が広くなだらかに延びている様と読み解ける。矢田=矢のような地の傍らにある田と読める。大家=平らな頂の麓にある豚の口のような山稜の端と読めるが、地図上での確認はやや曖昧かもしれない。

「韓級」の「級」=「糸+及」=「山稜が段々になっている様」と解釈される。韓級=囲まれた地で山稜が段々になっている様と読み解ける。纏めて図に示したように甘良郡に中にすっぽりと納まっているようである。

緑野郡の「綠(正字体)」=「糸+彔」と分解される。地形象形的には綠=山稜が剥がれたような様と読み解ける。その郡に「武美」の里(郷)があると記している。既出の文字列であって武美=矛のような山稜の傍で谷間が延びている様と読み解ける。図に示した綠野の東側に当たる場所と推定される。

「片岡郡」の片岡=山稜の切れ端のような岡と解釈される。図に示した場所と推定されるが、ここに「山等六郷」があると記載している。山等=山稜が並んで揃っている様と読み解ける。六郷は、その谷間が六つに分かれていることから名付けられてのであろう。

これらの地を新しく纏め直して多胡郡としたと述べている。多胡=山稜の端が小高く盛り上がって三日月のようになっている様を表している。主要な端の形状を纏めた表現であろう。無理のないものと思われる。そして綠野郡武美を含めて見事に纏まった郡となっていることが解る。

上記のような結果になったが、東山道にあった上野國は同一名となる。そして「多胡」が示す地形は、「山稜の端が盛り上がっている様」である。正に”類似の地形”↔”被った表記”なのである。地形象形表記に基づくと同一名称もあり得るのであるが、混乱が生じることも事実であろう。通説は「上毛野」も「上野」も同じとするのだから問題なし、かもしれない。

● 池田朝臣子首 直ぐ後に「池田朝臣子首」が登場する。「池田朝臣」は書紀の天武天皇紀に「池田君」が朝臣姓を賜ったと記載されている。調べると古事記の御眞木入日子印惠命(崇神天皇)の御子、豐木入日子命(書紀では豐城入彦命)を遠祖に持つ一族であったようである。池田=畝って延びる水辺の田と読めることから、この命の出自の地、現在の有田川が流れる谷間と仮置きした。

勿論「池田」だけで一に特定することは不可であって、今回の「子首」の名前から上図の場所と推定することができたと思われる。地図上記載されている”池田池”は残存地名として、何ら差支えがないように思われるが・・・。