2021年2月13日土曜日

天之眞宗豐祖父天皇:文武天皇(19) 〔490〕

天之眞宗豐祖父天皇:文武天皇(19)


慶雲元年(即位八年、西暦704年)二月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、和訳はこちらを参照。

二月丙辰朔。日有蝕之。癸亥。神祇官大宮主入長上例。乙亥。從五位上村主百濟。改賜阿刀連姓。
三月甲寅。信濃國疫。給藥療之。
夏四月甲子。令鍜冶司鑄諸國印。庚午。以信濃國獻弓一千四百張充大宰府。甲戌。讃岐國飢。賑恤之。壬午。備中。備後。安藝。阿波四國苗損。並加賑恤。

二月一日は日蝕であったと述べている。八日に神祇官の大宮主を長上官の扱いとしている。二十日に上村主百濟(光父に併記)は「阿刀連」姓を賜っている(前記で記述、こちら参照)。
三月二十九日、信濃國で疫病が発生し、薬を与えて治療したと記している。

四月九日に鍛冶師に諸國の國印を鋳造させている。十五日に信濃國が弓一千張を献上し、大宰府に充てている。十九日、讃岐國で飢饉があり、物を与えている。二十七日、備中備後安藝阿波の四國で苗に損害があり、物を与えている。

五月甲午。備前國獻神馬。西樓上慶雲見。詔。大赦天下。改元爲慶雲元年。高年老疾並加賑恤。又免壬寅年以往大税。及出神馬郡當年調。又親王諸王百官使部已上。賜祿有差。獻神馬國司。守正五位下猪名眞人石前進位一階。初見慶雲人式部少丞從七位上小野朝臣馬養三階。並賜絁十疋。絲廿絢。布卅端。鍬卌口。庚子。武藏國飢。賑恤之。

五月十日に備前國が「神馬」を献上している。一昨年の飛騨國の神馬と類似する記述であろう。同様に天下に大赦するのだが、宮の西楼に”慶雲”が見られたことから改元したと述べている。高年齢の老人や病気のある者に物を与えたり、壬寅(大寶二)年以前の税、及び神馬を出した郡のその年の調を免じている。

親王、諸王、百官の使部以上にそれぞれ禄を与えている。また神馬を献上した國司守の猪名眞人石前の冠位を一階進めて正五位上へ、慶雲を見つけた小野朝臣馬養は三階進めて従五位下へとしている。またそれぞれに絹・麻・布・鍬などを与えている。十六日、武藏國が飢饉となり物を与えている。

<備前國:神馬>
備前國:神馬

備前國の最北の地に「馬」(古文字)の形(逆立ち)が見出せる(こちら参照)。おそらく「馬」の周辺の地を開拓したのであろう。

飛騨國に負けず劣らぬ辺境の地を切り開いたことへの称賛を込めて多くの褒賞を与えたと思われる。多分道も整備され峠を行き交う物資の流通も盛んになったのではなかろうか。

「馬」の現地名は下関市永田郷ではなく、同市豊浦町厚母郷となっている。当然ながら、まだまだその境界は曖昧だったのであろう。

Wikipediaによると”慶雲”とは「夕空に現れ瑞兆とされる雲で、蚊柱のこととも」と記載されている。蚊柱は揺蚊(ユスリカ)が集団で作る現象とのこと。小野さん家の馬養君(「馬」の傍のなだらかな谷間)は”大穴”を当てた・・・何と見事な「馬」繋がりであった。

六月丁巳。勅。諸國兵士。團別分爲十番。毎番十日。教習武藝。必使齊整。令條以外。不得雜使。其有關須守者。隨便斟酌。令足守備。己未。令諸國勳七等以下身無官位者。聽直軍團續勞。上經三年。折當兩考。滿之年送式部。選同散位之例。其身材強幹須堪時務者。國司商量充使之。年限考第。一准所任之例。乙丑。河内國古市郡人高屋連藥女一産三男。賜絁二疋。綿二屯。布四端。己巳。阿波國獻木連理。丙子。奉幣祈雨于諸社。

六月三日に以下のように命じている。諸國の兵士について十組に分け、組毎に十日間武芸を教習し、必ず一斉に整うようにすること。令条に定められた以外の雑用に用いてはならないこと。但し、関所があるところでは斟酌して守備に当たらせても良い、と記載している。

五日、諸國の勲位七等以下で冠位のない者は、軍団に続けて出仕することを許すが、三年経てば二年分の評定を受けたと見做し、式部省に送り散位と同様にして選考すること。また身体強健で任務に堪えられる者を國司は適宜用い、年限、考課は任務に応じて判断せよ、と命じている。

十一日に「河内國古市郡」の「高屋連藥」の娘が三つ子を生んだので綿布などを与えている。十五日に阿波國が「木連理」を献上している。二十二日、諸社で幣帛を奉って雨乞いをしている。

<河内國古市郡・高屋連藥・馬史伊麻呂>
河内國古市郡

「古市」の名称は天武天皇紀に登場した古市黑麻呂に含まれていた。古事記で記載された河內之古市高屋村が出自の場所と推定された。時が経って郡と表記されるようになったのであろう。

登場回数も少なく、その範囲を求めることは難しいようであるが、吉野河(現小波瀬川)沿いの東西に延びた領域だったのではなかろうか。古事記では”毛受”と表記された丘陵地帯を含む地域と推定される。

そこに住まっていた高屋連藥の娘の登場である。續紀は、古事記表記に限りなく近付いているようである。正に書紀の捻くれた作業から開放された気分だったのであろうか、お陰で古事記解釈の検証を行うことができる、とほくそ笑んでいるわけである。

高屋=皺が寄ったような山稜から延び至った様であり、藥=艸+絲+白+木=山稜に挟まれた丸く小高い様と読み解いて来た。その地形が麓のほぼ中央にあることが解る。実に明解な表記と思われる。多産を奨励するのは時代が豊かであった証左であろう。上記の「神馬」のように国土開発が着々と進んでいる状況を物語っていると思われる。

後(續紀の元正天皇紀)に馬史伊麻呂が登場する。百濟からの渡来人の後裔と知られ、古市郡に居住していたようである。すると「高」の地を「馬」と見做した表記とであろう。馬史=[馬]の地が真ん中を突き通す様と読み解け、「屋」に通じていると思われる。伊=人+|+又=谷間で区切られた山稜であり、出自の場所は図に示した谷間辺りと推定される。近淡海・河内が随分と開発されて来たことを伝えているようである。

<阿波國:木連理>
阿波國:木連理

世界大百科事典によると・・・根や幹は別々だが,枝がひとつに合わさっている木。木連理ともいう。《白虎通》封禅篇には,王者の徳のめぐみが草木にまでおよぶとき,朱草や連理の木が生ずるといっている・・・と解説されている。

そんな珍しい、天皇の德を表す木を献上したのだから特筆に値する?…と解釈することも自由であろう。

續紀編者の博識を示しながら、やはり地形象形した表記と思われる。そのまま読み解くと木連理=山稜が連なった傍で切り分けられた様となる。図に示した阿波國東部の地形を表していると思われる。

現地名は北九州市若松区宮丸の谷間であり、急傾斜の地を切り開いたのではなかろうか。「神馬」のような大騒ぎをしなかったのは、少々規模が小さかったのかもしれない。古事記の品陀和氣命(応神天皇)の子、大原郎女・阿倍郎女の出自の間の谷間と推測される。阿波國の開拓例として、実に貴重な記述と思われる。

秋七月甲申朔。正四位下粟田朝臣眞人自唐國至。初至唐時。有人來問曰。何處使人。荅曰。日本國使。我使反問曰。此是何州界。荅曰。是大周楚州塩城縣界也。更問。先是大唐。今稱大周。國号縁何改稱。荅曰。永淳二年。天皇太帝崩。皇太后登位。稱号聖神皇帝。國号大周。問荅畧了。唐人謂我使曰。亟聞。海東有大倭國。謂之君子國。人民豊樂。禮義敦行。今看使人。儀容大淨。豈不信乎。語畢而去。丙戌。左京職獻白燕。下総國獻白烏。壬辰。以時雨不降。遣使祈雨於諸社。庚子。公廨祿給式部省大學散位等寮。壬寅。詔京師高年八十已上者。咸加賑恤。甲辰。奉幣帛于住吉社。乙巳。贈從五位上坂合部宿祢唐正五位下。右大臣從二位阿倍朝臣御主人功封百戸四分之一。傳子從五位上廣庭。贈從五位上高田首新家功封卌戸四分之一。傳子无位首名。

七月一日に粟田朝臣眞人が唐から帰国して、ちょっとした逸話が記載されている。概略を述べれば、唐に着いた場所が大周楚州塩城縣であり、国の名称が”大周”に変わったことが判った。唐人が大倭國は君子國だと言ったと記している。西暦690年に皇太后武則天が即位して武周王朝となったと知られる。その後705年まで続いてまた唐に復帰することになる。ちょうどその期間に入唐したと記載している。

三日、左京職が「白燕」を、下総國が「白烏」を献上している。左京職は前年の六月の記事に大神朝臣高市麻呂が任じられていた。「白燕」は細く長く延びた山稜の麓辺りと思われるが、判別し辛い(こちら参照)。また下総國の「白烏」も地形の変化が大きく求め辛くなっているようである(こちら参照)。後に登場するかもしれないが、決して広い場所を開拓したのではなかったのであろう。

九日に雨が降らず、雨乞いをしている。十七日、役所の諸費用を式部省の大学寮・散位寮に支給している。十九日に京の高齢者に物を与えている。二十一日に住吉社(住吉大神)に幣帛を奉納している。二十二日、坂合部宿祢唐に一階級進めて正五位下を贈っている。亡くなられたのであろう。右大臣阿倍朝臣御主人の功封百戸の四分の一を子の廣庭に、また高田首新家の功封四十戸の四分の一を無位の子である「首名」(新家に併記)に伝授している。

八月丙辰。遣新羅使從五位上波多朝臣廣足等至自新羅。戊午。伊勢伊賀二國蝗。辛巳。周防國大風。拔樹傷秋稼。

八月三日に新羅への使者、波多朝臣廣足等が帰国している。五日に伊勢・伊賀の二國で「蝗」の被害が発生している。前々年にも「因幡伯耆隱伎」の三國で被害があったと記載されていたが、こちらの地図を参照すると西から次第に広がる状態を示しているようにも伺える。二十八日に周防國で大風が吹いて樹が引き抜かれた有様となり、秋の収穫に被害があったと伝えている。

冬十月丁巳。有詔。以水旱失時。年穀不稔。免課役并當年田租。辛酉。粟田朝臣眞人等拜朝。」正六位上幡文通爲遣新羅大使。戊辰。幡文通賜造姓。

十月五日、季節外れの水害・旱魃があって、穀物が実らなかった故に今年の課役・田租を免じたと記載している。九日に粟田朝臣眞人等が帰朝報告している。また「幡文通」を新羅大使として遣わされ、十六日に「造」姓を賜っている。

<幡文通・百濟人成>
● 幡文通

親王ほどではないが、殆ど出自の情報が欠落している人物のようである。大崗忌寸と同祖と言われるが、この一族も同様の状況であり、漢系渡来氏族及びその関連する名称とから求めるしか残されていないと思われる。

と言うことで、「倭漢」の近隣、既出の文忌寸の地を探すと、今まで登場回数の極めて少ない百濟河の西岸にどうやら見出せそうな感じである。

幡文=広ろがった地(幡)が交差するような地(文)の傍らにある様と読み解くと、現在の香春隱神社ある台地を表していると思われる。

その台地の西北部に通=筒のような谷間が延びていることが解る。この谷間の奥がこの人物の出自の場所と推定される。後に「造」姓を授けられているが、その地形も見受けられる。後に幾度か「幡文造通」として登場されるようである。

後(元正天皇紀)に百濟人成律令の撰定の功で田四町を賜っている。出自は不詳のようであるが、「百濟」の地で人成=谷間にある平らに盛り上がったところと解釈すると、図に示した場所が出自ではなかろうか。

十一月癸巳。設太上天皇百七齋于諸寺。庚寅。遣從五位上忌部宿祢子首。供幣帛。鳳凰鏡。窠子錦于伊勢大神宮。丙申。改從四位下引田朝臣宿奈麻呂姓。賜阿倍朝臣。」賜正四位下粟田朝臣眞人。大倭國田廿町穀一千斛。以奉使絶域也。壬寅。始定藤原宮地。宅入宮中百姓一千五百烟賜布有差。

十二月辛酉。供幣帛于諸社。辛未。大宰府言。去秋大風。拔樹傷年穀。是年夏。伊賀伊豆二國疫。並給醫藥療之。

十一月八日に忌部宿禰子首(人)を遣わして、幣帛・鳳凰鏡・窠子(鳥の巣模様)錦を伊勢神宮に供えている。十一日に太上天皇の百七齋を諸寺で行っている。十四日、引田朝臣宿奈麻呂は阿倍朝臣姓を賜っている。また遣唐執節使を務めた粟田朝臣眞人に大倭國の田二十町・籾殻一千石を与えている。二十日に初めて藤原宮の地所を定めている。宮中の百姓千五百にそれぞれ布を与えている。

十二月十日に幣帛を諸社に供えている。二十日に大宰府で秋の大風が樹を引き抜くほどに吹いて、稲に損害が出たと伝えている。この年の夏には伊賀・伊豆の二國で疫病が発生し、医薬を給している。畿内での流行も時間の問題か?・・・。