倭建命

<景行天皇                          成務天皇>

倭建命


古事記に幾多の英雄が現れるが、何と言っても小碓命、後の倭建命が最右翼であろう。景行天皇から西に行け、東に行けと命ぜられる前に大碓命との絡みがあるので、それから述べてみよう。

古事記原文[武田祐吉訳](以下同様)…、

天皇詔小碓命「何汝兄於朝夕之大御食不參出來、專汝泥疑教覺。泥疑二字以音、下效此。」如此詔以後、至于五日、猶不參出。爾天皇問賜小碓命「何汝兄久不參出。若有未誨乎。」答白「既爲泥疑也。」又詔「如何泥疑之。」答白「朝署入廁之時、待捕、搤批而、引闕其枝、裹薦投棄。」[天皇がヲウスの命に仰せられるには「お前の兄はどうして朝夕の御食事に出て來ないのだ。お前が引き受けて教え申せ」と仰せられました。かように仰せられて五日たってもやはり出て來ませんでした。
そこで、天皇がヲウスの命にお尋ねになるには「どうしてお前の兄が永い間出て來ないのだ。もしやまだ教えないのか」とお尋ねになったので、お答えしていうには「もう教えました」と申しました。また「どのように教えたのか」と仰せられましたので、お答えして「朝早く厠かわやにおはいりになった時に、待っていてつかまえてつかみひしいで、手足を折って薦こもにつつんで投げすてました」と申しました]

天皇が娶ろうとした比賣を横取して、挙句に代わりの比賣を差し出したという大碓命、食事会などに出られる筈もなく、といった感じなのであるが、事件が起きる。「泥疑教覺」=「懇(ネンゴ)ろに教えさとす」と訳される。武田氏は簡単に「お教え申せ」で訳しているところである。

調べてみると、これは種々解釈がなされていて、「泥疑=懇ろ」を小碓命が誤解したというのが最もらしいものであろうか。懇ろにしては少々やり過ぎなのだが、それが小碓命らしい…というところである。いずれにしろ、西、東へと過酷な注文をつけることになる前書きである。

何回かこの前書きを読んでいると、小碓命が兄を庇う発言のような気がするのである。大碓命は逃げて一命を取り留めたかも?…勿論后の許、三野国辺り、ひょっとすると尾張国まで。身内の謀反は抹殺だから、そうしないと天皇の顔が立たない、小碓命を勇猛な武将に仕立て上げるには都合の良い話、とこんな妄想をしてみたが…如何かな?・・・垂仁天皇の「沙本の謀反」と言い、裏話を伺わせるのであるが・・・。
 
1. 西方の熊曾・出雲
 
熊曾建
 
さて、いよいよ先ずは西に向かっての遠征が始まる…、

於是天皇、惶其御子之建荒之情而詔之「西方有熊曾建二人。是不伏无禮人等。故、取其人等。」而遣。當此之時、其御髮、結額也。爾小碓命、給其姨倭比賣命之御衣御裳、以劒納于御懷而幸行。故、到于熊曾建之家、見者、於其家邊軍圍三重、作室以居。於是、言動爲御室樂、設備食物。故遊行其傍、待其樂日。[そこで天皇は、その御子の亂暴な心を恐れて仰せられるには「西の方にクマソタケル二人がある。これが服從しない無禮の人たちだ。だからその人たちを殺せ」と仰せられました。この時に、その御髮を額で結っておいでになりました。そこでヲウスの命は、叔母樣のヤマト姫の命のお衣裳をいただき、劒を懷にいれておいでになりました。そこでクマソタケルの家に行って御覽になりますと、その家のあたりに、軍隊が三重に圍んで守り、室を作って居ました。そこで新築の祝をしようと言い騷いで、食物を準備しました。依ってその近所を歩いて宴會をする日を待っておいでになりました]

ともかくも兄の大碓命は歴史の表舞台からは姿を消す。幼い子供が大胆に行動する記述は後にも登場するが、小碓命は倭比賣命の衣装と懐剣を持ち立派な女性に変装し、潜入できたわけである。そこで例によって宴会たけなわになったところでブスリ、である。熊曾の建兄弟を謀殺して「建」という名前を貰い、倭建命が誕生する。

粗筋はそんなところなのであるが、古事記の記述は真に丁寧に説明がなされる。というわけで一つ一つ紐解いてみよう。熊曾建は何処に居たのか?…

…<中略>…爾其熊曾建白「信、然也。於西方、除吾二人無建強人。然於大倭國、益吾二人而、建男者坐祁理。是以、吾獻御名。自今以後、應稱倭建御子。」是事白訖、卽如熟苽振折而殺也。故、自其時稱御名、謂倭建命。然而還上之時、山神・河神・及穴戸神、皆言向和而參上。[そこでそのクマソタケルが、「ほんとうにそうでございましよう。西の方に我々二人を除いては武勇の人間はありません。しかるに大和の國には我々にまさった強い方がおいでになったのです。それではお名前を獻上致しましよう。今からはヤマトタケルの御子と申されるがよい」と申しました。かように申し終って、熟した瓜を裂くように裂き殺しておしまいになりました。その時からお名前をヤマトタケルの命と申し上げるのです。そうして還っておいでになった時に、山の神・河の神、また海峽の神を皆平定して都にお上りになりました]

既に記述したように筑紫嶋之面四の「建日別=北方に向く」から「熊曾国」の概略の位置は出雲国に隣接し、筑紫嶋の北方にあったとした。より詳細には「阿多」の北側で隣接する国と特定した。現在の企救半島の北部に位置していたのである。上記に含まれる重要なヒントは「山神・河神・及穴戸神、皆言向和而參上」である。
 
<筑紫嶋>
山あり、河あり、そして宍戸ありの地、それが熊曾国と述べている。古事記全般を通じて「宍戸」の登場はここ一ヶ所である。現在の関門海峡、関門トンネルが通じるところ以外にはない。「穴門」との混同もないのである。

「熊曾」の文字解釈をあらためて行ってみよう。初見では「熊曾国」=「奥まって隠れた、険しい場所」と文字解釈して折り重なるような山並みの国と紐解いた。

国の全体の様相からみれば外れていないものであろう。しかしながら古事記における「熊」の意味の一貫性を思い起こせば…、
 
熊=隈=隅=角

であろう。
 
熊曾=熊()|(積重なる)

…「隅が積重なったところ(山)」と読み解ける。国の角に際立った山がある地形を持つ国と理解することができる。これだけの情報を重ね合わせれば、熊曾国の位置は下図に示すところと推定される。「宍戸」に接する北西の隅に古城山及び筆立山がある。一方南東には八窪山山塊があり、これらの山の間が熊曾国の中心地であったと思われる。

<熊曾国>
現在の北九州市門司区東門司、畑田町、清見辺りである。中でも清見の地名は現在でも広く分布しており、最も中心となっていたところではなかろうか。

小碓命が忍び込んだ「熊曾建之家」は八窪山南麓を流れる川沿いにあったのではなかろうか。

現在のサヤ峠、清見小夜町に通じ、企救半島東側に抜ける道筋に当たるところである。

「家」=「宀(山麓)+豕」と分解される。「豕」=「口の突き出した様」を象った文字と言われる。

地形象形的には、山稜の端が突き出ているところと解釈すると、図中に示した場所が見出せる。

些か微妙な地形かと思われるが、絶好の配置のように思われる(地図拡大)。「家」の解釈は神八井耳命が祖となった筑紫三家連に類する。


山、谷そしてそこを流れる川、高天原も倭も、なんとも類似した長谷の地形を示すところを都とした。古事記が描く原風景であろうか・・・。

熊曾に向かう行程は記述されない。当然のことであろう。彼らにとって熊曾国は遠く離れた地にあるのではなく、出雲(肥国)、阿多に隣接するところ、彼らにはその近隣で育った祖先の血が流れている。熊曾育ちはいないが、祖先の近くにある国という認識であったろう。だが、熊曾は天皇家に服従することはなかったのである。
 
出雲建

卽入坐出雲國、欲殺其出雲建而到、卽結友。故竊以赤檮、作詐刀爲御佩、共沐肥河。爾倭建命、自河先上、取佩出雲建之解置横刀而、詔「爲易刀。」故後、出雲建自河上而、佩倭建命之詐刀。於是、倭建命誂云「伊奢、合刀。」爾各拔其刀之時、出雲建不得拔詐刀。卽倭建命、拔其刀而打殺出雲建。[そこで出雲の國におはいりになって、そのイヅモタケルを撃うとうとお思いになって、おいでになって、交りをお結びになりました。まずひそかに赤檮(いちいのき)で刀の形を作ってこれをお佩びになり、イヅモタケルとともに肥の河に水浴をなさいました。そこでヤマトタケルの命が河からまずお上りになって、イヅモタケルが解いておいた大刀をお佩きになって、「大刀を換かえよう」と仰せられました。そこで後からイヅモタケルが河から上って、ヤマトタケルの命の大刀を佩きました。ここでヤマトタケルの命が、「さあ大刀を合わせよう」と挑いどまれましたので、おのおの大刀を拔く時に、イヅモタケルは大刀を拔き得ず、ヤマトタケルの命は大刀を拔いてイヅモタケルを打ち殺されました]

さて、目的を果たした倭建命は次に出雲国に向かう…須佐之男命が退治した八岐大蛇(肥河)も記述されている。間違いなく淡海に面した出雲国である…「卽入坐出雲國、欲殺其出雲建而到、卽結友」と記述される。ここに含まれる「卽」の文字解釈が真に微妙な状況にある。従来の解釈を少し調べてみると大体以下のようである。

   訳さない。訳に「卽」の意味が含まれない。武田氏訳は「そこで」。
   初めの「卽」=「すなわち」次の「卽」=「たちまち」と使い分ける。

通説の熊曾国と出雲国の場所に従うと全く難解な記述となってしまうのである。この段落にもう一つ「卽」が見える。「卽倭建命、拔其刀而打殺出雲建」である。これも訳さないか、「すなわち」とされる。三つも連続して「卽」を使う目的がある。

如何に簡単に倭建命が連続して目的を達成したかを告げている。熊曾国と出雲国は隣り合った国であり、東方十二道と同じく道行しながら「言向和」した結果なのである。出雲に記述があって辻褄が合わないと、その地の伝承の挿入で片付ける、それでは何も伝わって来ない。

全ての「卽」=「たちまち」である。熊曾国から出雲国に行くのも、出雲建と友になるのも、出雲建を謀殺するのも、全て「たちまち」で行ったと記述している。隣接する出雲国に「たちまち」で行くことができると、当然のこととして述べている。
 
<熊曾建と出雲建>
本著は古事記解釈をその根本から見直すことを提議している。その根拠の重要な箇所であろう。

書き初めによく使った「1,300年間」の闇から抜け出すこと、それから日本の歴史が始まるのである。

そして世界に例を見ない「史書:古事記」の価値を見直すことに繋がり、世界に誇れる「史書」となるのではなかろうか。

日本書紀の編集者達にとっては極めて問題の記述であった。当然の帰結として、倭建命とは無縁の説話として扱う以外にこの矛盾を解消できないと判断したのである。

修・正史日本書紀は日本物語若しくは大和草子と読み替えることができる。とりわけ後者は筆者のお気に入りの言葉である。

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原文「故竊以赤檮、作詐刀爲御佩、共沐肥河」に含まれる「赤檮」を武田氏は「いちいのき」(一位樫)と訳されている。神倭伊波禮毘古命の段で登場した「白檮」の訳を思い浮かべると、簡単に「赤樫」とはし辛い、のであろう。「檮」=「樫」はあり得ないからである。

「赤」=「大+火」と分解される。「燃え立つ炎」を浴びて「赤く」染まった人の様を表す文字と解説される。「赤檮」は…、
 
燃え立つ[炎]のように延びた枝がある切り株

…と読み解ける。切り株から生え出た適当な枝を用いて「詐刀」を作った、と告げているのである。大木の一位樫の枝からではなく、地面近くにある切り株の枝、真に現実的な作業である。やはり「檮」≠「樫」であった。

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本段最後に歌が挿入される…、


夜都米佐須 伊豆毛多祁流賀 波祁流多知 都豆良佐波麻岐 佐味那志爾阿波禮[雲の叢がり立つ出雲のタケルが腰にした大刀は、 蔓を澤山卷いて刀の身が無くて、きのどくだ]

もうお手上げの状態であろう。「夜都米佐須(ヤツメサス)伊豆毛」は出雲の枕詞とか…次の歌、須佐之男命が詠った…「夜久毛多都(ヤクモタツ)伊豆毛」である。古事記をトンデモ本にするしか道はない、といった有様なのである。

夜久毛多都 伊豆毛夜幣賀岐 都麻碁微爾 夜幣賀岐都久流 曾能夜幣賀岐袁[雲の叢がり起つ出雲の國の宮殿。 妻と住むために宮殿をつくるのだ。 その宮殿よ]

「夜都米」は拙いが「夜久毛」なら何とか…何故八雲?…「大斗」の柄杓の地形だからである。闇雲に置換えては反って墓穴を掘ることになる。では、「夜都米」とは?…「夜都米佐須(ヤツメサス)」=「八つ布(メ)さす」=「大きな昆布が生える」である。

「淡海」に特徴的な大きくて歯ごたえのある昆布の産地となると知られている。現在の門司は和布刈り神事が残る場所である。類似の「淡海」の環境にある鳴門ワカメもよく知られている。古事記の示す「出雲国」は「淡海」に面していると詠う。島根に淡海を探し出すのは至難であろう。
 
2. 東方十二道

西から東へ、いくら天皇の命とは言え過酷な旅路に就くことになる。ここも古事記は丁寧な記述であるが、突然飛び出す文字の解釈にはしっかりと考察を加える必要がある、と思われる。

爾天皇、亦頻詔倭建命「言向和平東方十二道之荒夫琉神・及摩都樓波奴人等。」而、副吉備臣等之祖・名御鉏友耳建日子而遣之時、給比比羅木之八尋矛。比比羅三字以音。故受命罷行之時、參入伊勢大御神宮、拜神朝廷、卽白其姨倭比賣命者「天皇既所以思吾死乎、何擊遣西方之惡人等而返參上來之間、未經幾時、不賜軍衆、今更平遣東方十二道之惡人等。因此思惟、猶所思看吾既死焉。」患泣罷時、倭比賣命賜草那藝劒那藝二字以音、亦賜御囊而詔「若有急事、解茲囊口。」[ここに天皇は、また續いてヤマトタケルの命に、「東の方の諸國の惡い神や從わない人たちを平定せよ」と仰せになって、吉備の臣等の祖先のミスキトモミミタケ彦という人を副えてお遣わしになった時に、柊の長い矛を賜わりました。依つて御命令を受けておいでになった時に、伊勢の神宮に參拜して、其處に奉仕しておいでになった叔母樣のヤマト姫の命に申されるには、「父上はわたくしを死ねと思っていらっしやるのでしようか、どうして西の方の從わない人たちを征伐にお遣わしになって、還ってまいりましてまだ間も無いのに、軍卒も下さらないで、更に東方諸國の惡い人たちを征伐するためにお遣わしになるのでしよう。こういうことによって思えば、やはりわたくしを早く死ねと思っておいでになるのです」と申して、心憂く思って泣いてお出ましになる時に、ヤマト姫の命が、草薙の劒をお授けになり、また嚢をお授けになって、「もし急の事があったなら、この嚢の口をおあけなさい」と仰せられました]

天皇が倭建命に与えたものは随行者の「御鉏友耳建日子」と「比比羅木之八尋矛」のみで「不賜軍衆」という有様であった。この意味は後程考察するとして、この二つの文字を紐解いてみよう。
 
吉備臣之祖:御鉏友耳建日子

「鉏友」の解釈は以下のようかと思われる。一連の「耳」が付く名前については神倭伊波禮毘古命の御子、神八井耳命、神沼河耳命などで紐解いた。「鉏友」は、大倭日子鉏友命(懿徳天皇)に含まれていた。
 
鉏(積み重なった地が三角に尖っている)|友(山稜が揃って並んでいる)
 
<吉備臣之祖:御鉏友耳建日子>
…「三角に尖った山稜が揃って並んでいるところ」と紐解ける。
地図に示したように山口県下関市吉見上の谷間の奥に、その地形を見出せる。「耳」はその「鉏」の先にある「耳」の形をしたところであろう。「御鉏友耳」は…、
 
[鉏友]を[耳]の形をした地が束ねているようなところ

…と紐解ける。

「建(タケル)」と読めば、武将のイメージで通るようであるが、「建」=「廴+聿」と分解すると、「[筆]の地形」を表すと読める。

「日子」=「日(炎)の地から生え出たところ」とすると…「建日子」は…、
 
建([筆]の地形)|日子([炎]の地から生え出たところ)

…「[筆]の形の山稜が[炎]のように生え出ているところ」と解釈できる。実に地形のオンパレードの状況だが、上図に示した場所を表していると思われる。「鉏」と「鉄」との関連を暗示し、その在所を示す幾重にも掛けられた文字使いであろう。更に「建日」を付け、筑紫嶋北方(建日別)に居たことも含ませているのであろう。

大倭日子鉏友命(懿徳天皇)の軽之境岡宮を紐解いた時に類似する。「鉏友」の解釈はこの二例で随分と確かなものとなった。場所を一に特定できる数少ない記述である。吉備國絡みの娶りが多くあり、それに伴って誕生する御子の名前で国の詳細地名が明かされる。古代の「吉備國」の重要性を表していると思われる。

第六代大倭帶日子國押人命(孝安天皇)の御子に大吉備諸進命、また第七代大倭根子日子賦斗邇命(孝霊天皇)の御子の大吉備津日子命が「吉備上道臣」及び若日子建吉備津日子命が「吉備下道臣」の祖となったと記されている(詳細はこちら)。
 
比比羅木之八尋矛

「比比羅木」が初めて古事記に登場するのは、大国主命の娶りに関係する記述「・・・多比理岐志麻流美神。此神名以音。此神、娶比比羅木之其花麻豆美神木上三字、花下三字、以音之女・活玉前玉比賣神、生子、美呂浪神。美呂二字以音・・・」である。

出雲から「天」に渡り、彷徨った挙句に「比比羅木」=「新羅」に系譜が飛んで行き、そしてまた「天」に舞い戻ったと記載される。「比比羅木」とは…、
 
比比(至るところ)|羅(連なる)|木(山稜)

…「至るところ連なる(網の目のように並べられた)山稜」の国を示すと解釈した。「比比」=「至るところ、どこでも」(白水社中国語辞典)とある。現在の朝鮮半島南部の山稜の様相を象った表記と思われる(比比羅木之其花麻豆美神参照)。

「比比羅木之八尋矛」は本家本元の「新羅国」で作られた銘刀、いや、銘矛であった。思い出されるのが天之日矛の説話である。新羅国から来た王子、倭人を祖に持つ比賣を追ってやって来たのだが、すんなり受け入れてもらえなかった。多遅麻国に向かい、八つの宝物を持ち込んで、その後にその地に居つき、神功皇后が生まれるという筋書きである。

全て繋がった話であろうし、また、意識的に繋げているようでもある。「比比羅木」という俗称を記述することで新羅の状況、というか新羅国の有様を述べている。要するに武闘国家であり、決して穏健な国ではないこと、それをあからさまに語らない、という記述である。

<伊須受能宮・外宮>
武田氏訳も含め通説は概ね「柊」とする。「木」の地形象形が読めない以上、木の名称とするしかないのであろう。

天皇はすごい矛を授けたという訳である。飾りじゃない。伊勢の倭比賣を伺い、苦しい胸の内を告げて、草那藝劒と嚢を授かり、旅に向かったと記述される。
 
ここまでのルートは纏向日代宮から現在の金辺峠を越えて母原辺りを通過して伊勢に至り、尾(小)津から尾張に向かう。

往路のルートでは示されないが、帰りで詳細に語られるところである。伊勢大御神宮周辺の地名は既に紐解いた(図中の「伊須受能宮」=「伊勢大御神宮」)。

下図に登場する地名を示した。復路で伊勢大御神が登場しないので、若干異なるルートと思われるが、尾張に向かう道筋は同じであろう。
 
<伊勢~尾張>
既にきめ細かく地名が登場している。紫川西岸の地は、既出又はこの説話で登場する。

故に人々が佇む地であり、通行可能な場所であることが判る。無駄なことは一切記述しない古事記である。

勿論紫川を下って伊勢の宮に向かうルートも考えらえるが、古事記の記述のみでは詳らかではない。

地図の小倉南区北方にある陸上自衛隊小倉駐屯地辺りが尾(小)津、そこから東に向かって尾張に届く。

現在の標高から推定して、山(丘)稜に見えるところ以外はほとんどが海面下の状態であろう。

山稜の端の高低差が少なくなった海辺を辿る道筋であったと思われる。参考資料に古代の遠賀川水系の海面を示したが、紫川についても検討されることを期待したいところである。

それにしても、確か后同伴の旅なのであるが、尾張の比賣にお声を掛けるとは、何とも大らかな、今とは異なる時代だった、ようである。還りのルートは上図<伊須受能宮・外宮>の外宮西側を通ったと思われる。いずれにしてもこの地は既に開かれたところであったのだろう。凱旋帰国とはならなかったのであるが・・・。
 
2-1. 尾張國

故、到尾張國、入坐尾張國造之祖・美夜受比賣之家。乃雖思將婚、亦思還上之時將婚、期定而幸于東國、悉言向和平山河荒神及不伏人等。[かくて尾張の國においでになって、尾張の國の造の祖先のミヤズ姫の家へおはいりになりました。そこで結婚なされようとお思いになりましたけれども、また還って來た時にしようとお思いになって、約束をなさって東の國においでになって、山や河の亂暴な神たちまたは從わない人たちを悉く平定遊ばされました]

故爾到相武國之時、其國造詐白「於此野中有大沼。住是沼中之神、甚道速振神也。」於是、看行其神、入坐其野。爾其國造、火著其野。故知見欺而、解開其姨倭比賣命之所給囊口而見者、火打有其裏。於是、先以其御刀苅撥草、以其火打而打出火、著向火而燒退、還出、皆切滅其國造等、卽著火燒。故、於今謂燒津也。[ここに相摸の國においで遊ばされた時に、その國の造が詐って言いますには、「この野の中に大きな沼があります。その沼の中に住んでいる神はひどく亂暴な神です」と申しました。依つてその神を御覽になりに、その野においでになりましたら、國の造が野に火をつけました。そこで欺かれたとお知りになって、叔母樣のヤマト姫の命のお授けになった嚢の口を解いてあけて御覽になりましたところ、その中に火打がありました。そこでまず御刀をもって草を苅り撥い、その火打をもって火を打ち出して、こちらからも火をつけて燒き退けて還っておいでになる時に、その國の造どもを皆切り滅し、火をつけてお燒きなさいました。そこで今でも燒津といっております]
 
<尾張から相武へ>
「相武国」は建比良鳥命が国造となったと既に記述されていたところ无邪志國の近隣と思われる。

この国も倭建命の東方遠征による比定が決め手になっている。この国の特徴「沼」である。

現在も多くの沼があり、地名自体も「沼」というところが見出せる。現在の北九州市小倉南区沼である(地名表示は細分されているが…)。

新しい地域に出向いたのではなく、東方十二道は既に祖先が切り開いたところ、時の変化で「言向和」不十分となった。

建比良鳥命からその時の国造までの経緯は不詳だが、何かの理由で謀反を企てたのであろうか。欺くのは得意、欺かれることは全くなしの倭建命であった。

何と袋の中に火打石とは…倭比賣、なかなかの切れ者、というところか・・・火には、火を、である。この地は入江が大きく入り込んだ場所であり、当時の海岸線は今よりかなり陸地側に後退したものであったろう。背後の山(高蔵山)の麓にあった国と推定される。
 
<美夜受比賣之家>
美夜受比賣之家


上図は今までに紐解いた地名を加えて美夜受比賣之家から相武国の焼津に至るルートを推定したものである。

尾張国造が居たところは貫山山塊から流れる長野川上流の谷間にあったと思われる。

地図で青く表示されているところは概ね標高10m以下で、当時はその大半が海面下にあったと推測される。

尾張国の中心の地は長野川上流の谷間にあったと推測される。この地が東方十二道を行き来する上で重要な拠点であったと知ることができる。美夜受」は…、
 
美(谷間が広がる)|夜(谷)|受(窪んだ地に山稜が寄り集まる)
 
…「谷間が広がる谷に山稜が寄り集まったところ」と紐解ける。谷と谷とに挟まれ、その間に居た比賣と推定される。「受」=「爪+舟+又」=「窪んだところに二つの山稜が寄り集まっている様」は「宇受賣命」、「毛受」などに複数出現する文字である。全て同意で解釈される。現地名は北九州市小倉南区長野である。

「尾張國造」の祖と記載される。「造」が示す「牛」(図中の古文字)の地形の場所であることを表している。「尾張の地の二俣に分かれた谷間」の地を切り開いた元祖であった、と伝えている。「家」と付加されるのは上記の「熊曾建之家」と同様であろう。山稜の端の突き出たところに坐していたと思われる(図中矢印)。
 
<相武國>
2-2. 相武國

その海を水行して相武国の南西端に辿り着く。そこが上図の「燒津」と示した場所である。現地名は小倉南区沼緑町辺りと思われる。

ところで「相武」の名称の謂れは何と読み解けるであろうか?…その後に名付けられた地名、「武蔵」、「相模」ではない名称である。「相」=「木+目」と分解される。地形象形的には「山稜が隙間を隔てて並ぶ様」と読み解ける。崇神天皇紀に登場した相津などで用いられていた。

「武」=「戈+止」と分解される。「戈(矛)のような地形」と読み解く。「相武」=「矛のような山稜が隙間を隔てて並んでいるところ」と紐解ける。高蔵山の南麓で山稜が延びる様子を表していると解る。その裾野の地を「相武國」と称したと推定される。
 
燒津

ところで「燒津」は倭比賣に貰った火打ち石で焼払ったのが謂れと述べている。がしかし、それだけでは場所の特定にはいたらないので、「燒津」の命名も地形象形ではなかろうか?・・・。「燒」=「火+堯」と分解できる。「堯」=「高くて上が平ら」を意味を示すとある。すると「燒津」は…、
 
燒([火]の形をした高くて上が平らなところ)|津(入江)

…「火の形をした平らな高台の入江」と紐解ける。上図に示したように高蔵山の山麓が「血」のように複数の稜線を持っている端に位置するところと判る。神倭伊波禮毘古命と五瀬命が那賀須毘古との戦いに破れて五瀬命が負傷し、地を流したと伝えた場所、血沼海の近隣である。「燒」と「血」と表記された極めて特徴的な地形を示す場所である。
 
大沼の道速振神

多くの沼が現在も存在する中で「大沼」を特定することは難しいが、それを示す表現が潜められているのではなかろうか?…関連する文字列は「道速振神」のみである。通説は神に掛かる枕詞「ちはやふる」と解釈されているようである。名前の無い神となってしまう。やはりこれが神の名前と思われる。では、何と紐解くか?・・・。

「道」=「辶+首(頭:カシラ)」、「速」=「辶+束」、「振」=「扌+辰」と分解する。「辰」=「二枚貝が足を出す象形」とされる。すると二通りの解釈ができるようである。一つは既に紐解いた(こちらを参照)…、
 
道(人の頭)|速(束ねる)|振(振る舞う)

…「人の頭を束ねる振る舞いをする」荒ぶる神(川の傍に蓆を被せた死体しかない神)と併せて表現される挙動を表している。もう一つは…、
 
道(凹の地:沼)|速(束ねる)|振(沼から流れる川)

…「沼を束ねてより大きな川にする」と紐解ける。「大沼」は上流にある複数の沼からの川を集め、更にその沼から川をが流れ出る地形を表していると解釈される。「燒津」近隣で探すと見事に合致する池が存在する。ここは荒振神ではないのである(上図<尾張から相武へ>参照)。

隣国の科野国、茨木国の名前が示す通りに急傾斜の土地であり、相武国も全く同様であったと思われる。人が住めない、住みそうにないところに天孫達が侵出してきたことを繰り返し述べるのが古事記と読み解ける。

さて、更なる大事件が勃発する…焼津から出航して間もなく難破の危機に陥るのだが…、
 
弟橘比賣命

自其入幸、渡走水海之時、其渡神興浪、廻船不得進渡。爾其后・名弟橘比賣命白之「妾、易御子而入海中。御子者、所遣之政遂、應覆奏。」將入海時、以菅疊八重・皮疊八重・絁疊八重、敷于波上而、下坐其上。於是、其暴浪自伏、御船得進。爾其后歌曰、
佐泥佐斯 佐賀牟能袁怒邇 毛由流肥能 本那迦邇多知弖 斗比斯岐美波母
故七日之後、其后御櫛、依于海邊。乃取其櫛、作御陵而治置也。
[其處からおいでになって、走水の海をお渡りになった時にその渡の神が波を立てて御船がただよって進むことができませんでした。その時にお妃のオトタチバナ姫の命が申されますには、「わたくしが御子に代って海にはいりましよう。御子は命ぜられた任務をはたして御返事を申し上げ遊ばせ」と申して海におはいりになろうとする時に、スゲの疊八枚、皮の疊八枚、絹の疊八枚を波の上に敷いて、その上におおり遊ばされました。そこでその荒い波が自然に凪いで、御船が進むことができました。そこでその妃のお歌いになつた歌は、
高い山の立つ相摸の國の野原で、燃え立つ火の、その火の中に立って わたくしをお尋ねになつたわが君。
かくして七日過ぎての後に、そのお妃のお櫛が海濱に寄りました。その櫛を取って、御墓を作って收めておきました]

「走水」の表現は「浪速」「難波」とは異なっているのだが、何を言いたかったのでろうか?…因みに横須賀にある走水神社には近くの湧水が「走水」の由来とのことらしい。これも少しズレているような・・・文字通り走る水とすれば、何かの上を滑るように水が流れる様を表していると思われる。

相武国の急傾斜の地を水が走り落ちていく処である。その先が海である。浪速、難波と違っているから異なる表現を使ったのである。そう気付くと真に特異な地形であることがわかる。当時の海岸線の状況を不詳だが、十分に推測可能なものと思われる。

古事記登場の比賣達は、概ね、才色兼備、弟橘比賣命も正しくそれに相応しい行動をした。我が身を挺して走水の災難を防ぎ船を進めさせた、というのである。上記の走水神社では弟橘比賣命を祭祀しているとか。この比賣との間に若建王という御子がいる。系譜が後に語れる。

倭建命の船は現在の沼本町辺りで上陸したと推測される。ここらの記述が少々入組んでいて読み辛いところではあるが、整理をしながら読み解いてみよう。

自其入幸、悉言向荒夫琉蝦夷等、亦平和山河荒神等而、還上幸時、到足柄之坂本、於食御粮處、其坂神、化白鹿而來立。爾卽以其咋遺之蒜片端、待打者、中其目乃打殺也。故、登立其坂、三歎詔云「阿豆麻波夜。自阿下五字以音也。」故、號其國謂阿豆麻也。
卽自其國越出甲斐、坐酒折宮之時、歌曰、
邇比婆理 都久波袁須疑弖 伊久用加泥都流
爾其御火燒之老人、續御歌以歌曰、
迦賀那倍弖 用邇波許許能用 比邇波登袁加袁
是以譽其老人、卽給東國造也。[それからはいっておいでになって、悉く惡い蝦夷どもを平らげ、また山河の惡い神たちを平定して、還ってお上りになる時に、足柄の坂本に到って食物をおあがりになる時に、その坂の神が白い鹿になって參りました。そこで召し上り殘りのヒルの片端をもってお打ちになりましたところ、その目にあたって打ち殺されました。かくてその坂にお登りになって非常にお歎きになって、「わたしの妻はなあ」と仰せられました。それからこの國を吾妻とはいうのです。 その國から越えて甲斐に出て、酒折の宮においでになった時に、お歌いなされるには、
常陸の新治・筑波を過ぎて幾夜寢たか。
ここにその火を燒いている老人が續いて、
日數重ねて、夜は九夜で日は十日でございます。
と歌いました。そこでその老人を譽めて、吾妻の國の造になさいました]
 
2-3. 邇比婆理・都久波

上陸してから「足柄之坂本」に至るのであるが、歌でその途中通過した地名が登場する。「邇比婆理」「都久波」である。これらの文字を解釈してみよう。「邇比婆理」は…、
 
邇(広がり延びる)|比(くっ付く)|婆(端)|理(区切る)

…「山稜の端が広がり延びた端が区切られているところ」と紐解ける。図に示したように稜線の端の高台が二つ並んでいるように見えるところである。現地名は細分化されているが、北九州市小倉南区沼新町、上・中吉田辺りと思われる。かなり広い団地が造成されているようである。「都久波」は…、
 
都(集まる)|久([く]の形の山稜)|波(端)
 
<相武国から甲斐へ>
「[く]の形の山稜が集まる端」と紐解ける。また「都久(筑=竹)|波(端)」と、洒落ているかもしれない。

この地は天照大御神と速須佐之男命の宇気比で誕生した「天津日子根命」が祖となった茨木国造に関連するところである。

「茨木」=「揃って並べられた山稜」と紐解いたが、上記の解釈に繋がることが判る。両意に取れる表記と思われる。

地図を見てみよう。接岸した沼本町を上がると、現在は大規模な団地が形成されている。しかしながら、高蔵山、鋤崎山の稜線が大きく張り出したところであったことは明瞭である。この台地を暫く進むと北九州市門司区吉志の地名となる。ここが山稜の端が集まる「都久波」である。
 
2-4. 足柄・甲斐・阿豆麻(東國)

足柄之坂本は「足柄」=「足搦(アシガラ)ミ」勾配、距離等きつい坂道を上る様子を示したものであろう。現在の北九州市門司区恒見から小倉南区吉田に抜ける道がある。抜けたところの吉田が「東国」である。足柄の坂を登り切ったところで「阿豆麻波夜」と叫ぶのである。走水海を眼下に見下ろす場所であった。

最もらしいシナリオとロケーションではなかろうか。この入組んだ行程の説明もこれで漸く納得、である。更に説話に落が付く、面白いので再掲…幾ら日数が経ったかの問いに「日數重ねて、夜は九夜で日は十日でございます」と老人が答える。「九十(クソ)」=「糞」=「(日数なんて)取るに足らないものでございますと言った?…まぁ、国造かも?・・・。

ところで失った妻のことを嘆いて「吾妻」…素直な解釈なのだが、やや引っ掛かる…「阿豆麻」は…、
 
阿(台地)|豆(小さな凹凸)|麻(摩:削る)

…吉田の地も大規模な団地となっているが、背後の山の稜線が殆ど見られない状況である。後代の仕業かどうかは定かではないが、当時既に稜線を削って平坦にされていたのではなかろうか。即ち倭建命の目線は上図の二つの白破線の方向、走水海だけでなく「東国」も向けられていた、と。

上記が東を「アズマ」と読む有力な語源の一つになっているようである。碓氷峠で関東を眺めて「吾妻よ!」と叫んだことに由来するとある。本著で紐解いた「飛鳥=アスカ」に始まる「難読文字」解釈の仲間に、また一つ加わることになるであろう。

吉田から東北方向に山を越えると甲斐国に行き酒折宮で一息ついたら科野国に向かうのである。この大英雄が教えてくれた古事記の国々、弟橘比賣と共にその霊に感謝の意を表そう。

吉田から東北方向に山を越えると「甲斐国」に到達する。「甲斐」の「斐」=「非+文」=「挟まれた隙間が文のように延びている地」となるが、地形象形表現として「挟まれた谷間が折れ曲げって延びている様」と解釈される。「甲」=「山」とすると…、
 
山に挟まれた谷間が折れ曲がって延びているところ

…となろう。既に「山の狭(カイ)」と解釈されたことがあるが、この場所はその通りの地形を表していると思われる。

その国にある酒折宮にて御一腹されていよいよ折返しに取り掛かる。幾度も登場した「酒」=「峠に向かう境の坂」とすると…「酒折宮」は…、
 
酒(境の坂)|折(折れ曲がる)|宮

…「峠に向かう坂が折れ曲がったところの宮」と読み解ける。「折」=「手(山稜)+斤」と分解される。そのまま解釈すると「山稜で切り断たれた地形」を表すと読める。所謂峠付近にあった宮と推定される。「境」は倭建命が行き着いた最終の場所、それを意味していると思われる。
 
2-5. 科野國・尾張國

古事記は簡潔記述、書くことないから、である。科野国の山麓に向かった。「甲斐」から既に「言向和」した都久波、邇比婆理を通過して相武国に至る。そこから「科野之坂神」のところに向かった。現在の北九州市小倉南区葛原高松辺りであろう(上図参照)。

また、そこから尾張へは幾つかのルートがあるが、三川之衣辺りを経由したのではなかろうか。作戦通りの成果を挙げて尾張の姫と再会である。が、事件が発生する。その前に説話は美夜受比賣との遣り取りが述べられれる。詳細は省略して事件に移ろう。
 
伊服岐能山之神

故爾御合而、以其御刀之草那藝劒、置其美夜受比賣之許而、取伊服岐能山之神幸行。於是詔「茲山神者、徒手直取。」而、騰其山之時、白猪、逢于山邊、其大如牛。爾爲言擧而詔「是化白猪者、其神之使者。雖今不殺、還時將殺。」而騰坐。於是、零大氷雨打惑倭建命。此化白猪者、非其神之使者、當其神之正身。因言擧、見惑也。故還下坐之、到玉倉部之淸泉、以息坐之時、御心稍寤、故號其淸泉、謂居寤淸泉也。
[そこで御結婚遊ばされて、その佩びておいでになった草薙の劒をミヤズ姫のもとに置いて、イブキの山の神を撃ちにおいでになりました。そこで「この山の神は空手で取って見せる」と仰せになって、その山にお登りになった時に、山のほとりで白い猪に逢いました。その大きさは牛ほどもありました。そこで大言して、「この白い猪になったものは神の從者だろう。今殺さないでも還る時に殺して還ろう」と仰せられて、お登りになりました。そこで山の神が大氷雨を降らしてヤマトタケルの命を打ち惑わしました。この白い猪に化けたものは、この神の從者ではなくして、正體であったのですが、命が大言されたので惑わされたのです。かくて還っておいでになって、玉倉部の清水に到ってお休みになった時に、御心がややすこしお寤めになりました。そこでその清水を居寤の清水と言うのです]

気の緩み、少々調子に乗り過ぎた感じである。「倭比売」から授かった刀、肌身離さずの筈が…拙かった。伊服岐能山は美夜受比賣の家の背後に聳える山であろう。山塊の最高峰「貫山(ヌキサン:712m)」及び隣接する「水晶山」は花崗岩質の岩場を形成しており幾つかの奇岩が名付けられている。

「貫」=「つらぬく、突き通す」岩が突き出た様相を象形したか、岩場から出て来る湧水の有様を意味したのかは定かでないが、表面に突出る地形に合致した命名ではなかろうか。「服岐(フキ)」=「吹」=「外や表面に現れ出る」類似の意味である。

「伊服岐」の文字列は何を意味しているのか?…状況的には「貫山」なのだろうが・・・「服」=「箙(矢筒)」の略字とすると…「伊服岐」は…、
 
伊(僅かに)|服(矢筒のような山稜)|岐(分かれる)

…「僅かに矢筒のような山稜が分かれる」ところと紐解ける。
 
<伊服岐能山>
矢筒に集められた矢が一本一本に分かれる行くような地形で、少し分かれたところと読み解ける。

間違いなく「貫山」のことを表していると思われる。「服岐(フキ)」と読むのもあり、いつもの調子で重ねられているのであろう。

だがこの文字列の意味は決定的な場所を表していることも確かである。

少々余談だが・・・「箙(エビラ)」を調べると…「飛鳥・奈良時代に用いられた中国伝来の胡【ろく】(ころく)の形式が,武士の興隆とともに実戦に適するように,堅固で簡便なものに改良されてできた」とのことである。倭健命の時代には「箙」の形になっていたのかもしれない。

「空手」でお出掛けの「倭建命」、美夜受比賣之家から三つの谷筋のどれかを選択して山中に入っていったのであろう。後世の長野城(城山)へのルートが推定される。最も貫山へは最短であるが定かではない。どこまで山に入られたかは全く不明であり、知るすべもないが、手酷く傷めつけられたようである。這う這うの体で「玉倉部之清泉」まで辿り着き休んだとのこと。さて、これは何処にあったのであろうか?・・・。
 
<玉倉部之清泉>
初見では宝玉、薬石等の保管、管理場所(部)として「水晶山」から連想される透明な水晶の玉、立派な宝玉があったのではなかろうか、など憶測を逞しくしたが、やはり特徴ある地の名称であろう。

「玉倉部」は…、
 
玉(玉のような地形)|倉(谷)|部(分けた地)

…「玉のようなところが谷で分けられた地形」をしていると紐解ける。図に示したように小ぶりだがしっかりと谷を形成していて、泉となっていることが判る。

応神天皇紀に淸日子が登場した。それに含まれる「淸(青)」=「氵+生+丼(井)」と分解し、「水辺に元からある四角く囲まれた地」と解釈した。当時の泉は四角い形をしていたのではなかろうか。
勿論些かの相違はあるかと思われるが、基本の地形は保たれているように伺える。
 
<貫山長野登山口ルート>
この地は後に尾張連等之祖凡連之妹・目子郎女で登場する。「目玉」の地形をしていると解釈できるところであろう。尾張の中心として繁栄した場所と推定される。

そんな地にあった清泉の水を飲んでホッと一息したのであろう。山の神は怖い…まだまだ山奥には「言向和」する相手が…本物の神様?・・・。
 
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現在の貫山トレッキングに長野登山口ルートが載っている。ほぼ林道沿いの健脚コースのようであるが、国土地理院地図にはもう少し直登なルートもある様子。長野ルートもあながち非現実的なことではないようである。道速振神・荒振神に出会うことはない、かも?・・・。
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當藝野・杖衝坂・尾津前一松

自其處發、到當藝野上之時、詔者「吾心恒念、自虛翔行。然今吾足不得步、成當藝當藝斯玖。自當下六字以音。」故號其地謂當藝也。自其地、差少幸行、因甚疲衝、御杖稍步、故號其地謂杖衝坂也。到坐尾津前一松之許、先御食之時、所忘其地御刀不失猶有、爾御歌曰、
袁波理邇 多陀邇牟迦幣流 袁都能佐岐那流 比登都麻都 阿勢袁 比登都麻都 比登邇阿理勢婆 多知波氣麻斯袁 岐奴岐勢麻斯袁 比登都麻都 阿勢袁
[其處からお立ちになって當藝の野の上においでになった時に仰せられますには、「わたしの心はいつも空を飛んで行くと思っていたが、今は歩くことができなくなって、足がぎくぎくする」と仰せられました。依って其處を當藝といいます。其處からなお少しおいでになりますのに、非常にお疲れなさいましたので、杖をおつきになってゆるゆるとお歩きになりました。そこでその地を杖衝坂といいます。尾津の埼の一本松のもとにおいでになりましたところ、先に食事をなさた時に其處にお忘れになた大刀が無くならないでありました。そこでお詠み遊ばされたお歌、
尾張の國に眞直に向かつている尾津の埼の一本松よ。お前。
一本松が人だたら大刀を佩かせようもの、着物を著せようもの、一本松よ。お前]

傷んだ身体に鞭打って帰途に就くわけだが、往路で立寄った「伊勢大御神宮」へは赴かないようである。それどころではなかったのであろう。「當藝野」で「當藝當藝斯玖」なる。懐かしい「當藝」=「弾碁」ではなく、そのまま「凸凹」と解釈。

即ち、その文字形から「當」=「左右対称の地形」を表している。別表現すると「同じような形をした地がぴったりとくっ付いている様」となる。「藝」=「多くの山稜が延び出ている様」であり、「當藝」=「延び出ている山稜が左右対称に並んでいるところ」と読み解いた。

山稜線が延びたところを交差するように歩くと、「當藝當藝斯玖」なったのである。地形的に適したとも思われる場所、現在の北九州市小倉南区橫代南町辺りではなかろうか。伊久米伊理毘古伊佐知命(垂仁天皇)の御子、大中津日子命が祖となった尾張國之三野別と呼ばれたところを横切ることになる。「箕」の形の稜線で作られたアップ&ダウンの行程を進んだのであろう。
 
尾津(小津)

尾津の手前、西に進んで行き当たる「杖衝坂」は、同区下石田・石田町辺り、次の稜線を越えるところと推定される。大きくは二つの稜線を跨ぐところで喘ぎ、そして益々体力を消耗していった様子である。この尾津(小津)の場所については海岸線の特定が難しく、また特徴的な地形も記述されず、行程から凡その推定を行った。

後に記述される倭建命が山代之玖玖麻毛理比賣を娶って産まれた足鏡別王が鎌倉之別、小津、石代之別、漁田之別之祖となる記述である。小津、石代と漁田の地名が近隣に散らばっていたことが伺える。
 
<當藝野から尾津へ>
珍しく現在の地名「石代(田と同義)」=「同区石田」、「漁(魚、貝を捕る)田」=「同区蜷(巻貝の総称)田若園」と比定することができる。

すると「小津」は稜線の反対側(西側)一帯を示していると判る。

現在の標高からだけでは判断することは難しいが、この配置から小倉競馬場、北九州市立大学、陸上自衛隊小倉駐屯地などは海面下もしくは広い干潟を形成していたと推測される。

山稜沿いに進めば「尾津前之一松」は現在の小倉南区守恒本町、守恒交差点辺りと推定される。安寧天皇の御子、師木津日子命の孫に「伊賀須知之稻置、那婆理之稻置、三野之稻置之祖」と記述される。「伊賀須知」は入江がある地に名付けられたものであり、「尾津前」を含むところと思われる。


往路では何も語らず帰路で告げる。且つ詳細は御子の祖となる記述の中に忍ばせる。一つ間違えば迷路の中を彷徨う旅人になってしまう。恐ろしい書物である。が、今のところ奏上書であること以外に作為は感じられない。

さて、漸くにして「尾津の埼の一本松」至るが、比比羅木之八尋矛をそこに忘れていて、それが見つかったというのである。何とも天皇の仕打ちに反抗したのか、単に抜け策なのか、草薙の剣があれば矛は不要かなどなど色々なご意見が出そうな場面であるが、本当のところは不詳。

素手で神様に向かおうとするお方だから剣・矛には無頓着、としておこう・・・新羅の力を借りずに「言向和平」したことの象徴かもしれない・・・深読み過ぎかな?…。ポカもやる天才的ヒーロー、かつて野球選手にもそんなお方が…人気でるよね・・・。
 
2-6. 三重村・能煩野

自其地幸、到三重村之時、亦詔之「吾足、如三重勾而甚疲。」故、號其地謂三重。自其幸行而、到能煩野之時、思國以歌曰、
夜麻登波 久爾能麻本呂婆 多多那豆久 阿袁加岐 夜麻碁母禮流 夜麻登志宇流波斯
又歌曰、
伊能知能 麻多祁牟比登波 多多美許母 幣具理能夜麻能 久麻加志賀波袁 宇受爾佐勢 曾能古
此歌者、思國歌也。又歌曰、
波斯祁夜斯 和岐幣能迦多用 久毛韋多知久母
此者片歌也。此時御病甚急、爾御歌曰、
袁登賣能 登許能辨爾 和賀淤岐斯 都流岐能多知 曾能多知波夜
歌竟卽崩。
[其處からおいでになって、三重の村においでになった時に、また「わたしの足は、三重に曲った餅のようになって非常に疲れた」と仰せられました。そこでその地を三重といいます。 其處からおいでになって、能煩野に行かれました時に、故郷をお思いになってお歌いになりましたお歌、
大和は國の中の國だ。重なり合っている青い垣、山に圍まれている大和は美しいなあ。 命が無事だった人は、大和の國の平群の山のりっぱなカシの木の葉を 頭插にお插しなさい。お前たち。
とお歌いになりました。この歌は思國歌という名の歌です。またお歌い遊ばされました。
なつかしのわが家の方から雲が立ち昇って來るわい。
これは片歌でございます。この時に、御病氣が非常に重くなりました。そこで、御歌を、
孃子の床のほとりにわたしの置いて來た良く切れる大刀、あの大刀はなあ。
と歌い終って、お隱れになりました]

<三重村>
通説に従って読み下せると思われる。「三重村」の由来は身体が三重に折り畳まれるとの表記されるが、地形象形の筈であろう。

「三つが重なる」地形とは?…稜線の端が三つ重なっている場所を探すと、現在の北九州市小倉南区長尾辺りが見出だせる。

「村」は「人の集まり住んでいる所」と読んでも意味は通じるようであるが、「村」=「木(山稜)+寸」と分解する。更に「寸」=「又(手)+一」と分解され、「手指を伸ばして長さを計る様」を表すと解説される。

地形象形的には「村」=「山稜が手指で長さを計るように延びている様」と紐解ける。「三重村」はその「村」が三つ重なったところを表していることが解る。古事記中の「村」は山稜が延びた先にある場所を示し、そこに人が寄り集まっていたことを示している。

長い稜線の端が一旦分かれて再び重なる地形を示している。因みに近隣は「采女」と推定した。山稜の端にある(畝った)隙間があるところと解釈する。

三つに重なることと隙間ができることは両者対になって生じる地形なのである。古事記中に分散して記述される文字がここで見事に繋がった表現となっていることが判る。

また「能煩野」も地形象形の表記と思われる。「煩」=「火+頁」=「[頭]のような地に[炎]の形に山稜が延び出ている様」とすると…、
 
能(熊:隅)|煩([頭]のような地に[炎]の形に山稜が延び出ている)|野

…「[炎]の形に山稜が延び出ている[頭]のような地の隅にある野原」と読み解ける。下図に示した通りの表現となっていることが判る。現地名は北九州市小倉南区母原辺りである。更に上記に続いて英雄が隠れたことを知って駆け付けた后と御子達のことが記述される…、

於是、坐倭后等及御子等、諸下到而作御陵、卽匍匐廻其地之那豆岐田而、哭爲歌曰、
那豆岐能多能 伊那賀良邇 伊那賀良爾 波比母登富呂布 登許呂豆良[ここに大和においでになるお妃たちまた御子たちが皆下っておいでになって、御墓を作ってそのほとりの田に這い回ってお泣きなってお歌いになりました。
周まわりの田の稻の莖くきに、稻の莖に、這い繞めぐつているツルイモの蔓つるです]

能煩野に駆け付けて、陵を作ったのだが、その周りを「那豆岐田」と呼んでいる。
 
那(ゆったりとした)|豆(高台)|岐(二つにわかれた)|田

<能煩野>
…山稜の端にあるゴツゴツせずにゆったりとした高台が二つに割れた台地状の地形象形であろう。

現地名は小倉南区母原・新道寺の境界にある台地である。

地図を参照願うが、北から進んで来るとその台地の北半分の地(母原)、隅の谷の入口に到着する。ここが「能煩野」と推定される。

白鳥伝説の説話となって「河內國之志幾」に「白鳥御陵」が作られる。

古事記読み解きの当初は、近淡海國の内陸部の「志幾」=「師木」であろう、とした。

倭の師木と同様の地形、小さな凸凹の丘陵地帯である現在の京都郡みやこ町勝山黒田、橘塚古墳や綾塚古墳の辺り…とした。だが、読みは同じでも文字を変えているのは異なるからであろう。
 
志(之:蛇行する川)|幾(近い)

…「蛇行する川が僅かな隙間で近接して流れるところ」であろう。河内の志幾は、下流の河口付近の多くの蛇行する川が所狭しと流れるところであったと推定される。
 
<白鳥御陵>
それらしき場所を求めることは可能な解釈ではあるが、これで一に特定することは叶わないようでもある。

そこで「幾」=「𢆶+人+戈」と分解すると、「𢆶」([糸]が並ぶ→山稜が並んでいる地形)と解釈される。「人」=「谷間」、「戈」=「矛のような地形」としてみると、「幾」は…、

山稜が並ぶ谷間にある矛のような地

…を表すと紐解ける。「志幾」は、蛇行する川の傍で山稜が並んでその中に矛のように突き出ているところがあると述べているのである。

そんな背景で探索すると、何と見事な「白鳥」が横たわっていたのである。この鳥は大きく、現地名では行橋市の下崎、二塚、長木に跨るところと思われる。鳥井原の地名及び大首池の名称も見られるが、由来は定かではない。御陵の場所は些か不明…盗掘などから決して明確には記述されないかも?…だが、胴の部分に当たる小高い場所と推定される。

図に仁徳天皇(毛受之耳原陵)履中天皇(毛受陵)、反正天皇(毛受野陵)安閑天皇(河內之古市高屋村陵)成務天皇(沙紀之多他那美陵)を併せて示した。まるで古代史上最大の悲運の英雄を取り囲むように並んでいる。河内國は墓所であった。いや、それは近淡海國全体にも広がっていたところであり、未開の地であったことを伝えているのである。
 
<東方十二道>
「白鳥」は浜に向かって飛び立ち、追いかける御子達は浜辺を彷徨うと述べている。

白鳥が降り立ったのは河内の内陸部ではなく、限りなく浜辺に近いところであったことを示す。

後の仁徳天皇紀に当時の海岸線を推定するが、「白鳥」はその海岸線に横たわっていたことが示される。安萬侶くんの筆さばき、感服である。

倭建命の東征などと言われるが、決して領土拡大の意味は持たず、彼らの祖先が作り上げた東方十二道内における鎮圧であった。

景行天皇の八十人の御子及び倭建命の熊曾・出雲・東方十二道の言向和による「倭国連邦言向和國」(勝手に命名!)の充実に注力した時期であった伝えていると思われる。

この天皇一家は無謀な膨張戦略とは無縁である。ともかくも堅実、着実なのである。そう読み取れば天孫降臨自体が何とも慎重極まりない行動のように映って来るのである。天神達は、そういう一族だったのであろう・・・倭建命の東方十二道全行程を図に纏めた。
 
3. 后と子孫

倭建命の娶り、系譜の記述は異例で多く、また丁寧である。二段に分けて順次紐解いてみよう…、

此倭建命、娶伊玖米天皇之女・布多遲能伊理毘賣命、生御子、帶中津日子命。一柱。又娶其入海弟橘比賣命、生御子、若建王。一柱。又娶近淡海之安國造之祖意富多牟和氣之女・布多遲比賣、生御子、稻依別王。一柱。又娶吉備臣建日子之妹・大吉備建比賣、生御子、建貝兒王。一柱。又娶山代之玖玖麻毛理比賣、生御子、足鏡別王。一柱。又一妻之子、息長田別王。凡是倭建命之御子等、幷六柱。
故帶中津日子命者、治天下也。次稻依別王者、犬上君、建部君等之祖。次建貝兒王者、讚岐綾君、伊勢之別、登袁之別、麻佐首、宮首之別等之祖。足鏡別王者、鎌倉之別、小津、石代之別、漁田之別之祖也。
 
3-1. 伊玖米天皇之女・布多遲能伊理毘賣命
 
<帶中津日子命>
垂仁天皇の比賣であるが、天皇の比賣の居所は最も難しい、倭国全てに跨るように感じるが、この比賣の出自の説明は丁寧であった

大國之淵之女・弟苅羽田刀辨を娶って誕生した石衝毘賣命、別名が布多遲能伊理毘賣命と明記されている(垂仁天皇紀を参照)。

現在の京都郡みやこ町上原布引辺りとした。「布多遲」は、布を敷いたようなところに、「遲」=「辶+犀」=「(犀の)角のような形」をした山稜が延び出ている…の表現であろう。次期の帶中津日子命(仲哀天皇)が誕生する。

大帶日子淤斯呂和氣天皇に含まれる「帶」=「山稜の端が(帯が垂れるように)長く延びたところ」と紐解いた。

「布多遲」の隅にある突き出たところを象った文字であろう。それは「日(炎)」の地形の「子」(生え出たところ)である。祓川が大きく蛇行してできる州の中央部に当たる。そこを「中津」と述べている。

思えば佐韋河(犀川:現今川)と久須婆河(祓川)は、古事記の舞台として多用される。天皇家の草創期に主要な水上交通路として、またその川沿いに人々が住まっていたのであろう。原風景が浮かぶようである。
 
3-2. 近淡海之安國造之祖意富多牟和氣之女・布多遲比賣

近淡海之安國は日子坐王の御子で、美知能宇斯王之弟に当たる「水穗眞若王」が安國直になったところであろう。天安河に類似するとして「安」=「山稜に囲まれた地に嫋やかに曲がる谷間があるところ」である。名前に含まれる「水穂」=「水の穂(泡立つ)」と解釈されることより、「安國」は当時の岬近辺、現在の京都郡苅田町上・下片島辺りと思われる
 
<意富多牟和氣・布多遲比賣・稻依別王>
現在では小波瀬川近隣に水田が大きく広がっている。
当時は入江が広がり、海岸線線は内陸側にあったと推定される。

谷の端にある平らな台地…片島小学校の周辺…がある。現在の水田面積と比較すると、かなり小規模な印象を受けるが、当時としては「布多遲」であっただろう。

上記の京都郡みやこ町の「布多遲」や崇神天皇紀の「波布理曾能」など河川の下流域における田の様相を示しているのではなかろうか。

ともあれ、現在ではそれらの地は大きな水田地帯となっていることは確かなことである。谷間の「茨田」から「布多遲」へと耕作地が拡大していることを告げていると推察される。

父親の「意富多牟和氣」は何と解釈するか?…既出の「意富」=「山麓にある坂に取り囲まれたところ」、「牟」=「ム+牛」=「山稜が谷間に挟まれた様」と紐解いた。
 
多(山稜の端の三角の地)|牟(谷間に挟まれた山稜)|和(しなやかに曲がる)|氣(曲がりくねって延びる)

…「谷間に挟まれた山麓の端の三角の地がしなやかに曲がりくねっているところ」を表している。頻出の「牟」の地形を図に示した。図に示した「安國」の最奥の谷間を表していると思われる。神倭伊波禮毘古命の段で登場の物部の地形に極めてよく似た、深い谷間の地形である。

娘の「布多遲比賣」は…、

山稜の端の三角の地が犀の角のようになっている前で布を広げたように平らに広がっているところ

…と紐解ける。父親の西側の山稜の先で谷間が広がっている様子を表した名前であろう。御子に「稻依別王」が誕生する。更に「稲に依る」水田に多くの稲が実る状況を思い浮かばせる命名、と解釈しても良いが、やはり地形象形表記である。

「稻」=「禾+舀」と分解される。更に「舀」=「爪+臼」と分解される文字と解説されている。地形象形としては、「稻」=「三つの山稜が窪んだ地に延びている様」と紐解ける。頻出の「依」=「人+衣」=「谷間にある山稜の端の三角州」とすると、「稻依別王」は…、

三つの山稜が延びる窪んだ地が谷間にある山稜の端の三角州が近接しているところ

…と紐解ける。「別」=「近接した場所」と解釈する。図に示した、母親の西側に当たる場所を表していると思われる。上記の水穗眞若王等は「安國」の谷間の出口、水辺の場所をであったが、見事に住み分けた配置となっている。
  
<意富多牟和氣・布多遲比賣・犬上君>
引き続いて、「稻依別王者、犬上君、建部君等之祖」と記述される。

犬上君

倭建命の跡目を引継いだのかもしれない。「犬上君」これは難解である。

古代史に残る遣唐使の中に「犬上」の姓を持つ者がいる。地名を表わしているようでもあり、そうでないかも、である。

「犬」はどんな意味を示すのであろうか?…通常の使われ方はあまり芳しくない…犬のように飼い馴らされている…ことが多い。

名前には使われないであろう。勇猛な感じでは犬に勝るものが多く、迫力に欠ける。では、やはりこれも地形象形か?・・・。蘇賀石河宿禰が開いた地、その東端に安國がある。「蘇賀」の全景を「犬」に置換えたのではなかろうか。

干支で使われる「戌」がより適切である。平らな山頂の台形をした麓の地形を「戌」の文字形で表したと読み解くと…、
 
犬上=蘇賀の上にあるところ

…現地名は京都郡苅田町山口北谷・等覚寺辺りである。更にこの地は蘇賀の西北西(戌の方位)に当たる。

語源としては「作物を刃物で刈取り一纏めにすること」を表した文字とある。「滅」に含まれる。「蘇」は「蘇生」である。共に一度滅んで生き返る意味を示す文字である。正に蘇賀の地に相応しい表現と思われる。

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干支について・・・Wikipediaに「十二支は古く殷の甲骨文では十干と組み合わされて日付を記録するのに利用されている。(古代中国の)戦国(時代)以降、日だけでなく、年・月・時刻・方位の記述にも利用されるようになる」と記されている。

枝である「支(十二支)」は「子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥」であり、動物イメージを付与して身近なものとした、とされる。一方、幹の方の「干(十干)」は影が薄く、「干支(エト)」と言えば「十二支」を示すようになる。

また「生肖(動物)」ついて、「実物ではに当てられる動物が中国では[ブタ]、日本では[イノシシ]と異なっている。また漢字ではに中国が[猴]、日本が[猿]を当てていて、に中国が[狗]、日本が[犬]を当てて異なっているが、意味はほぼ同じである。本来は、[猿]は類人猿を、[犬]は大型犬を表す漢字である」と注記されている。

既に登場した「猨田毘古大神」、「猨女君」の「猨」=「犭(狗)+爰」と分解する。「狗」=「戌」として、「[戌]の地形が引き延ばされてゆったりとしたところ」と紐解ける。「戌」=「平らな山頂の台形の地」、即ち文字形そのものを表していると解釈された。時代が進んで「狗」→「犬」に置き換わったと思われる。

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通説は滋賀県犬上郡多賀町、そこにある多賀神社(旧官幣大社)が犬上一族の祖神を祀ったという伝承が残っているそうである。苅田町にある近接の白山多賀神社と併せて「犬上」との密接な関連があることが伺える。神社も含めての国譲りであろう。

古事記の舞台を日本全国に拡大して行くプロセスは如何なるルールを用いたのであろうか…極めて興味深いところである。が、それは後日としよう・・・。

建部君

稻依別王がもう一つ祖となった建部君については、関連する情報を眺めてもどうもすっきりしない。倭建命の「建」に関わって軍事的任務に当たった一族のような解説である。「〇〇部」となると、「〇〇を生業とする部族」とする。これは、全くの誤りであることをかなりの頻度で述べたが、ここでも同様であろう。

上記の「犬上君」の西側に「建」=「廴+聿」=「筆のような地が長く延びている様」の地形を確認することができる。「部」=「咅+邑」=「岐れて延び出た山稜がより集めっている様」と解釈すると、その地形を表していることが解る。「稻依別王」の出自、祖となった犬上君、全てが現在の同じ苅田町に含まれている。古から繋がる”行政区分”だったのであろう。

3-3. 吉備臣建日子之妹・大吉備建比賣

吉備国は神武天皇紀以降孝霊天皇紀から頻出している。倭建命は吉備にも通ったということであろう。勿論娶るくらいだから言向和は不要の筈である。上記の東方十二道遠征に随行した「御鉏友耳建日子」の妹と記される。比賣の居場所は下関市吉見里町とした。御子に「建貝兒王」が誕生する。
 
建貝兒王

「建貝兒王」の「貝兒」は何を意味するのか?…「兒」が付くからやはり「吉備兒嶋」辺りを指し示しているようである。
 
(貝のような)|(それに成りかけ)
 
<建貝兒王>
…と紐解いてみると、兒嶋の南で東に突出た円い形の山が見つかる。

標高64mの奇麗な円錐状で貝殻を伏せたような形である。

「建貝兒王」居場所はこの山の麓、おそらくは南側、であったと推定される。現在の地名は下関市永田本町()辺りである。

国生みの嶋でありながらそこの住人が見当たらなかった「吉備兒嶋」であるが、漸くにしてご登場である。「隱伎之三子嶋」の住人は菟であった…。

「建貝兒王」及び子孫はこの地を離れ各地の祖となる。①讚岐綾君 ②伊勢之別 ③登袁之別 ④麻佐首 ⑤宮首之別と記述される。順に紐解いてみよう。

①讚岐綾君

<讚岐綾君>
伊豫之二名嶋にある「讃岐国」を示すと思われる。その中の「綾」と言われた地に居た君である。

「綾」は綾織り(斜文織り)で知られるように模様が斜めに交差するように紐が編まれたものを表す。

地形象形であろうか?…やや判断に苦しむところであるが・・・景行天皇紀の八坂之入日賣命の御子、若帶日子命と同じ場所を示しているのではなかろうか。

現在の北九州市若松区大字修多羅(畑谷町)である。並列した山稜の谷筋が折り重なって、正に綾織りのような地形をしていることが伺える。

当時とは異なり山麓の開発が進行した現在では些か判り辛いところではあるが、推測可能であろう。

地名由来は経文であるとのことだが、何故経文を地名にしたかは不詳である。

だが、上記の繋がりが判明したことによって修多羅の地は古代より人々が住まった場所であることが判る。「君」の居場所は山麓の中腹にある高台と推定したが、当時との相違は否めないであろう。

<伊勢之別>
②伊勢之別

既に「伊勢」は度々登場している。伊勢大御神宮(伊須受能宮)があった場所と見做して間違いないであろう。

手力男神の「伊勢之佐那那縣」、神倭伊波禮毘古命(神武天皇)の御子の神八井耳命が祖となった「伊勢船木直」、また孝昭天皇の御子、天帶日子命が祖となった「伊勢飯高君」などが既に登場している。三重村、采女など古代より重要な地域であったと伝えている(伊勢国全体はこちらを参照)。

吉備生まれの建貝兒王が如何にしてこの地を治める祖となったかは憶測の範囲であるが、倭健命の血統が倭国の主要な地点に散らばったことは確かであろう。「別」は山稜の合間から突き出たところと推定した。

<登袁之別>
③登袁之別

既に登場である。「登袁」=「十」と置換えて「十市縣」として解釈できるであろう。師木の南、現在の福岡県田川郡大任町今任原辺りである。

「十(字路)」は通交の要所として現在の道路からも推測できるところなのであるが、ここで「登袁」と表記される。
 
登(高台から山稜が岐れている)|袁(川に挟まれて山稜がゆったりと延びている)

…「高台から岐れた山稜がゆったりと延びているところ」と紐解ける。

「別」は、他の「別」と同様に山稜の突き出たところがその地を別けている地形を表しているとして求めた。

ここまでで、祖となる地名は吉備から師木の「南北ライン」上にあるような気がするが、果たして・・・。

④麻佐首

これには少々お手上げしかかったが、垂仁天皇の御子、本牟智和氣が一夜娶った肥長比賣が居た檳榔之長穂宮の檳榔(アジマサ)のことではなかろうか。

「首」の地形も幾つか見受けられるが、現在の大山祗神社の近隣と推定した。思い起こせばこの島は伊邪那岐・伊邪那美の国(島)生みの水蛭子の一部である。

当時の響灘航行における重要な拠点であったと思われる。子孫が広がって行っても何の不思議もない場所であろう。南北ライン上の現在の馬島(北九州市小倉北区)である。
 
<宮首之別>
⑤宮首之別

御眞木入日子印惠命(崇神天皇)が坐した師木水垣宮の近隣のと推定される。

図に示したように、やや鮮明さに欠けるが、この地は「首」の地形を有していることが解る。

印」=「首」の意味もあると解説される。古代の漢字の意味であったかどうかは定かでないが、通じるものではなかろうか。

「別」は上記と同様に山稜の端が突き出てその地を別けているところと解釈できる。

図に示したように「首」の凹んだ地に突出たところと推定される。

ということで見事に南北ライン上を走ったことになった。しかもその多くが主要な地点を指す。上記したように倭建命の子孫がその後倭国において重要な位置にあったことが伺えるのである。

3-4. 山代之玖玖麻毛理比賣

上記で少し述べた「小津、石代之別、漁田之別之祖」となった足鏡別王は、更に「鎌倉之別」にもなっている。それを含めて…その前に母親の名前が大切なことを告げているようである。「山代之玖玖麻毛理比賣」この名前が素晴らしい…、
 
玖玖(頂が連なる二つの山稜)|(接する)
毛([鱗]の形)|理(区分けした田)

<山代之玖玖麻毛理比賣>
…「頂が連なる二つの山稜が接するところで鱗状の区分けした田がある」山代の比賣と紐解ける。

馬ヶ岳の南麓、現在の京都郡みやこ町犀川花熊の中心地を表していると思われる。山代の地は、犀川大坂、谷口、大木と、正に玖麻…否や隈なく網羅されて行くのであろう。

「毛理」=「守」と解釈することも考えられるが、山代の国守になってしまう。

前記した多遲摩毛理は何となく多遲摩国の国守に受け取れるのであるが、やはり、その意味も重ねて、文字通りの鱗状の地に居たと解釈される。

連なる山頂の山稜を「玖」と表した例は、孝霊天皇が娶った意富夜麻登玖邇阿禮比賣命に登場した。類似する地形と見做されるところであろう。比賣の素性は今一不詳なのだが、その子「足鏡別王」は何処に居たのか?…。
 
足鏡別王
 
全て地形象形している文字が使われていると思われるが、「鏡」は何と紐解くか?…通常の意味では意味不明となろう。「鏡」=「金+竟」と分解すると、何とか地形に近付きそうである。「金」=「[ハ]の形の山稜の麓にある高台」と解釈する。阿曇連之祖:宇都志日金拆命に含まれていた「金」の解釈に類似する。

「竟」=「境」であろう。蛇行する川に山稜の端が接近して「境」ができる。すると「鏡」=「[ハ]の形の山稜の端が川に近付いてできた境の地」を表すと紐解ける。かなりの高難度の文字解釈である。初見では「鏡」=「池(沼)」として場所を求めたが、結果的には近隣の地であった。

「足」=「長く延びた枝稜線」の象形であろう。図に示したような配置であることが解る。「別」は、ものの見事に「ハ」の山稜を二つに分けているところを示している。

さて、「足鏡別王者、鎌倉之別、小津、石代之別、漁田之別之祖也」と祖の記載がある。順に紐解いてみよう。
 
①鎌倉之別
 
<鎌倉之別>
「鎌倉」なんとも聞き慣れた言葉である。それ故か「鎌倉」の比定は、スルー、であるか、そこまで勢力範囲が届いていたことを示す例示であろう、という考えである。


飛び跳ねた地は、勢力範囲の例示、万能の解決策である。が、神業としか思えない結果でもある。

「鎌倉」の文字を紐解いてみよう。「倉」=「谷」として、「鎌」の解釈である。

「鎌」=「鎌の形」三日月型の鋭い刃が付いた姿を模したのではなかろうか…、
 
鎌倉=鎌の形(三日月形)傍の谷間

…と解釈される。すると現在の福岡県田川郡夏吉、福智山山塊にある岩屋キャンプ場、第一から第三まである鍾乳洞がある谷を示していると思われる。

谷の湾曲が極めて特徴的な場所である。後にその入口付近は安康天皇の石上穴穂宮があったところと重なる。「別」は、谷が大きく屈曲する辺りで谷間が広がっているところと推定した。「鎌」の中央部となっている。

近隣を見れば仁賢天皇の石上広高宮、それに関連して上宮之厩戸豐聰耳命(後の聖徳太子)など、著名人がずらり、垂仁天皇と后も近いところに眠っているとしたが、実に賑やかな場所であった。清水が湧き出ると、やはり人が集まるところとなったのであろう。
 
<小津・石代之別・漁田之別>
②小津・石代之別・漁田之別

倭健命の東方十二道の帰り道で述べたところである。

現在の地名「石代」=「同区石田」、「漁(魚、貝を捕る)田」=「同区蜷(巻貝の総称)田若園」と比定することができる。

真に珍しく残存地名があるところと思われる。残念ながら「小津」は見当たらないが、他の二つの位置が求められるとほぼ確実に示すことができそうである。

「別」は、それぞれ山稜の端が延びたところでその地が分かれている場所と推定した。地形、海面の状態が大きく異なるため詳細な比定は不可であるが・・・。
 
3-5. 一妻

次いで、妻の名前が記載されず「又一妻之子、息長田別王」と記される。更にこの「息長田別王」から続く系譜が続けられるのである。

古事記原文…、

息長田別王之子、杙俣長日子王。此王之子、飯野眞黑比賣命、次息長眞若中比賣、次弟比賣。三柱。

故、上云若建王、娶飯野眞黑比賣、生子、須賣伊呂大中日子王。自須至呂以音。此王、娶淡海之柴野入杵之女・柴野比賣、生子、迦具漏比賣命。故、大帶日子天皇、娶此迦具漏比賣命、生子、大江王。一柱。此王、娶庶妹銀王、生子、大名方王、次大中比賣命。二柱。故、此之大中比賣命者、香坂王・忍熊王之御祖也。

入海した弟橘比賣の忘れ形見「若建王」が登場する。ところで弟橘比賣の存命中の居場所は?…後の男淺津間若子宿禰命(允恭天皇)の御子「橘大郎女」と同じところと思われる。現地名は京都郡みやこ町勝山松田の飛松辺りと推定される。詳しくは允恭天皇紀を参照。若建王は父親の「建」を引き継いだものであろう。

息長の地から出雲へと系譜が移動したことを告げている。先ずは日子坐王の子孫から導かれた「息長」の地に居た息長田別王の所在から求めてみよう。下図を参照願う。
 
息長田別王・杙俣長日子王

<倭健命:息長系譜>
「一妻」とは、名前を伏せたのか、記録に無かったのか不詳ではあるが、この王の子孫から後の仲哀天皇が誕生し、更に応神天皇が絡んで、そして皇統断絶の危機を救った継体天皇へと繋がるのである。

杙俣長日子王から二手に分かれた(俣となった)皇統が入れ替わったと伝えているのである。古事記からその詳細は伺い知れないところだが・・・。

「杙俣長日子王」近接する山稜を模したものと思われる。三女が誕生する。飯野眞黑比賣命、息長眞若中比賣、弟比賣であるが、長女はこの地を離れたのだろう。確かに多くの比賣を養うには手狭なところであったろう。

応神天皇紀で述べることになるが、次女から生まれた御子達も旦波国内へと拡散する。垂仁天皇紀の日子国、沙本と同じく御子達が羽ばたく、いやそうせざるをえない環境であったと推測される。長女、飯野眞黑比賣命は一体何処に羽ばたいたのか?…名前から求められるのか?…誕生する御子の名前と併せて地形象形されているとして紐解いてみよう。
 
飯野眞黑比賣・須賣伊呂大中日子王

大中日子王に含まれる文字は余りにも一般的なもので一に特定することは難しいのであるが、一つの解釈として、「大(意富)|中(中心)」とできる。この名前の前に「須賣伊呂」と付記される。この解釈も殆ど無視か「スメイロ」と読んで「天皇の同腹兄弟」(正しくは須賣伊呂杼)のように読まれている。系譜的には全く当て嵌らない読み解きになる。「須賣伊呂」を直接紐解くと…、
 
<飯野眞黑比賣命・大中日子王>
須(州)|賣(窪み)|伊(谷間で区切られた山稜)|呂(積み重なる)

…「谷間で区切られて積み重なった山稜の前にある州が窪んでいるところにある地」と読める。

さて、出雲の中心地にそんな場所があるのか?・・・見事なまでにそれを再現した地形が見出だせる。

戸ノ上山山稜が作る無数の谷が作る川と州、その中の高台である。何とも捻くれた根性の持ち主であろうか、古事記編者達は・・・。いや、この段の日本書紀の記述は全く希薄であり、出雲の地の情報隠蔽に注力しているところである。古事記は難解な表現とせざるを得なかったのであろう。

「飯野眞黑比賣」は…既に紐解いた「飯」=「なだらかな山麓」、「黑」=「囗+米+灬(炎)」=「谷間で[炎]形の山稜が延びているところ」、「眞」=「寄せ集められた」様とすると…、
 
なだらかな山麓の野に[炎]形の山稜が延びて寄せ集められているところ

…の傍らに坐した比賣と解読される。母子の名前を併せて出雲の中心に坐していたと読み解けるのである。「眞」=「匕+鼎」は天之眞名井などで登場した文字で「鼎」の象形で器に物を一杯に詰め込む様を表すと解釈する。
 
淡海之柴野入杵・柴野比賣
 
<淡海之柴野入杵・柴野比賣・迦具漏比賣命>
この
須賣伊呂大中日子王が娶ったのが「淡海之柴野入杵之女・柴野比賣」と記される。崇神天皇紀で登場の大入杵命にで少し触れたが、ここで詳細に述べてみよう。

現在の北九州市門司区にある観音山(団地)となっている高台を「杵」の地形と見做していることは間違いところであろう。更に「柴野」の示す場所が解れば彼らの居場所を特定することができると思われる。

「柴」=「此+木」と分解される。「此」=「止+匕」からなる文字であると知られている。即ち「人が歩くのを止めて立ち止まって様」を象形した文字と解説されている。

これを地形象形的に解釈すると「柴」=「谷間を挟む山稜が長く延びている」様と解釈される。すると「柴野入杵」は…、
 
谷間を挟む山稜が長く延びた野の中にある[杵]のような形をしたところ

…と紐解ける。この親子は、図に示した「杵」の中央部の窪んだ地が出自と推定される。「此」を「比」(並ぶ、くっ付く)とよく似た文字と見做しても、大きな間違いではないことが分かるが、「入杵」の表記と合せて単に並んでいるのではないことを表していることが解る。
 
迦具漏比賣命

誕生したのが「迦具漏比賣命」と記述される。「迦」=「出合う」、「具」=「鼎+廾」=「山稜に挟まれて窪んでいる」様、「漏」=「水辺で山稜が細かく岐れて延びている」様と解釈して…、
 
山稜に挟まれて窪んだ地が水辺で細かく岐れて延びた山稜と出合うところ

…と紐解ける。母親の南西側、大里東小学校がある辺りと推定される。現在は宅地になっていて「漏」の山稜を確認し辛いが、図を拡大するとその痕跡が伺えるように思われる。ところで、この比賣の名前は前記では「訶具漏比賣命」と表記される。「迦」→「訶」で置き換えられている。この場合は何と紐解けるであろうか…、
 
耕地がある谷間の窪んだ地の傍に細かく岐れた山稜があるところ

…と解釈できる。「柴野」にある谷間が強調された別表記と思われる。更に物語を続く・・・。
 
大江王
 
何故か景行天皇がしゃしゃり出て来る。三世代も四世代も違うわけで現在の常識からするとあり得ない、と片付けられそうであるが、果たして?・・・。十四、五歳で労働力の再生産が行われたするとあり得なくもない、と言ったところであろうか、検証できず、である。
 
<大江王>
この名前も簡単である。が、そのまま読めば「大(意富)|江(入江)」となろう。図に現在の標高から推定した海岸線を示した。

これによると黄金町辺りは大変が海面下で大きな入江を形成していたと思われる。この入江が少名毘古那神などが接岸した入江である。だから、簡単に表記したとも言えそうである。

後代に様々な由来がある御所神社辺りが入江の突端になっていたのであろう。いずれにしても出雲北部には大きな入江が二つあったことが判り、出雲関連の説話の内容と合致して興味深いところである。

ところでこの王は前記で「大枝王」と記載される。紐解くと…、

大(大の)|枝(山稜が分かれたところ)|王

…図に示した通り二つの山稜の間にあり、入江(谷間)が形成された場所に坐していたと告げている。全く同義となってその場所の地形を明確に示そうとしていると受け止められる。「枝」=「木(山稜)+支(分かれる)」で解読される。
 
銀王・大名方王・大中比賣命

この段、最後になってまたまた難解な名前が登場する。「庶妹銀王」八十人もの御子がいる景行天皇の?…些か混迷の極みの状況だが、唯一の頼りである名前から紐解いてみよう。「銀」=「金([ハ]形の山麓の高台)+艮(目)」と分解すると…「銀王」は…、
 
<銀王・大名方王>
[ハ]形の山麓の高台が[目]形のところ

…に座していた王と解釈される。戸ノ上山北麓の複雑な山稜が作る地形と思われる。既出の建比良鳥命の場所に重なるところと思われる。


古事記中には一度しか登場せず「銀」の文字を使った地形象形と思われる箇所もここのみのようである。検証の余地はないが、御子の所在と併せて見てみよう。

「大名方王」と記される。大国主命の国譲りと言われる段で登場する建御名方神と類似するのではなかろうか。

「名」=「夕(月)+口(限定符号)」=「山稜の端の三角州」と紐解いた。「大名方王」は…、
 
大(平らな頂)|名(山稜の端の三角州)|方(広がる)

…「平らな頂の山稜の端にある三角州が広がったところ」に坐した王となる。上図に示した場所と思われる。「大中比賣命」は「大中日子王」の近隣と思われる。
 
<倭健命:出雲系譜>
さて、全員揃ったところで纏めて、系譜も含めて図示すると…かなりの錯綜としたものになるが、出雲北部の地に張り付いた状態を示すものとなる。


この系譜の出口は大中比賣が帶中日天皇(仲哀天皇)に娶られて「香坂王・忍熊王」を誕生させるところである。

彼らは息長帶比賣命(神功皇后)に逆らい敢無くこの世を去ることになる。錯綜とした系譜が途絶えたと古事記は伝えるのである。

同じ息長一族でありながら、逆に同じ一族であるからこその葛藤が皇統に与えた影響は計り知れないところである。

この系譜を眺めても出雲の南部は登場しない。古事記の物語は、北部肥川の近隣を舞台とする。繰り返すようだが、出雲は淡海にあった。淡海は近江ではない。正真正銘の「淡」=「氵+炎」の海である。
 
――――✯――――✯――――✯――――

最後に「西方東方」について述べてみたい。明らかにこれを述べた景行天皇は、西に熊曾、出雲あり、東方に十二道があるとの認識であろう。推測すれば当時はそれが常識であったと思われる。現在の地図からすると企救半島を南北に立て、倭の真北に置いた地形を描いていたのであり、吉備は更にその北方にある。

地図というもの、いやその概念もない時代では日常の話し言葉の中で用いられる表現として許容される範囲の誤差であろう。そう考え及ぶと安麻呂くんが筑紫嶋を羅針盤のように用いた「面四」の記述は、書き残す文書には不可欠なものであったと推測される。彼自身の頭の中に地図が描かれていたかどうかは定かでないが、彼の物語の中でどうしても方位の基準が欲しかったのであろう。

当時の常識という壁と文書にするという矛盾の解消を示してくれたのではなかろうか。そして日常の有様をそのまま記述したことを天よりも高く評価したい。
 
――――✯――――✯――――✯――――


<景行天皇                                  成務天皇>
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