2021年4月13日火曜日

日本根子天津御代豐國成姫天皇:元明天皇(9) 〔505〕

日本根子天津御代豐國成姫天皇:元明天皇(9)


和銅四年(西暦711年)十月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀1(直木考次郎他著)を参照。

冬十月甲子。勅依品位始定祿法。職事二品二位。絁卅疋。絲一百絢。錢二千文。王三位廿疋。錢一千文。臣三位十疋。錢一千文。王四位六疋。錢三百文。五位四疋。錢二百文。六位七位各二疋。錢卌文。八位初位一疋。錢廿文。番上大舍人。帶劔舍人。兵衛。史生。省掌。召使。門部。物部。主帥等並絲二絢。錢十文。女亦准此。」又詔曰。夫錢之爲用。所以通財貿易有无也。當今百姓。尚迷習俗未解其理。僅雖賣買。猶無蓄錢者。隨其多少。節級授位。其從六位以下。蓄錢有一十貫以上者。進位一階叙。廿貫以上進二階叙。初位以下。毎有五貫進一階叙。大初位上若初位。進入從八位下。以一十貫爲入限。其五位以上及正六位。有十貫以上者。臨時聽勅。或借他錢而欺爲官者。其錢沒官。身徒一年。与者同罪。夫申蓄錢状者。今年十二月内。録状并錢申送訖。太政官議奏令出蓄錢。」勅。有進位階。家存蓄錢之心。人成逐繦之趣。恐望利百姓或多盜鑄。於律。私鑄猶輕罪法。故權立重刑。禁斷未然。凡私鑄錢者斬。從者沒官。家口皆流。五保知而不告者与同罪。不知情者減五等罪之。其錢雖用。悔過自首。減罪一等。或未用自首免罪。雖容隱人。知之不告者与同罪。或告者同前首法。

十月二十三日に天皇が勅して、品や位に依る禄の支給規定を初めて定めている。概略は、職事(執掌を持つ官人)の二品二位、王の三位、臣三位から以下の者に対して、及び舍人・兵衛・史生・省掌・召使・門部・物部(罪人の処罰)・主帥等についても、与える禄の種類・量が記載されている。また以下のことを詔され、「蓄錢」を奨励して、その多少に基づいて叙位する、と述べている。

そうなれば「私鑄」が行われることになるが、その罪が軽く、今後は重刑に処することにする。最も重い刑が斬(首)刑と記されている。犯罪を知りながら届けなかった者も処罰対象となっている。因みに現在の通貨偽造罪の法定刑は「無期または3年以上の懲役」だそうである。

十一月甲戌。蓄錢人等始叙位焉。辛夘。從六位下菅生朝臣大麻呂。正七位上高橋朝臣男足並授從五位下。壬辰。詔曰。諸國大税。三年之間。借貸給之。勿收其利。」又賜畿内百姓年八十以上及孤獨不能自存者衣服食物。」又出擧私稻者。自今以後。不得過半利。餘者如令。

十一月四日に蓄錢人等に初めて叙位している。二十一日、「菅生朝臣大麻呂」・高橋朝臣男足(高橋朝臣若麻呂等に併記)に從五位下を授けている。二十二日に諸國の大税について三年間、無利息で貸付けて、その利息を徴収してはならない、と詔されている。そして畿内の百姓で八十歳以上、自立できない者に衣服・食物を与えている。また「出擧」(利子付きの貸付)では利率が五割を越えてはならない、と述べている。

<菅生朝臣大麻呂-國益-古麻呂>
● 菅生朝臣大麻呂

「菅生朝臣」一族は、前記で國桙が登場していた。中臣朝臣、忌部宿禰、巫部宿禰の面々に加えられての登場であった。日本の古代における神祇を担った一族であろう。

出自の場所は、現地名の田川郡福智町伊方と推定した。後に登場する人物も含めて纏めて示したのが右図である。残念ながら彼らの系譜は定かではないようであるが、名前が示す地形からそれぞれの出自を求めてみよう。

大麻呂の表記は曖昧で場所の特定は叶わない。最も特徴的な國益は、頻出の益=谷間に挟まれて平らに広がり延びた様から図の場所と推定される。

古麻呂古=丸く盛り上がった様であり、國益の南に隣接する場所と思われる。すると大麻呂國益の間の平らな頂の様()を表しているのではなかろうか。菅生=管のような山稜が並んでいる様であり、その管に連なっている場所が彼らの出自の場所と推定される。

十二月壬寅。大初位上丹波史千足等八人。僞造外印假与人位。流信濃國。」以從五位下葛木王。補馬寮監。丙午。詔曰。親王已下及豪強之家。多占山野。妨百姓業。自今以來。嚴加禁斷。但有應墾開空閑地者。宜經國司。然後聽官處分。壬子。從五位下狛朝臣秋麻呂言。本姓是阿倍也。但當石村池邊宮御宇聖朝。秋麻呂二世祖比等古臣使高麗國。因即号狛。實非眞姓。請復本姓。許之。庚申。又制蓄錢叙位之法。无位七貫。白丁十貫。並爲入限。以外如前。

十二月二日に「丹波史千足」等八人が外印を偽造し、人に位を偽って与えたので信濃國に流罪としている。またこの日に葛木王を馬寮監に任じている。六日、親王以下及び勢力のある者が山野を占有しているが、空閑地で開墾すべき地があれば申し出るようにせよ、と命じている。

十二日に狛朝臣秋麻呂が以下のように奏上している。そもそもの姓は「阿倍」であるが、「石村池邊宮御宇聖朝」の時に「秋麻呂」の二世代前の「比等古臣」が高麗國の使者となり、「狛」と号するようになった。本来の姓に戻したい、と言い、これを許している。二十日に蓄錢叙位之法の若干の修正を加えている。

<丹波史千足>
● 丹波史千足

「丹波」の地、現地名で行橋市稲童辺りで史=中+又(手)=山稜が真ん中を突き通す様の地形を求めることになる。この地は山稜の端が長く延びた地形であり、多くの「史」が存在するように思われるが、意外に稀であることが解る。

やはり古事記の若倭根子日子大毘毘命(開化天皇)紀に登場する氷羽州(比婆須)比賣命氷羽州=羽のような州を二つに割った様の近隣の地が有力な場所と推測される。

幾度か登場の「千」=「人+一」=「谷間を束ねた様」であり、千足=山稜が長く延びて谷間を束ねたようなところと読み解ける。図に示した場所を表しているのではなかろうか。この人物の出自は定かではないようだが、旦(丹)波の地には天神族が進出する以前から多くの渡来があったと推測される。そんな一族の後裔だったのであろう。

<池邊宮>
石村池邊宮御宇聖朝

古事記では「池邊宮」の「橘豐日命」、書紀では「磐余」にあった「池邊雙槻宮」の「橘豐日天皇」の時代を示していると思われる。

「磐余」は古事記の「伊波禮」に当たると知られる。古事記で求めた「池邊宮」及び「伊波禮」の場所を再掲した。

少し振り返ると池=氵+也=川が曲がりくねっている様邊=辶+自+丙+方=端に向かって左右に広がる様と読み解いた。

「池邉宮」の場所は図に示したように金辺川の流れが広がりつつあるところと推定された。古事記は些か舌足らずの表記であるが、宮の場所としては香春一ノ岳の麓辺りとした。

伊波禮
書紀は少し修飾された表現をしており、「雙槻」が加わる。これに類似した表記は、書紀の斉明天皇の宮、後飛鳥岡本宮の別名に兩槻宮があったと記載されている。

槻=木+規=山稜が丸く盛り上がった様であり、その「槻」が宮を挟んで両側にある地形を表していると読み解いた。

「雙」も「対を成す二つ」の意味を表す文字と知られるが、雙=隹+隹+又=隹(鳥)の形の山稜が並んでいる様と読み解ける。即ち「池邉宮」も兩槻なのだが山稜の端が「鳥」=「三角の形」を示していると解釈される。

<石村池邊宮>
詳細図を示すと対を成した三角の山稜の端に挟まれた場所に「池邉雙槻宮」があったと述べていると思われる。現在の蓮華寺辺りがその地形要件を満たすと推定される。

續紀では「石村」が冠されている。石=磯である。石上=磯の上にあるところの近隣の場所であることを示していると思われる。續紀は池邉を繋げた表現をしていることが解る。

書紀はその地を磐余=山稜の端が延びて広がった様と表現している。古事記の伊波禮=谷間で区切られた山稜の端が高台になっている様は上図に示した通り、大坂山・愛宕山の山稜の端にある場所を示している。

地形象形として、曖昧な「磐余」の表記からすると「伊波禮」の近辺を含めた場所も示すと解釈できるが、厳密には「池邉宮」は「伊波禮」の地ではない。ここで書紀が「磐余」の表記を用いたわけが明らかになる。奈良大和の配置は、「伊波禮」と「石上」が近接していては甚だ不都合だからである。

續紀は、書紀編者によって暈された、所謂読み手の解釈に委ねる、池邉の関係をあからさまにしていると思われる。書紀の続編のような捉え方をされているようだが、その編集方針は全く異なっていると思われる。以前にも述べたが、古事記の素朴で率直な、且つ舌足らずの表記をしっかりと踏襲したものと感じられる。

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本居宣長以来、万葉仮名の前駆である宣命体による古事記解釈、和語の音に拠る解釈から抜け出せていない。「磐」と「伊波」は「イワ」とし、更に「石」に繋げているのである。「余(餘)」の文字は無視されているのか、それとも「余」の訓に「ワレ」があるから、「イワワレ」を短縮した、とでもなるのであろうか?・・・。

記紀・續紀は漢文で記述されている。漢字は表意文字であり、その根幹をなす象形文字を地形に当て嵌めたのである。古事記序文に太朝臣安萬侶が記載しているように必要な時に和語の訓を注記するとしている。天=一+大=一様に平らな頂の山稜阿麻=擦り潰されたような台地と註しているのある。漢字の表意の場合は天(テン)=頭を意味すると但している。

奈良大和の遺跡をいくら掘り返しても、その地にヤマト政権が古から存在していたことの確固たる証は得られない、と確信する。また、不動ではない木簡などがその地を特定するものではないことを、解っていながら成果とする確信犯であってはならないであろう。