日本根子天津御代豐國成姫天皇:元明天皇(8)
和銅四年(西暦711年)四月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀1(直木考次郎他著)を参照。
夏四月丙子朔。日有蝕之。庚辰。大倭佐渡二國飢。並加賑給。壬午。詔叙文武百寮成選者位。從五位上熊凝王。長田王並授正五位下。正四位下中臣朝臣意美麻呂。巨勢朝臣麻呂並正四位上。從四位上石川朝臣宮麻呂正四位下。從四位下息長眞人老從四位上。正五位上猪名眞人石前。路眞人大人。大伴宿祢旅人。從五位上石上朝臣豊庭並從四位下。正五位下忌部宿祢子首。阿倍朝臣廣庭。石川朝臣難波磨。石川朝臣石足。大宅朝臣金弓。太朝臣安麻呂。多治比眞人三宅麻呂。從五位上笠朝臣麻呂並正五位上。從五位上多治比眞人吉提。多治比眞人吉備。上毛野朝臣安麻呂。佐伯宿祢百足。阿倍朝臣船守。采女朝臣比良夫。阿倍朝臣首名。大神朝臣狛麻呂。曾祢連足人並正五位下。從五位下藤原朝臣武智麻呂。藤原朝臣房前。巨勢朝臣子祖父。多治比眞人縣守。縣犬養宿祢筑紫。小治田朝臣安麻呂。中臣朝臣人足。平群朝臣安麻呂並從五位上。正六位下池田朝臣子首。石川朝臣足人。從六位上阿倍朝臣駿河。從六位下粟田朝臣必登。正七位上中臣朝臣東人。正七位上高橋朝臣毛人。正六位上民忌寸袁志比。黄文連備。鍜師造大隅。道君首名。從六位上置始連秋山並從五位下。甲申。大倭國芳野郡始置大少領各一人。主政二人。主帳一人。庚寅。宮内卿從四位下多治比眞人水守卒。乙未。詔。賀茂神祭日。自今以後。國司毎年親臨検察焉。
四月一日に日蝕があったと記している。五日、大倭・佐渡の二國で飢饉があり、物を与えている。
七日に文武の官人達で叙位の選考対象になった者に位を授けている。熊凝王・長田王(六人部王に併記)に正五位下、中臣朝臣意美麻呂・巨勢朝臣麻呂に正四位上、石川朝臣宮麻呂に正四位下、息長眞人老に四位上、猪名眞人石前・路眞人大人・大伴宿祢旅人・石上朝臣豊庭に從四位下、忌部宿祢子首・阿倍朝臣廣庭(首名に併記)・石川朝臣難波磨(麻呂)・石川朝臣石足・大宅朝臣金弓・太朝臣安麻呂・多治比眞人三宅麻呂・笠朝臣麻呂に正五位上、多治比眞人吉提・多治比眞人吉備・上毛野朝臣安麻呂(小足に併記)・佐伯宿祢百足・阿倍朝臣船守・采女朝臣比良夫・阿倍朝臣首名・大神朝臣狛麻呂・曾祢連足人(韓犬に併記)に正五位下、藤原朝臣武智麻呂・藤原朝臣房前・巨勢朝臣子祖父・多治比眞人縣守・縣犬養宿祢筑紫・小治田朝臣安麻呂・中臣朝臣人足・平群朝臣安麻呂(平羣朝臣)に從五位上、池田朝臣子首・石川朝臣足人・「阿倍朝臣駿河」・「粟田朝臣必登」・「中臣朝臣東人」・高橋朝臣毛人・民忌寸袁志比(比良夫に併記)・黄文連備・鍜師造大隅(鍜造大角)・道君首名・「置始連秋山」に從五位下をそれぞれ授けたと記載している。
九日に「大倭國芳野郡」に初めて「大少領各一人・主政(三等官)二人・主帳(四等官)一人」を置いている。十五日に宮内卿の多治比眞人水守が亡くなっている。二十日に賀茂祭(山背國賀茂)の当日には毎年國司が臨検するようにせよ、と命じられている。大倭國芳野郡は文武天皇紀に雨乞いをした芳野水分峯神の麓を示していると思われる。現地名は北九州市小倉南区平尾台である。
熊凝王は、「大安寺」の場所を求めた際、廐戸皇子ゆかりの「熊凝精舎」に関わる地としたが、その「熊凝」を出自とする王と見做した。もう一人の長田王は、天武天皇の「長皇子」の子ではなく、別人とされている。前出の六人部王に併記した。
● 阿倍朝臣駿河
「宿奈麻呂」の西側の山稜の地形を示していると思われる。変形してはいるものの谷間の形成が見受けられ、おそらく川が流れていたと推測される。
今回の叙位の時点では従六位上だが、この後の活躍によって最終的には従四位下まで進位されたようである。子孫も登場するかもしれないが、その時に読み解くことにする。
また「宿奈麻呂」にはもう一人の息子、阿倍朝臣子嶋がいたと知られている。後の聖武天皇紀に登場する。地形変形が凄まじいのだが、辛うじて図に示した場所に嶋=山+鳥=山稜が鳥の形をしている様が見出せる。山稜の端が延びて生え出た(子)地形であることも認められる。
更に「阿倍朝臣毛人」も息子ではないかと言われるが、こちらは「阿倍朝臣廣庭」の子と思われる(こちら参照)。尚、国土地理院航空写真1961~9年を参照(図中+が「嶋」の場所)。
ずっと後(淳仁天皇紀)になるが阿倍朝臣許智が従五位下を叙爵されて登場する。頻出の文字列であり、許=言+午=耕地が臼で杵を突くように延びている様、智=矢+口+日=鏃の形の地の傍に炎のように山稜が延びている様と解釈した。系譜不詳であるが、図に示した場所が出自と思われる。
● 粟田朝臣必登
遣唐執節使であった粟田朝臣眞人に関わる人物かと思えば、その子であった。別名が人、弟に人上が居たと伝えられている。「必」の文字の出現は、今回が初めてであり、字源も含めて少し詳しく述べてみよう。
藤堂明保説によれば、「二つくっ付く」の概念を表すとされ、「くっ付いて動かない」などへと展開する意味を示すと解説されている。和語の「かならず」の意味に用いられる漢字となっている。
「必」=「八+弋」と分解される。既出の地形要素を表す文字であることが解る。即ち必=谷間(八)が杙のような山稜(弋)にくっ付いている様と読み解ける。頻出の登=癶+豆+廾=高台から山稜が二つに岐れている様として、図に示した「眞人」の北側、谷間に杙のような山稜が延びている場所が見出せる。また二つの谷間がくっ付いたような様とも見做せる。そこが出自と推定される。人上は、御祓川の上流域にある谷間を表していると思われる。
後(聖武天皇紀)に粟田朝臣堅石が外従五位下を叙爵されて登場する。系譜は定かではないようである。既出の文字列である堅石=谷間に手のように延びた山稜の先に区切られた地があるところと解釈した。「必登」等と現御祓川を挟んだ西側に、その地形を見出せる。
<中臣朝臣東人-廣見-淸麻呂> |
● 中臣朝臣東人
中臣朝臣意美麻呂の子と知られる。親子揃っての昇位となっている。「東」は方位を表すのではなく東=突き通る、突き抜ける様と読み解いた。人=谷間であり、「東人」の名前そのものも幾度か登場している。
すると「意美麻呂」の窪んだ地から南に延びる谷間を示していると思われ、その場所が出自と推定される。現在は埋もれたような奥深い谷間の様相であるが、藤原一族を含め人材輩出の場所であろう。
多くの兄弟が居たようだが、その一人中臣朝臣廣見が後(元正天皇紀)に登場する。見=目+儿=谷間を挟む山稜が長く延びている様と解釈した。「廣」が加わって、更に横に広がっているところを示していると思われる。「東人」の西側の谷間と推定される。
また後(聖武天皇紀)には、中臣朝臣清麻呂が登場する。淸=氵+生+井=水辺で四角く区切られた様であり、東人の谷間を抜けた場所が出自と思われる。最終官位は正二位・右大臣となったようである。藤原朝臣不比等の子孫ときっちりと分け合うような配置となっている。
余談だが、Wikipediaに・・・『出雲国風土記』に猪麻呂(いのまろ)という神官の話が出てくるが、これと意美麻呂(いみまろ)と同一人物という説がある・・・と記載されている。読みの類似ではなく、猪=犬+者=平らな頂の麓で山稜が交差するような様と読める。同一人物の可能性は極めて高い。
<置始連秋山-蟲麻呂-志祁志女-首麻呂> |
● 置始連秋山
「置始連」は幾度か登場していて、最初は置始連大伯であった。物部一族と知られている。地形がはっきりとしている山中の地であり、「置」、「始」の文字解釈の有効性を確認できた記憶がある。
息子に「菟」が居たと言われるが、それ以外の系譜は定かではなく、「秋山」は別系列なのかもしれない。
秋=禾+火=山稜が[火]のような様と読み解くと、谷間の出口辺りにある山裾の地形を表していると思われる。「大伯」の系列は谷間の奥であり、元は同じでも分家した一族だったのかもしれない。
後(元正天皇紀)に「菟(宇佐伎)」の子の蟲麻呂が登場する。『壬申の乱』で「菟」が大将軍吹負の援軍として活躍し、その子孫を褒賞した記事が載せられている。蟲=山稜の端が細かく岐れた様と解釈すると図に示した場所が出自と推定される。
更に養老五年(721年)正月の記事に、系譜は不詳のようなのだが、優れた技能を褒賞された唱歌師の志祁志女と武藝の首麻呂が登場する。なかなかに多彩な人材を輩出したようである。志祁志=蛇行する川に挟まれたところと読み解ける。首=首の付け根のような様であり、図に示した場所にそれらしき地形が見出せる。
五月辛亥。制。帳内資人雖名入式部。不在豫選之限。既叙位記者許之。職分不在此例。唯聽帳内三分之一。資人四分之一。其雖叙位。逗留方便。違主失礼。即追其位。還之本貫。若得他處位者不追焉。或本主亡者。不得豫選。皆還本色。但欲廻入者聽。以外如令。」尾張國疫。給醫藥療之。乙夘。從四位上當麻眞人智得卒。己未。以穀六升當錢一文。令百姓交關各得其利。」先是。禁取畿外人充帳内資人。至是始許之。
五月七日に以下のことを制定している。概要は、帳内・資人に関わることで、それぞれの三分の一・四分の一を除き叙位の対象から外すが、対象となって位を得たままにすることなく、状況が変わったならば元に戻せ、と述べている。この日、尾張國で疫病が発生し、医薬を給して治療させている。
十一日に當麻眞人智得(德)が亡くなっている。十五日、穀六升が銭一文に相当するようにして百姓に売買させ利益を得させている。これに先立って、畿外の者を帳内・資人に採用することを初めて許している。
六月乙未。詔曰。去年霖雨。麥穗既傷今夏亢旱。稻田殆損。憐此蒼生。仰彼雲漢。今見膏雨。有勝衆瑞。宜黎元同悦共賀天心。仍賜文武百寮物有差。
閏六月丙午。始五位已上卒者。即日申送弁官。丁巳。遣挑文師于諸國。始教習折錦綾。甲子。宗形部加麻麻伎賜姓穴太連。乙丑。中納言正四位上兼神祇伯中臣朝臣意美麻呂卒。
六月二十一日に天皇は以下のように詔されている。昨年は長雨で麦の穂が傷付き、今年の夏は日照りで稲が殆ど損なわれてしまった。これを憐れみ「雲漢」(銀河、大空)を仰ぎ見ていたが、すると恵みの雨が降った。これはあらゆる瑞祥より勝ることで天の心を喜ぼう。それで文武の百寮それぞれに物を与えている。
閏六月三日に五位以上の者が亡くなったら即日弁官に報告させている。十四日、挑文師(文模様の高級織物技術者)を諸國に遣わして、初めて錦・綾の教習を行わせている。二十一日に宗形部加麻麻伎に穴太連の姓を与えている(宗形部堅牛に併記)。二十二日に中納言・神祇伯の中臣朝臣意美麻呂が亡くなっている。
秋七月甲戌朔。詔曰。張設律令。年月已久矣。然纔行一二。不能悉行。良由諸司怠慢不存恪勤。遂使名充員數空廢政事。若有違犯而相隱考第者。以重罪之。無有所原。戊寅。山背國相樂郡狛部宿祢奈賣。一産三男。賜絁二疋。綿二屯。布四端。稻二百束。乳母一人。壬午。尾張國守從四位下勳四等佐伯宿祢大麻呂卒。
八月丙午。酒部君大田。粳麻呂。石隅三人。依庚寅年籍賜鴨部姓。
七月一日に天皇が以下のことを詔されている。概略は、律令を張り巡らして設けてから久しいのだが、その一、二を施行するに止まっている。これは諸司の怠慢であろう。もし令に違反することがあったなら重罪に処す、と述べている。五日、山背國相樂郡の「狛部宿祢奈賣」が男子の三つ子を産んで、綿布や稲、加えて乳母を一人与えている。
九日に尾張國守の佐伯宿祢大麻呂が亡くなっている。「麻呂」の子、「石湯」の弟に当たる。和銅二年(709年)九月の記事で統治事績が良好と褒められていた。
八月四日に「酒部君大田・粳麻呂・石隅」の三人が庚寅年(持統天皇即位四年:690年)の戸籍に依って「鴨部」姓を賜っている。書紀本文に記載されていた「九月乙亥朔、詔諸國司等曰、凡造戸籍者、依戸令也」を指すのであろう。
● 狛部宿祢奈賣
山背國相樂郡で狛=犬+白=平らな山陵の端がくっ付くように並んでいる様を探索すると、容易に見出すことができる。岡田離宮(現在の山浦大祖神社辺りと推定)の門前に座す狛犬の如くの地形であろう。
狛部はその狛の近傍と示す表記であり、奈=木+示=山稜が高台になっている様であり、図に示した「狛」の南に隣接する場所と推定される。
「宿禰」を「姓」とするか、宿禰=山稜に挟まれた谷間にある細長い台地の地形象形表記かは判別し辛いが、「奈」と重なることから、多分「姓」の解釈が妥当なように思われる。まだまだ多産奨励の時代であったように伺える。
● 酒部君大田・粳麻呂・石隅
「酒部」の表記だけでは特定するのは困難なのだが、「鴨部」と改名されていたと言うことで彼らの居場所を求めることが叶いそうである。とは言うものの、書紀においては「酒」の解釈は古事記と異なっていたが、果たして如何であろうか・・・。
鴨朝臣(君、賀茂の別表記)の出自の場所は、現地名の田川郡福智町伊方と推定した。「鴨部」は、その近傍の地を示していると思われる。
図に示したように文武天皇が娶った藤原朝臣宮子娘の場所の南側の山麓に酒=酒樽のような様=山稜が並べて寄せ集められたような様が見出せる。
その麓辺りが大田=平らな頂の麓の田と推定される。また石隅=山麓の小高い地が隅になっている様は南に隣接する場所と思われる。既出の「粳」=「米+更」と分解され、更に「更」=「丙+攴(卜+又)」=「山稜が二つに岐れた様」と解釈した。粳=山稜が二つに岐れた地に米粒のような小高いところがある様と読み解いた。図に示した場所にそれらの地形要素を持つ場所を見出すことができる。
九月癸酉朔。日有蝕之。甲戌。詔曰。凡衛士者。非常之設。不虞之備。必須勇健應堪爲兵。而悉皆尫弱。亦不習武藝。徒有其名而不能爲益。如臨大事何堪機要。傳不云乎。不教人戰是謂棄之。自今以後。専委長官。簡點勇敢便武之人。毎年代易焉。丙子。勅。頃聞。諸國役民。勞於造都奔亡猶多。雖禁不止。今宮垣未成。防守不備。宜權立軍營禁守兵庫。因以從四位下石上朝臣豊庭。從五位下紀朝臣男人。粟田朝臣必登等爲將軍。
九月一日に日蝕があったと記している。二日に以下のことを詔されている。その概略は、衛士(諸國から毎年交替で派遣された兵士)は不慮の際に備えるもので勇建でなければならない。ところが尫(体力・気力)が弱いものばかりである。これは武芸を習得させていないからであり、伝えられているように「不教人戰是謂棄之」である。今後は勇敢で武に馴染んだ者を選抜せよ、と述べている。体力・気力のある者を供するのは勿体なかったのであろう。近代の徴兵のような厳しさはない様子である。
四日に以下の内容の勅を出されている。その概要は、諸國の都造営の労役民の逃亡が多く、それを禁止してはいるが、未だ宮垣も完成せず無防備である。取り敢えず軍営を立てて兵庫を守るようにせよ、と述べられている。そのために石上朝臣豊庭・紀朝臣男人・粟田朝臣必登を将軍に任じている。