日本根子天津御代豐國成姫天皇:元明天皇(11)
和銅五年(西暦712年)五月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀1(直木考次郎他著)を参照。
五月壬申。駿河國疫。給藥療之。癸酉。禁六位已下以白銅及銀餝革帶。辛巳。詔曰。諸國大税。三年賑貸者。本爲恤濟百姓窮乏。今國郡司及里長等。縁此恩借妄生方便。害政蠧民莫斯爲甚。如顧潤身。枉收利者。以重論之。罪在不赦。甲申。初定國司巡行并遷代時給粮馬脚夫之法。語具別式。太政官奏稱。郡司有能繁殖戸口。増益調庸。勸課農桑。人少匱乏。禁斷逋逃。肅清盜賊。籍帳皆實。戸口無遺。割斷合理。獄訟無寃。在職匪懈。立身清愼。〈其一〉居官貧濁。處事不平。職用既闕。公務不擧。侵沒百姓。請託公施。肆行奸猾。以求名官。田疇不開。減闕租調。籍帳多虚。口丁無實。逋逃在境。畋遊無度。〈其二〉又百姓精務農桑。産業日長。助養窮乏。存活獨惸。孝悌聞閭。材識堪幹。〈其三〉若有郡司及百姓准上三條有合三勾以上者。國司具状附朝集使。擧聞。奏可之。乙酉。詔諸司主典以上。并諸國朝集使等曰。制法以來。年月淹久。未熟律令。多有過失。自今以後。若有違令者。即准其犯。依律科斷。其彈正者。月別三度。巡察諸司。糺正非違。若有廢闕者。乃具事状。移送式部。考日勘問。又國司因公事入京者。宜差堪知其事者充使。使人亦宜問知事状。並惣知在任以來年別状迹。随問弁荅。不得礙滯。若有不盡者。所由官人及使人。並准上科斷。自今以後。毎年遣巡察使。検校國内豊儉得失。宜使者至日。意存公平。直告莫隱。若有經問發覺者。科斷如前。凡國司。毎年實録官人等功過行能并景迹。皆附考状申送式部省。省宜勘會巡察所見。丙申。太政官處分。凡位記印者。請於太政官。下諸國符印者申於弁官。
五月四日に駿河國で疫病が発生し、医薬を給して治療させている。五日、六位以下の者が白銅及び銀を用いて革帯を飾ることを禁じている。十三日に以下のように詔している。概要は、諸國の貸し付けの大税を三年間無利息するのは、百姓の窮乏を救済するためである。しかるにそれを良いことに國郡司及び里長などが私利を増やそうとしている。これは重罪であって、恩赦の対象からも外す、と述べている。
十六日に初めて國司の巡行や交替の時の食料・馬・脚夫の支給方法を定めている。詳細は別途と記されているが、参考資料によれば『令集解』に記載されているそうである。また郡司及び百姓(人民)の評価ついて太政官が奏上している。概略は、郡司については、戸口・庸調を増やし、盗賊を取締ったりして職を怠らず身の処し方が潔白な者<其一>、それとは対照的な開墾もせず、名声を求めて租税を減じたりして官でありながら欲深い者<其二>、百姓でありながら生業に勤しみ窮者を助けるなど父母や目上によく仕えて才能や知識のある者<其三>として、郡司及び百姓で上記三条の中の三項目に該当するする者を國司が朝集使(国内の政治の状況を中央政府に報告する使者)に付託して報告させるようにしたい、と述べている。
十七日に諸司の主典以上並びに朝集使等に詔されている。概略は、律令が定められて久しいが、未だに不慣れで過失が多い。令に違反する者は処罰の対象とし、弾正台は毎月三回諸司の巡察結果を式部省に報告せよ。國司が京に入って報告する際の担当者はそれに対応できる者を当てよと指示している。毎年巡察使を遣わして国情を調べさせるが、國司の報告との異同を確認するようにせよ、勿論食い違いがあれば処罰の対象となる、と述べている。
二十八日、太政官処分が記されている。全ての位記の印は太政官に申請せよ、また諸國符の印は弁官に申請せよと、している。
六月乙巳。地震。
秋七月壬午。伊賀國獻玄狐。」令伊勢。尾張。參河。駿河。伊豆。近江。越前。丹波。但馬。因幡。伯耆。出雲。播磨。備前。備中。備後。安藝。紀伊。阿波。伊豫。讃岐等廿一國。始織綾錦。甲申。播磨國大目從八位上樂浪河内。勤造正倉。能効功績。進位一階。賜絁十疋。布卅端。
六月七日に地震があったと記している。
七月十五日、伊賀國が「玄狐」を献上している。また、伊勢・尾張・參河・駿河・伊豆・近江・越前・丹波・但馬・因幡・伯耆・出雲・播磨・備前・備中・備後・安藝・紀伊・阿波・伊豫・讃岐等の二十一國(こちら、こちら参照)に初めて綾・錦を織らせている。「玄狐」は土地を開拓したのではない?…かもしれないが、下記で詳述する。直ぐ後に天皇が言及されている(祥瑞黒狐)。
十七日に播磨國大目の「樂浪河内」の正倉造営の功績に報いて進位一階し、絹・綿布などを与えている。尚「正倉」(律令制において中央・地方の官衙や寺院など公的な施設に設置された穀物や財物を保管する倉庫のこと)と解説されている。
● 樂浪河内
この人物は極めて有能であったらしく、後には「高丘連」姓を授かり、正五位下大学頭を務めている。天智天皇即位二年(663年)頃に百濟から帰化した一族の後裔と知られているようで、『白村江』前後の混乱の時である。
後に記載されるが、この一族は河内國古市郡に住まったようである。「樂浪」は倭風の名称ではないように見えるが、地形象形表記であることには違いないであろう。
樂=糸+糸+白+木=山稜に挟まれた丸く小高い様と読み解く。幾度か登場の「藥」の文字に類する解釈である。浪=氵+良=水辺でなだらかな様であり、その地形を「古市郡」に求めると図に示した場所と推定される。現地名は行橋市大字福丸(福永)である。現在の小波瀬川と山崎川に挟まれた山稜の麓、それを河内と表現としたのであろう。
後(聖武天皇紀)に高丘連の氏姓を賜ったと記載されている。高=皺が寄ったような様であり、地図に記載された筋状の山稜が延びている様を表現したものと思われる。現在の標高(約10m)から、「河内」の居処の東側は当時では海面下にあったと推測される。「河内」と言える、ぎりぎりの場所だったようである。
八月庚子。太政官處分。諸國之郡之郡稻乏少。給用之日有致廢闕。宜准國大小。割取大税。以充郡稻。相通出擧。所息之利。隨即充用。事須取足。勿令乏少。但割配本數。不令減損。自今以後。永爲恒例。庚申。行幸高安城。
八月三日に太政官処分が公布されている。概要は、諸國の郡稻(國司管理下で郡に分置したもの)が少なく、必要な時に欠乏してしまうことがある。それで國の大小に準じて、今後は大税を割り当ててることにするが、その税の限度以下まで割くことは控えよ、と記載されている。二十三日、高安城に行幸されている。これは、多分、前記の河内國高安烽があった場所であろう。
九月己巳。詔曰。故左大臣正二位多治比眞人嶋之妻家原音那。贈右大臣從二位大伴宿祢御行之妻紀朝臣音那。並以夫存之日。相勸爲國之道。夫亡之後。固守同墳之意。朕思彼貞節。感歎之深。宜此二人各賜邑五十戸。其家原音那加賜連姓。」又詔曰。朕聞。舊老相傳云。子年者穀實不宜。而天地垂祐。今茲大稔。古賢王有言。祥瑞之美無以加豊年。况復伊賀國司阿直敬等所獻黒狐。即合上瑞。其文云。王者治致太平。則見。思与衆庶共此歡慶。宜大赦天下。其強竊二盜常赦所不免者。並不在赦限。但私鑄錢者。降罪一等。其伊賀國司目已上。進位一階。出瑞郡免庸。獲瑞人戸給復三年。又天下諸國今年田租。并大和。河内。山背三國調。並原免之。庚午。授正六位上阿直敬從五位下。辛巳。觀成法師爲大僧都。弁通法師爲少僧都。觀智法師爲律師。乙酉。以從五位下道君首名。爲遣新羅大使。己丑。太政官議奏曰。建國辟疆。武功所貴。設官撫民。文教所崇。其北道蝦狄。遠憑阻險。實縱狂心。屡驚邊境。自官軍雷撃。凶賊霧消。狄部晏然。皇民無擾。誠望便乗時機。遂置一國。式樹司宰。永鎭百姓。奏可之。於是始置出羽國。乙未。禁取三關人爲帳内資人。
九月三日に以下のことを詔されている。概略は、「家原音那」(故左大臣多治比眞人嶋の妻)と「紀朝臣音那」(故右大臣大伴宿祢御行の妻)は、夫存命中には国を治める道を勧め、夫の死後(共に12年間)では墓を共にすることを固く守り、その貞節に感嘆させられる。依って食封各々五十戸を与え、「家原」には連姓を授ける、と述べている。元明天皇自らに重なる、かもである。糟糠の妻としての内助の功を讃えた褒賞であろう。
また故老が言うには子の年(和銅五年も)には穀物の実が良く稔らないとのことだが、加えて古の賢王が、祥瑞が良いといえども豊作の年には及ばないとも言う。ところが、今年は豊作である上に伊賀國司の「阿直敬」等が「黒狐」を献上した。これは上瑞であって、王が世の中を良く治めて太平の世に至らしめる時に現れるとのことである。
拠って大赦を行うが、強盗などは外し、また私鑄錢者は罪一等を減じることにする。伊賀國司の目以上は進位一階、当該の郡の庸を、瑞を獲えた戸の租税を三年間免除すると、述べている。併せて諸國の今年の田租を、「大和」・河内・山背の三國の調を免除すると記している。大和の表記は「記紀」を通じて初出である。以後大倭と混在するようであるが、詳細は後日とする。
四日に「阿直敬」に從五位下を授けている。十五日、觀成法師を大僧都、弁通法師を少僧都、觀智法師を律師としている。十九日に道君首名を遣新羅大使に任じている。
二十三日に太政官が以下のことを奏上している。國を建て領土を開くには戦の手柄を貴び、官衙を設けて礼法による教化を貴ぶ。しかるに北方の蝦狄は都から遠く険しい地であることから狂気の心を恣にしてしばしば辺境を脅かしている。そこで官軍が攻めて凶賊を霧散させ、今は安らかな地となっている。この機に乗じて一國を設け、人民を永らく鎮撫することを申し上げる、と記載している。これを可とし、「出羽國」(次回に詳細を述べる)を初めて設置している。
二十九日に三關(鈴鹿關・不破關・愛発關)の人を採用して帳内・資人とすることを禁じている。憶測するに国防上の拠点なのだが、平時は余剰の人材が屯する地であり、その人材を採用したがる傾向だったのであろう。それにしても平和な時を謳歌している様相である。
● 家原音那
多治比眞人嶋の妻なのだが、氏が「家原」、名が「音那」と解釈されるが、Wikipediaによると「音那=女」なのだそうである。
次に登場する「紀朝臣音那」にも用いられているところからもそれらしき雰囲気なのだが、これは間違いなく地形に基づく名称と思われる。
頻出の文字である家=宀+豕=谷間にある豚の口のような様と読むと、家原はその口の前で広がった野原の様子を表していると思われる。配偶者の「嶋」の山稜の形状を示していることが解る。
音=言+一=耕地(言)が区切られた(一)様と読み解いた。次に登場する「紀臣音那」に牽連すると思われる紀臣大音などに用いられていた文字である。通常の地図では判別し辛いが、現在の航空写真を見ると、那=平らに広がっているが、大きく段差がある地形であることが分り、それを「音」で表現したのであろう。
後に「家原」一族に連姓を授けたと記載される。登場するのは家原河内・大道・首名の名前が挙げられている。河内が父親のような感じであるが、不詳。川に挟まれた場所と思われる。大道は「家」の裾が首のような様と見做したのであろう。同様に首名も山稜の端が首にようになっている様と思われる。地形図では判別し辛い場所であるが、何とかそれらしき様子が伺えたと思われる。
<紀朝臣音那> |
● 紀朝臣音那
図に『壬申の乱』の功臣である「紀臣大音」の出自の場所を再掲し、それに「音那」を併記した。多分、「大音」のもう少し下流域にある那=しなやかに曲がる様の地形のところと推定される。
音那(オンナ)と音読みで解釈するのであるが、ならば思い切り和語として「オトナ」と読んでは如何であろうか?…續紀編者も、些か苦笑いの様子であろう。現在、豊前市にある鈴木谷と呼ばれている場所である。
伊賀國:玄狐
<伊賀國司:阿直敬・玄狐> |
天皇の詔で記載されているのは、上瑞の「黒狐」である。と言うことは、天皇は伊賀國が献上した「玄狐」を巧みに利用して大赦の根拠の一つにしたのである。
やはり、「玄狐」はその地形をした開拓地の献上物語であったと分かる。「玄」=「弓の弦のような様」、古事記の天國押波流岐廣庭天皇(欽明天皇)の御子、櫻井之玄王などに用いられていた文字である。
「狐」=「犬+瓜」=「平らな頂で弓の弧のような様」と解釈される。纏めると玄狐=平らな頂で弓の弦と弧からなる様と読み解ける。図に示した場所、現在は広大な団地となっているが、おそらくなだらかな丘陵地であったと推測される。
この地は既出であって、持統天皇紀に禁猟区とされた伊賀國伊賀郡身野の一部に該当する場所と思われる。身=弓なりになった様であり、「狐」に繋がる表記がなされていたことが解る。更に禁猟区とされたのは、そもそも狩猟場所であったことを伝えていて、開拓地ではなかったことが伺える。
● 阿直敬
伊賀國司の出自の場所を求めておこう。頻出の文字列である阿直=真っ直ぐな台地と解釈される。「玄狐」の西側の山稜の地形を表している。「敬」の文字は初出で少し詳しく紐解いてみよう。「敬」=「茍+攴」と分解される。「茍」=「羊の角」を象った文字と知られる。頻出の「牛」の角とは異なった地形を表していると思われる。「攴」=「枝岐れした様」を表す文字と解釈されている。
纏めると敬=羊の角のような山稜が細かく岐れている様と読み解ける。図に示したように「阿直」の端で方向を変えて山稜が岐れ、谷間を作っているように見える。羊の角は頭部から真っ直ぐに延びるのではなく、後方(斜め横)に延びる形をしている。その形を捉えた表記と思われる。見事に特徴を捉えた文字使いであろう。
少々余談になるが、通常「敬」=「うやまう」の意味を持つ。また「警」、「驚」などにも含まれる要素でもある。コアの意味は「畏まる、身を引締める」と解説されている。
これらの意味を表すために「羊の角」ではなく、「羊の毛」に注目したのではなかろうか。羊の「縮毛」の利用はかなり古くからであり、幾多の変遷を経て家畜化されている。「身を縮める」がコアとなった文字群と勝手に推測してみたが・・・。