2021年4月25日日曜日

日本根子天津御代豐國成姫天皇:元明天皇(12) 〔508〕

日本根子天津御代豐國成姫天皇:元明天皇(12)


和銅五年(西暦712年)十月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀1(直木考次郎他著)を参照。

冬十月丁酉朔。割陸奥國最上置賜二郡隷出羽國焉。癸丑。禁六位已下及官人等服用蘇芳色并賣買。丙辰。從四位上息長眞人老卒。甲子。遣新羅使等辞見。乙丑。詔曰。諸國役夫及運脚者。還郷之日。粮食乏少。無由得達。宜割郡稻別貯便地隨役夫到任令交易。又令行旅人必齎錢爲資。因息重擔之勞。亦知用錢之便。

十月一日に陸奥國の「最上・置賜」の二郡を割いて「出羽國」に属させている。十七日に六位以下及び官人が蘇芳色(黒味を帯びた赤色)の服を着用すること並びに売買することを禁じている。二十日に息長眞人老が亡くなっている。二十八日、遣新羅使等が辞見(使者などが出退時に拝謁する儀礼)している。

二十九日に以下のことを詔されている。概要は、諸國の役夫・運脚が帰郷する際に食料が乏しく、郷に到達できないことがある。そこで群稲を割いて、役夫が買えるようにせよ、また旅人には必ず銭を持たせるようにせよ、と述べている。重い荷物を担ぐことなく銭の便利さを知らしめるようにせよ、とも述べている。

<出羽國:最上郡・置賜郡>
出羽國:最上郡・置賜郡

前記で北方領土は一度や二度の征伐ではなかなか思うように統治できず、国を建てて、しっかりと防備を固める必要があると説いていた。

一瞬、越後國で郡別した出羽郡を母体した地域かと思われたが、この記事で陸奥國の近隣に設けられたことが分った。

先ずは陸奥國の「最上郡・置賜郡」の場所を求めてみよう。「最」の文字は記紀を通じて地形象形に用いられたことがないようで、あらためてこの文字を読み解いてみよう。

「最」=「冃+取」と分解される。更に幾度か登場の「取」=「耳+又」と分解され、「取」=「山稜の傍らに耳の形の地がある様」と読み解いた。「冃」=「覆い被さる様」を表す文字要素と知られる。纏めると最=山稜の傍らに耳の形の地があるところに覆い被さる様と読み解ける。「最」は古事記で登場した相津の地を表し、その上流地域を最上郡と名付けていたと推定される。

置賜郡の幾度か養生の「置」=「网+直」=「網ように真っ直ぐに並んだ山稜がある谷間」と読み解いた。初登場の「賜」=「貝+易」と分解される。「易」=「蜥蜴」を象った文字と知られ、「平らに細長く延びる様」を表している。「賜」=「谷間が平らに細長く延びる様」と解釈される。纏めると置賜=網の様に真っ直ぐに並んだ山稜がある谷間が平らに細長く延びている様と読み解ける。

図に示した場所にこの二つの郡があったと推定される。出羽國は、それらの北側、山稜の端がのように延びた地域を示すと思われる。二郡を併合したという記述と整合性のある位置関係であることが解る。前出の金上元國覓忌寸八嶋の居場所が隣接あるいは含まれる地だったと思われる。

従来より「置賜郡」の前身は陸奧國優𡺸曇郡(図中”𡺸”はフォントの都合上”耆”を用いた)と言われているようだが、全く受け入れることのできない推論であろう。置賜(オキタマ)の「易(蜥蜴)」と優𡺸曇(ウキタマ)の「老(海老)」の地形は前身ではないことを表し、更に「優𡺸曇郡」は陸奥國の主たる地域である。文字が解読されず、読みが似ているとして、その場所が不詳のままの推論では、主要場所を他國に併合することになる。

十一月辛巳。加左右弁官史生各六人。通前十六員。乙酉。從三位阿倍朝臣宿奈麻呂言。從五位上引田朝臣邇閇。正七位上引田朝臣東人。從七位上引田朝臣船人。從七位下久努朝臣御田次。少初位下長田朝臣太麻呂。无位長田朝臣多祁留等六人。實是阿部氏正宗。与宿奈麻呂無異。但縁居處更成別氏。於理斟酌良可哀矜。今宿奈麻呂特蒙天恩。已歸本姓。然此人等未霑聖澤。冀望。各止別氏。倶蒙本姓。詔許之。

十一月十六日に左右の弁官に史生六人追加し、併せて十六人としている。二十日、阿倍朝臣宿奈麻呂(少麻呂)が次のように言上している。引田朝臣邇閇(爾閇)・「引田朝臣東人」・「引田朝臣船人」・「久努朝臣御田次」・「長田朝臣太麻呂」・「長田朝臣多祁留」等の六人は、阿部氏の正宗で、「宿奈麻呂」とは異なることがなく、居所に拠って別氏となった。道理を斟酌すると真に不憫なことと思う。今、「宿奈麻呂」は天皇の特別の恩恵を受けて本姓(阿倍朝臣)に戻っており、願わくは別氏を止めて本姓に帰したく、と言上し、許されている。

<引田朝臣・久努朝臣・長田朝臣>
● 引田朝臣東人・船人

「引田朝臣邇閇」は爾閇の表記で既に登場していた。図に示した引田の地の最も北側に位置する場所と推定された。

その南側にの形の地が見出せる。現在は大きな池に突き出た山稜の端であるが、当時はおそらく川辺の場所だったのではなかろうか。船人の居場所は、些か曖昧である。

更に「爾閇」、「船人」の地に抜ける谷間が東=突き通る様を示していると思われる。東人の出自の場所と推定される。幾度も用いられている名前の一つである。

「引田朝臣祖父」(武藏守、爾閇に併記)など他にも幾人かが登場していたが、爵位からしても若手の登用、ひいては「宿奈麻呂」の派閥の拡充狙いだったのかもしれない。

● 久努朝臣御田次 久努朝臣は既に登場した久努臣麻呂の系譜であろう。場所は、阿倍朝臣に返り咲いた狛朝臣秋麻呂の西側に当たる。御田次=次々と積み重なる田を束ねる様と読み解ける。残念ながら現在の墓場の地形では、それを伺うことは叶わないが、おそらく棚田が広がっていたのではなかろうか。

● 長田朝臣太麻呂・多祁留 「阿倍」の地に「長田」はないであろう…と訝ることは全くなしである。「久努」の西側の谷間がその地形を示している。太麻呂=大きく広がって平らな積み重なった様とすれば図に示した山麓辺りが出自の場所と推定される。幾度も登場の文字列である多祁留=山稜の端が寄り集まった高台で谷間の隙間が押し広げられた様と読み解ける。「太麻呂」の南側に位置する場所と推定される。

既に復帰の願いが叶った「狛」、それに加えて「引田」、「久努」、「長田」の別氏が「阿倍」を名乗ることができたようである。離合集散の一族だった、と伝えているようである。現在は広大な墓所となっていることも、この一族の本来の”離散”の性を示しているように感じられる。

十二月辛丑。制。諸司人等衣服之作。或褾狹小。或裾大長。又衽之相過甚淺。行趨之時易開。如此之服。大成無礼。宜令所司嚴加禁止。又无位朝服。自今以後。皆著襴黄衣。襴廣一尺二寸以下。」又諸国所送調庸等物。以錢換。宜以錢五文准布一常。己酉。東西二市始置史生各二員。丁巳。有司奏。自今以後。公文錯誤。内印著了。事須改正者。少納言宜申官長。然後更奏印之。

十二月七日に以下のように制定している。概略は、諸司の衣服に関することで、褾(袖口)、裾、衽(おくび、着物の左右の前身頃に縫いつけた細長い布)の体裁が乱れていると指摘し、厳しく禁じている。加えて無位の者についても規定している。また調・庸を銭で賄う時の換金の基準を記載している。

十五日に東西の二市に初めて史生二名をそれぞれ置いている。二十三日、有司(官人)が以下のように奏上している。内印(天皇の押印)が終わってから公文に錯誤があった場合、少納言が官長(太政官の長官)に申告し、あらためて奏上して内印するべき、と述べている。

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『續日本紀』巻五巻尾。