2023年2月21日火曜日

廢帝:淳仁天皇(20) 〔624〕

廢帝:淳仁天皇(20)


天平字八年(西暦764年)十月八日の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀3(直木考次郎他著)を参照。

辛未。授從五位下高橋朝臣廣人從五位上。從六位上百濟王武鏡從五位下。外從五位下日置造蓑麻呂外正五位下。无位弓削宿祢美努久女。乙美努久女。刀自女並從五位下。」中務少丞正六位上大原眞人都良麻呂賜姓淨原眞人。名淨貞。壬申。高野天皇遣兵部卿和氣王。左兵衛督山村王。外衛大將百濟王敬福等。率兵數百圍中宮院。時帝遽而未及衣履。使者促之。數輩侍衛奔散無人可從。僅与母家三兩人。歩到圖書寮西北之地。山村王宣詔曰。挂〈末久毛〉畏朕〈我〉天先帝〈乃〉御命以〈天〉朕〈仁〉勅〈之久〉天下〈方〉朕子伊末之〈仁〉授給事〈乎之〉云〈方〉王〈乎〉奴〈止〉成〈止毛〉奴〈乎〉王〈止〉云〈止毛〉汝〈乃〉爲〈牟末仁末尓〉假令後〈仁〉帝〈止〉立〈天〉在人〈伊〉立〈乃〉後〈尓〉汝〈乃多米仁〉无礼〈之弖〉不從奈賣〈久〉在〈牟〉人〈乎方〉帝〈乃〉位〈仁〉置〈許止方〉不得。又君臣〈乃〉理〈仁〉從〈天〉貞〈久〉淨〈岐〉心〈乎〉以〈天〉助奉侍〈牟之〉帝〈止〉在〈己止方〉得〈止〉勅〈岐〉。可久在御命〈乎〉朕又一二〈乃〉竪子等〈止〉侍〈天〉聞食〈天〉在。然今帝〈止之天〉侍人〈乎〉此年己呂見〈仁〉其位〈仁毛〉不堪。是〈乃味仁〉不在。今聞〈仁〉仲麻呂〈止〉同心〈之天〉竊朕〈乎〉掃〈止〉謀〈家利〉。又竊六千〈乃〉兵〈乎〉發〈之〉等等乃〈比〉又七人〈乃味之天〉關〈仁〉入〈牟止毛〉謀〈家利〉。精兵〈乎之天〉押〈之非天〉壞亂〈天〉罸滅〈止〉云〈家利〉。故是以帝位〈乎方〉退賜〈天〉親王〈乃〉位賜〈天〉淡路國〈乃〉公〈止〉退賜〈止〉勅御命〈乎〉聞食〈止〉宣。事畢。將公及其母。到小子門。庸道路鞍馬騎之。右兵衛督藤原朝臣藏下麻呂。衛送配所。幽于一院。勅曰。以淡路國賜大炊親王。國内所有官物調庸等類。任其所用。但出擧官稻一依常例。」又詔曰。船親王〈波〉九月五日〈尓〉仲麻呂〈止〉二人謀〈家良久〉書作〈弖〉朝庭〈乃〉咎計〈弖〉將進〈等〉謀〈家利〉。又仲麻呂〈何〉家物計〈夫流尓〉書中〈尓〉仲麻呂〈等〉通〈家流〉謀〈乃〉文有。是以親王〈乃〉名〈波〉下〈弖〉諸王〈等〉成〈弖〉隱岐國〈尓〉流賜〈布〉。又池田親王〈波〉此夏馬多集〈天〉事謀〈止〉所聞〈支〉。如是在事阿麻多太比所奏。是以親王〈乃〉名〈波〉下賜〈天〉諸王〈等志弖〉土左國〈尓〉流賜〈布等〉詔大命〈乎〉聞食〈止〉宣。」以正五位上阿倍朝臣息道爲攝津大夫。從五位下美和眞人土生爲亮。從五位下坂本朝臣男足爲隱岐守。從五位下藤原朝臣黒麻呂爲播磨守。從五位下葛井連立足爲介。從五位下佐伯宿祢助爲淡路守。癸酉。以從五位下紀朝臣佐婆麻呂爲和泉守。甲戌。勅曰。天下諸國。不得養鷹狗及鵜以畋獵。又諸國進御贄雜完魚等類悉停。又中男作物。魚完蒜等類悉停。以他物替充。但神戸不在此限。」以從五位下荻田王爲丹後守。外從五位下葛井連根主爲阿波守。丁丑。詔曰。諸奉侍上中下〈乃〉人等〈乃〉念〈良末久〉。國〈乃〉鎭〈止方〉皇太子〈乎〉置定〈天之〉心〈毛〉安〈久〉於多比〈仁〉在〈止〉常人〈乃〉念云所〈仁〉在。然今〈乃〉間此太子〈乎〉定不賜在故〈方〉人〈乃〉能〈家武止〉念〈天〉定〈流毛〉必能〈之毛〉不在。天〈乃〉不授所〈乎〉得〈天〉在人〈方〉受〈天毛〉全〈久〉坐物〈仁毛〉不在後〈仁〉壞。故是以〈天〉念〈方〉人〈乃〉授〈流尓〉依〈毛〉不得。力〈乎〉以〈天〉競〈倍伎〉物〈仁毛〉不在。猶天〈乃〉由流〈之天〉授〈倍伎〉人〈方〉在〈良牟止〉念〈天〉定不賜〈奴仁己曾阿礼〉。此天津日嗣位〈乎〉朕一〈利〉貪〈天〉後〈乃〉繼〈乎〉不定〈止仁方〉不在。今〈之紀乃〉間〈方〉念見定〈牟仁〉天〈乃〉授賜〈方牟〉所〈方〉漸漸現〈奈武止〉念〈天奈毛〉定不賜勅御命〈乎〉諸聞食〈止〉勅。」復勅〈久〉。人人己比岐比岐此人〈乎〉立〈天〉我功成〈止〉念〈天〉君位〈乎〉謀竊〈仁〉心〈乎〉通〈天〉人〈乎〉伊佐奈〈比〉須須〈牟己止〉莫。己〈可衣之〉不成事〈乎〉謀〈止曾〉先祖〈乃〉門〈毛〉滅繼〈毛〉絶。自今以後〈仁方〉明〈仁〉貞〈岐〉心〈乎〉以〈天〉可仁可久〈仁止〉念〈佐末多久〉事奈〈久之天〉教賜〈乃末仁末〉奉侍〈止〉勅御命〈乎〉諸聞食〈止〉勅。」授正六位上丈部路忌寸並倉外從五位下。无位紀朝臣益女從五位下。己夘。勅曰。朕忝臨万邦。軫慮一物。昧旦思治。夕惕兢兢。而賊臣仲麻呂。昏凶狂悖。作逆逋亡。天網高張。咸伏誅戮。朕念黎庶洗滌舊惡。遷善新美。宜大赦天下。自今月十六日昧爽已前大辟已下。罪無輕重。未發覺。已發覺。未結正。已結正。皆赦除之。但仲麻呂与黨及常赦所不免者。不在赦限。亦頃年水旱。荐失豊稔。民或飢乏。仍以軍興。宜免天下今年租。布告遐邇。知朕意焉。癸未。以正五位下藤原朝臣田麻呂爲右中弁。正四位下石川朝臣豊成爲大藏卿。右大弁如故。從五位下小野朝臣石根爲造宮大輔。從五位下大伴宿祢伯麻呂爲左衛士佐。正五位下藤原朝臣田麻呂爲外衛中將。右中弁如故。從五位下藤原朝臣小黒麻呂爲伊勢守。正五位下津連秋主爲尾張守。從四位下中臣伊勢朝臣老人爲參河守。從五位下山田御井宿祢廣人爲介。從五位上下毛野朝臣多具比爲遠江守。從五位下眞立王爲伊豆守。中衛少將從四位下坂上大忌寸苅田麻呂爲兼甲斐守。授刀少將從四位下牡鹿宿祢嶋足爲兼相摸守。從五位下文室眞人水通爲介。衛門督從四位下弓削御淨朝臣淨人爲兼上総守。從五位下紀朝臣廣庭爲介。從五位下上毛野朝臣馬長爲上野守。兵部卿從三位和氣王爲兼丹波守。正四位下高麗朝臣福信爲但馬守。式部大輔勅旨員外大輔授刀中將從四位下粟田朝臣道麻呂爲兼因幡守。左兵衛佐從四位上大津宿祢大浦爲兼美作守。從五位上中臣丸連張弓爲伊豫守。甲申。勅曰。在京見禁囚徒。大辟已下。悉皆赦除。但逆賊仲麻呂及淡路公。船王。池田王等与黨。不在赦限。丙戌。外從五位下息長丹生眞人大國爲大和介。丁亥。授從六位上葛木宿祢大床外從五位下。己丑。无位嶋野王。淨上王。大田王。神前王。和王。甲賀王。東方王並授從五位下。從五位下石川朝臣名足從五位上。正六位上賀茂朝臣伊刀理麻呂。紀朝臣古佐美。從八位上池田朝臣眞枚並從五位下。從六位上馬毘登國人外從五位下。」以從五位下久米朝臣子虫爲伊賀守。從五位下縣犬養宿祢吉男爲伊豫介。伊豫國人大初位下周敷連眞國等廿一人賜姓周敷伊佐世利宿祢。壬辰。授正五位下百濟朝臣足人從四位下。正六位上文室眞人眞老從五位下。」以正五位下縣犬養宿祢古麻呂爲中務大輔。從五位下石川朝臣永年爲式部少輔。辛夘。以外從五位下掃守宿祢廣足爲山背介。從五位下雀部朝臣陸奥爲常陸介。從五位下弓削宿祢薩摩爲下野員外介。因幡掾外從五位下健部公人上等十五人賜姓朝臣。癸巳。勅曰。定額及額外散位等。輸續勞錢宜停。自今以後。一依令文。是曰。詔令東海。東山等國貢騎女。

十月八日に高橋朝臣廣人(國足に併記)に従五位上、百濟王武鏡()に従五位下、日置造蓑麻呂(眞卯に併記)に外正五位下、弓削宿祢美努久米・乙美努久女・刀自女(薩摩に併記)に従五位下を授けている。また、中務少丞の「大原眞人都良麻呂」に「淨原眞人」の氏姓と「淨貞」の名を賜っている。

九日に高野天皇は兵部卿の和氣王、左兵衛督の山村王、外衛大将の百濟王敬福()等を遣わし、兵士数百人を率いて、中宮院を取り囲ませている。その時帝(淳仁天皇)は突然のことであったので、まだ衣服や履物を身に付けていなかったが、使者は急き立てている。幾人かのお側付きの護衛者は散り散りに走り去って、付随う人もいなかった。僅かに母方(當麻眞人山背)の家の二、三人と共に、歩いて図書寮の西北の場所に到着している。

山村王は詔を宣して以下のように述べている(以下宣命体)・・・口に出すのも恐れ多い先帝天の帝(聖武天皇)の御言葉で、朕に仰せられたことには、[天下は朕の子の汝(孝謙天皇)に授ける。その事は言ってみるならば、王を奴としようとも、奴を王と言うとも、汝のしたいようにし、たとえ後に帝として位に就いている人でも、就いて後に帝として汝に対して礼がなく、従わないで無作法であるような人を帝の位に置いてはいけない。また君臣の道理に従って、正しく浄い心をもって助けお仕え申し上げるなら帝として存在できる]と仰せられた。このような御言葉を、朕はまた一二の堅子(傍に仕える少年)等と侍って承ったことがある。それなのに、今、帝となっている人をこの数年見ていると、その位にいる能力もない。それだけでなく、今聞いたところによると、「仲麻呂」と心を合わせて、密かに朕を除こうと謀ったのである。また密かに、六千の兵を徴発して率い、また七人だけで關に入ろうとも謀ったのである。精兵で押しのけて混乱させて、朕を打ち滅ぼそうと言った。それ故このような理由で、帝の位から退かせ、親王の位を与えて、淡路國の公として退かせる、と仰せなる御言葉を承れと申し渡す・・・。

事が終わると、公とその母を従えて、「小子門」(小子部氏が管轄する門だとか。たぶんこちらにあったのでは?)に行き、道路の鞍付きの馬をつかまえて公等を乗せた。右兵衛督の藤原朝臣藏下麻呂(廣嗣に併記)が配所に護衛して送り届け、一つの院に幽閉している。

次のように勅されている・・・淡路國を大炊親王に与える。國内にある官物・調・庸などの類は、自由に使ってよい。但し、出挙の官稲は、みな常の例に依れ・・・。

また、次のように詔されている・・・船親王は九月五日に「仲麻呂」と二人で共謀して[書状を作り、朝廷のあやまちを数えて上進しよう]と謀った。また「仲麻呂」の家(田村第)の品物を集計したところ、書物の中に「仲麻呂」と取り交わした陰謀の手紙があった。この理由で親王の名は格下げにして諸王として隠岐國に流罪とする。また池田親王は今年の夏、馬を多く集めて謀反のことを謀ったと聞いた。このような話は何度も上表があった。この理由で親王の名を格下げにして諸王として土左國に流罪とする、と仰せになる御言葉を承れと申し渡す・・・。

この日、阿倍朝臣息道を攝津大夫、美和眞人土生(壬生王)を亮、坂本朝臣男足を隠岐守、藤原朝臣黒麻呂を播磨守、葛井連立足を介、佐伯宿祢助を淡路守に任じている。

十日に紀朝臣佐婆麻呂(鯖麻呂)を和泉守に任じている。十一日に次のように勅されている・・・天下の諸國において、鷹・犬及び鵜を飼って、狩りや漁りをしてはいけない。また、諸國からの御贄としていろいろな肉や魚などの類を進上することを全て停止せよ。また、中男作物の魚・肉・蒜などの類も全て停止し、他の物に振り替えよ。但し神戸はこの限りではない・・・<道鏡の教えによるか?>。また、荻田王を丹後守、葛井連根主(惠文に併記)を阿波守に任じている。

十四日に次のように詔されている・・・お仕え申し上げている上・中・下の諸々の人々が思うには、[国家を鎮めるということは、皇太子を置き定めてこそ心も安らかに穏やかになる]と常に人が思い、言うところである。ところが今暫くの間、この皇太子を定めないでいる理由は、人が良いであろうと思って定めても、必ず良いとは限らないし、天が授けない位を得た人は、受けても落ち度なくおれるものでもなく、後に破綻してしまう。それ故にこのことを考えると、人が授けるからといって得るものでもない。力でもって競うというものでもない。やはり天が許して授けるべき人が他に存在するであろうと思うので、定めないのである。この天つ日嗣の位を朕が一人でむさぼって、後継者を定めないというのではない。今暫くの間、思い見定めているならば、天が授けて下さる人は、だんだんと現れてくるであろう、と思って定めないのである、と仰せになる御言葉をみな承れと申し渡す・・・。

また仰せになるには・・・人々が自分の贔屓によって、この人を立てて自分の功績にしようと思って、君の位を狙う謀をし、密かに心を通わして人を誘い勧めるようなことはしてはいけない。自分でさえ成し得ない事を謀るといって、先祖以来の家門を滅ぼし、後継者も絶ってしまうのである。今より後は、明らかで貞しい心をもって、あれこれと思い患うことなく、朕が教えた通りに仕えるようにせよ、と仰せなる御言葉をみな承れと申し渡す・・・。この日、丈部路忌寸並倉(石勝に併記)に外従五位下、紀朝臣益女(益人に併記)に従五位下を授けている。

十六日に次のように勅されている・・・朕はかたじけなくも万の國に君として臨んで、一つの事だけを心配している。夜明けより政治のことを思い、夕方まで誤りがないかと恐れ謹んで、びくびくしている。ところが賊臣の「仲麻呂」はおろかで凶暴で、気違いじみて道理にそむく性格なので反逆し、逃走して滅んだ。天の網は高く張ってあって、みな処罰され死罪となった。朕は人民が古い悪事を洗い清め、新しく美しい方に遷り善くなることを念じている。---≪続≫---

そこで天下に大赦を行うこととする。今月十六日の夜明け以前の死罪以下、罪の軽重を問うことなく、まだ発覚していない者も、既に発覚している者も、まだ判決が出ていない者も、既に判決が出ている者も、全て罪を許し免除せよ。但し、「仲麻呂」に味方した者と普通の赦では免除されない者は、この赦の範囲に入れない。また、ここ数年洪水や旱魃が起こり、連年稲の稔が悪く、民衆が飢えて困っている。その上戦が起こった。そこで天下の今年の租を免除するように。遠近に布告して、朕の心を知らせよ・・・。

二十日に藤原朝臣田麻呂(廣嗣に併記)を右中弁、石川朝臣豊成を大藏卿(右大弁のまま)、小野朝臣石根を造宮大輔、大伴宿祢伯麻呂(小室に併記)を左衛士佐、藤原朝臣田麻呂を外衛中將(右中弁のまま)、藤原朝臣小黒麻呂を伊勢守、津連秋主を尾張守、中臣伊勢朝臣老人を參河守、山田御井宿祢廣人を介、下毛野朝臣多具比を遠江守、眞立王(厚見王に併記)を伊豆守、中衛少將の坂上大忌寸苅田麻呂(犬養に併記)を兼務で甲斐守、授刀少將の牡鹿宿祢嶋足を兼務で相摸守、文室眞人水通を介、衛門督の弓削御淨朝臣淨人(道鏡に併記)を兼務で上総守、紀朝臣廣庭(宇美に併記)を介、上毛野朝臣馬長を上野守、兵部卿の和氣王を兼務で丹波守、高麗朝臣福信を但馬守、式部大輔勅旨員外大輔で授刀中將の粟田朝臣道麻呂を兼務で因幡守、左兵衛佐の大津宿祢大浦を兼務で美作守、中臣丸連張弓を伊豫守に任じている。

二十一日に次のように勅されている・・・平城宮で現在監禁されている囚人たちは、死刑囚以下全員赦免せよ。但し、逆賊「仲麻呂」と「淡路公・船王・池田王」等の一味は赦免の範囲には入れない・・・。二十三日に息長丹生眞人大國(國嶋に併記)を大和介に任じている。二十四日、葛木宿祢大床(戸主に併記)<後に宿祢姓授与>に外従五位下を授けている。

二十六日に「嶋野王・淨上王・大田王・神前王・和王・甲賀王・東方王」に從五位下、石川朝臣名足に從五位上、賀茂朝臣伊刀理麻呂・「紀朝臣古佐美」・池田朝臣眞枚(足繼に併記)に從五位下、馬毘登國人(比奈麻呂に併記)に外從五位下を授けている。また、久米朝臣子虫(湯守に併記)を伊賀守、縣犬養宿祢吉男(須奈保に併記)を伊豫介、伊豫國人の周敷連眞國(多治比連眞國)等二十一人に周敷伊佐世利宿祢の氏姓を賜っている。

二十九日に百濟朝臣足人に從四位下、文室眞人眞老(長嶋王に併記)に從五位下を授けている。また、縣犬養宿祢古麻呂を中務大輔、石川朝臣永年(名足に併記)を式部少輔に任じている。二十八日に掃守宿祢廣足を山背介、雀部朝臣陸奥(道奥。東女に併記)を常陸介、弓削宿祢薩摩を下野員外介に任じている。また、因幡掾の健部公人上等十五人に朝臣姓を賜っている。

三十日に次のように勅されている・・・定額及び額外の散位等が、続労銭を納めることを停止せよ。今後は専ら令文の規定に従うようにせよ・・・。この日、詔されて、東海・東山などの國に騎女(乗馬に長けた女性)を奉るように命じている。

<大原眞人都良麻呂>
● 大原眞人都良麻呂

「大原眞人」は百濟王の子孫が臣籍降下して賜った一族であるが、「高安」や「櫻井」の系譜(こちら参照)は記録が残っていたようだが、それに含まれない人物と思われる。

名前の「都良麻呂」が表す地形は、極めてありふれたものであり、特定するには些か戸惑うところであろう。ところがこの人物は、更に別の氏姓を賜ったと記載している。

先ずは、その氏姓から読み解いてみよう。淨原眞人淨貞なる名称に含まれる淨=水+爪+ノ+又=水辺で両腕のような山稜が取り囲んでいる様であり、貞=鼎+卜=山稜が枝分かれした地が窪んでいる様と解釈する。すると、図に示した場所の地形を表していることが解る。勿論、都良=なだらかな山稜が寄り集まっているところを表していることになる。

爵位は正六位上であり、おそらく改姓改名は、自己申告だったのであろう。後に大原眞人に戻され、従五位下「大原眞人淨貞」として登場し、信濃守に任じられている。

● 嶋野王・淨上王・大田王・神前王・和王・甲賀王・東方王

これだけの数の王が一挙に登場するのであるが、誰一人として素性に関する情報は見当たらないようである。勿論「神前王」は臣籍降下した甘南備眞人神前とは全くの別人であろう。前記で山部王を筆頭とする王等が登場した。彼等は越前守藤原惠美朝臣辛加知の斬殺に協力したのではと推測し、越前守の居処近隣、即ち山部王(白壁王の子)と同じく施基皇子の子孫と推定した(こちら参照)。

<嶋野王・淨上王・大田王・神前王>
<和王・甲賀王・東方王>
さて、今回は、如何なる推論が成り立つであろうか?…やはり、飛鳥周辺の地で「仲麻呂」等が通過すると思われる場所に巣食っていたのではなかろうか。

飛鳥から宇治(近江國志賀郡)への経路とすると、現在の味見峠を越えて河内國に向かう行程が着目されるであろう。

そして、最も重要なことは、この地を出自を持つ人物は未だかつて登場していないことである。このような状況を踏まえて、各王の出自場所を求めた図を示した。

各王の名前が示す地形は・・・、

❶嶋野王:嶋野=山稜が鳥の形をしている麓に野があるところ
❷淨上王:淨上=水辺で両腕のような山稜が取り囲んでいる地が盛り上がっているところ
❸大田王:大田=平らに広がって整えられたところ
❹神前王:神前=高台が長く延びた前のところ
❺和王:和=山稜がしなやかに曲がって延びているところ
❻甲賀王:甲羅のような山稜が谷間を押し拡げているところ
❼東方王:谷間を突き通す山稜が耜のように延びて広がっているところ

・・・と読み解ける。

前にも述べたように事変での貢献は不詳、と言うか全く記載されていない。あるいは、誘われたがそれに乗じなかった、だけかもしれない。それにしても、空白の地をこんな形で一挙に埋め尽くそうとの魂胆だったようにも感じられるところである。


<紀朝臣古佐美>
● 紀朝臣古佐美

「紀朝臣」一族は、全く途絶えることなく連綿と登場している。直近では寺の奴婢となっていた人物(益人・益女)まで登場させ、その地の谷間を埋め尽くさんばかりの有様である。

そんな流れかと思いきや、「古佐美」は奔流の系譜に属していたことが分かった。父親が「飯麻呂」、「大口」から五世代目の出自の持ち主であった。

頻出の文字列である古佐美を読み解くと、古佐美=丸く小高い地がある左手のような山稜の麓で谷間が広がっているところとなろう。図に示した場所がその地形となっていることが解る。「古」は祖父から、「佐」は叔父から引き継いだ文字と思われる。

何とも凄まじいばかりの配置となるが、いよいよそんな時代へと突き進んで来たのであろう。この後、大活躍されて最終正三位・大納言・勲四等だったと伝えられている。

十一月戊戌。外從五位下益田連繩手。李忌寸元環並授從五位下。從五位下藤原朝臣黒麻呂爲山背守。從五位下多治比眞人小耳爲伯耆守。從五位下李忌寸元環爲出雲員外介。從四位上日下部宿祢子麻呂爲播磨守。庚子。復祠高鴨神於大和國葛上郡。高鴨神者法臣圓興。其弟中衛將監從五位下賀茂朝臣田守等言。昔大泊瀬天皇獵于葛城山。時有老夫。毎与天皇相逐爭獲。天皇怒之流其人於土左國。先祖所主之神化成老夫。爰被放逐。〈今兼前記不見此事。〉於是。天皇乃遣田守。迎之令祠本處。癸夘。從五位下難波連奈良爲常陸員外介。乙巳。授從五位下石上朝臣息繼正五位下。罷西海道節度使。己酉。以從五位下百濟朝臣益人爲周防守。壬子。以從五位下笠朝臣道引爲但馬介。癸丑。遣使奉幣於近江國名神社。先是。仲麻呂之走據近江也。朝庭遥望祷請國神。而莫出境内。即伏其誅。所以賽宿祷也。辛酉。勅曰。依令。長上官以六考爲限。色別加二考。外散位以十二考成選。因茲慶雲年中。降恩改限。長上官以四考爲限。外散位以十考成選。然頃者。還依令條。於事不穩。宜自今已後依格立限。便開進仕之途。用慰百官之望。

十一月五日に益田連繩手(東大寺造営)・李忌寸元環(唐楽演奏)に從五位下を授けている。藤原朝臣黒麻呂を山背守、多治比眞人小耳を伯耆守、李忌寸元環を出雲員外介、日下部宿祢子麻呂(大麻呂に併記)を播磨守に任じている。

七日に再び「高鴨神」を大和國葛上郡に祠っている。「高鴨神」について、法臣圓興とその弟の中衛将監の賀茂朝臣田守等が以下のように言上している・・・昔、大泊瀬天皇(雄略)が葛城山で狩りをされた。その時に老夫がいて毎度天皇と競争して獲物の取り合いをした。そこで天皇はこれを怒り、その老人を土左國に流した。これは我等の先祖が祭祀を掌っていた神が化身し老夫と成ったもので、この時大和國から土左國へ追放された<分注。以前の記録を調べたが、この事件は見当たらない>・・・。

ここにおいて天皇は、早速「田守」を土左國に派遣して、「高鴨神」を迎えて、本の場所に祠らせている。

十日に難波連奈良を常陸員外介に任じている。十二日に石上朝臣息繼(奥繼。宅嗣に併記)に正五位下を授けている。西海道節度使を廃止している。十六日に百濟朝臣益人(余益人)を周防守に任じている。十九日に笠朝臣道引(三助に併記)を但馬介に任じている。

二十日に使者を派遣して、近江國の名神の社に幣を奉っている。以前、「仲麻呂」が逃走して拠った時、朝廷は都から近江を遠くに望んで、近江の國神に「仲麻呂」誅伐を祈り願った。そのため「仲麻呂」は近江の國境を出ることなく、直ちにその誅伐に屈伏した。そこで先の祈りの御礼を行ったのである。

二十八日に高野天皇は次のように勅されている・・・令によると、長上官(常勤の官人)の勤務評定は六年を期限とし、職種ごとに更に二年の評定を加え、外散位は十二年を叙位のための評定選考の期限としていた。これでは長過ぎるので、慶雲年中(慶雲三年二月十六日)恩恵を与え期限を改めた。即ち長上官は四年の評を期限とし、外散位は十年で叙位の評定が行われることとなった。ところが近年、令の条文通りの規定に戻ったが、実際には穏当ではない。今後は、慶雲三年の格によって、期限を定めることとする。官人としての昇進の道を開き、それによって全官人の望みに応えて安心させるようにせよ・・・。

<高鴨神>
高鴨神

古事記の大長谷若建命(雄略天皇)紀に「葛城之一言主大神」の逸話があり、天皇が葛城山へ狩りをするために行幸された時に一言主大神の一行と遭遇し、あわや戦闘になりかけたが、互いに譲り合い敬意を払って、その場を離れたと記述されている。

確かに「圓興・田守」の言上とは内容が異なるが、「一言主大神」こそ「高鴨神」を示していると思われる。「一言主大神」の表記は、その出自の場所を表してはいないが、別表記である「宇都志意美」によって現地名の田川郡福智町弁城上弁城辺りと推定した(こちら参照)。

高鴨神高鴨=皺が寄ったような山稜が鳥の形をして甲羅(押し広げた)ような地があるところと読み解ける。図に示した場所にその地形を見出せる。元正天皇紀に登場した太羊甲許母(後に城上連胛巨茂)に含まれる「甲」の文字が表す場所である。

「鴨朝臣」は、古事記で御眞木入日子印惠命(崇神天皇)紀に登場した意富多多泥古が祖となった「鴨君」一族である。上図に示したように彼等が蔓延った地は「高鴨」の山から延び出た山稜が広がったところである。祖神が宿る場所とされていたのであろう。因みに、現在の高鴨神社の主祭神は、古事記の阿遲鉏高日子根神(別名迦毛大御神)と伝わっているそうである(こちら参照)。

十二月癸亥朔。以從五位上石川朝臣名足爲備前守。戊辰。授正七位上縣犬養大宿祢内麻呂從五位下。乙亥。大和守正四位上坂上忌寸犬養卒。右衛士大尉外從五位下大國之子也。少以武才見稱。聖武皇帝登祚。寵之厚焉。天平八年授外從五位下。廿年。至從四位下左衛士督。勝寳八歳。聖武皇帝崩。以久沐恩渥。乞守山陵。天皇嘉之。授正四位上。本官如故。九歳。爲兼造東大寺長官。特賜食封百戸。寳字元年。任播磨守。尋遷大和守。卒時年八十三。庚寅。勅曰。朕以寡徳。君臨万民。善化未宣。刑辟猶衆。宜可大赦天下。自天平寳字八年十二月廿八日昧爽已前大辟已下罪無輕重。已發覺。未發覺。已結正。未結正。繋囚見徒。強竊二盜。咸悉赦之。但八虐。故殺人。常赦所不原者。不在赦限。若入死者。皆減一等。普告遐邇。知朕意焉。
是月。西方有聲。似雷非雷。時當大隅薩摩兩國之堺。烟雲晦冥。奔電去來。七日之後乃天晴。於麑嶋信尓村之海。沙石自聚。化成三嶋。炎氣露見。有如冶鑄之爲。形勢相連望似四阿之屋。爲嶋被埋者。民家六十二區。口八十餘人。
是年。兵旱相仍。米石千銭。

十二月一日に石川朝臣名足を備前守に任じている。六日に縣犬養大宿祢内麻呂(石次の子。八重に併記)」に從五位下を授けている。

十三日に大和守の坂上忌寸犬養が亡くなっている。右衛士大尉の「大國」の子、若い頃から武芸の才能を讃えられた。聖武天皇が即位してから、彼を厚く寵愛した。天平八(736)年に外従五位下を授けられた。二十年、従四位下で左衛士督に至った。天平勝寶八歳、聖武皇帝が崩じた時、永らく厚い恩を蒙っていたとして、山稜をお守りすることを願い出た。孝謙天皇は、このことを褒めて正四位上を授けた。本官(左衛士督)は、そのままであった。勝寶九歳(757年)、造東大寺長官を兼任し、特に食封百戸を賜った。天平寶字元(757)年、播磨守に任じられ、次いで大和守に遷った。卒した時、年は八十三歳であった。

二十八日に次のように勅されている・・・朕は德が少ない身でありながら、全ての民の上に君として臨んでいるが、善い政治は、いまだ広まっておらず、刑に処せられる者は、なお多い。天下に大赦すべきである。天平寶字八年十二月二十八日の夜明けより前の死刑以下の罪は、その軽重を問うことなく、既に発覚している者も、まだ発覚していない者も、既に判決の下った者も、まだ判決の出ていない者も、現在獄に繋がれている者も、強盗・窃盗も、全て赦免せよ。但し、八虐・意図的な殺人、及び普通の赦では免除されない者は、この赦の範囲に入れない。死罪になる筈の者も、みな罪一等を減じよ。広く遠近に告げて、朕の心を知らせるようにせよ・・・。

この月、西の方で声が聞こえた。雷に似ているようで、雷ではない。その時、「大隅薩摩兩國之堺」にあって、煙のような雲が空を覆って暗くなり、稲光が度々走った。七日後に空は晴れたが、「麑嶋信尓村」の海に、砂や石が自然に集まって、変化して三つの嶋となった。炎の気が表れ見える様は、あたかも金属を溶かして器物を作っている状態のようであり、その嶋の地形が相連なっているさまを望むと、「四阿之屋」に似ていた。嶋ができたために、埋められた民家は六十ニ区域で、人間は八十余人であった。この年、戦乱と旱魃が相重なって、米は一石につき千銭となった。

<大隅國:麑嶋信尓村>
大隅國:麑嶋信尓村

薩摩國は、現在の福岡市南区にある鴻巣山の南麓に広がる地と推定した。その北麓が多褹嶋であり、筑紫南海に面する場所である。上記本文で、この「薩摩國」と堺を成す國が「大隅國」と記載されている。

またもや、既に大隅國は、日向國の郡割に関連して設置された國として記載されていた。現地名は遠賀郡遠賀町・芦屋町である。既に述べたように、續紀編者等は「大隅」の文字を固有の地名としては扱わず、それが示す地形の場所の名称としているのである。

それを念頭にしてみると、薩摩國の西側に「大隅」の地形を持つ地が存在していることが解る。現地名は福岡市城南区である。図中の青色の部分は現在の標高10m以下の地であり、当時は海面下にあったと推測される。その「大隅國」にある麑嶋信尓村の場所を求めてみよう。

「麑」=「鹿+兒」=「鹿の角のような山稜から生え出ている様」、頻出の「嶋」=「山+鳥」=「山稜が鳥の形をしている様」から、麑嶋=鹿の角ような山稜から鳥の形した山稜が生え出ているところと読み解ける。勿論、現在用いられている”鹿児島”も、全く同様の地形を表していることになる。

既出の文字列である信爾=谷間の耕地が広がっているところと解釈される。それらの地形要素を満たすと思われる図に示した場所が麑嶋信爾(尓)村である。その村の前にある海に嶋が三つできたと述べている。できる時の様相は、勿論、火山の噴火活動である。遠くから眺めれば、四阿之屋=屋根と四つの柱からなる四阿のように見えるかもしれない。現在の麁原山をその一つの山と推定した。

尚、上図に示したように、日向大隅薩摩及び多褹として登場する四つの地名が揃っていることが解る。後世の国別配置を考慮すると、曖昧な記述をせざるを得なかった續紀編者等の苦心の結果であろう。だが、しかし書紀編者と同じく、地形象形に忠実な表現を行っているのである。

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『續日本紀』巻廿五巻尾








 

2023年2月12日日曜日

廢帝:淳仁天皇(19) 〔623〕

廢帝:淳仁天皇(19)


天平字八年(西暦764年)十月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀3(直木考次郎他著)を参照。

冬十月乙丑。廢放鷹司置放生司。丙寅。授從四位下藤原朝臣宿奈麻呂正四位上。從五位上石上朝臣宅嗣正五位上。」以正五位上石上朝臣宅嗣爲常陸守。從五位下三川王爲信濃守。從五位上佐伯宿祢美濃麻呂爲出羽員外守。正四位上藤原朝臣宿奈麻呂爲大宰帥。從五位下采女朝臣淨庭爲少貳。己巳。以從四位下藤原朝臣楓麻呂爲美濃守。庚午。詔加賜親王大臣之胤。及預討逆徒諸氏人等位階。无位諱〈今上。〉矢口王。三關王。大宅王。若江王。當麻王。坂上王並授從五位下。正五位下藤原朝臣濱足從四位下。從五位上縣犬養宿祢古麻呂。小野朝臣竹良並正五位下。從五位下佐伯宿祢伊太智從五位上。外從五位下葛井連立足。漆部直伊波。正六位上守山眞人綿麻呂。海上眞人淨水。岸田朝臣繼手。大伴宿祢形見。八多朝臣百嶋。宇治眞人宇治麻呂。忌部宿祢比良夫。三野眞人馬甘。安曇宿祢三國。紀朝臣鯖麻呂。久米朝臣子虫。百濟朝臣益人。山田三井宿祢廣人。笠朝臣道引。佐伯宿祢久良麻呂。巨勢朝臣津麻呂。多治比眞人小耳。高向朝臣家主。中臣朝臣常。佐伯宿祢眞守。阿倍朝臣淨成。賀茂朝臣大川。石上朝臣家成。紀朝臣廣庭。豊野眞人奄智。文室眞人水通。國見眞人阿曇。藤原朝臣乙繩。藤原朝臣小黒麻呂。石川朝臣永年。若櫻部朝臣上麻呂。弓削宿祢薩摩。當麻眞人得足。阿倍朝臣東人。從六位上雀部朝巨道奥。大伴宿祢淨麻呂。從六位下賀茂朝臣田守。從七位下佐伯宿祢家繼。大初位下石村村主石楯並從五位下。正六位上張祿滿。漆部宿祢道麻呂。道守臣多祁留。土師宿祢樽。弓削連耳高。田部宿祢男足。秦忌寸智麻呂。靭負宿祢嶋麻呂。内藏忌寸若人。美努連奥麻呂。中臣片岡連五百千麻呂。矢集宿祢大唐。秦忌寸伊波太氣。從六位下掃部宿祢廣足。正六位上大原連家主。津連眞麻呂。尾張宿祢東人。雀部直兄子。丈部直不破麻呂。高志毘登若子麻呂。建部公人上。桑原連足床並外從五位下。正四位上廣瀬女王。圓方女王。神社女王並從三位。

十月二日に放鷹司を廃して放生司を設置している(764~9年まで。不殺生の仏教思想に基づく)。三日に藤原朝臣宿奈麻呂(良継)に正四位上、石上朝臣宅嗣に正五位上を授けている。また石上朝臣宅嗣を常陸守、三川王(三河王、參河王。出雲王に併記)を信濃守、佐伯宿祢美濃麻呂を出羽員外守、藤原朝臣宿奈麻呂を大宰帥、采女朝臣淨庭を少貳に任じている。六日に藤原朝臣楓麻呂(千尋に併記)を美濃守に任じている。

七日に高野天皇は詔して、親王・大臣の後胤、及び逆徒追討に携わった諸氏等に位階を昇進させている。「諱<今上天皇>(桓武天皇)・矢口王・三關王・大宅王・若江王・當麻王・坂上王」に從五位下、藤原朝臣濱足に從四位下、縣犬養宿祢古麻呂小野朝臣竹良(小贄に併記)に正五位下、佐伯宿祢伊太智(伊多智、伊多治)に從五位上、葛井連立足漆部直伊波・「守山眞人綿麻呂」・海上眞人淨水(清水)・「岸田朝臣繼手・大伴宿祢形見・八多朝臣百嶋・宇治眞人宇治麻呂」・忌部宿祢比良夫(呰麻呂に併記)・三野眞人馬甘(三嶋に併記)・「安曇宿祢三國・紀朝臣鯖麻呂」・久米朝臣子虫(湯守に併記)・百濟朝臣益人(余益人)・山田三井宿祢廣人(山田史女嶋に併記)・笠朝臣道引(三助に併記)・佐伯宿祢久良麻呂(伊多治に併記)・巨勢朝臣津麻呂(古麻呂に併記)・多治比眞人小耳・「高向朝臣家主」・中臣朝臣常(宅守に併記)・「佐伯宿祢眞守・阿倍朝臣淨成・賀茂朝臣大川」・石上朝臣家成(宅嗣に併記)・紀朝臣廣庭(宇美に併記)・豊野眞人奄智(奄智王)・「文室眞人水通」・國見眞人阿曇(眞城に併記)・藤原朝臣乙繩・「藤原朝臣小黒麻呂」・石川朝臣永年(兄の名足に併記)・「若櫻部朝臣上麻呂・弓削宿祢薩摩・當麻眞人得足」・阿倍朝臣東人(佐美麻呂の子。廣人に併記)・雀部朝巨道奥(東女に併記)・大伴宿祢淨麻呂(小薩に併記)・「賀茂朝臣田守・佐伯宿祢家繼」・石村村主石楯に從五位下、「張祿滿・漆部宿祢道麻呂」・道守臣多祁留(寺人小君に併記)・土師宿祢樽(關成に併記)・「弓削連耳高(薩摩の兄)・田部宿祢男足・秦忌寸智麻呂・靭負宿祢嶋麻呂」・内藏忌寸若人(黒人に併記)・「美努連奥麻呂」・中臣片岡連五百千麻呂(中臣殿來連竹田賣に併記)・「矢集宿祢大唐・秦忌寸伊波太氣・掃部宿祢廣足」・大原連家主(大原史遊麻呂に併記)・「津連眞麻呂」・尾張宿祢東人(馬身に併記)・「雀部直兄子」・丈部直不破麻呂(刀自に併記)・「高志毘登若子麻呂・建部公人上・桑原連足床」に外從五位下、廣瀬女王圓方女王神社女王に從三位を授けている。

<山部王>
● 山部王

 口に出すのも恐れ多くて今上天皇は諱と記載されている。少し調べて、幼名は山部王、白壁王の子であり、後に第五十代桓武天皇として即位することになる。

系譜を振り返ると、天智天皇(葛城皇子)が越道君伊羅都賣を娶って誕生したのが施基皇子、その子が白壁王となる。この天皇の子の多くは、葛城の地が出自と推定したが(こちら参照)、施基皇子は母親の近隣の地に求めることができた。現地名は北九州市門司区伊川である。

母親については百濟系の渡来人(高野新笠、多分こちらが出自)とのことであるが、詳細は後日に述べることとして、山部王の出自の場所を定めておこう。何とも平凡な名前であり、これでは特定には至らないように思われるが、書紀に同名の山部王が『壬申の乱』の記述の中に登場し、續紀では來目皇子の子孫である山村王なる王が登場している。

用いられた「山」は、「山」の文字形を示す場所が出自と推定した。類似の地形を探すと、図に示した場所…現在は高速道路が走り山稜端が欠落しているが…を見出すことができる。その[山]の形の山稜の麓(部=近隣)が山部王の出自の場所と推定される(国土地理院航空写真1961~9参照)。

また、續紀では用いられていないが、柏原天皇と呼称されたと知られている。柏原=山稜がくっ付くように並んだ麓にある平らなところと解釈すると、狭い谷間を出て広がった場所を表している。通説のような陵墓の場所に基づくのではなく、出生地の地形を端的に表現していると思われる。

● 矢口王・三關王・大宅王・若江王・當麻王・坂上王

<山部王とその仲間達>
上記本文で「詔加賜親王大臣之胤。及預討逆徒諸氏人等位階」で始まり、「山部王」を筆頭にして七名の王が列挙されている。

残念ながらこれ等の王の系譜は全く知られていないようで、出自の場所については後日に求めることにしようかと躊躇したのだが、「山部王」も含めて逆徒追討に貢献したことを示唆していると気付かされた。

施基皇子の母親は越道君であり、越前守の近傍に住まっていたのである。前記で佐伯宿祢伊多智(治)が先回りをして越前守の藤原恵美朝臣辛加知を斬殺したと記載されていた。即ち「山部王」以下七名がこれに協力したことを暗示する叙位と推察される。

彼等は施基皇子の後裔であり、その周辺を出自としていたのである。順にそれぞれの名前が示す地形を求めてみよう・・・、

矢口王鏃(矢口)の形をしているところ
三關王三つの山稜が突き出て谷間を堰き止める(三關)ようなところ
大宅王谷間に平らな頂(大)の山稜が延びている(宅)ところ
若江王細かく岐れて延び出た山稜(若)の麓が水辺で窪んでいる(江)ところ
當麻王同じように分かれて平らに(當)擦り潰されて広がっている(麻)ところ
坂上王腕のように延びた山稜(坂)の麓が盛り上がっている(上)ところ

・・・と読み解ける。上図にそれぞれの出自場所を推定した。正に「山部王」の、多分遊び仲間だった若者が世に出る機会を得て、「伊多智」の手助けをした結果と推察される。

<守山眞人綿麻呂>
● 守山眞人綿麻呂

「守山眞人(公)」は記紀・續紀を通じて初見である。調べると難波皇子の子、石川王の後裔であったらしいことが分かった。すると多くの人材が登場している路眞人(公)と同じ系列だったようである。

現地名で言えば、田川郡赤村赤・内田の境界であり、犀川(現今川)が大きく曲がって流れる川辺の地域である。戸城山の南麓となる。

難波皇子の子孫ばかりではなく既に多くの渡来系の人々、古くは邇藝速日命の末裔が住まっていた地であり、果たして「守山眞人」に割り振る場所はあるのか?…そんな杞憂さえ感じられるところであろう。

守=宀+寸=山稜が両肘を張り出したように延びている様、上記と同様に山=山稜が[山]の形に延びている様と解釈すると、すっぽりと抜け落ちていた場所にその地形を見出せる。まるでジグソーパズルの最後のピースが埋まった気分である。

綿麻呂綿=糸+緜=山稜が途切れることなく細長く延びている様麻呂=萬呂とすると、図に示した場所が出自と思われる。「守山眞人」を名乗る人物は二度と續紀には登場されないようである。多分、逆徒の逃走経路を塞ぐ目的で、「三關」に匹敵する、南方の要所であったこの地を任されたのであろう。

<岸田朝臣繼手>
● 岸田朝臣繼手

「岸田朝臣」は初見である。上記と同様に然るべき系譜の持ち主だったか思われるが、全く音沙汰無しであった。勿論、古事記の蘇賀石河宿禰が祖となった岸田臣の子孫と推測される。

「岸田臣」を取り巻く環境については、前記で詳細に語られていたのである。孝謙天皇紀に桑原史・大友史等が分派してしまったが元は同祖であり、また「史」の文字を回避する為に新しい姓を賜りたいと申し出て「桑原直」と名乗るようになったと記載されていた。

これは近江國神前郡(現地名京都郡苅田町葛川)に蔓延った一族を示したもので、更に「曰佐」も大友一族であり、野洲郡(現地名同町上片島)を含めて、「岸田臣」の背後は全て彼等の居処なっていたのである。これでは登用される人材もなく時が過ぎたことも頷ける状況だったと推測される。後漢の子孫等が圧倒していたのであろう。

<大伴宿祢形見-村上>
些か前書きが長くなったが、繼手=手のような山稜が連なって延びているところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。「仲麻呂」の最後の逃走行程に関わる地である(こちら参照)。何らかの役割を果たしたのではなかろうか。

● 大伴宿祢形見

依然として途切れることなく登場の「大伴宿祢」であるが、系譜は不詳である。名前が示す地形から出自の場所を求めることになる。

「形」=「井+彡」=「四角く区切られた地で山稜が斜めに延びている様」と頻度高く用いられている文字である。「見」=「目+儿」=「谷間が長く延びている様」であり、これも多用されている。

纏めると形見=長く延びている谷間にある四角く区切られた地で山稜が斜めに延びているところと読み解ける。図に示した場所が出自と推定される。別名に像見(象のように大きな山稜の傍ら)・方見(耜のような形をした山稜の傍ら)とも表記されたとのことであるが、許容されるであろう。

後(光仁天皇紀)に大伴宿祢村上が従五位下を叙爵されて登場する。系譜不詳であるが、調べると万葉集に幾つかの歌を残されているようである。村上=山稜が手を開いたように延びて盛り上がっているところと解釈すると、図に示した辺りが出自と推定される。この両者は、この後幾度か登場されている。

<八多朝臣百嶋-百足>
● 八多朝臣百嶋

「八多朝臣」の表記は、續紀中これが唯一である。頻出の「波多朝臣」が表す地形とは、勿論、異なっていて、敢えて「八多」を用いたのには理由があると思われる。

地形象形的には「波多」=「山稜の端が崖のようになっているところ」と解釈されるが、また「出雲國(多)の端(波)にあるところ」との解釈も行って来た。重ねられた表記である。

一方、八多=大きく広がった谷間に幾つかの山稜が延びているところと読み解ける。これで「八多」を用いた理由が明らかになったようである。この人物は、「波多朝臣」一族なのであるが、更に「八多」の地形の場所を出自としていたのである。文武天皇紀に波多朝臣廣足が登場していた。

「廣足」が表す地形から図に示した場所を求めたが、その南側に百嶋=山稜が鳥の形に延びた前で小高い地が連なっているところが出自と推定される。正に広がった山稜の端の中央に当たる場所である。多分、淡路國で幽閉された大炊親王等の監視などを任じられていたのであろう。「八多」は、”淡海”を挟んで目と鼻の先の位置関係である。

後(光仁天皇紀)に波多朝臣百足が従五位下を叙爵されて登場する。”ムカデ”と読まずに、百足=小高く連なっている地が[足]のような形しているところと解釈すると、「百嶋」の南隣の場所が出自と推定される。

<宇治眞人宇治麻呂>
● 宇治眞人宇治麻呂

「宇治眞人」は、眞人姓でありながら初見であり、実に唐突に記載されている。あれこれと思い巡らしていると、孝謙天皇紀に等美王が臣籍降下して内眞人氏姓を賜ったと記されていた。

「内」を「宇治」で表記したのではなかろうか。「内」は古事記の内色許男命・内色許賣命に由来する表記と解釈した。この地は多くの山稜の端が寄り集まった地形であり、その山稜を「宇治」と表現したと思われる。

即ち、「内」の別表記として、「宇治」は一側面を表すとして差支えがなかったのである。その地に宇治麻呂は、至るところに存在するが、「内眞人」に関連するとして図に示した場所が出自と推定される。勿論「ウチ」と読むのである。

しかし何とも「宇治」、「宇治」とした名称となっているが、何故?…「仲麻呂」一味の集合場所”宇治”の名称は、固有ではないことを暗示しているのであろう。「宇治」の地形は、決して特殊なものではないからである。念のため、宇治=谷間に延び出た山稜の端が耜の形をしているところと解釈される。

<安曇宿祢三國>
● 安曇宿祢三國

「阿(安)曇宿祢」の直近の動向は、聖武天皇紀に「刀」が登場し、その後「大足」が続き、淳仁天皇紀になって「石成・夷女」が従五位下を叙爵されていた(こちら参照)。

その時にも少し述べたが、古事記の墨江之三前大神の地を出自とする人物にお目に掛かれることになった。古事記が記す神々の末裔がしっかりと根付いていたことを示しているのであろう。

この地は元明天皇紀に日向國肝坏郡(現地名は遠賀郡岡垣町黒山)と名付けられていたが、その後に記載されることはないようである。決して大隅國に転属された郡ではない。

今回登場の三國は、「三前」に関わる名称と思われる。地形象形表記としては三國=三つの区切られた地が寄り集まっているところと解釈される。「三前」に山稜が岐れる場所、それを「三國」と表現したのであろう。『仲麻呂の乱』での活躍は不詳である。

<紀朝臣鯖麻呂(佐婆麻呂)>
● 紀朝臣鯖麻呂(佐婆麻呂)

全く途切れることを知らない「紀朝臣」であるが、系譜は不詳のようである。魚偏の名前も久々に登場であり、些か趣の異なる出自のように感じられる。

直ぐに別名表記が用いられて佐婆麻呂と記載されている。「鯖」では見当も付かない有様がこれで幾らか手掛かりを得たのである。

先ずはこちらを地形象形表記として読み解くと佐婆=谷間にある左手のような山稜の端が嫋やかに曲がりながら水辺で崖のようになっているところとなる。

多くの山稜が延びている「紀朝臣」の地ではあるが、「左手」の山稜は唯一であることが解った。図に示した場所、書紀の孝徳天皇紀に紀臣乎麻呂岐太が登場して以来、全く登用された人物は出て来なかった場所である。見事な左手であり、かつ端の崖下を川が流れている地形である。

鯖=魚+靑=魚の地で四角く囲まれいる様と解釈される。「佐婆」の一部が四角く欠けているところが見出せる。左手先を「魚」の形と見做したのであろう。麻呂=萬呂として読むと、余すことなく出自の場所の地形を表していることが解る。この後、地方官、京官を務められて幾度か登場されるようである。

<高向朝臣家主>
● 高向朝臣家主

「高向朝臣」一族の直近の登場者は大足の子、諸足であった。「宇摩」から始まる系譜上の人物であったことが知られている(こちら参照)。でっきり今回登場の「家主」もその系譜にあるのかと思いきや、どうやら不詳のようである。

そんな背景で名前が示す地形からその出自の場所を求めてみよう。かなりの頻度で用いられている名称の家主=真っ直ぐに延びる山稜の前が豚の口のような形をしているところと解釈される。

その地形を「色夫智」の西側の山麓に見出すことができる。この配置からすると「色夫智」の子であったような気もするが、記録になかったのであろう。今回の事件では、「仲麻呂」が宇治から近江國高嶋郡へ向かう道中に位置する場所(こちら参照)である。何らかの役割を担ったのかもしれない。この後、地方官を務められたとのことである。

<佐伯宿祢眞守-家繼-高岳-國守-家主>
● 佐伯宿祢眞守・佐伯宿祢家繼

騒動が生じると必ず登場する佐伯・大伴一族であろう。この人物も系譜は定かではなく、上記の久良麻呂(伊太智に併記)の周辺の地が出自かと、しかしながら、名前が示す地形を求めることは叶わないようである。

眞守=両肘を張り出したように腕に囲まれた地が寄り集まって窪んでいるところと読み解ける。既に登場していても不思議ではない名称なのだが、今回が初見である。

佐伯・大伴の谷間を探索すると、図に示した場所が見出せる。文武天皇紀に登場した石湯・果安の出自場所を、その麓と推定した。急峻な山腹にあって棚のようになっている地形である。

国土地理院航空写真1961~9を参照しても、既に樹木に覆われた様子になっているが、当時は狭いながらも開拓されていたのではなかろうか。この後地方官・京官を務めて、最終従四位上・大藏卿であったと伝えられている。

家繼=豚の口のような山稜の端が連なっているところと解釈すると、図に示した場所が見出せる。直ぐ後に佐伯宿祢高岳が従五位下を乱後の昇叙で授かって登場する。それきりの登場で、系譜も見当たらず、名前が示す地形から、図に示した場所が出自と推定した。高岳=皺が寄ったような盛り上がったところと解釈した。

後(称徳天皇紀)に紀伊國掾の佐伯宿祢國守が従五位下を叙爵されて登場する。國守=囲まれた地で両肘を張り出したように山稜が延びているところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。地方官を務めて従五位上まで昇進されたと記載されている。

更に後に佐伯宿祢家主が従五位下を叙爵されて登場する。家主=真っ直ぐに延びる山稜の端が豚の口のようなところと解釈する。「家繼」が継ぐ「家」の場所であろう。ここでの登場が唯一の人物だったようである。

<阿倍朝臣淨成>
● 阿倍朝臣淨成

上記と同様に多くの人材が輩出している阿倍朝臣一族であるが、系譜は不詳のようである。直近で淨目(息道に併記)が登場していたが、「淨」を含む名前は希少であることには違いない。

そんな背景で「淨成」が示す地形を探すことにする。淨=淨=水+爪+ノ+又=水辺で両腕のような山稜が取り囲んでいる様成=丁+戊=平たく盛り上げた様と解釈した。

結果として、この二つの地形を合せ持つ場所を図に示したところに見出すことができる。「廣庭」の子、嶋麻呂の隣の地である。何らかの血縁関係があったようにも思われるが、定かではない。

この後、續紀に幾度か登場されて、正五位下にまで昇進されているが、その他の関連資料で伝わってはいないようである。また、今回の事変への係わりも不明の様子である。

<賀茂朝臣大川-伊刀理麻呂>
● 賀茂朝臣大川・賀茂朝臣伊刀理麻呂

「賀茂(鴨)朝臣」は直近では孝謙天皇紀に塩管・淨名が登場していた。少々時が経っての登用である。この一族も系譜が知られているのは限られているのだが、「大川」は「枚手」の子と伝わっているようである。

実のところ「大川」では、全く出自の場所を求めることは不可能なのだが、父親の名前から推定することができると思われる。

既出の枚=木+攴=枝分かれして山稜が延びている様手=手のような形をしている様と解釈すると、図に示した場所が見出せる。

大川=平らな頂の麓で川が流れているところとして、父親の近傍の場所を図に示した。この後、しばしば登場されるようである。

伊刀理麻呂については、古事記風の名称を読み解いてみよう。伊=人+尹=谷間に区切られた山稜が延びている様刀=刀の形をしている様理=王+里=区分けされている様と解釈される。これらの地形を持つ場所を図に示した。吉備麻呂の西側に当たる場所であるが、血縁関係であるかどうかは不明とのことである。

<文室眞人水通-忍坂麻呂>
● 文室眞人水通

長皇子の子、大市王等が臣籍降下して賜った文室眞人氏姓に属する人物なのだが、系譜は不詳のようである。

若干奇妙な感じがしないでもない素性ではあるが、この後に幾度か登場され、續紀での最終官位は正五位下となっている。

ともあれ、「大市」の周辺の地に出自を求めることにする。但し、彼の子等である長嶋・高嶋・眞老及び波多麻呂とは異なる場所となろう。

水通の「通」=「辶+甬」=「筒の形に突き通っている様」と解釈する。即ち、水通=水が筒の形に突き通っているところと読み解ける。その地形を図に示した場所に見出せる。現在は二つの池を結ぶような場所であるが、当時は川が流れる谷間の様相だったのではなかろうか。ひょっとしたら、「智努女王」の子だったのかもしれない。

後(称徳天皇紀)に文屋眞人忍坂麻呂が従五位下を叙爵されて登場する。「大市」か「淨三(智努)」の子と言われているようである。「忍坂」=「一見坂には見えない坂」と読むも良しであるが、忍=刃+心=谷間の中心で刃のように山稜が突き出ている様坂=土+厂+又=山麓に腕のような山稜が延びている様と解釈する。それらの地形を満たす場所を図に示した。「淨三」の子であったことが解る。

<藤原朝臣小黒麻呂>
● 藤原朝臣小黒麻呂

まさか「黒麻呂」のことか?…それは全く見当違いで、黒麻呂は”南家”の出身、「小黒麻呂」は”北家”と知られている。

前者は最終從二位・右大臣(贈從一位)、後者は正三位・大納言であり、共に大活躍だったようである。「小黒麻呂」は鳥養の子であり、出自はその近隣と思われる。

「鳥養」の續紀における登場は、極めて限定的であって、爵位も従五位下止まりで終わっている。それ故に早世したのではないかと推測されている。藤原四家間の主導権争いに後れをとった一因でもあろう。

小黒麻呂小=三角形をしている様黑=谷間に炎の形をした山稜が延びている様であり、「鳥養」の北側に、その地形を見出せる。千尋の南に接する場所と思われる。今回の事変に関わった詳細は不明のようである。

<若櫻部朝臣上麻呂-伊毛-乙麻呂>
● 若櫻部朝臣上麻呂

「若櫻部朝臣」は、書紀に登場した稚櫻部臣五百瀬の後裔と思われる。大海人皇子(天武天皇)の吉野脱出時の従者の一人として挙げられていた。『壬申の乱』における功績のより後に昇位・褒賞を賜ったと記載されている。

子孫も含めて、その後に登場されることはなく本事変でお目に掛かることになったようである。居処は古事記の伊邪本和氣命(履中天皇)が坐した伊波禮之若櫻宮近隣、現地名は田川郡香春町高野上高野と推定した。

上麻呂上=盛り上がっている様であるが、それでは一に特定するには少々言葉不足の感じである。調べると別表記に匕麻呂があったと知られていることが分かった。これで一気に出自場所を突止めることが可能となった。背後の山稜の形を表していることが解る。実は、この地は匕(匙)の形の山稜が並んでいるところなのである(高佐士野)。

後に若櫻部朝臣伊毛若櫻部朝臣乙麻呂が登場する。伊毛=谷間に区切られた山稜が鱗のようになっているところ乙=[乙]の形に曲がっいるところと解釈され、それぞれ図に示した場所が出自と思われる。詳細はご登場の際に述べることにする。

<弓削宿祢薩摩❶>
● 弓削宿祢薩摩

前記で「淨人」が宿祢姓を賜っていたが、「薩摩」も同様の扱いとなっていたのであろう。道鏡・淨人とは従弟の関係にあったと知られている。

即ち、「薩摩❶」の父親の「枚夫⓫」と「櫛麻呂」が兄弟だったことになる。既出の薩摩=二つに岐れて生え出た山稜の端が細かく岐れたところと解釈したが、残念ながら細かく岐れた山稜の詳細を確認することは叶わないようである。

国土地理院航空写真1961~9年を図に示したが、既に棚田に整地されていて、山稜の端の状態は大きく変化している。頻出の「枚夫⓫」は、図に示した場所と推定され、「櫛麻呂」との位置関係は妥当なように思われる。

「薩摩」に続いて多くの「弓削宿祢」が登場する。纏めて図に示した。弓削宿祢美努久女❷及び弓削宿祢乙美努久女❸の美努久=嫋やかに曲がる谷間が延びて広がり[く]の形に曲がっているところと読み解ける。更に乙=[乙]の形に曲がっている様として、それぞれの出自の場所を求めることができる。

弓削宿祢刀自女❹の刀自=刀の形した山稜が端にあるところと解釈する。弓削宿祢牛養❺は頻出の牛養=牛の頭部のように谷間がなだらかに延びているところとすると、図に示したように並んでいる配置となる。

弓削宿祢大成❻の大成=平らな頂の山稜の麓で平たく整えられたところと解釈すると図に示した場所が見出せる。弓削宿祢東女❼の東=突き通すような様として狭い谷間の入口辺りと推定される。それぞれの出自場所を図に示した。

弓削宿祢塩麻呂❽の鹽=鑑のように平らに広がっている様と解釈するが、図に示した「櫛麻呂」の西側の平地辺りと思われる。弓削宿祢男廣❾は、文字通りに突き出た山稜が広がっている場所を表している。それぞれの出自場所を図に示した。

弓削連耳高❿については、宿祢姓ではなく連姓表記となっている。調べると「薩摩」の兄だったのだが、何らかの事情があったのかもしれない。耳高=皺が寄ったような地が耳の形をしているところと読み解ける。残念ながら「皺」を確認することは不可だが、「耳」及び「薩摩」との位置関係から出自場所を推定した。

それにしても凄まじいばかりの叙位である。歴史の表舞台に、ほんの僅かしか登場していなかった一族が、まるで鬱憤を晴らすように、こぞって出現した様相である。彼等が如何なる活躍をするのか、暫く様子を伺うことにしよう。

<當麻眞人得足-永嗣>
● 當麻眞人得足

「當麻眞人」一族は、直近では吉嶋・多玖比礼が登場していた。最も東側の谷間に蔓延って行く様子であり、葛城の地に接する場所と推定した。現地名は田川郡福智町上野である。

彼等の系譜は不詳、今回登場の得足も同じような状況である。名前を頼りにその出自を求めると、図に示した場所が見出せる。別名に德足があったことが知られていて、得(德)足=四角く窪んだ谷間の先で山稜が足のように延びているところと読み解ける。

元明天皇紀に押(忍)海連人成が登場し、その出自を図に示した場所と推定した。「得足」は、「忍海連」一族の居処に接する場所が出自となる。續紀の記述は、言い換えると、各氏族は隙間なく広がっていった様子をあからさまにしている、と思われる。

後(称徳天皇紀)に當麻眞人永嗣が従五位下を叙爵されて登場する。同様に他の情報は皆無であって、名前が表す地形から出自の場所を求めることになる。既出の「嗣」=「口+冊+司」=「谷間が延び出た山稜に挟まれて狭まっている様」と解釈した。永嗣=長く続く谷間が延び出た山稜に挟まれて狭まっているところと読み解ける。図に示した辺りが出自と推定される。

<賀茂朝臣田守-諸雄>
<-萱草-圓興-清濱>
● 賀茂朝臣田守

今回の叙位では、上記した「大川・伊刀理麻呂」も含めて「賀茂朝臣」が多く登場している。調べると「田守」の系譜が伝わっていて、父親が虫麻呂(吉備麻呂の子)であったようである。

兄の「諸雄」、弟の「萱草」も併せて出自の場所も求めてみよう。場所は、「大川・伊刀理麻呂」の間の地となろう。田守=平らに整えられた地に山稜の端が肘を張り出したようになっているところと読み解ける。

諸雄=山稜が羽を広げた鳥の形をしている前で耕地が交差しているところと解釈される。末弟の萱草の「萱」は、初見の文字であり、少々補足すると、「萱」=「艸+宀+亘」と分解される。「亘」=「丸く取り囲まれている様」を表す文字として、地形象形的には萱=山稜に挟まれた地が丸く取り囲まれている様と解釈される。既出の草=山稜が並んで延びて先が丸く小高くなっている様である。

直後の法臣圓興が登場する。彼等の兄であり、法王道鏡の弟子(法臣)だったと知られている。後に大僧都となり、権勢を振るうことになる。既出の文字列である圓興=丸く取り囲まれた地と筒のように区切られた地があるところと読み解ける。図に示した場所が出自であろう。これらの地形象形表現から、「虫麻呂」の近隣に、四兄弟の出自場所を図に示した。彼等は、後に「高賀茂朝臣」の氏姓を賜ることになる(遠祖:高鴨神)。

現在は貯水池となっている谷間は、川が流れる耕地として開拓されていたものと思われる。「雄」の鳥の姿は、些か不鮮明だが、羽を広げた姿として見做せるように思われる。この地も谷間ごとに一人ずつ配置された様相であろう。

後(称徳天皇紀)に賀茂朝臣清濱高賀茂朝臣の氏姓を賜ったと記載されている。系譜は定かではないようであるが、何らかの繋がり合ったのであろう。淸濱=四角く囲まれた地が水辺の近くにあるところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。

<漆部宿祢道麻呂>
● 漆部宿祢道麻呂

「漆部」の氏名を持つ人物は、既出であり、姓は「造」もしくは「直」であった。書紀の天武天皇紀の『八色之姓』の中に「漆部連」があり、宿祢姓を賜っている。どうやら、元は連姓の一族がいたのであるが、具体的な人物名が登場していなかったことが分かる。

尚、「造」については文武天皇紀に漆部造道麻呂(天武紀に記載された友背と同じく物部一族と推定)、聖武天皇紀に左京人漆部造君足が登場し、二つの系統があったようである。また「直」については、聖武天皇紀に漆部直伊波が登場、こちらは相摸國を出自とする一族と思われ、後に相摸宿祢の氏姓を賜っている。

いずれにせよ、同じ「漆部」の氏名としても、續紀編者は明瞭に書き分けていることが判る。「漆部(ヌリベ)」の部民などと解釈しては混乱するだけであろう。そして、「漆部連」後に「漆部宿祢」と称していた一族が存在していたことになる。

物部一族の周辺を探索すると、多くの人材が登用されて来た置始連と「物部」の端境に漆=漆を採取する時のように山稜が並んでいる様の谷間が横たわっていることに気付かされた。その谷間の近傍(部)道=首の付け根のように窪んだ様の地形を見出せる。高位の姓を賜りながら、これまで全く音沙汰無しの有様だったわけである。正にジグソーパズルのピースがすっぽりと嵌った感じである。

<田部宿祢男足-足嶋>
● 田部宿祢男足

書紀の天武天皇紀に田部連國忍が登場していた。おそらく、その後に宿祢姓を賜ったのであろう。『八色之姓』には記載されていないが・・・。

少々振り返ると、古事記の男淺津間若子宿禰命(允恭天皇)紀に木梨之輕王が禁断の恋に陥り、追い詰められて助けを求めた人物、大前小前宿禰の子孫が「田部連」を名乗ったと知られている。

男足=男のような山稜の端にある足の形になっているところと読むと、図に示した場所が見出せる。「大前」に該当するところでもある。後に田部宿祢足嶋が登場する。足嶋=足のような山稜の端が鳥の形をしているところと解釈すると、東側の山稜の麓辺りと推定される。「小前」に該当する場所となる。

上記の「漆部宿祢」ほどではないにしても、「田部宿祢」は初見であり、それまでに登用された人物は皆無であった。空白地帯の一掃が目的だったのかもしれない。

<秦忌寸智麻呂-伊波太氣-公足>
● 秦忌寸智麻呂・秦忌寸伊波太氣

「秦忌寸」一族では直近では首麻呂が登場していた。葛野秦造河勝から始まる秦一族の五世代目であったと知られている。今回の二人については系譜不詳のようであり、名前を頼りに彼等の出自場所を求めることにする。

智麻呂の頻出の智=矢+口+日=[鏃]と[炎]の地形がある様と解釈したが、その地形を「百足」の東側の谷間に見出せる。この後、外従五位上となり、寫一切經次官や主税助などを任じられたようである。

伊波太氣は別名に石竹があったと知られているが、先ずはそのまま伊波太氣=谷間に区切られた山稜の端が広がりゆらゆらと延びているところと読み解ける。図に示した場所が出自と推定される。石竹=山麓の小高く区切られた地が竹のように延びているところと読むと、概ねその地形を表す表記であることが解る。

調べると「石竹」は、「石勝」の子、「百足」が父親である足國の子だったとする系譜があるとされるが、全く定かではないようである。足國=足のように延びた山稜の端で取り囲まれたところと解釈すると、「石竹」の西側の谷間を表していると思われる。

少し後に秦忌寸公足が外従五位下を叙爵されて登場する。系譜は定かではなく、名前の公足=谷間にある小高く区切られた地から足のように山稜が延び出ているところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。この後に再登場されることはないようである。

<靭負宿祢嶋麻呂>
● 靭負宿祢嶋麻呂

「靭(靫)負」の氏名は、記紀・續紀を通じて初見と思われる。「大化改新以前に朝廷を守護した職業部」の名称と解説されているが、通説の職業部とする解釈は、全く宛にならず、であろう。

関連する情報としては、極めて希薄なのであるが、「佐伯・大伴」両族の上祖であったことを伺わせる記述が散見される。

彼等の居処、現地名の京都郡苅田町山口と推定したが、「上祖」を地形上の”上”と見做すと、小字等覚寺が着目される。舒明天皇紀に登場した犬上君三田耜、孝徳天皇紀に犬上建部君以降に登用された人物が存在せず(『八色之姓』で朝臣姓となる)、この地は全く過疎のままであった。

靭負の「靭」=「矢を入れる筒状の物」であり、それをそのまま地形に当て嵌めたと思われる。既出の「負」=「人+貝」=「谷間が左右に広がっている様」と解釈した。合わせると靭負=矢を入れる筒状のような谷間が口が左右に広がっているところと読み解ける。嶋麻呂の嶋=山+鳥=山稜が鳥のように延びている様、やや地図上では見辛いが、と読むと、この人物の出自場所を図に示したように求めることができる。

古事記が記すように、”天”から渡来して、先ずは谷間の奥に居処を構え、次第に下流域へと広がって行った様子を物語っていることが分かる。そして、記紀・續紀編者等は、地形象形表記でありながら、文字が示す意味とを重ねているのである。万葉の文字使い、その中核をなす地形象形を見逃しては、彼等の意図するところは読み切れないであろう。

<美努連奥麻呂-財刀自-智麻呂>
● 美努連奥麻呂

「美努連」は、文武天皇紀に「淨麻呂」、元正天皇紀に「岡麻呂」が登場していた。紛うことなく、古事記が記載する河内之美努村の住人と思われる(こちら参照)。

臣籍降下して三嶋眞人の氏姓を賜った夥しい数の王等の居処の端に位置する場所と推定した。現地名は京都郡みやこ町勝山箕田である。「ミノ」は、間違いなく残存地名であろう。

奥麻呂の既出の奥=取り囲まれた様を表す文字と解釈したが、その地形を図に示した場所に見出せる。續紀では今回の事変での功績がらみでの登場だけであるが、Wikipediaによると、『正倉院文書』に造東大寺司の官人として多くの事績が記録されているそうである。

後に外従五位下の美努連財刀自が宿祢姓を賜ったと伝えている。「奥麻呂」もそれに準じたようであるが、間もなく元の連姓に戻されているとのことである。全て道鏡に関わる曲折だったのであろう。財刀自=谷間を堰き止めるような山稜の端に[刀]の地があるところと読み解ける。図に示した場所が出自の女官だったと思われる。

更に後に美奴連智麻呂が『仲麻呂の乱』の功臣として外従五位下を叙爵されて登場する。頻出の智=矢+口+日=鏃のような地の傍らに炎のような地があるところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。いよいよ美努村の谷間も全て埋まったか?…かもしれないが・・・。

<矢集宿祢大唐>
● 矢集宿祢大唐

「矢(箭)集宿祢」については、元正天皇紀に「虫万呂」、続いて聖武天皇紀に「堅石」が登場していた(こちら参照)。前者は明法(律令)の造詣が深く褒賞されていた。彼等は古事記の伊迦賀色許男命の後裔であり、皇統に関わる系譜を持つ一族である。

孝謙天皇が「李元環」の唐楽演奏を視聴するために春日酒殿に行幸されていた。さすが、春日の地は文化レベルが高かったのかもしれない。前にも述べたが、決して酒蔵ではない。

そんな背景で、大唐=平らな頂の山稜の麓で四方に広がっているところと読み解ける。図に示した場所が出自と推定される。今回は外従五位下を叙爵されているが、後に登場された時には内位の従五位下で能登守に任じられている。

<掃部宿祢廣足>
● 掃部宿祢廣足

「掃部」は書紀の孝徳天皇紀に掃部連角麻呂が登場していた。「掃部連」は、天武天皇の『八色之姓』で宿祢姓を賜っていることから、「廣足」はこの一族に属していたのであろう。

現地名は京都郡みやこ町勝山岩熊であり、若宮八幡宮のある山稜を掃=手+帚=箒のような山稜が延びている様と見做し、その近傍(部)と表現していると解釈した。

古文書他に宮殿の掃除係に由来するとの記載を鵜呑みにしては、新羅への使者の役目を果たせたであろうか?…と言う問いに答えなければならない。著者等の戯れに踊らされているのみであろう。

廣足=足の形の山稜の端が広がったところと読み解くと、図に示した場所、現在は諌山小学校になっている場所を表していると思われる。「仲麻呂」一派が宇治に集合する際、おそらくこの近辺を通過したであろう。その時に官軍側に対して何らかの貢献をしたのではなかろうか。續紀にこの後登場されることはないようである。

<津連眞麻呂>
● 津連眞麻呂

前記で「津史秋主」等三十四人が東隣の地に蔓延る「船連」と同祖故に連姓を賜りたいと願い出て許されたと記載されていた(こちら参照)。「史」の使用を差し控えることと重なって連姓を授かったのであろう。

とは言え、今回の叙位も外従五位下であり、内位ではなく…後に昇進するが…本来の連姓の一族とは一線が引かれているように思われる。

眞麻呂の名前は、頻出の文字が並んでいるが希少である。やはり麻呂=萬呂と置き換えて解釈することになる。眞萬呂=窪んでいる地に[萬呂]が寄り集まっているところと読み解くと、図に示した場所が見出せる。「秋主・馬人」の谷間の西側に当たる場所となる。

この後従五位下を叙爵され、地方官を務めた後に肥前守を任じられたりしているが、それを解職された後については登場されることもなく、不詳のようである。

<雀部直兄子>
● 雀部直兄子

「雀部朝臣」については、孝謙天皇紀に「眞人」が、彼等は大臣「男人」の子孫なのだが、”巨勢”男人大臣と間違って記録され、それがそのままになっていると訴え、認められたと記載されていた(各々の出自場所はこちら参照)。

それ以後幾人かの人物が登用されて、雀部朝臣一族の復権がなされたようである(こちら参照)。そんな背景が影響したのであろうか、直姓の一族の登場である。

雀部=山稜が小さな頭の鳥の形をしている地の近傍のところと読み解いた。すると、「雀部朝臣」と「佐佐貴山君」との間に兄子=奥が広がった谷間から生え出たところの地形を見出すことができる。

今回の事変での功績は定かではないが(外従五位下を叙爵)、従五位下を叙爵された雀部朝巨道奥に誘われて馳せ参じたのではなかろうか。口コミの時代、近隣が浮かび上がるとチャンスが訪れる、といった感じであろう。

<高志毘登若麻呂>
● 高志毘登若麻呂

関連する情報が殆ど得られないが、續紀の天平神護元(766)年十二月に「和泉國人外從五位下高志毘登若子麻呂等五十三人賜姓高志連」と記載されている。ならば容易に、と勢い込んで探索してみるが、全く該当する場所が見当たらずの状況に陥った。

やおら国土地理院航空写真1961~9年を開くと、なんと現在の御清水ヶ池は広大な棚田であったことが分かった。池と言うよりは、最早ダムの規模であろう。

早速に文字解釈を試みると、古事記で頻出の高志=皺が寄ったように延びる山稜の傍らを川が蛇行して流れいるところと解釈した。「越」には置き換えられない地形である。

既出の毘登=並んでいる谷間の奥に小高い地があるところと読み解いた。ぞれら地形要素を満足する場所を図に示した。勿論、すっぽりと埋没してしまった場所である。頻出の若子=細かく岐れた山稜の端が生え出たところと解釈したが、「毘」の中心に延びている山稜の端がこの人物の出自と推定される。

通説は「高志」とくれば「越」であり、更に越前・中・後となって、和泉國とは全く無縁の地となり、解読不能に陥っているのであろう。関連情報が欠落する筈である。

<建部公人上-伊賀麻呂>
● 建部公人上

「建部公」は、聖武天皇紀に「豊足」が従五位下を叙爵されて登場したのが初見であろう。信濃國更級郡にその出自場所を求めた。現地名では京都郡苅田町雨窪である(こちら参照)。

内位で登場されていることから、その氏素性は明確だったのであろう。古事記の倭建命の子、稻依別王が祖となった建部君の後裔と推測したが、犬上建部君が書紀の孝徳天皇紀に登場している。ひょっとしたら”建部”違いかもしれないが、後日に述べることにする。

人上の名称もありふれたようで、少々解釈に工夫を要する文字列である。幾つかの例があるように人=山稜の端が[人]の形に延びている様と読み解く。書換えれば「比等(もしくは登)」である。上=盛り上がった様であり、それらの地形を図に示した場所に見出せる。

後に建部公伊賀麻呂が登場する。伊賀=谷間に区切られた山稜が谷間を押し拡げたように延びているところであり、「人上」の上流域の地形を表していることが解る。彼等は後に朝臣姓を賜ったと記載されている(健部朝臣人上:「健」=「人(谷間)+建」)。

<桑原連足床-嶋主-眞嶋-岡麻呂-足嶋>
● 桑原連足床

「桑原連」は、書紀の天武天皇紀に「人足」が高麗への使者として名前が挙げられていた。また同紀に「桑原村主訶都」が侍医として登場しているが、同族と思われる(こちら参照)。

意外に具体的な人物名が記されるのは遅い時期だったようである。一方、孝謙天皇紀になって桑原史一族が史姓の改変を請願して桑原直・船直姓を賜ったと記述していた。

大倭國葛上郡(現地名は田川郡福智町上野と推定)の蔓延った連中なのだが、それぞれ系列が異なっていたのであろう。また、渡来して月日が経ち、派生してある意味好き勝手な名称を名乗り出し、一族としての纏まりに欠けるきらいが生じていたことを告げているように思われる。

今回の足床に加えて、幾人かがこの後に登場するようである。纏めて各々の出自場所を求めてみた。足床=[足]のように延びた山稜の麓に四角く区切られた地があるところと解釈される。図に示した場所にその地形を見出せる。

桑原連嶋主嶋主=山稜が鳥の形をして真っ直ぐに延びているところ桑原連眞嶋眞嶋=窪んだ地に鳥の形をしている山稜が寄り集まっているところ桑原連岡麻呂岡=谷間に小高い地がある様、更に後(称徳天皇紀)に桑原公足嶋足嶋=足が鳥の形をしているところと読み解くと、各々の出自場所が図に場所にあったと思われる。桑原直・船直一族と住み分けられていたことが解る。尚、天平神護二(766)年二月に彼等は公姓を賜ったと記載されている。

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膨大な数の新人登場となった。また、初見と思われる一族の登場も多く、過去の推定した場所の見直しも多々行わざるを得ない有様であった。續紀編者の一貫した記述に救われて、より確度の高いものになったように思われるが、これが今後も継続されるかも?…と言う”恐怖”が生じたことも事実である。

そんなわけで、今回のところはここまでとし、引き続き次回に十月記について述べることにする。

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