2021年2月17日水曜日

天之眞宗豐祖父天皇:文武天皇(20) 〔491〕

天之眞宗豐祖父天皇:文武天皇(20)


慶雲二年(即位九年、西暦705年)正月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、和訳はこちらを参照。

二年春正月丙申。賜宴文武百寮于朝堂。庚子。无位安八萬王授從四位下。

一月十五日に文官・武官の百寮と朝堂で宴の会を設けている。十九日、無位の「安八萬王」に従四位下を授けている。例の如くに出自不詳の王とされるが、一説に高市皇子の子とされる。前出の長屋王の兄弟となるが、他に知られている兄弟も含めて出自の場所を当たってみよう。

<安八萬王・鈴鹿王・門部王・山形女王>
● 安八萬王

高市皇子の子には長屋王、鈴鹿王、門部王、及び幾人かの女子が居たと知られている。その中には当該の王は見当たらず、全く不明な出自なのであるが、叙爵された後はかなり早期に昇進している。これが長屋王の兄弟と推測される所以であろう。

先ずは鈴鹿王、門部王の出自の場所を求めてみよう。鈴鹿の文字列は既出であり、鈴の地形の麓(山稜の端)と読み解いた(こちら参照)。その地形が高市皇子の東南の山稜に見出せる。

門部はその文字が示す通り、小高い山稜が門のように並んでいる近傍のところを表していると思われる。高市皇子の西側、長屋王の北に隣接する場所と推定される。知られている三名の王の出自の場所は問題なく求められることが解る。

さて、件の安八萬安八は、天武天皇紀に登場した美濃國安八磨郡に含まれる文字列であって山稜に挟まれた嫋やかに曲がる谷間が広がっている様と読み解いた。小ぶりだが、全く類似の地形要素を示す場所が高市皇子の南側に見出せる。さらにその谷間は萬=蠍の地形を示していることが解る。

面白いことに「美濃國安八磨郡」には「太安萬侶」の出自の場所()と推定したところがある。編者達が様々に繋げた表記なのであろう。王の出自をあからさまにしないのが記述方針なのであろうが、それを解き明かすのも本著の目的の一つになったようである。ともかくも穴八萬王は、確実に高市皇子の子と思われる。

後(聖武天皇紀)になるが、山形女王が登場する。幾度か登場の「形」=「井+彡」=「四角く囲まれた地で山稜が交差するように延びている様」と解釈した。すると山形=山の下で四角く囲まれた地で山稜が交差するように延びているところと読み解ける。図に示した鈴鹿王の東側に当たる谷間の出口辺りが出自の場所と推定される。

三月癸未。車駕幸倉橋離宮。丙戌。正四位下豊國女王卒。

三月四日に「倉橋離宮」に行幸されている。七日に「豐國女王」が亡くなっている。「倉橋離宮」の「倉橋」は「倉梯」であろう。天武天皇紀に齋宮於倉梯河上と記載された齋宮があった場所と推測される。梯=木+弟=山稜がギザギザしている様であり、橋=木+夭+高=山稜が曲がって小高くなっている様と読み解いて来た。山稜の縁の形か全体的な様子を捉えるかの違いであって、この地形には共に該当する表現であると思われる。

豐國女王については全く出自情報が見当たらないようである。例の如しで片付けるのも吝かではないが、少し憶測してみよう。そもそも「豐國」が曖昧な表記であり、また「記紀」も併せて、その出現回数も限られているが、古事記の豐國宇沙豐波豆羅和氣に関わる地が挙げられる。既に述べたが、この地を書紀は近江大津と記載しているのである。

そんな繋がりを考慮すると、この女王は大津宮の跡に住まった女王であり、おそらく天智天皇の子孫であったと推測される。書紀の捻くれた記述を續紀が還元していると思われる。「近江大津」の地形象形表記は間違いではない。実に巧みに言い換えた表現を積み重ねていることが伺える。

夏四月壬子。詔曰。朕以菲薄之躬。託于王公之上。不能徳感上天仁及黎庶。遂令陰陽錯謬。水旱失時。年穀不登。民多菜色。毎念於此惻怛於心。宜令五大寺讀金光明經。爲救民苦。天下諸國。勿收今年擧税之利。并減庸半。甲寅。遣使巡省天下諸國。庚申。賜三品刑部親王越前國野一百町。丙寅。勅。依官員令。大納言四人。職掌既比大臣。官位亦超諸卿。朕顧念之。任重事密。充員難滿。宜廢省二員爲定兩人。更置中納言三人。以補大納言不足。其職掌。敷奏宣旨。待問參議。其官位料祿准令。商量施行。太政官議奏。其職近大納言。事關機密。官位料祿。不可便輕。請其位擬正四位上。別封二百戸。資人卅人。奏可之。」先是。諸國采女肩巾田。依令停之。至是復舊焉。辛未。天皇御大極殿。以正四位下粟田朝臣眞人。高向朝臣麻呂。從四位上阿倍朝臣宿奈麻呂三人。爲中納言。從四位上中臣朝臣意美麻呂爲左大弁。從四位下息長眞人老爲右大辨。從四位上下毛野朝臣古麻呂爲兵部卿。從四位下巨勢朝臣麻呂爲民部卿。」給大宰府飛驛鈴八口。傳符十枚。長門國鈴二口。

四月三日に天皇が以下のようなことを述べられたと記載している・・・朕は菲薄(才がない)の身だが、王公の上に寄り掛かっている。天を感動させるほどの徳もなく庶民に行き渡らせるほどの仁政もできない。そのためか陰陽を錯謬(間違える)して水(降雨)・旱(日照)が時を得ず、穀物の作柄が劣り、民の多くは菜色(顔色が悪い)。これを思うと心が痛む。五大寺で金光明経を読経し、民苦を救おうと命じられた。諸國の今年の税の利息を無くし、併せて庸の半分を減じる。

五日に諸國を巡省させている。十一日、刑部親王に越前國野一百町を与えている。十七日に官員令について述べられている。その要旨は、大納言四人となっているが、二名として中納言三人を加える。廃止されていた中納言は正四位上相当として封戸二百、従者三十人を付けることとしたようである。船頭減らして若返らせ、より機能的な組織とするのが狙いだったようである。

また、従来采女肩巾田(うねめのひれだ。采女の経費を充当するために出身地に置かれた田、本当に肩巾しかなかったのか?)が廃止されていたが、復活している。律令の全般的な運用上の改定は、Wikipedia慶雲の改革』参照。

二十二日に粟田朝臣眞人高向朝臣麻呂阿倍朝臣宿奈麻呂(引田朝臣少麻呂、前記で阿倍朝臣性に)の三人を中納言に任命している。中臣朝臣意美麻呂を左大辨、息長眞人老を右大辨、下毛野朝臣古麻呂を兵部卿、巨勢朝臣麻呂を民部卿に任命している。また大宰府に飛驛の鈴を八個と傳符(伝使に対して使用資格を証明するために与えられた符)十枚、長門國に鈴を二個与えている。

五月丙戌。三品忍壁親王薨。遣使監護喪事。天武天皇之第九皇子也。丁亥。以正五位下大伴宿祢手拍。爲尾張守。癸夘。幡文造通等自新羅至。

六月乙亥。奉幣帛于諸社。以祈雨焉。丙子。太政官奏。比日亢旱。田園焦卷。雖久雩祈。未蒙嘉澎。請遣京畿内淨行僧等祈雨。及罷出市廛。閇塞南門。奏可之。

五月七日に天武天皇の第九皇子である忍壁親王(刑部親王)が亡くなっている。葬儀の指揮を執らせている。八日に大伴宿祢手拍を尾張守に任じている。二十四日に幡文造通等が新羅より帰国したと記載している。

六月二十六日に幣帛を諸社に奉納して、雨乞いを行っている。二十七日、太政官が申すには、比日(此の頃)は亢旱(ひどい日照り)で、田園で焦卷(草木が枯れる)している。久しく雩(雨乞い)しても未だに水がみなぎる気配が見られない。是非京・畿内の行いの清らかな僧等で雨乞いをし、また南門を閉じて市を取り止めとしたい、と奏上し、これが認められている。

秋七月丙申。大納言正三位紀朝臣麻呂薨。近江朝御史大夫贈正三位大人之子也。丙午。大倭國大風。損壞百姓廬舍。

七月十九日に大納言紀朝臣麻呂が亡くなっている。近江朝の御史大夫大人の子であった。二十九日、大倭國で大風が吹いて、百姓の家が損壊している。

八月戊午。詔曰。陰陽失度。炎旱弥旬。百姓飢荒。或陷罪網。宜大赦天下。与民更新。死罪已下。罪無輕重。咸赦除之。老病鰥寡鰥獨。不能自存者。量加賑恤。其八虐常赦所不免。不在赦限。又免諸國調之半。」又授遣唐使粟田朝臣眞人從三位。其使下人等。進位賜物各有差。」以從三位大伴宿祢安麻呂爲大納言。從四位下美努王爲攝津大夫。

八月十一日に以下の様に命じられている。陰陽の調和が崩れて弥旬(十日以上)炎天の日照りが続いて、百姓が飢饉に苦しみ、罪に陥る者も出ているが、死罪以外は大赦し人心を更新させたい。罪の軽重に関わらず赦そうと思う。また老人・病気に罹ってる者や鰥獨(男やもめ)など自活できない者に物を与えよう。諸國の調を半減する。

この日、遣唐使粟田朝臣眞人に従三位を授け、その配下の者もそれぞれ進位させて物を与えている。大伴宿祢安麻呂を大納言とし、美努王を攝津大夫に任じている。

九月壬午。詔二品穗積親王知太政官事。丙戌。置八咫烏社于大倭國宇太郡祭之。丁酉。以從五位上當麻眞人櫻井爲伊勢守。癸夘。越前國獻赤烏。國司并出瑞郡司等進位一階。百姓給復一年。獲瑞人宍人臣國持授從八位下。並賜絁綿布鍬各有差。

九月五日、穗積親王に太政官を統括させている。九日に「大倭國宇太郡」に「八咫烏社」を設置し祭祀させている。二十日に當麻眞人櫻井を伊勢守に任じている。二十六日に「越前國」が「赤烏」を献上している。その國の郡司等を一階進位し、百姓の賦役を一年免じている。また「瑞」を獲得した「宍人臣國持」に従八位下を授け、それぞれに綿布などを与えている。

大倭國宇太郡:八咫烏社>
大倭國宇太郡:八咫烏社

「宇太郡」は広範囲な大倭國の何処に求められるのであろうか?…と杞憂するまでもなく、「八咫烏」と言う極めて特徴ある表記に拠って辿り着けるようである。

疑うことなく、この「烏」は古事記の神倭伊波禮毘古命(神武天皇)が山中で迷った時に道案内をした、正に神様的存在として記述されていた。

あらためて当時の行程を眺めると、五瀬命を”紀國”(書紀では紀伊國)の”竈山”の麓に葬り、再戦すべく”熊野村”から山中に侵入したものの危うく命を落とすところを助けられ、”吉野河之河尻”に抜けることができた場面であった。

その山中からの出口を現在の京都郡苅田町山口の八田山辺りと推定した。するとその出口の地形は、倭國高安城があったと推定した高城山山系(苅田アルプス)の西麓であり、宇太=谷間で山稜が大きく広がって延びるの麓であることが解る。

蘇我高麗鹿深山などの由来となった地に接するところである。そして全てが繋がった表記となっていることが分る。八咫烏社の場所を一に特定することは叶わないが、現在の八田山稲荷神社辺りではなかろうか。「八田」は残存地名として認定するものである・・・かつても述べたような記憶があるが・・・。

現在も奈良県宇陀市にある八咫烏神社に言い伝えられている由緒が上記の續紀の記述とされているようである。「八咫烏」の古事記での登場のタイムスケジュールは”吉野河之河尻”の前であり、”宇陀”まで随行した形跡があるが、やはり熊野村からの山中での出来事が神様として祭祀するに相応しいものであったろう。この古事を何故ここで引っ張り出して来たのか?…『壬申の乱』における勝利を直接的に導いた村國男依等の近江直入のルートだったからである。

幾度か述べたように神倭伊波禮毘古命(神武天皇)が通過する”吉野河之河尻”の記述は、その行程の舞台が現在の紀伊半島ではないことを決定的にしているのである。奈良大和をいくらひっくり返しても確固たる事実は見出せないのであろう。

<越前國:赤烏>
越前國:赤烏

幾度も登場の「赤烏」、勿論赤い烏ではないであろう。赤烏=交差するような山稜がある谷間に烏のような地形がある様と読み解いた。それを越前國で探すと、難なく見出せる。

現地名北九州市門司区柄杓田の山稜の端に鎮座している。海が迫る岬にある狭い谷間を開拓したと推察される。前出の越前國角鹿郡の白蛾の西南に当たる場所である。

開拓者の名前を宍人臣國持と記載している。「宍人臣」は既出であって、「膳臣」の一派のように言われている。天武天皇が娶った宍人臣大麻呂の娘、木穀(木偏に穀)媛娘で登場していた。勿論彼らは春日の地(現地名田川郡赤村内田)に住まっていて越前國ではない。更に開拓者は常に「赤烏」の近隣であることを書紀・續紀を通じて記載している。

するとすぐ北隣に宍人=山稜に囲まれた谷間に小高く延びる山稜がある様の地形を見出すことができる。取り囲む山稜が手を延ばして物を持つような形(國持)をしていることが解る。開拓者としては申し分のない位置関係であろう。

「宍人臣」は天武天皇紀に「朝臣」姓を賜っている。「膳臣」近隣の「宍人臣」とは異なる氏族であることを示している。そもそもの出自は不詳ながら、早くから開けた越前(高志前)の地に住まっていた豪族と位置付けられるであろう。土地の献上は、低位ながら爵位を授けられ、天皇家の一員となった行った様子を物語っているように伺える。