2021年2月25日木曜日

天之眞宗豐祖父天皇:文武天皇(22) 〔493〕

天之眞宗豐祖父天皇:文武天皇(22)


慶雲三年(即位十年、西暦706年)正月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、和訳はこちらを、また訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀1(直木考次郎他著)を参照。

三年春正月丙子朔。天皇御大極殿受朝。新羅使金儒吉等在列。朝廷儀衛有異於常。己夘。新羅使貢調。壬午。饗金儒吉等于朝堂。奏諸方樂于庭。叙位賜祿各有差。丁亥。金儒吉等還蕃。賜其王勅書曰。天皇敬問新羅王。使人一吉飡金儒吉。薩飡金今古等至。所獻調物並具之。王有國以還。多歴年歳。所貢無虧。行李相属。款誠既著。嘉尚無已。春首猶寒。比無恙也。國境之内。當並平安。使人今還。指宣往意并寄土物如別。壬辰。定大射祿法。親王二品。諸王臣二位。一箭中外院布廿端。中院廿五端。内院卅端。三品四品三位。一箭中外院布十五端。中院廿端。内院廿五端。四位一箭中外院布十端。中院十五端。内院廿端。五位一箭中外院布六端。中院十二端。内院十六端。其中皮者。一箭同布一端。若外中内院及皮重中者倍之。六位七位。一箭中外院布四端。中院六端。内院八端。八位初位。一箭中外院布三端。中院四端。内院五端。中皮者一箭布半端。若外中内院。及皮重中者如上。但勳位者不着朝服。立其當位次。

正月一日に大極殿にて朝賀したが、新羅の使者も在席したことから儀衛は常とは異なっている。四日に新羅が調貢。七日に朝堂にて使者等と饗宴、位を授けたり禄を与えたりしている。十二日、使者が帰国。その時に以下の勅書を新羅王に送っている。その概略は、長年に渉って朝貢を欠かさず、誠実な気持ちが顕著であること。また時節柄の王の健康を祈っている旨を書き記している。

十七日に大射礼の際の賜禄を定めている。二品の親王及び二位の諸王には、外院(三重円の弓の的の外側の円)に当たれば麻布二十端、中院ならば二十五端、内院ならば三十端とする、以下、位に応じて麻布の端数が繰り下がっている。「皮」は「的皮」(日本の弓術で、的の後ろに張る布や皮)らしい。まぁ、漏れなく何かを頂ける、有難い行事だったようである。

閏正月庚戌。以從五位上猪名眞人大村。爲越後守。」京畿及紀伊。因幡。參河。駿河等國並疫。給醫藥療之。是日。令掃淨諸佛寺并神社。亦索捕盜賊。戊午。奉新羅調於伊勢太神宮及七道諸社。」勅。收貯大藏諸國調者。令諸司毎色検校相知。又收貯民部諸國庸中輕物絁絲綿等類。自今以後。收於大藏。而支度年料。分充民部也。乙丑。勅令祷祈神祇。由天下疫病也。癸酉。泉内親王參于伊勢大神宮。

閏正月五日に猪名眞人大村(石前に併記)を越後守に任じている。京師幾内及び紀伊・因幡(書紀の因播國)・參河・駿河等の國(こちら参照)で疫病が発生し、医薬を給して治療している。この日、諸仏寺並びに神社を掃き浄めている。十三日に新羅の調を伊勢太神宮及び七道の諸社に奉納している。大藏省に収める諸國の調は種類ごとに調べそれを周知するように、また民部省に貯め収める諸國の庸である軽い物の錦糸などは今後大藏省に収め、一年分の使用料を民部省に分けて給するようにせよ、と命じられている。

二十日に天下に広まる疫病のため神祇に祈祷させている。二十八日に泉内親王を伊勢大神宮に参詣させている。

二月庚辰。左京大夫從四位上大神朝臣高市麻呂卒。以壬申年功。詔贈從三位。大花上利金之子也。辛巳。知太政官事二品穗積親王季祿。准右大臣給之。戊子。以從五位下阿倍朝臣首名。爲大宰少貳。」山背國相樂郡女鴨首形名三産六兒。初産二男。次産二女。後産二男。其初産二男。有詔爲大舍人。庚寅。河内。攝津。出雲。安藝。紀伊。讃岐。伊豫七國飢。並賑恤之。」詔曰。准令。三位以上已在食封之例。四位以下寔有位祿之物。又四位有飛蓋之貴。五位無冠蓋之重。不應有蓋无蓋同在位祿之列。故四位宜入食封之限。又案令。諸王諸臣位封。自正一位三百戸差降。止從三位一百戸。冠位已高。食封何薄。宜正一位六百戸。差降止從四位八十戸。」又制七條事。准令。諸長上官遷代。皆以六考爲限。餘色得選。色別加二考。以十二考爲選限。百官得選之限太遠。宜色別減二考。各定選限。〈其一。〉准令。籍蔭入選。雖有出身之條。未明預選之式。自今以後。取蔭出身。非因貢擧及別勅處分。並不在常選之限。〈其二。〉准律令。於律雖有除名之人六載之後聽叙之文。令内未載除名之罪限滿以後應叙之式。宜議作應叙之條。〈其三。〉准令。京及畿内人身輸調。〈於諸國減半。〉宜罷人身之布輸戸別之調。乃異外邦之民。以優内國之口。輸調之式。依一戸之丁制四等之戸。輸調多少議作餘條例。〈其四。〉准令。正丁歳役收庸布二丈六尺。當欲輕歳役之庸。息人民之乏。並宜減半。其大宰所部。皆免收庸。若公作之役。不足傭力者。商量作安穩條例。永爲法式。〈其五。〉准令。一位以下及百姓雑色人等。皆取戸粟以爲義倉。是義倉之物。給養窮民。預爲儲備。今取貧戸之物。還給乏家之人。於理不安。自今以後。取中中以上戸之粟。以爲義倉。必給窮乏不得他用。若官人私犯一斗以上。即日解官。隨贓决罸。〈其六。〉准令。五世之王。雖得王名。不在皇親之限。今五世之王。雖有王名。已絶皇親之籍。遂入諸臣之例。顧念親親之恩。不勝絶籍之痛。自今以後。五世之王在皇親之限。其承嫡者相承爲王。自餘如令。〈其七。〉丙申。授船号佐伯從五位下。〈入唐執節使從三位粟田朝臣眞人之所乘者也。〉丁酉。車駕幸内野。己亥。五世王朝服。依格始着淺紫。庚子。京及畿内盜賊滋起。因差強幹人。悉令逐捕焉。是日。甲斐。信濃。越中。但馬。土左等國一十九社。始入祈年幣帛例。〈其神名具神祇官記。〉

二月六日に左京太夫の大神朝臣高市麻呂が亡くなっている。「(三輪君)利金」の子と知られ、前出の大神朝臣狛麻呂(弟)の出自場所に併記した。七日に知太政官事(太政官の統括、左右大臣の上に位置するが、後には有名無実となった)の穗積親王に季祿(春秋に別途支給された禄、現在のボーナス?)を右大臣に準じて給されている。

十四日に阿倍朝臣首名を大宰府の少貳に任じている。また「山背國相樂郡」の女人、「鴨首形名」が三回のお産で六兒をもうけている。内訳は初産二男、次産二女、後産二男で、初産二男(双子三連荘、やはり珍しいか)は大舍人となったと述べている。

十六日に河内・攝津・出雲・安藝・紀伊・讃岐・伊豫の七國で飢饉があった(各國の配置はこちらこちらを参照)。物を与えたと記載している。また以下の詔が下されている。概略を記すと・・・三位以上は封戸を与えられているが四位以下はそうではなかった。四位には代わりに禄を与えていたが、この度四位まで封戸を与えることにする。正一位の三百戸から従三位の百戸までを正一位の六百戸から従四位の八十戸に変更すると述べている。

また「七ヶ条」を制定している。<一>長上官の転任・交替は六考(勤務評定期間六年)を期限としているが、その他は最長で十二考もあり、極めて長い。二考減じて各々の選を見直すこと。<二>父祖のお蔭で選考を受ける場合、概ね高位となる(蔭位)。今後は式部推薦や特別な勅がない限り、選考の根拠にしてはならない。<三>官人除名処分を受けても六年で復帰できる規則を設けているが、細則がない。叙位規定を作成せよ。

<四>京及び畿内の人ごとの調を止めて、戸ごとにせよ。調義務の男子の数が様々だから太政官で審議して調の規定を作成せよ。<五>賦役令に関して、通常歳役の代わりに庸布を収めるが、その庸布の量を半減せよ。大宰府管内は庸を全廃するが、動員労働力不足に陥ることを考え、柔軟な対応が可能な規定を作成せよ。

<六>困窮した者に支給する蓄え(義倉)を行っているが、貧乏者から徴収して、もう一度貧乏者に与えるのは道理に叶わない。よって粟の徴収する戸の基準を設けること。並びに役人がこの義倉を他に流用したならば免職にせよ。<七>天皇から五世の孫は王と名付けているが、皇親の範囲ではない。今後は皇親の入れるようにせよ。

二十二日に入唐執節使粟田朝臣眞人が乗船した船名を佐伯とし、従五位下を授けている。船を擬人化しているのだが、現在も「〇〇丸」と称するのは、その名残かもしれない。佐伯=迫る谷間の渡航を助くる船を暗示しているのではなかろうか。二十三日、「内野」に行幸されている。「内野」は多分、即位二年(西暦698年)二月に行幸されている大倭國宇智郡にあった野(現地名田川市伊加利)と思われる。

二十五日、五世王の着服を格に準じて初めて浅紫としている。上記の「七ヶ条」の<七>に準じている。二十六日、京及び畿内で盗賊が滋く起こったが悉く捕らえたと記している。この日に甲斐・信濃・越中・但馬・土左等の國にある十九社を祈年(その年の豊作を祈る)幣帛の数に入れ、その神名は神祇官が記している。各國についてはこちらこちらを、「越中」はこちらを参照。

<鴨首形名>
● 鴨首形名

「相樂郡」の女人で済ませず、名前が記載されているので、何かを伝えたかったと推測して出自の場所を求めてみよう。

「山背國相樂郡」は遣唐執節使団の一員が山代國相樂郡令掃守宿祢阿賀流と記載されて登場する。この地は古事記の山代國之相樂の地であろう。現地名は田川郡赤村赤に属している。

この郡の東側にある細く長く延びた山稜の地形を鴨首と表現したのであろう。そして、その山稜の端に形=井+彡=四角く囲まれた様、幾度か登場の文字である。更に頻出の名=山稜の端の三角形の地(三角州)とを組み合わせた名前であることが解る。

出自の場所は図に示した通りと推定される。相樂郡の登場人物は限られていて、なかなかその地の詳細を伺えないが、貴重な登場人物と思われる。三月にも今度は三つ子の記事がある。尚、多産の事例を纏められた東京女子大学学術情報リポジトリで公開された論文がある(こちら参照)。殆どの場合母親の名前が記載されているようである。

三月丙辰。右京人日置須太賣。一産三男。賜衣粮并乳母。丁巳。詔曰。夫礼者。天地經義。人倫鎔範也。道徳仁義。因礼乃弘。教訓正俗。待礼而成。比者。諸司容儀多違礼義。加以男女无別。晝夜相會。又如聞。京城内外多有穢臭。良由所司不存検察。自今以後。兩省五府。並遣官人及衛士。嚴加捉搦。隨事科决。若不合与罪者。録状上聞。」又詔曰。軒冕之羣。受代耕之祿。有秩之類。无妨於民農。故召伯所以憇甘棠。公休由其抜園葵。頃者。王公諸臣多占山澤。不事耕種。競懷貧婪。空妨地利。若有百姓採柴草者。仍奪其器。令大辛苦。加以被賜地。實止有一二畝。由是踰峯跨谷。浪爲境界。自今以後。不得更然。但氏氏祖墓及百姓宅邊。栽樹爲林。并周二三十許歩。不在禁限。

三月十三日、「右京」の人、「日置須太賣」が三つ子を産んだと記載している。衣服と食糧及び乳母を与えている。本事件の発生場所を下記で求めることにする。十四日に以下を詔している。概略を記すと・・・天地の經義(四書五経などの経書の説く道理)である礼が損なわれている。例えば男女の区別なく昼夜会集したり、京の内外に悪臭が漂うところがあったり、担当の役所の怠慢である。厳重に処罰を行うようにし、処罰対象外については事情を記録・報告せよと命じられている。

また、高位高官は自ら耕作することなく俸禄を受けているが、その農耕を妨げてはならない。召伯(周の賢人、召公)の例を挙げている。しかるにこの頃の王、公卿、臣下等が私利私欲に走っている様子を取り上げて、糾弾している。

<日置須太賣>
● 日置須太賣

「右京」の人と記載されている。勿論この京は新益京であり、その右手、即ち西側の地域に住まう人を示していると思われる。この女人の名前を読み解いてみよう。

頻出の「日」=「炎の形」である。「置」=「网+直」と分解され、地形象形的には「網の目の様に真っ直ぐな山稜が並んだ様」と解釈される。

纏めると日置=[炎]のように延び出て網の目に真っ直ぐな山稜が並んでいるところと読み解ける。図に示した小高い山の地形を表していると推定される。

頻出の文字列である須太=州が大きく広がった様であり、「日置」の東隣の地を示している。三つ子を産んだ女人は「日置」の山の麓に住まっていたと結論付けられる。

夏四月壬寅。河内。出雲。備前。安藝。淡路。讃岐。伊豫等國飢疫。遣使賑恤之。

五月丁巳。河内國石河郡人河邊朝臣乙麻呂獻白鳩。賜絁五疋。絲十竣絢。布廿端。鍬廿口。正税三百束。

四月二十九日、河内・出雲・備前・安藝・淡路・讃岐・伊豫等の國で飢饉と疫病が発生している。使者を派遣して物を与えたと記載している。各國についてはこちらこちらを参照。

五月十五日、「河内國石河郡」の「河邊朝臣乙麻呂」が「白鳩」を献上している。錦糸・鍬・正税(正倉に蓄えられた稲穀類)を与えている。<即位三年(西暦699年)三月の記事で河内國錦部郡が「白鳩」を献上していた。その時は一年間の租役を免じたりしているが、今回は少し軽めの褒賞だったようである>。

<河内國石河郡:白鳩・河邊朝臣乙麻呂>
河内國石河郡:白鳩

登場人物が河邊(朝)臣であり、蘇賀石河と錯覚しそうな名称が重なる記述である。迷うことなく、河内國にある石河郡であり、その地の「河邊朝臣」であろう。

「蘇賀石河」は蘇賀の地にある石河=山麓の小高い地の傍らを流れる河と読んで来た。それに類似する地形を示す場所と思われる。

すると図に示した場所、現地名の行橋市入覚辺りがそれらしき地形を有していることが解る。石河は、石=厂+囗=崖下で区切られた様であり、その傍らを(河内川)が流れているところを石河郡と表記したのであろう。東隣に錦部郡及び古市郡が南北に並ぶ配置となる。

白鳩を献上した当事者である河邊朝臣乙麻呂は、図に示した山稜の麓が「乙」形に曲がって延びている場所が出自と推定される。「河邊」は、勿論河内川(石河)の川辺を由来とする名称であろう。ここまで求められると白鳩=丸く小高いところがくっ付いて並んでいる様は図に示した場所に見出すことができる。

確かにこの地はその以前から開拓されていた様子で、貯水池などで治水を向上させた成果だったように推測される。褒賞はそれに見合ったものだったのであろう。

六月癸酉朔。日有蝕之。
丙子。令京畿祈雨于名山大川。丙申。從四位下与射女王卒。

六月初め日蝕があったと記載している。四日、京・畿内の名山・大川で雨乞いをしている。二十四日、「与射女王」が亡くなっている。

<與射女王>
● 與射女王

この女王についても全く出自情報が見当たらない上に「与射」の文字列も「記紀・續紀」に登場しない。前出の波多眞人余射の別名が「與射」であり、それが示す地形は與射=複数の山稜が延びて寄り集まった端が弓なりになっている様と読み解いた。

「与謝(射)」を調べると、どうやら丹波周辺の地域に名付けられた地名と分った。早速丹波(現地名行橋市稲童辺り)を探索するのであるが、山稜が絡む場所は現在の覗山山麓となり、「與射」の地形を図に示した場所に見出すことができる。

息長足日廣額天皇の麓に当たる地となるが、前出の息長王も含めて出自が極めて曖昧な状況のようである。「射」が突き出た先は近淡海に面し、広大な入江となっていたと推測した。従四位下の爵位を有し、續紀が逝去記事を記載するのだからそれなりの出自であっただろう。やはり息長の地に関わる人物の記述には省略が多いようである