2023年2月21日火曜日

廢帝:淳仁天皇(20) 〔624〕

廢帝:淳仁天皇(20)


天平字八年(西暦764年)十月八日の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀3(直木考次郎他著)を参照。

辛未。授從五位下高橋朝臣廣人從五位上。從六位上百濟王武鏡從五位下。外從五位下日置造蓑麻呂外正五位下。无位弓削宿祢美努久女。乙美努久女。刀自女並從五位下。」中務少丞正六位上大原眞人都良麻呂賜姓淨原眞人。名淨貞。壬申。高野天皇遣兵部卿和氣王。左兵衛督山村王。外衛大將百濟王敬福等。率兵數百圍中宮院。時帝遽而未及衣履。使者促之。數輩侍衛奔散無人可從。僅与母家三兩人。歩到圖書寮西北之地。山村王宣詔曰。挂〈末久毛〉畏朕〈我〉天先帝〈乃〉御命以〈天〉朕〈仁〉勅〈之久〉天下〈方〉朕子伊末之〈仁〉授給事〈乎之〉云〈方〉王〈乎〉奴〈止〉成〈止毛〉奴〈乎〉王〈止〉云〈止毛〉汝〈乃〉爲〈牟末仁末尓〉假令後〈仁〉帝〈止〉立〈天〉在人〈伊〉立〈乃〉後〈尓〉汝〈乃多米仁〉无礼〈之弖〉不從奈賣〈久〉在〈牟〉人〈乎方〉帝〈乃〉位〈仁〉置〈許止方〉不得。又君臣〈乃〉理〈仁〉從〈天〉貞〈久〉淨〈岐〉心〈乎〉以〈天〉助奉侍〈牟之〉帝〈止〉在〈己止方〉得〈止〉勅〈岐〉。可久在御命〈乎〉朕又一二〈乃〉竪子等〈止〉侍〈天〉聞食〈天〉在。然今帝〈止之天〉侍人〈乎〉此年己呂見〈仁〉其位〈仁毛〉不堪。是〈乃味仁〉不在。今聞〈仁〉仲麻呂〈止〉同心〈之天〉竊朕〈乎〉掃〈止〉謀〈家利〉。又竊六千〈乃〉兵〈乎〉發〈之〉等等乃〈比〉又七人〈乃味之天〉關〈仁〉入〈牟止毛〉謀〈家利〉。精兵〈乎之天〉押〈之非天〉壞亂〈天〉罸滅〈止〉云〈家利〉。故是以帝位〈乎方〉退賜〈天〉親王〈乃〉位賜〈天〉淡路國〈乃〉公〈止〉退賜〈止〉勅御命〈乎〉聞食〈止〉宣。事畢。將公及其母。到小子門。庸道路鞍馬騎之。右兵衛督藤原朝臣藏下麻呂。衛送配所。幽于一院。勅曰。以淡路國賜大炊親王。國内所有官物調庸等類。任其所用。但出擧官稻一依常例。」又詔曰。船親王〈波〉九月五日〈尓〉仲麻呂〈止〉二人謀〈家良久〉書作〈弖〉朝庭〈乃〉咎計〈弖〉將進〈等〉謀〈家利〉。又仲麻呂〈何〉家物計〈夫流尓〉書中〈尓〉仲麻呂〈等〉通〈家流〉謀〈乃〉文有。是以親王〈乃〉名〈波〉下〈弖〉諸王〈等〉成〈弖〉隱岐國〈尓〉流賜〈布〉。又池田親王〈波〉此夏馬多集〈天〉事謀〈止〉所聞〈支〉。如是在事阿麻多太比所奏。是以親王〈乃〉名〈波〉下賜〈天〉諸王〈等志弖〉土左國〈尓〉流賜〈布等〉詔大命〈乎〉聞食〈止〉宣。」以正五位上阿倍朝臣息道爲攝津大夫。從五位下美和眞人土生爲亮。從五位下坂本朝臣男足爲隱岐守。從五位下藤原朝臣黒麻呂爲播磨守。從五位下葛井連立足爲介。從五位下佐伯宿祢助爲淡路守。癸酉。以從五位下紀朝臣佐婆麻呂爲和泉守。甲戌。勅曰。天下諸國。不得養鷹狗及鵜以畋獵。又諸國進御贄雜完魚等類悉停。又中男作物。魚完蒜等類悉停。以他物替充。但神戸不在此限。」以從五位下荻田王爲丹後守。外從五位下葛井連根主爲阿波守。丁丑。詔曰。諸奉侍上中下〈乃〉人等〈乃〉念〈良末久〉。國〈乃〉鎭〈止方〉皇太子〈乎〉置定〈天之〉心〈毛〉安〈久〉於多比〈仁〉在〈止〉常人〈乃〉念云所〈仁〉在。然今〈乃〉間此太子〈乎〉定不賜在故〈方〉人〈乃〉能〈家武止〉念〈天〉定〈流毛〉必能〈之毛〉不在。天〈乃〉不授所〈乎〉得〈天〉在人〈方〉受〈天毛〉全〈久〉坐物〈仁毛〉不在後〈仁〉壞。故是以〈天〉念〈方〉人〈乃〉授〈流尓〉依〈毛〉不得。力〈乎〉以〈天〉競〈倍伎〉物〈仁毛〉不在。猶天〈乃〉由流〈之天〉授〈倍伎〉人〈方〉在〈良牟止〉念〈天〉定不賜〈奴仁己曾阿礼〉。此天津日嗣位〈乎〉朕一〈利〉貪〈天〉後〈乃〉繼〈乎〉不定〈止仁方〉不在。今〈之紀乃〉間〈方〉念見定〈牟仁〉天〈乃〉授賜〈方牟〉所〈方〉漸漸現〈奈武止〉念〈天奈毛〉定不賜勅御命〈乎〉諸聞食〈止〉勅。」復勅〈久〉。人人己比岐比岐此人〈乎〉立〈天〉我功成〈止〉念〈天〉君位〈乎〉謀竊〈仁〉心〈乎〉通〈天〉人〈乎〉伊佐奈〈比〉須須〈牟己止〉莫。己〈可衣之〉不成事〈乎〉謀〈止曾〉先祖〈乃〉門〈毛〉滅繼〈毛〉絶。自今以後〈仁方〉明〈仁〉貞〈岐〉心〈乎〉以〈天〉可仁可久〈仁止〉念〈佐末多久〉事奈〈久之天〉教賜〈乃末仁末〉奉侍〈止〉勅御命〈乎〉諸聞食〈止〉勅。」授正六位上丈部路忌寸並倉外從五位下。无位紀朝臣益女從五位下。己夘。勅曰。朕忝臨万邦。軫慮一物。昧旦思治。夕惕兢兢。而賊臣仲麻呂。昏凶狂悖。作逆逋亡。天網高張。咸伏誅戮。朕念黎庶洗滌舊惡。遷善新美。宜大赦天下。自今月十六日昧爽已前大辟已下。罪無輕重。未發覺。已發覺。未結正。已結正。皆赦除之。但仲麻呂与黨及常赦所不免者。不在赦限。亦頃年水旱。荐失豊稔。民或飢乏。仍以軍興。宜免天下今年租。布告遐邇。知朕意焉。癸未。以正五位下藤原朝臣田麻呂爲右中弁。正四位下石川朝臣豊成爲大藏卿。右大弁如故。從五位下小野朝臣石根爲造宮大輔。從五位下大伴宿祢伯麻呂爲左衛士佐。正五位下藤原朝臣田麻呂爲外衛中將。右中弁如故。從五位下藤原朝臣小黒麻呂爲伊勢守。正五位下津連秋主爲尾張守。從四位下中臣伊勢朝臣老人爲參河守。從五位下山田御井宿祢廣人爲介。從五位上下毛野朝臣多具比爲遠江守。從五位下眞立王爲伊豆守。中衛少將從四位下坂上大忌寸苅田麻呂爲兼甲斐守。授刀少將從四位下牡鹿宿祢嶋足爲兼相摸守。從五位下文室眞人水通爲介。衛門督從四位下弓削御淨朝臣淨人爲兼上総守。從五位下紀朝臣廣庭爲介。從五位下上毛野朝臣馬長爲上野守。兵部卿從三位和氣王爲兼丹波守。正四位下高麗朝臣福信爲但馬守。式部大輔勅旨員外大輔授刀中將從四位下粟田朝臣道麻呂爲兼因幡守。左兵衛佐從四位上大津宿祢大浦爲兼美作守。從五位上中臣丸連張弓爲伊豫守。甲申。勅曰。在京見禁囚徒。大辟已下。悉皆赦除。但逆賊仲麻呂及淡路公。船王。池田王等与黨。不在赦限。丙戌。外從五位下息長丹生眞人大國爲大和介。丁亥。授從六位上葛木宿祢大床外從五位下。己丑。无位嶋野王。淨上王。大田王。神前王。和王。甲賀王。東方王並授從五位下。從五位下石川朝臣名足從五位上。正六位上賀茂朝臣伊刀理麻呂。紀朝臣古佐美。從八位上池田朝臣眞枚並從五位下。從六位上馬毘登國人外從五位下。」以從五位下久米朝臣子虫爲伊賀守。從五位下縣犬養宿祢吉男爲伊豫介。伊豫國人大初位下周敷連眞國等廿一人賜姓周敷伊佐世利宿祢。壬辰。授正五位下百濟朝臣足人從四位下。正六位上文室眞人眞老從五位下。」以正五位下縣犬養宿祢古麻呂爲中務大輔。從五位下石川朝臣永年爲式部少輔。辛夘。以外從五位下掃守宿祢廣足爲山背介。從五位下雀部朝臣陸奥爲常陸介。從五位下弓削宿祢薩摩爲下野員外介。因幡掾外從五位下健部公人上等十五人賜姓朝臣。癸巳。勅曰。定額及額外散位等。輸續勞錢宜停。自今以後。一依令文。是曰。詔令東海。東山等國貢騎女。

十月八日に高橋朝臣廣人(國足に併記)に従五位上、百濟王武鏡()に従五位下、日置造蓑麻呂(眞卯に併記)に外正五位下、弓削宿祢美努久米・乙美努久女・刀自女(薩摩に併記)に従五位下を授けている。また、中務少丞の「大原眞人都良麻呂」に「淨原眞人」の氏姓と「淨貞」の名を賜っている。

九日に高野天皇は兵部卿の和氣王、左兵衛督の山村王、外衛大将の百濟王敬福()等を遣わし、兵士数百人を率いて、中宮院を取り囲ませている。その時帝(淳仁天皇)は突然のことであったので、まだ衣服や履物を身に付けていなかったが、使者は急き立てている。幾人かのお側付きの護衛者は散り散りに走り去って、付随う人もいなかった。僅かに母方(當麻眞人山背)の家の二、三人と共に、歩いて図書寮の西北の場所に到着している。

山村王は詔を宣して以下のように述べている(以下宣命体)・・・口に出すのも恐れ多い先帝天の帝(聖武天皇)の御言葉で、朕に仰せられたことには、[天下は朕の子の汝(孝謙天皇)に授ける。その事は言ってみるならば、王を奴としようとも、奴を王と言うとも、汝のしたいようにし、たとえ後に帝として位に就いている人でも、就いて後に帝として汝に対して礼がなく、従わないで無作法であるような人を帝の位に置いてはいけない。また君臣の道理に従って、正しく浄い心をもって助けお仕え申し上げるなら帝として存在できる]と仰せられた。このような御言葉を、朕はまた一二の堅子(傍に仕える少年)等と侍って承ったことがある。それなのに、今、帝となっている人をこの数年見ていると、その位にいる能力もない。それだけでなく、今聞いたところによると、「仲麻呂」と心を合わせて、密かに朕を除こうと謀ったのである。また密かに、六千の兵を徴発して率い、また七人だけで關に入ろうとも謀ったのである。精兵で押しのけて混乱させて、朕を打ち滅ぼそうと言った。それ故このような理由で、帝の位から退かせ、親王の位を与えて、淡路國の公として退かせる、と仰せなる御言葉を承れと申し渡す・・・。

事が終わると、公とその母を従えて、「小子門」(小子部氏が管轄する門だとか。たぶんこちらにあったのでは?)に行き、道路の鞍付きの馬をつかまえて公等を乗せた。右兵衛督の藤原朝臣藏下麻呂(廣嗣に併記)が配所に護衛して送り届け、一つの院に幽閉している。

次のように勅されている・・・淡路國を大炊親王に与える。國内にある官物・調・庸などの類は、自由に使ってよい。但し、出挙の官稲は、みな常の例に依れ・・・。

また、次のように詔されている・・・船親王は九月五日に「仲麻呂」と二人で共謀して[書状を作り、朝廷のあやまちを数えて上進しよう]と謀った。また「仲麻呂」の家(田村第)の品物を集計したところ、書物の中に「仲麻呂」と取り交わした陰謀の手紙があった。この理由で親王の名は格下げにして諸王として隠岐國に流罪とする。また池田親王は今年の夏、馬を多く集めて謀反のことを謀ったと聞いた。このような話は何度も上表があった。この理由で親王の名を格下げにして諸王として土左國に流罪とする、と仰せになる御言葉を承れと申し渡す・・・。

この日、阿倍朝臣息道を攝津大夫、美和眞人土生(壬生王)を亮、坂本朝臣男足を隠岐守、藤原朝臣黒麻呂を播磨守、葛井連立足を介、佐伯宿祢助を淡路守に任じている。

十日に紀朝臣佐婆麻呂(鯖麻呂)を和泉守に任じている。十一日に次のように勅されている・・・天下の諸國において、鷹・犬及び鵜を飼って、狩りや漁りをしてはいけない。また、諸國からの御贄としていろいろな肉や魚などの類を進上することを全て停止せよ。また、中男作物の魚・肉・蒜などの類も全て停止し、他の物に振り替えよ。但し神戸はこの限りではない・・・<道鏡の教えによるか?>。また、荻田王を丹後守、葛井連根主(惠文に併記)を阿波守に任じている。

十四日に次のように詔されている・・・お仕え申し上げている上・中・下の諸々の人々が思うには、[国家を鎮めるということは、皇太子を置き定めてこそ心も安らかに穏やかになる]と常に人が思い、言うところである。ところが今暫くの間、この皇太子を定めないでいる理由は、人が良いであろうと思って定めても、必ず良いとは限らないし、天が授けない位を得た人は、受けても落ち度なくおれるものでもなく、後に破綻してしまう。それ故にこのことを考えると、人が授けるからといって得るものでもない。力でもって競うというものでもない。やはり天が許して授けるべき人が他に存在するであろうと思うので、定めないのである。この天つ日嗣の位を朕が一人でむさぼって、後継者を定めないというのではない。今暫くの間、思い見定めているならば、天が授けて下さる人は、だんだんと現れてくるであろう、と思って定めないのである、と仰せになる御言葉をみな承れと申し渡す・・・。

また仰せになるには・・・人々が自分の贔屓によって、この人を立てて自分の功績にしようと思って、君の位を狙う謀をし、密かに心を通わして人を誘い勧めるようなことはしてはいけない。自分でさえ成し得ない事を謀るといって、先祖以来の家門を滅ぼし、後継者も絶ってしまうのである。今より後は、明らかで貞しい心をもって、あれこれと思い患うことなく、朕が教えた通りに仕えるようにせよ、と仰せなる御言葉をみな承れと申し渡す・・・。この日、丈部路忌寸並倉(石勝に併記)に外従五位下、紀朝臣益女(益人に併記)に従五位下を授けている。

十六日に次のように勅されている・・・朕はかたじけなくも万の國に君として臨んで、一つの事だけを心配している。夜明けより政治のことを思い、夕方まで誤りがないかと恐れ謹んで、びくびくしている。ところが賊臣の「仲麻呂」はおろかで凶暴で、気違いじみて道理にそむく性格なので反逆し、逃走して滅んだ。天の網は高く張ってあって、みな処罰され死罪となった。朕は人民が古い悪事を洗い清め、新しく美しい方に遷り善くなることを念じている。---≪続≫---

そこで天下に大赦を行うこととする。今月十六日の夜明け以前の死罪以下、罪の軽重を問うことなく、まだ発覚していない者も、既に発覚している者も、まだ判決が出ていない者も、既に判決が出ている者も、全て罪を許し免除せよ。但し、「仲麻呂」に味方した者と普通の赦では免除されない者は、この赦の範囲に入れない。また、ここ数年洪水や旱魃が起こり、連年稲の稔が悪く、民衆が飢えて困っている。その上戦が起こった。そこで天下の今年の租を免除するように。遠近に布告して、朕の心を知らせよ・・・。

二十日に藤原朝臣田麻呂(廣嗣に併記)を右中弁、石川朝臣豊成を大藏卿(右大弁のまま)、小野朝臣石根を造宮大輔、大伴宿祢伯麻呂(小室に併記)を左衛士佐、藤原朝臣田麻呂を外衛中將(右中弁のまま)、藤原朝臣小黒麻呂を伊勢守、津連秋主を尾張守、中臣伊勢朝臣老人を參河守、山田御井宿祢廣人を介、下毛野朝臣多具比を遠江守、眞立王(厚見王に併記)を伊豆守、中衛少將の坂上大忌寸苅田麻呂(犬養に併記)を兼務で甲斐守、授刀少將の牡鹿宿祢嶋足を兼務で相摸守、文室眞人水通を介、衛門督の弓削御淨朝臣淨人(道鏡に併記)を兼務で上総守、紀朝臣廣庭(宇美に併記)を介、上毛野朝臣馬長を上野守、兵部卿の和氣王を兼務で丹波守、高麗朝臣福信を但馬守、式部大輔勅旨員外大輔で授刀中將の粟田朝臣道麻呂を兼務で因幡守、左兵衛佐の大津宿祢大浦を兼務で美作守、中臣丸連張弓を伊豫守に任じている。

二十一日に次のように勅されている・・・平城宮で現在監禁されている囚人たちは、死刑囚以下全員赦免せよ。但し、逆賊「仲麻呂」と「淡路公・船王・池田王」等の一味は赦免の範囲には入れない・・・。二十三日に息長丹生眞人大國(國嶋に併記)を大和介に任じている。二十四日、葛木宿祢大床(戸主に併記)<後に宿祢姓授与>に外従五位下を授けている。

二十六日に「嶋野王・淨上王・大田王・神前王・和王・甲賀王・東方王」に從五位下、石川朝臣名足に從五位上、賀茂朝臣伊刀理麻呂・「紀朝臣古佐美」・池田朝臣眞枚(足繼に併記)に從五位下、馬毘登國人(比奈麻呂に併記)に外從五位下を授けている。また、久米朝臣子虫(湯守に併記)を伊賀守、縣犬養宿祢吉男(須奈保に併記)を伊豫介、伊豫國人の周敷連眞國(多治比連眞國)等二十一人に周敷伊佐世利宿祢の氏姓を賜っている。

二十九日に百濟朝臣足人に從四位下、文室眞人眞老(長嶋王に併記)に從五位下を授けている。また、縣犬養宿祢古麻呂を中務大輔、石川朝臣永年(名足に併記)を式部少輔に任じている。二十八日に掃守宿祢廣足を山背介、雀部朝臣陸奥(道奥。東女に併記)を常陸介、弓削宿祢薩摩を下野員外介に任じている。また、因幡掾の健部公人上等十五人に朝臣姓を賜っている。

三十日に次のように勅されている・・・定額及び額外の散位等が、続労銭を納めることを停止せよ。今後は専ら令文の規定に従うようにせよ・・・。この日、詔されて、東海・東山などの國に騎女(乗馬に長けた女性)を奉るように命じている。

<大原眞人都良麻呂>
● 大原眞人都良麻呂

「大原眞人」は百濟王の子孫が臣籍降下して賜った一族であるが、「高安」や「櫻井」の系譜(こちら参照)は記録が残っていたようだが、それに含まれない人物と思われる。

名前の「都良麻呂」が表す地形は、極めてありふれたものであり、特定するには些か戸惑うところであろう。ところがこの人物は、更に別の氏姓を賜ったと記載している。

先ずは、その氏姓から読み解いてみよう。淨原眞人淨貞なる名称に含まれる淨=水+爪+ノ+又=水辺で両腕のような山稜が取り囲んでいる様であり、貞=鼎+卜=山稜が枝分かれした地が窪んでいる様と解釈する。すると、図に示した場所の地形を表していることが解る。勿論、都良=なだらかな山稜が寄り集まっているところを表していることになる。

爵位は正六位上であり、おそらく改姓改名は、自己申告だったのであろう。後に大原眞人に戻され、従五位下「大原眞人淨貞」として登場し、信濃守に任じられている。

● 嶋野王・淨上王・大田王・神前王・和王・甲賀王・東方王

これだけの数の王が一挙に登場するのであるが、誰一人として素性に関する情報は見当たらないようである。勿論「神前王」は臣籍降下した甘南備眞人神前とは全くの別人であろう。前記で山部王を筆頭とする王等が登場した。彼等は越前守藤原惠美朝臣辛加知の斬殺に協力したのではと推測し、越前守の居処近隣、即ち山部王(白壁王の子)と同じく施基皇子の子孫と推定した(こちら参照)。

<嶋野王・淨上王・大田王・神前王>
<和王・甲賀王・東方王>
さて、今回は、如何なる推論が成り立つであろうか?…やはり、飛鳥周辺の地で「仲麻呂」等が通過すると思われる場所に巣食っていたのではなかろうか。

飛鳥から宇治(近江國志賀郡)への経路とすると、現在の味見峠を越えて河内國に向かう行程が着目されるであろう。

そして、最も重要なことは、この地を出自を持つ人物は未だかつて登場していないことである。このような状況を踏まえて、各王の出自場所を求めた図を示した。

各王の名前が示す地形は・・・、

❶嶋野王:嶋野=山稜が鳥の形をしている麓に野があるところ
❷淨上王:淨上=水辺で両腕のような山稜が取り囲んでいる地が盛り上がっているところ
❸大田王:大田=平らに広がって整えられたところ
❹神前王:神前=高台が長く延びた前のところ
❺和王:和=山稜がしなやかに曲がって延びているところ
❻甲賀王:甲羅のような山稜が谷間を押し拡げているところ
❼東方王:谷間を突き通す山稜が耜のように延びて広がっているところ

・・・と読み解ける。

前にも述べたように事変での貢献は不詳、と言うか全く記載されていない。あるいは、誘われたがそれに乗じなかった、だけかもしれない。それにしても、空白の地をこんな形で一挙に埋め尽くそうとの魂胆だったようにも感じられるところである。


<紀朝臣古佐美>
● 紀朝臣古佐美

「紀朝臣」一族は、全く途絶えることなく連綿と登場している。直近では寺の奴婢となっていた人物(益人・益女)まで登場させ、その地の谷間を埋め尽くさんばかりの有様である。

そんな流れかと思いきや、「古佐美」は奔流の系譜に属していたことが分かった。父親が「飯麻呂」、「大口」から五世代目の出自の持ち主であった。

頻出の文字列である古佐美を読み解くと、古佐美=丸く小高い地がある左手のような山稜の麓で谷間が広がっているところとなろう。図に示した場所がその地形となっていることが解る。「古」は祖父から、「佐」は叔父から引き継いだ文字と思われる。

何とも凄まじいばかりの配置となるが、いよいよそんな時代へと突き進んで来たのであろう。この後、大活躍されて最終正三位・大納言・勲四等だったと伝えられている。

十一月戊戌。外從五位下益田連繩手。李忌寸元環並授從五位下。從五位下藤原朝臣黒麻呂爲山背守。從五位下多治比眞人小耳爲伯耆守。從五位下李忌寸元環爲出雲員外介。從四位上日下部宿祢子麻呂爲播磨守。庚子。復祠高鴨神於大和國葛上郡。高鴨神者法臣圓興。其弟中衛將監從五位下賀茂朝臣田守等言。昔大泊瀬天皇獵于葛城山。時有老夫。毎与天皇相逐爭獲。天皇怒之流其人於土左國。先祖所主之神化成老夫。爰被放逐。〈今兼前記不見此事。〉於是。天皇乃遣田守。迎之令祠本處。癸夘。從五位下難波連奈良爲常陸員外介。乙巳。授從五位下石上朝臣息繼正五位下。罷西海道節度使。己酉。以從五位下百濟朝臣益人爲周防守。壬子。以從五位下笠朝臣道引爲但馬介。癸丑。遣使奉幣於近江國名神社。先是。仲麻呂之走據近江也。朝庭遥望祷請國神。而莫出境内。即伏其誅。所以賽宿祷也。辛酉。勅曰。依令。長上官以六考爲限。色別加二考。外散位以十二考成選。因茲慶雲年中。降恩改限。長上官以四考爲限。外散位以十考成選。然頃者。還依令條。於事不穩。宜自今已後依格立限。便開進仕之途。用慰百官之望。

十一月五日に益田連繩手(東大寺造営)・李忌寸元環(唐楽演奏)に從五位下を授けている。藤原朝臣黒麻呂を山背守、多治比眞人小耳を伯耆守、李忌寸元環を出雲員外介、日下部宿祢子麻呂(大麻呂に併記)を播磨守に任じている。

七日に再び「高鴨神」を大和國葛上郡に祠っている。「高鴨神」について、法臣圓興とその弟の中衛将監の賀茂朝臣田守等が以下のように言上している・・・昔、大泊瀬天皇(雄略)が葛城山で狩りをされた。その時に老夫がいて毎度天皇と競争して獲物の取り合いをした。そこで天皇はこれを怒り、その老人を土左國に流した。これは我等の先祖が祭祀を掌っていた神が化身し老夫と成ったもので、この時大和國から土左國へ追放された<分注。以前の記録を調べたが、この事件は見当たらない>・・・。

ここにおいて天皇は、早速「田守」を土左國に派遣して、「高鴨神」を迎えて、本の場所に祠らせている。

十日に難波連奈良を常陸員外介に任じている。十二日に石上朝臣息繼(奥繼。宅嗣に併記)に正五位下を授けている。西海道節度使を廃止している。十六日に百濟朝臣益人(余益人)を周防守に任じている。十九日に笠朝臣道引(三助に併記)を但馬介に任じている。

二十日に使者を派遣して、近江國の名神の社に幣を奉っている。以前、「仲麻呂」が逃走して拠った時、朝廷は都から近江を遠くに望んで、近江の國神に「仲麻呂」誅伐を祈り願った。そのため「仲麻呂」は近江の國境を出ることなく、直ちにその誅伐に屈伏した。そこで先の祈りの御礼を行ったのである。

二十八日に高野天皇は次のように勅されている・・・令によると、長上官(常勤の官人)の勤務評定は六年を期限とし、職種ごとに更に二年の評定を加え、外散位は十二年を叙位のための評定選考の期限としていた。これでは長過ぎるので、慶雲年中(慶雲三年二月十六日)恩恵を与え期限を改めた。即ち長上官は四年の評を期限とし、外散位は十年で叙位の評定が行われることとなった。ところが近年、令の条文通りの規定に戻ったが、実際には穏当ではない。今後は、慶雲三年の格によって、期限を定めることとする。官人としての昇進の道を開き、それによって全官人の望みに応えて安心させるようにせよ・・・。

<高鴨神>
高鴨神

古事記の大長谷若建命(雄略天皇)紀に「葛城之一言主大神」の逸話があり、天皇が葛城山へ狩りをするために行幸された時に一言主大神の一行と遭遇し、あわや戦闘になりかけたが、互いに譲り合い敬意を払って、その場を離れたと記述されている。

確かに「圓興・田守」の言上とは内容が異なるが、「一言主大神」こそ「高鴨神」を示していると思われる。「一言主大神」の表記は、その出自の場所を表してはいないが、別表記である「宇都志意美」によって現地名の田川郡福智町弁城上弁城辺りと推定した(こちら参照)。

高鴨神高鴨=皺が寄ったような山稜が鳥の形をして甲羅(押し広げた)ような地があるところと読み解ける。図に示した場所にその地形を見出せる。元正天皇紀に登場した太羊甲許母(後に城上連胛巨茂)に含まれる「甲」の文字が表す場所である。

「鴨朝臣」は、古事記で御眞木入日子印惠命(崇神天皇)紀に登場した意富多多泥古が祖となった「鴨君」一族である。上図に示したように彼等が蔓延った地は「高鴨」の山から延び出た山稜が広がったところである。祖神が宿る場所とされていたのであろう。因みに、現在の高鴨神社の主祭神は、古事記の阿遲鉏高日子根神(別名迦毛大御神)と伝わっているそうである(こちら参照)。

十二月癸亥朔。以從五位上石川朝臣名足爲備前守。戊辰。授正七位上縣犬養大宿祢内麻呂從五位下。乙亥。大和守正四位上坂上忌寸犬養卒。右衛士大尉外從五位下大國之子也。少以武才見稱。聖武皇帝登祚。寵之厚焉。天平八年授外從五位下。廿年。至從四位下左衛士督。勝寳八歳。聖武皇帝崩。以久沐恩渥。乞守山陵。天皇嘉之。授正四位上。本官如故。九歳。爲兼造東大寺長官。特賜食封百戸。寳字元年。任播磨守。尋遷大和守。卒時年八十三。庚寅。勅曰。朕以寡徳。君臨万民。善化未宣。刑辟猶衆。宜可大赦天下。自天平寳字八年十二月廿八日昧爽已前大辟已下罪無輕重。已發覺。未發覺。已結正。未結正。繋囚見徒。強竊二盜。咸悉赦之。但八虐。故殺人。常赦所不原者。不在赦限。若入死者。皆減一等。普告遐邇。知朕意焉。
是月。西方有聲。似雷非雷。時當大隅薩摩兩國之堺。烟雲晦冥。奔電去來。七日之後乃天晴。於麑嶋信尓村之海。沙石自聚。化成三嶋。炎氣露見。有如冶鑄之爲。形勢相連望似四阿之屋。爲嶋被埋者。民家六十二區。口八十餘人。
是年。兵旱相仍。米石千銭。

十二月一日に石川朝臣名足を備前守に任じている。六日に縣犬養大宿祢内麻呂(石次の子。八重に併記)」に從五位下を授けている。

十三日に大和守の坂上忌寸犬養が亡くなっている。右衛士大尉の「大國」の子、若い頃から武芸の才能を讃えられた。聖武天皇が即位してから、彼を厚く寵愛した。天平八(736)年に外従五位下を授けられた。二十年、従四位下で左衛士督に至った。天平勝寶八歳、聖武皇帝が崩じた時、永らく厚い恩を蒙っていたとして、山稜をお守りすることを願い出た。孝謙天皇は、このことを褒めて正四位上を授けた。本官(左衛士督)は、そのままであった。勝寶九歳(757年)、造東大寺長官を兼任し、特に食封百戸を賜った。天平寶字元(757)年、播磨守に任じられ、次いで大和守に遷った。卒した時、年は八十三歳であった。

二十八日に次のように勅されている・・・朕は德が少ない身でありながら、全ての民の上に君として臨んでいるが、善い政治は、いまだ広まっておらず、刑に処せられる者は、なお多い。天下に大赦すべきである。天平寶字八年十二月二十八日の夜明けより前の死刑以下の罪は、その軽重を問うことなく、既に発覚している者も、まだ発覚していない者も、既に判決の下った者も、まだ判決の出ていない者も、現在獄に繋がれている者も、強盗・窃盗も、全て赦免せよ。但し、八虐・意図的な殺人、及び普通の赦では免除されない者は、この赦の範囲に入れない。死罪になる筈の者も、みな罪一等を減じよ。広く遠近に告げて、朕の心を知らせるようにせよ・・・。

この月、西の方で声が聞こえた。雷に似ているようで、雷ではない。その時、「大隅薩摩兩國之堺」にあって、煙のような雲が空を覆って暗くなり、稲光が度々走った。七日後に空は晴れたが、「麑嶋信尓村」の海に、砂や石が自然に集まって、変化して三つの嶋となった。炎の気が表れ見える様は、あたかも金属を溶かして器物を作っている状態のようであり、その嶋の地形が相連なっているさまを望むと、「四阿之屋」に似ていた。嶋ができたために、埋められた民家は六十ニ区域で、人間は八十余人であった。この年、戦乱と旱魃が相重なって、米は一石につき千銭となった。

<大隅國:麑嶋信尓村>
大隅國:麑嶋信尓村

薩摩國は、現在の福岡市南区にある鴻巣山の南麓に広がる地と推定した。その北麓が多褹嶋であり、筑紫南海に面する場所である。上記本文で、この「薩摩國」と堺を成す國が「大隅國」と記載されている。

またもや、既に大隅國は、日向國の郡割に関連して設置された國として記載されていた。現地名は遠賀郡遠賀町・芦屋町である。既に述べたように、續紀編者等は「大隅」の文字を固有の地名としては扱わず、それが示す地形の場所の名称としているのである。

それを念頭にしてみると、薩摩國の西側に「大隅」の地形を持つ地が存在していることが解る。現地名は福岡市城南区である。図中の青色の部分は現在の標高10m以下の地であり、当時は海面下にあったと推測される。その「大隅國」にある麑嶋信尓村の場所を求めてみよう。

「麑」=「鹿+兒」=「鹿の角のような山稜から生え出ている様」、頻出の「嶋」=「山+鳥」=「山稜が鳥の形をしている様」から、麑嶋=鹿の角ような山稜から鳥の形した山稜が生え出ているところと読み解ける。勿論、現在用いられている”鹿児島”も、全く同様の地形を表していることになる。

既出の文字列である信爾=谷間の耕地が広がっているところと解釈される。それらの地形要素を満たすと思われる図に示した場所が麑嶋信爾(尓)村である。その村の前にある海に嶋が三つできたと述べている。できる時の様相は、勿論、火山の噴火活動である。遠くから眺めれば、四阿之屋=屋根と四つの柱からなる四阿のように見えるかもしれない。現在の麁原山をその一つの山と推定した。

尚、上図に示したように、日向大隅薩摩及び多褹として登場する四つの地名が揃っていることが解る。後世の国別配置を考慮すると、曖昧な記述をせざるを得なかった續紀編者等の苦心の結果であろう。だが、しかし書紀編者と同じく、地形象形に忠実な表現を行っているのである。

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『續日本紀』巻廿五巻尾