銅鐸と古墳
<青磁器の鐸> |
日本の銅鐸は、中国大陸を起源とする鈴が朝鮮半島から伝わり独自に発展したというのが定説だが、発掘調査を担当した南京博物院考古研究所の張所長は、鐸が中国南部の越から日本に直接伝わった可能性があると指摘している。・・・とも記されている。
要するに「銅鐸」の原型を止める姿をしたものは現在のところ見出されていないのである。後に詳細を述べるが、日本の「銅鐸」とは似て非なるものと思われる。
近畿地方を中心に多くの出土例がある「銅鐸」ではあるが、それが如何に使われていたのかは、不詳の域にある。古代史を不詳と言いながら、好き勝手な推論が横行している有様を象徴する遺物である。
<大山古墳> |
がしかし残念ながらその素性は相変わらず不詳である。勿論本ブログは大雀命の陵、毛受之耳原陵は現在の行橋市にあると比定した。百舌鳥も古市も「国譲り」の結果である。
いずれにせよ「前方後円墳」と名付けられた巨大な古墳の出自は全く不明であり、通説は「ヤマト政権」の象徴として、九州から関東地方に拡がるこの古墳をその実権の目安として解釈して来ているのである。
魑魅魍魎の中で作り上げられた通説に準拠して、繰返し堂々巡りの論考を述べているに過ぎないのが現状であろう。
日本の時代区分である旧石器時代→縄文時代→弥生時代→古墳時代→飛鳥時代・・・における、弥生時代から古墳時代に深く関わるのが「銅鐸」と「古墳」である。そしてこれらは共にある時期を境にして、かつ急激な造作の終焉を迎える。日本の古代は、真に持って魑魅魍魎の世界なのである。
<突線紐5式銅鐸> |
銅鐸
Wikipediaの内容を簡単に述べると、「見た目が鐸(持ち手付きの鐘)に見えるので楽器のように思うが、現在のところ用途は未だ定かではない」と記載されている。
しかしどう見ても「持ち手付きの鐘」とは思われない。果たして胴体の上部が持ち手なのであろうか?(上図青磁器の鐸参照)…罷り間違っても持ち易い構造ではない。
「銅鐸はその形状ゆえ、初期の小型の物は鈕の内側に紐などを通して吊るし、舞上面に開けられた穴から木や石、鹿角製の「舌(ぜつ)」を垂らして胴体部分か、あるいは「舌」そのものを揺らし、内部で胴体部分の内面突帯と接触させる事で鳴らされたと考えられる(西洋の鐘と同じ)。
また、「擦れ」と考えられる痕跡や、「舌」が当たった為にできたと思われる損傷があることも鐘のように使われたと推測されている。しかしながら梵鐘のような、胴体部の外面を叩くことでできたと考えられる痕跡のあるものは出土例がないようである。
更に「舌」については、2015年6月に淡路島で発見され、2016年1月には「舌」とそれを吊るすためと思われる「紐」の存在が確認されて、銅鐸は吊りさげて使用されていたと推測されるようになった、と記載されている。
推定されている年代は、紀元前2世紀から2世紀の約400年間にわたって製作、使用されたようであるが、1世紀末頃から急に大型化し(IV式:突線紐式)、近畿式と三遠式の二種があると言われている。近畿式は大和・河内・摂津で生産され、三遠式は濃尾平野で生産されたものであろうと推定されている。近畿式は、東は遠江、西は四国東半、北は山陰地方に、三遠式は、東は信濃・遠江、西は濃尾平野を一応の限界としている。それぞれの銅鐸は2世紀代に盛んに創られ、2世紀末葉になると近畿式のみとなる。さらに大型化するが、3世紀になると突然造られなくなる」と記載されている。
出土数からすると殆ど無視されそうな九州地方については、1980年佐賀県鳥栖市安永田遺跡で鋳型、また1998年に吉野ヶ里遺跡で「銅鐸」そのものが発掘された。即ち九州にも銅鐸文化が存在したことを示したのである。現在は教科書からも消滅したとのことであるが、かつての「銅鐸文化圏と銅矛文化圏」が実しやかに語られていたように、相変わらず混迷の歴史を現在も継続している。
混迷すると百家争鳴の状態になる。詳細は上記のWikipediaを参照願うが、祭儀もしくは祭祀用の道具とされているようである。地震を鎮める為に、と言う面白げなものもある。3世紀に突然造られなくなったことについては、祭儀など信仰の変化あるいは政治的な社会変動?などが挙げられているが、外敵の侵出による変化が原因であると古田武彦氏が述べたと記載されている。
『鐸』?
ここで改めて「銅鐸」と名付けられたのは何故かと問うてみようかと思う。この名前は近代になって付けられたものではなく、『扶桑略記』の668年の記述、あるいは『続日本紀』の713年の記述に見出せるとのことである。造られた時代ではないが、後世の思惑などが存在しない時の名称と思われる。と言うことは、姿が似ている「鐘」もしくは「鈴」とは言わずに「鐸」と名付けたのには意味があったと推測される。
先ず「鐘」、「鈴」の文字を紐解いてみよう。「鐘」=「金+童」と分解される。「金」は金属でできたものを表すとして「童」は何を意味するのか?…「童」=「重+辛(刃物)+目」と分解される。更に「重」=「東+人+土」と分解され、「人が足で地面をトントンと突く様(東=両端を括った袋に辛抱を通した様→突き通す)」と解説されている。すると「童」=「目を突き通して見えなくする→道理が解らない」となる。これが「童(わらべ)」の意味に展開するのである。
纏めると「鐘」=「中が突き抜ける、筒抜けになる様」を表した文字と解釈される。「鐘」の形をそのままに表現した文字であることが解る。「鈴」=「金+令」と分解される。「令」=「順序よく並ぶ」であり、更に「触覚(冷たい)、聴覚(澄んだ)」へと展開し、これが鈴の音色に基づく文字となる。「童」は構造である形状を、「令」は機能である音色を抽出して文字化したものと知られている。
確かに一見では「鐸」は「鐘」の構造に類似することは明らかである。だが、「鐘」とは名付けなかった、のである。それでは「鐸」は如何に紐解けるであろうか?・・・同様にして「鐸」=「金+睪」と分解する。「睪」=「罒(目)+幸(手枷(手錠))」と分解され、「睪」=「点々と連なる様、間を置いて点々と並ぶ、点々と分かれる」と解釈されている。「駅(驛)」=「点々とつながる宿場、その宿場を乗り継ぐ馬という意匠」を持った文字である。
<銅鐸の鰭> |
「銅鐸」は、「鐘」(構造)でも「鈴」(音色)でもなく、その紐及び鰭に刻まれた紋様から名付けられたものと読み解ける。そしてこの紋様の機能が意味するところを利用していたと解る。
これに関連するサイトを検索すると数年前であるが、Youtubeで熱く語ってられる方がおられた。エイリアンが登場したりするのであるが、「銅鐸」の紐部の紋様が示す意味を丁寧に解釈されている。「舌」の棒と組み合わせて用いれば、正に時を知る道具としての機能を有していたと思われる。
「舌」は「銅鐸」の内部で吊るされて、それが精密に水平に設置されていることを確かめるために用いられたと考えられる。胴部に開けられた穴は、「舌」の位置を確認するための覗き穴だったのではなかろうか。必要な治具ではあるが不可欠ではなく、代替するものがある以上、常に一対で用いられてはいなかったと推測される。
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「鐸」の文字が使われた中国の機具に「木鐸」が知られている。大辞林によると…舌(振子)を木で作った金属製の鈴。昔中国で法令などを人民に触れて歩くときにならしたもの。金口木舌…と解説されている。 これをそのまま読み取れば「舌」で「銅鐸」を叩いて鳴らす使い方のように受け取られ、冒頭で述べたような解釈となる。
がしかし、やはり音を鳴らすだけのためならば「鈴」が適当であり、やはり「鐸」の文字を当てたのには意味があることが解る。即ち「法令を触れる」ための道具であった。上記で「鐸」=「金+睪」と分解したように鐸=目を光らせて手枷をするという原義に基づいていると解釈される。「銅鐸」の名称は日本で名付けられたと思われるが、漢字を用いることの未熟さが現在まで続く混迷を生じているのかもしれない。
他に「馬鐸」と呼ばれるものが知られている。大辞林によると…馬具の一。扁平な筒形の内部に舌(ぜつ)を下げた青銅器。胸繫(むながい)などにつけ、馬の歩みで鳴る。中国の殷代から見られ、朝鮮・日本に伝わる。馬鈴…と解説されている。中国では「馬鈴」と呼ばれたものが「馬鐸」に変わった由来は不詳だが、紐部に紋様はなく、全く異なっているようである。古墳時代の後期と推定されている例はこちら。また馬形埴輪などが知られている。「銅鐸」の薄い鈕では、とても使用に耐えなかったであろう。「鐸」の文字が使われたのは、馬の首に複数の鈴を付けた様を表したのかもしれない。
このような背景を知ると、「銅鐸」の命名もさることながら、そのもの自体が日本固有であったことを伺わせているように思われる。中国、朝鮮に出自を求めるのではなく、渡来した人々が創案し、作り出した道具と結論付けられる。殴打及び馬の疾走に耐えうる強度優先の「鐘」やら「鈴」が醸し出す音色に解を求めては、現在でも復元不可能なくらいの肉薄の鈕及び身(胴部)を持つ「銅鐸」の真の姿は見えて来ない、であろう。
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紀元前2世紀の段階で日本に住まう原・日本人(縄文人としておく)に製銅の技術はなく、中国からの移住人がもたらしたものであることは容易に推測される。それに該当する中国人は居たのであろうか?・・・漠としているようで以外にそれらしき民族が浮かんで来るようである。
とあるサイトで以下のように記述されている…、
現在、中国の西南部に住んでいるナシ族、イ族、リス族、ハニ族などの民族の祖先は、かつて中国の西北部で遊牧生活を営んでいた羌(きょう)人と呼ばれる人々であるとされています。紀元前4世紀頃、羌人は秦の圧迫を逃れて南下してゆきますが、その一部が南下する途中の地に定着し、これらの民族の祖先となったと言われます。ただし、ナシ族の文化には羌人のような遊牧民的な要素の他に、農耕民的な要素も色濃く見られるため、南下してきた遊牧民と土着の農耕民の融合という側面も重要視されています。
…現在のナシ(納西)族は中国雲南省の西北部から四川省西南部にかけて住んでいる人々で、トンパ(東巴)文字という特異な象形文字を有している(2003年、世界記録遺産に登録)。勿論今では宗教的な場合などにのみ使われているようである。
<秦帝国領域(紀元前210年)> |
即ち未だ秦の支配が脆弱であった時期に黄河及び北方の山岳ルートを経て現在の北京・天津市辺りに抜け渤海沿岸に達したと推測される。
勿論その地にも次第に秦の支配が及ぶ故に黄海・東シナ海沿岸及び朝鮮半島内陸部を経て日本列島に辿り着いた一族があったと思われる(末図<銅鐸族と倭族>参照)。
彼らは牧農民族であり、牧畜と同時に麦・粟・黍などの畑作を行っていたことが知られているが、いわゆるシルクロードによって当時の先端の技術も併せ持っていたことも事実であろう。
また移動の途中で同様に秦の圧迫を受けた他民族との交流・合流から彼らにとって未経験の海洋への移動も可能となったと推測される。中国大陸内も間違いなく西高東低の文明開化の時代であり、東夷であって決して西夷ではない。
日本列島への侵入ルートは九州~山陰~北陸の日本海沿岸であり、そこから内陸側に拡散していったと思われる。製銅の技術を有する彼らにとって原・日本人が住まう地への侵出は極めて容易であったと思われる。そして最新の科学機器「銅鐸」によって瞬く間に受け入れられて行ったのではなかろうか。時を知ることが如何に重要なことであったかは想像するに難くないものであろう。
「銅鐸」には銘がなく、文字を使用していなかったことが知られている。上記のナシ族のような象形文字を使用していたとするならば、「銅鐸」の胴部に刻まれた絵にそれが示されているのかもしれない。言わばもっと原始的な表現手法に留まっていたのであろう。
とは言うもののルーツである羌族の地(拡散した地も)に「銅鐸」の痕跡が残っていないのは、果たして未発掘として片付けて良いものか不詳である(上記のエイリアンの登場の理由かもしれないが…)。目下のところは、移動の途中で知り得た「時の知識」を日本に辿り着いて彼らのオリジナルな機器とした、と解釈しておこう。
『暦』
では何故突然に消滅することになるのか?・・・新規の侵入者には暦という文字を用いた「時を知る道具」を有していたのである。とりわけ季節を知る上において「銅鐸」は無用の長物と化して行ったのであろう。時を知るという魔法が一挙に瓦解した時を迎えたと思われる。更にその新規の侵入者はもっと強力なものを有していたのであろう。
古墳
古墳、とりわけ「前方後円墳」については多くの書物・文献が開示されているようである。その中で白井久美子氏が纏めた文献を参考にした。丘長60m以上の大型前方後円墳については、3世紀前葉から7世紀中葉までを前期(3C前~4C中)・中期(4C後~5C末)・後期(6C初~末)に分け、更に終末期(7C初~中)として整理されるのが通例のようである。
<期別の大型前方後円墳2012年> |
白井氏の論考は、ヤマト王権の象徴である「前方後円墳」が日本列島に拡散して行く有様を如実に物語る事実であると記述されている。事実に基づいて帰納的に論理を抽出する方法に於いて、日本の歴史学は全く無能と言わざるを得ない有様である。
図中の「中枢」=「近畿地方」を表し、古墳の築造が途絶えた後もヤマト王権が存続し続けた場所である。王権が存続する、いや益々その権力を増大させて行く中で、その象徴が地方に拡散すると中枢では激減して行くとは如何なる解釈になるのであろうか・・・。
更に纏められたデータが追加される。
<ヤマト王権中枢域の大型前方後方墳と東国の前期主要古墳> |
<列島の後期大型前方後円墳> |
白井氏の論考の冒頭に「前方後円墳は、日本独特の王陵の形態である。それはまた、ヤマト王権の象徴でもあり、前方後円墳が日本各地の豪族の墓として採用されていく過程は、王権の勢力拡大の軌跡を最も端的に表している」(太字:加筆)と記載されている。上図は過程・軌跡であろうか?…初歩的な言葉の意味を理解されているのであろうか?・・・。
過程・軌跡は連続的な事象を表現する言葉である。上図二つは、大きく分けて九州、近畿及び関東地域に非連続的に発生した有様を示す図と解釈するのが妥当であろう。百歩譲って、三つの地域に特異的に発生したとする論考も述べるべきではなかろうか…ヤマト王権唯一絶対では混迷に陥るだけである。
上図の<列島の後期大型前方後円墳>を見る限り、前方後円墳の施主の主たる拠点が九州から近畿に、そして関東へと非連続的に移動したことを如実に示す結果と思われる。九州の内部を見れば、その西北地域(佐賀県辺り)から東~南地域(福岡~宮崎県辺り)への移動が伺える。また東北地域(福岡県東部)が極めて少ないことは、重要な意味を表しているようである(天神族の地域)。
<百舌鳥古墳群> |
図は、最近世界遺産に登録された百舌鳥古墳群の一部を示したものである。仁徳天皇陵とされている大山(仙)古墳、履中天皇陵とされている石津ヶ丘古墳がある。
また大山古墳のもう少し北方に反正天皇陵とされている田出井山古墳があり、これら三つの古墳を「百舌鳥耳原三陵」と呼ばれている。
上記した『古事記』の大雀命の毛受之耳原陵に含まれる「耳」が示す意味は、全く無視である。他の二人の天皇陵には「耳」は付かないが、纏めて三陵としてしまっている。相変わらずの無節操な「国譲り」である。
それはともかく、これらの古墳の地形は大阪と和歌山の境にある和泉山脈の北麓に拡がる広大な丘陵地帯、その先端部分に該当する場所である。三陵の西側は、当時は限りなく海に近く、標高20m前後の凹凸のある地形をしていたと推測される。
<毛受・毛受野>
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図に示した三陵は山稜の先端部に位置し、当時の行橋市を覆う入江に面する場所である。即ち墓所は、水田稲作に不都合な海水が入り混じるところに立地したのではなかろうか。
灌漑用の池となったのは、後世に海岸線が大きく後退して水田稲作が広がり、そのための利水を確保するために隍(空堀:整地するために掘った溝)を活用したと思われる。
図<毛受・毛受野>は川に挟まれた中州の状態であり、また丘陵に水田稲作を施すには狭い地形であるが、図<百舌鳥古墳群>の地そのものを水田化できる広さを持ち、川から遠く溜池の必要性はかなり大きいものであったと推測される。いずれにしても現在の古墳の姿になるのは3~4世紀以降、後代になってからと思われる。
<纏向古墳群> |
大帶日子淤斯呂和氣命(景行天皇)陵とされる渋谷向山古墳、また卑弥呼の冢と噂される箸塚古墳などである。
これらの古墳は谷間の出口辺りにあり、当時としては最も水田としての利用価値の高い場所に築造されている。
当然山稜の先端の小高いところを生かして前方後円墳として、築造当時から灌漑用の溜池としての利用が意図されていたのではなかろうか。
この二例共に周濠となっていない。墓所を取り囲む濠としてではないことが伺える。必要な溜池が確保されることが優先した形のように思われる。勿論後代になっての造作も加わっているかもしれない。いずれにしても水田稲作には溜池は不可欠のものであって、それ故に『古事記』の天皇の事績に池が多く登場するのである。
目下のところ「前方後円墳」と後世に名付けられた特異な構造の由来は明らかでないようである。渡来人達は、上記の「銅鐸」を含めて自分たちのアイデンティティを示すために創造することを目指したのであろうか、真意は闇の中である。
銅鐸と古墳の狭間
さて、いよいよ歴史の時代区分の意味を読み解く時が来たようである。縄文時代から弥生時代への転換は既に多くの論説があるように中国大陸から直接、あるいは朝鮮半島を経由して日本列島に移り住んで来たことに由来するのであろう。それは決して民族の大移動のような形ではなく、勿論ある程度の集団ではあったろうが、三々五々の様相と推察される。
弥生時代の始りはいつか?…歴博は五百年も一気に遡らせた経緯もある。それは一気に民族の置き換わりが発生したのではなく、時間経過と共に緩やかな速度で起こった事象に基づくのであろう。だが、その変化は突然大きな変化を伴うことになる。それが製銅(採掘・精錬・加工)技術を有する人々の到来に由来する。製銅技術と「時を知る」人々が多数を占める時代がやって来たのである。
彼らは牧農に「時」を付加して、多くの稔りをもたらすことを示した。瞬く間に生産性が上がり、その勢いは「銅鐸」の大量生産・大型化(精度の向上)へと数百年の年月をかけて進展することになった。外敵の脅威から解き放たれてオリジナルな道具を創出したのである。連続的な変化に続くカタストロフ的な、量質転化の様相を示していると思われる。
地域的拡大は、所謂日本アルプスの西側までとなる。遊牧の民に立ち塞がるのは高い山並であろう。本来の海洋民族ではなかったことを示している。それが三遠式と呼ばれる形式に止まった所以であろう。とは言え縄文人・早期の弥生人を吸収しながら豊かに繁栄した社会に突然新しい波が訪れる。
また九州では北部に出土の例があるが南部では未だ例がないようである。九州山地及び霧島火山帯によって分断された地形である。本州と同様にこの山地に阻まれた分布と思われる。「銅鐸族」は海洋民族ではなかったのである。宮崎県に銅鐸が無い理由を述べられているサイトを参考までに。
上記したように「銅鐸」をもたらした人々は、中国黄河流域における秦の興隆、それを避けるかのごとくに南へ東へと移動し、日本列島に辿り着いた。漢民族は黄河流域に止まることなく長江の南側へにもその勢力を拡大膨張させたのである(漢の圧迫)。そしてまた、その地の人々が南へ東へと大移動することになる。
鳥越憲三郎氏の「倭族」が類稀な水田耕作技術と暦(文字も併せて)をもって日本列島に脱出する。勿論些かの異動はあるとしても「銅鐸」の侵入と同じようなルートを辿ったものと推察される。「倭族」が保有する技術は圧倒的であった。牧農の民がいくら逆らおうとも全く歯が立たない有様と思われる。勿論棲み分けが可能な状況であったであろうが、主導権を手放さざるを得ない運命であった。
彼らは敵対と融和の両面を繰り返しながら古墳時代が幕開けることになる。少々興味深く読ませて貰ったのが、臼田篤伸氏の書物であり、「銅鐸民族」を提唱され、古墳時代には征服されて奴隷とされたと言う論旨である(『銅鐸民族の謎』彩流社2004年、『銅鐸民族の悲劇』同左2011年)。
氏は「銅鐸」を同一民族の証として使われたと述べている。また「銅鐸民族」のルーツを長江上流で紀元前2千年頃までに栄えた古蜀文明の一つ三星堆文化(現在の四川省徳陽市広漢市)に求めている。それはそれとして、一部で古墳の築造労力に当てられたように思われるが、彼らは結果的に融和して行ったと思われる。
「銅鐸」の緻密な製造技術は、決して凡庸な民族にできることではなく、彼らの能力の水田稲作への適用が促進されたのではなかろうか。銅製の治具・武器にしてもその技術は十分に生かされたと思われる。「銅鐸民族」(本ブログでは銅鐸族と表記する)はその地を離れることなく、水田稲作・畑作・牧畜の不可欠な生産現場に汗を流したと推察される。
それにしても渡来した「倭族」は伸び伸びと、思うがままに己が技術を発展させたのであろう。先住人を従えて十分な労働力を活用して、巨大な古墳を築造して行ったと思われる。だがしかし、決して無謀なことではなく自然の地形を利用し、水田稲作に欠かせない溜池とした。治水を大義名分とする労働は、強制ではなく人々の共同体的労働を生み出したであろう。
『古事記』に「遲」(「治水」と解釈)が付く地名・人名が多数登場する。現在にまで繋がる水田稲作を主たる営みとする民族にとって不可欠な作業であり、当時のその労働への負荷の大きさを思えば想像を遥かに越えたイベントだったと思われる。
建設会社のサイトに大山古墳を一から作るとどれくらいの労力が必要かの試算が載せられている。一つの試算として良いのだが、自然の地形を利用した場合の試算も必要であろう。これではヤマト政権の強大さを示すために利用されてしまうのではなかろうか。尻すぼみとなってしまう古墳築造、ヤマト政権の衰退を示すことになってしまうのでは?・・・。
古墳の終焉
上記したように九州地域に一早く侵出した「倭族」は水田稲作で日本列島を席捲することになった。この「倭族」を倭族Ⅰと名付けてみよう。彼らは古墳を作り、灌漑用の設備を整えることを主眼にしていた。「銅鐸」をもたらした人々と同じく山陰・北陸経由で近畿・濃尾へも些かタイムラグはあるが、蔓延して行ったと思われる。
勿論後に吉備と言われる地域、四国の瀬戸内海沿岸地域にも辿り着いたと推定される。倭族Ⅰは水田稲作・暦・製銅の知識を有していたが、「鉄」の知識を持ち合わせていなかったようである。ここに倭族Ⅱの登場が発生するのである。鉄の伝播はアイアンロードとして知られている。現在のトルコ地域で見出された鉄はスキタイ族、中国北方の遊牧民族によって拡散したと伝えられている。
勿論シルクロードも十分に寄与するわけであるが、アイアンロードにより遊牧民間の伝播は凄まじいものがあったであろう。それは朝鮮半島北部そして南部へと広がって行ったと推測される。倭族Ⅱはそれなりの鉄に関する知識を有していたと思われるが、朝鮮半島を経由した彼らは、採鉱・製鉄を自らの手で行えるようになっていたのではなかろうか。
『古事記』は鉄のこと語らない。唯一天金山之鐵として登場させるのみであるが(鍛人天津麻羅の表記もある)、製鉄を行っていたことを匂わせる記述を読取ることができる(神武天皇紀、仁徳天皇紀)。また倭建命の段で登場する「比比羅木之八尋矛」は朝鮮半島島南部、新羅などの地が主要な鉄器の産地であったことを伝えている。
更に倭族Ⅱの一族…倭奴族(Ⅱa)と名付けた…に関して、『魏志倭人伝』中の鬼國・一大率は鉄の存在を伺わせる名称と読み取った。そして『古事記』の主役として倭族Ⅱの一族である天神族(Ⅱb)が九州東北部から近畿へと大移動を行ったものと推察される。『隋書俀國伝』、『旧・新唐書東夷伝』から読み解いた唐の圧力を避けた東進(西暦670年~)であったと思われる(こちらを参照)。
先住倭人の逃避
何故古墳築造の後期に関東に多くの古墳が見られるのか?・・・中枢に居た倭族Ⅰが黒潮に乗って脱出したのである。倭族Ⅰと倭族Ⅱb(天神族)は全ての面に於いて競合する関係にある。一部を受け入れたとしても全てと融和するわけにはいかなかったであろう。これが上図<後期の大型前方後円墳>の非連続的な古墳分布の由来である。決してヤマト政権の象徴が拡散して行く過程・軌跡ではない。
言い換えれば千葉県における前方後円墳の異常な程の数が示す事件が発生したと理解すべきであろう。茨城県、群馬県の三県の前方後円墳をヤマト政権の前進基地的解釈に結び付けるという無謀さを感じる。七世紀後半に始まる「天神族」の東進によって現在の日本国が作られていったと言えるであろう。
世界に類を見ない巨大な墳墓を築造した倭族Ⅰは、余りにも恵まれた環境の中で西方の技術革新を取り込むことを怠った。おそらく「鐵」の存在を知らないわけではなかったと思われるが、目先の豊かさに溺れてしまった。現在に繋がる日本の得意なガラパゴス化を生じてしまったのではなかろうか。鎖国可能な地形なのである。
奈良大和で名実共に日本国の覇権を握った「天神族」の後裔が関東を含めて支配して行ったことは事実である。それと共に逃げ切ることができなかった関東脱出組は歴史の表舞台から引き下がることになった、あるいは抹消された、と思われる。上記を模式的に図として示した。
<銅鐸族と倭族> |
銅鐸及び古墳に着目した人々の流れは、上記の図に示されるように思われるが、倭族Ⅰの出自をもう少し述べてみることにする。図中ではその分布を東日本から西日本に至る地に幅広く分布した図としたが、これも一様な分布ではないように思われる。
①中国における殷・周から春秋・戦国の時代を経て秦が統一、更に引き続いて漢が勃興して中原による中国全土の支配体制へと移行する。概ね1,000年間中原の支配が東夷の地域まで浸透するのである。中原の圧力(迫)に対して取巻く地域内が結束するかと思いきや、真逆であってむしろ潰し合いが発生する。後の朝鮮半島内の出来事に通じる現象である。
②とりわけ江南の地の呉・越の葛藤は凄まじかったようで、国の滅亡さえ起こり得るような有様であったと知られている。勿論このように仕向けたのも中原だったのかもしれないが、結果的に「倭族」の移動を促したのであろう。言い換えるとこのような強大な力が合わさって初めて民族規模の移動が発生するとも考えられる。
③上図の倭族Ⅰを更に細分してみると(朝鮮半島南部から九州へ移住した倭族Ⅱを除いて)…、
・朝鮮半島に移住した一族(Ⅰa)
・中国本土から直接九州北西部、有明海沿岸部へ移住した一族(Ⅰb)
・同じく九州東南部(もしくは有明海沿岸を経て)、日向灘沿岸部へ移住した一族(Ⅰb’)
・同じく山陰へ移動し、更に瀬戸内海及び近畿(大阪湾岸・大和盆地)へ移住した一族(Ⅰc)
・同じく北陸へ移動し、更に琵琶湖周辺及び東海(伊勢湾岸)へ移住した一族(Ⅰd)
…などが推測される。有明海沿岸部に移住したⅠbは、幾度も敵対的な行動を取る。あたかも江南の呉越の状況をそのまま引き継いだかのような有様だったのかもしれない。日向灘沿岸部へ移住したⅠb’は『魏志倭人伝』に登場する裸國黑歯國に関連するのではなかろうか。
<倭族> |
呉(ご、拼音:wú、紀元前585年頃-紀元前473年)は、中国の春秋時代に存在した君国の一つ。現在の蘇州周辺を支配した。君主の姓は姫。元の国号は句呉(こうご、くご)。 勾呉の表記もなされる。
中国の周王朝の祖、古公亶父の長子の太伯(泰伯)が、次弟の虞仲(呉仲・仲雍)と千余家の人々と共に建てた国である。
虞仲の子孫である寿夢が国名を「句呉」から「呉」に改めた。 紀元前12世紀から紀元前473年夫差王まで続き、越王の勾践により滅ぼされた。 国姓は姫(き)。
…中原から江南に移住して建国したと記され、それらの文化が入り混じった国であったと知られる。紀氏として知られる一族の出自は「姫」に由来すると言われているようである。西から東へと、その後も幾度も繰り返される東アジアの歴史を表しているように思われる。ともあれ最後発の「天神族」(倭族Ⅱb)が日本列島を席捲することになったのである。
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以上のような推論を試みた。今後更に論拠を確かにして行こうかと思う・・・。また倭族Ⅱbが畿内に侵出する際に重要な役割を果たしたと思われる「阿曇族」についても今後調査してみようかと・・・彼らが残した足跡は古代の人々の流れを反映しているに違いない、と推測されるのだが・・・。