2023年3月2日木曜日

高野天皇:称徳天皇(1) 〔625〕

高野天皇:称徳天皇(1)


天平神護元年(西暦765年)正月の記事である。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀3(直木考次郎他著)を参照。

天平神護元年春正月癸巳朔。御南宮前殿受朝。戊戌。大宰大貳從四位上佐伯宿祢毛人。坐逆黨左遷多褹嶋守。己亥。改元天平神護。勅曰。朕以眇身。忝承寳祚。無聞徳化。屡見姦曲。又疫癘荐臻。頃年不稔。傷物失所。如納深隍。其賊臣仲麻呂外戚近臣。先朝所用。得堪委寄。更不猜疑。何期包藏禍逆之意。而鴆毒潜行於天下。犯怒人神之心。而怨氣感動於上玄。幸頼神靈護國風雨助軍。不盈旬日。咸伏誅戮。今元惡已除。同歸遷善。洗滌舊穢。与物更新。宜改年号。以天平寳字九年。爲天平神護元年。其諸國神祝宜各加位一階。其從去九月十一日至十八日。職事及諸司番上。六位已下供事者。宜亦加一階。唯正六位上依例賜物。其京中年七十已上者賜階一級。布告遐邇。知朕意焉。又詔曰。天皇〈何〉大御命〈良麻止〉勅大御命〈乎〉衆聞食〈止〉勅。仕奉人等中〈尓〉其仕奉隨状治給人〈毛〉在。又御軍〈尓〉仕奉〈礼留尓〉依〈弖〉治給人〈毛〉在。然此多比賜位冠〈方〉常〈与利方〉異〈仁〉在。可久賜故〈方〉平〈伎〉時〈仁〉奉侍〈己止方〉誰人〈可〉不奉在侍〈牟〉。如此〈久〉宇治方夜〈伎〉時〈仁〉身命〈乎〉不惜〈之天〉貞〈久〉明〈久〉淨心〈乎〉以〈天〉朝庭〈乎〉護奉侍〈流〉人等〈乎己曾〉治賜〈比〉哀賜〈倍伎〉物〈尓〉在〈止奈毛〉念。故是以今由久前〈仁毛〉緩怠事无〈之天〉諸〈能〉劣〈家牟〉人等〈乎毛〉教伊佐奈〈比〉進常〈與利毛〉益〈須〉益〈須〉勤結〈理〉奉侍〈止之天奈毛〉冠位上給治給〈久止〉宣御命〈乎〉諸聞食〈止〉宣。」正四位上文室眞人大市。正四位下高麗朝臣福信並授從三位。正五位下久世王正五位上。從五位下船井王從五位上。從四位下藤原朝臣魚名正四位下。正五位上石上朝臣宅嗣從四位下。正五位下藤原朝臣田麻呂。安倍朝臣毛人。從五位上大伴宿祢御依並正五位上。從五位上當麻眞人廣名。中臣丸連張弓並正五位下。從五位下藤原朝臣繼繩。藤原朝臣黒麻呂。大伴宿祢伯麻呂。佐伯宿祢三方。穗積朝臣小東人。榎井朝臣小祖。小野朝臣小贄。无位調連馬養〈本位從五位下〉並從五位上。外正五位下日置造蓑麻呂。正六位上佐伯宿祢高岳。多治比眞人長野。多治比眞人乙麻呂。中臣習宜朝臣山守。下道朝臣色夫多。從六位下大伴宿祢呰麻呂。弓削御清朝臣秋麻呂。弓削宿祢牛養並從五位下。外從五位下大原連家主外正五位下。无位調連牛養外從五位上。〈本位外從五位下〉外正六位上鳥取部与曾布外正五位下。无位上村主五十公〈律師善榮之父。時年八十四也。〉外從五位上。正六位上若湯坐宿祢子人。高尾連賀比。千代連玉足。佐佐貴山公人足。長谷部木麻呂。田部宿祢足嶋。佐太忌寸味村。民忌寸古麻呂。鳥取連大分。國覓連高足。文忌寸光庭。美奴連智麻呂。土師宿祢冠。秦忌寸公足。長瀬連廣足。維成澗。香山連賀是麻呂。百濟安宿公奈登麻呂。金刺舍人八麻呂。正七位上葛井連河守。正六位上桧前舍人直建麻呂。葛井連道依並外從五位下。」正三位諱。從三位和氣王。山村王。正三位藤原朝臣永手。藤原朝臣眞楯。從三位吉備朝臣眞備。藤原朝臣藏下麻呂。從四位上日下部宿祢子麻呂。從四位下佐伯宿祢伊多智。坂上大忌寸苅田麻呂。牡鹿宿祢嶋足並授勳二等。從四位下藤原朝臣繩麻呂。粟田朝臣道麻呂。弓削御清朝臣淨人並勳三等。正四位下中臣朝臣清麻呂。從四位下藤原朝臣濱足。藤原朝臣楓麻呂。高丘連比良麻呂。正五位下小野朝臣竹良。從五位下石村村主石楯並勳四等。從四位下安倍朝臣弥夫人勳五等。從五位下坂上王。正五位上阿倍朝臣息道。正五位下津連秋主。從五位上石川朝臣垣守。從五位下漆部直伊波。外從五位下金刺舍人八麻呂。從六位上藤野別眞人清麻呂並勳六等。」无位櫻井女王。淨原女王。高向女王。小垂水女王。高岡女王並授從五位下。正五位下藤原朝臣乙刀自。竹宿祢乙女並從四位下。正五位下當麻眞人比礼。大野朝臣仲智。安倍朝臣都与利。多可連淨日。熊野直廣濱。從五位下古仁虫名並正五位上。從五位下石川朝臣奈保正五位下。從五位下錦部連河内。大神朝臣伊毛。忌部毘登隅。橘宿祢眞束。縣犬養大宿祢姉女並從五位上。外從五位上葦屋村主刀自女。長谷部公眞子。壬生連子家主女。從七位下藤野別眞人虫女。无位藤原朝臣伊久治。正六位下息長眞人廣庭。巨勢朝臣魚女。從六位下大宅朝臣宅女。正七位上三始朝臣奴可女。正六位上李小娘。无位巨勢朝臣宮人。无位私朝臣長女。從六位下若櫻部朝臣伊毛並從五位下。正七位上丈部細目。從六位下久須原部連淨日。從七位下山田御井宿祢公足。從六位下私家原。草鹿酒人宿祢水女。桑原毘登宅持。水海連淨成。從七位上許平等。賀陽臣小玉女。桑原連嶋主。從七位下田邊公吉女並外從五位下。」授從三位池上女王勳二等。從五位上紀朝臣益女勳三等。從四位下竹宿祢乙女。正五位上吉備朝臣由利。稻蜂間宿祢仲村女。大野朝臣仲智。安倍朝臣都与利。從五位下藤原朝臣玄信並勳四等。從五位下壬生直小家主女勳五等。從五位下藤野別眞人廣虫女。巨勢朝臣魚女。外從五位下賀陽臣小玉女。桑原連嶋主。草鹿酒人宿祢水女。田邊公吉女勳六等。是日。宴於五位已上。賜祿有差。庚子。勅復官軍所經近江國高嶋郡調庸二年。滋賀淺井二郡各一年。並以沒官物量加賑恤。

正月一日に南宮の前殿に出御されて朝賀を受けられている。六日に大宰大貮の佐伯宿祢毛人が叛逆者に連座して多褹嶋守に左遷されている。

七日に元号を改めて天平神護としている。次のように勅されている・・・朕は微小の身でありながら、かたじけなくも皇位を継承したが、德によって民を治めているという評判が聞こえて来ないばかりか、しばしば邪な悪だくみが現れている。また疫病も重なって起こり、毎年のように穀物は稔らず、民は財物を損ない住むべき所をなくし、その様子は深い溝に埋められたように苦しんでいる。---≪続≫---

そもそも賊臣の「仲麻呂」は外戚の近臣で、先の朝廷で用いられ、政治を任せられよくその務めを果たしていたので、朕もあらためて疑うことをしなかった。どうして「仲麻呂」が邪な反逆の気持ちを隠し抱いて猛毒の鴆毒のような災いを密かに世の中に浸み渡らせ人の心も神の心も怒らせ、その恨みの念に天も感応させてしまうと予想できたであろうか。---≪続≫---

幸いにも神の霊が國を護り、風雨もわが軍勢を助けてくれたので、十日に満たずして悉く誅戮を加えることができた。今、悪の元凶はすでに除かれたので、一様に元通り善に遷し、古い穢れを洗い流して、万物とともに一新したい。そこで年号を改めて天平字九年を天平神護元年とする。また、諸國の神祝(神職)には、それぞれ位を一階ずつ昇叙する。---≪続≫---

去る九月十一日より十八日に至る間(「仲麻呂」の乱の期間)、定まった官職をもつ官人や諸司の交替勤務の官人で、六位以下の地位にあり、征討のことに奉仕した者にも、また位を一階ずつ昇叙する。但し、正六位上の者に対しては、恒例により物を賜う。京中の七十歳以上の者にも、位を一階ずつ昇叙する。以上を遠近に布告して、朕の意思を知らせるようにせよ・・・。

また、次のように詔されている(宣命体)・・・天皇の御言葉として仰せになる御言葉をみな承れと申し渡す。お仕えしている人々の中には普段の仕えている状態に従って地位をあげることもあるし、また従軍した功績によって地位をあげることもある。しかし、この度賜うところの位階は常とは異なる意味を持っている。---≪続≫---

それというのも、このように特別に賜う理由は、平穏なときに仕えるのは誰でもそうするであろうが、今回のように危急な時に身分を惜しまず、正しく明るく清らかな心を持って朝廷を護りお仕え申し上げる人達こそ、地位をあげ、心にかけるべきである、と思うからである。それ故に、今後ともたゆみ怠ることなく、諸々の愚かな人たちを教え導いて進ませ、また、常にもまして益々しっかりとお仕えするようにと、位階をあげ地位をあげるのである、と仰せになる御言葉をみな承れと申し渡す・・・。

文室眞人大市高麗朝臣福信に從三位、久世王(久勢王)に正五位上、船井王に從五位上、藤原朝臣魚名(鳥養に併記)に正四位下、石上朝臣宅嗣に從四位下、藤原朝臣田麻呂(廣嗣に併記)安倍朝臣毛人(阿倍。粳虫に併記)大伴宿祢御依(三中に併記)に正五位上、當麻眞人廣名(東人に併記)中臣丸連張弓に正五位下、藤原朝臣繼繩(繩麻呂に併記)藤原朝臣黒麻呂大伴宿祢伯麻呂(小室に併記)佐伯宿祢三方(御方)・穗積朝臣小東人榎井朝臣小祖(小祖父)・小野朝臣小贄調連馬養<本位從五位下>(橘奈良麻呂の乱に連座)に從五位上、日置造蓑麻呂(眞卯に併記)佐伯宿祢高岳(眞守に併記)・「多治比眞人長野・多治比眞人乙麻呂・中臣習宜朝臣山守・下道朝臣色夫多」・大伴宿祢呰麻呂(上足に併記)・弓削御清朝臣秋麻呂(道鏡に併記)・弓削宿祢牛養(薩摩に併記)に從五位下、大原連家主(大原史遊麻呂に併記)に外正五位下、調連牛養<本位外從五位下>(馬養と同様、併記)に外從五位上、「鳥取部与曾布」に外正五位下、「上村主五十公」<律師「善榮」之父。時年八十四也>に外從五位上、「若湯坐宿祢子人・高尾連賀比」・千代連玉足(陳懐玉に併記)・佐佐貴山公人足(佐佐貴山君足人)・「長谷部木麻呂」・田部宿祢足嶋(男足に併記)・佐太忌寸味村(老に併記)・民忌寸古麻呂(眞楫に併記)・「鳥取連大分」・國覓連高足(國覓忌寸八嶋に併記)・「文忌寸光庭」・美奴連智麻呂(奥麻呂に併記)・土師宿祢冠(關成に併記)・秦忌寸公足(智麻呂に併記)・長瀬連廣足(長背連。狛連廣足)・「維成澗」・香山連賀是麻呂(荊軌武に併記)・百濟安宿公奈登麻呂(戸憶志に併記)・金刺舍人八麻呂(麻呂に併記)・葛井連河守(立足に併記)・桧前舍人直建麻呂(丈部大麻呂に併記)・葛井連道依(立足に併記)に外從五位下を授けている。

また、正三位諱(白壁王、後の光仁天皇)・和氣王山村王藤原朝臣永手藤原朝臣眞楯吉備朝臣眞備藤原朝臣藏下麻呂(廣嗣に併記)日下部宿祢子麻呂(大麻呂に併記)佐伯宿祢伊多智(治)坂上大忌寸苅田麻呂(犬養に併記)牡鹿宿祢嶋足に勳二等、藤原朝臣繩麻呂粟田朝臣道麻呂弓削御清朝臣淨人(弓削宿祢淨人。道鏡に併記)に勳三等、中臣朝臣清麻呂(東人に併記)藤原朝臣濱足藤原朝臣楓麻呂(千尋に併記)高丘連比良麻呂(比枝麻呂)小野朝臣竹良(小贄に併記)石村村主石楯に勳四等、「安倍朝臣弥夫人」に勳五等、坂上王()・阿倍朝臣息道津連秋主石川朝臣垣守漆部直伊波金刺舍人八麻呂藤野別眞人清麻呂(和氣廣虫に併記)に勳六等を授けている。

また、「櫻井女王・淨原女王・高向女王・小垂水女王・高岡女王」に從五位下、藤原朝臣乙刀自竹宿祢乙女(多氣宿祢弟女)に從四位下、當麻眞人比礼大野朝臣仲智(仲仟。廣言に併記)・安倍朝臣都与利(阿倍朝臣豆余理)・多可連淨日(高麗使主)熊野直廣濱古仁虫名に正五位上、石川朝臣奈保(君成に併記)に正五位下、錦部連河内(吉美に併記)大神朝臣伊毛(妹。伊可保に併記)・忌部毘登隅(忌部首黒麻呂に併記)・橘宿祢眞束(眞都我。古那加智に併記)・縣犬養大宿祢姉女(八重に併記)に從五位上、「葦屋村主刀自女・長谷部公眞子・壬生連子家主女」藤野別眞人虫女(廣虫)・藤原朝臣伊久治(玄信に併記)・「息長眞人廣庭・巨勢朝臣魚女」・大宅朝臣宅女(廣麻呂に併記)・「三始朝臣奴可女」・李小娘(春日酒殿に併記)・「巨勢朝臣宮人・私朝臣長女」・若櫻部朝臣伊毛(上麻呂に併記)に從五位下、丈部細目(大麻呂に併記)・久須原部連淨日(藤原部に併記)・山田御井宿祢公足(山田史君足に併記)・「私家原・草鹿酒人宿祢水女・桑原毘登宅持・水海連淨成・許平等・賀陽臣小玉女」・桑原連嶋主(足床に併記)・「田邊公吉女」に外從五位下を授けている。

また、池上女王に勳二等、紀朝臣益女(益人に併記)に勳三等、竹宿祢乙女吉備朝臣由利(眞備に併記)・稻蜂間宿祢仲村女大野朝臣仲智安倍朝臣都与利藤原朝臣玄信に勳四等、「壬生直小家主女」に勳五等、藤野別眞人廣虫女・「巨勢朝臣魚女・賀陽臣小玉女」・桑原連嶋主・「草鹿酒人宿祢水女・田邊公吉女」に勳六等を授けている。この日、五位以上の官人を招いて宴を催し、それぞれに禄を賜っている。

八日に勅されて、官軍の通過した近江國高嶋郡の調庸は二年間、滋賀・淺井の二郡は一年間免除し、賊軍から没収した物を、事情に応じて恵み与えている(近江國各郡の配置はこちら)。

<多治比眞人長野-乙麻呂>
● 多治比眞人長野・多治比眞人乙麻呂

調べると御両人は、「池守」の子である「家主」及び「屋主」の子であることが分かった(池守の後裔についてはこちら参照)。

その多くが『橘奈良麻呂の乱』に連座して、名門多治比眞人一族の奔流が処刑されたり、配流の憂き目にあった事件があった。輩出していた人材も途切れてしまったのである。

勿論、見捨てられたわけではなく、その子等が漸く登場する機会を得たようである。長野=長く延びる野があるところとして、「家主」の近隣が出自と思われる。また、頻出の乙=[乙]の形に山稜が曲がっているところから図に示した場所と推定した。

「長野」は最終従三位・兵部卿・参議となったが、「乙麻呂」の活躍はあまり伝わっていないようである。幾らかは、復権されたのであろう。出自の場所は、地形の凹凸が少なく、現在の航空写真から求めた結果である。

<中臣習宜朝臣山守-阿曾麻呂>
● 中臣習宜朝臣山守

「中臣習宜連」は文武天皇紀に「諸國」が登場し、元正天皇紀に「笠麻呂」が朝臣姓を賜っている。谷間の最奥の場所が彼等の出自の場所と推定した(こちら参照)。

更に後に中臣小殿連中臣殿來連・中臣片岡連が、その谷間の向こう側に地に蔓延っていたことが解った。皺が寄ったような無数の谷間一つ一つに”中臣一族”が広がっていたことを伝えている。藤原朝臣を筆頭に歴代最も反映した一族と言えるであろう。

山守=山にある両肘を張り出したように山稜が延びているところと解釈すると、図に示した場所が、この人物の出自と思われる。今回の従五位下への昇叙以前に伊勢神宮大宮司を務めていたと伝えられている。この後、従五位上を授けられるが、具体的な任務については定かではないようである。

少し後に中臣習宜朝臣阿曾麻呂が従五位下を叙爵されて登場する。阿曾=台地の角が積み重なったようになっているところと解釈される。その地形を「山守」の隣に見出せる。後に多褹嶋守、大隅守を歴任したと記載される。叙位直後に南海の嶋で大風や地震によって大きな災害があり、その地の復興を任ぜられたのであろう。

<下道朝臣色夫多-長人>
● 下道朝臣色夫多

少し前に黒麻呂が外従五位下を叙爵されて登場していたが、その時にも述べたように吉備朝臣氏姓を賜った眞備とは同族なのだが、系列が異なっていたのであろう。

「色夫多」の出自場所は、「黒麻呂」周辺と推測される。直前に登場しているので併記しようかと思ったが、吉備朝臣までを含めるとかなり南北に延びた地図となることから、別掲とした。

色夫多は頻出の文字から成っていて、色=人+卩=谷間で渦巻くような様夫=くっ付いている山稜が岐れて広がっている様多=山稜の端に三角形(州)の地がある様と解釈する。色夫多=丸く小高い地が岐れて広がった山稜の端のところ。図に示したように、これらの地形要素が寄り集まった場所が見出せる。

「下道朝臣」の居処の現地名は、「吉備朝臣」の下関市吉見下ではなく、同市福江となっている(上図では「由利」が端境)。以前にも述べたが、古代の境を今に残しているのであろう。「色夫多」の西側に小碓命の出自場所が見えている。

後(光仁天皇紀)に下道朝臣長人が遣新羅使に任じられたと記載されている。長人=[人]の形の谷間が長く延びているところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。遣唐使の判官である海上眞人三狩(三狩王)等が耽羅嶋(現在の済州島)に漂着し、その地で捕縛されているのを迎えるために遣わされ、任務を終えて外従五位下を叙爵、その後地方官を任じられたりしている。

<鳥取部与曾布・鳥取連大分>
● 鳥取部与曾布・鳥取連大分

「鳥取」は、書紀の天武天皇紀で制定された『八色之姓』に含まれていた「鳥取造」に連姓を授けたと記述で登場していた。しかし、その後に具体的な人物名が記載されることはなく、全くの初見であろう。

また、「鳥取部」は、通説によると鳥を取って献上する品部だとか…”鳥を捕る”のではなかろうか。それはさて置いて先に進もう。

「鳥取」は、古事記の伊久米伊理毘古伊佐知命(垂仁天皇)紀に鳥取之河上宮と記載された場所を示していると思われる。現地名は田川郡赤村赤、犀川(今川)が激しく蛇行する場所である。図を参照すると、この突き出た「鳥取」の東側と西側の地を居処とする人物達ではなかろうか。

結果として、西側は「鳥取部」(無姓)、東側が「鳥取連」の配置であることが解った。既出の文字列である与曾布=ギザギザと噛み合うような地で布を積み重ねたようなところと読み解ける。また、大分=平らな地が真っ二つに分けられているところと解釈すると、図に示したようにそれぞれの出自の場所を求めることができる。

「鳥取部」の地は、廃墟となった恭仁京の南側に当たる。もう少し天皇が落ち着いて坐していたならば、些か状況も変わったかもしれない。確か、犀川に向かうために橋を造ったとか・・・過ぎ去り日々のことである。

<上村主五十公・善榮>
● 上村主五十公・善榮

「上村主」は、書紀の天武天皇紀では「上寸主」とされ、持統天皇紀に「上村主」と記載されている。古事記の橘豐日命(用明天皇)の陵墓、石寸掖上陵の地と推定した(こちら参照)。

續紀になって、元明・元正天皇紀に「通」や「人足」が「阿刀連」を賜っていていた。五十公について上記本文に注されているように齢八十を越えた人物であって、改氏・改姓していなかったのであろう。

五十公=山稜が交差するような地が丸く小高くなっているところと読み解ける。図に示した場所が居処と推定される。授かった外従五位上は加齢の恩詔も込められているのであろう。息子の律師善榮に関する情報も殆ど見当たらずであって、後に中律師となった程度である。ここで事変の褒賞叙位として取り上げられているが、些か真意を探りたくなるよう状況である。

忘れるところであったが、「善榮」に含まれる既出の善=羊+誩=谷間に耕地が並んで連なり延びている様と解釈した。「榮」=「𤇾+木」と分解される。地形象形的には、榮=二つの炎のような山稜が覆い被さるような様と解釈される。それらの地形要素を満たす場所が出自と推定される。更に実に興味深いのが、一族の二人、「光父」と「光缺」の麓に当たる場所なのである。

彼等に含まれる既出の光=火+儿=炎のような山稜が延び広がっている様を表す文字と解釈した。その二つの「光」が覆い被さるような場所であることを表しているのである。どうやら、この巧みな命名を伝えんがために記載したのではなかろうか。勿論、「仲麻呂」等が京から五徳峠越えの行程をとる場合の監視をしていたのであろう。

<若湯坐宿祢子人-子虫>
● 若湯坐宿祢子人

「若湯坐宿祢」は元正天皇紀に「若湯坐連家主」が登場し、聖武天皇紀に「若湯坐宿祢小月・繼女」が外従五位下を叙爵されている(こちら参照)。

「若湯坐連」の氏姓は記紀には記載されず、續紀においても「家主」に用いられた以外には見当たらないようである。

「連」姓から「宿祢」姓への改姓の記述もないが、他の史書の情報も併せて、同じ地域に住まう一族であったと推定した。現地名は田川郡香春町鏡山であり、若櫻部朝臣一族の高野との端境である。

名前の子人=生え出た山稜の麓に[人]の形の谷間があるところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。また、後(光仁天皇紀)に若湯坐宿祢子蟲が外従五位下を叙爵されて登場する。子蟲=生え出た山稜の端が細かく岐れているところと読み解くと、図に示した場所にその地形を見出せる。

<高尾連賀比>
● 高尾連賀比

またしても情報欠落の人物の登場である。調べると後代の人物に関してのがものが殆どで連姓一族は皆無であった。續紀編者及びそれを閲覧する人々にとっては至極当たり前だったのであろう。

愚痴はこれくらいにして、当たり前の「高尾」は何処と考えるか?…思い巡らすと、古事記の伊久米伊理毘古伊佐知命(垂仁天皇)の子、大中津日子命が祖となった高巢鹿之別が浮かんで来た。

上記の「鳥取」も同じ時期に登場する名称である。古くから知られている地なのであるが、その地を出自とする人物が歴史の表舞台に登場することがなかったのである。大和國添上郡、その奥地となる。現地名は田川郡添田町津野である。

既出の文字列である高尾=皺が寄ったような山稜から生え出た尾のようなところと読み解ける。因みに「高巢」=「皺が寄ったような山稜が巣のようになっているところ」である。とある方が、「高」=「鷹」と言われていたが、その通り現在の鷹ノ巣山が、その名残を留めている。

名前の賀比=谷間を押し拡げる山稜がくっ付いて並んでいるところと読み解ける。この特異な地形を図に示した場所に見出すことができる。續紀に二度と登場されることはないようである。あまりにかけ離れた地域なので、少々広域図で表示した。椎山・佐保山の谷奥である。

<長谷部木麻呂・長谷部公眞子>
● 長谷部木麻呂・長谷部公眞子

「長谷部」は、古事記の長谷部若雀天皇(崇峻天皇)に含まれている。大長谷若建命(雄略天皇)、小長谷若雀命(武烈天皇)にも「長谷」が用いられているが、これは全く異なる場所と推定した。

書紀は「長谷」の文字列を使わずに「泊瀬」で表記している。これが慣用の訓である「ハセ」に繋がっているのであろう。幾度も述べたように「長谷」は固有の地名ではない。

今回登場の二人は、「長谷部若雀命」の「長谷」の近隣を居処としていたと思われる。木麻呂木=山稜が木のような形をしている様と解釈する。地図上での確認がやや不鮮明だが、図に示した場所が出自だったと思われる。

長谷部公眞子には「公」が付加されている。「姓」と見做せば眞子=生え出た山稜が寄り集まって窪んでいるところと読み解ける。図に示した場所の地形を表していると思われる。泊瀬部皇女と何らかの繋がりがあったのかもしれない。

<文忌寸光庭>
● 壬生連子家主女(小家主女)
 てっきり前出の壬生直小家主女のことかと錯覚させられたのだが、「姓」が異なっているのである。後に常陸國筑波郡の住人、壬生連小家主が宿祢姓を賜っている。本件における褒賞であろう。

● 文忌寸光庭

「文忌寸」一族は、飛びぬけて重用された人物を輩出しているわけではないが、着実に登場している。直近では黒麻呂・上麻呂が外従五位下を叙爵されている。

光庭の「光」は上記でも述べたように、「火」を含む文字であり、「炎が長く延びたような地形」を表していると解釈した。その地形を図に示した場所に見出すことができる。纏めると光庭=炎が長く延びたような地の先で平らに区切られたところと読み解ける。

調べると平城宮遺跡から出土した木簡に「阿波國員外掾外従五位下」と記載されているそうである。續紀では関連する記述は見当たらないが・・・。

<維成澗-敬宗(長井連)>
● 維成澗(長井忌寸)

渡来系の人物名で途方に暮れそうな雰囲気であったが、後の延暦五(786)年四月に「左京人正七位下維敬宗等賜姓⾧井忌寸」と記載されている。

「左京」と「長井」の重要な情報を得て、彼等の出自の場所を探索することにすると、極めて興味深い場所であることが解った。

左京にある長井=四角く囲まれた地が長く延びているところと解釈すると、前出の”松井連”の氏姓を賜った戸淨山・淨道に隣接する場所と推定される。四角い谷間()を分け合っていた配置だったのである。「長井」の西端は、左右京の端境となっている。これ等の登場人物名によって平城宮周辺の詳細な地形を表現していることが伺えるのである。

成澗の「澗」=「氵+間(閒)」=「水辺の隙間のような様」と解釈され、澗=水辺の隙間のような地で高台が平らに整えられているところと読み解ける。図に示した辺りが出自と思われる。後に登場する敬宗は既出の文字列である敬宗=角のような山稜が細かく岐れた麓が台地になっているところと解釈される。「成澗」の南側に当たる場所が出自と推定される。

<安倍朝臣弥夫人-草麻呂>
彼等の北側の谷間には斯﨟國足(清海造の氏姓を賜った)等(戸淨山に併記)が住まっていたとしたが、この地には多くの渡来系の人々が、勿論、平城宮が造営される以前から棲みついていたのであろう。續紀の記述は、正に全ての谷間を埋め尽くさんばかりである。

● 安倍朝臣弥夫人

途切れることなく人材輩出の「阿倍朝臣」一族であるが、ここに至っては殆ど系譜不詳の有様で、名前が頼りになってしまっている。この人物も同様であり、色々探しあぐねて図のような結果となった。

弥夫人を如何に読むかは意外に難度が高く、一応、彌夫人=弓なりに広がる二つの山稜で谷間が挟まれているところと解釈する。阿倍朝臣、旧の布勢朝臣の領域でも、その地形を確認することが叶わず、やおら国土地理院航空写真1961~9年を参照してみると、どうやらそれらしき場所を求めることができた。現在は広大な宅地、大里桜ヶ丘の名称が地図に記載されている。

後に安倍朝臣草麻呂が従五位下を叙爵されて登場する。同様に系譜不詳である。草=艸+早=山稜が並んでいる傍らに丸く小高い地があるところと解釈すると、「弥夫人」の西側の谷間を表していると思われる。

● 櫻井女王・淨原女王・高向女王・小垂水女王・高岡女王

<櫻井女王・淨原女王・高向女王>
<小垂水女王・高岡女王>
前記に続いて、今度は女王達の名前が列記されている(嶋野王等七名についてはこちら参照)。

さて、今回も同じく現在の味見峠に向かう谷間に住まっていたのではなかろうか。先ずは名前が示す地形を求めておこう。

❶櫻井女王:櫻井=二つの谷間が寄り集まった四角く窪んだところ
❷淨原女王:淨原=水辺で両腕のような山稜が野原を取り囲んでいるところ
❸高向女王:高向=皺が寄ったような地で北を向いて山稜が延びているところ
❹小垂水女王:小垂水=水を垂らすように山稜が延びている前に三角の地があるところ
❺高岡女王:高岡=皺が寄ったような地で谷間に山稜が延びているところ

これらの名前が表す地形から図に示したように彼女等の出自の場所を推定した。結果として、前記と併せて十二名の王・女王等が、この谷間にずらりと並んでいたことが解った。まぁ、これだけの布陣となれば、「仲麻呂」一派にとっては、易々とは味見峠越えは叶わなかったであろう。

ともあれ、『仲麻呂の乱』で登場する宇治は、山科に隣接する場所ではないことが確信されるのである。京(田村第)から「宇治」への経路に含まれる、最も重要な場所をこれだけの王・女王等を使って表現していると推測される。無駄な記述としてしまっては、勿体ないであろう。

<葦屋村主刀自女>
上図を眺めていて、何かを思い起こされるであろう・・・古事記の伊久米伊理毘古伊佐知命(垂仁天皇)紀に記述されている常世國の登岐士玖能迦玖能木實である。子供達を谷間の奥深くに、匿うように住まわせていたのである。こんなところで繋がるとは、感動ものである。

● 葦屋村主刀自女

「葦屋村主」も実に希少な表記のようであるが、調べると和泉國に居処を構える一族であったことが分かった。表す地形は既出の文字列である葦屋=山稜が延び至る地が取り囲んでいるところと解釈される。

すると、前出の高志連若子麻呂の近隣、即ち現在は御清水ヶ池となっている場所を示していると思われる。刀自女の頻出の刀自=[刀]の地形が山稜の端にあるところと読むと、些か判別し辛いが、図に示した辺りが出自だったと推定される。

それにしても古書に辛うじて痕跡を留める一族を正規の史書に引き摺り出している様相である。時間が許すなら古書、偽書と言われるものも含めて地形象形表記として解読すれば、極めて興味深いことになるような気分である。

<息長眞人廣庭-道足-淨繼(清健)-長人>
● 息長眞人廣庭

直近での「息長眞人」一族は名代・麻呂・臣足であり、むしろ息長丹生眞人一族が多く登場している。彼等は息長の地の山稜が寄り集まった場所と推定した。即ち、「廣庭」が表す地形は殆ど見当たらないところと思われる。

要するに現地名の行橋市にある”覗山”の北麓ではなく、西麓の地に求める出自場所があるのではなかろうか。ただ、幾度か登場している廣庭=区切られた地が平らに広がっているところの地形では一に特定するのが難しく、少々先走って、この後に登場される人物を当たってみることにした。

少し後に息長眞人道足息長眞人淨繼が登場している。既出の文字列である道足=首の付け根のような地から足が延び出ているところ淨繼=水辺で両腕で囲んような地が連なっているところと解釈すると、それぞれの出自を図に示した場所と推定される。

更に後に息長連清健に眞人姓を賜ったと記載される。「淨繼」の地形を詳細に見ると、例に依って「淨」=「清」と置換え、その傍に健=人+廴+聿=谷間に筆のような山稜が延びている様の地形が認められる。多分、別名表記なのではなかろうか。周辺の地形が見えて来ると、「廣庭」の出自も浮かび上がって来たように思われる。「息長眞人」の”新世代”の登場なのであろう。

ずっと後(光仁天皇紀)になって、息長眞人長人が従五位下を叙爵されて登場する。長人=[人]の形の山稜に挟まれた谷間が長く延びているところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定されるが、その後の消息は不明のようである。

<巨勢朝臣魚女>
● 巨勢朝臣魚女

女官の系譜は、殆ど詳細には知られていないようで、この人物も何処の馬の骨…いや魚の骨かは定かではない。冗談はさて置き、名前が示す地形から出自の場所を求めてみよう。

記紀では「魚」と言えば、四つの尾ヒレが並んでいる山稜の形を示すと解釈して問題なかったが、續紀は「魚」の頭部の形を重んじる傾向があるように思われる。直近では、紀朝臣鯖麻呂などの例が挙げられる。

勿論、尾ヒレ四つの地形も併せて探索すると、どうやら、巨勢斐太朝臣の広大な台地の形状を、特にその頭部(上手い具合に出目の地形が見える)を模した地形象形表記だったようである。

図に載せてみると、徳太大臣(黒麻呂の父親)一族が多くの人材を輩出した対岸に当たる場所である。この内の誰かと繋がりがあったのではなかろうか。

<三始朝臣奴可女>
● 三始朝臣奴可女

「三始朝臣」については、朝臣姓を賜りながら、全く関連する情報がない有様である。また、續紀に二度と記載されることもなく、正に闇に包まれた一族の様相である。

そんな状況に陥ったので、兎も角も名称が表す地形を具体化してみることにした。「三始」の「始」は、書紀・續紀を通じて用いられている置始連に含まれていて、始=女+台=嫋やかに曲がる山稜に挟まれた谷間に耜のような地がある様と解釈した。

すると三始=三つの[始]があるところと読み解ける。この特徴的な地形を探索すると、なんと、「忍坂」の地に存在していることが判った。古事記の品陀和氣命(応神天皇)の子、大山守命が祖となった榛原君の地と推定したところである。奴可女奴可=嫋やかに曲がって延びる山稜の谷間の出口のところと読み解ける。

<巨勢朝臣宮人>
多分、「仲麻呂」等が金辺峠越えの行程を採った場合の監視役を仰せつかったのであろう。それにしても、空白の地を埋める作業としか思えないような記述である。

● 巨勢朝臣宮人

上記の「魚女」と同じく系譜等の情報は皆無である。ちゃんと従五位下を叙爵されているのだから、当時は氏素性は明らかだったのであろう。同様に名前から出自の場所を求めてみる。

既出の文字列である宮人=奥まで広がっている谷間の出口で[人]の形に山稜が岐れているところと読み解ける。「巨勢朝臣」の地で、その地形を探すと図に示した場所に見出せることが解った。

「魚女」は北部、「宮人」は南部からの人選だったのかもしれない。彼女等は、今回の事変によって皇位剥奪された大炊親王及びその縁者等の処遇に対しての宮中における功績だったように推測される。

<私朝臣長女・私家原>
● 私朝臣長女・私家原

上記本文で「私朝臣長女」は無位から内位の従五位下、「私家原」は従六位下から外従五位下を叙爵されたと記載されている。おそらく同族なのだが、系列が異なっていたのであろう。

無姓の後者は、言い換えれば、”私”の奔流の地から少し外れた場所だったと推測される。文武天皇紀に「倉垣連子人」が「私」一族は、皆同祖であり良民だと請願して認められたと記載されていた。何かの弾みで賤民扱いになっていたようである。

そして、いつの間にやら朝臣姓を賜っていたようである。現在の裏ノ谷池の西岸域を居処とする一族と推定したが、当時でも山陰でひっそりと暮らしていたのではなかろうか。その系列の長女がここで登場していることになる。出自場所は、図に示した辺りと思われる。

一方の頻出の文字列である家原=豚の口のような山稜の先で野原が広がっているところと解釈すると、「長女」の北隣だが、「私朝臣」の地域から、はみでた場所と推定される。共に女官として奉仕していたのであろう。

<草鹿酒人宿祢水女>
● 草鹿酒人宿祢水女

「草鹿」の表記であるからには、「日下(部)」、書紀では「草壁」の地を示しているに違いない、と思われるが、「鹿」の文字を用いたのには、ちゃんとした理由がある筈である。

それはそれとして既出の文字列である酒人=谷間に酒樽のような地があるところに注目すると、一見でそれらしき場所が見出せる。草壁皇子等及び日下部宿祢一族の東北側の谷間である。

ここであらためて「草鹿」の文字列を読み解いてみよう。「草」=「艸+早」=「山稜が並んで延びた先が小高くなっている様」、「鹿」=「山稜が鹿の角のように延びている様」と解釈した。纏めると草鹿=山稜が延びた先が小高くなって鹿の角のように並んでいるところと読み解ける。図に示したような”視点”から命名したものであることが解る。

名前の水女に含まれる水=平らに広がっている様と解釈すると、この女性の出自の場所は図に示した辺りと推定される。「草鹿(クサカ)」と読んで終わっていたら、この人物の表記の重要性を見逃すことになろう。

<桑原毘登宅持-安麻呂>
地形象形表記の妙味、續紀に至って実に完成度が極まって来たのではなかろうか。即ち、書紀の「草壁」の「壁」が「鹿の角」を表していることに気付くことになろう。

● 桑原毘登宅持

「桑原毘登」の旧姓は「桑原史」と思われるが、孝謙天皇紀に請願があって桑原直(一部船直)の姓を賜っている。ほぼ全域を網羅していたのかと思いきや、漏れがあったのであろう。

と、簡単に済ませられないのであって、それぞれの出自場所を求めることによって、漏れの必然性を推し測ってみよう。勿論、場所は現地名の田川郡福智町上野、福智川と岩屋川に挟まれた地域である。

名前が表す地形は、既出の文字列である宅持=谷間に延び出た山稜が手で抱えるように曲がっているところと読み解ける。苦も無くその場所を特定することができる。現在の熊野神社が鎮座している麓の谷間である。明らかに前記の申請では含まれていなかった場所であることが解る。

少し後に桑原毘登安麻呂が外従五位下を叙爵されて登場する。頻出の安=山稜に挟まれた谷間が嫋やかに曲がって延びている様と解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。

<水海連淨成>
● 水海連淨成

「水海連」は書紀・續紀を通じて初見でありる。関連する情報を探ってみると、案の定であるが、「淡海」と結び付けて解釈され、すると「近江大津」と繋げているようである。

勿論、この思考パターンではいつまで経っても魑魅魍魎の世界に足を踏み入れることになる。「淡海」と結び付けるのなら、淡路國としてみる。

事変によって淳仁天皇(大炊親王)及び母親等が配流された地であり、淡路公と称するようになったと記載されていた。この地に関わる人物は全く登場していなかったのである。

「淡路國」は、現在の下関市彦島(主に向井町・山中町)と推定したが、大きく地形が変化した場所でもある。国土地理院航空写真1961~9年を参照しながら、この人物の出自の場所を求めてみよう。水海連水海=陸地で取り囲まれて水を湛えたところと解釈する。各種の辞典に記載されている内容と大きな差はない。

地形の変形もさることながら、当時の海面は現在の標高約8mだったと推測される(概ね10m前後と推定。山の規模が小さく、沖積量が少ない場所として)。すると島が寄り集まったような土地に”内海”が存在していたことが分かる。それを「水海」と称したのであろう。

名前の淨成=両腕で取り囲んだように山稜が延びた地で平らに整えられたところと読み解ける。図に示した場所が出自と推定される。両腕のような山稜は、ものの見事に住宅地に変わってしまっているようである。尚、連姓を授けられたのは、もう少し後とのことで、先走りの記述と思われる(この時点では水海毘登姓)。また、暫くして内位の従五位下を叙爵されている。

<許平等・難金信>
● 許平等

渡来系の名称故に出自を求めることは叶わないように思えるが、些か過去に遡って調べてみた。

「許」と名乗る人物が、書紀の天智天皇即位十(671)年正月に百濟からの亡命者に叙位したと記載されている。その中に「許率母」の名前があり、天武紀に昇進と食封を授けられている。

勿論、百濟の人々は近江國蒲生郡に住まわせている。ならば許氏もその地に居処を構えていたのではなかろうか。「率母」は百濟の地における出自場所を表しているようで、蒲生郡にはない地形であろう。だが、その子孫、即ち帰化後に誕生した人物名は、素直に地形象形していると推測される。

初見の名前であるが、平等=平らな山稜が揃って並んでいるところと読み解ける。そのものズバリの地形を見出せる。鬼室福信等は淨岡連の氏姓を賜ったことが知られている。彼等の少し北側が許氏の居処だったと推定される。

後(光仁天皇紀)に百濟の琴の名手・教授の難金信が外従五位下を叙爵されて登場する。「平等」と同じような経緯で蒲生郡に住み着いてのではなかろうか。難金信=直角に曲がる川辺で山稜の端が三角に尖った地に耕地が広がっているところと解釈すると、図に示した場所が居処であったと推定される。

<賀陽臣小玉女>
● 賀陽臣小玉女

「賀陽臣」は、記紀・續紀を通じて初見であるが、少し後の六月記に「備中國賀陽郡人外從五位下賀陽臣小玉女等十二人賜姓朝臣」と記載されている。

早速、備中國賀陽郡を訪れてみよう。既出の文字列である賀陽=押し開かれた谷間に丸く小高い地があるところと読み解ける。現地名の下関市吉見上宗房と推定される。

古くは、大倭帶日子國押人命(孝安天皇)の子、大吉備諸進命の出自場所であり、後に息長宿禰王が葛城之高額比賣を娶って誕生した「息長帶比賣命、次虛空津比賣命、次息長日子王」三姉弟の弟が祖となった阿宗君の居処と推定した場所である。吉備の”鉄”を確保するための戦略拠点であったと推測した地であった(現在の阿宗の「宗」、鬼ヶ城は名残であろう)。

横道に逸れ過ぎるので・・・名前の小玉女は、小玉=玉のような地の前が三角の形になっているところと読むと、出自の場所を求めることができる。歴史の表舞台からすっかり遠のいた一族だったのである。朝臣姓は、遅まきながらである。

<田邊公吉女・堅部使主人主>
● 田邊公吉女

「田邊史」(後に上毛野公)は多数の人材が輩出しているが、「田邊公」は初見の氏姓であろう。やや錯綜としているのだが、気に掛かるのが、書紀の天武天皇紀の『壬申の乱』で近江朝側で活躍した田邊小隅である。

調べても「姓」は定かではなく、また、乱以後の消息不明であることから極めて曖昧な状況のように思われる。

そんな漠とした背景なのだが、名前の吉女吉=山稜が蓋をしているような様で一目瞭然の場所が見出せる。「小隅」の山稜の端が、その地形を示していると思われる。

書紀が語るには、敗走した将軍ではあるが、優れた機略の持主であり、危ういところで彼等の進軍を阻止して事なきを得て、天武天皇が誕生したわけである。「小隅」一族に何らかの制裁が加えられた様子もないようである。おそらく「吉女」は、その一族の子孫だったのではなかろうか。

少し後に堅部使主人主が外従五位下を叙爵されて登場する。珍努宮造営に関して和泉監の石前が多大な貢献したと記載されていた。「解工」(用水工事)の名人として褒賞に与っている。「人主」もその技を受け継いでいたのであろう。人主=谷間に山稜が真っ直ぐに延びているところと解釈して、図に示した場所が出自と推定される。

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凄まじいばかりの人物名の羅列である。しかも埋もれた人々であるが故に出自の場所を求めるのにかなり時間を要する羽目となった。だが、それが記紀・續紀を通じての空白の地を埋めてくれるのである。そして、古事記が記す古代から連綿と続く人々の生業を浮かび上がらせてくれているように感じられる。まだまだ、奈良大和、いや、平安の地が舞台ではないようである。