2021年5月3日月曜日

日本根子天津御代豐國成姫天皇:元明天皇(14) 〔510〕

日本根子天津御代豐國成姫天皇:元明天皇(14)


和銅六年(西暦713年)四月の記事である。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀1(直木考次郎他著)を参照。

夏四月乙未。割丹波國加佐。與佐。丹波。竹野。熊野五郡。始置丹後國。割備前國英多。勝田。苫田。久米。大庭。眞嶋六郡。始置美作國。割日向國肝坏。贈於。大隅。姶羅四郡。始置大隅國。」大倭國疫。給藥救之。戊申。頒下新格并權衡度量於天下諸國。己酉。因諸寺田記錯誤。更爲改正。一通藏所司。一通頒諸國。乙夘。授從四位下安八萬王從四位上。正五位下大石王從四位下。從五位上益氣王正五位下。從四位上多治比眞人池守正四位下。正五位上百濟王遠寶從四位下。從五位上大伴宿祢男人正五位上。從五位下賀茂朝臣吉備麻呂正五位下。從五位下笠朝臣長目。穗積朝臣老。小野朝臣馬養。調連淡海。倉垣忌寸子首並從五位上。」讃岐國飢。賑恤之。」始制。五位以上同位階者。因年長幼。以爲列次。丁巳。制。銓衡人物。黜陟優劣。式部之任。務重他省。宜論勲績之日。無式部長官者。其事勿論焉。

四月三日に丹波國を「加佐・與佐・丹波・竹野・熊野」の五郡に割いて、「丹後國」を初めて設けている。備前國を「英多・勝田・苫田・久米・大庭・眞嶋」の六郡に割いて、初めて「美作國」を設けている。日向國を「肝坏・贈於・大隅・姶羅」の四郡に割いて、初めて「大隅國」を設けている。この日に大倭國で疫病が流行り、医薬を給して救済している。

十六日に新格並びに權衡(秤)・度(尺)・量(枡)を諸國に頒布している。十七日、諸國の寺の田地に錯誤があり、それを改正して一通を所司、一通を諸國に頒けたと記している。

二十三日に以下の者を叙位している。安八萬王に從四位上、大石王に從四位下、「益氣王」に正五位下、多治比眞人池守に正四位下、百濟王遠寶(①-)(和銅元年:708年、左衛士督に任命)に從四位下、大伴宿祢男人に正五位上、賀茂朝臣吉備麻呂(鴨朝臣吉備麻呂)に正五位下、笠朝臣長目穗積朝臣老小野朝臣馬養調連淡海(調首淡海)倉垣忌寸子首(倉垣連子人)に從五位上を授けている。

この日、讃岐國に飢饉が生じ、物を与えている。また五位以上で同じ位階の者は長幼に拠って列次とすることを初めて定めている。二十五日に以下のことを制定している。人物の優劣を調べ、優れた物を昇進させ、そうでない者は退ける式部省の任務は非常に重いものである故、長官不在では行わないようにする、と記している。

丹波國(加佐郡/與佐郡/丹波郡/竹野郡/熊野郡)・丹後國

<丹波國・丹後國>
「丹波國」は現在の行橋市稲童・長井辺りを中心とする地として来たが、その地を五郡に割ったと述べている。解り易いところから求めてみよう。

丹波郡は、そもそもの「丹波」の由来を端的に表すところ、熊野郡は隅の台地の場所と推定される。竹野郡熊野郡の西側、山稜が細く真っ直ぐに延びている地を表していると思われる。

與佐郡の「與」=「手+手+与+廾」に分解される。手と手を差し出して物が移る様を表した文字と知られる。地形象形的に表現すると與=山稜が交差するように延びている様と解釈される。その麓()の地を示していると思われる。

加佐郡の「加」の解釈は、余りに汎用過ぎて多くの解釈ができるようだが、加=積み重なった様とすると與佐郡に近接する麓の地()と推定される。

図に纏めて各郡の概ねの領域を示したが、それなりに収まっているように見える。與佐郡の地は『記紀』に登場した息長眞手王の出自の場所としたが、それを十分に意識した郡名のように感じられる。國として独立した丹後國は丹波の西側と思われる。現在の行政区分では、些か入組んでいるが、京都郡みやこ町に属する。

備前國(英多郡/勝田郡/苫田郡/久米郡/大庭郡/眞嶋郡)・美作國

<備前國・美作國>
「備前國」は現在の下関市永田郷と推定したところである。「備中國」(同市吉見)の西側に当たる。細長く延びた谷間の地なのであるが、六郡に割って更に新しく國を建てたと記載されている。先ずは解り易い郡から読み解いてみよう。

久米郡久米=山稜の端が並んでいる谷間がくの字形に曲がっている様と読み解いて来たが、その通りの地形が最北部に見出せる。眞嶋郡眞嶋=山稜が鳥の形をしているところが寄り集まった様と読み解ける。

勝田郡勝田=大地が盛り上がって平たくなった様大庭郡大庭=平らな頂の麓にある平らに広がった様と読み解ける。これらの地形を示す場所は、図に示した通り、備前國の盆地の北から南にかけて並んでいることが解る。

苫田郡の「苫」=「艸+占」と分解される。更に「占」=「卜+囗」の構成要素から成る文字と知られている。「卜」は物部朴井連に含まれた文字で「山稜が裂けたように岐れる様」と読み解いた。文字形そのものである。纏めると苫田=幾つかの山稜が裂けたように岐れた麓が平らになっている様と読み解ける。勝田郡の西側に接する場所と推定される。

英多郡の「英」を何と解釈するかであろう。「英」=「花、花房」の意味で用いられる文字である。それをそのまま地形表記としたと思われる。即ち英多=山稜の端(多)にある花房のように並んで延び出ている(英)様と読み解ける。苫田郡の南側北側、大庭郡の西側に位置する場所と推定される

美作國は、既出の文字列である美作=谷間が広がった地(美)で山稜の端がギザギザと並んでいる(作)様と読み解ける。盆地の南側の谷間を表していると思われる。この地はかなり奥まで当時は忍海状態であったと推測されるが、次第に耕地化されつつあったのではなかろうか。ギザギザの山裾が主たる居住地だったと思われる。

日向國(肝坏郡/贈於郡/大隅郡/姶羅郡)・大隅國

<日向國・大隅國>
「日向國」は現在の遠賀郡岡垣町の場所と推定した。西から湯川山~孔大寺~城山~戸田山~馬頭岳~大谷山で西南東を取り囲まれ、北が解放された地形をしている。

まるで「[炎]が燃え盛るように開いた北方に山稜が延びている地」と解釈した(竺紫日向参照)。

さて、この地を郡に分割するのだが、大隅郡の他は何とも奇妙な文字が並んでいる。兎も角も臆せず読み解いてみよう。大隅=平らな頂の二つの山稜が出会って集まっている角のところと解釈すれば、戸田山~馬頭岳~大谷山の山稜が示す地形を表していると思われる。

肝坏郡の「肝」=「月+干」=「山稜の端が二つに岐れている様」、「坏」=「土+不」=「大地が延びて広がった様」と解釈される。纏めると肝坏=延びて広がった大地の前に山稜の端が二つに岐れたようになっているところと読み解ける。大隅郡の北に接する場所の地形を表していると思われる。「肝」は、古事記の阿曇連に含まれる「曇」の地形を表していることが解る。

贈於もよく見れば、既出の文字要素を並べた表現と気付かされる。「贈」=「貝+曾」=「谷間が積み重なった様」、要するに谷間の奥に更に谷間がある地形を示していると解釈される。既出の「於」=「㫃+二」=「旗がたなびく様」と読み解いた。繋げると贈於=谷間の奥に谷間がある地から旗がたなびくように延びているところと読み解ける。肝坏郡・大隅郡の西側、古の日向國の中心の地を示していると思われる。

姶羅も同様に「姶」=「女+合」=「嫋やかに曲がってくっ付く様」であるが、「羅」には「衣(衤)」偏が付いた文字を原文は用いている(フォントがなく略字とした)。がしかし、これは重要で「衣」=「山稜の端の三角州」と読み解いて来た。纏めると姶羅=嫋やかに曲がってくっ付いた山稜の端の三角州が連なっているところと読み解ける。即ち、山稜の端にある三角州が連なっているのであって、山稜そのものが連なってはいないことを示している。紛うことなく最も北側にある郡と推定される。

そして新たに設置された大隅國は、「日向國」の東北の角に当たる場所と推定される。東南の角の「大隅郡」と同様に、「平らな頂の二つの山稜が出会う角」の地形を示している。現地名は遠賀郡遠賀町・芦屋町である。後(聖武天皇紀)に、もう一つの北西の角が記載されている。姶羅郡に属する場所に大隅隼人が住まっていたのである。

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上記から伺えることは、既存の國を各郡に分割し、同時に一部の地域を國として独立させたと読み取れる。それまでのやや曖昧な國の境界を明らかとすることで國郡司の統治の明確化を狙ったものであろう。遠く離れていたり、地形的な障害を取り除くためでもあったと推測される。

丹波國については、筑前國・筑後國、備前國・備中國・備後國の様子とは異なっている。丹前國・丹後國とはせずに丹波國のままなのである。備前國から分割して建てた美作國、本来なら備前前國になりそうだが、これはややこしいので採用しなかったのか、など元あった國を分割して単純に前後を付けた、と言う解釈では説明できそうもない状況であろう。

前記したように「筑」、「備」の地形の前後(内陸が後)で名付けた解釈した。豐前國・豐後國も「豐」の地の前後なのである。越前國・越中國・越後國も「越」の前中後である。「丹」の地形を見ると、山稜の末端域で無数に枝分かれし、至る所が「丹」の地形、即ち全体を「丹」と見做していることが解る。

即ち「丹前」は海上の存在となってしまう。あり得るのは「丹」の端(波)である。せいぜい言えそうなのが「丹中」なのだが、やはり「丹前」のない「中」は使えなかったのである。一方の「丹後國」は、素直に用いることができる。「丹」の後(内陸側)だからである。要するに分割しようが、後付けしようが、その過程を問わず配置(前中後)で示すか、もしくは地形に基づく命名なのである。

通説は分割説、例えば筑紫國を分割して筑前國・筑後國としたと解釈する。とすると「丹波國」は「丹前國・丹後國」と記載されなければならない。従って今回は分割方式ではないと解釈するのである。片割れの「丹後國」を残したのは、備前から分割した美作國のように新しく命名すれば済みそうなのだが、そもそも「丹波」の地であったから、と解釈されている。

新名である美作國も備前國の一部であり、特段の愛着がそうさせた、とでもするのであろうか?・・・。結局のところは分割説である。むしろ「丹」に拘って「丹後國」としたのではなく、「波」に拘って「前」を用いなかった、と言う論旨にすべきであろう。上記したように実際その”國を割って”と記述しているのだから、分割しているのである。語るに落ちた解釈であろう。

また「日向國」から割った「肝坏・贈於・大隅・姶羅」の「四郡」を「大隅國」にしたような解釈も散見される。四郡の中に「大隅郡」があり、それを中心とした國を「大隅國」としたとするのである。「大隅」を一つに固定した解釈である。ところが越中國の四郡を越後國に、また陸奥國の二郡を新設の出羽國に(隷)属させたのとは異なり、原文には四郡を新しく建てた「大隅國」に(隷)属させたとは記述されていない。全くの誤読である。尚、續紀巻三十九の延暦七年(788年)七月に「大隅國贈於郡」の文字列が記載されている。七十五年後のことについては後日としよう。

上記で記載された各國の郡の所在は不詳であり、結局各國の詳細は明らかではないようである。一見意味不明のような文字が並ぶ郡名、故に場所も不明としているようである。何故その文字を用いたのか?…何を伝えようとしたのか?…探ろうともせず、放置である。

本著は、この續紀が記載する「日向國」の「四郡」の名称から、現在の「福岡県遠賀郡岡垣町」が「日向國」であったと確信する。古事記の伊邪那美命の禊祓から誕生した日向國に散らばった神々を思い出せる記述である(こちら参照)。

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<益氣王>
● 益氣王

上記の叙位の記述では、殆ど登場人物は既出であったが、相変わらずなのだが王の出自は詳細不明のようである。この王ついては全く情報は得られず、續紀中の登場もこの記事のみである。

敢えて求めると、「益」の文字を頼りにして、新益京の近隣としてみると、「氣」の地形が傍にくっ付いていることが解った。

更に居所を特定することは難しいのだが、図に示した谷間辺りを候補として挙げてみた。今後、何らかの関連が生じて来ることを祈って、これ以上の探索は止めることにする。