2021年5月7日金曜日

日本根子天津御代豐國成姫天皇:元明天皇(15) 〔511〕

日本根子天津御代豐國成姫天皇:元明天皇(15)


和銅六年(西暦713年)五月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀1(直木考次郎他著)を参照。

五月甲子。制。畿内七道諸國郡郷名着好字。其郡内所生。銀銅彩色草木禽獸魚虫等物。具録色目。及土地沃塉。山川原野名号所由。又古老相傳舊聞異事。載于史籍亦宜言上。己巳。制。夫郡司大少領。以終身爲限。非遷代之任。而不善國司。情有愛憎。以非爲是。強云致仕。奪理解却。自今以後。不得更然。若齒及縱心。氣力尫弱。筋骨衰耗。神識迷乱。又久沈重病。起居不漸。漸發狂言。無益時務。如此之類。披訴心素。歸田養命。於理合聽。宜具得手書陳牒所司。待報處分。撰擇替補。癸酉。相摸。常陸。上野。武藏。下野。五國輸調。元來是布也。自今以後。絁布並進。又令大倭參河並獻雲母。伊勢水銀。相摸石硫黄。白樊石。黄樊石。近江慈石。美濃青樊石。飛騨。若狹並樊石。信濃石硫黄。上野金青。陸奥白石英。雲母。石硫黄。出雲黄樊石。讃岐白樊石。甲戌。讃岐守正五位下大伴宿祢道足等言。部下寒川郡人物部乱等廿六人。庚午以來。並貫良人。但庚寅校籍之時。誤渉飼丁之色。自加覆察。就令自理。支證的然。已得明雪。自厥以來。未附籍貫。故皇子命宮検括飼丁之使。誤認乱等爲飼丁焉。於理斟酌何足憑據。請從良色。許之。丁亥。始令山背國點乳牛戸五十戸。

五月二日に以下の様に制定している。畿内七道の諸國の郡郷名には好い漢字を着けるようにすること。郡内で産出する銀・銅・彩色(染料/顔料)・草木・鳥・獸・魚・虫等については一つ一つを記録し、土地は肥沃か()瘦せているか、山・川・原・野の名称の由来や古老の伝承などを史籍に掲載して報告すること、としている。

七日に以下の様に制定している。その概略は、郡司は終身制だが不善國司は感情的に解任したり、あるいは辞任にさせたりしている。年齢が縱心(七十歳)に達して気力が亡くなったり病身となり実務が行えないような時は、その実情を詳らかにし、所管の判断を仰いだ上で後任を選ぶようにすること、と記している。

十一日に相摸・常陸・上野・武藏・下野の五國の輸(納める)調は元来麻布だったが、今後は麻布と共に(絁)絹布を納めるようにさせている。また、大倭國・參河國は雲母、伊勢國は水銀、相摸國は石硫黄・白樊石・黄樊石、近江國は慈石、美濃國は青樊石、飛騨國・若狹國は樊石、信濃國は石硫黄、上野國は金青、陸奥國は白石英・雲母・石硫黄、出雲國は黄樊石、讃岐國は白樊石を輸調させている。

十二日、讃岐守の大伴宿祢道足等が以下のことを言上している。部下の「寒川郡」の人の「物部乱」等二十六人は庚午(天智九年:670年の戸籍)以来良人だったが庚寅(持統四年:690年の戸籍)では飼丁(馬を扱う人夫)となっている。調べさせると明らかに良人なのだが、未だに戸籍は改定されておらず、故に皇子命宮(諸説があるが、参考資料では高市皇子としている)の使者は乱等を誤って飼丁としてしまった。道理に基づいて斟酌すれば良人とするべき、と述べ、許可されている。二十五日に山背國に初めて乳牛を飼う戸、五十戸を定めさせている。

讚岐國寒川郡・物部亂
讃岐國寒川郡

「讃岐國」は現在の北九州市若松区小石辺りと推定した。既にその地の山田郡(讚吉國)那賀郡の二郡が登場している。決して広い國ではなく、寒川郡二郡に挟まれた場所と思われる。さて、それが「寒川」の地形を表しているのであろうか・・・。

「さむい」と感じる感覚を表すのに用いた漢字である。それをある情景を示す文字要素を組合わせて作られていると解説されている。分解すると「寒」=「宀+茻+人+冫」となり、これらの地形を表す要素を再構成して解釈することになる。

「茻」=「草が群がっている様」であり、地形としては「山稜が積み重なって平らに広がった様」と訳す。纏めると寒川=積み重なって平らになった山稜()で二つに割れた(冫)谷間(人)に川が流れているところと解釈される。現地名の北九州市小石本町辺りと推定される。現在、「茻」は広い高原の団地に開発されているようである。

● 物部亂 「乱」は旧字体で解釈する。即ち「亂」=「𤔔+乙」と分解した時に現れる「𤔔」=「糸巻に糸を収める様」を表すと知られる。些か難解な文字であるが、「乱」では全く繋がらない。「乙」=「糸がはみ出ている様」であり、通常意味が発現される。図に示したようにその場所は亂=丸く小高いところから延び出ている様と読み解ける。

少々難解な「寒」、「亂」の文字解釈であったが、いつものように文字要素に分解し、それを再構成しながら地形に還元することで読み解けることが解る。おっと、物部は、谷間の奥が「物」の地形であり、その近隣(麓)と解釈できるであろう。良人と主張したのは、やはり邇藝速日命の後裔と自負していたからであろうか?・・・。

六月庚戌。從七位上家原河内。正八位上家原大直。大初位上首名三人並賜連姓。辛亥。右京人支半于刀。河内國志紀郡人刀母離余叡色奈。並染作暈繝色而獻之。以勞各授從八位下。并賜絁十疋。絲卌絢。布卌端。塩十篭。穀一百斛。癸丑。始置大膳職史生四員。乙夘。行幸甕原離宮。戊午。還宮。

六月十八日に「家原河内・家原大直・首名」の三名が連姓を賜っている。前記で登場した多治比眞人嶋の妻、家原音那の出自に関わる一族と思われる(三名は音那に併記)。十九日、右京の人の「支半于刀」と河内國志紀郡の人の「刀母離余叡色奈」が暈繝色(同じ色を濃から淡へ、淡から濃へと層をなすように繰り返す彩色法、単なる暈し手法ではない)の染色物を作って、それぞれ献上している。從八位下を授け、絹布・麻布・塩・穀物を与えている。

二十一日に大膳職に初めて史生四名を配置している。二十三日に「甕原離宮」に行幸され、二十六日に戻られている。

<右京人:支半于刀
● 右京人:支半于刀

全く趣の異なる名前であろう。間違いなく帰化した人物であって、”倭風”に改名したのだが、ちょっと不慣れな感じを醸しているようである。

がしかし、より端的にその人物の居場所を表現しているのではなかろうか。これこそ、一文字一文字を地形要素に還元してみる。

右京人は平城京の西側に住まっていた人物を示すと思われる。図に示したように平城京を通る中心線に対して「左京」と対照的な位置にあることになる。

「支」=「岐れた様」であるが、「枝」としないのは「山稜」というほどの大きさではないことを示すのであろう。「半」は「伴」=「人+半」=「谷間で山稜が二つに分けられた様」に含まれている文字であるが、「谷間」が付かなくて単に「岐られた様」を表している。

図に示した通りこの「支」は小高い丘陵が互い違いに並んだいて、それを縫うように現在も道が走っている様子が伺える。それを「半」で表現したと解釈される。纏めると支半=細かく岐れた丘陵が二つに分けられた様と読み解ける。

「于」=「山稜が延びた様」であり、これも「宇」=「宀+于」=「谷間で山稜が延びている様」の「谷間」が省略された地形となるが、全体としては谷間ではあるが、直接的に取り囲まれてはいない地形を示している。文字要素をそのまま用いているのである。「刀」=「刀の形」とすると、于刀=(丘陵が)延びた先に刀の形の地がある様と読み解ける。

実に直截的な表記であることが解る。そして極めて特徴的な山(丘)稜の地形を簡明な文字で表現しているのである。この人物の記載から平城宮の場所に関する確度が一気に高まったようにも感じられる。大安寺(古の熊凝精舎)の直近であり、仏画などの制作に暈繝色を用いたのではなかろうか。

<河内國志紀郡・刀母離余叡色奈>
河内國志紀郡

「河内國志紀郡」は古事記の倭建命の白鳥御陵が造られた河内國之志幾を示していると思われる。頻出の志=蛇行する川紀=糸+己=山稜が曲がりうねっている様とすると鳥の胴体・羽の様子を表していると思われる。

● 刀母離余叡色奈 上記と同じく、いやそれ以上にとても”倭風”とは思えない名前であるが、同様にして読み解いてみよう。全く古事記の神々を紐解く気分である。

「刀」=「刀の形」、「母」=「両腕で抱える様」、「離」=「离+隹」=「くっ付いて並ぶ様」とすると刀母離=刀の形と両腕で抱える形の地がくっ付いて並んでいる様と読み解ける。

既出の文字である「余」=「谷間の山稜の端が延びた様」、「叡」=「奥深い谷間」、「色」=「丸く小高い様」、「奈」=「木+示」=「山稜の麓にある高台」とすると余叡色奈=谷間の山稜の端が延びた地の傍らの奥深い谷間にある丸く小高いところの麓の高台と読み解ける。

図に示した場所の地形要素を漏れなく並べ挙げた名前であることが解る。白鳥御陵の南側の地形を示している。暈繝色を施された宝物は正倉院にも収納されているそうで、現実にあったものであることは確かであろう。爵位を授けるくらいだから、かなりの感動を与えたようである。中国伝来であるが、多くの例があるように日本独自の発展をしたとのことである(こちら参照)。

<甕原(御鹿原)離宮>
甕原離宮

少し調べると後の恭仁京(詳細は後日)となる現在の京都府相樂郡加茂町にあった離宮と記載されている。勿論このまますんなりの場所ではない。即ち山背國賀茂の近隣と解釈される。

図に示したように山稜に挟まれた地形を「甕」と見做したと思われる。犀川(現今川)が大きく深い淵を形成している場所であり、正に”甕”に水を灌ぐような景色であろう。

調べると「甕原」は、御鹿原と別称されていたことが分かった。ずっと後(光仁天皇紀)に出現する文字列である。「甕(ミカ)」の訓を合わせて、御鹿=鹿の頭部のような山稜を束ねているところの地形を表現していることが解る。「甕原」の場所は、間違いなくこの地を表していると思われる。

離宮の場所は定かではないが、おそらく現在の瑞龍寺辺りだったのではなかろうか。余談ぽくなるが、鴨(賀茂、加茂)の地名は上記に加え、大倭國葛上郡鴨(賀茂)、山背國相樂郡賀茂里が『記紀・續紀』に登場している。現状はこれらの地名が交錯しているような感じである。

秋七月丙寅。詔曰。授以勲級。本據有功。若不優異。何以勸獎。今討隼賊將軍并士卒等戰陣有功者一千二百八十餘人。並宜隨勞授勲焉。丁夘。大倭國宇太郡波坂郷人大初位上村君東人得銅鐸於長岡野地而獻之。高三尺。口徑一尺。其制異常。音協律呂。勅所司藏之。戊辰。美濃信濃二國之堺。徑道險隘。往還艱難。仍通吉蘇路。

七月五日に以下のことを詔されている。概略は、勲位を授けるのは功があるからで、待遇を手厚くしなければ何をもって彼らを励ますことができようか、と述べ、隼賊を討伐の將軍並びに士卒等の有功者一千二百八十余人に功労に応じて勲位を授けらている。

六日に大倭國宇太郡の「波坂郷」の「村君東人」が「銅鐸」を「長岡野」で取得し、献上している。高さが三尺(約90cm)、口の径が一尺(約30cm)で、その造りは異様であった。鳴らすとその音は律呂(音階)の中にある。所司(雅楽寮?)にこれを収蔵させている。

「銅鐸」の文字が文献上初めて記載されている。形が異様で上記の大きさとするとほぼ間違いなく、現在知られている物であろう。「鐸」と名付けたのは、中国で知られる打楽器(鐸)に似ているからと言われるが、吊るして用いるのは「鍾」であり、形が異様としていることからも、打音の記載があるが、おそらく打楽器として明確に記述したのではなかろう。地名、人名について場所を求めた後に考察してみる。

七日に美濃・信濃の二國の堺は道が険しく狭いことから往還が難儀していた。そこで「吉蘇路」を通じさせることができたと記している。

大倭國宇太郡:波坂郷・長岡野

<大倭國宇太郡:波坂郷・長岡野・村君東人
「大倭國宇太郡」は前出の八咫烏社を設けた記述で登場していた。古事記の神倭伊波禮毘古命(神武天皇)が八咫烏に導かれて熊野の山中から命からがら抜け出た場所である。

「波」=「端」と簡略に読むこともできるが、「波」=「氵+皮」=「水辺に覆い被さるような様」と解釈する。「坂」=「土+厂+又」=「山麓で手のような山稜が延びている様」と解釈する。

すると、波坂郷=山麓で手のような山稜が水辺に覆い被さるように延びている郷と読み解ける。図に示した今來大槻と八咫烏社の高台に挟まれた場所と推定される。

長岡野はそれこそ八咫烏社が鎮座している高台を示していると思われる。そこで「銅鐸」を発見したと記載している。後世に発見される大量に”不法投棄”されたような山影の場所ではなく見晴らしの良い地形である。

● 村君東人 発見者の名前の頻出の村=木+寸(一+又)=山稜が二股に岐れた(物を測るように開いた)様であり、上記の「坂」に通じる表記である。多くの人名に用いられる東人=谷間を突き通す様と解釈すると一筋の川が流れる様子が確認できる。「長岡野」の北麓に住まっていた人物であることが解る。

<長岡野:銅鐸>
長岡野:銅鐸

銅鐸の見つかった長岡野、即ち現在の八田山稲荷神社がある高台(標高約65m)の地形を眺めてみると、西~北~東方向を山稜にぐるりと取り囲まれている。

峰の形を覚えれば方位が容易に判る場所である。そして南面は大きな谷間の開口部であり、太陽の光を遮るものは皆無である。何らかの方法で北の方位を示す峰の形状が定まれば、残りの三方位も極めて確度高く、再現良く方位を求められる場所と解る。

既に別途述べたように、銅鐸は季節を知る道具であったとする推論に繋がる発見だったと思われる(こちら参照)。暦の普及に伴って無用の長物と化した銅鐸であり、續紀編者の時代でさえその機能はすっかり忘れ去られていたのであろう。

言うまでもなく、太陽の「南中高度」を求めれば時間が分り、そして季節を知ることができる。その高度の変化を追えば連続的な季節の移り変わりも予測することが可能となる。大量投棄された遺物になってしまえば、それが用いられた場所と言う重要な情報が埋没されていた、と思われる。

長岡野銅鐸は、好天の日に平らな礎石の上に”舌”を用いて垂直に設置され、上部の”鰭”を定められた峰(東)に合せ、南北に直交させることができる。おそらく鏡面に仕上げられた上面に映る太陽を”鰭”に設けられた穴を通して見える角度で高度を測ったのではなかろうか。

<吉蘇路>
吉蘇路

文武天皇即位六年、大寶二年(702年)十二月の記事に岐蘇山道を始めて通じたと記載されていた。不破郡と多伎郡の間の谷間、美濃國の中心地であって、途中礪杵郡を経由する山道と推定した。

今度は吉蘇(キソ)路と記されている。同じ読みだから同じ道、ではなかろう。文字が示す地形を通じる道と思われる。

蘇=艸+魚+禾=魚の形の山稜と稲穂のような山稜が並んで延びている様は同じとして、吉=蓋+囗=蓋をするような様と読み解いて来た。すると現在の北九州市小倉南区にある昭和池に半島のように延びる山稜、古事記で喪山と記載された山稜が「蘇」に覆い被さるように延びている様子が伺える。

図で示すと喪山の西側が岐蘇山道であり、東側を通じているのが吉蘇路となる。その後は現在の地図に記載された山道を辿れば峰の間の峠に達したと推測される。勿論、国譲りされた後の木曽路とは全く無関係だったことになる。