2021年2月21日日曜日

天之眞宗豐祖父天皇:文武天皇(21) 〔492〕

天之眞宗豐祖父天皇:文武天皇(21)


慶雲二年(即位九年、西暦705年)十月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、和訳はこちらを参照。

冬十月壬申。詔遣使於五道。〈除山陽西海道。〉賑恤高年老疾鰥寡惸獨。并免當年調之半。丙子。新羅貢調使一吉飡金儒吉等來獻。

十一月己夘。以正四位上小野朝臣毛野爲中務卿。庚辰。從五位下當麻眞人楯爲齋宮頭。」有詔。加親王諸王臣食封各有差。」先是。五位有食封。至是代以位祿也。己丑。徴發諸國騎兵。爲迎新羅使也。以正五位上紀朝臣古麻呂。爲騎兵大將軍。甲辰。以大納言從三位大伴宿祢安麻呂。爲兼大宰帥。從四位下石川朝臣宮麻呂爲大貳。

十月二十六日に五道(山陽・西海道を除く)に使いを出して高年齢の老人、疾病者、鰥夫、寡婦、惸(身寄りのない)独り者に当年の調を半分を免じている。三十日に新羅が調貢している。

十一月三日に小野朝臣毛野を中務卿(天皇の補佐や、詔勅の宣下や叙位など、最重要な省の長官)に任じている。四日、當麻眞人楯(當摩公楯)を齋宮頭にしている。また親王諸王臣に加封し、五位には食封の代わりに位禄を与えることにしている。十三日、新羅使を迎えるために諸國から騎兵を徴発している。「紀朝臣古麻呂」を騎兵大将軍に任じている。二十八日に大納言大伴宿祢安麻呂を太宰府帥を兼務させ、石川朝臣宮麻呂を大貳(次官の最上位)としている。

<紀朝臣古麻呂-國益-麻路-男人-諸人>
● 紀朝臣古麻呂

紀大口の子、大人の三人の息子の一人と伝えられている。『壬申の乱』では近江朝側であったが特段の罪を問われることなく、その子孫は順調に宮仕えを行ったようである。

長男の「麻呂」は前出していて、次男の登場である。四男の「國益」は後の出番となるが、四兄弟の出自の場所を纏めて示す。古=丸く小高い様から、古麻呂は「麻呂」の西隣と推定した。

既出の文字列である國益=谷間に挟まれた大地が一様に平らな様と読み解くと、少し南の台地を表していると思われる。「大人」の山稜に後裔達が広がって行ったのであろう。

麻路も後に登場する。麻路=擦り潰されたような山稜が足を開いたように岐れている様と読み解く。図に示した場所を示していると思われる。以前に路眞人の一族が登場しているが、類似の地形を表していることが解る。

「麻呂」の子の男人も図に併記した。また「國益」の子の諸人が登場する。前者の出自の場所は父親の南隣の「男」の山稜、後者は父親の西側の谷間と推定される。諸=言+者=交差するような耕地がある様と読み解いた。「國益」の子として、間違いないと思われる。

十二月乙夘。都下諸寺權施食封各有差。乙丑。令天下婦女。自非神部齋宮宮人及老嫗。皆髻髪。〈語在前紀。至是重制也。〉丙寅。正四位上葛野王卒。癸酉。无位山前王授從四位下。丹波王。阿刀王並從五位下。正六位上三國眞人人足。藤原朝臣武智麻呂。正六位下多治比眞人夜部。佐味朝臣笠麻呂。藤原朝臣房前。從六位上中臣朝臣石木。狛朝臣秋麻呂。坂本朝臣阿曾麻呂。多治比眞人縣守。阿倍朝臣安麻呂。從六位下波多朝臣廣麻呂。佐伯宿祢男。阿倍朝臣眞君。田口朝臣廣麻呂。巨勢朝臣子祖父。紀朝臣男人。正七位上大伴宿祢大沼田。正六位上坂合部宿祢三田麻呂。從六位下縣犬養宿祢筑紫。正六位上坂上忌寸忍熊。船連秦勝。從六位下美努連淨麻呂並從五位下。是日。新羅使金儒吉等入京。是年。諸國廿飢疫。並加醫藥賑恤之。

十二月九日に京師の諸寺に個別に食封を權施(仮に施す)している。権利を与えたことを意味するのであろう。十九日、神部や齋宮宮人及び老嫗以外は結髪とする命じている。二十日に「葛野王」が亡くなっている。

二十七日に「山前王」に從四位下、「丹波王」・阿刀王(兄の大市王に併記)に從五位下を授けている。三國眞人人足藤原朝臣武智麻呂・「多治比眞人夜部」・佐味朝臣笠麻呂藤原朝臣房前中臣朝臣石木・「狛朝臣秋麻呂」・坂本朝臣阿曾麻呂(鹿田に併記)多治比眞人縣守阿倍朝臣安麻呂波多朝臣廣麻呂(波多眞人余射に併記)佐伯宿祢男・「阿倍朝臣眞君」・田口朝臣廣麻呂巨勢朝臣子祖父紀朝臣男人大伴宿祢大沼田坂合部宿祢三田麻呂・「縣犬養宿祢筑紫」・「坂上忌寸忍熊」・船連秦勝美努連淨麻呂に従五位下を授けている。この日、新羅使者が入京している。

この年、二十の國で飢饉や疫病が発生し、医薬を施し物を与えたと記載している。初登場の人物について出自の場所を下記する。既出の人物については各リンクを参照。

<葛野王・池邉王>
● 葛野王

珍しく出自の系譜がはっきりしている王である。調べると父親は天智天皇の子である「大友皇子」、母親は天武天皇と額田姫王の子である十市皇女と伝わっている。

世が世ならば皇位継承者の筆頭に挙げられていたかもしれない王である。後代では「大友皇子」は弘文天皇の諡号が付けられている。「葛野王」は第一皇子となるが、勿論書紀の扱いの範疇ではないことになる。

本来ならば歯向かった一族として処罰されるところだが、複雑に絡んだ家系故にその対象にならなかったのであろう。

と言うことで、亡くなった時(享年三十七)に續紀に登場されたようである。出自の場所は、母親十市皇女の近隣とすると図に示した位置関係なる。「十市」は”葛野の十市”である。古事記の十市縣の場所とは異なっているのである。また十市郡の出現は、ずっと後になる。

後(聖武天皇紀)に息子の池邉王が従五位下、低くはあるが、叙爵されている。頻出の池=氵+也=川が曲がって流れている様邊=辶+自+丙+方=谷間の端が広がり延びている様であり、「葛野王」の東側、犀川の畔近くの場所が出自と推定される。因みに「池邉王」の子が「淡海三船」である。

少し横道に逸れるが、「葛野」の「葛」の文字解釈をあらためて行ってみよう。「葛城」でも用いられる文字であるが、その時は、「葛」の木肌が渇いたように見えることから名付けられたと解説(こちら参照)され、「急斜面の地形」を表すと読み解いて来た。「葛野」に用いられた場合の解釈としては適切とは思えないようである。

「葛」=「艸+曷」と分解される。更に「曷」=「曰+兦(亡)+勹」と分解される。即ち「遮られて止まる様」を表す文字と解釈される。例えば「渇」=「氵+曷」の文字要素から「水が遮られて止まる」→「かわく」へ展開している。「葛」は蔓性の多年草であり、「巻付く様」→「遮って閉じ込める」形態を表していると解釈される。纏めると葛野=山稜に遮られて閉じ込められた野と読み解ける。「葛野」の全体図及び「葛城」の解釈についてはこちら参照。

<山前王(山隈王)・栗前氏-枝女>
● 山前王

この王もそれなりに出自がはっきりしている王であることが分った。天武天皇の「忍壁(刑部)皇子」の子であり、「栗前氏」を娶って娘に「栗前枝女(池原女王)」がいたと知られている。ずっと後になるが、續紀に登場することが分かった。

そんな背景とすると「忍壁皇子」の近隣に「栗前」の地が見出せる。「栗」の地形象形は幾度か登場し、丸い毬栗のような地から山稜が長く延びた様を示している。「栗前氏」の「氏」は、氏族を表すのではなく、氏=匙のような山稜が延びているところと読み解く。

栗前枝女(池原女王)は、枝女=山稜が岐れているところの女と解釈される。池原=野原に水辺が曲がりくねっているところと読み解ける。母親の北側の谷間の地形を表していることが解る。山前王は南側の山稜を、「栗」ではなく、「山」の形と見做した表記と思われる。山隈=山が隈にあるところと読めて、別名であることが解る。

「栗前氏」に関する情報は、書紀の天智天皇紀に登場した栗隈首の一族として、全くの錯乱状態のようである。がしかしこの場所は採銅を生業とするには絶好であり、古くから住まっていた氏族だったと推測される。勿論書紀は当然として續紀と言えどもそれをあからさまにするわけにはいかなかったのであろう。この地には歴史の表舞台に立つことはなかった多くの人々の生き様が偲ばれる地と思われる。

<多治比眞人夜部(吉備)・吉提>
● 多治比眞人夜部

調べると丹比公麻呂の子、「嶋」及び「三宅麻呂」と兄弟であったことが分った(こちら参照)。また「比夜部」とも記載されてようである。

比夜部=複数の川が流れる谷間(夜)が並ぶ(比)脇(部)にある様と読み解ける。全て既出の文字列である。全体の谷間を「夜」で表すとすると「比」は不要だったのかもしれない。

父親の「麻呂」を中心にして配置された兄弟だったように思われる。ところで後の元明天皇紀に出自不詳の多治比眞人吉備が「備中守」に任じられたと記載されている。

「夜部」の地形を眺めると見事な吉備=蓋をされた箙のような様の地形を示していることに気付かされる。「備中」とに重ねた表記であろうが、辞令を受けると同時に別名表記にしたのかもしれない。尚、多治比眞人吉提が後に登場するが、その時に詳しく述べることにする。

<狛朝臣秋麻呂>
● 狛朝臣秋麻呂・阿倍朝臣眞君

調べると阿倍一族と判るが、後に「阿倍朝臣」を名乗ると伝えられている。狭い土地で、一時はそれぞれがおのが家系を誇っていたが、次第に同族意識で纏まる道を選択したのであろう。物部一族とは少し異なる様相のようである。

頻出の狛=犬+白=平らな地がくっ付くように並んだ様であり、二つの山稜の端状態を表していると思われる。秋=禾+火=山稜が[火]の形をしている様、古事記で用いられた文字である。

これらの地形要素を持合せる場所が図に示したところに見出せる。それにしても現在は広大な霊園となっているが、整地されているとは言え、基本的な地形は残されていると推測される。団地開発とは少々違って、真に好ましい状況のように思われるが、基本の地形を残しつつ開発することが、今後も大切なのではなかろうか。

直ぐ後に阿倍朝臣眞君が登場する。”本家”阿倍氏の場所と思われるが、「眞君」の地形象形表記を読み解いてみよう。既出の文字である眞=ヒ+鼎=器のように窪んだ様であり、及び君=尹+囗=揃えられた高台と読むと、図に示した谷間の地形を表していると思われる。大臣まで輩出した家系の地なのだが、この人物の系譜は不詳のようである。少々途絶えた人材を発掘したのであろう。

<縣犬養宿禰筑紫-唐・大國>
● 縣犬養宿祢筑紫

縣犬養一族だから出自の場所は見当がつくのだが、さて…「筑紫」の登場である。調べると縣犬養連大伴の孫、父親が「禰麻呂」と知られ、兄弟に「唐」が居たと伝えられている。

何はともあれ「筑紫」の地形を探すと、それこそ見事に山稜が描く「筑紫」が見出せたようである。書紀・續紀を通じて出現した「筑紫」の地形象形は、ほぼ完璧に的を射止めたように感じられる。

この地の特徴は、川下から遡って子孫が広がっている様相で、おそらく川下地域の開拓が早くに進んでいたのであろう。関連する人々がこの後も次々に登場する。「唐」(聖武天皇の妃となる縣犬養廣刀自の父親)も含めて、その一部はこちらを参照。

後(聖武天皇紀)に縣犬養宿禰大國が外従五位下を叙爵されて登場する。系譜は定かではなく、大國=平らな頂の麓にある囲まれたところと解釈すると、図に示した辺りが出自の場所と推定される。従四位下・造宮卿まで昇進した「筑紫」(神龜元[724]年四月卒)の子だったのかもしれない。

<坂上忌寸忍熊・宗大・大國>
● 坂上忌寸忍熊

東漢一族の「坂上」の地が出自の場所と思われる。現地名の京都郡みやこ町豊津の台地に、正に羽を広げたように蔓延った一族であろう。

前出の佐太忌寸老に引き続いて新しく地図を作成した。「東漢一族」の系譜は、それなりに知られているようで、後日に纏めてみようかと思う。

今回関連するところでは「忍熊」の父親は「子麻呂」であり、「熊毛」とは兄弟である。忍熊=一見では分からないような隅と読み解ける。「熊毛」の場所が確定的だから求められる場所のようである。いずれにしてもこの台地に隈なく広がって行った一族であろう。

後(元正天皇紀)に「熊毛」の子の宗大が登場する。『壬申の乱』で大将軍吹負の初戦で協力し、倭京陥落の立役者の一人であった「熊毛」の子孫を褒賞している。宗=宀+示=山稜に挟まれた高台と解釈したが、平らな頂()の前にその地形が見出せる。

後(聖武天皇紀)に坂上忌寸大國が外従五位下を授けられて登場する。調べるとの子と知られていることが分かった。大國=平らな頂の麓の地と解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。

● 丹波王

山前王・阿刀王(天武天皇の孫)と並んで登場することから同様の系譜かと思いきや、全く情報がなく、續紀での登場も今回のみのようである。「丹波」の地は、現在の行橋市稲童辺りと推定して来たが、また「丹波」の地形象形でそれ以外の地域は出現しない。

憶測すると天武天皇の子で丹波近隣は、母親が藤原大臣の娘、五百重娘の子、新井田部皇子であろう。ところが彼の子供に「丹波王」の名前は知られていないようであり、これ以上の詮索は不可の様相となる。一応、王の出自の場所を現在の仲津小・中学校辺りと推測しておこう。一品にまで昇り詰められた新井田部皇子に憚っての省略なのであろうか?…ここまでで・・・。