2021年2月9日火曜日

天之眞宗豐祖父天皇:文武天皇(18) 〔489〕

天之眞宗豐祖父天皇:文武天皇(18)


大寶三年(即位七年、西暦703年)十月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、和訳はこちらを参照。

冬十月丁夘。任太上天皇御葬司。以二品穗積親王爲御裝長官。從四位下廣瀬王。正五位下石川朝臣宮麻呂。從五位下猪名眞人大村爲副。政人四人。史二人。四品志紀親王爲造御竃長官。從四位上息長王。正五位上高橋朝臣笠間。正五位下土師宿祢馬手爲副。政人四人。史四人。甲戌。僧隆觀還俗。本姓金。名財。沙門幸甚子也。頗渉藝術。兼知算暦。癸未。天皇御大安殿。詔賜遣新羅使波多朝臣廣足。額田人足。各衾一領。衣一襲。又賜新羅王錦二匹。絁卌匹。

十月九日に太上天皇の葬儀の司を任命している。葬儀の装束を取り仕切る長官に穗積親王を、副官に廣瀬王・「石川朝臣宮麻呂」・猪名眞人大村(猪名眞人石前に併記)を、加えて政人(判官、三等官)四人、史(主典、四等官)二人を任じている。御竈を造る長官に志紀親王を、副官に「息長王」・高橋朝臣笠間土師宿祢馬手を、加えて政人四人、史四人を任じている。

十六日、僧隆觀を還俗させて「金財」の姓名としている。沙門幸甚の子であって学芸・技術に優れ、算術・暦学を兼備していたと記している。大寶二年(即位六年、西暦702年)四月の記事に飛騨國が神馬を献上した、その中心人物として登場していた。二十五日に新羅への使者波多朝臣廣足額田人足(額田部連林に併記)及び新羅王に物を与えている。

<石川朝臣宮麻呂・難波麻呂>
● 石川朝臣宮麻呂

蘇我連子大臣の五男であり、兄弟の安麻侶・蟲名が既に登場している。現地名の京都郡苅田町谷が出自の場所となるが、果たして「宮」の地形を見出せるか?…であろう。

頻出の宮=宀+呂=山稜に挟まれて積み重なった様であり、案じることなく図に示した場所と推定される。

別名が宮守と知られる。これも頻出の守=山稜に挟まれた地で川が蛇行している様を表すと解釈した。川名は不詳だが地図上に確認することができる。この時点では正五位下であるが、最終的には従三位まで昇進されたようである。

後の元明天皇紀に石川朝臣難波麻呂が登場する。同じく「連子」の子であったと知られている。難波=川が大きく曲がる様と読み解いて来た。現在の舟入川が直角に曲がる場所が出自と推定される。現在は広い水田になっているが未だ開拓が進んでいなく、河畔に佇まっていたのではなかろうか。

<息長足日廣額天皇>
● 息長王

さて、この王族の出自に関しては、相変わらず系譜など不詳のようである。舒明天皇の和風諡号、「息長足日廣額天皇」に関わると推測される(左図参照)。

「息長」だけの表記故に詳細な場所を求めることは叶わないが、おそらく舒明天皇が養育された宮を示しているように思われる。

史上極めて重要な氏族の息長であるが、相変わらず諸説乱立の状態であって、一向に収束する兆しが見えない有様である。

こんなええ加減さを残したまま延々と論文が積み重ねられて行く、その積み重ねが崩れ去ることを恐れる心境で…そんな繊細さとは無縁かもしれないが…千数百年が過ぎ去ってしまったのであろう。情けないこと、この上なし、である。

十一月癸夘。太政官處分。巡察使所記諸國郡司等有治能者。式部宜依令稱擧。有過失者。刑部依律推斷。

十二月甲子。始皇親五世王。五位巳上子。年滿廿一已上者。録其歴名。申送式部省。己巳。以正五位下路眞人大人爲衛士督。癸酉。從四位上當麻眞人智徳。率諸王諸臣。奉誄太上天皇。謚曰大倭根子天之廣野日女尊。是日。火葬於飛鳥岡。壬午。合葬於大内山陵。

十一月十六日に太政官が以下のことを取り決めている。巡察使が記録した諸國司等で統治能力がある者は式部が律令に従って推挙し、過失のある者は刑部が同じく律令に準じて調べて裁断するように申し付けている。

十二月八日、天皇から五世代の以上の王で五位以上の子が年齢は満二十一歳の者の名前を式部省へ申し送るようにせよ、と述べている。十三日に路眞人大人(父親の路眞人迹美に併記)を衛士督(宮城護衛の監督者)に任じている。

十七日、當麻眞人智徳が諸王諸臣を率いて、誄を奏上し、「大倭根子天之廣野日女尊」の諡号を奉っている。「高天原廣野姬天皇」の和風諡号に基づくのであろう(「大倭根子」の解釈も含めて、こちら参照)。この日に飛鳥岡(岡本宮の近隣?)で火葬され、二十六日に大內山陵に合葬(天武天皇)されたと記載している。

慶雲元年春正月丁亥朔。天皇御大極殿受朝。五位已上始座始設榻焉。癸巳。詔以大納言從二位石上朝臣麻呂爲右大臣。无位長屋王授正四位上。无位大市王。手嶋王。氣多王。夜須王。倭王。宇大王。成會王並授從四位下。從六位上高橋朝臣若麻呂。從六位下若犬養宿祢檳榔。正六位上穗積朝臣山守。巨勢朝臣久須比。大神朝臣狛麻呂。佐伯宿祢垂麻呂。從六位下阿曇宿祢虫名。從六位上采女朝臣枚夫。正六位下太朝臣安麻呂。從六位上阿倍朝臣首名。從六位下田口朝臣益人。正六位下笠朝臣麻呂。從六位上石上朝臣豊庭。從六位下大伴宿祢道足。曾祢連足人。正六位上文忌寸尺加。從六位下秦忌寸百足。正六位上佐太忌寸老。漆部造道麻呂。上村主大石。米多君北助。王敬受。從六位上多治比眞人三宅麻呂。正六位上臺忌寸八嶋並授從五位下。丁酉。二品長親王。舍人親王。穗積親王。三品刑部親王益封各二百戸。三品新田部親王。四品志紀親王各一百戸。右大臣從二位石上朝臣麻呂二千一百七十戸。大納言從二位藤原朝臣不比等八百戸。自餘三位已下五位已上十四人各有差。壬寅。詔。御名部内親王。石川夫人益封各一百戸。戊申。伊勢國多氣度會二郡少領已上者。聽連任三等已上親。辛亥。始停百官跪伏之礼。

慶雲元年(即位八年、西暦704年)正月元旦を迎えている。太極殿で朝賀を受けられ、五位以上の者の座席に「榻」(長椅子)が初めて設けられている。七日に石上朝臣麻呂を右大臣としている。無冠位の親王等にそれぞれ冠位を授けている。「長屋王」に正四位上を、「大市王・手嶋王・氣多王・夜須王・倭王・宇大王・成會王」に從四位下を授けている。「長屋王」は無冠位からいきなり正四位とは、かなり破格な扱いのように思われる。

また、「高橋朝臣若麻呂」・「若犬養宿祢檳榔」・穗積朝臣山守・「巨勢朝臣久須比」・「大神朝臣狛麻呂」・「佐伯宿祢垂麻呂」・「阿曇宿祢虫名」・「采女朝臣枚夫」・太朝臣安麻呂・「阿倍朝臣首名」・「田口朝臣益人」・「笠朝臣麻呂」・「石上朝臣豊庭」・大伴宿祢道足(男人に併記)曾祢連足人(韓犬に併記)・「文忌寸尺加」・秦忌寸百足・「佐太忌寸老」・漆部造道麻呂・「上村主大石」・「米多君北助」・「王敬受」・多治比眞人三宅麻呂臺忌寸八嶋從五位下を授けている。

十一日に長親王舍人親王穗積親王刑部親王の封戸を各々二百戸、新田部親王志紀親王は各々一百戸、石上朝臣麻呂には二千百七十戸、藤原朝臣不比等は八百戸を、また三位以下五位以上の者十四人に夫々増封している。十六日、御名部内親王(天智天皇の皇女)・石川夫人(天武天皇が娶った蘇我赤兄の大蕤娘)に各々百戸を増やしている。

二十二日に伊勢國多氣郡・度會郡の少領以上の者に三等以上の親族の連任を聞き入れている。この二郡には伊勢神宮の神領があったことに拠るのかもしれない(詳細はこちら参照)。二十五日、百官が跪き平伏する礼を取り止めている。以下に初登場の人物の出自の場所を求めておこう。

<長屋王>
● 長屋王

父親が天武天皇の高市皇子、母親が天智天皇の御名部皇女(鸕野皇女の妹であり、阿部皇女の姉)と知られている。正にサラブレッドの様相である。その中でも際立つ血統であろう。

与えられた冠位も納得されるところではあるが、それが反って後の事件の背景にあるのかもしれない。高市皇子の控え目さが引き継がれているなら、やはり事件は陰謀の匂いがするようである。

詳細は事件勃発時に述べるとして、長屋=長く尾根が延び至った様から図に示した場所が出自と推定される。現在はバイパス国道などが通り些か地形が変わっているが、当時を偲ぶことは可能のように思われる。

母親は御名部皇女から内親王に呼称が変わっているのも、初登場の多くの王も含めて皇親を取り纏める役目を長屋王に託したからであろう。天武天皇が目指した皇親による統治体制を維持するためになされた人事のように推測される。

<大市王・河内王・阿刀王・長田王・智努王>
● 大市王

父親が天武天皇の長皇子(親王、母親は天智天皇の大江皇女)であり、この王も長尾王と同じく血統書付きの人物であったようである。

調べると後に臣籍降下して「文室眞人」姓を賜ったと伝えられているが、正二位大納言まで昇進されている。

大市=平らな頂きの山稜が集まった様であり、その地形が長皇子の山稜が延びた端辺りに見出せる。臣籍降下後の文室=谷間の奥が交差するような様と読み解ける。小ぶりな二つの谷間の配置を表していると思われる。

「大市」の特定するには言葉足らずの表記がきちんと別表記されていることが解る。多くの王が誕生するが長寿を全うした例は少なかったようで、享年七十七歳まで活躍された稀な人物だったとのことである。

兄の河内王長田王及び弟の阿刀王が後に登場する。「河内」は東側の谷間で川に挟まれた場所であろう。「長田」は大市王の南隣の長く延びた台地上、「阿刀」は西隣の地形が「刀」の地形の娜所と推定される。別名に安都王があったと知られている。安都=山稜に囲まれて嫋やかに曲がる谷間で山稜が交差している様と読み解ける。地図の解像度では読み取り辛いが、それらしき地形であることは確かであろう。王は「刀」の内側に居たと推定される。

また後(續紀の元正天皇紀)に智努王が登場する。後に臣籍降下して文眞人姓を賜ったと知られ、従二位まで昇進して(中納言など歴任)「淨三」と名乗ったと伝えられている。頻出の智奴(努)の地形から出自の場所は、現在は大きな池(先立岩池)となっているが、その北岸に延びる山稜の地形を表したと思われる。

以下同じく授位された「手嶋王・氣多王・夜須王・倭王・宇大王・成會王」並ぶがその出自に関する情報を探し出すことは叶わなかった。地形象形表記として少々補足しながら、その出自の場所を引用地図で示して置くことにする。勿論飛鳥近辺での探索結果である。

● 手嶋王

手嶋=腕の様に延びた山稜の端が鳥の形をしている様として、磯城縣の先端部、天武天皇紀に村屋として登場した地域と思われる(こちら参照)。

● 氣多王

「氣多」は古事記の大國主命の段で登場する「氣多之前」で用いられた表現と思われる。氣多=桁=算盤玉が並んだような様と読み解いた。それに類似する地形を求めると磯城縣の東隣の山稜の形を表していると思われる(こちら参照)。尚天武天皇の磯城皇子の推定出自場所と重なるように見受けられるが、『吉野の盟約』にも顔を出さず早世したのであろうと言われている。同一場所の宮に住まっていたのかもしれない。

● 夜須王

夜須=複数の川が流れる谷間に州がある様であり、飛鳥近辺でこれも特定するには難しい地形なのであるが、河内國に抜ける現在の味見峠に向かう谷間ではなかろうか。現地名の須川も何らかの繋がりがあるかもしれない(こちら参照)。

● 倭王

天武天皇の磯城皇子の子と伝えられているようである。後に酒部王が登場し、その出自の場所を求めた。「倭」だけでは、一に特定するのは難しいが、最も「倭」らしく見える山稜の麓と推定して併記した。

● 宇大王

宇大=谷間で延びた山稜が平らな頂の様と読み解くと、飛鳥板蓋宮の「蓋」の付け根辺りではなかろうか(こちら参照)。「板蓋宮」は『乙巳の変』の舞台であったが、白雉五年(西暦654年)に焼失したと伝えられている。

● 成會王

「成會」の文字列は耳成(梨)山の別名と知られている。ならばその「成會」の地形の麓辺りが出自の場所と推定される。五徳川が流れる谷間の奥に位置する(こちら参照)。

<高橋朝臣若麻呂-上麻呂-安麻呂-毛人-男足-首名>
● 高橋朝臣若麻呂

直近では高橋朝臣笠間が登場していた。祖父が膳臣摩漏、父親が高橋朝臣國益と知られており、その系譜を辿った配置が明らかとなった。

一方、前出の高橋朝臣嶋麻呂の系譜は定かではないようで、その出自の場所を求めたが、どうやた「膳」の地形を形成する二つの山稜の片側の麓のように伺われた。

今回登場の「若麻呂」の系譜は不明らしく、「摩漏」の山稜とは異なる場所に求めることになりそうである。すると、若干高低差が少なく地図上では見極め辛いが、西側の山稜の端が若=叒+囗=多くの山稜の端がある様を表していると思われる。

「嶋麻呂」は、文武天皇即位二年(西暦698年)に伊勢守として転出しており、「若麻呂」はその近隣が出自の場所だったのであろう。空席となった地の人材確保も含めて授位させたのかもしれない。後に上麻呂が登場する。何とも特定し辛い名前であるが、多分若麻呂の上手の場所を示しているのではなかろうか。

後に「笠間」の子の安麻呂及び系譜は定かではないが毛人男足が登場する。安=山稜に挟まれた嫋やかに曲がる谷間として父親の東隣の場所と推定した。毛=鱗であるが、些か地図上での確認は難しくなっているが、図に示した辺りが出自の場所かと思われる。

更に後(聖武天皇紀)に”外”従五位下で叙爵されて高橋朝臣首名登場する。首名=山稜の端にある首の付け根のようなところとして、図に示した場所が出自と推定した。纏めて上図に併記した。

<若犬養宿祢檳榔-東人>
● 若犬養宿禰檳榔

「若犬養」は前出の葛城稚犬養連網田の谷間と思われる。「若」=「稚」と読んでも良いし、「隹」の形に拘ることなく「多くの山稜が延びた様」で十分に場所を特定することができる。

幾度か登場の檳榔=山稜が近付いた傍らでなだらかになった様と読み解いて来た。谷間が縊れたところを表している。

となるとかなり容易にその場所を求めることができる。図に示した犬養五十君の西側に当たるところと推定される。

書紀は「五十君」の出自の場所を曖昧にするために「(葛城)稚」を省略したのである。それに便乗して勝手な解釈が、今なお行われているようである。とは言え、この地も有能な人材が住まっていたことには違いなかろう。世代が変わって輩出する若者の登用は欠かせない施策の一つであったと推測される。

後(聖武天皇紀)に若犬養宿祢東人が外従五位下を叙爵されて登場する。頻出の東人=谷間を突き通すようなところと読むと、図に示した辺りが出自と推定される。

<巨勢朝臣久須比>
● 巨勢朝臣久須比

「巨勢朝臣」の人材輩出は凄まじいのであるが、まだまだ土地に余裕がある・・・とは言うものの彦山川畔に行き着いたようでもある。

図に近隣で登場した人物名を掲載したが、かつては山稜に由来するところが、今回は、谷間に流れる川(複数あるが名称の判るのは唯一前田川のみ)に挟まれた州に由来する名称のようである。

久須比=くの字形に曲がった州が並んでいる様と読み解けるが、その場所は現在の標高(目安は約10m)から図に示した州の先端は海(汽水)であったと推測される。

巨勢臣紫檀系(子が麻呂、多益須)とは別のようである。「馬飼」との関係も定かではなく、不明なところが多い。「巨勢」が「淡海」に近接することは”極秘”であろうから、あまり真剣に調べられていなかったのかもしれない。

<大神朝臣狛麻呂・豐嶋>
● 大神朝臣狛麻呂

流石に「三輪君」である。系譜がしっかりと記録されていたようである。「逆」→「小鷦鷯」→「文屋」→「利金」→「狛麻呂」と繋がっていたと伝わっている。

すると前出の高市麻呂、もう一人安麻呂も含めて兄弟であったと知られている。彼らの出自の場所も併せて図に記載した。

頻出の狛=犬+白=平らで小高いところが並んでいる様であり、小ぶりな谷間の出口の地形を表していると思われる。丹波守、武蔵守などの地方官を歴任しながら正五位上まで昇進されたとのこと。

尚、父親の利金は表舞台に登場しないようなのだが、利金=切り離された山麓の高台として図中に出自の場所を示した現在の妙見神社がある高台辺りと推定される。後(聖武天皇紀)に大神朝臣豐嶋が登場する。「狛麻呂」の妹と知られている。山稜の端を鳥の形()に見立て、その裾野に段差がある高台()となっている地形を由来とする名前と思われる。

<佐伯宿禰垂麻呂・蟲麻呂・馬養>
● 佐伯宿禰垂麻呂

佐伯連(宿禰)の系譜もそれなりにしっかり伝わっていた様子である。「東人」の系譜が「廣足」及び「麻呂」の兄弟に広がりそれぞれの子孫が登場するようになっている。

一方の「子麻呂」の系列では「大目」が目立つくらいで余り登場の機会はなかったのであるが、ここに来て「大目」の兄弟「歳主」の子が授位している。これも埋もれ気味の系譜を掘り起こしたような感じである。

「垂麻呂」の垂=垂れ下がるように延びる山稜に挟まれた広い谷間と読み解いた。吉備笠臣垂などで用いられていた文字である。全く類似する地形が「子麻呂」の南側に見出せる。何度も述べたようにこの狭い谷間にひしめきあっている状態のようである。

父親の「歳主」の「歳」=「歩+戌」と分解されるが、殆ど名前に用いられたことがなく、即ち地形象形的使用は初めてのようである。この文字要素から通常用いられる意味に到達するのは些か距離がありそうだが、鉞のような道具で作物を刈ることから「歳」を表すと言う解釈が妥当のようである。

「歩」=「左右の足」を表すとすると、歳=山稜の延びた端が鉞の形をしている様と読み解ける。「子麻呂」の地形を示していると思われる。主=真っ直ぐに延びる様であり、この鉞の柄に当たる場所を表していると解釈される。いずれにしても「子麻呂」の直ぐ脇が出自の場所と推定される。

後(元正天皇紀)に「大目」の子の蟲麻呂馬養が登場する。蟲=山稜の端が細かく岐れている様であり、頻出の馬養=馬の地形の傍で谷間がなだらかな延びる様と読み解いた。父親の近隣に見出すことができる。併せて図に示した。

<阿曇宿禰蟲名>
● 阿曇宿祢虫名

「阿曇連(宿禰)」は途絶えることなく、しかし決して頻度高くには登場しない氏族であろう。その名は伊邪那岐命の時代に遡ることができる。実に古豪なのである。

最近接では阿曇連稻敷が天武天皇紀に記載されているが、その後は音沙汰無しであった。どうやら新しい世代を登用することが一つの目的だったのであろう。

蟲=山稜の端が細かく岐れている様名=山稜の端の三角州を表すと読み解いて来た。その地形を図に示した場所に見出すことができる。皇極天皇紀に登場の大仁(冠位十二階の第三位)阿曇連比羅夫の出自の場所近隣と思われるが、その繋がりは定かではないようである。

<采女朝臣枚夫・眞木山>
● 采女朝臣枚夫

「采女臣(朝臣)」の直近の人物は竹(筑)羅である。おそらくその近傍かと思われる。また「枚夫」の別表記が「比良夫」と知られている。

「枚」=「木+攵」と分解され、「枝が次々と延び出ている様」を表す文字と解説されている。更に「攵」=「卜+又(手)」と分解される。地形象形的には山稜が岐れて延びる様を表すと解釈できる。

現在の地形図では全く不明であるが、国土地理院写真(1961~9年)の図に示したように主稜線から枝稜線が延び出ている様を「枚」で表していると思われる。纏めると枚夫=岐れて延び出た山稜が交差するように寄り集まっているところと読み解ける。

地図に長行西(五)と記載された住宅地がすっぽりと収まる場所であることが解る。別名の幾度か登場している比良夫=なだらかに並んでいる地が寄り集まったところと読み解いた。図に示した場所から解るように同じ地形を表現していると思われる。

『壬申の乱』において天武天皇一行はこの山稜の東麓を逃げ延びたと推定した。「采女」の脇をすり抜けて鈴鹿に向かったのである。この行程も実に巧み、勿論それを承知で桑名への逃亡を計画したのであろう。

後(聖武天皇紀)に眞木山で火災があり、数百町が延焼したと記載している。眞木山=山稜が寄せ集められた山と読み解ける。多くの山稜が延び出ている山容を表している。「枚夫」の南側と推定される。

<阿倍朝臣首名-廣庭-人主・布勢朝臣廣道-國足>
● 阿倍朝臣首名

阿倍朝臣御主人が亡くなって間もない時期の授位だから近親か?…と推測されているが、委細は不詳のようである。そんな背景もさることながら、「首名」から出自の場所を求めてみよう。

「阿倍臣」は勢力範囲拡げてかつての「布勢臣」の領域へと侵出して来たことは既に語られていたが、名=夕+囗=山稜の端の三角形の地(三角州)を求めることは本来の「阿倍臣」の地では難しいように思われる。

更にその傍らに首=首の付け根のような様がある場所は見当たらず、推測通りに「御主人」の近隣で探すと、戸ノ上山の山稜が延びた端で「首名」の地形を見出せることが解った。

現在の道路が綺麗に三角形(三日月形)を示してくれている。それにしても長期にわたって要人を輩出した阿倍一族の広がりは凄まじかったようである。この一族の顛末に興味が湧くが、後日としよう。尚、少し後に「御主人」の子、廣庭遺産相続させたと記載される。現在の戸ノ上中学校辺りかと推定される。また、弟の人主も知られているようであり、「廣庭」の南側の突き出た山稜の麓の谷間辺りと推定される。

後(元正天皇紀)に布勢朝臣廣道布勢朝臣國足が登場する。それぞれの出自の場所は「首名」の西隣の場所と推定される。阿倍一族で纏められていたのが、再び元の氏名で名乗り出したのであろう。

<田口朝臣益人-廣麻呂>
● 田口朝臣益人

蘇我田口臣として登場して、「川掘」、「筑紫」が登場していた。一時は正に国の中心の地のような賑わいであった場所と思われる。その一族との繋がりは定かではない様子である。

新益京などで用いられた益=八+八+一+皿=二つの谷間に挟まれた一様に平らな様と読み解いた。そして近江國益須郡の「益」が示すところを地図上に下片島と記載された場所と推定した。

人=谷間を表すとすると「益人」の出自の地は図に示した辺りと推定される。「川掘」、「筑紫」はその当時の政争に関わって真っ当には過ごせなかった様子であり、後裔達も再び表舞台に立つには遠く離れていたように推測される。「益人」は一説に「筑紫」の子とされるが、配置的には妥当なようである。後に田口朝臣廣麻呂が登場する。現在の片島小学校辺りと思われる。

かつては先進であった地に埋没させておくには忍びなかったのかもしれない。今回の人事は、埋もれた人材の発掘に重点を置いているように伺える。『壬申の乱』で多くの事例があったことを念頭にしていたのであろう。

<笠朝臣麻呂(滿誓)・吉麻呂・長目・御室>
● 笠朝臣麻呂

吉備笠臣垂の子と知られる。ならば容易に、と思われるが、「麻呂」では何とも特定に困った状況に陥ることになる。更に調べるとこの人物は出家して、それには種々の理由があったのだろうが、「滿誓」と名乗っていたと伝えられている。

と言ってもこれ以外の情報はなく、「滿誓」も地形象形しているとして読み解くことにする。

「滿」=「氵+廿+兩」と分解される。「廿」=「牛の頭部」を象った文字であり、「兩」=「全体として一様に広がった様」を表す文字と知られる。それを水面のような様と見做して通常の意味に用いられている。地形象形的には牛の角が広がったような地形として、「滿」=「水辺で突き出た山稜が並んでいる様」と解釈される。

「誓」=「折+言」と分解される。すると「誓」=「耕地(言)を二つに分ける(折)様」と解釈される。纏めると滿誓=水辺で突き出た山稜がならんでいる地で耕地を二つに分けているところと読み解ける。この「折」部が「垂」の中心線に対応しているのである。おそらく出自の場所は最も下方の「麻呂」の地ではなかろうか。なかなかに読み応えのある名称と思われる。

後々まで活躍されたとのこと、觀世音寺の完成に関わったり、筑紫歌壇に名を連ねたりされたようである。この程度の名前を自分に付けることなど簡単だったのかもしれない。後(元明・元正天皇紀)に兄弟の笠朝臣御室が登場する。御室=奥深い谷間を束ねる様と読み解くと、山麓の場所と推定される。

後(元明天皇紀)に「垂」の兄弟の諸石の子と知られる笠朝臣吉麻呂・笠朝臣長目が登場する。吉=蓋+囗=蓋のような大地と読み解いた。父親諸石の西側の地形を示していると思われる。また長目=長い谷間と読むと、「笠」からの谷間の麓辺りを示していると思われる。父親の東側に当たる。

<石上朝臣豐庭>
● 石上朝臣豐庭

右大臣「石上朝臣麻呂」の弟である。それにしても物部連麻呂として登場してからの昇進には目を見張るものがある(大友皇子の介添えについてはこちら参照)。

当然しかるべき親族が引き立てられたであろう。この地も決して広くはなく、子孫も彼の近辺としたらかなり限られた場所になったと思われる。中臣(藤原)ほどではないにしても・・・。

これは容易に見出せる。「麻呂」の麓が段々になって広がっている様豐庭と表記したと思われる。正に”磯(石)の上”の場所である。

ところで兄弟と言うことは父親がおり、その名前、物部連宇麻乃も知られているようである。ついでと言ってはなんだが、宇麻乃=谷間で延びる平たい(麻)山稜(宇)の傍らにある曲がって垂れ下がった(乃)ようなところと読み解ける。現在の西円寺辺りと推定される。

<文忌寸尺加・鹽麻呂>
● 文忌寸尺加

「文忌寸(直)」からも多くの人物が登場しているが、以前もそうであったように系譜は定かではない。「尺加」もご多分に漏れずであり、その名前から出自の場所を求めてみよう。

「尺」もそれなりに用いられている文字であり、直近では船史惠尺などに含まれている。尺=[尺]の形の谷間を表すと読み解いた。

倭漢の地でそれを探すと、「博勢(士)」の西隣の谷間を示していることが解る。頻出の加=広げる、延ばす様を示し、「尺」の谷間の出口辺りが出自の場所と推定される。

後(元正天皇紀)に壬申の功臣である「智德」の子、鹽麻呂が登場する。鹽=凹凸のある平らに広がった様と解釈した。父親の北隣の地形を表していると思われる。長い年月を経ても、壬申の功は消え去ることがなかったようである。

連綿と輩出して来た「文忌寸」の地からの若手の登用を述べているように推測される。優秀な人材を如何に確保するか、何時の世にもなさねばならない政治の肝要であろう。加えて、世代交代も重要であり、老害が発生しては元も子も失くしてしまうことになろう。

<佐太忌寸老-味村>
● 佐太忌寸老

調べると東漢一族であり、その中の「坂上一族」との関係があることも併せて分かった。すると彼らが住まった現地名京都郡みやこ町豊津の台地周辺と推定される。

頻出の「佐」=「人+左」=「谷間にある山稜が左手のような様」と解釈すると、佐太=谷間にある左手のような山稜が大きく広がったところと読み解ける。

残念ながら、それらしき場所は現在はゴルフ場となっていて、国土地理院航空写真1961~9を参照しながら求めることにする。その前に父親の名前、「百足」が伝わっていて、先ずはそれが示す場所を求めた。

頻出の百足=ムカデの足のように山稜が延びているところ(延び出た丸く小高い地が連なっているところ)と解釈すると、図に示した場所が「佐太」の手の先辺りに見出せる。老=海老のように曲がった様であり、些か地形が変わっているが、図に示した場所が出自であったのではなかろうか。この後も活躍されたとのことで正五位下丹波守を任じられている。

ずっと後(称徳天皇紀)になるが、佐太忌寸味村が外従五位下を叙爵されて登場する。既出の文字列である味村=山稜を横切る谷間の入口が手を広げたようになっているところと読み解ける。図に示した場所が出自と推定される。系譜は定かではないようである。そして、續紀に記載される佐太忌寸一族は「味村」が最後となる。

<上村主大石・通・人足>
● 上村主大石

上村(寸)主は天武天皇紀に登場していた。現地名の田川郡香春町五徳の谷奥が出自の場所と推定した。氏族としての素性は定かでないようで、殆ど情報が得られない。

ともかくも「大石」の出自の場所を求めることにする。左図に示した通り、「光父」の西側に平らになった山麓が見出せる。その地を大石と表記したと思われる。

後の元明天皇紀に上村主通が、また元正天皇紀に阿刀連人足が登場する。通=辶+甬=山稜の頂に突き通る谷間と解釈すると、香春三ノ岳に通じる谷間を表していると思われる。人足=谷間に足のような山稜が延び出ているところと解釈され、図に示した場所と推定される。阿刀連は「光父」の山稜の端の台地()が「」の形をしていることに由来する命名であろう。残念ながら多くの人材が登場するが、系譜が確かな例が少ないようである。

現在もこの谷奥深くにまで棚田が造られている。その標高は約180mであり、長きにわたって拓かれて来た土地の様子が伺える。日本の原風景を今も留める地であろう。この地を出自に持つ人物の登用も、やはり目的あってのことかと思われる。

<米多君北助>
● 米多君北助

「米多」の姓氏家系を調べると応神天皇の後裔であり、古事記の若沼毛二俣王から発生した一族が名乗っていた氏姓であることが分った。記紀には記載がなく、『先代旧事本紀』などによる、と記載されている。

早々に丹波國の地を探索すると、「二俣王」の東側の谷間にある山稜の端が米粒のように途切れていることが見出せる。これを米多と表記したのであろう。

現地名は行橋市稲童であるが、標高差が少なく、危うく見落とすところであったが、「米多」の文字列が示す具体的な地形を思い浮かべることで、見分けることができたようである。

「北」=「背中合わせになった様」、「助」=「且+力」=「大きな段差がある様」と解釈すると、北助=谷間を挟んで背中合わせになった地の傍らで大きな段差となっているところと読み解ける。その文字形のままの山稜であることが解る。

● 王敬受

天武天皇紀に登場した百濟王良虞の兄弟かもしれないが、全く系譜は不詳のようである。百濟からの日本に渡った王族を上手に活用していた時代だったのであろう(こちら参照)。

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長くなったが、多くの情報が得られたようである。また以前に読み解いた出自場所の若干の修正も行え有意義だった、と・・・。