2021年4月17日土曜日

日本根子天津御代豐國成姫天皇:元明天皇(10) 〔506〕

日本根子天津御代豐國成姫天皇:元明天皇(10)


和銅五年(西暦712年)正月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀1(直木考次郎他著)を参照。

五年春正月乙酉。詔曰。諸國役民。還郷之日。食糧絶乏。多饉道路。轉填溝壑。其類不少。國司等宜勤加撫養量賑恤。如有死者。且加埋葬。録其姓名報本属也。戊子。授无位上道王。大野王。倭王並從四位下。无位額田部王。壹志王。田中王並從五位下。正五位上佐伯宿祢麻呂。巨勢朝臣祖父並從四位下。從五位上穗積朝臣山守。巨勢朝臣久須比。大伴宿祢道足。佐太忌寸老並正五位下。從五位下紀朝臣男人。笠朝臣吉麻呂。多治比眞人廣成。大伴宿祢宿奈麻呂並從五位上。從六位上大神朝臣忍人。鴨朝臣堅麻呂。正六位上佐伯宿祢果安。小治田朝臣月足。正六位下額田首人足。從六位下後部王同竝從五位下。壬辰。廢河内國高安烽。始置高見烽。及大倭國春日烽。以通平城也。

正月十六日に以下の様に天皇が詔されている。概略は、諸國の役民が帰郷する際に食糧が絶えて溝や谷に転がり落ち、それを埋めている。國司は物などを与え、死者が出た場合には埋葬し、姓名を記録するようにせよ、と述べている。

十九日に諸王・臣に爵位を以下の様に授けている。「上道王」・「大野王」・倭王(磯城皇子の子。酒部王に併記)に從四位下、「額田部王」・「壹志王」・「田中王」に從五位下、佐伯宿祢麻呂巨勢朝臣祖父(邑治)に從四位下、穗積朝臣山守巨勢朝臣久須比大伴宿祢道足佐太忌寸老に正五位下、紀朝臣男人笠朝臣吉麻呂多治比眞人廣成大伴宿祢宿奈麻呂に從五位上、「大神朝臣忍人」・鴨朝臣堅麻呂(吉備麻呂の弟)・佐伯宿祢果安(石湯の弟)・小治田朝臣月足額田首人足(大寶三年70310月に登場)・「後部王同」に從五位下。

二十三日に「河内國高安」の烽台を廃して、初めて「高見」の烽台を設置している。そして「大倭國春日」の烽台に届かせて、「平城」に通報させることができたと記載している。真に奇妙な記述であり、奈良大和の地では、西から河内國高安(高見)烽→[平城]→春日烽と並んでいることになる。[平城]はその名の通り、西方を遮る山稜は無く、現在の生駒山地を見通せる筈である。即ち「春日烽」を通す必要などない。

調べてもこの記述に言及した情報は全く見つからず、ほぼ無視されて来たようである。勿論初めて設置したと言う「高見烽」は皆目見当もつかない有様である。この「烽」は、間違いなく難波における緊急事態を速報する目的であろう。狼煙を上げて京へ如何に早くその状況を伝えられるか、狼煙を遮るものがないように配置したと伝えているのである。以下で詳述してみよう。

<上道王・廣河女王>
● 上道王

天武天皇の穂積皇子の子と知られている。その地に出自の場所を求めるのだが、上道=高く盛り上がった地の麓にある首の付け根のように窪んだところと解釈される。

図に示した穂積皇子の北側の山稜に見出すことができる。天武天皇の子が忍坂の金辺川沿いに散らばったのだが、その後裔達の出自もそれに寄り添うことになるのであろう。

續紀での登場はずっと後(淳仁天皇紀)になるが、娘の廣河女王が従五位下を叙爵されたと記載されるが、その後に登場されることはないようである。廣河=川が流れる谷間の出口が広がったところと解釈される。別名に廣川があり、広がった川(現在の金辺川)の畔を表していると読み取れる。

● 大野王 上記に続き天武天皇の忍壁皇子の子と知られている。大野が示す場所は父親の近隣、金辺川沿いかと思われる(図は省略)。

<額田部王・大和女王>
● 額田部王

「額田」は幾つかの場所で用いられた表現である。古くは古事記の天津日子根命が祖となった額田部湯坐連、書紀の孝徳天皇紀にには額田部連甥などが登場していた。

「額田部」=「額田の近隣」を表す表記であって、額田(首)人足の登場で初めて額田の場所が示されることになる。現在の愛宕山の西麓にある椿台を「額」と見做した表現であり、「額田」はその麓、「額田部」は更に山稜が延びた裾野を表すと解釈された。

当該の王は、おそらくその山稜の端、現在の光願寺辺りが出自の場所だったのではなかろうか。その先に古事記の袁本杼命(継体天皇)の伊波禮之玉穗宮(勾金小学校辺りと推定)も候補となるが、「額田部」と記載していることから少し東側の場所と推測した。

後(聖武天皇紀)に大和女王が従四位上を叙爵されて登場する。例に依って、初見で極めて高位で、かつ系譜不詳なのである。大和=しなやかに曲がって延びる平らな頂の山稜の麓として、図に示した場所が出自と推定した。

<壹志王・春日王・湯原王>
<榎井王・白壁王・高田王>
● 壹志王

調べると「天命開別天皇(天智天皇)」の施基皇子の子と言う系譜であることが分り、「施基皇子」の出自の場所で壹志の地形を求めることにする。

併せて兄弟の湯原王春日王、後に「光仁天皇」となる彼らの兄弟である白壁王の場所も探索してみる。

壹=吉(蓋+囗)+壺=壹=大きく広がった谷間に蓋をするような山稜がある様と読み解いた。古事記の天押帶日子命が祖となった壹比韋で用いられた文字であり、魏志倭人伝の邪馬壹國にも含まれている。

その地形を「施基皇子」の南側の谷間の出口が塞がれたようになっているところが示していると思われる。志=蛇行する川を地図上では確認できないが、間違いなく存在していたと推測される。父親の「湯原王」の湯=水が飛び散って流れる様と読み解いた。「壹志王」の西側の急傾斜の谷間を示し、その出口辺りが出自の場所と推定される。

白壁王は「湯原王」の弟であり、後に光仁天皇(西暦770-781年在位)となられる。現在のところ最も高齢での即位のようである。そんな背景と「白壁」の文字列が示す地形を確認することを目的に読み解いてみようかと思う。実は「草壁」で「壁」の文字は登場していたのだが、「草壁=日下部」としてそのものの地形象形表記をおざなりにしていた経緯もある。

「壁」=「辟+土」と分解される。更に「辟」=「尸+口+辛」と分解され、尸(死体)を刃物で切り開く様を表す文字と知られる。物騒な文字なのであるが、地形象形的には「壁」=「谷間を平らに広げる様」と解釈する。とすると草壁=丸く小高くなった山稜の端が並ぶ谷間が平らに広がったところと読み解ける。「忍坂」の谷間が広がった場所、即ち日下部の地を表していることが解る(草壁吉士などを参照)。

地形象形表記であることが解ると白壁=二つの谷間が平らに広がってくっ付いているところと読み解ける。図に示した湯原王の北側が出自の場所と推定される。現在は高速道路が通り、些か見辛い地形となっているが、当時を偲ぶことは叶いそうな様子であろう。

未だご登場されていないが、長男が春日王と知られている。「春日王」の初出は記紀を通じて古く、所謂「春日」の地の王として読んで来たが、「施基皇子」の子であれば、その地の近隣が出自であろう。春日=[太陽]のような山の前で[炎]のように山稜が延びているところと読み解いた。その地形が西側の谷奥に見出せる。

同じく史書には登場されないが、ずっと後にその息子が活躍される榎井王がいたと知られている。既出の文字列である榎井=山稜が覆い被さるように取り囲んだところと解釈した。図に示した場所が出自と推定される。

また後(聖武天皇紀)に高田王が登場する。「春日王」の子とする説もあるが、初位が従四位下であり、皇孫の扱いであり、兄弟だったのではなかろうか。高田=皺が寄ったような山稜の麓の平らなところと読み解いた。図に示した場所が出自であり、「施基皇子」の子として申し分のない配置と思われる。

<大神朝臣忍人・興志>
● 田中王

この王の出自も不詳のようである。「田中」は舒明天皇の岡本宮が被災して急遽移られた田中宮辺りを出自としていたのではなかろうか。

● 大神朝臣忍人

調べると大神朝臣高市麻呂の子と分かった。この系譜は既に求めているが、図が少々立て込んでいるので、あらためて掲載することにした。

図に示した通り、父親の高市麻呂の南側、忍人=一見ではそれとは判らない(忍)谷間(人)と読み解ける場所が出自と推定される。

直ぐ後に弟の大神朝臣興志が登場する。忍人の西側、興=手+手+同+廾(両手)=山稜に囲まれて四角く区切られた様の地が辛うじて見出せる。谷間から流れる蛇行する川が流れていたのであろう。図に示した場所が出自と推定される。

大神朝臣(三輪君)は、六世代以上の系譜が知られている真に稀有な一族だったようである。遡れば古事記に記載された出雲の大物主大神に辿り着く一族であると思われる(三輪君:引用図の美和山西麓)。天皇家が畏敬する神の末裔となろう。

● 小治田朝臣月足

既に小治田朝臣一族の出自の場所を纏めて示した。月足=山稜の延びた先が三日月の形をしている様と読み解けば、その図に示した場所と推定される。

● 後部王同

天武天皇即位五年(676年)11月の記事に「高麗、遣大使後部主簿阿于・副使前部大兄德富、朝貢」とあり、「後部」、「前部」は高麗の地域名称と思われる。幾度か登場する百濟王の記載のように元の名前を踏襲して、倭名を持っていなかったのであろう。

高安烽・高見烽・春日烽

さて、一月の記事で「烽(台)」の改廃が述べられていた。そもそもこの「烽」の目的は難波・攝津における一大事を如何に素早く京に知らせるために設けられていたと推測される。それが飛鳥の地から藤原宮そして平城宮と遷る過程で不具合が生じたことによる改廃であったのであろう。

<高安烽-高見烽-春日烽>

「河内國高安烽」に含まれる「高安」は幾度か書紀に登場していた。倭國高安城(現地名京都郡苅田町の高城山辺りと推定)、この城は大寶元年(701年)八月に廃城とされている。また何も冠されない高安城(現地名田川郡香春町鏡山-柿下と京都郡みやこ町犀川大坂の境)が壬申の乱の戦闘場面で登場する。勿論、「高安」は固有の名称ではない。

では河内國高安烽があったのは何処の峰を示しているのであろうか?…上記の背景を念頭にしてみると、現在の障子ヶ岳が候補に浮かんで来る。その峯は図に示したように高安=皺が寄ったような山稜に挟まれた谷間が嫋やかに曲がっている様であることが確認される。そしてこの峰からは難波・攝津を見渡すには極めて都合よく、更に狼煙を飛鳥の地から眺めることができる位置にあることが解る。

一方、平城宮からは畝火の香春岳に阻まれて全く見ることができない。上記でこの河内國高安烽を廃して高見烽を新たに設置したと記載している。それを求める前に大倭國春日烽を求めてみよう。これは間違いなく春日の地を麓に持つ峰と推定される。古事記の意祁命(仁賢天皇)の子、春日山田郎女(書紀では春日山田皇女)が登場している。

大坂山~戸城山の尾根に一段高くなった峰が見出せる。これを「春日山」と呼称し、そこに設置されたのが春日烽であったと推定される。ここで挙げられた狼煙は、十分に平城宮から確認できる位置にあることが分る。すると高見烽は、現地名京都郡みやこ町勝山大久保・犀川大坂との境にある鉄光坊山と呼称される峰に設置されていたと思われる。高見=皺が寄ったような山稜の谷間が長く延びている様の地形を持つ峰である。

續紀が敢えてここで記載したのは、平城遷都によって難波・攝津における非常事態を即時に受ける態勢が致命的な欠陥として浮かび上がって来たことによるのである。上記したように奈良大和での配置とするのは、全く致命的な解釈となろう。續紀は、書紀の解釈は様々に行われていることに比べて極めて少ない。然したる話題が少なく、記述は”古事記風”である。だが、そこに記された内容は実に単刀直入であり、簡明である、と思われる。

二月戊午。詔賜京畿高年鰥寡惸獨者絁綿米塩。各有差。高年僧尼亦同施焉。
三月戊子。美濃國獻木連理并白鴈。
夏四月丁巳。詔。先是。郡司主政主帳者。國司便任。申送名帳。隨而處分。事有率法。自今以後。宜見其正身。准式試練。然後補任。應請官裁。

二月十九日に京畿の高齢者や寡婦・夫等に、また高齢の僧尼に綿・米などを与えている。
三月十九日、美濃國が「木連理」とそれに併せて「白鴈」を献上している。
四月十九日に以下のように詔している。これまで郡司の主政(三等官)・主帳(四等官)は國司が任じていたが、今後は正身(本人)を見て式(施行細則)に準じて試練し、その後に任命して太政官の決裁を請うようにせよ、と述べている。

美濃國:木連理・白
美濃國:木連理・白

勿論、これらは美濃國の瑞祥ではなく、その地を開拓し、公地として差し上げた事例であろう。木連理は既出で、慶雲元年六月に阿波國が献上し、木連理=連なった山稜が区切られている様と解釈した。

山だらけの美濃國で至る所で見られそうな地形なのだが、やはりちゃんと心得ておられてるようである。現在の貫山の東北麓で谷間で区切られた場所が見出せる。その麓の地を開拓したのであろう。

「鴈」=「厂+人+鳥」と分解すると、鴈=崖下の谷間に鳥のような形の山稜がある様と読み解ける。土地の開拓では定番の白=くっ付いて並ぶ様であり、図に示した場所を表していると思われる。

『壬申の乱』における功臣である多臣(朝臣)品治及び古事記編者の太朝臣安萬侶の出自の場所と推定した谷間の奥に当たる(こちら参照)。「品治」の肩書に唐突に「湯沐令」なるものを持ち出して書紀編者の博識ぶりを示した、それもあるが、如何に水が飛び散るほどの急流がある谷間の地形(湯沐)であることを表していたと読み解いた。その更に上流域を開拓したのであろう。