2021年4月29日木曜日

日本根子天津御代豐國成姫天皇:元明天皇(13) 〔509〕

日本根子天津御代豐國成姫天皇:元明天皇(13)


和銅六年(西暦713年)正月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀1(直木考次郎他著)を参照。

六年春正月戊辰。備前國獻白鳩。伯耆國獻嘉瓜。左京職獻稗化爲禾一莖。丙子。從四位下行伊福部女王卒。丁亥。授正四位上巨勢朝臣麻呂。正四位下石川朝臣宮麻呂並從三位。无位門部王從四位下。无位高安王從五位下。正五位上阿倍朝臣廣庭。笠朝臣麻呂。多治比眞人三宅麻呂。藤原朝臣武智麻呂並從四位下。正六位下巨勢朝臣安麻呂。正七位上石川朝臣君子。從六位下佐伯宿祢沙弥麻呂。正七位上久米朝臣麻呂。正七位下大神朝臣興志。從七位下榎井朝臣廣國。正六位上大藏忌寸老。錦部連道麻呂。伊吉連古麻呂並從五位下。

正月四日に備前國が「白鳩」を、伯耆國が「嘉瓜」を、左京職が「稗が変化して稲になったもの」を一茎献上している。十二日に「伊福部女王」が亡くなっている。<「行」が冠位の後に付加されているが、律令制では冠位が官職より高い場合に用いられるとのこと。女王の官職?…であり、些か不明な表現となっているようである>

二十三日に巨勢朝臣麻呂石川朝臣宮麻呂に從三位、門部王に從四位下、高安王(父親?の竹田王に併記)に從五位下、阿倍朝臣廣庭(首名に併記)・笠朝臣麻呂多治比眞人三宅麻呂藤原朝臣武智麻呂に從四位下、「巨勢朝臣安麻呂」・「石川朝臣君子」・「佐伯宿祢沙弥麻呂」・久米朝臣麻呂(尾張麻呂に併記)・大神朝臣興志(兄の忍人に併記)・「榎井朝臣廣國」・「大藏忌寸老」・錦部連道麻呂伊吉連古麻呂に從五位下を授けている。

<備前國:白鳩>
備前國:白鳩

文武天皇即位二年(698年)に侏儒備前國が赤烏を献上した記事があった。「侏儒」の解釈が実に興味深いところであったが、詳細は原報を参照願って、白鳩探しに入る。

山深く山稜の地形が明確な地では、鳥を見つけるのが、極めて様になるようである。烏の南側に鳩=ふっくらと丸みを帯びた鳥が二羽並んでいる場所が見出せる。その麓の地を開拓したのであろう。

余談だが、数日前に千葉県船橋市の畑で白雉が見つかり、その写真が新聞記事に載っていた。吉兆をもたらすか?・・・とのことだが、「令和」を止めて「白雉」にでもしないと有難味がないのかも、である。

勿論、本著は下総國ではなく、香春二ノ岳と三ノ岳の間にある平坦な頂(「麻山」と推定)の麓(宍戸國)に鎮座していると解釈したが・・・こちら参照。

<伯耆國:嘉瓜>
伯耆國:嘉瓜

「伯耆國」は現在の宗像市池田を中心とした地域であったと推定した。狭い谷間が海老のように曲がって延びた(伯耆)その先に広がる丘陵の地形である。

「瓜」の地形は頻出に近いほど多く登場する地形であり、それらしきところは幾つか見出せる。やはり「嘉」の文字で伝えるところがあると思われる。

「嘉」=「壴+加」と分解される。「壴」=「鼓(ツヅミ)」を象った文字と知られる。書紀で伊豆嶋の火山爆発による鼓音の記載があった。それが表す地形は大きく湾曲した形であると解釈した。

纏めると嘉=壴+加=鼓のような湾曲した地を押し開く様と読み解ける。図に示した場所と推定される。谷間に瓜の形の地がぶら下がっていると見るのではなく、押し開くのが適切であろう。通常の意味の「嘉」の文字が上手く嵌ったわけである。が、一体如何なる瓜かと問われても答えはなし、なのである。

<左京職:稗化爲禾>
左京職:稗化爲禾

「左京職」(宮内の東側にある役所)も参加の献上物語なのだが、これは少しばかり風変わりな稲を一茎差し出したと解釈しても差し障りはないように思われるが、やはり文脈上何処かを整地したのではなかろうか。

と言うことで、平城宮の周辺を探索することになる。図に平城宮の場所及び左右京職を示した。

すると左京職の場所近隣に山稜の端が米粒のように延びている場所が見出せる。多分山麓の地で広さが不十分で少々手を加えなければならなかったのであろう。

何故「稗」を持ち出して来たのかは、「稗」の丸く扁平な形状から米粒のような細長い粒状の地形となったことを告げているように思われる。ともかくも平城宮が左右対称ではなくそれぞれ個性があったことを知らしめているように伺える。

<伊福部女王>
● 伊福部女王

この女王の出自に関しては全く情報がないようである。後に續紀中同名の人物が登場するが、年代が異なる。また書紀では伊福部連(因幡國)が宿禰姓を賜った記述があるくらいでその出自は不詳と思われる。

そんな背景で「福」の文字に着目して考察すると神社福草の名前の人物が登場していた。香春一ノ岳の東南麓の山稜が示す地形を象った表記と解釈した。

伊福部=谷間で区切られた山稜の端が酒樽のような高台となっている地の近隣と読み解ける。どうやら「池邉宮」を出自とした女王だったのではなかろうか。逝去が記載されるくらいだから天皇に親い系譜だったのであろう。

<巨勢朝臣安麻呂>
● 巨勢朝臣安麻呂

大勢の「巨勢朝臣」が登場して来たが、その多くは系譜が知られていて、居場所もある程度見定めることが可能であった。然るにこの人物、しかも安麻呂と言う最も用いられている名前なのであるが、素性が掴まらない。

安麻呂である以上谷間がきちんと見られる地形であるとして、直近でしばしば登場される巨勢朝臣邑治(祖父)辺りで求めてみよう。

すると近隣にそれらしき谷間が、些か小ぶりだが、見出せる。勿論この地に出自を持つ人物の出現はなく、空いていた地である。

どう見ても「祖父」あるいはその父親の「黑麻呂」に関わる系譜のように思われるが、確たるところは定かではない。叙位前の爵位は正六位下、それほど低くもなく、由緒ある若手だったと推測される。

<石川朝臣君子・樽・麻呂>
● 石川朝臣君子

「石川朝臣」の登場も夥しく、かつ土地が狭い故にかなり密な配置となっている。また系譜がはっきりしているのは「連子」大臣系列だけのようである。それなりの理由が憶測されるが、後日としよう。

この人物も系譜は定かではなく、少々調べてから出自の場所を探索しようかと思う。別名に吉美侯があったようで、これは重要な情報を提供してくると期待できる。

初出の「候」の文字から読み解くことにする。「侯」=「人+厂+矢」から成る文字と知られる。地形を表す文字要素からなっていることが解り、「侯」=「山麓の谷間にある矢のような様」と解釈される。

吉美侯の語順が重要で、纏めると吉美侯=山麓の谷間が広がった地が矢のような山稜で蓋をされたところと読み解ける。これで図に示した場所に特定することが可能となったと思われる。君子とは何とも洒落た表記を用いたものでろう。前出の「小老」との関りがあるようだが、不明である。

後(元正天皇紀)に石川朝臣樽・石川朝臣麻呂が登場する。樽=山稜が樽のような様と解釈すると、図に示した山稜の麓が出自の場所と思われる。「麻呂」は「萬呂」とすると、「君子」と「樽」に挟まれた場所と思われる。石川朝臣一族における系譜は知られていないようである。

<佐伯宿祢沙弥麻呂>
● 佐伯宿祢沙弥麻呂

調べると佐伯連子麻呂の孫、父親は「家主」と記載されている。佐伯の谷間の最も北側の谷間が出自の場所と推定される。「子麻呂」は『乙巳の変』で一躍脚光を浴びて歴史の表舞台に躍り出たと、書紀が語っていた人物である。

家主家=宀+豕=山稜の端が豚の口のような様であり、「子麻呂」の南側にある真っ直ぐに延びた()の山稜の端辺りが出自の場所と思われる。

沙彌=水辺で山稜の端が削られたように薄く延びて広がった様であり、図に示した谷間が少し広がった場所が沙彌麻呂の出自と推定される。

「子麻呂」の系列では「大目」の活躍が記載されていたが、その兄弟の「家主」は目立っていなかったが、その子が後に正五位下信濃守に任じられている。

<榎井朝臣廣國>
● 榎井朝臣廣國

「榎井朝臣」は元は「物部朴井連」一族であって、改名して「榎井朝臣」を賜ったと記載されていた。調べると倭麻呂の子であると知られている。すると倭麻呂の山稜の端が広がった場所を示していると思われる。

この人物の南側は「韓國連廣足」の出自の場所と推定したがこの地の山稜の端が東谷川沿いに広がっている地形に基づいた命名であろう。

後には従四位下大倭守になったと伝えられている。それなりに活躍されたようである。

<大藏忌寸老・伎國足・廣足>
● 大藏忌寸老

「大藏忌寸」の出自の場所は、前出の大藏直廣隅の近辺と推測される。更に遡れば「大藏衣縫造」の地、現地名では田川郡香春町五徳の谷間と思われる。

図に示したように「廣隅」の北側、五徳川が大きく蛇行する川辺がの場所と推定される。この後の登場も少なく、十年後の叙位で従五位上を授けられたという記事が記載されているのみである。

後(元正天皇紀)に大藏忌寸伎國足が登場する。伎國足=谷間が岐れた傍らの大地が足のように延びているところと読み解くと、図に示した「老」の北側に接する場所を表していると思われる。

更に後(聖武天皇紀)に大藏忌寸廣足が登場する。廣足=山稜が広がった足のように延びているところと読み解ける。出自は、「老」と「伎國足」に挟まれた場所と推定される。

二月甲午朔。日有蝕之。壬子。始制度量調庸義倉等類五條事。語具別格。丙辰。志摩國疫。給藥救之。

二月一日に日蝕になっている。十九日、度・量・調・庸・義倉等の類について初めて五箇条を制定しているが、詳細は別途と記している。二十三日に志摩國で疫病が発生し、医薬を給して救済している。

三月壬午。詔曰。任郡司少領以上者。性識清廉。雖堪時務。而蓄錢乏少。不滿六貫。自今以後。不得遷任。」又詔。諸國之地。江山遐阻。負擔之輩。久苦行役。具備資粮。闕納貢之恒數。減損重負。恐饉路之不少。宜各持一嚢錢。作當爐給。永省勞費。往還得便。宜國郡司等。募豪富家。置米路側。任其賣買。一年之内。賣米一百斛以上者。以名奏聞。又賣買田。以錢爲價。若以他物爲價。田并其物共爲沒官。或有糺告者。則給告人。賣及買人並科違勅罪。郡司不加検校。違十事以上。即解其任。九事以下量降考第。國司者式部監察。計違附考。或雖非用錢。而情願通商者聽之。

三月十九日に以下のことを詔されている。概略は、郡司の少領以上の者は、意識が清廉潔白で、その時の業務に堪能であっても銭の蓄えが六貫にも満たない者を今後は遷任(他職からの転任)してはならない。また次のようにも述べている。諸國は川や山に阻まれて調・庸などを運ぶ者にとっては永らく苦しめらている。持ち運ぶ物資・食料の量を減らしても貢物あるいは食料の不足が生じてしまう。一袋の銭を携帯すれば事なきを得る筈である。そのために國郡司は道端に米を置いて売買できるようにし、一年で百石以上を売った者の名前を奏上せよ、と詔している。更に続けて、田の売買についても銭を用いること、反すれば罪を科し、郡司の取締りが不十分で、度が過ぎると解任もある。國司もその勤務評定に反省するべし、と述べている。