成務天皇
八坂之入日賣命の御子、若帶日子命が天皇となる。古事記原文は下記のみという素っ気なさである。いろいろと憶測が生じることになるが、それはともかくとして、読み下してみよう。
若帶日子天皇、坐近淡海之志賀高穴穗宮、治天下也。此天皇、娶穗積臣等之祖建忍山垂根之女・名弟財郎女、生御子、和訶奴氣王。一柱。故、建內宿禰爲大臣、定賜大國小國之國造、亦定賜國國之堺・及大縣小縣之縣主也。天皇御年、玖拾伍歲。乙卯年三月十五日崩也。御陵在沙紀之多他那美也。
若帶日子天皇、坐近淡海之志賀高穴穗宮、治天下也。此天皇、娶穗積臣等之祖建忍山垂根之女・名弟財郎女、生御子、和訶奴氣王。一柱。故、建內宿禰爲大臣、定賜大國小國之國造、亦定賜國國之堺・及大縣小縣之縣主也。天皇御年、玖拾伍歲。乙卯年三月十五日崩也。御陵在沙紀之多他那美也。
この天皇は師木、倭の中心から外れたところに坐したと伝える。しかも未開の地であった近淡海國に向かったのである。とすれば、第二代綏靖天皇の時と重なるのではなかろうか。当時は全くの未開の地であった葛城への侵出、今度は幾らかは開拓されたところがあるが、近淡海國の最も内陸にあるところは手付かずの状態であった筈である。
土地の開拓になると途端に記述が少なくなること、これも重なるのである。他国に出張って言向和することがなければ説話も生じず、ってことなのであろう。確かに内政重視の戦略と様相である。近淡海の何処に居たのか、紐解いてみよう。
1. 近淡海之志賀高穴穗宮
1. 近淡海之志賀高穴穗宮
1-1. 近淡海
これを解くのに何日費やしたであろうか…懐かしく思い出す。解けた感動の文章を…拙く感じる、今も拙さは変わらずだが…極力原文のままで転記しよう・・・。
これを解くのに何日費やしたであろうか…懐かしく思い出す。解けた感動の文章を…拙く感じる、今も拙さは変わらずだが…極力原文のままで転記しよう・・・。
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「志賀(滋賀)」の由来? 「石(の多い)処」or「(波の)皺(の多い)処」=「イ(シ or ワ)カ」=「シガ」だとか。納得いくわけがない。由来を聞いてなるほどと思うケースは稀である。怪しいのである。ここ二、三か月の悩みの種。古事記の記述者が「淡海」と「近淡海」を区別している以上「淡海」にある「志賀島」は対象にならない。
「近江」、「遠江」のテーマには「江」がキーワードと進めてきた。やはり「江」に関わる謎解きが正攻法と考え直し、以下のような解釈に到達した。「遠江」=「遠賀」=「オンガ」は重要なヒントであろう。
「シ」は何か?…「シ」と読める漢字は無数にあるが、当該の入江にあった意味を有するもの、思いついたのが「嘴」であった。当時の入江は想像以上に粗削りで「砂嘴」と呼ばれる形をしていたのではなかろうか?これを組み合わせると「志賀」=「嘴江」となる。
ネットでの事例を検索したが、関東の青梅の山から眺めた茨城県の「銚子江」=「長嘴江」と表現している山頂の石碑(トレッキングされた方のブログ)が唯一であった。形状からして、さもありなん、というわけだが、かなり特殊な表現であろうかと思われる。
ネットでの事例を検索したが、関東の青梅の山から眺めた茨城県の「銚子江」=「長嘴江」と表現している山頂の石碑(トレッキングされた方のブログ)が唯一であった。形状からして、さもありなん、というわけだが、かなり特殊な表現であろうかと思われる。
そうこうしているうちに中国浙江省の銭塘江は蛇行が激しいことから曲江・之江・折江・浙江などと呼ばれ、「之江(シコウ)」が折れ曲がって流れるさまを象形したものとわかった。河口付近の蛇行する川のありさまを巧みに表現している。また、中国のこの地にある河姆渡遺跡を含む大地は倭人の故郷と言われている。
渡来した倭人たちにとっては見慣れた、聞き慣れた言葉であったかもしれない。そして眼前に広がる複数の蛇行する川が流れ込む入江が故郷を思い起こさせたのではなかろうか。
・・・かなり簡略に述べているが、実際にはもっと様々なところを探索して行き着いたのが「之江」であった。「之」の文字が示す地形象形という表現もこの時に初めて気付いたように記憶する。そして現在に至るまでに登場した、もっと複雑な漢字を用いて地形を表す世界に埋没してしまったという訳である
既に多くのケースで読み解いた「志」=「蛇行する川」は、「之」の地形象形に基づくものであると結論付けられる。
…「士」は本来「之」(「足」の象形:進む、行く)と解説される。やはり単に音が同じだから用いたのではなく、「之」を含んでいたことが解る。敢えて訳せば「志」=「根っから(元から、真に)蛇行する川」となろう。関連する文字は、時量師神などの「寺」(「足(之)+寸(手)」)にも「之」が含まれているのである。漢字の成立ちに遡って「之」を表現していることが解る。
志=之(シ)
渡来した倭人たちにとっては見慣れた、聞き慣れた言葉であったかもしれない。そして眼前に広がる複数の蛇行する川が流れ込む入江が故郷を思い起こさせたのではなかろうか。
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・・・かなり簡略に述べているが、実際にはもっと様々なところを探索して行き着いたのが「之江」であった。「之」の文字が示す地形象形という表現もこの時に初めて気付いたように記憶する。そして現在に至るまでに登場した、もっと複雑な漢字を用いて地形を表す世界に埋没してしまったという訳である
既に多くのケースで読み解いた「志」=「蛇行する川」は、「之」の地形象形に基づくものであると結論付けられる。
志=士(之)+心
…「士」は本来「之」(「足」の象形:進む、行く)と解説される。やはり単に音が同じだから用いたのではなく、「之」を含んでいたことが解る。敢えて訳せば「志」=「根っから(元から、真に)蛇行する川」となろう。関連する文字は、時量師神などの「寺」(「足(之)+寸(手)」)にも「之」が含まれているのである。漢字の成立ちに遡って「之」を表現していることが解る。
「近淡海」=「豊前(京都)平野」(当時は大半が海面下)として来たが、その詳細は決して明らかではない。実際に未だに発展途上の地域だったのであろう。現在の様相とは大きく異なる。それは古遠賀湾と表現されるのと同じく、また山国川河口付近、北九州市若松区も、縄文海進による海面上昇と沖積の未熟さが示す違いに依存する。この地形の変化を考慮せずして古事記を読み解くことはできない、と確信する。
更に初見を引用すると・・・、
なかでも「大山咋神(山末之大主神)」が坐した「日枝(山)」を「稗田」に置換え、「(古名)長峡県日吉神領の宮山」=「行橋市下稗田の宮の杜(団地)」と比定した。
また、現在の比定地「比叡山」の地主神「日吉大社」との関連で、「淡海」=「近江」の書換えと同時にそれに伴う神社の置換えが明らかとなり、壮大な「国譲り」の一端を曝すことができた。この「禊祓」の実態を信じるならば、もう一つの「禊祓」である「近淡海之志賀高穴穂宮」の所在地を何とかして突き止めたくなる。
更に初見を引用すると・・・、
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なかでも「大山咋神(山末之大主神)」が坐した「日枝(山)」を「稗田」に置換え、「(古名)長峡県日吉神領の宮山」=「行橋市下稗田の宮の杜(団地)」と比定した。
また、現在の比定地「比叡山」の地主神「日吉大社」との関連で、「淡海」=「近江」の書換えと同時にそれに伴う神社の置換えが明らかとなり、壮大な「国譲り」の一端を曝すことができた。この「禊祓」の実態を信じるならば、もう一つの「禊祓」である「近淡海之志賀高穴穂宮」の所在地を何とかして突き止めたくなる。
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・・・「近江」「遠江」の表現に拘りがあったのであろう。日本書紀が極一部を除き古事記中の「淡海」→「近江」に置き換えた事実、既に日本書紀が史書としての価値がないことを見抜いていたことを思い出す。上記の壮大な「国譲り」と同時に公にされる文書の書き換えが実行されたのである。
古事記はその状況の中で奇跡的に生き延びることができた書物である。その最大の理由は、書かれた内容を解読することが不可能と見倣されたからであろう。事実、現在に至るまで解読されていない。「之」の文字を使って地形象形できるとしても「地図」という概念と精密な測量技術など考えつく筈もなかったのである。
何十万年、それ以上の年月からみれば古事記の時代から現在までの期間の地形の変化は摂動に過ぎないと考える。基本的な地形の上に摂動された変化を考慮するならば記録された当時の地形を再現することが可能となる。地球全体が「遺跡」なのである。一部古代の海面に関する文献を参考資料に載せているが、更なる進展が望まれるところである。
そう、忘れてはならないのが海底遺跡と呼ばれる場所、もっと進んだ調査を期待したい。単なるロマンを追いかけるだけではなく、これも重要な地形の一つなのだから・・・。
いずれにしても漢字の成立の基礎である「象形」の概念を「地形」拡大解釈した表記方法を思いついた古事記編者達の着想は驚嘆すべきことかと思われる。更に古事記全編を通じてそれが貫かれていることにも感心させられる。これによって古事記は「史書」として価値を持つと同時に「地政学書」としての側面を示すと気付かされるのである
短い天皇記と思えば、余談ぽくなって来たので本来の紐解きに戻ろう。最後に「賀」の文字をきちんと紐解いておこう。この文字は既出である。特に関連付けられそうなのが、速須佐之男命が坐した須賀宮、内色許男命の比賣・伊賀迦色許賣命であろう。「賀」=「挟まれた(囲まれた)地が押し拡げられた様」と紐解いた。「志賀」は…、
蛇行する川が押し拡げられたような谷間を流れるところ
1-2. 穴穂
通説は「穴穂(あのう)」=「大津市坂本穴太町」そこにある「穴穂神社」が比定されている。字面と読みからである。「禊祓」がある限り、元の場所を求めることは幸運を祈るしかない。
「穴」=「孔、凹(くぼみ)、空(虚)、洞」
「穂」=「先(端)、端、岬、秀(表面に出て目立つ)、群がり並ぶ様子」
極めて単純に「穴穂」=「穴の穂」である。穴が群がり並ぶ、墓場です。確かにこの平野には無数の古墳がある。いや、もっと探せば限りなく見出せるかも、です。逆にあり過ぎて特定が難しいことになる。事実そうである。
では、何の穴か?…「穴」=「洞」と置換えてみた。
カルスト台地「平尾台」
「豊前(京都)平野」の西側の山稜に「平尾台」というカルスト高原地帯がある。香春岳が良質の石灰石を産むようにこの地もまた石灰の山である。紹介されている。純白の色彩、丸味を帯びた大小の露出石灰岩が素晴らしいとのこと。
この高原には約200の洞窟があり平尾台東端に開口しているとの記載がある。その中の一つである千仏鍾乳洞(昭和10年国の天然記念物指定)には入り口付近の鍾乳石が30余りあり日本一とも言われているそうである。長い年月を経て酸性の雨水により造形されたものである。
間違いなくこの地は「洞の穂」なのである。200余りの洞窟が開口する場所は平尾台山稜の東側にある。地図上で確認できる主な鍾乳洞は、最も山口に近い矢山から直線距離で:千仏鍾乳洞 1.5km(300m)*、不動洞 1.1km(200m)*、出水鍾乳洞 1.7km(350m)*である。(
これらの「高穴穂」を背に持ち「之」の川が流れるところは一に特定できる。現在の小波瀬川が平尾台から流れるでるところである。この川の蛇行は今も甚だしく当時の面影を残しているのではなかろうか。宮の場所は現地名行橋市高来、貴船神社の辺りかと推定される。「高穴」=「高空」=「高来」とも読めるが・・・。
「高」=「高い」の意味と解釈しても支障はないようではあるが、やはり「皺が寄った筋目のあるところ」であろう。
無数にある筋目に「穴(洞)」が開口する。自然が造る広大な景観を示している。
雄略天皇紀に吉野(現平尾台)に向かう説話が登場する。山裾に着いた天皇が吉野河(現小波瀬川)の川辺で、とある比賣と遭遇する。
そこは志賀高穴穂の宮の近隣であろう。地図から明らかなように急勾配の山に挟まれた谷の出口である。しかしながら茨田と池作りの蓄積技術があれば何とかなる地でもあったろう。
既述したように近淡海國の南及び北側は開拓が進み、残る西側中央部の開拓を目指したのであろう。更に河口付近に近付く河内中央の治水はもう少し後代にならないと果たせなかったのである。天皇家の戦略は、「土地の開拓」と「他国の言向和」の螺旋状の発展を目指した、と告げている。
2. 穗積臣等之祖建忍山垂根之女・名弟財郎女
無数にある筋目に「穴(洞)」が開口する。自然が造る広大な景観を示している。
雄略天皇紀に吉野(現平尾台)に向かう説話が登場する。山裾に着いた天皇が吉野河(現小波瀬川)の川辺で、とある比賣と遭遇する。
そこは志賀高穴穂の宮の近隣であろう。地図から明らかなように急勾配の山に挟まれた谷の出口である。しかしながら茨田と池作りの蓄積技術があれば何とかなる地でもあったろう。
既述したように近淡海國の南及び北側は開拓が進み、残る西側中央部の開拓を目指したのであろう。更に河口付近に近付く河内中央の治水はもう少し後代にならないと果たせなかったのである。天皇家の戦略は、「土地の開拓」と「他国の言向和」の螺旋状の発展を目指した、と告げている。
2. 穗積臣等之祖建忍山垂根之女・名弟財郎女
穂積臣は孝元天皇の娶りに登場した内色許男命が祖となった地と説明されたところである。引用すると…「大倭根子日子國玖琉命、坐輕之堺原宮、治天下也。此天皇、娶穗積臣等之祖・內色許男命、此妹・內色許賣命、生御子、大毘古命、次少名日子建猪心命、次若倭根子日子大毘毘命」
既に「穂積」の意味そしてそれが示すところを紐解いた。大坂山・戸城山に囲まれた山麓の稜線が積み重なるように広がる地形のを表したものと思われ、穂積臣の居場所は現在の田川郡赤村内田及び香春町柿下辺りと推定された。
「忍山垂根」の居場所は何処であろうか?…「忍」=「目立たない」として…、
忍山=目立たない山
…と解釈できる。既に登場の「忍坂」=「目立たない坂」などに類する。すると、標高がまだ低いところ、入口に当たる場所と思われる。
「垂根」は池で蓴菜などの栽培に長けていた人物を示すと思われる。するとこの親子の居場所は池の近傍に求められると思われる。
「忍山」の意味も含めて探すと「穂積」の西端の地が見出だせる。地図に記載された池も、勿論当時との異同はあろうが、根拠としても無理ではないと思われる。
谷間が堰き止められたようになっている様
…谷間の両脇の山稜が接近している様子を表している。「弟」が付加されているが、姉が居たのか、もしくは若干山稜に細かく突起があることに由来するか(「弟」の文字解釈はこちらを参照)、はたまたその両者なのかは判別が難しいようである。
御子に「和訶奴氣王」が誕生する。「氣」=「気配、~のように見える」として…、
和(しなやかに曲がる)|訶(谷間の耕地)
奴(嫋やかに曲がる[手]の地形)|氣(様子)
奴(嫋やかに曲がる[手]の地形)|氣(様子)
…「しなやかに曲がる谷間の耕地の傍らの嫋やかに曲がる[手]の形のように見えるところ」の王と解釈される。「奴」=「女+又(手)」と分解される。やや[手]の形としては不明瞭なことから「氣」を付けたのではなかろうか。安萬侶コード「訶(谷間の耕地)」は「訶」=「言+可」から求められた(和訶羅河など)。
父親は真っ当に引き継いだ皇位故にその息子にもそのまま移るかと思いきや、その後の行く末は不詳である。名前で未熟さを示したつもりなのであろうか?…経緯、不詳である。
次期天皇は前記倭建命が伊玖米天皇之女・布多遲能伊理毘賣命を娶って誕生した帶中津日子命(仲哀天皇)が継ぐことになる。倭建命によって西方(熊曾国、出雲国)及び東方十二道が言向和されるのだから、各々の国を定める作業に取り掛かったという記述は頷ける(「倭国連邦言向和国」と呼ぶことに…)。
<沙紀之多他那美陵> |
建内宿禰の登場については、少々説明があっても良いのでは?…と思いたくなるような時間観念である。この後にもご登場なさるが、それはシャレのような?・・・。
3. 陵墓
「天皇御年、玖拾伍歲。乙卯年三月十五日崩也。御陵在沙紀之多他那美也」
崩御の年に干支が入ってくるのだが、不確かなので割愛する。
御陵が「沙紀」にあると述べられる…「沙」=「水辺で山稜の端が平らに延びた地形」、「紀」=「糸+己」=「撚り糸のように畝る地形(己)」として…、
沙(水辺で山稜の端が平らに延びる)|紀(畝る)
…と紐解ける。多他那美の「他」=「蛇の形」を象形したものと言われる。
多(山稜の端の三角州)|他(長く畝る)
那(ゆったりと)|美(谷間に広がる地)
那(ゆったりと)|美(谷間に広がる地)
後裔の記述も途切れ、また説話の部分もなく、通説は実在しないとする場合が多く、「欠史八代」とよく似た扱いを受けている。とは言うものの「淡海・近淡海」=「近江」として頻出する場所に坐していた天皇であり、記述の少なさとは相容れない様相なのである。
勿論「淡海・近淡海」=「近江」の等式の矛盾を露呈しているわけだが、解釈に窮したら上記の実在しないという逃げ道を持ち出すことになる。成務天皇紀は、穂積という名の一族が衰え、丸邇一族が台頭する重要な節目であったことを告げているのである。