2023年2月12日日曜日

廢帝:淳仁天皇(19) 〔623〕

廢帝:淳仁天皇(19)


天平字八年(西暦764年)十月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀3(直木考次郎他著)を参照。

冬十月乙丑。廢放鷹司置放生司。丙寅。授從四位下藤原朝臣宿奈麻呂正四位上。從五位上石上朝臣宅嗣正五位上。」以正五位上石上朝臣宅嗣爲常陸守。從五位下三川王爲信濃守。從五位上佐伯宿祢美濃麻呂爲出羽員外守。正四位上藤原朝臣宿奈麻呂爲大宰帥。從五位下采女朝臣淨庭爲少貳。己巳。以從四位下藤原朝臣楓麻呂爲美濃守。庚午。詔加賜親王大臣之胤。及預討逆徒諸氏人等位階。无位諱〈今上。〉矢口王。三關王。大宅王。若江王。當麻王。坂上王並授從五位下。正五位下藤原朝臣濱足從四位下。從五位上縣犬養宿祢古麻呂。小野朝臣竹良並正五位下。從五位下佐伯宿祢伊太智從五位上。外從五位下葛井連立足。漆部直伊波。正六位上守山眞人綿麻呂。海上眞人淨水。岸田朝臣繼手。大伴宿祢形見。八多朝臣百嶋。宇治眞人宇治麻呂。忌部宿祢比良夫。三野眞人馬甘。安曇宿祢三國。紀朝臣鯖麻呂。久米朝臣子虫。百濟朝臣益人。山田三井宿祢廣人。笠朝臣道引。佐伯宿祢久良麻呂。巨勢朝臣津麻呂。多治比眞人小耳。高向朝臣家主。中臣朝臣常。佐伯宿祢眞守。阿倍朝臣淨成。賀茂朝臣大川。石上朝臣家成。紀朝臣廣庭。豊野眞人奄智。文室眞人水通。國見眞人阿曇。藤原朝臣乙繩。藤原朝臣小黒麻呂。石川朝臣永年。若櫻部朝臣上麻呂。弓削宿祢薩摩。當麻眞人得足。阿倍朝臣東人。從六位上雀部朝巨道奥。大伴宿祢淨麻呂。從六位下賀茂朝臣田守。從七位下佐伯宿祢家繼。大初位下石村村主石楯並從五位下。正六位上張祿滿。漆部宿祢道麻呂。道守臣多祁留。土師宿祢樽。弓削連耳高。田部宿祢男足。秦忌寸智麻呂。靭負宿祢嶋麻呂。内藏忌寸若人。美努連奥麻呂。中臣片岡連五百千麻呂。矢集宿祢大唐。秦忌寸伊波太氣。從六位下掃部宿祢廣足。正六位上大原連家主。津連眞麻呂。尾張宿祢東人。雀部直兄子。丈部直不破麻呂。高志毘登若子麻呂。建部公人上。桑原連足床並外從五位下。正四位上廣瀬女王。圓方女王。神社女王並從三位。

十月二日に放鷹司を廃して放生司を設置している(764~9年まで。不殺生の仏教思想に基づく)。三日に藤原朝臣宿奈麻呂(良継)に正四位上、石上朝臣宅嗣に正五位上を授けている。また石上朝臣宅嗣を常陸守、三川王(三河王、參河王。出雲王に併記)を信濃守、佐伯宿祢美濃麻呂を出羽員外守、藤原朝臣宿奈麻呂を大宰帥、采女朝臣淨庭を少貳に任じている。六日に藤原朝臣楓麻呂(千尋に併記)を美濃守に任じている。

七日に高野天皇は詔して、親王・大臣の後胤、及び逆徒追討に携わった諸氏等に位階を昇進させている。「諱<今上天皇>(桓武天皇)・矢口王・三關王・大宅王・若江王・當麻王・坂上王」に從五位下、藤原朝臣濱足に從四位下、縣犬養宿祢古麻呂小野朝臣竹良(小贄に併記)に正五位下、佐伯宿祢伊太智(伊多智、伊多治)に從五位上、葛井連立足漆部直伊波・「守山眞人綿麻呂」・海上眞人淨水(清水)・「岸田朝臣繼手・大伴宿祢形見・八多朝臣百嶋・宇治眞人宇治麻呂」・忌部宿祢比良夫(呰麻呂に併記)・三野眞人馬甘(三嶋に併記)・「安曇宿祢三國・紀朝臣鯖麻呂」・久米朝臣子虫(湯守に併記)・百濟朝臣益人(余益人)・山田三井宿祢廣人(山田史女嶋に併記)・笠朝臣道引(三助に併記)・佐伯宿祢久良麻呂(伊多治に併記)・巨勢朝臣津麻呂(古麻呂に併記)・多治比眞人小耳・「高向朝臣家主」・中臣朝臣常(宅守に併記)・「佐伯宿祢眞守・阿倍朝臣淨成・賀茂朝臣大川」・石上朝臣家成(宅嗣に併記)・紀朝臣廣庭(宇美に併記)・豊野眞人奄智(奄智王)・「文室眞人水通」・國見眞人阿曇(眞城に併記)・藤原朝臣乙繩・「藤原朝臣小黒麻呂」・石川朝臣永年(兄の名足に併記)・「若櫻部朝臣上麻呂・弓削宿祢薩摩・當麻眞人得足」・阿倍朝臣東人(佐美麻呂の子。廣人に併記)・雀部朝巨道奥(東女に併記)・大伴宿祢淨麻呂(小薩に併記)・「賀茂朝臣田守・佐伯宿祢家繼」・石村村主石楯に從五位下、「張祿滿・漆部宿祢道麻呂」・道守臣多祁留(寺人小君に併記)・土師宿祢樽(關成に併記)・「弓削連耳高(薩摩の兄)・田部宿祢男足・秦忌寸智麻呂・靭負宿祢嶋麻呂」・内藏忌寸若人(黒人に併記)・「美努連奥麻呂」・中臣片岡連五百千麻呂(中臣殿來連竹田賣に併記)・「矢集宿祢大唐・秦忌寸伊波太氣・掃部宿祢廣足」・大原連家主(大原史遊麻呂に併記)・「津連眞麻呂」・尾張宿祢東人(馬身に併記)・「雀部直兄子」・丈部直不破麻呂(刀自に併記)・「高志毘登若子麻呂・建部公人上・桑原連足床」に外從五位下、廣瀬女王圓方女王神社女王に從三位を授けている。

<山部王>
● 山部王

 口に出すのも恐れ多くて今上天皇は諱と記載されている。少し調べて、幼名は山部王、白壁王の子であり、後に第五十代桓武天皇として即位することになる。

系譜を振り返ると、天智天皇(葛城皇子)が越道君伊羅都賣を娶って誕生したのが施基皇子、その子が白壁王となる。この天皇の子の多くは、葛城の地が出自と推定したが(こちら参照)、施基皇子は母親の近隣の地に求めることができた。現地名は北九州市門司区伊川である。

母親については百濟系の渡来人(高野新笠、多分こちらが出自)とのことであるが、詳細は後日に述べることとして、山部王の出自の場所を定めておこう。何とも平凡な名前であり、これでは特定には至らないように思われるが、書紀に同名の山部王が『壬申の乱』の記述の中に登場し、續紀では來目皇子の子孫である山村王なる王が登場している。

用いられた「山」は、「山」の文字形を示す場所が出自と推定した。類似の地形を探すと、図に示した場所…現在は高速道路が走り山稜端が欠落しているが…を見出すことができる。その[山]の形の山稜の麓(部=近隣)が山部王の出自の場所と推定される(国土地理院航空写真1961~9参照)。

また、續紀では用いられていないが、柏原天皇と呼称されたと知られている。柏原=山稜がくっ付くように並んだ麓にある平らなところと解釈すると、狭い谷間を出て広がった場所を表している。通説のような陵墓の場所に基づくのではなく、出生地の地形を端的に表現していると思われる。

● 矢口王・三關王・大宅王・若江王・當麻王・坂上王

<山部王とその仲間達>
上記本文で「詔加賜親王大臣之胤。及預討逆徒諸氏人等位階」で始まり、「山部王」を筆頭にして七名の王が列挙されている。

残念ながらこれ等の王の系譜は全く知られていないようで、出自の場所については後日に求めることにしようかと躊躇したのだが、「山部王」も含めて逆徒追討に貢献したことを示唆していると気付かされた。

施基皇子の母親は越道君であり、越前守の近傍に住まっていたのである。前記で佐伯宿祢伊多智(治)が先回りをして越前守の藤原恵美朝臣辛加知を斬殺したと記載されていた。即ち「山部王」以下七名がこれに協力したことを暗示する叙位と推察される。

彼等は施基皇子の後裔であり、その周辺を出自としていたのである。順にそれぞれの名前が示す地形を求めてみよう・・・、

矢口王鏃(矢口)の形をしているところ
三關王三つの山稜が突き出て谷間を堰き止める(三關)ようなところ
大宅王谷間に平らな頂(大)の山稜が延びている(宅)ところ
若江王細かく岐れて延び出た山稜(若)の麓が水辺で窪んでいる(江)ところ
當麻王同じように分かれて平らに(當)擦り潰されて広がっている(麻)ところ
坂上王腕のように延びた山稜(坂)の麓が盛り上がっている(上)ところ

・・・と読み解ける。上図にそれぞれの出自場所を推定した。正に「山部王」の、多分遊び仲間だった若者が世に出る機会を得て、「伊多智」の手助けをした結果と推察される。

<守山眞人綿麻呂>
● 守山眞人綿麻呂

「守山眞人(公)」は記紀・續紀を通じて初見である。調べると難波皇子の子、石川王の後裔であったらしいことが分かった。すると多くの人材が登場している路眞人(公)と同じ系列だったようである。

現地名で言えば、田川郡赤村赤・内田の境界であり、犀川(現今川)が大きく曲がって流れる川辺の地域である。戸城山の南麓となる。

難波皇子の子孫ばかりではなく既に多くの渡来系の人々、古くは邇藝速日命の末裔が住まっていた地であり、果たして「守山眞人」に割り振る場所はあるのか?…そんな杞憂さえ感じられるところであろう。

守=宀+寸=山稜が両肘を張り出したように延びている様、上記と同様に山=山稜が[山]の形に延びている様と解釈すると、すっぽりと抜け落ちていた場所にその地形を見出せる。まるでジグソーパズルの最後のピースが埋まった気分である。

綿麻呂綿=糸+緜=山稜が途切れることなく細長く延びている様麻呂=萬呂とすると、図に示した場所が出自と思われる。「守山眞人」を名乗る人物は二度と續紀には登場されないようである。多分、逆徒の逃走経路を塞ぐ目的で、「三關」に匹敵する、南方の要所であったこの地を任されたのであろう。

<岸田朝臣繼手>
● 岸田朝臣繼手

「岸田朝臣」は初見である。上記と同様に然るべき系譜の持ち主だったか思われるが、全く音沙汰無しであった。勿論、古事記の蘇賀石河宿禰が祖となった岸田臣の子孫と推測される。

「岸田臣」を取り巻く環境については、前記で詳細に語られていたのである。孝謙天皇紀に桑原史・大友史等が分派してしまったが元は同祖であり、また「史」の文字を回避する為に新しい姓を賜りたいと申し出て「桑原直」と名乗るようになったと記載されていた。

これは近江國神前郡(現地名京都郡苅田町葛川)に蔓延った一族を示したもので、更に「曰佐」も大友一族であり、野洲郡(現地名同町上片島)を含めて、「岸田臣」の背後は全て彼等の居処なっていたのである。これでは登用される人材もなく時が過ぎたことも頷ける状況だったと推測される。後漢の子孫等が圧倒していたのであろう。

<大伴宿祢形見-村上>
些か前書きが長くなったが、繼手=手のような山稜が連なって延びているところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。「仲麻呂」の最後の逃走行程に関わる地である(こちら参照)。何らかの役割を果たしたのではなかろうか。

● 大伴宿祢形見

依然として途切れることなく登場の「大伴宿祢」であるが、系譜は不詳である。名前が示す地形から出自の場所を求めることになる。

「形」=「井+彡」=「四角く区切られた地で山稜が斜めに延びている様」と頻度高く用いられている文字である。「見」=「目+儿」=「谷間が長く延びている様」であり、これも多用されている。

纏めると形見=長く延びている谷間にある四角く区切られた地で山稜が斜めに延びているところと読み解ける。図に示した場所が出自と推定される。別名に像見(象のように大きな山稜の傍ら)・方見(耜のような形をした山稜の傍ら)とも表記されたとのことであるが、許容されるであろう。

後(光仁天皇紀)に大伴宿祢村上が従五位下を叙爵されて登場する。系譜不詳であるが、調べると万葉集に幾つかの歌を残されているようである。村上=山稜が手を開いたように延びて盛り上がっているところと解釈すると、図に示した辺りが出自と推定される。この両者は、この後幾度か登場されている。

<八多朝臣百嶋-百足>
● 八多朝臣百嶋

「八多朝臣」の表記は、續紀中これが唯一である。頻出の「波多朝臣」が表す地形とは、勿論、異なっていて、敢えて「八多」を用いたのには理由があると思われる。

地形象形的には「波多」=「山稜の端が崖のようになっているところ」と解釈されるが、また「出雲國(多)の端(波)にあるところ」との解釈も行って来た。重ねられた表記である。

一方、八多=大きく広がった谷間に幾つかの山稜が延びているところと読み解ける。これで「八多」を用いた理由が明らかになったようである。この人物は、「波多朝臣」一族なのであるが、更に「八多」の地形の場所を出自としていたのである。文武天皇紀に波多朝臣廣足が登場していた。

「廣足」が表す地形から図に示した場所を求めたが、その南側に百嶋=山稜が鳥の形に延びた前で小高い地が連なっているところが出自と推定される。正に広がった山稜の端の中央に当たる場所である。多分、淡路國で幽閉された大炊親王等の監視などを任じられていたのであろう。「八多」は、”淡海”を挟んで目と鼻の先の位置関係である。

後(光仁天皇紀)に波多朝臣百足が従五位下を叙爵されて登場する。”ムカデ”と読まずに、百足=小高く連なっている地が[足]のような形しているところと解釈すると、「百嶋」の南隣の場所が出自と推定される。

<宇治眞人宇治麻呂>
● 宇治眞人宇治麻呂

「宇治眞人」は、眞人姓でありながら初見であり、実に唐突に記載されている。あれこれと思い巡らしていると、孝謙天皇紀に等美王が臣籍降下して内眞人氏姓を賜ったと記されていた。

「内」を「宇治」で表記したのではなかろうか。「内」は古事記の内色許男命・内色許賣命に由来する表記と解釈した。この地は多くの山稜の端が寄り集まった地形であり、その山稜を「宇治」と表現したと思われる。

即ち、「内」の別表記として、「宇治」は一側面を表すとして差支えがなかったのである。その地に宇治麻呂は、至るところに存在するが、「内眞人」に関連するとして図に示した場所が出自と推定される。勿論「ウチ」と読むのである。

しかし何とも「宇治」、「宇治」とした名称となっているが、何故?…「仲麻呂」一味の集合場所”宇治”の名称は、固有ではないことを暗示しているのであろう。「宇治」の地形は、決して特殊なものではないからである。念のため、宇治=谷間に延び出た山稜の端が耜の形をしているところと解釈される。

<安曇宿祢三國>
● 安曇宿祢三國

「阿(安)曇宿祢」の直近の動向は、聖武天皇紀に「刀」が登場し、その後「大足」が続き、淳仁天皇紀になって「石成・夷女」が従五位下を叙爵されていた(こちら参照)。

その時にも少し述べたが、古事記の墨江之三前大神の地を出自とする人物にお目に掛かれることになった。古事記が記す神々の末裔がしっかりと根付いていたことを示しているのであろう。

この地は元明天皇紀に日向國肝坏郡(現地名は遠賀郡岡垣町黒山)と名付けられていたが、その後に記載されることはないようである。決して大隅國に転属された郡ではない。

今回登場の三國は、「三前」に関わる名称と思われる。地形象形表記としては三國=三つの区切られた地が寄り集まっているところと解釈される。「三前」に山稜が岐れる場所、それを「三國」と表現したのであろう。『仲麻呂の乱』での活躍は不詳である。

<紀朝臣鯖麻呂(佐婆麻呂)>
● 紀朝臣鯖麻呂(佐婆麻呂)

全く途切れることを知らない「紀朝臣」であるが、系譜は不詳のようである。魚偏の名前も久々に登場であり、些か趣の異なる出自のように感じられる。

直ぐに別名表記が用いられて佐婆麻呂と記載されている。「鯖」では見当も付かない有様がこれで幾らか手掛かりを得たのである。

先ずはこちらを地形象形表記として読み解くと佐婆=谷間にある左手のような山稜の端が嫋やかに曲がりながら水辺で崖のようになっているところとなる。

多くの山稜が延びている「紀朝臣」の地ではあるが、「左手」の山稜は唯一であることが解った。図に示した場所、書紀の孝徳天皇紀に紀臣乎麻呂岐太が登場して以来、全く登用された人物は出て来なかった場所である。見事な左手であり、かつ端の崖下を川が流れている地形である。

鯖=魚+靑=魚の地で四角く囲まれいる様と解釈される。「佐婆」の一部が四角く欠けているところが見出せる。左手先を「魚」の形と見做したのであろう。麻呂=萬呂として読むと、余すことなく出自の場所の地形を表していることが解る。この後、地方官、京官を務められて幾度か登場されるようである。

<高向朝臣家主>
● 高向朝臣家主

「高向朝臣」一族の直近の登場者は大足の子、諸足であった。「宇摩」から始まる系譜上の人物であったことが知られている(こちら参照)。でっきり今回登場の「家主」もその系譜にあるのかと思いきや、どうやら不詳のようである。

そんな背景で名前が示す地形からその出自の場所を求めてみよう。かなりの頻度で用いられている名称の家主=真っ直ぐに延びる山稜の前が豚の口のような形をしているところと解釈される。

その地形を「色夫智」の西側の山麓に見出すことができる。この配置からすると「色夫智」の子であったような気もするが、記録になかったのであろう。今回の事件では、「仲麻呂」が宇治から近江國高嶋郡へ向かう道中に位置する場所(こちら参照)である。何らかの役割を担ったのかもしれない。この後、地方官を務められたとのことである。

<佐伯宿祢眞守-家繼-高岳-國守-家主>
● 佐伯宿祢眞守・佐伯宿祢家繼

騒動が生じると必ず登場する佐伯・大伴一族であろう。この人物も系譜は定かではなく、上記の久良麻呂(伊太智に併記)の周辺の地が出自かと、しかしながら、名前が示す地形を求めることは叶わないようである。

眞守=両肘を張り出したように腕に囲まれた地が寄り集まって窪んでいるところと読み解ける。既に登場していても不思議ではない名称なのだが、今回が初見である。

佐伯・大伴の谷間を探索すると、図に示した場所が見出せる。文武天皇紀に登場した石湯・果安の出自場所を、その麓と推定した。急峻な山腹にあって棚のようになっている地形である。

国土地理院航空写真1961~9を参照しても、既に樹木に覆われた様子になっているが、当時は狭いながらも開拓されていたのではなかろうか。この後地方官・京官を務めて、最終従四位上・大藏卿であったと伝えられている。

家繼=豚の口のような山稜の端が連なっているところと解釈すると、図に示した場所が見出せる。直ぐ後に佐伯宿祢高岳が従五位下を乱後の昇叙で授かって登場する。それきりの登場で、系譜も見当たらず、名前が示す地形から、図に示した場所が出自と推定した。高岳=皺が寄ったような盛り上がったところと解釈した。

後(称徳天皇紀)に紀伊國掾の佐伯宿祢國守が従五位下を叙爵されて登場する。國守=囲まれた地で両肘を張り出したように山稜が延びているところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。地方官を務めて従五位上まで昇進されたと記載されている。

更に後に佐伯宿祢家主が従五位下を叙爵されて登場する。家主=真っ直ぐに延びる山稜の端が豚の口のようなところと解釈する。「家繼」が継ぐ「家」の場所であろう。ここでの登場が唯一の人物だったようである。

<阿倍朝臣淨成>
● 阿倍朝臣淨成

上記と同様に多くの人材が輩出している阿倍朝臣一族であるが、系譜は不詳のようである。直近で淨目(息道に併記)が登場していたが、「淨」を含む名前は希少であることには違いない。

そんな背景で「淨成」が示す地形を探すことにする。淨=淨=水+爪+ノ+又=水辺で両腕のような山稜が取り囲んでいる様成=丁+戊=平たく盛り上げた様と解釈した。

結果として、この二つの地形を合せ持つ場所を図に示したところに見出すことができる。「廣庭」の子、嶋麻呂の隣の地である。何らかの血縁関係があったようにも思われるが、定かではない。

この後、續紀に幾度か登場されて、正五位下にまで昇進されているが、その他の関連資料で伝わってはいないようである。また、今回の事変への係わりも不明の様子である。

<賀茂朝臣大川-伊刀理麻呂>
● 賀茂朝臣大川・賀茂朝臣伊刀理麻呂

「賀茂(鴨)朝臣」は直近では孝謙天皇紀に塩管・淨名が登場していた。少々時が経っての登用である。この一族も系譜が知られているのは限られているのだが、「大川」は「枚手」の子と伝わっているようである。

実のところ「大川」では、全く出自の場所を求めることは不可能なのだが、父親の名前から推定することができると思われる。

既出の枚=木+攴=枝分かれして山稜が延びている様手=手のような形をしている様と解釈すると、図に示した場所が見出せる。

大川=平らな頂の麓で川が流れているところとして、父親の近傍の場所を図に示した。この後、しばしば登場されるようである。

伊刀理麻呂については、古事記風の名称を読み解いてみよう。伊=人+尹=谷間に区切られた山稜が延びている様刀=刀の形をしている様理=王+里=区分けされている様と解釈される。これらの地形を持つ場所を図に示した。吉備麻呂の西側に当たる場所であるが、血縁関係であるかどうかは不明とのことである。

<文室眞人水通-忍坂麻呂>
● 文室眞人水通

長皇子の子、大市王等が臣籍降下して賜った文室眞人氏姓に属する人物なのだが、系譜は不詳のようである。

若干奇妙な感じがしないでもない素性ではあるが、この後に幾度か登場され、續紀での最終官位は正五位下となっている。

ともあれ、「大市」の周辺の地に出自を求めることにする。但し、彼の子等である長嶋・高嶋・眞老及び波多麻呂とは異なる場所となろう。

水通の「通」=「辶+甬」=「筒の形に突き通っている様」と解釈する。即ち、水通=水が筒の形に突き通っているところと読み解ける。その地形を図に示した場所に見出せる。現在は二つの池を結ぶような場所であるが、当時は川が流れる谷間の様相だったのではなかろうか。ひょっとしたら、「智努女王」の子だったのかもしれない。

後(称徳天皇紀)に文屋眞人忍坂麻呂が従五位下を叙爵されて登場する。「大市」か「淨三(智努)」の子と言われているようである。「忍坂」=「一見坂には見えない坂」と読むも良しであるが、忍=刃+心=谷間の中心で刃のように山稜が突き出ている様坂=土+厂+又=山麓に腕のような山稜が延びている様と解釈する。それらの地形を満たす場所を図に示した。「淨三」の子であったことが解る。

<藤原朝臣小黒麻呂>
● 藤原朝臣小黒麻呂

まさか「黒麻呂」のことか?…それは全く見当違いで、黒麻呂は”南家”の出身、「小黒麻呂」は”北家”と知られている。

前者は最終從二位・右大臣(贈從一位)、後者は正三位・大納言であり、共に大活躍だったようである。「小黒麻呂」は鳥養の子であり、出自はその近隣と思われる。

「鳥養」の續紀における登場は、極めて限定的であって、爵位も従五位下止まりで終わっている。それ故に早世したのではないかと推測されている。藤原四家間の主導権争いに後れをとった一因でもあろう。

小黒麻呂小=三角形をしている様黑=谷間に炎の形をした山稜が延びている様であり、「鳥養」の北側に、その地形を見出せる。千尋の南に接する場所と思われる。今回の事変に関わった詳細は不明のようである。

<若櫻部朝臣上麻呂-伊毛-乙麻呂>
● 若櫻部朝臣上麻呂

「若櫻部朝臣」は、書紀に登場した稚櫻部臣五百瀬の後裔と思われる。大海人皇子(天武天皇)の吉野脱出時の従者の一人として挙げられていた。『壬申の乱』における功績のより後に昇位・褒賞を賜ったと記載されている。

子孫も含めて、その後に登場されることはなく本事変でお目に掛かることになったようである。居処は古事記の伊邪本和氣命(履中天皇)が坐した伊波禮之若櫻宮近隣、現地名は田川郡香春町高野上高野と推定した。

上麻呂上=盛り上がっている様であるが、それでは一に特定するには少々言葉不足の感じである。調べると別表記に匕麻呂があったと知られていることが分かった。これで一気に出自場所を突止めることが可能となった。背後の山稜の形を表していることが解る。実は、この地は匕(匙)の形の山稜が並んでいるところなのである(高佐士野)。

後に若櫻部朝臣伊毛若櫻部朝臣乙麻呂が登場する。伊毛=谷間に区切られた山稜が鱗のようになっているところ乙=[乙]の形に曲がっいるところと解釈され、それぞれ図に示した場所が出自と思われる。詳細はご登場の際に述べることにする。

<弓削宿祢薩摩❶>
● 弓削宿祢薩摩

前記で「淨人」が宿祢姓を賜っていたが、「薩摩」も同様の扱いとなっていたのであろう。道鏡・淨人とは従弟の関係にあったと知られている。

即ち、「薩摩❶」の父親の「枚夫⓫」と「櫛麻呂」が兄弟だったことになる。既出の薩摩=二つに岐れて生え出た山稜の端が細かく岐れたところと解釈したが、残念ながら細かく岐れた山稜の詳細を確認することは叶わないようである。

国土地理院航空写真1961~9年を図に示したが、既に棚田に整地されていて、山稜の端の状態は大きく変化している。頻出の「枚夫⓫」は、図に示した場所と推定され、「櫛麻呂」との位置関係は妥当なように思われる。

「薩摩」に続いて多くの「弓削宿祢」が登場する。纏めて図に示した。弓削宿祢美努久女❷及び弓削宿祢乙美努久女❸の美努久=嫋やかに曲がる谷間が延びて広がり[く]の形に曲がっているところと読み解ける。更に乙=[乙]の形に曲がっている様として、それぞれの出自の場所を求めることができる。

弓削宿祢刀自女❹の刀自=刀の形した山稜が端にあるところと解釈する。弓削宿祢牛養❺は頻出の牛養=牛の頭部のように谷間がなだらかに延びているところとすると、図に示したように並んでいる配置となる。

弓削宿祢大成❻の大成=平らな頂の山稜の麓で平たく整えられたところと解釈すると図に示した場所が見出せる。弓削宿祢東女❼の東=突き通すような様として狭い谷間の入口辺りと推定される。それぞれの出自場所を図に示した。

弓削宿祢塩麻呂❽の鹽=鑑のように平らに広がっている様と解釈するが、図に示した「櫛麻呂」の西側の平地辺りと思われる。弓削宿祢男廣❾は、文字通りに突き出た山稜が広がっている場所を表している。それぞれの出自場所を図に示した。

弓削連耳高❿については、宿祢姓ではなく連姓表記となっている。調べると「薩摩」の兄だったのだが、何らかの事情があったのかもしれない。耳高=皺が寄ったような地が耳の形をしているところと読み解ける。残念ながら「皺」を確認することは不可だが、「耳」及び「薩摩」との位置関係から出自場所を推定した。

それにしても凄まじいばかりの叙位である。歴史の表舞台に、ほんの僅かしか登場していなかった一族が、まるで鬱憤を晴らすように、こぞって出現した様相である。彼等が如何なる活躍をするのか、暫く様子を伺うことにしよう。

<當麻眞人得足-永嗣>
● 當麻眞人得足

「當麻眞人」一族は、直近では吉嶋・多玖比礼が登場していた。最も東側の谷間に蔓延って行く様子であり、葛城の地に接する場所と推定した。現地名は田川郡福智町上野である。

彼等の系譜は不詳、今回登場の得足も同じような状況である。名前を頼りにその出自を求めると、図に示した場所が見出せる。別名に德足があったことが知られていて、得(德)足=四角く窪んだ谷間の先で山稜が足のように延びているところと読み解ける。

元明天皇紀に押(忍)海連人成が登場し、その出自を図に示した場所と推定した。「得足」は、「忍海連」一族の居処に接する場所が出自となる。續紀の記述は、言い換えると、各氏族は隙間なく広がっていった様子をあからさまにしている、と思われる。

後(称徳天皇紀)に當麻眞人永嗣が従五位下を叙爵されて登場する。同様に他の情報は皆無であって、名前が表す地形から出自の場所を求めることになる。既出の「嗣」=「口+冊+司」=「谷間が延び出た山稜に挟まれて狭まっている様」と解釈した。永嗣=長く続く谷間が延び出た山稜に挟まれて狭まっているところと読み解ける。図に示した辺りが出自と推定される。

<賀茂朝臣田守-諸雄>
<-萱草-圓興-清濱>
● 賀茂朝臣田守

今回の叙位では、上記した「大川・伊刀理麻呂」も含めて「賀茂朝臣」が多く登場している。調べると「田守」の系譜が伝わっていて、父親が虫麻呂(吉備麻呂の子)であったようである。

兄の「諸雄」、弟の「萱草」も併せて出自の場所も求めてみよう。場所は、「大川・伊刀理麻呂」の間の地となろう。田守=平らに整えられた地に山稜の端が肘を張り出したようになっているところと読み解ける。

諸雄=山稜が羽を広げた鳥の形をしている前で耕地が交差しているところと解釈される。末弟の萱草の「萱」は、初見の文字であり、少々補足すると、「萱」=「艸+宀+亘」と分解される。「亘」=「丸く取り囲まれている様」を表す文字として、地形象形的には萱=山稜に挟まれた地が丸く取り囲まれている様と解釈される。既出の草=山稜が並んで延びて先が丸く小高くなっている様である。

直後の法臣圓興が登場する。彼等の兄であり、法王道鏡の弟子(法臣)だったと知られている。後に大僧都となり、権勢を振るうことになる。既出の文字列である圓興=丸く取り囲まれた地と筒のように区切られた地があるところと読み解ける。図に示した場所が出自であろう。これらの地形象形表現から、「虫麻呂」の近隣に、四兄弟の出自場所を図に示した。彼等は、後に「高賀茂朝臣」の氏姓を賜ることになる(遠祖:高鴨神)。

現在は貯水池となっている谷間は、川が流れる耕地として開拓されていたものと思われる。「雄」の鳥の姿は、些か不鮮明だが、羽を広げた姿として見做せるように思われる。この地も谷間ごとに一人ずつ配置された様相であろう。

後(称徳天皇紀)に賀茂朝臣清濱高賀茂朝臣の氏姓を賜ったと記載されている。系譜は定かではないようであるが、何らかの繋がり合ったのであろう。淸濱=四角く囲まれた地が水辺の近くにあるところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。

<漆部宿祢道麻呂>
● 漆部宿祢道麻呂

「漆部」の氏名を持つ人物は、既出であり、姓は「造」もしくは「直」であった。書紀の天武天皇紀の『八色之姓』の中に「漆部連」があり、宿祢姓を賜っている。どうやら、元は連姓の一族がいたのであるが、具体的な人物名が登場していなかったことが分かる。

尚、「造」については文武天皇紀に漆部造道麻呂(天武紀に記載された友背と同じく物部一族と推定)、聖武天皇紀に左京人漆部造君足が登場し、二つの系統があったようである。また「直」については、聖武天皇紀に漆部直伊波が登場、こちらは相摸國を出自とする一族と思われ、後に相摸宿祢の氏姓を賜っている。

いずれにせよ、同じ「漆部」の氏名としても、續紀編者は明瞭に書き分けていることが判る。「漆部(ヌリベ)」の部民などと解釈しては混乱するだけであろう。そして、「漆部連」後に「漆部宿祢」と称していた一族が存在していたことになる。

物部一族の周辺を探索すると、多くの人材が登用されて来た置始連と「物部」の端境に漆=漆を採取する時のように山稜が並んでいる様の谷間が横たわっていることに気付かされた。その谷間の近傍(部)道=首の付け根のように窪んだ様の地形を見出せる。高位の姓を賜りながら、これまで全く音沙汰無しの有様だったわけである。正にジグソーパズルのピースがすっぽりと嵌った感じである。

<田部宿祢男足-足嶋>
● 田部宿祢男足

書紀の天武天皇紀に田部連國忍が登場していた。おそらく、その後に宿祢姓を賜ったのであろう。『八色之姓』には記載されていないが・・・。

少々振り返ると、古事記の男淺津間若子宿禰命(允恭天皇)紀に木梨之輕王が禁断の恋に陥り、追い詰められて助けを求めた人物、大前小前宿禰の子孫が「田部連」を名乗ったと知られている。

男足=男のような山稜の端にある足の形になっているところと読むと、図に示した場所が見出せる。「大前」に該当するところでもある。後に田部宿祢足嶋が登場する。足嶋=足のような山稜の端が鳥の形をしているところと解釈すると、東側の山稜の麓辺りと推定される。「小前」に該当する場所となる。

上記の「漆部宿祢」ほどではないにしても、「田部宿祢」は初見であり、それまでに登用された人物は皆無であった。空白地帯の一掃が目的だったのかもしれない。

<秦忌寸智麻呂-伊波太氣-公足>
● 秦忌寸智麻呂・秦忌寸伊波太氣

「秦忌寸」一族では直近では首麻呂が登場していた。葛野秦造河勝から始まる秦一族の五世代目であったと知られている。今回の二人については系譜不詳のようであり、名前を頼りに彼等の出自場所を求めることにする。

智麻呂の頻出の智=矢+口+日=[鏃]と[炎]の地形がある様と解釈したが、その地形を「百足」の東側の谷間に見出せる。この後、外従五位上となり、寫一切經次官や主税助などを任じられたようである。

伊波太氣は別名に石竹があったと知られているが、先ずはそのまま伊波太氣=谷間に区切られた山稜の端が広がりゆらゆらと延びているところと読み解ける。図に示した場所が出自と推定される。石竹=山麓の小高く区切られた地が竹のように延びているところと読むと、概ねその地形を表す表記であることが解る。

調べると「石竹」は、「石勝」の子、「百足」が父親である足國の子だったとする系譜があるとされるが、全く定かではないようである。足國=足のように延びた山稜の端で取り囲まれたところと解釈すると、「石竹」の西側の谷間を表していると思われる。

少し後に秦忌寸公足が外従五位下を叙爵されて登場する。系譜は定かではなく、名前の公足=谷間にある小高く区切られた地から足のように山稜が延び出ているところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。この後に再登場されることはないようである。

<靭負宿祢嶋麻呂>
● 靭負宿祢嶋麻呂

「靭(靫)負」の氏名は、記紀・續紀を通じて初見と思われる。「大化改新以前に朝廷を守護した職業部」の名称と解説されているが、通説の職業部とする解釈は、全く宛にならず、であろう。

関連する情報としては、極めて希薄なのであるが、「佐伯・大伴」両族の上祖であったことを伺わせる記述が散見される。

彼等の居処、現地名の京都郡苅田町山口と推定したが、「上祖」を地形上の”上”と見做すと、小字等覚寺が着目される。舒明天皇紀に登場した犬上君三田耜、孝徳天皇紀に犬上建部君以降に登用された人物が存在せず(『八色之姓』で朝臣姓となる)、この地は全く過疎のままであった。

靭負の「靭」=「矢を入れる筒状の物」であり、それをそのまま地形に当て嵌めたと思われる。既出の「負」=「人+貝」=「谷間が左右に広がっている様」と解釈した。合わせると靭負=矢を入れる筒状のような谷間が口が左右に広がっているところと読み解ける。嶋麻呂の嶋=山+鳥=山稜が鳥のように延びている様、やや地図上では見辛いが、と読むと、この人物の出自場所を図に示したように求めることができる。

古事記が記すように、”天”から渡来して、先ずは谷間の奥に居処を構え、次第に下流域へと広がって行った様子を物語っていることが分かる。そして、記紀・續紀編者等は、地形象形表記でありながら、文字が示す意味とを重ねているのである。万葉の文字使い、その中核をなす地形象形を見逃しては、彼等の意図するところは読み切れないであろう。

<美努連奥麻呂-財刀自-智麻呂>
● 美努連奥麻呂

「美努連」は、文武天皇紀に「淨麻呂」、元正天皇紀に「岡麻呂」が登場していた。紛うことなく、古事記が記載する河内之美努村の住人と思われる(こちら参照)。

臣籍降下して三嶋眞人の氏姓を賜った夥しい数の王等の居処の端に位置する場所と推定した。現地名は京都郡みやこ町勝山箕田である。「ミノ」は、間違いなく残存地名であろう。

奥麻呂の既出の奥=取り囲まれた様を表す文字と解釈したが、その地形を図に示した場所に見出せる。續紀では今回の事変での功績がらみでの登場だけであるが、Wikipediaによると、『正倉院文書』に造東大寺司の官人として多くの事績が記録されているそうである。

後に外従五位下の美努連財刀自が宿祢姓を賜ったと伝えている。「奥麻呂」もそれに準じたようであるが、間もなく元の連姓に戻されているとのことである。全て道鏡に関わる曲折だったのであろう。財刀自=谷間を堰き止めるような山稜の端に[刀]の地があるところと読み解ける。図に示した場所が出自の女官だったと思われる。

更に後に美奴連智麻呂が『仲麻呂の乱』の功臣として外従五位下を叙爵されて登場する。頻出の智=矢+口+日=鏃のような地の傍らに炎のような地があるところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。いよいよ美努村の谷間も全て埋まったか?…かもしれないが・・・。

<矢集宿祢大唐>
● 矢集宿祢大唐

「矢(箭)集宿祢」については、元正天皇紀に「虫万呂」、続いて聖武天皇紀に「堅石」が登場していた(こちら参照)。前者は明法(律令)の造詣が深く褒賞されていた。彼等は古事記の伊迦賀色許男命の後裔であり、皇統に関わる系譜を持つ一族である。

孝謙天皇が「李元環」の唐楽演奏を視聴するために春日酒殿に行幸されていた。さすが、春日の地は文化レベルが高かったのかもしれない。前にも述べたが、決して酒蔵ではない。

そんな背景で、大唐=平らな頂の山稜の麓で四方に広がっているところと読み解ける。図に示した場所が出自と推定される。今回は外従五位下を叙爵されているが、後に登場された時には内位の従五位下で能登守に任じられている。

<掃部宿祢廣足>
● 掃部宿祢廣足

「掃部」は書紀の孝徳天皇紀に掃部連角麻呂が登場していた。「掃部連」は、天武天皇の『八色之姓』で宿祢姓を賜っていることから、「廣足」はこの一族に属していたのであろう。

現地名は京都郡みやこ町勝山岩熊であり、若宮八幡宮のある山稜を掃=手+帚=箒のような山稜が延びている様と見做し、その近傍(部)と表現していると解釈した。

古文書他に宮殿の掃除係に由来するとの記載を鵜呑みにしては、新羅への使者の役目を果たせたであろうか?…と言う問いに答えなければならない。著者等の戯れに踊らされているのみであろう。

廣足=足の形の山稜の端が広がったところと読み解くと、図に示した場所、現在は諌山小学校になっている場所を表していると思われる。「仲麻呂」一派が宇治に集合する際、おそらくこの近辺を通過したであろう。その時に官軍側に対して何らかの貢献をしたのではなかろうか。續紀にこの後登場されることはないようである。

<津連眞麻呂>
● 津連眞麻呂

前記で「津史秋主」等三十四人が東隣の地に蔓延る「船連」と同祖故に連姓を賜りたいと願い出て許されたと記載されていた(こちら参照)。「史」の使用を差し控えることと重なって連姓を授かったのであろう。

とは言え、今回の叙位も外従五位下であり、内位ではなく…後に昇進するが…本来の連姓の一族とは一線が引かれているように思われる。

眞麻呂の名前は、頻出の文字が並んでいるが希少である。やはり麻呂=萬呂と置き換えて解釈することになる。眞萬呂=窪んでいる地に[萬呂]が寄り集まっているところと読み解くと、図に示した場所が見出せる。「秋主・馬人」の谷間の西側に当たる場所となる。

この後従五位下を叙爵され、地方官を務めた後に肥前守を任じられたりしているが、それを解職された後については登場されることもなく、不詳のようである。

<雀部直兄子>
● 雀部直兄子

「雀部朝臣」については、孝謙天皇紀に「眞人」が、彼等は大臣「男人」の子孫なのだが、”巨勢”男人大臣と間違って記録され、それがそのままになっていると訴え、認められたと記載されていた(各々の出自場所はこちら参照)。

それ以後幾人かの人物が登用されて、雀部朝臣一族の復権がなされたようである(こちら参照)。そんな背景が影響したのであろうか、直姓の一族の登場である。

雀部=山稜が小さな頭の鳥の形をしている地の近傍のところと読み解いた。すると、「雀部朝臣」と「佐佐貴山君」との間に兄子=奥が広がった谷間から生え出たところの地形を見出すことができる。

今回の事変での功績は定かではないが(外従五位下を叙爵)、従五位下を叙爵された雀部朝巨道奥に誘われて馳せ参じたのではなかろうか。口コミの時代、近隣が浮かび上がるとチャンスが訪れる、といった感じであろう。

<高志毘登若麻呂>
● 高志毘登若麻呂

関連する情報が殆ど得られないが、續紀の天平神護元(766)年十二月に「和泉國人外從五位下高志毘登若子麻呂等五十三人賜姓高志連」と記載されている。ならば容易に、と勢い込んで探索してみるが、全く該当する場所が見当たらずの状況に陥った。

やおら国土地理院航空写真1961~9年を開くと、なんと現在の御清水ヶ池は広大な棚田であったことが分かった。池と言うよりは、最早ダムの規模であろう。

早速に文字解釈を試みると、古事記で頻出の高志=皺が寄ったように延びる山稜の傍らを川が蛇行して流れいるところと解釈した。「越」には置き換えられない地形である。

既出の毘登=並んでいる谷間の奥に小高い地があるところと読み解いた。ぞれら地形要素を満足する場所を図に示した。勿論、すっぽりと埋没してしまった場所である。頻出の若子=細かく岐れた山稜の端が生え出たところと解釈したが、「毘」の中心に延びている山稜の端がこの人物の出自と推定される。

通説は「高志」とくれば「越」であり、更に越前・中・後となって、和泉國とは全く無縁の地となり、解読不能に陥っているのであろう。関連情報が欠落する筈である。

<建部公人上-伊賀麻呂>
● 建部公人上

「建部公」は、聖武天皇紀に「豊足」が従五位下を叙爵されて登場したのが初見であろう。信濃國更級郡にその出自場所を求めた。現地名では京都郡苅田町雨窪である(こちら参照)。

内位で登場されていることから、その氏素性は明確だったのであろう。古事記の倭建命の子、稻依別王が祖となった建部君の後裔と推測したが、犬上建部君が書紀の孝徳天皇紀に登場している。ひょっとしたら”建部”違いかもしれないが、後日に述べることにする。

人上の名称もありふれたようで、少々解釈に工夫を要する文字列である。幾つかの例があるように人=山稜の端が[人]の形に延びている様と読み解く。書換えれば「比等(もしくは登)」である。上=盛り上がった様であり、それらの地形を図に示した場所に見出せる。

後に建部公伊賀麻呂が登場する。伊賀=谷間に区切られた山稜が谷間を押し拡げたように延びているところであり、「人上」の上流域の地形を表していることが解る。彼等は後に朝臣姓を賜ったと記載されている(健部朝臣人上:「健」=「人(谷間)+建」)。

<桑原連足床-嶋主-眞嶋-岡麻呂-足嶋>
● 桑原連足床

「桑原連」は、書紀の天武天皇紀に「人足」が高麗への使者として名前が挙げられていた。また同紀に「桑原村主訶都」が侍医として登場しているが、同族と思われる(こちら参照)。

意外に具体的な人物名が記されるのは遅い時期だったようである。一方、孝謙天皇紀になって桑原史一族が史姓の改変を請願して桑原直・船直姓を賜ったと記述していた。

大倭國葛上郡(現地名は田川郡福智町上野と推定)の蔓延った連中なのだが、それぞれ系列が異なっていたのであろう。また、渡来して月日が経ち、派生してある意味好き勝手な名称を名乗り出し、一族としての纏まりに欠けるきらいが生じていたことを告げているように思われる。

今回の足床に加えて、幾人かがこの後に登場するようである。纏めて各々の出自場所を求めてみた。足床=[足]のように延びた山稜の麓に四角く区切られた地があるところと解釈される。図に示した場所にその地形を見出せる。

桑原連嶋主嶋主=山稜が鳥の形をして真っ直ぐに延びているところ桑原連眞嶋眞嶋=窪んだ地に鳥の形をしている山稜が寄り集まっているところ桑原連岡麻呂岡=谷間に小高い地がある様、更に後(称徳天皇紀)に桑原公足嶋足嶋=足が鳥の形をしているところと読み解くと、各々の出自場所が図に場所にあったと思われる。桑原直・船直一族と住み分けられていたことが解る。尚、天平神護二(766)年二月に彼等は公姓を賜ったと記載されている。

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膨大な数の新人登場となった。また、初見と思われる一族の登場も多く、過去の推定した場所の見直しも多々行わざるを得ない有様であった。續紀編者の一貫した記述に救われて、より確度の高いものになったように思われるが、これが今後も継続されるかも?…と言う”恐怖”が生じたことも事実である。

そんなわけで、今回のところはここまでとし、引き続き次回に十月記について述べることにする。

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