2021年2月25日木曜日

天之眞宗豐祖父天皇:文武天皇(22) 〔493〕

天之眞宗豐祖父天皇:文武天皇(22)


慶雲三年(即位十年、西暦706年)正月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、和訳はこちらを、また訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀1(直木考次郎他著)を参照。

三年春正月丙子朔。天皇御大極殿受朝。新羅使金儒吉等在列。朝廷儀衛有異於常。己夘。新羅使貢調。壬午。饗金儒吉等于朝堂。奏諸方樂于庭。叙位賜祿各有差。丁亥。金儒吉等還蕃。賜其王勅書曰。天皇敬問新羅王。使人一吉飡金儒吉。薩飡金今古等至。所獻調物並具之。王有國以還。多歴年歳。所貢無虧。行李相属。款誠既著。嘉尚無已。春首猶寒。比無恙也。國境之内。當並平安。使人今還。指宣往意并寄土物如別。壬辰。定大射祿法。親王二品。諸王臣二位。一箭中外院布廿端。中院廿五端。内院卅端。三品四品三位。一箭中外院布十五端。中院廿端。内院廿五端。四位一箭中外院布十端。中院十五端。内院廿端。五位一箭中外院布六端。中院十二端。内院十六端。其中皮者。一箭同布一端。若外中内院及皮重中者倍之。六位七位。一箭中外院布四端。中院六端。内院八端。八位初位。一箭中外院布三端。中院四端。内院五端。中皮者一箭布半端。若外中内院。及皮重中者如上。但勳位者不着朝服。立其當位次。

正月一日に大極殿にて朝賀したが、新羅の使者も在席したことから儀衛は常とは異なっている。四日に新羅が調貢。七日に朝堂にて使者等と饗宴、位を授けたり禄を与えたりしている。十二日、使者が帰国。その時に以下の勅書を新羅王に送っている。その概略は、長年に渉って朝貢を欠かさず、誠実な気持ちが顕著であること。また時節柄の王の健康を祈っている旨を書き記している。

十七日に大射礼の際の賜禄を定めている。二品の親王及び二位の諸王には、外院(三重円の弓の的の外側の円)に当たれば麻布二十端、中院ならば二十五端、内院ならば三十端とする、以下、位に応じて麻布の端数が繰り下がっている。「皮」は「的皮」(日本の弓術で、的の後ろに張る布や皮)らしい。まぁ、漏れなく何かを頂ける、有難い行事だったようである。

閏正月庚戌。以從五位上猪名眞人大村。爲越後守。」京畿及紀伊。因幡。參河。駿河等國並疫。給醫藥療之。是日。令掃淨諸佛寺并神社。亦索捕盜賊。戊午。奉新羅調於伊勢太神宮及七道諸社。」勅。收貯大藏諸國調者。令諸司毎色検校相知。又收貯民部諸國庸中輕物絁絲綿等類。自今以後。收於大藏。而支度年料。分充民部也。乙丑。勅令祷祈神祇。由天下疫病也。癸酉。泉内親王參于伊勢大神宮。

閏正月五日に猪名眞人大村(石前に併記)を越後守に任じている。京師幾内及び紀伊・因幡(書紀の因播國)・參河・駿河等の國(こちら参照)で疫病が発生し、医薬を給して治療している。この日、諸仏寺並びに神社を掃き浄めている。十三日に新羅の調を伊勢太神宮及び七道の諸社に奉納している。大藏省に収める諸國の調は種類ごとに調べそれを周知するように、また民部省に貯め収める諸國の庸である軽い物の錦糸などは今後大藏省に収め、一年分の使用料を民部省に分けて給するようにせよ、と命じられている。

二十日に天下に広まる疫病のため神祇に祈祷させている。二十八日に泉内親王を伊勢大神宮に参詣させている。

二月庚辰。左京大夫從四位上大神朝臣高市麻呂卒。以壬申年功。詔贈從三位。大花上利金之子也。辛巳。知太政官事二品穗積親王季祿。准右大臣給之。戊子。以從五位下阿倍朝臣首名。爲大宰少貳。」山背國相樂郡女鴨首形名三産六兒。初産二男。次産二女。後産二男。其初産二男。有詔爲大舍人。庚寅。河内。攝津。出雲。安藝。紀伊。讃岐。伊豫七國飢。並賑恤之。」詔曰。准令。三位以上已在食封之例。四位以下寔有位祿之物。又四位有飛蓋之貴。五位無冠蓋之重。不應有蓋无蓋同在位祿之列。故四位宜入食封之限。又案令。諸王諸臣位封。自正一位三百戸差降。止從三位一百戸。冠位已高。食封何薄。宜正一位六百戸。差降止從四位八十戸。」又制七條事。准令。諸長上官遷代。皆以六考爲限。餘色得選。色別加二考。以十二考爲選限。百官得選之限太遠。宜色別減二考。各定選限。〈其一。〉准令。籍蔭入選。雖有出身之條。未明預選之式。自今以後。取蔭出身。非因貢擧及別勅處分。並不在常選之限。〈其二。〉准律令。於律雖有除名之人六載之後聽叙之文。令内未載除名之罪限滿以後應叙之式。宜議作應叙之條。〈其三。〉准令。京及畿内人身輸調。〈於諸國減半。〉宜罷人身之布輸戸別之調。乃異外邦之民。以優内國之口。輸調之式。依一戸之丁制四等之戸。輸調多少議作餘條例。〈其四。〉准令。正丁歳役收庸布二丈六尺。當欲輕歳役之庸。息人民之乏。並宜減半。其大宰所部。皆免收庸。若公作之役。不足傭力者。商量作安穩條例。永爲法式。〈其五。〉准令。一位以下及百姓雑色人等。皆取戸粟以爲義倉。是義倉之物。給養窮民。預爲儲備。今取貧戸之物。還給乏家之人。於理不安。自今以後。取中中以上戸之粟。以爲義倉。必給窮乏不得他用。若官人私犯一斗以上。即日解官。隨贓决罸。〈其六。〉准令。五世之王。雖得王名。不在皇親之限。今五世之王。雖有王名。已絶皇親之籍。遂入諸臣之例。顧念親親之恩。不勝絶籍之痛。自今以後。五世之王在皇親之限。其承嫡者相承爲王。自餘如令。〈其七。〉丙申。授船号佐伯從五位下。〈入唐執節使從三位粟田朝臣眞人之所乘者也。〉丁酉。車駕幸内野。己亥。五世王朝服。依格始着淺紫。庚子。京及畿内盜賊滋起。因差強幹人。悉令逐捕焉。是日。甲斐。信濃。越中。但馬。土左等國一十九社。始入祈年幣帛例。〈其神名具神祇官記。〉

二月六日に左京太夫の大神朝臣高市麻呂が亡くなっている。「(三輪君)利金」の子と知られ、前出の大神朝臣狛麻呂(弟)の出自場所に併記した。七日に知太政官事(太政官の統括、左右大臣の上に位置するが、後には有名無実となった)の穗積親王に季祿(春秋に別途支給された禄、現在のボーナス?)を右大臣に準じて給されている。

十四日に阿倍朝臣首名を大宰府の少貳に任じている。また「山背國相樂郡」の女人、「鴨首形名」が三回のお産で六兒をもうけている。内訳は初産二男、次産二女、後産二男で、初産二男(双子三連荘、やはり珍しいか)は大舍人となったと述べている。

十六日に河内・攝津・出雲・安藝・紀伊・讃岐・伊豫の七國で飢饉があった(各國の配置はこちらこちらを参照)。物を与えたと記載している。また以下の詔が下されている。概略を記すと・・・三位以上は封戸を与えられているが四位以下はそうではなかった。四位には代わりに禄を与えていたが、この度四位まで封戸を与えることにする。正一位の三百戸から従三位の百戸までを正一位の六百戸から従四位の八十戸に変更すると述べている。

また「七ヶ条」を制定している。<一>長上官の転任・交替は六考(勤務評定期間六年)を期限としているが、その他は最長で十二考もあり、極めて長い。二考減じて各々の選を見直すこと。<二>父祖のお蔭で選考を受ける場合、概ね高位となる(蔭位)。今後は式部推薦や特別な勅がない限り、選考の根拠にしてはならない。<三>官人除名処分を受けても六年で復帰できる規則を設けているが、細則がない。叙位規定を作成せよ。

<四>京及び畿内の人ごとの調を止めて、戸ごとにせよ。調義務の男子の数が様々だから太政官で審議して調の規定を作成せよ。<五>賦役令に関して、通常歳役の代わりに庸布を収めるが、その庸布の量を半減せよ。大宰府管内は庸を全廃するが、動員労働力不足に陥ることを考え、柔軟な対応が可能な規定を作成せよ。

<六>困窮した者に支給する蓄え(義倉)を行っているが、貧乏者から徴収して、もう一度貧乏者に与えるのは道理に叶わない。よって粟の徴収する戸の基準を設けること。並びに役人がこの義倉を他に流用したならば免職にせよ。<七>天皇から五世の孫は王と名付けているが、皇親の範囲ではない。今後は皇親の入れるようにせよ。

二十二日に入唐執節使粟田朝臣眞人が乗船した船名を佐伯とし、従五位下を授けている。船を擬人化しているのだが、現在も「〇〇丸」と称するのは、その名残かもしれない。佐伯=迫る谷間の渡航を助くる船を暗示しているのではなかろうか。二十三日、「内野」に行幸されている。「内野」は多分、即位二年(西暦698年)二月に行幸されている大倭國宇智郡にあった野(現地名田川市伊加利)と思われる。

二十五日、五世王の着服を格に準じて初めて浅紫としている。上記の「七ヶ条」の<七>に準じている。二十六日、京及び畿内で盗賊が滋く起こったが悉く捕らえたと記している。この日に甲斐・信濃・越中・但馬・土左等の國にある十九社を祈年(その年の豊作を祈る)幣帛の数に入れ、その神名は神祇官が記している。各國についてはこちらこちらを、「越中」はこちらを参照。

<鴨首形名>
● 鴨首形名

「相樂郡」の女人で済ませず、名前が記載されているので、何かを伝えたかったと推測して出自の場所を求めてみよう。

「山背國相樂郡」は遣唐執節使団の一員が山代國相樂郡令掃守宿祢阿賀流と記載されて登場する。この地は古事記の山代國之相樂の地であろう。現地名は田川郡赤村赤に属している。

この郡の東側にある細く長く延びた山稜の地形を鴨首と表現したのであろう。そして、その山稜の端に形=井+彡=四角く囲まれた様、幾度か登場の文字である。更に頻出の名=山稜の端の三角形の地(三角州)とを組み合わせた名前であることが解る。

出自の場所は図に示した通りと推定される。相樂郡の登場人物は限られていて、なかなかその地の詳細を伺えないが、貴重な登場人物と思われる。三月にも今度は三つ子の記事がある。尚、多産の事例を纏められた東京女子大学学術情報リポジトリで公開された論文がある(こちら参照)。殆どの場合母親の名前が記載されているようである。

三月丙辰。右京人日置須太賣。一産三男。賜衣粮并乳母。丁巳。詔曰。夫礼者。天地經義。人倫鎔範也。道徳仁義。因礼乃弘。教訓正俗。待礼而成。比者。諸司容儀多違礼義。加以男女无別。晝夜相會。又如聞。京城内外多有穢臭。良由所司不存検察。自今以後。兩省五府。並遣官人及衛士。嚴加捉搦。隨事科决。若不合与罪者。録状上聞。」又詔曰。軒冕之羣。受代耕之祿。有秩之類。无妨於民農。故召伯所以憇甘棠。公休由其抜園葵。頃者。王公諸臣多占山澤。不事耕種。競懷貧婪。空妨地利。若有百姓採柴草者。仍奪其器。令大辛苦。加以被賜地。實止有一二畝。由是踰峯跨谷。浪爲境界。自今以後。不得更然。但氏氏祖墓及百姓宅邊。栽樹爲林。并周二三十許歩。不在禁限。

三月十三日、「右京」の人、「日置須太賣」が三つ子を産んだと記載している。衣服と食糧及び乳母を与えている。本事件の発生場所を下記で求めることにする。十四日に以下を詔している。概略を記すと・・・天地の經義(四書五経などの経書の説く道理)である礼が損なわれている。例えば男女の区別なく昼夜会集したり、京の内外に悪臭が漂うところがあったり、担当の役所の怠慢である。厳重に処罰を行うようにし、処罰対象外については事情を記録・報告せよと命じられている。

また、高位高官は自ら耕作することなく俸禄を受けているが、その農耕を妨げてはならない。召伯(周の賢人、召公)の例を挙げている。しかるにこの頃の王、公卿、臣下等が私利私欲に走っている様子を取り上げて、糾弾している。

<日置須太賣>
● 日置須太賣

「右京」の人と記載されている。勿論この京は新益京であり、その右手、即ち西側の地域に住まう人を示していると思われる。この女人の名前を読み解いてみよう。

頻出の「日」=「炎の形」である。「置」=「网+直」と分解され、地形象形的には「網の目の様に真っ直ぐな山稜が並んだ様」と解釈される。

纏めると日置=[炎]のように延び出て網の目に真っ直ぐな山稜が並んでいるところと読み解ける。図に示した小高い山の地形を表していると推定される。

頻出の文字列である須太=州が大きく広がった様であり、「日置」の東隣の地を示している。三つ子を産んだ女人は「日置」の山の麓に住まっていたと結論付けられる。

夏四月壬寅。河内。出雲。備前。安藝。淡路。讃岐。伊豫等國飢疫。遣使賑恤之。

五月丁巳。河内國石河郡人河邊朝臣乙麻呂獻白鳩。賜絁五疋。絲十竣絢。布廿端。鍬廿口。正税三百束。

四月二十九日、河内・出雲・備前・安藝・淡路・讃岐・伊豫等の國で飢饉と疫病が発生している。使者を派遣して物を与えたと記載している。各國についてはこちらこちらを参照。

五月十五日、「河内國石河郡」の「河邊朝臣乙麻呂」が「白鳩」を献上している。錦糸・鍬・正税(正倉に蓄えられた稲穀類)を与えている。<即位三年(西暦699年)三月の記事で河内國錦部郡が「白鳩」を献上していた。その時は一年間の租役を免じたりしているが、今回は少し軽めの褒賞だったようである>。

<河内國石河郡:白鳩・河邊朝臣乙麻呂>
河内國石河郡:白鳩

登場人物が河邊(朝)臣であり、蘇賀石河と錯覚しそうな名称が重なる記述である。迷うことなく、河内國にある石河郡であり、その地の「河邊朝臣」であろう。

「蘇賀石河」は蘇賀の地にある石河=山麓の小高い地の傍らを流れる河と読んで来た。それに類似する地形を示す場所と思われる。

すると図に示した場所、現地名の行橋市入覚辺りがそれらしき地形を有していることが解る。石河は、石=厂+囗=崖下で区切られた様であり、その傍らを(河内川)が流れているところを石河郡と表記したのであろう。東隣に錦部郡及び古市郡が南北に並ぶ配置となる。

白鳩を献上した当事者である河邊朝臣乙麻呂は、図に示した山稜の麓が「乙」形に曲がって延びている場所が出自と推定される。「河邊」は、勿論河内川(石河)の川辺を由来とする名称であろう。ここまで求められると白鳩=丸く小高いところがくっ付いて並んでいる様は図に示した場所に見出すことができる。

確かにこの地はその以前から開拓されていた様子で、貯水池などで治水を向上させた成果だったように推測される。褒賞はそれに見合ったものだったのであろう。

六月癸酉朔。日有蝕之。
丙子。令京畿祈雨于名山大川。丙申。從四位下与射女王卒。

六月初め日蝕があったと記載している。四日、京・畿内の名山・大川で雨乞いをしている。二十四日、「与射女王」が亡くなっている。

<與射女王>
● 與射女王

この女王についても全く出自情報が見当たらない上に「与射」の文字列も「記紀・續紀」に登場しない。前出の波多眞人余射の別名が「與射」であり、それが示す地形は與射=複数の山稜が延びて寄り集まった端が弓なりになっている様と読み解いた。

「与謝(射)」を調べると、どうやら丹波周辺の地域に名付けられた地名と分った。早速丹波(現地名行橋市稲童辺り)を探索するのであるが、山稜が絡む場所は現在の覗山山麓となり、「與射」の地形を図に示した場所に見出すことができる。

息長足日廣額天皇の麓に当たる地となるが、前出の息長王も含めて出自が極めて曖昧な状況のようである。「射」が突き出た先は近淡海に面し、広大な入江となっていたと推測した。従四位下の爵位を有し、續紀が逝去記事を記載するのだからそれなりの出自であっただろう。やはり息長の地に関わる人物の記述には省略が多いようである







2021年2月21日日曜日

天之眞宗豐祖父天皇:文武天皇(21) 〔492〕

天之眞宗豐祖父天皇:文武天皇(21)


慶雲二年(即位九年、西暦705年)十月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、和訳はこちらを参照。

冬十月壬申。詔遣使於五道。〈除山陽西海道。〉賑恤高年老疾鰥寡惸獨。并免當年調之半。丙子。新羅貢調使一吉飡金儒吉等來獻。

十一月己夘。以正四位上小野朝臣毛野爲中務卿。庚辰。從五位下當麻眞人楯爲齋宮頭。」有詔。加親王諸王臣食封各有差。」先是。五位有食封。至是代以位祿也。己丑。徴發諸國騎兵。爲迎新羅使也。以正五位上紀朝臣古麻呂。爲騎兵大將軍。甲辰。以大納言從三位大伴宿祢安麻呂。爲兼大宰帥。從四位下石川朝臣宮麻呂爲大貳。

十月二十六日に五道(山陽・西海道を除く)に使いを出して高年齢の老人、疾病者、鰥夫、寡婦、惸(身寄りのない)独り者に当年の調を半分を免じている。三十日に新羅が調貢している。

十一月三日に小野朝臣毛野を中務卿(天皇の補佐や、詔勅の宣下や叙位など、最重要な省の長官)に任じている。四日、當麻眞人楯(當摩公楯)を齋宮頭にしている。また親王諸王臣に加封し、五位には食封の代わりに位禄を与えることにしている。十三日、新羅使を迎えるために諸國から騎兵を徴発している。「紀朝臣古麻呂」を騎兵大将軍に任じている。二十八日に大納言大伴宿祢安麻呂を太宰府帥を兼務させ、石川朝臣宮麻呂を大貳(次官の最上位)としている。

<紀朝臣古麻呂-國益-麻路-男人-諸人>
● 紀朝臣古麻呂

紀大口の子、大人の三人の息子の一人と伝えられている。『壬申の乱』では近江朝側であったが特段の罪を問われることなく、その子孫は順調に宮仕えを行ったようである。

長男の「麻呂」は前出していて、次男の登場である。四男の「國益」は後の出番となるが、四兄弟の出自の場所を纏めて示す。古=丸く小高い様から、古麻呂は「麻呂」の西隣と推定した。

既出の文字列である國益=谷間に挟まれた大地が一様に平らな様と読み解くと、少し南の台地を表していると思われる。「大人」の山稜に後裔達が広がって行ったのであろう。

「麻呂」の長男、麻路も後に登場する。麻路=擦り潰されたような山稜が足を開いたように岐れている様と読み解く。図に示した場所を示していると思われる。以前に路眞人の一族が登場しているが、類似の地形を表していることが解る。

弟の男人も図に併記した。また「國益」の子(らしい)の諸人が登場する。前者の出自の場所は父親の南隣の「男」の山稜、後者は父親の西側の谷間と推定される。諸=言+者=交差するような耕地がある様と読み解いた。「國益」の子として、間違いないと思われる。

十二月乙夘。都下諸寺權施食封各有差。乙丑。令天下婦女。自非神部齋宮宮人及老嫗。皆髻髪。〈語在前紀。至是重制也。〉丙寅。正四位上葛野王卒。癸酉。无位山前王授從四位下。丹波王。阿刀王並從五位下。正六位上三國眞人人足。藤原朝臣武智麻呂。正六位下多治比眞人夜部。佐味朝臣笠麻呂。藤原朝臣房前。從六位上中臣朝臣石木。狛朝臣秋麻呂。坂本朝臣阿曾麻呂。多治比眞人縣守。阿倍朝臣安麻呂。從六位下波多朝臣廣麻呂。佐伯宿祢男。阿倍朝臣眞君。田口朝臣廣麻呂。巨勢朝臣子祖父。紀朝臣男人。正七位上大伴宿祢大沼田。正六位上坂合部宿祢三田麻呂。從六位下縣犬養宿祢筑紫。正六位上坂上忌寸忍熊。船連秦勝。從六位下美努連淨麻呂並從五位下。是日。新羅使金儒吉等入京。是年。諸國廿飢疫。並加醫藥賑恤之。

十二月九日に京師の諸寺に個別に食封を權施(仮に施す)している。権利を与えたことを意味するのであろう。十九日、神部や齋宮宮人及び老嫗以外は結髪とする命じている。二十日に「葛野王」が亡くなっている。

二十七日に「山前王」に從四位下、「丹波王」・阿刀王(兄の大市王に併記)に從五位下を授けている。三國眞人人足藤原朝臣武智麻呂・「多治比眞人夜部」・佐味朝臣笠麻呂藤原朝臣房前中臣朝臣石木・「狛朝臣秋麻呂」・坂本朝臣阿曾麻呂(鹿田に併記)多治比眞人縣守阿倍朝臣安麻呂波多朝臣廣麻呂(波多眞人余射に併記)佐伯宿祢男・「阿倍朝臣眞君」・田口朝臣廣麻呂巨勢朝臣子祖父紀朝臣男人大伴宿祢大沼田坂合部宿祢三田麻呂・「縣犬養宿祢筑紫」・「坂上忌寸忍熊」・船連秦勝美努連淨麻呂に従五位下を授けている。この日、新羅使者が入京している。

この年、二十の國で飢饉や疫病が発生し、医薬を施し物を与えたと記載している。初登場の人物について出自の場所を下記する。既出の人物については各リンクを参照。

<葛野王・池邉王>
● 葛野王

珍しく出自の系譜がはっきりしている王である。調べると父親は天智天皇の子である「大友皇子」、母親は天武天皇と額田姫王の子である「十市皇女」と伝わっている。

世が世ならば皇位継承者の筆頭に挙げられていたかもしれない王である。後代では大友皇子は弘文天皇の諡号が付けられている。葛野王は第一皇子となるが、勿論書紀の扱いの範疇ではないことになる。

本来ならば歯向かった一族として処罰されるところだが、複雑に絡んだ家系故にその対象にならなかったのであろう。

と言うことで、亡くなった時(享年三十七)に續紀に登場されたようである。出自の場所は、推測になるが、母親十市皇女の近隣とすると図に示した位置関係なる。「十市」は葛野の一部と見做せる場所にあったと推定して来たが、この王の出現で、それが真っ当であることが明らかになったと思われる。

後(聖武天皇紀)に息子の池邉王が従五位下、低くはあるが、叙爵されている。頻出の池=氵+也=川が曲がって流れている様邊=辶+自+丙+方=谷間の端が広がり延びている様であり、「葛野王」の東側、犀川の畔近くの場所が出自と推定される。因みに池邉王の子が淡海三船である。

少し横道に逸れるが、「葛野」の「葛」の文字解釈をあらためて行ってみよう。「葛城」でも用いられる文字であるが、その時は、「葛」の木肌が渇いたように見えることから名付けられたと解説(こちら参照)され、「急斜面の地形」を表すと読み解いて来た。「葛野」に用いられた場合の解釈としては適切とは思えないようである。

「葛」=「艸+曷」と分解される。更に「曷」=「曰+兦(亡)+勹」と分解される。即ち「遮られて止まる様」を表す文字と解釈される。例えば「渇」=「氵+曷」の文字要素から「水が遮られて止まる」→「かわく」へ展開している。「葛」は蔓性の多年草であり、「巻付く様」→「遮って閉じ込める」形態を表していると解釈される。纏めると葛野=山稜に遮られて閉じ込められた野と読み解ける。「葛野」の全体図及び「葛城」の解釈についてはこちら参照。

<山前王(山隈王)・栗前氏-枝女>
● 山前王

この王もそれなりに出自がはっきりしている王であることが分った。天武天皇の「忍壁(刑部)皇子」の子であり、「栗前氏」を娶って娘に「栗前枝女(池原女王)」がいたと知られている。ずっと後になるが、續紀に登場することが分かった。

そんな背景とすると「忍壁皇子」の近隣に「栗前」の地が見出せる。「栗」の地形象形は幾度か登場し、丸い毬栗のような地から山稜が長く延びた様を示している。「栗前氏」の「氏」は、氏族を表すのではなく、氏=匙のような山稜が延びているところと読み解く。

栗前枝女(池原女王)は、枝女=山稜が岐れているところの女と解釈される。池原=野原に水辺が曲がりくねっているところと読み解ける。母親の北側の谷間の地形を表していることが解る。山前王は南側の山稜を、「栗」ではなく、「山」の形と見做した表記と思われる。山隈=山が隈にあるところと読めて、別名であることが解る。

「栗前氏」に関する情報は、書紀の天智天皇紀に登場した栗隈首の一族として、全くの錯乱状態のようである。がしかしこの場所は採銅を生業とするには絶好であり、古くから住まっていた氏族だったと推測される。勿論書紀は当然として續紀と言えどもそれをあからさまにするわけにはいかなかったのであろう。この地には歴史の表舞台に立つことはなかった多くの人々の生き様が偲ばれる地と思われる。

<多治比眞人夜部>
● 多治比眞人夜部

調べると丹比公麻呂の子、「嶋」及び「三宅麻呂」と兄弟であったことが分った(こちら参照)。また「比夜部」とも記載されてようである。

比夜部=複数の川が流れる谷間(夜)が並ぶ(比)脇(部)にある様と読み解ける。全て既出の文字列である。全体の谷間を「夜」で表すとすると「比」は不要だったのかもしれない。

父親の「麻呂」を中心にして配置された兄弟だったように思われる。ところで後の元明天皇紀に出自不詳の多治比眞人吉備が「備中守」に任じられたと記載されている。

「夜部」の地形を眺めると見事な吉備=蓋をされた箙のような様の地形を示していることに気付かされる。「備中」とに重ねた表記であろうが、辞令を受けると同時に別名表記にしたのかもしれない。

<狛朝臣秋麻呂>
● 狛朝臣秋麻呂・阿倍朝臣眞君

調べると阿倍一族と判るが、後に「阿倍朝臣」を名乗ると伝えられている。狭い土地で、一時はそれぞれがおのが家系を誇っていたが、次第に同族意識で纏まる道を選択したのであろう。物部一族とは少し異なる様相のようである。

頻出の狛=犬+白=平らな地がくっ付くように並んだ様であり、二つの山稜の端状態を表していると思われる。秋=禾+火=山稜が[火]の形をしている様、古事記で用いられた文字である。

これらの地形要素を持合せる場所が図に示したところに見出せる。それにしても現在は広大な霊園となっているが、整地されているとは言え、基本的な地形は残されていると推測される。団地開発とは少々違って、真に好ましい状況のように思われるが、基本の地形を残しつつ開発することが、今後も大切なのではなかろうか。

直ぐ後に阿倍朝臣眞君が登場する。”本家”阿倍氏の場所と思われるが、「眞君」の地形象形表記を読み解いてみよう。既出の文字である眞=ヒ+鼎=器のように窪んだ様であり、及び君=尹+囗=揃えられた高台と読むと、図に示した谷間の地形を表していると思われる。大臣まで輩出した家系の地なのだが、この人物の系譜は不詳のようである。少々途絶えた人材を発掘したのであろう。

<縣犬養宿禰筑紫-唐・大國>
● 縣犬養宿祢筑紫

縣犬養一族だから出自の場所は見当がつくのだが、さて…「筑紫」の登場である。調べると縣犬養連大伴の孫、父親が「禰麻呂」と知られ、兄弟に「唐」が居たと伝えられている。

何はともあれ「筑紫」の地形を探すと、それこそ見事に山稜が描く「筑紫」が見出せたようである。書紀・續紀を通じて出現した「筑紫」の地形象形は、ほぼ完璧に的を射止めたように感じられる。

この地の特徴は、川下から遡って子孫が広がっている様相で、おそらく川下地域の開拓が早くに進んでいたのであろう。関連する人々がこの後も次々に登場する。「唐」(聖武天皇の妃となる縣犬養廣刀自の父親)も含めて、その一部はこちらを参照。

後(聖武天皇紀)に縣犬養宿禰大國が外従五位下を叙爵されて登場する。系譜は定かではなく、大國=平らな頂の麓にある囲まれたところと解釈すると、図に示した辺りが出自の場所と推定される。従四位下・造宮卿まで昇進した「筑紫」(神龜元[724]年四月卒)の子だったのかもしれない。

<坂上忌寸忍熊・宗大・大國>
● 坂上忌寸忍熊

東漢一族の「坂上」の地が出自の場所と思われる。現地名の京都郡みやこ町豊津の台地に、正に羽を広げたように蔓延った一族であろう。

前出の佐太忌寸老に引き続いて新しく地図を作成した。東漢一族の系譜は、それなりに知られているようで、後日に纏めてみようかと思う。

今回関連するところでは「忍熊」の父親は「子麻呂」であり、「熊毛」とは兄弟である。忍熊=一見では分からないような隅と読み解ける。「熊毛」の場所が確定的だから求められる場所のようである。いずれにしてもこの台地に隈なく広がって行った一族であろう。

後(元正天皇紀)に「熊毛」の子の宗大が登場する。『壬申の乱』で大将軍吹負の初戦で協力し、倭京陥落の立役者の一人であった「熊毛」の子孫を褒賞している。宗=宀+示=山稜に挟まれた高台と解釈したが、平らな頂()の前にその地形が見出せる。

後(聖武天皇紀)に坂上忌寸大國が外従五位下を授けられて登場する。調べるとの子と知られていることが分かった。大國=平らな頂の麓の地と解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。

● 丹波王

山前王・阿刀王(天武天皇の孫)と並んで登場することから同様の系譜かと思いきや、全く情報がなく、續紀での登場も今回のみのようである。「丹波」の地は、現在の行橋市稲童辺りと推定して来たが、また「丹波」の地形象形でそれ以外の地域は出現しない。

憶測すると天武天皇の子で丹波近隣は、母親が藤原大臣の娘、五百重娘の子、新井田部皇子であろう。ところが彼の子供に「丹波王」の名前は知られていないようであり、これ以上の詮索は不可の様相となる。一応、王の出自の場所を現在の仲津小・中学校辺りと推測しておこう。一品にまで昇り詰められた新井田部皇子に憚っての省略なのであろうか?…ここまでで・・・。








2021年2月17日水曜日

天之眞宗豐祖父天皇:文武天皇(20) 〔491〕

天之眞宗豐祖父天皇:文武天皇(20)


慶雲二年(即位九年、西暦705年)正月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、和訳はこちらを参照。

二年春正月丙申。賜宴文武百寮于朝堂。庚子。无位安八萬王授從四位下。

一月十五日に文官・武官の百寮と朝堂で宴の会を設けている。十九日、無位の「安八萬王」に従四位下を授けている。例の如くに出自不詳の王とされるが、一説に高市皇子の子とされる。前出の長屋王の兄弟となるが、他に知られている兄弟も含めて出自の場所を当たってみよう。

<安八萬王・鈴鹿王・門部王・山形女王>
● 安八萬王

高市皇子の子には長屋王、鈴鹿王、門部王、及び幾人かの女子が居たと知られている。その中には当該の王は見当たらず、全く不明な出自なのであるが、叙爵された後はかなり早期に昇進している。これが長屋王の兄弟と推測される所以であろう。

先ずは鈴鹿王、門部王の出自の場所を求めてみよう。鈴鹿の文字列は既出であり、鈴の地形の麓(山稜の端)と読み解いた(こちら参照)。その地形が高市皇子の東南の山稜に見出せる。

門部はその文字が示す通り、小高い山稜が門のように並んでいる近傍のところを表していると思われる。高市皇子の西側、長屋王の北に隣接する場所と推定される。知られている三名の王の出自の場所は問題なく求められることが解る。

さて、件の安八萬安八は、天武天皇紀に登場した美濃國安八磨郡に含まれる文字列であって山稜に挟まれた嫋やかに曲がる谷間が広がっている様と読み解いた。小ぶりだが、全く類似の地形要素を示す場所が高市皇子の南側に見出せる。さらにその谷間は萬=蠍の地形を示していることが解る。

面白いことに「美濃國安八磨郡」には「太安萬侶」の出自の場所()と推定したところがある。編者達が様々に繋げた表記なのであろう。王の出自をあからさまにしないのが記述方針なのであろうが、それを解き明かすのも本著の目的の一つになったようである。ともかくも穴八萬王は、確実に高市皇子の子と思われる。

後(聖武天皇紀)になるが、山形女王が登場する。幾度か登場の「形」=「井+彡」=「四角く囲まれた地で山稜が交差するように延びている様」と解釈した。すると山形=山の下で四角く囲まれた地で山稜が交差するように延びているところと読み解ける。図に示した鈴鹿王の東側に当たる谷間の出口辺りが出自の場所と推定される。

三月癸未。車駕幸倉橋離宮。丙戌。正四位下豊國女王卒。

三月四日に「倉橋離宮」に行幸されている。七日に「豐國女王」が亡くなっている。「倉橋離宮」の「倉橋」は「倉梯」であろう。天武天皇紀に齋宮於倉梯河上と記載された齋宮があった場所と推測される。梯=木+弟=山稜がギザギザしている様であり、橋=木+夭+高=山稜が曲がって小高くなっている様と読み解いて来た。山稜の縁の形か全体的な様子を捉えるかの違いであって、この地形には共に該当する表現であると思われる。

豐國女王については全く出自情報が見当たらないようである。例の如しで片付けるのも吝かではないが、少し憶測してみよう。そもそも「豐國」が曖昧な表記であり、また「記紀」も併せて、その出現回数も限られているが、古事記の豐國宇沙豐波豆羅和氣に関わる地が挙げられる。既に述べたが、この地を書紀は近江大津と記載しているのである。

そんな繋がりを考慮すると、この女王は大津宮の跡に住まった女王であり、おそらく天智天皇の子孫であったと推測される。書紀の捻くれた記述を續紀が還元していると思われる。「近江大津」の地形象形表記は間違いではない。実に巧みに言い換えた表現を積み重ねていることが伺える。

夏四月壬子。詔曰。朕以菲薄之躬。託于王公之上。不能徳感上天仁及黎庶。遂令陰陽錯謬。水旱失時。年穀不登。民多菜色。毎念於此惻怛於心。宜令五大寺讀金光明經。爲救民苦。天下諸國。勿收今年擧税之利。并減庸半。甲寅。遣使巡省天下諸國。庚申。賜三品刑部親王越前國野一百町。丙寅。勅。依官員令。大納言四人。職掌既比大臣。官位亦超諸卿。朕顧念之。任重事密。充員難滿。宜廢省二員爲定兩人。更置中納言三人。以補大納言不足。其職掌。敷奏宣旨。待問參議。其官位料祿准令。商量施行。太政官議奏。其職近大納言。事關機密。官位料祿。不可便輕。請其位擬正四位上。別封二百戸。資人卅人。奏可之。」先是。諸國采女肩巾田。依令停之。至是復舊焉。辛未。天皇御大極殿。以正四位下粟田朝臣眞人。高向朝臣麻呂。從四位上阿倍朝臣宿奈麻呂三人。爲中納言。從四位上中臣朝臣意美麻呂爲左大弁。從四位下息長眞人老爲右大辨。從四位上下毛野朝臣古麻呂爲兵部卿。從四位下巨勢朝臣麻呂爲民部卿。」給大宰府飛驛鈴八口。傳符十枚。長門國鈴二口。

四月三日に天皇が以下のようなことを述べられたと記載している・・・朕は菲薄(才がない)の身だが、王公の上に寄り掛かっている。天を感動させるほどの徳もなく庶民に行き渡らせるほどの仁政もできない。そのためか陰陽を錯謬(間違える)して水(降雨)・旱(日照)が時を得ず、穀物の作柄が劣り、民の多くは菜色(顔色が悪い)。これを思うと心が痛む。五大寺で金光明経を読経し、民苦を救おうと命じられた。諸國の今年の税の利息を無くし、併せて庸の半分を減じる。

五日に諸國を巡省させている。十一日、刑部親王に越前國野一百町を与えている。十七日に官員令について述べられている。その要旨は、大納言四人となっているが、二名として中納言三人を加える。廃止されていた中納言は正四位上相当として封戸二百、従者三十人を付けることとしたようである。船頭減らして若返らせ、より機能的な組織とするのが狙いだったようである。

また、従来采女肩巾田(うねめのひれだ。采女の経費を充当するために出身地に置かれた田、本当に肩巾しかなかったのか?)が廃止されていたが、復活している。律令の全般的な運用上の改定は、Wikipedia慶雲の改革』参照。

二十二日に粟田朝臣眞人高向朝臣麻呂阿倍朝臣宿奈麻呂(引田朝臣少麻呂、前記で阿倍朝臣性に)の三人を中納言に任命している。中臣朝臣意美麻呂を左大辨、息長眞人老を右大辨、下毛野朝臣古麻呂を兵部卿、巨勢朝臣麻呂を民部卿に任命している。また大宰府に飛驛の鈴を八個と傳符(伝使に対して使用資格を証明するために与えられた符)十枚、長門國に鈴を二個与えている。

五月丙戌。三品忍壁親王薨。遣使監護喪事。天武天皇之第九皇子也。丁亥。以正五位下大伴宿祢手拍。爲尾張守。癸夘。幡文造通等自新羅至。

六月乙亥。奉幣帛于諸社。以祈雨焉。丙子。太政官奏。比日亢旱。田園焦卷。雖久雩祈。未蒙嘉澎。請遣京畿内淨行僧等祈雨。及罷出市廛。閇塞南門。奏可之。

五月七日に天武天皇の第九皇子である忍壁親王(刑部親王)が亡くなっている。葬儀の指揮を執らせている。八日に大伴宿祢手拍を尾張守に任じている。二十四日に幡文造通等が新羅より帰国したと記載している。

六月二十六日に幣帛を諸社に奉納して、雨乞いを行っている。二十七日、太政官が申すには、比日(此の頃)は亢旱(ひどい日照り)で、田園で焦卷(草木が枯れる)している。久しく雩(雨乞い)しても未だに水がみなぎる気配が見られない。是非京・畿内の行いの清らかな僧等で雨乞いをし、また南門を閉じて市を取り止めとしたい、と奏上し、これが認められている。

秋七月丙申。大納言正三位紀朝臣麻呂薨。近江朝御史大夫贈正三位大人之子也。丙午。大倭國大風。損壞百姓廬舍。

七月十九日に大納言紀朝臣麻呂が亡くなっている。近江朝の御史大夫大人の子であった。二十九日、大倭國で大風が吹いて、百姓の家が損壊している。

八月戊午。詔曰。陰陽失度。炎旱弥旬。百姓飢荒。或陷罪網。宜大赦天下。与民更新。死罪已下。罪無輕重。咸赦除之。老病鰥寡鰥獨。不能自存者。量加賑恤。其八虐常赦所不免。不在赦限。又免諸國調之半。」又授遣唐使粟田朝臣眞人從三位。其使下人等。進位賜物各有差。」以從三位大伴宿祢安麻呂爲大納言。從四位下美努王爲攝津大夫。

八月十一日に以下の様に命じられている。陰陽の調和が崩れて弥旬(十日以上)炎天の日照りが続いて、百姓が飢饉に苦しみ、罪に陥る者も出ているが、死罪以外は大赦し人心を更新させたい。罪の軽重に関わらず赦そうと思う。また老人・病気に罹ってる者や鰥獨(男やもめ)など自活できない者に物を与えよう。諸國の調を半減する。

この日、遣唐使粟田朝臣眞人に従三位を授け、その配下の者もそれぞれ進位させて物を与えている。大伴宿祢安麻呂を大納言とし、美努王を攝津大夫に任じている。

九月壬午。詔二品穗積親王知太政官事。丙戌。置八咫烏社于大倭國宇太郡祭之。丁酉。以從五位上當麻眞人櫻井爲伊勢守。癸夘。越前國獻赤烏。國司并出瑞郡司等進位一階。百姓給復一年。獲瑞人宍人臣國持授從八位下。並賜絁綿布鍬各有差。

九月五日、穗積親王に太政官を統括させている。九日に「大倭國宇太郡」に「八咫烏社」を設置し祭祀させている。二十日に當麻眞人櫻井を伊勢守に任じている。二十六日に「越前國」が「赤烏」を献上している。その國の郡司等を一階進位し、百姓の賦役を一年免じている。また「瑞」を獲得した「宍人臣國持」に従八位下を授け、それぞれに綿布などを与えている。

大倭國宇太郡:八咫烏社>
大倭國宇太郡:八咫烏社

「宇太郡」は広範囲な大倭國の何処に求められるのであろうか?…と杞憂するまでもなく、「八咫烏」と言う極めて特徴ある表記に拠って辿り着けるようである。

疑うことなく、この「烏」は古事記の神倭伊波禮毘古命(神武天皇)が山中で迷った時に道案内をした、正に神様的存在として記述されていた。

あらためて当時の行程を眺めると、五瀬命を”紀國”(書紀では紀伊國)の”竈山”の麓に葬り、再戦すべく”熊野村”から山中に侵入したものの危うく命を落とすところを助けられ、”吉野河之河尻”に抜けることができた場面であった。

その山中からの出口を現在の京都郡苅田町山口の八田山辺りと推定した。するとその出口の地形は、倭國高安城があったと推定した高城山山系(苅田アルプス)の西麓であり、宇太=谷間で山稜が大きく広がって延びるの麓であることが解る。

蘇我高麗鹿深山などの由来となった地に接するところである。そして全てが繋がった表記となっていることが分る。八咫烏社の場所を一に特定することは叶わないが、現在の八田山稲荷神社辺りではなかろうか。「八田」は残存地名として認定するものである・・・かつても述べたような記憶があるが・・・。

現在も奈良県宇陀市にある八咫烏神社に言い伝えられている由緒が上記の續紀の記述とされているようである。「八咫烏」の古事記での登場のタイムスケジュールは”吉野河之河尻”の前であり、”宇陀”まで随行した形跡があるが、やはり熊野村からの山中での出来事が神様として祭祀するに相応しいものであったろう。この古事を何故ここで引っ張り出して来たのか?…『壬申の乱』における勝利を直接的に導いた村國男依等の近江直入のルートだったからである。

幾度か述べたように神倭伊波禮毘古命(神武天皇)が通過する”吉野河之河尻”の記述は、その行程の舞台が現在の紀伊半島ではないことを決定的にしているのである。奈良大和をいくらひっくり返しても確固たる事実は見出せないのであろう。

<越前國:赤烏>
越前國:赤烏

幾度も登場の「赤烏」、勿論赤い烏ではないであろう。赤烏=交差するような山稜がある谷間に烏のような地形がある様と読み解いた。それを越前國で探すと、難なく見出せる。

現地名北九州市門司区柄杓田の山稜の端に鎮座している。海が迫る岬にある狭い谷間を開拓したと推察される。前出の越前國角鹿郡の白蛾の西南に当たる場所である。

開拓者の名前を宍人臣國持と記載している。「宍人臣」は既出であって、「膳臣」の一派のように言われている。天武天皇が娶った宍人臣大麻呂の娘、木穀(木偏に穀)媛娘で登場していた。勿論彼らは春日の地(現地名田川郡赤村内田)に住まっていて越前國ではない。更に開拓者は常に「赤烏」の近隣であることを書紀・續紀を通じて記載している。

するとすぐ北隣に宍人=山稜に囲まれた谷間に小高く延びる山稜がある様の地形を見出すことができる。取り囲む山稜が手を延ばして物を持つような形(國持)をしていることが解る。開拓者としては申し分のない位置関係であろう。

「宍人臣」は天武天皇紀に「朝臣」姓を賜っている。「膳臣」近隣の「宍人臣」とは異なる氏族であることを示している。そもそもの出自は不詳ながら、早くから開けた越前(高志前)の地に住まっていた豪族と位置付けられるであろう。土地の献上は、低位ながら爵位を授けられ、天皇家の一員となった行った様子を物語っているように伺える。

















2021年2月13日土曜日

天之眞宗豐祖父天皇:文武天皇(19) 〔490〕

天之眞宗豐祖父天皇:文武天皇(19)


慶雲元年(即位八年、西暦704年)二月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、和訳はこちらを参照。

二月丙辰朔。日有蝕之。癸亥。神祇官大宮主入長上例。乙亥。從五位上村主百濟。改賜阿刀連姓。
三月甲寅。信濃國疫。給藥療之。
夏四月甲子。令鍜冶司鑄諸國印。庚午。以信濃國獻弓一千四百張充大宰府。甲戌。讃岐國飢。賑恤之。壬午。備中。備後。安藝。阿波四國苗損。並加賑恤。

二月一日は日蝕であったと述べている。八日に神祇官の大宮主を長上官の扱いとしている。二十日に上村主百濟(光父に併記)は「阿刀連」姓を賜っている(前記で記述、こちら参照)。
三月二十九日、信濃國で疫病が発生し、薬を与えて治療したと記している。

四月九日に鍛冶師に諸國の國印を鋳造させている。十五日に信濃國が弓一千張を献上し、大宰府に充てている。十九日、讃岐國で飢饉があり、物を与えている。二十七日、備中備後安藝阿波の四國で苗に損害があり、物を与えている。

五月甲午。備前國獻神馬。西樓上慶雲見。詔。大赦天下。改元爲慶雲元年。高年老疾並加賑恤。又免壬寅年以往大税。及出神馬郡當年調。又親王諸王百官使部已上。賜祿有差。獻神馬國司。守正五位下猪名眞人石前進位一階。初見慶雲人式部少丞從七位上小野朝臣馬養三階。並賜絁十疋。絲廿絢。布卅端。鍬卌口。庚子。武藏國飢。賑恤之。

五月十日に備前國が「神馬」を献上している。一昨年の飛騨國の神馬と類似する記述であろう。同様に天下に大赦するのだが、宮の西楼に”慶雲”が見られたことから改元したと述べている。高年齢の老人や病気のある者に物を与えたり、壬寅(大寶二)年以前の税、及び神馬を出した郡のその年の調を免じている。

親王、諸王、百官の使部以上にそれぞれ禄を与えている。また神馬を献上した國司守の猪名眞人石前の冠位を一階進めて正五位上へ、慶雲を見つけた小野朝臣馬養は三階進めて従五位下へとしている。またそれぞれに絹・麻・布・鍬などを与えている。十六日、武藏國が飢饉となり物を与えている。

<備前國:神馬>
備前國:神馬

備前國の最北の地に「馬」(古文字)の形(逆立ち)が見出せる(こちら参照)。おそらく「馬」の周辺の地を開拓したのであろう。

飛騨國に負けず劣らぬ辺境の地を切り開いたことへの称賛を込めて多くの褒賞を与えたと思われる。多分道も整備され峠を行き交う物資の流通も盛んになったのではなかろうか。

「馬」の現地名は下関市永田郷ではなく、同市豊浦町厚母郷となっている。当然ながら、まだまだその境界は曖昧だったのであろう。

Wikipediaによると”慶雲”とは「夕空に現れ瑞兆とされる雲で、蚊柱のこととも」と記載されている。蚊柱は揺蚊(ユスリカ)が集団で作る現象とのこと。小野さん家の馬養君(「馬」の傍のなだらかな谷間)は”大穴”を当てた・・・何と見事な「馬」繋がりであった。

六月丁巳。勅。諸國兵士。團別分爲十番。毎番十日。教習武藝。必使齊整。令條以外。不得雜使。其有關須守者。隨便斟酌。令足守備。己未。令諸國勳七等以下身無官位者。聽直軍團續勞。上經三年。折當兩考。滿之年送式部。選同散位之例。其身材強幹須堪時務者。國司商量充使之。年限考第。一准所任之例。乙丑。河内國古市郡人高屋連藥女一産三男。賜絁二疋。綿二屯。布四端。己巳。阿波國獻木連理。丙子。奉幣祈雨于諸社。

六月三日に以下のように命じている。諸國の兵士について十組に分け、組毎に十日間武芸を教習し、必ず一斉に整うようにすること。令条に定められた以外の雑用に用いてはならないこと。但し、関所があるところでは斟酌して守備に当たらせても良い、と記載している。

五日、諸國の勲位七等以下で冠位のない者は、軍団に続けて出仕することを許すが、三年経てば二年分の評定を受けたと見做し、式部省に送り散位と同様にして選考すること。また身体強健で任務に堪えられる者を國司は適宜用い、年限、考課は任務に応じて判断せよ、と命じている。

十一日に「河内國古市郡」の「高屋連藥」の娘が三つ子を生んだので綿布などを与えている。十五日に阿波國が「木連理」を献上している。二十二日、諸社で幣帛を奉って雨乞いをしている。

<河内國古市郡・高屋連藥・馬史伊麻呂>
河内國古市郡

「古市」の名称は天武天皇紀に登場した古市黑麻呂に含まれていた。古事記で記載された河內之古市高屋村が出自の場所と推定された。時が経って郡と表記されるようになったのであろう。

登場回数も少なく、その範囲を求めることは難しいようであるが、吉野河(現小波瀬川)沿いの東西に延びた領域だったのではなかろうか。古事記では”毛受”と表記された丘陵地帯を含む地域と推定される。

そこに住まっていた高屋連藥の娘の登場である。續紀は、古事記表記に限りなく近付いているようである。正に書紀の捻くれた作業から開放された気分だったのであろうか、お陰で古事記解釈の検証を行うことができる、とほくそ笑んでいるわけである。

高屋=皺が寄ったような山稜から延び至った様であり、藥=艸+絲+白+木=山稜に挟まれた丸く小高い様と読み解いて来た。その地形が麓のほぼ中央にあることが解る。実に明解な表記と思われる。多産を奨励するのは時代が豊かであった証左であろう。上記の「神馬」のように国土開発が着々と進んでいる状況を物語っていると思われる。

後(續紀の元正天皇紀)に馬史伊麻呂が登場する。百濟からの渡来人の後裔と知られ、古市郡に居住していたようである。すると「高」の地を「馬」と見做した表記とであろう。馬史=[馬]の地が真ん中を突き通す様と読み解け、「屋」に通じていると思われる。伊=人+|+又=谷間で区切られた山稜であり、出自の場所は図に示した谷間辺りと推定される。近淡海・河内が随分と開発されて来たことを伝えているようである。

<阿波國:木連理>
阿波國:木連理

世界大百科事典によると・・・根や幹は別々だが,枝がひとつに合わさっている木。木連理ともいう。《白虎通》封禅篇には,王者の徳のめぐみが草木にまでおよぶとき,朱草や連理の木が生ずるといっている・・・と解説されている。

そんな珍しい、天皇の德を表す木を献上したのだから特筆に値する?…と解釈することも自由であろう。

續紀編者の博識を示しながら、やはり地形象形した表記と思われる。そのまま読み解くと木連理=山稜が連なった傍で切り分けられた様となる。図に示した阿波國東部の地形を表していると思われる。

現地名は北九州市若松区宮丸の谷間であり、急傾斜の地を切り開いたのではなかろうか。「神馬」のような大騒ぎをしなかったのは、少々規模が小さかったのかもしれない。古事記の品陀和氣命(応神天皇)の子、大原郎女・阿倍郎女の出自の間の谷間と推測される。阿波國の開拓例として、実に貴重な記述と思われる。

秋七月甲申朔。正四位下粟田朝臣眞人自唐國至。初至唐時。有人來問曰。何處使人。荅曰。日本國使。我使反問曰。此是何州界。荅曰。是大周楚州塩城縣界也。更問。先是大唐。今稱大周。國号縁何改稱。荅曰。永淳二年。天皇太帝崩。皇太后登位。稱号聖神皇帝。國号大周。問荅畧了。唐人謂我使曰。亟聞。海東有大倭國。謂之君子國。人民豊樂。禮義敦行。今看使人。儀容大淨。豈不信乎。語畢而去。丙戌。左京職獻白燕。下総國獻白烏。壬辰。以時雨不降。遣使祈雨於諸社。庚子。公廨祿給式部省大學散位等寮。壬寅。詔京師高年八十已上者。咸加賑恤。甲辰。奉幣帛于住吉社。乙巳。贈從五位上坂合部宿祢唐正五位下。右大臣從二位阿倍朝臣御主人功封百戸四分之一。傳子從五位上廣庭。贈從五位上高田首新家功封卌戸四分之一。傳子无位首名。

七月一日に粟田朝臣眞人が唐から帰国して、ちょっとした逸話が記載されている。概略を述べれば、唐に着いた場所が大周楚州塩城縣であり、国の名称が”大周”に変わったことが判った。唐人が大倭國は君子國だと言ったと記している。西暦690年に皇太后武則天が即位して武周王朝となったと知られる。その後705年まで続いてまた唐に復帰することになる。ちょうどその期間に入唐したと記載している。

三日、左京職が「白燕」を、下総國が「白烏」を献上している。左京職は前年の六月の記事に大神朝臣高市麻呂が任じられていた。「白燕」は細く長く延びた山稜の麓辺りと思われるが、判別し辛い(こちら参照)。また下総國の「白烏」も地形の変化が大きく求め辛くなっているようである(こちら参照)。後に登場するかもしれないが、決して広い場所を開拓したのではなかったのであろう。

九日に雨が降らず、雨乞いをしている。十七日、役所の諸費用を式部省の大学寮・散位寮に支給している。十九日に京の高齢者に物を与えている。二十一日に住吉社(住吉大神)に幣帛を奉納している。二十二日、坂合部宿祢唐に一階級進めて正五位下を贈っている。亡くなられたのであろう。右大臣阿倍朝臣御主人の功封百戸の四分の一を子の廣庭に、また高田首新家の功封四十戸の四分の一を無位の子である「首名」(新家に併記)に伝授している。

八月丙辰。遣新羅使從五位上波多朝臣廣足等至自新羅。戊午。伊勢伊賀二國蝗。辛巳。周防國大風。拔樹傷秋稼。

八月三日に新羅への使者、波多朝臣廣足等が帰国している。五日に伊勢・伊賀の二國で「蝗」の被害が発生している。前々年にも「因幡伯耆隱伎」の三國で被害があったと記載されていたが、こちらの地図を参照すると西から次第に広がる状態を示しているようにも伺える。二十八日に周防國で大風が吹いて樹が引き抜かれた有様となり、秋の収穫に被害があったと伝えている。

冬十月丁巳。有詔。以水旱失時。年穀不稔。免課役并當年田租。辛酉。粟田朝臣眞人等拜朝。」正六位上幡文通爲遣新羅大使。戊辰。幡文通賜造姓。

十月五日、季節外れの水害・旱魃があって、穀物が実らなかった故に今年の課役・田租を免じたと記載している。九日に粟田朝臣眞人等が帰朝報告している。また「幡文通」を新羅大使として遣わされ、十六日に「造」姓を賜っている。

<幡文通・百濟人成>
● 幡文通

親王ほどではないが、殆ど出自の情報が欠落している人物のようである。大崗忌寸と同祖と言われるが、この一族も同様の状況であり、漢系渡来氏族及びその関連する名称とから求めるしか残されていないと思われる。

と言うことで、「倭漢」の近隣、既出の文忌寸の地を探すと、今まで登場回数の極めて少ない百濟河の西岸にどうやら見出せそうな感じである。

幡文=広ろがった地(幡)が交差するような地(文)の傍らにある様と読み解くと、現在の香春隱神社ある台地を表していると思われる。

その台地の西北部に通=筒のような谷間が延びていることが解る。この谷間の奥がこの人物の出自の場所と推定される。後に「造」姓を授けられているが、その地形も見受けられる。後に幾度か「幡文造通」として登場されるようである。

後(元正天皇紀)に百濟人成律令の撰定の功で田四町を賜っている。出自は不詳のようであるが、「百濟」の地で人成=谷間にある平らに盛り上がったところと解釈すると、図に示した場所が出自ではなかろうか。

十一月癸巳。設太上天皇百七齋于諸寺。庚寅。遣從五位上忌部宿祢子首。供幣帛。鳳凰鏡。窠子錦于伊勢大神宮。丙申。改從四位下引田朝臣宿奈麻呂姓。賜阿倍朝臣。」賜正四位下粟田朝臣眞人。大倭國田廿町穀一千斛。以奉使絶域也。壬寅。始定藤原宮地。宅入宮中百姓一千五百烟賜布有差。

十二月辛酉。供幣帛于諸社。辛未。大宰府言。去秋大風。拔樹傷年穀。是年夏。伊賀伊豆二國疫。並給醫藥療之。

十一月八日に忌部宿禰子首(人)を遣わして、幣帛・鳳凰鏡・窠子(鳥の巣模様)錦を伊勢神宮に供えている。十一日に太上天皇の百七齋を諸寺で行っている。十四日、引田朝臣宿奈麻呂は阿倍朝臣姓を賜っている。また遣唐執節使を務めた粟田朝臣眞人に大倭國の田二十町・籾殻一千石を与えている。二十日に初めて藤原宮の地所を定めている。宮中の百姓千五百にそれぞれ布を与えている。

十二月十日に幣帛を諸社に供えている。二十日に大宰府で秋の大風が樹を引き抜くほどに吹いて、稲に損害が出たと伝えている。この年の夏には伊賀・伊豆の二國で疫病が発生し、医薬を給している。畿内での流行も時間の問題か?・・・。












2021年2月9日火曜日

天之眞宗豐祖父天皇:文武天皇(18) 〔489〕

天之眞宗豐祖父天皇:文武天皇(18)


大寶三年(即位七年、西暦703年)十月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、和訳はこちらを参照。

冬十月丁夘。任太上天皇御葬司。以二品穗積親王爲御裝長官。從四位下廣瀬王。正五位下石川朝臣宮麻呂。從五位下猪名眞人大村爲副。政人四人。史二人。四品志紀親王爲造御竃長官。從四位上息長王。正五位上高橋朝臣笠間。正五位下土師宿祢馬手爲副。政人四人。史四人。甲戌。僧隆觀還俗。本姓金。名財。沙門幸甚子也。頗渉藝術。兼知算暦。癸未。天皇御大安殿。詔賜遣新羅使波多朝臣廣足。額田人足。各衾一領。衣一襲。又賜新羅王錦二匹。絁卌匹。

十月九日に太上天皇の葬儀の司を任命している。葬儀の装束を取り仕切る長官に穗積親王を、副官に廣瀬王・「石川朝臣宮麻呂」・猪名眞人大村(猪名眞人石前に併記)を、加えて政人(判官、三等官)四人、史(主典、四等官)二人を任じている。御竈を造る長官に志紀親王を、副官に「息長王」・高橋朝臣笠間土師宿祢馬手を、加えて政人四人、史四人を任じている。

十六日、僧隆觀を還俗させて「金財」の姓名としている。沙門幸甚の子であって学芸・技術に優れ、算術・暦学を兼備していたと記している。大寶二年(即位六年、西暦702年)四月の記事に飛騨國が神馬を献上した、その中心人物として登場していた。二十五日に新羅への使者波多朝臣廣足額田人足(額田部連林に併記)及び新羅王に物を与えている。

<石川朝臣宮麻呂・難波麻呂>
● 石川朝臣宮麻呂

蘇我連子大臣の五男であり、兄弟の安麻侶・蟲名が既に登場している。現地名の京都郡苅田町谷が出自の場所となるが、果たして「宮」の地形を見出せるか?…であろう。

頻出の宮=宀+呂=山稜に挟まれて積み重なった様であり、案じることなく図に示した場所と推定される。

別名が宮守と知られる。これも頻出の守=山稜に挟まれた地で川が蛇行している様を表すと解釈した。川名は不詳だが地図上に確認することができる。この時点では正五位下であるが、最終的には従三位まで昇進されたようである。

後の元明天皇紀に石川朝臣難波麻呂が登場する。同じく「連子」の子であったと知られている。難波=川が大きく曲がる様と読み解いて来た。現在の舟入川が直角に曲がる場所が出自と推定される。現在は広い水田になっているが未だ開拓が進んでいなく、河畔に佇まっていたのではなかろうか。

<息長足日廣額天皇>
● 息長王

さて、この王族の出自に関しては、相変わらず系譜など不詳のようである。舒明天皇の和風諡号、「息長足日廣額天皇」に関わると推測される(左図参照)。

「息長」だけの表記故に詳細な場所を求めることは叶わないが、おそらく舒明天皇が養育された宮を示しているように思われる。

史上極めて重要な氏族の息長であるが、相変わらず諸説乱立の状態であって、一向に収束する兆しが見えない有様である。

こんなええ加減さを残したまま延々と論文が積み重ねられて行く、その積み重ねが崩れ去ることを恐れる心境で…そんな繊細さとは無縁かもしれないが…千数百年が過ぎ去ってしまったのであろう。情けないこと、この上なし、である。

十一月癸夘。太政官處分。巡察使所記諸國郡司等有治能者。式部宜依令稱擧。有過失者。刑部依律推斷。

十二月甲子。始皇親五世王。五位巳上子。年滿廿一已上者。録其歴名。申送式部省。己巳。以正五位下路眞人大人爲衛士督。癸酉。從四位上當麻眞人智徳。率諸王諸臣。奉誄太上天皇。謚曰大倭根子天之廣野日女尊。是日。火葬於飛鳥岡。壬午。合葬於大内山陵。

十一月十六日に太政官が以下のことを取り決めている。巡察使が記録した諸國司等で統治能力がある者は式部が律令に従って推挙し、過失のある者は刑部が同じく律令に準じて調べて裁断するように申し付けている。

十二月八日、天皇から五世代の以上の王で五位以上の子が年齢は満二十一歳の者の名前を式部省へ申し送るようにせよ、と述べている。十三日に路眞人大人(父親の路眞人迹美に併記)を衛士督(宮城護衛の監督者)に任じている。

十七日、當麻眞人智徳が諸王諸臣を率いて、誄を奏上し、「大倭根子天之廣野日女尊」の諡号を奉っている。「高天原廣野姬天皇」の和風諡号に基づくのであろう(「大倭根子」の解釈も含めて、こちら参照)。この日に飛鳥岡(岡本宮の近隣?)で火葬され、二十六日に大內山陵に合葬(天武天皇)されたと記載している。

慶雲元年春正月丁亥朔。天皇御大極殿受朝。五位已上始座始設榻焉。癸巳。詔以大納言從二位石上朝臣麻呂爲右大臣。无位長屋王授正四位上。无位大市王。手嶋王。氣多王。夜須王。倭王。宇大王。成會王並授從四位下。從六位上高橋朝臣若麻呂。從六位下若犬養宿祢檳榔。正六位上穗積朝臣山守。巨勢朝臣久須比。大神朝臣狛麻呂。佐伯宿祢垂麻呂。從六位下阿曇宿祢虫名。從六位上采女朝臣枚夫。正六位下太朝臣安麻呂。從六位上阿倍朝臣首名。從六位下田口朝臣益人。正六位下笠朝臣麻呂。從六位上石上朝臣豊庭。從六位下大伴宿祢道足。曾祢連足人。正六位上文忌寸尺加。從六位下秦忌寸百足。正六位上佐太忌寸老。漆部造道麻呂。上村主大石。米多君北助。王敬受。從六位上多治比眞人三宅麻呂。正六位上臺忌寸八嶋並授從五位下。丁酉。二品長親王。舍人親王。穗積親王。三品刑部親王益封各二百戸。三品新田部親王。四品志紀親王各一百戸。右大臣從二位石上朝臣麻呂二千一百七十戸。大納言從二位藤原朝臣不比等八百戸。自餘三位已下五位已上十四人各有差。壬寅。詔。御名部内親王。石川夫人益封各一百戸。戊申。伊勢國多氣度會二郡少領已上者。聽連任三等已上親。辛亥。始停百官跪伏之礼。

慶雲元年(即位八年、西暦704年)正月元旦を迎えている。太極殿で朝賀を受けられ、五位以上の者の座席に「榻」(長椅子)が初めて設けられている。七日に石上朝臣麻呂を右大臣としている。無冠位の親王等にそれぞれ冠位を授けている。「長屋王」に正四位上を、「大市王・手嶋王・氣多王・夜須王・倭王・宇大王・成會王」に從四位下を授けている。「長屋王」は無冠位からいきなり正四位とは、かなり破格な扱いのように思われる。

また、「高橋朝臣若麻呂」・「若犬養宿祢檳榔」・穗積朝臣山守・「巨勢朝臣久須比」・「大神朝臣狛麻呂」・「佐伯宿祢垂麻呂」・「阿曇宿祢虫名」・「采女朝臣枚夫」・太朝臣安麻呂・「阿倍朝臣首名」・「田口朝臣益人」・「笠朝臣麻呂」・「石上朝臣豊庭」・大伴宿祢道足(男人に併記)曾祢連足人・「文忌寸尺加」・秦忌寸百足・「佐太忌寸老」・漆部造道麻呂・「上村主大石」・「米多君北助」・「王敬受」・多治比眞人三宅麻呂臺忌寸八嶋從五位下を授けている。

十一日に長親王舍人親王穗積親王刑部親王の封戸を各々二百戸、新田部親王志紀親王は各々一百戸、石上朝臣麻呂には二千百七十戸、藤原朝臣不比等は八百戸を、また三位以下五位以上の者十四人に夫々増封している。十六日、御名部内親王(天智天皇の皇女)・石川夫人(天武天皇が娶った蘇我赤兄の大蕤娘)に各々百戸を増やしている。

二十二日に伊勢國多氣郡・度會郡の少領以上の者に三等以上の親族の連任を聞き入れている。この二郡には伊勢神宮の神領があったことに拠るのかもしれない(詳細はこちら参照)。二十五日、百官が跪き平伏する礼を取り止めている。以下に初登場の人物の出自の場所を求めておこう。

<長屋王>
● 長屋王

父親が天武天皇の高市皇子、母親が天智天皇の御名部皇女(鸕野皇女の妹であり、阿部皇女の姉)と知られている。正にサラブレッドの様相である。その中でも際立つ血統であろう。

与えられた冠位も納得されるところではあるが、それが反って後の事件の背景にあるのかもしれない。高市皇子の控え目さが引き継がれているなら、やはり事件は陰謀の匂いがするようである。

詳細は事件勃発時に述べるとして、長屋=長く尾根が延び至った様から図に示した場所が出自と推定される。現在はバイパス国道などが通り些か地形が変わっているが、当時を偲ぶことは可能のように思われる。

母親は御名部皇女から内親王に呼称が変わっているのも、初登場の多くの王も含めて皇親を取り纏める役目を長屋王に託したからであろう。天武天皇が目指した皇親による統治体制を維持するためになされた人事のように推測される。

<大市王・河内王・阿刀王・長田王・智努王>
● 大市王

父親が天武天皇の長皇子(親王、母親は天智天皇の大江皇女)であり、この王も長尾王と同じく血統書付きの人物であったようである。

調べると後に臣籍降下して「文室眞人」姓を賜ったと伝えられているが、正二位大納言まで昇進されている。

大市=平らな頂きの山稜が集まった様であり、その地形が長皇子の山稜が延びた端辺りに見出せる。臣籍降下後の文室=谷間の奥が交差するような様と読み解ける。小ぶりな二つの谷間の配置を表していると思われる。

「大市」の特定するには言葉足らずの表記がきちんと別表記されていることが解る。多くの王が誕生するが長寿を全うした例は少なかったようで、享年七十七歳まで活躍された稀な人物だったとのことである。

兄の河内王長田王及び弟の阿刀王が後に登場する。「河内」は東側の谷間で川に挟まれた場所であろう。「長田」は大市王の南隣の長く延びた台地上、「阿刀」は西隣の地形が「刀」の地形の娜所と推定される。別名に安都王があったと知られている。安都=山稜に囲まれて嫋やかに曲がる谷間で山稜が交差している様と読み解ける。地図の解像度では読み取り辛いが、それらしき地形であることは確かであろう。王は「刀」の内側に居たと推定される。

また後(續紀の元正天皇紀)に智努王が登場する。後に臣籍降下して文眞人姓を賜ったと知られ、従二位まで昇進して(中納言など歴任)「淨三」と名乗ったと伝えられている。頻出の智奴(努)の地形から出自の場所は、現在は大きな池(先立岩池)となっているが、その北岸に延びる山稜の地形を表したと思われる。

以下同じく授位された「手嶋王・氣多王・夜須王・倭王・宇大王・成會王」並ぶがその出自に関する情報を探し出すことは叶わなかった。地形象形表記として少々補足しながら、その出自の場所を引用地図で示して置くことにする。勿論飛鳥近辺での探索結果である。

● 手嶋王

手嶋=腕の様に延びた山稜の端が鳥の形をしている様として、磯城縣の先端部、天武天皇紀に村屋として登場した地域と思われる(こちら参照)。

● 氣多王

「氣多」は古事記の大國主命の段で登場する「氣多之前」で用いられた表現と思われる。氣多=桁=算盤玉が並んだような様と読み解いた。それに類似する地形を求めると磯城縣の東隣の山稜の形を表していると思われる(こちら参照)。尚天武天皇の磯城皇子の推定出自場所と重なるように見受けられるが、『吉野の盟約』にも顔を出さず早世したのであろうと言われている。同一場所の宮に住まっていたのかもしれない。

● 夜須王

夜須=複数の川が流れる谷間に州がある様であり、飛鳥近辺でこれも特定するには難しい地形なのであるが、河内國に抜ける現在の味見峠に向かう谷間ではなかろうか。現地名の須川も何らかの繋がりがあるかもしれない(こちら参照)。

● 倭王

天武天皇の磯城皇子の子と伝えられているようである。後に酒部王が登場し、その出自の場所を求めた。「倭」だけでは、一に特定するのは難しいが、最も「倭」らしく見える山稜の麓と推定して併記した。

● 宇大王

宇大=谷間で延びた山稜が平らな頂の様と読み解くと、飛鳥板蓋宮の「蓋」の付け根辺りではなかろうか(こちら参照)。「板蓋宮」は『乙巳の変』の舞台であったが、白雉五年(西暦654年)に焼失したと伝えられている。

● 成會王

「成會」の文字列は耳成(梨)山の別名と知られている。ならばその「成會」の地形の麓辺りが出自の場所と推定される。五徳川が流れる谷間の奥に位置する(こちら参照)。

<高橋朝臣若麻呂-上麻呂-安麻呂-毛人-男足-首名>
● 高橋朝臣若麻呂

直近では高橋朝臣笠間が登場していた。祖父が膳臣摩漏、父親が高橋朝臣國益と知られており、その系譜を辿った配置が明らかとなった。

一方、前出の高橋朝臣嶋麻呂の系譜は定かではないようで、その出自の場所を求めたが、どうやた「膳」の地形を形成する二つの山稜の片側の麓のように伺われた。

今回登場の「若麻呂」の系譜は不明らしく、「摩漏」の山稜とは異なる場所に求めることになりそうである。すると、若干高低差が少なく地図上では見極め辛いが、西側の山稜の端が若=叒+囗=多くの山稜の端がある様を表していると思われる。

「嶋麻呂」は、文武天皇即位二年(西暦698年)に伊勢守として転出しており、「若麻呂」はその近隣が出自の場所だったのであろう。空席となった地の人材確保も含めて授位させたのかもしれない。後に上麻呂が登場する。何とも特定し辛い名前であるが、多分若麻呂の上手の場所を示しているのではなかろうか。

後に「笠間」の子の安麻呂及び系譜は定かではないが毛人男足が登場する。安=山稜に挟まれた嫋やかに曲がる谷間として父親の東隣の場所と推定した。毛=鱗であるが、些か地図上での確認は難しくなっているが、図に示した辺りが出自の場所かと思われる。

更に後(聖武天皇紀)に”外”従五位下で叙爵されて高橋朝臣首名登場する。首名=山稜の端にある首の付け根のようなところとして、図に示した場所が出自と推定した。纏めて上図に併記した。

<若犬養宿祢檳榔-東人>
● 若犬養宿禰檳榔

「若犬養」は前出の葛城稚犬養連網田の谷間と思われる。「若」=「稚」と読んでも良いし、「隹」の形に拘ることなく「多くの山稜が延びた様」で十分に場所を特定することができる。

幾度か登場の檳榔=山稜が近付いた傍らでなだらかになった様と読み解いて来た。谷間が縊れたところを表している。

となるとかなり容易にその場所を求めることができる。図に示した犬養五十君の西側に当たるところと推定される。

書紀は「五十君」の出自の場所を曖昧にするために「(葛城)稚」を省略したのである。それに便乗して勝手な解釈が、今なお行われているようである。とは言え、この地も有能な人材が住まっていたことには違いなかろう。世代が変わって輩出する若者の登用は欠かせない施策の一つであったと推測される。

後(聖武天皇紀)に若犬養宿祢東人が外従五位下を叙爵されて登場する。頻出の東人=谷間を突き通すようなところと読むと、図に示した辺りが出自と推定される。

<巨勢朝臣久須比>
● 巨勢朝臣久須比

「巨勢朝臣」の人材輩出は凄まじいのであるが、まだまだ土地に余裕がある・・・とは言うものの彦山川畔に行き着いたようでもある。

図に近隣で登場した人物名を掲載したが、かつては山稜に由来するところが、今回は、谷間に流れる川(複数あるが名称の判るのは唯一前田川のみ)に挟まれた州に由来する名称のようである。

久須比=くの字形に曲がった州が並んでいる様と読み解けるが、その場所は現在の標高(目安は約10m)から図に示した州の先端は海(汽水)であったと推測される。

巨勢臣紫檀系(子が麻呂、多益須)とは別のようである。「馬飼」との関係も定かではなく、不明なところが多い。「巨勢」が「淡海」に近接することは”極秘”であろうから、あまり真剣に調べられていなかったのかもしれない。

<大神朝臣狛麻呂・豐嶋>
● 大神朝臣狛麻呂

流石に「三輪君」である。系譜がしっかりと記録されていたようである。「逆」→「小鷦鷯」→「文屋」→「利金」→「狛麻呂」と繋がっていたと伝わっている。

すると前出の高市麻呂、もう一人安麻呂も含めて兄弟であったと知られている。彼らの出自の場所も併せて図に記載した。

頻出の狛=犬+白=平らで小高いところが並んでいる様であり、小ぶりな谷間の出口の地形を表していると思われる。丹波守、武蔵守などの地方官を歴任しながら正五位上まで昇進されたとのこと。

尚、父親の利金は表舞台に登場しないようなのだが、利金=切り離された山麓の高台として図中に出自の場所を示した現在の妙見神社がある高台辺りと推定される。後(聖武天皇紀)に大神朝臣豐嶋が登場する。「狛麻呂」の妹と知られている。山稜の端を鳥の形()に見立て、その裾野に段差がある高台()となっている地形を由来とする名前と思われる。

<佐伯宿禰垂麻呂・蟲麻呂・馬養>
● 佐伯宿禰垂麻呂

佐伯連(宿禰)の系譜もそれなりにしっかり伝わっていた様子である。「東人」の系譜が「廣足」及び「麻呂」の兄弟に広がりそれぞれの子孫が登場するようになっている。

一方の「子麻呂」の系列では「大目」が目立つくらいで余り登場の機会はなかったのであるが、ここに来て「大目」の兄弟「歳主」の子が授位している。これも埋もれ気味の系譜を掘り起こしたような感じである。

「垂麻呂」の垂=垂れ下がるように延びる山稜に挟まれた広い谷間と読み解いた。吉備笠臣垂などで用いられていた文字である。全く類似する地形が「子麻呂」の南側に見出せる。何度も述べたようにこの狭い谷間にひしめきあっている状態のようである。

父親の「歳主」の「歳」=「歩+戌」と分解されるが、殆ど名前に用いられたことがなく、即ち地形象形的使用は初めてのようである。この文字要素から通常用いられる意味に到達するのは些か距離がありそうだが、鉞のような道具で作物を刈ることから「歳」を表すと言う解釈が妥当のようである。

「歩」=「左右の足」を表すとすると、歳=山稜の延びた端が鉞の形をしている様と読み解ける。「子麻呂」の地形を示していると思われる。主=真っ直ぐに延びる様であり、この鉞の柄に当たる場所を表していると解釈される。いずれにしても「子麻呂」の直ぐ脇が出自の場所と推定される。

後(元正天皇紀)に「大目」の子の蟲麻呂馬養が登場する。蟲=山稜の端が細かく岐れている様であり、頻出の馬養=馬の地形の傍で谷間がなだらかな延びる様と読み解いた。父親の近隣に見出すことができる。併せて図に示した。

<阿曇宿禰蟲名>
● 阿曇宿祢虫名

「阿曇連(宿禰)」は途絶えることなく、しかし決して頻度高くには登場しない氏族であろう。その名は伊邪那岐命の時代に遡ることができる。実に古豪なのである。

最近接では阿曇連稻敷が天武天皇紀に記載されているが、その後は音沙汰無しであった。どうやら新しい世代を登用することが一つの目的だったのであろう。

蟲=山稜の端が細かく岐れている様名=山稜の端の三角州を表すと読み解いて来た。その地形を図に示した場所に見出すことができる。皇極天皇紀に登場の大仁(冠位十二階の第三位)阿曇連比羅夫の出自の場所近隣と思われるが、その繋がりは定かではないようである。

<采女朝臣枚夫・眞木山>
● 采女朝臣枚夫

「采女臣(朝臣)」の直近の人物は竹(筑)羅である。おそらくその近傍かと思われる。また「枚夫」の別表記が「比良夫」と知られている。

「枚」=「木+攵」と分解され、「枝が次々と延び出ている様」を表す文字と解説されている。更に「攵」=「卜+又(手)」と分解される。地形象形的には山稜が岐れて延びる様を表すと解釈できる。

現在の地形図では全く不明であるが、国土地理院写真(1961~9年)の図に示したように主稜線から枝稜線が延び出ている様を「枚」で表していると思われる。纏めると枚夫=岐れて延び出た山稜が交差するように寄り集まっているところと読み解ける。

地図に長行西(五)と記載された住宅地がすっぽりと収まる場所であることが解る。別名の幾度か登場している比良夫=なだらかに並んでいる地が寄り集まったところと読み解いた。図に示した場所から解るように同じ地形を表現していると思われる。

『壬申の乱』において天武天皇一行はこの山稜の東麓を逃げ延びたと推定した。「采女」の脇をすり抜けて鈴鹿に向かったのである。この行程も実に巧み、勿論それを承知で桑名への逃亡を計画したのであろう。

後(聖武天皇紀)に眞木山で火災があり、数百町が延焼したと記載している。眞木山=山稜が寄せ集められた山と読み解ける。多くの山稜が延び出ている山容を表している。「枚夫」の南側と推定される。

<阿倍朝臣首名-廣庭-人主・布勢朝臣廣道-國足>
● 阿倍朝臣首名

阿倍朝臣御主人が亡くなって間もない時期の授位だから近親か?…と推測されているが、委細は不詳のようである。そんな背景もさることながら、「首名」から出自の場所を求めてみよう。

「阿倍臣」は勢力範囲拡げてかつての「布勢臣」の領域へと侵出して来たことは既に語られていたが、名=夕+囗=山稜の端の三角形の地(三角州)を求めることは本来の「阿倍臣」の地では難しいように思われる。

更にその傍らに首=首の付け根のような様がある場所は見当たらず、推測通りに「御主人」の近隣で探すと、戸ノ上山の山稜が延びた端で「首名」の地形を見出せることが解った。

現在の道路が綺麗に三角形(三日月形)を示してくれている。それにしても長期にわたって要人を輩出した阿倍一族の広がりは凄まじかったようである。この一族の顛末に興味が湧くが、後日としよう。尚、少し後に「御主人」の子、廣庭遺産相続させたと記載される。現在の戸ノ上中学校辺りかと推定される。また、弟の人主も知られているようであり、「廣庭」の南側の突き出た山稜の麓の谷間辺りと推定される。

後(元正天皇紀)に布勢朝臣廣道布勢朝臣國足が登場する。それぞれの出自の場所は「首名」の西隣の場所と推定される。阿倍一族で纏められていたのが、再び元の氏名で名乗り出したのであろう。

<田口朝臣益人-廣麻呂>
● 田口朝臣益人

蘇我田口臣として登場して、「川掘」、「筑紫」が登場していた。一時は正に国の中心の地のような賑わいであった場所と思われる。その一族との繋がりは定かではない様子である。

新益京などで用いられた益=八+八+一+皿=二つの谷間に挟まれた一様に平らな様と読み解いた。そして近江國益須郡の「益」が示すところを地図上に下片島と記載された場所と推定した。

人=谷間を表すとすると「益人」の出自の地は図に示した辺りと推定される。「川掘」、「筑紫」はその当時の政争に関わって真っ当には過ごせなかった様子であり、後裔達も再び表舞台に立つには遠く離れていたように推測される。「益人」は一説に「筑紫」の子とされるが、配置的には妥当なようである。後に田口朝臣廣麻呂が登場する。現在の片島小学校辺りと思われる。

かつては先進であった地に埋没させておくには忍びなかったのかもしれない。今回の人事は、埋もれた人材の発掘に重点を置いているように伺える。『壬申の乱』で多くの事例があったことを念頭にしていたのであろう。

<笠朝臣麻呂(滿誓)・吉麻呂・長目・御室>
● 笠朝臣麻呂

吉備笠臣垂の子と知られる。ならば容易に、と思われるが、「麻呂」では何とも特定に困った状況に陥ることになる。更に調べるとこの人物は出家して、それには種々の理由があったのだろうが、「滿誓」と名乗っていたと伝えられている。

と言ってもこれ以外の情報はなく、「滿誓」も地形象形しているとして読み解くことにする。

「滿」=「氵+廿+兩」と分解される。「廿」=「牛の頭部」を象った文字であり、「兩」=「全体として一様に広がった様」を表す文字と知られる。それを水面のような様と見做して通常の意味に用いられている。地形象形的には牛の角が広がったような地形として、「滿」=「水辺で突き出た山稜が並んでいる様」と解釈される。

「誓」=「折+言」と分解される。すると「誓」=「耕地(言)を二つに分ける(折)様」と解釈される。纏めると滿誓=水辺で突き出た山稜がならんでいる地で耕地を二つに分けているところと読み解ける。この「折」部が「垂」の中心線に対応しているのである。おそらく出自の場所は最も下方の「麻呂」の地ではなかろうか。なかなかに読み応えのある名称と思われる。

後々まで活躍されたとのこと、觀世音寺の完成に関わったり、筑紫歌壇に名を連ねたりされたようである。この程度の名前を自分に付けることなど簡単だったのかもしれない。後(元明・元正天皇紀)に兄弟の笠朝臣御室が登場する。御室=奥深い谷間を束ねる様と読み解くと、山麓の場所と推定される。

後(元明天皇紀)に「垂」の兄弟の諸石の子と知られる笠朝臣吉麻呂・笠朝臣長目が登場する。吉=蓋+囗=蓋のような大地と読み解いた。父親諸石の西側の地形を示していると思われる。また長目=長い谷間と読むと、「笠」からの谷間の麓辺りを示していると思われる。父親の東側に当たる。

<石上朝臣豐庭>
● 石上朝臣豐庭

右大臣「石上朝臣麻呂」の弟である。それにしても物部連麻呂として登場してからの昇進には目を見張るものがある(大友皇子の介添えについてはこちら参照)。

当然しかるべき親族が引き立てられたであろう。この地も決して広くはなく、子孫も彼の近辺としたらかなり限られた場所になったと思われる。中臣(藤原)ほどではないにしても・・・。

これは容易に見出せる。「麻呂」の麓が段々になって広がっている様豐庭と表記したと思われる。正に”磯(石)の上”の場所である。

ところで兄弟と言うことは父親がおり、その名前、物部連宇麻乃も知られているようである。ついでと言ってはなんだが、宇麻乃=谷間で延びる平たい(麻)山稜(宇)の傍らにある曲がって垂れ下がった(乃)ようなところと読み解ける。現在の西円寺辺りと推定される。

<文忌寸尺加・鹽麻呂>
● 文忌寸尺加

「文忌寸(直)」からも多くの人物が登場しているが、以前もそうであったように系譜は定かではない。「尺加」もご多分に漏れずであり、その名前から出自の場所を求めてみよう。

「尺」もそれなりに用いられている文字であり、直近では船史惠尺などに含まれている。尺=[尺]の形の谷間を表すと読み解いた。

倭漢の地でそれを探すと、「博勢(士)」の西隣の谷間を示していることが解る。頻出の加=広げる、延ばす様を示し、「尺」の谷間の出口辺りが出自の場所と推定される。

後(元正天皇紀)に壬申の功臣である「智德」の子、鹽麻呂が登場する。鹽=凹凸のある平らに広がった様と解釈した。父親の北隣の地形を表していると思われる。長い年月を経ても、壬申の功は消え去ることがなかったようである。

連綿と輩出して来た「文忌寸」の地からの若手の登用を述べているように推測される。優秀な人材を如何に確保するか、何時の世にもなさねばならない政治の肝要であろう。加えて、世代交代も重要であり、老害が発生しては元も子も失くしてしまうことになろう。

<佐太忌寸老-味村>
● 佐太忌寸老

調べると東漢一族であり、その中の「坂上一族」との関係があることも併せて分かった。すると彼らが住まった現地名京都郡みやこ町豊津の台地周辺と推定される。

頻出の「佐」=「人+左」=「谷間にある山稜が左手のような様」と解釈すると、佐太=谷間にある左手のような山稜が大きく広がったところと読み解ける。

残念ながら、それらしき場所は現在はゴルフ場となっていて、国土地理院航空写真1961~9を参照しながら求めることにする。その前に父親の名前、「百足」が伝わっていて、先ずはそれが示す場所を求めた。

頻出の百足=ムカデの足のように山稜が延びているところ(延び出た丸く小高い地が連なっているところ)と解釈すると、図に示した場所が「佐太」の手の先辺りに見出せる。老=海老のように曲がった様であり、些か地形が変わっているが、図に示した場所が出自であったのではなかろうか。この後も活躍されたとのことで正五位下丹波守を任じられている。

ずっと後(称徳天皇紀)になるが、佐太忌寸味村が外従五位下を叙爵されて登場する。既出の文字列である味村=山稜を横切る谷間の入口が手を広げたようになっているところと読み解ける。図に示した場所が出自と推定される。系譜は定かではないようである。そして、續紀に記載される佐太忌寸一族は「味村」が最後となる。

<上村主大石・通・人足>
● 上村主大石

上村(寸)主は天武天皇紀に登場していた。現地名の田川郡香春町五徳の谷奥が出自の場所と推定した。氏族としての素性は定かでないようで、殆ど情報が得られない。

ともかくも「大石」の出自の場所を求めることにする。左図に示した通り、「光父」の西側に平らになった山麓が見出せる。その地を大石と表記したと思われる。

後の元明天皇紀に上村主通が、また元正天皇紀に阿刀連人足が登場する。通=辶+甬=山稜の頂に突き通る谷間と解釈すると、香春三ノ岳に通じる谷間を表していると思われる。人足=谷間に足のような山稜が延び出ているところと解釈され、図に示した場所と推定される。阿刀連は「光父」の山稜の端の台地()が「」の形をしていることに由来する命名であろう。残念ながら多くの人材が登場するが、系譜が確かな例が少ないようである。

現在もこの谷奥深くにまで棚田が造られている。その標高は約180mであり、長きにわたって拓かれて来た土地の様子が伺える。日本の原風景を今も留める地であろう。この地を出自に持つ人物の登用も、やはり目的あってのことかと思われる。

<米多君北助>
● 米多君北助

「米多」の姓氏家系を調べると応神天皇の後裔であり、古事記の若沼毛二俣王から発生した一族が名乗っていた氏姓であることが分った。記紀には記載がなく、『先代旧事本紀』などによる、と記載されている。

早々に丹波國の地を探索すると、「二俣王」の東側の谷間にある山稜の端が米粒のように途切れていることが見出せる。これを米多と表記したのであろう。

現地名は行橋市稲童であるが、標高差が少なく、危うく見落とすところであったが、「米多」の文字列が示す具体的な地形を思い浮かべることで、見分けることができたようである。

「北」=「背中合わせになった様」、「助」=「且+力」=「大きな段差がある様」と解釈すると、北助=谷間を挟んで背中合わせになった地の傍らで大きな段差となっているところと読み解ける。その文字形のままの山稜であることが解る。

● 王敬受

天武天皇紀に登場した百濟王良虞の兄弟かもしれないが、全く系譜は不詳のようである。百濟からの日本に渡った王族を上手に活用していた時代だったのであろう(こちら参照)。

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長くなったが、多くの情報が得られたようである。また以前に読み解いた出自場所の若干の修正も行え有意義だった、と・・・。