2023年3月10日金曜日

高野天皇:称徳天皇(2) 〔626〕

高野天皇:称徳天皇(2)


天平神護元年(西暦765年)二月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀3(直木考次郎他著)を参照。

二月癸亥。授從四位下弓削御淨朝臣淨人從四位上。正六位上吉弥侯根麻呂外從五位下。甲子。大和國添下郡人左大舍人大初位下縣主石前賜姓添縣主。」改授刀衛爲近衛府。其官員。大將一人爲正三位官。中將一人爲從四位下官。少將一人爲正五位下官。將監四人爲從六位上官。將曹四人爲從七位下官。又定外衛府官員。大將一人爲從四位上官。中將一人爲正五位上官。少將一人爲從五位上官。將監四人爲從六位上官。將曹四人爲從七位下官。又始置内厩寮。頭一人爲從五位上官。助一人爲正六位下官。大允一人爲正七位下官。少允一人爲從七位上官。大属一人爲從八位上官。少属一人爲從八位下官。乙丑。和泉。山背。石見。美作。紀伊。讃岐。淡路。壹岐。多褹等國飢。並加賑恤。是日。賜与賊相戰及宿衛内裏桧前忌寸二百卅六人。守衛北門秦忌寸卅一人。爵人一級。丙寅。以從四位下牡鹿宿祢嶋足爲近衛員外中將。從五位下弓削宿祢牛養爲少將。正五位上藤原朝臣田麻呂爲外衛大將。從五位下豊野眞人篠原爲中將。從五位上佐伯宿祢三野爲右衛士佐。大宰少貳從五位下紀朝臣廣純左遷薩摩守。己巳。以從三位藤原朝臣藏下麻呂爲近衛大將。從四位下石上朝臣宅嗣爲中衛中將。常陸守如故。從五位上藤原朝臣黒麻呂爲左兵衛佐。從五位下弓削御淨朝臣秋麻呂爲右兵衛佐。正五位上阿倍朝臣息道爲左衛士督。從五位上小野朝臣小贄爲右衛士督。外從五位下葛井連河守爲少尉。從三位山村王爲大和守。辛未。攝津職嶋下郡人右大舍人采女臣家麻呂。采女司采部采女臣家足等四人賜姓朝臣。乙亥。勅淡路國守從五位下佐伯宿祢助。風聞。配流彼國罪人。稍致逃亡。事如有實。何以不奏。汝簡朕心。往監於彼。事之動靜。必須早奏。又聞。諸人等詐稱商人。多向彼部。國司不察。遂以成群。自今以後。一切禁斷。丙子。相摸。下野。伊豫。隱伎等國飢。賑給之。辛巳。授從六位下津守宿祢眞前外從五位下。庚寅。左右京籾各二千斛。糶於東西市。籾斗百錢。辛夘。安房國平群郡人壬生美与曾。廣主二人賜姓平群壬生朝臣。是月。京師米貴。令西海道諸國恣漕私米。

二月二日、弓削御淨朝臣淨人(弓削連淨人。道鏡に併記)に従四位上、吉弥侯根麻呂(君子部眞鹽女に併記)に外従五位下を授けている。三日に大和國添下郡の人で左大舎人の「縣主石前」に「添縣主」の姓を賜っている。また、授刀衛を近衛府と改め、その官職・定員は大将一人で正三位相当の官とし、中将は一人で従四位下相当の官とし、少将は一人で正五位下相当の官とし、将監は四人で従六位上相当の官とし、将曹は四人で従七位下相当の官とする。

また、外衛府の官職・定員を定め、大将は一人で従四位上相当の官とし、中将は一人で正五位上相当の官とし、少将は一人で従五位上相当の官とし、将監は四人で従六位上相当の官とし、将曹は四人で従七位下相当の官とする。

また初めて内廐寮(御馬、厩舎、牧場の司)を設置し、その官職・定員は頭は一人で従五位上相当の官とし、助は一人で正六位下相当の官とし、大允は一人で正七位下相当の官とし、少允は一人で従七位下相当の官とし、大属は一人で従八位上相当の官とし、少属は一人で従八位下相当の官とする。

四日に和泉・山背・石見・美作・紀伊・讃岐・淡路・壹岐・多褹などの國に飢饉があったのでそれぞれに物を恵み与えている。この日、「仲麻呂」の賊軍と戦ったり、内裏に宿直して守衛に当たった「桧前忌寸」の者達二百三十六人と、北門の守備に当たった「秦忌寸」(例えば、こちらこちら参照)の者達三十一人をそれぞれ一階ずつ昇進させている。

五日に牡鹿宿祢嶋足を近衛員外中将、弓削宿祢牛養(薩摩に併記、❺)を少将、藤原朝臣田麻呂(廣嗣に併記)を外衛大将、豊野眞人篠原(篠原王)を中将、佐伯宿祢三野(美濃。今毛人に併記)を右衛士佐に任じている。大宰少貳の紀朝臣廣純を薩摩守に左遷している。

八日に藤原朝臣藏下麻呂(廣嗣に併記)を近衛大将、石上朝臣宅嗣を常陸守兼任で中衛中将、藤原朝臣黒麻呂を佐兵衛佐、弓削御淨朝臣秋麻呂(御清朝臣。道鏡に併記)を右兵衛佐、阿倍朝臣息道を佐兵衛士督、小野朝臣小贄を右兵衛士督、葛井連河守(立足に併記)を少尉、山村王を大和守に任じている。十日に攝津職嶋下郡の人で右大舎人の「采女臣家麻呂」、采女司の采部の「采女臣家足」等四人に朝臣姓を賜っている(出自場所はこちら参照。首名・若に併記)。

十四日に淡路國守の佐伯宿祢助に次のように勅さている・・・彼の國に配流した罪人は、既に逃亡したらしいという噂がある。もしそれが事実であるならば、何故にそのことを報告して来ないのか。汝は朕の心に選ばれ、彼の地に行かせて監視させたのである。事の実態を必ず早く奏上せよ。また聞くところでは、多くの人が商人と偽って彼の國に向かっているということで、國司が察知せずに放置したならば遂には集団を成すに至るであろう。今後は一切その様なことを禁止せよ・・・。

十五日に相模・下野・伊豫・讃岐などの國に飢饉が起こったんで、物を恵み与えている。二十日に「津守宿祢眞前」に外従五位下を授けている。二十九日に左右の京職が籾をそれぞれ二千石ずつ市で売却している。価格は籾一斗につき百銭であった。三十日に安房國平群郡の人、「壬生美与曾・廣主」の二人に「平群壬生朝臣」の姓を賜っている。この月、京の米価が騰貴したので。西海道諸國に命じて個人の米を自由に船で京へ運ぶことを許している。

<縣主石前>
● 縣主石前

いつもこのように國郡名を添付してくれたら・・・と愚痴っても致し方なしであるが、実に手間が省ける出自場所探しである。大和(倭)國添下郡は、現地名の田川郡添田町添田周辺の地と推定した。間違いなく残存地名である。

かなり多くの人材が登場しているが、春日離宮や觀世音寺などがあったと記載され、また優れた僧侶の生誕の地でもあったようである(こちら参照)。

そもそも添=氵+忝(天+心)=水辺で真ん中が平らに広がっている様と解釈した。古事記風に「天」=「阿麻」=「擦り潰されたような様」としても何ら差支えがない解釈となろう。

縣主石前の頻出の縣=(首の逆文字)+系=山稜に首をぶら下げたような様であり、図に示した山稜の形を示している。石前=山麓にある小高い地が前にあるところと解釈すると、この人物の出自を求めることができる。

賜った添縣主は、「石前」が平らに広がっている様子に拠るものであろう。かなり早い時期(1960年代以前)に開発されて当時の姿を確認できないが、多分、山稜の端がなだらかに延びていたのではなかろうか。

<桧前忌寸>
● 桧前忌寸

「桧(檜)前忌寸」は、記紀・續紀を通じて全くの初見の氏姓であろう。「忌寸」以前の姓として「造」や「直」としても見当たらずのようである。桧前舎人直桧前女王などが記載されてはいるが、「桧(檜)前」が表す地形は一に特定(固有)されるわけでもない。

関連する文字列としては「檜隈」がある。多くの天皇陵が造られた場所、現在の彦山川・中元寺川の合流地点近傍と推定した。例えば、欽明天皇の檜隈坂合陵などが挙げられる。

そんな背景からすると、既に登場の民忌寸の北側、古事記の品陀和氣命(応神天皇)が坐した輕嶋之明宮を含む一帯がすっぽりと空いていることに気付かされる。現地名は田川郡福智町金田である。檜前=[檜](山稜が出会う)の地が前にあるところである。残念ながら續紀中に「桧前忌寸」の具体的な人物名が記載されることはないようである。

図に示したように、「檜隈」は「檜前」の中の限られた地域を表していることが解る。その限られた「檜前」の外れにある場所を陵墓としたのである。以前にも述べたが、古事記は天國押波流岐廣庭天皇(欽明天皇)陵を明記しない。何らかの理由で消失してしまったのであろう。

さて、上記のような推論になったのであるが、後の寶龜三(772)年四月に…、

正四位下近衛員外中將兼安藝守勳二等坂上大忌寸苅田麻呂等言。以桧前忌寸。任大和國高市郡司元由者。先祖阿智使主。輕嶋豊明宮馭宇天皇御世。率十七縣人夫歸化。詔賜高市郡桧前村而居焉。凡高市郡内者。桧前忌寸及十七縣人夫滿地而居。他姓者十而一二焉。是以天平元年十一月十五日。從五位上民忌寸袁志比等申其所由。天平三年。以内藏少属從八位上藏垣忌寸家麻呂任少領。天平十一年。家麻呂轉大領。以外從八位下蚊屋忌寸子虫任少領。神護元年。以外正七位上文山口忌寸公麻呂任大領。今此人等被任郡司。不必傳子孫。而三腹遞任。四世于今。奉勅。宜莫勘譜第。聽任郡司。

…と記載されている。「桧前忌寸」は「高市郡」を居処としていたことになる。「高市郡」は天武天皇紀に高市郡大領の高市縣主許梅(高市皇子に併記)が登場し、現在の田川郡香春町鏡山ではないかとした場所である。即ち上記の桧前女王の出自場所、その周辺を示していることになる。「輕嶋豊明宮」が登場したり、些か錯綜としているようである。どちらが史実なのかは、後日の判断としよう。

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余談だが、「前」と「隈」の文字使いに「栗前」と「栗隈」がある。『壬申の乱』に登場する栗前王、別名栗隈王などが挙げられる。栗前(隅)=栗の穂が長く延びた地の先(隅)のところと解釈したが、栗の雌雄の花(雌雄同株、雌雄異花)の形状に基づいた表現と思われる。ただ、「隈」を「隅」と解釈するのだが、今一つスッキリとしたものではなかったように思われる。雄花の穗先は隅ではないからである。

「隈」の文字解釈をあらためて行ってみると、「隈」=「阝+畏」と分解される。「畏」の文字解析は定説が見当たらないのだが、「畏」=「|+鬼」と分解してみると、「鬼」の形が「栗の雌花と雄花の形」に類似していることが解る。即ち丸い形からゆらゆらと長く延び広がり出ている様を表しているのである。「檜」から延び広がったところが「檜隈」と解釈される。勿論、「隈」=「隅」も成り立っているわけである。

<津守宿祢眞前-夜須賣>
現在では闇に葬られた地形象形表記、古代人の漢字に対する理解と地形掌握の確かさが再確認されたように感じられる。"
漢字”も”地形”も真に危うい状況にあるように危惧されるが、杞憂で済まされるのであろうか・・・。

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● 津守宿祢眞前

「津守宿祢(連)」からの登用は、かなり久々であるが、この一族も途切れることなく続いているようである。直近では聖武天皇紀に忍海手人大海に、陰陽師の津守連通が外祖父に当たることからその氏姓を名乗らせている。

眞前の名前の解釈が思いの外に難しく、上記の「石前」、「桧前」とは異なり、「前」=「山稜の前(先)」と解釈することにした。通して述べれば眞前=山稜の先が寄り集まって窪んでいるところとなる。ぞの地形を図に示した場所に見出せるが、地形の変形も加わって、些か曖昧な感じでもある。当面はこの場所が出自であったとしておくことにする。

後に津守宿祢夜須賣が従五位下を叙爵されて登場する。夜須=谷間に州があるところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。女官であったのであろうが、續紀での登場は、それ以降見られないようである。

<壬生美与曾-廣主>
● 壬生美与曾・廣主

「壬生」の氏名は、壬生直(連)一族に用いられている。直近では壬生直小家主女が外従五位下を叙爵され、また事変での功績で勲五等を授けられていた。ここで登場の彼等は無姓であり、全く異なる一族であることが分かる。

加えて安房國平群郡に居を構えていたことを伝えている。いつもこの程度の丁寧さで記述して欲しいものであるが、さて「壬生」の地形を見出すことができるのであろうか?・・・。

壬生=丸く膨らんだような地が生え出ているところと解釈される。安房國平群郡、現地名は北九州市小倉南区上吉田で、その地形を、地図を拡大もしくは陰影を強調した図で確認することができる。現在の住宅地も丸く膨らんだ地形を残して開発されているように思われる。

美与曾は既出の文字列であるが、少々手の込んだ命名のである。そのまま読み解けば美与曾=広がった谷間(美)が積み重なった地(曾)とギザギザと噛み合っている(与)ところとなる。廣主=真っ直ぐに延びる山稜の前が広がっているところと読むと、それぞれの出自は図に示した場所と思われる。賜った「平群壬生朝臣」、分り易い氏姓となったようである。

三月癸巳。勅。比年遭旱。歳穀不登。朕念於茲。情甚愍惻。其去年不熟之國。今年得稔。始須徴納。若有今年又不熟者。至於秋時待勅處分。其備前。備中。備後三國。多年亢旱。荒弊尤深。因茲所負正税不得進納。宜天平寳字八年以前官稻未納咸悉免之。」伯耆國飢。賑給之。」近江國坂田郡人粟田臣乙瀬。眞瀬。斐太人。池守等四人賜姓朝臣。左京人散位大初位下尾張須受岐。周防國佐波郡人尾張豊國等二人尾張益城宿祢。乙未。參河。下総。常陸。上野。下野等五國旱。詔復今年調庸十分之七八。丙申。勅。今聞。墾田縁天平十六年格。自今以後。任爲私財。無論三世一身。咸悉永年莫取。由是。天下諸人競爲墾田。勢力之家駈役百姓。貧窮百姓無暇自存。自今以後。一切禁斷。勿令加墾。但寺先來定地開墾之次不在禁限。又當土百姓一二町者亦宜許之。又詔。王臣之中執心貞淨者。私家之内不可貯兵器。其所有者皆以進官。」又伊勢。美濃。越前者。是守關之國也。宜其關國百姓及餘國有力之人。不可以充王臣資人。如有違犯。國司資人同科違勅之罪。」復詔曰。天下政〈方〉君〈乃〉勅〈仁〉在〈乎〉己〈可〉心〈乃〉比岐比岐太子〈乎〉立〈止〉念〈天〉功〈乎〉欲〈須流〉物〈仁方〉不在。然此位〈方〉天地〈乃〉置賜〈比〉授賜〈布〉位〈仁〉在。故是以朕〈毛〉天地〈乃〉明〈伎〉奇〈伎〉徴〈乃〉授賜人〈方〉出〈奈牟止〉念〈天〉在。猶今〈乃〉間〈方〉明〈仁〉淨〈岐〉心〈乎〉以〈天〉人〈仁毛〉伊佐奈〈方礼須〉人〈乎毛〉止毛奈〈方須之天〉於乃〈毛〉於乃〈毛〉貞〈仁〉能〈久〉淨〈伎〉心〈乎〉以〈天〉奉仕〈止〉詔〈己止乎〉諸聞食〈倍止〉詔。復有人〈方〉淡路〈仁〉侍坐〈須〉人〈乎〉率來〈天〉佐良〈仁〉帝〈止〉立〈天〉天下〈乎〉治〈之米无等〉念〈天〉在人〈毛〉在〈良之止奈毛〉念。然其人〈方〉天地〈乃〉宇倍奈〈弥〉由流〈之天〉授賜〈流〉人〈仁毛〉不在。何〈乎〉以〈天可〉知〈止奈良方〉志愚〈仁〉心不善〈之天〉天下〈乎〉治〈仁〉不足。然〈乃味仁〉不在。逆惡〈伎〉仲末呂〈止〉同心〈之天〉朝廷〈乎〉動〈之〉傾〈无止〉謀〈天〉在人〈仁〉在。何〈曾〉此人〈乎〉復立〈无止〉念〈无〉。自今以後〈仁方〉如此〈久〉念〈天〉謀〈己止〉止〈止〉詔大命〈乎〉聞食〈倍止〉宣。庚子。伊賀。出雲國飢。賑給之。辛丑。賜從三位和氣王功田五十町。從四位上大津宿祢大浦十五町。」左右京飢。賑給之。」大宰大貳從四位下佐伯宿祢今毛人爲築怡土城專知官。少貳從五位下采女朝臣淨庭爲修理水城專知官。甲辰。備前國藤野郡人正六位下藤野別眞人廣虫女。右兵衛少尉從六位上藤野別眞人清麻呂等三人賜姓吉備藤野和氣眞人。藤野郡大領藤野別公子麻呂等十二人吉備藤野別宿祢。近衛從八位下別公薗守等九人吉備石成別宿祢。」上野國飢。賑給之。丁未。授從六位下多朝臣犬養從五位下。」尾張。參河。播磨。石見。紀伊。阿波等國飢。賑給之。」越前國足羽郡人從五位下益田繩手賜姓益田連。外從五位下吉弥侯根麻呂等四人下毛野公。外從五位下葛木毘登大床等七人葛木宿祢。

三月二日に次のように勅されている・・・このところ毎年日照りにあって、穀物の稔らない年が続いている。朕はこのことを思うて、大変憐れに思い心が痛む。そこで去年不作だった國は、今年が稔りが豊かであったら、始めて租税を徴収するようにせよ。もし今年もまた不作であれば、秋の収穫の時期になって勅の処分を待て。備前・備中・備後の三國は長年にわたって日照りが続き、荒廃疲弊することが最も甚だしい。そのために借り入れた正税を納入することができないでいる。そこで天平字八年以前の官稲の未納分は全て免除する・・・。

また、伯耆國に飢饉があったので物を恵み与えている。この日、近江國坂田郡の人、「粟田臣乙瀬・眞瀬・斐太人・池守」などの四人に朝臣姓、左京の人で散位の「尾張須受岐」と「周防國佐波郡」の人である「尾張豊國」ら二人に「尾張益城宿祢」の氏姓を賜っている。四日、三河・下総・常陸・上野・下野など五ヶ國に日照りがあったので、詔されて、今年の調と庸の七乃至八割を免除している。

五日に次のように勅されている・・・今、聞くところによれば、墾田は天平十五年の格(永年私財法)によって、任意に開墾者の私有の財産とし、三代とか一代という期限を論ずることなく、悉く永久に収公してはならないことになった。このため、天下の人々は争って田を開墾するようになったが、勢力のある家では人々を追い立てるように使役して広い土地を開墾し、貧しく困窮している人々は、開墾どころか自活する暇もないほどである。

そこで今後は一切の開墾を禁止して、これ以上の墾田の開発をさせないようにせよ。但し、寺院がすでに土地を占定して開墾を進めている場合は禁ずる限りではない。また、その土地の人民が一乃至二町を開墾する場合は、これを許可する。

また、次のように詔されている・・・諸王や臣下のなかで正しく清い心を堅固に守ろうとする者は、自宅に武器を貯えてはいけない。その所有している武器は全て官に進め納めよ。また、伊勢國・美濃國・越前國は關を守衛している國である。そこで關國の人民、及び關國以外の諸國であっても有力な人は諸王や臣下の資人として採用してはいけない。もし違反するようなことがあれば、國司もその資人も共に違勅罪に処する・・・。

また、次のように詔されている(以下宣命体)・・・天下の政治は天皇の勅によって行われるものであるのに、人々が自分の欲するままに皇太子を立てようと思って、功を求め望むものではない。さて、この皇太子の位は天地がお置きになり、お授けになる位である。それ故に朕も天地が明らかな、また霊妙な徴候を現わして、お授けになる人が出現してくるものと思っている。それまで今暫くの間は、明るく清らかな心を持って、皇太子をを擁立しようとする人にも誘われることなく、また他人を誘い込むこともしないで、各自それぞれしっかりとした明るく、清らかな心をもって仕えよ、と仰せになるお言葉を皆承れと申し渡す。---≪続≫---

また、淡路におられる人を連れて来て、再び帝として立て、天下を治めさせようと思っている人もいるらしいと思う。しかし、その人は天地ががよいと認め許して位をお授けになった人ではない。どうしてそれが分かるかと言うと、志が愚かで心根も善くなくて、天下を治めるにも器量が足らない。さらにそればかりではなく、悪逆な「仲麻呂」と心を同じくして、朝廷を動揺させ傾けようと謀った人物だからである。どうしてこの人をまた天皇に立てようなどと思おうか。今後は、今述べたように考えて謀ることを止めよ、と仰せられるお言葉を皆承れと申し渡す・・・。

九日に伊賀國・出雲國に飢饉があったので物を恵み与えている。十日、和氣王に功田五十町、大津宿祢大浦に十五町を賜っている。また、左右京に飢饉があったので物を恵み与えている。この日、大宰大弐の佐伯宿祢今毛人怡土城造営の専知官に、少弐の采女朝臣淨庭水城を修理するための専知官に任じている。

十三日に備前國藤野郡の人、藤野別眞人廣虫女と右兵衛少尉の藤野別眞人清麻呂(廣虫女に併記)等三人に「吉備藤野和氣眞人」姓、藤野郡の大領の「藤野別公子麻呂」等十二人には「吉備藤野別宿祢」姓、近衛の「別公薗守」等九人には「吉備石成別宿祢」姓を賜っている。また、上野國に飢饉があったので物を恵み与えている。

十六日に「多朝臣犬養」に従五位下を授けている。また、尾張・参河・播磨・石見・紀伊・阿波などの國に飢饉があったので物を恵み与えている。この日、越前國足羽郡の人である益田繩手に「益田連」姓、吉弥侯根麻呂(君子部眞鹽女に併記)等四人には「下毛野公」、葛木毘登大床(戸主に併記)等七人には「葛木宿祢」姓を賜っている。

<粟田臣乙瀬-眞瀬-斐太人-池守>
● 粟田臣乙瀬・眞瀬・斐太人・池守

「粟田臣」ならば、古事記の御眞津日子訶惠志泥命(孝昭天皇)の子、天押帶日子命が祖となった地(こちら参照。現地名田川郡赤村内田と推定)ではなく、近江國坂田郡を居処とする一族も居た、と記載している。

「坂田郡」は、現在の京都郡苅田町の東北部と推定したが、その一部を東九州自動車道が通っており、国土地理院航空写真1961~9年を参照しながら、彼等の出自場所を求めてみよう。

聖武天皇の近江國行幸の際に横川頓宮に立ち寄ったと記載されている。「横川」は現在の殿川としたが、地図で確認されるように、激しく蛇行しながら西から東へと流れている。その傍に山稜が細長く延びている様子が見える。粟田臣の粟田=[粟の穗]ような山稜が平らに延びているところと解釈される。川の蛇行によって生じる凹凸を粟粒の集積した形に見做したのであろう。

乙瀬=川の瀬が[乙]の形になっているところ眞瀬=川の瀬が寄り集まって窪んでいるところ斐太人=折れ曲がった狭い谷間の先が大きく広がった地に[人]の山稜が延びているところ池守=水辺で川が曲がりくねる傍で両肘を曲げたような山稜が囲んでいるところと解釈される。「乙瀬」と「斐太人」は、全く当時の地形を留めていないようである。

「粟田朝臣」姓を賜ったと述べられているが、全く上記の天押帶日子命を遠祖とする一族と同氏同姓となってしまう。やや混乱気味であり、通説は、ここで登場の一族も同族としているようである。『八色之姓』制定時に漏れたか?…とも言えるが、異なる氏族だったのではなかろうか。

地形に基づいて名付けるならば、生じる混乱のようである。そもそも「臣」姓を名乗っている以上「朝臣」への改称は止むを得なかったのかもしれない。調べるとずっと後代に「乙瀬朝臣」と名乗る人物が現れ、その始祖が「粟田臣乙瀬」だったとか…些か怪しげな雰囲気である。

<周防國佐波郡:尾張須受岐-豐國>
周防國:佐波郡

周防國については、熊毛郡・玖珂郡が登場している。「熊毛郡」を割って「玖珂郡」を置いたと記述していた。古事記が語る”胸形の奥津嶋”であり、現地名は宗像市曲と推定した場所である。

その二郡の東側も同國であると思われたが、郡割の記述はなされていなかった。その郡名がここで明らかにされたようである。

既出の文字列である佐波=谷間に延びた左手のような形をした山稜が覆い被さるように広がっているところと解釈される。その通りの地形を見出せる。現在は広大な住宅地になっているが、その周辺に残された地形から確認することができる。更に東側も周防國に属する地と思われるが、果たして如何なる名称なのか?…ご登場を期待しよう。

● 尾張須受岐・尾張豊國 「須受岐」は左京人と記されている。前記で先読みして述べた參河國碧海郡出身の「左京人石村村主石楯」(四月記に登場)に類似して、出自が周防國佐波郡で現住所が左京を表していると思われる。勿論、名前は出自の場所に基づくことになる。

既出の文字列である須受岐=州(須)に連なった(受)二つに岐れた山稜(岐)があるところと読み解ける。また、同様に豐國=段差がある高台(豐)が取り囲まれた地(國)にあるところと解釈すると、それぞれの出自を図に示した場所に見出せる。最後に尾張=尾のように延びた山稜の端が大きく張り出しているところから申し分のない地形象形表現であることが解る。

図が一層煩雑になるので割愛したが、賜った尾張益城宿祢益城=谷間に挟まれた盛り上がった地(益)が平らに整えられている(城)ところであり、より詳細に彼等の出自の地形を表現していると思われる。故郷を離れて、京の要人の家人になるなど中央に認められるには、それ相当の手段が必要だったのであろう。また、それが手っ取り早いやり方でもあったのかもしれない。「佐波郡」の無姓の一族に錦を飾った「須受岐」であった。

<藤野別公子麻呂>
<吉備藤野別宿祢牛養>
● 藤野別公子麻呂

やや錯綜した記述…類似の長い名称になっているのも一因であるが…を整理しながら、各々の出自場所を求めてみよう。

前記の事変の功績一覧で登場した藤野別眞人廣虫女は弟の「清麻呂」と共に「吉備藤野和氣眞人」の氏姓を賜っている。「和氣」=「別」であろうが、どうやら拘りがあったのかもしれない。

今回登場の藤野郡の大領を務める人物は、「公(君)」であり、賜ったのは「吉備藤野別宿祢」の氏姓となっている。聖武天皇紀に内位の従五位下を叙爵されて登場した別君廣麻呂の出自について述べたように古事記の伊久米伊理毘古伊佐知命(垂仁天皇)の子、大中津日子命が祖となった吉備之石无別の後裔としての位置付けは、「吉備藤野和氣眞人」であったことを伝えているのであろう。

要するに「石无別」から移住した、あるいは奔流の血筋を受け継ぐ人物が眞人姓、随伴した家臣が宿祢姓を賜ったのかもしれない。備前國は、徐々に開拓された土地であって、他場所からの移住が盛んに発生したのであろう。

後に藤野別宿祢牛養が登場する。「清麻呂」が輔治能眞人の氏姓を賜るのと併記されて「輔治能宿祢」の氏姓を賜っている。牛養=牛の頭部のような山稜に挟まれた谷間がなだらかに延びているところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。

過去に推論したように備前國は現在の下関市永田郷であり、豊浦町は含まれていなかった。元明天皇紀に備前國の各郡及び美作國の新設が記載されていた(こちら参照)。その最北部は「久米郡」であって、「藤原郡」(藤野郡)は後に登場している。北へ北へと”屯田”が進捗したのである。

<別公薗守・磐梨別乎麻呂>
子麻呂は、子=生え出た様であり、図に示した場所が居処であったと思われる。藤野郡に関わる実務を担当したのであろう。次に述べる人物の氏姓も含めて、極めて興味ある記述と思われる。

● 別公薗守

「別公(君)」は、上記でも少し触れたように聖武天皇紀に別君廣麻呂が登場したいた。その時は、「別」だけで出自場所を求めることになったが、今回の記述で間違いないことと確信されたようである。

薗守薗=艸+園=山稜に丸く取り囲まれている様と解釈される。頻出の守=宀+寸=山稜が両肘を張り出して囲んでいる様であり、それらの地形要件を満たす場所を図に示したところに見出せる。

賜った氏姓が吉備石成別宿祢であり、古事記の吉備之石无別に通じる表記であろう。「宿祢」姓であることは、やはり奔流の一族ではないようである。後に吉備石成別宿祢國守なる人物が登場する。おそらく「薗守」の別名と思われる。石成宿祢の氏姓を賜っている。

その奔流とも言うべき人物名は、記紀・續紀には登場しないが、磐梨別乎麻呂であったと知られる。藤野別眞人廣虫女・清麻呂姉弟の父親である。既出の文字である乎=呼気を吐き出すように谷間が広がっている様と解釈した。その地形を「石(磐)」の東側の谷間で確認することができる。完全に移住したのか、それとも、姉弟の場所まで4km強、十分に通える距離・・・姉弟は通婚で誕生したのかもしれない。

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この地域については、地形の凹凸が極めて明瞭であり、かつ現在までに大きな変化がなかったように思われる。地形象形表記として一つの標本になるかと思われる。古事記が記す「石无」、また「磐梨」の表記も知られている。无=大+一=平らな頂の山稜が区切られている様と解釈した。既出の梨=利+木=山稜を切り分けた様と解釈される。共に上図の地形を表すものと思われる。

續紀は「石成」と記載している。「ナシ」の読みに掛けた文字使いであるが、この「石」の形を見ると、成=丁+戊=平たく盛り上げた様であることが解る。續紀編者等も、したたかに漢字を用いていることが再確認されたようである。

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<多朝臣犬養>
● 多朝臣犬養

「多(太)朝臣」の直近の登場者は、聖武天皇紀に「德足」が外従五位下を叙爵されている。書紀の『壬申の乱』の功臣である美濃國安八磨郡湯沐令多臣品治の子、太朝臣安萬侶・遠建治以外については、その系譜は知られていないようである。

あらためて気付かされるのが「多臣」から、その後は「太(朝)臣」へと変わっていたのが、ここで元の「多(朝)臣」になっていることであろう。

地形的には「多」=「山稜の端が三角(州)になっている様」、「太」=「大きく広がっている様」であり、「安萬侶」等の地形は、確かに「多」の端がくっ付いて広がった地形になり「太」が、より適切な表記と思われる。

その僅かな地形の変化を表しているとすれば、この人物は「多」の地形を示す場所が出自と推定される。頻出の文字列である犬養=平らな頂の山稜に挟まれた谷間がなだらかに延びているいるところと解釈され、これらの地形要素を合わせると図に示した場所であると求められる。

「オオ」と読めば、同じ…と同時に詳細な出自の場所を示唆しているのである。配置からすると「品治」に近接する。何らかの繋がりがあって内位の従五位下となったのではなかろうか。この後も幾度か登場されるようである。