2020年10月24日土曜日

天渟中原瀛眞人天皇:天武天皇(26) 〔463〕

 天渟中原瀛眞人天皇:天武天皇(26)


年が明けて即位十五年(西暦686年)、年号「朱鳥」と記載されている。引用は青字で示す。日本語訳は、こちらこちらどを参照。

朱鳥元年春正月壬寅朔癸卯、御大極殿而賜宴於諸王卿。是日詔曰、朕問王卿以無端事、仍對言得實必有賜。於是、高市皇子、被問以實對、賜蓁揩御衣三具・錦袴二具、幷絁廿匹・絲五十斤・綿百斤・布一百端。伊勢王、亦得實、卽賜皁御衣三具・紫袴二具・絁七匹・絲廿斤・綿卌斤・布卌端。是日、攝津國人百濟新興、獻白馬瑙。庚戌、請三綱律師及大官大寺知事・佐官、幷九僧、以俗供養々之、仍施絁綿布各有差。辛亥、諸王卿各賜袍袴一具。甲寅、召諸才人・博士・陰陽師・醫師者、幷廿餘人、賜食及祿。

正月二日、諸王卿と宴を行い、「無端事」(なぞなぞ?)を問うと高市皇子と伊勢王が答えて、それぞれに多くの品物(賞品?)を貰ったと記載している。この日、攝津國の「百濟新興」が「白馬瑙」を献上している。九日に「三綱」(寺の監督役)、「律師」(僧尼の管理役)及び大官大寺知事・佐官、計九僧に俗人の供養をさせ、綿布などを施している。

十日、諸王卿に「袍袴」(表着の袍,内側の脚衣である袴 )を一揃え与えている。十三日に種々の才人・博士・陰陽師・医師など計二十余人に食物と禄を与えたと記している。尚、元号「朱鳥」についてはこちらなどを参照。

<攝津國百濟新興・白馬瑙>
白馬瑙

今年も早々に献上のお話が盛り込まれている。攝津國は盛んに土地開発が行われていたのであろうか、即位九年二月に続いて「白馬瑙」である。

勿論「白い瑪瑙」と解釈されて、「瑪」と「馬」の違いなど全く無視されて読み飛ばされているのが現状である。

地形象形表記しての白馬=くっ付いて並ぶ馬の地形である。目新しい文字である「瑙」=「玉+𡿺」と分解される。「𡿺」=「頭蓋の柔らかく凹んだところ」を表す文字と知られる。地形象形表記では、瑙=丸くなだらかに窪んだ様と読み解ける。その地形が現在の行橋市泉中央に見出せる。「馬」の地形には些か曖昧さが残るが、下流域での地形象形としておこう。

献上した当人の名前、百濟新興が記載されている。長く延びた山稜の端であって、間違いなく「百濟」(連なり並ぶ小高いところが水際で揃っているところ)の様相であろう。新興=山稜が断ち切られて筒の様に刳り抜かれたところと読み解ける。前出の法興寺などで用いられた「興」の解釈に類似する。彼の居場所は、図に示したように「白馬瑙」の北側に接するところと求められる。

六年前の即位九年(西暦680年)献上の白巫鳥の東側に当たる場所と解る。天武天皇紀になると海辺に近接する下流域の開発が行われていたことが伺える記述である。治水の進展、沖積の進行に伴って平地での稲作が盛んになりつつあった時代と推測される。

乙卯酉時、難波大藏省失火、宮室悉焚。或曰、阿斗連藥家失火之引及宮室。唯、兵庫職不焚焉。丁巳、天皇御於大安殿、喚諸王卿賜宴、因以賜絁綿布各有差。是日、天皇問群臣以無端事、則當時得實重給絁綿。戊午、宴後宮。己未、朝庭大酺、是日、御窟殿前而倡優等賜祿有差、亦歌人等賜袍袴。庚申、地震。是月、爲饗新羅金智祥、遣淨廣肆川內王・直廣參大伴宿禰安麻呂・直大肆藤原朝臣大嶋・直廣肆境部宿禰鯯魚・直廣肆穗積朝臣蟲麻呂等于筑紫。 

一月十四日に「難波大藏省」が失火して宮室が全て焼失している。「阿斗連藥」の家の失火から延焼たように言われている。兵庫職(兵器庫?)は無事だったようである。十六日に諸王卿に宴をさせ、綿布などを与えている。同日、「無端事」を行って答えられた者には綿などを与えたと記載している。

十七日に宴を催している。翌日には御窟殿の前で「倡優」(芸人)に禄を、歌人等には「袍袴」を与えている。十九日に地震、頻発であろう。この月、新羅の使者を饗応するために「川内王」・大伴宿禰安麻呂藤原朝臣大嶋・「境部宿禰鯯魚」・穗積朝臣蟲麻呂(穂積臣百足の子)等を筑紫に遣わしている。

<難波大藏省・兵庫職・阿斗連藥>
難波大藏省・兵庫職

天智天皇即位十年(西暦671年)十一月二十四日に近江宮の隣接する大蔵省から出火したと記載されていた。「難波大藏省」は孝徳天皇の宮、難波長柄豐碕宮の近隣にあったと思われる。

失火したのが阿斗連藥の家とされ、そこから延焼して「難波大蔵省」、「宮室」が全て焼け落ちたと記載されている。

では失火場所は何処であろうか?…阿=台地斗=柄杓の地形藥=小さく小高い地が連なるところと読み解いて来た。その地形を宮の東側の山稜に求めることができる。図に示した場所を拡大すると「藥」が表す幾つかの小高い地形が「斗」の入口付近に見出せる。ここに失火した家があったと推定される。

難波大藏省は、近江大津の大藏省と同様に平らな頂の山稜の麓にある四角く取り囲まれた場所であり、「阿斗連藥」の谷間の出口辺りにあったと推定される。そして更に西側に火の粉が流れ、約450m離れた「豐碕宮」へ延焼したと推測される。

ただ、兵庫職は難を逃れたと言う。「兵」=「斤+手」と分解される。「斤を手に持つ様」が通常の意味となるが、地形象形的には、兵=切り分けられた山稜の端が斧のような形になっている様となる。武庫行宮に含まれていた庫=广+車=山稜の端が延びて連なる様と読み解いた。

「職」=「耳+戠」と分解される。「戠」は「織」にも含まれる文字要素であって、既出では錦織の文字列があった。縦糸・横糸が交差するように、地形象形的には「山稜が交差する様」と読み解いた。職=縁(耳)で山稜が交差するところと読み解ける。これらの地形要素を満足する場所が「豐碕宮」がある山稜の西側に見出せる。

多分、「豐碕宮」は段差のある高台の前にあった宮であり、背後の高台のよって火の粉の飛散が抑制されたのではなかろうか。さり気なく宮の配置を示しているようにも受け取れる。「兵庫職」の表記は、書紀中最初で最後であるが、律令制で「兵庫」(武器管理)の表現が引き継がれているようである。

● 川内王

この王も素性が明確ではなく、実に困ったものである。調べると敏達天皇皇子・押坂彦人大兄皇子系統の諸王の一人と記載されているが、出自の場所などは皆目見当もつかないようである。と言うことで、飛鳥周辺で「川(河)内」と呼べる場所を当たってみることにする・・・と舌の根も乾かぬうちにそれらしき場所が浮かんで来る。

金辺川と呉川が作る三角州で、現在の田川郡香春町鏡山にある鏡山大神社の西隣に「河内王陵」と推定されている場所が地図に記載されている(地図のリンク)。その北西側の山稜の端は弓削皇子の出自の場所と推定した。おそらく川内王の場所は、もう少し東側に寄ったところだったのではなかろうか。

<境部宿禰鯯魚>
● 境部宿禰鯯魚

人材輩出の境部=坂合部の地が出自の場所であろう。「鯯魚」は孝徳天皇紀に鹽屋鯯魚が登場していた。魚の「コノシロ」に特徴的な尻尾の形を模した表記と解釈した。

その地形がもう一方の「坂」に見出せる。この「坂」からの人材は初登場のようである。彦山川の川辺、最下流域に広がる地である。下流域へ人の居住が進行していることを示している。

有間皇子の乱に「鹽屋鯯魚」と「坂合部藥」が関わったと記載されている。二人を合せたような名前である。「コノシロ」は「鮗」の漢字が当てられている。

秋が旬の魚に「冬」?…「冬」の文字形が尻尾の形を表していると見れなくもない。諸説ある語源に加えられるかもしれないが、漢字で(地)形を表すことには関心がないようである(「冬」の甲骨文字はこちら)。

二月辛未朔甲戌、御大安殿、侍臣六人授勤位。乙亥、勅、選諸國司有功者九人授勤位。三月辛丑朔丙午、大辨官直大參羽田眞人八國、病、爲之度僧三人。庚戌、雪之。乙丑、羽田眞人八國卒、以壬申年之功贈直大壹位。

二月四日に侍臣六人に勤位(新冠位の一つ)を、翌日國司の中で功ある者九人に同じく勤位を授けている。三月六日、大辨官の羽田眞人八國が発病し、その為に僧三人を出家させたと記している。十日、雪が降っている。二十五日に「八國」が亡くなっている。乱の功績により直大壹位を贈ったとのこと。

天武天皇は大臣廃止の制度を採用した故に、太政官の中に要職である大辨官に任じていた「八國」への信頼は大きかったのであろう。「眞人」の姓が与えられているように天神一族としての身分と実務能力を兼ね備えた人物だったのかもしれない。

夏四月庚午朔丁丑、侍醫桑原村主訶都授直廣肆、因以賜姓曰連。壬午、爲饗新羅客等、運川原寺伎樂於筑紫、仍以皇后宮之私稻五千束、納于川原寺。戊子、新羅進調、從筑紫貢上、細馬一匹・騾一頭・犬二狗・鏤金器、及金銀霞錦綾羅虎豹皮、及藥物之類、幷百餘種。亦智祥・健勳等、別獻物、金銀霞錦綾羅金器屏風鞍皮絹布藥物之類、各六十餘種、別獻皇后・皇太子及諸親王等之物各有數。丙申、遣多紀皇女・山背姬王・石川夫人於伊勢神宮。

四月八日に侍醫の桑原村主訶都(桑原連人足に併記)に直廣肆の冠位を授け、「連」姓を与えている。十三日に新羅の客をもてなすために川原寺の伎樂(舞やら音楽を担う人)を筑紫に運んでいる。皇后の宮の稲五千束を川原寺に納めたと述べている。皇后が差配したようである。

十九日に新羅の進調を筑紫が届けている。百余種のたいそうな物だったようである。使者が別途献上した物があり、これも六十余種、皇后・皇太子・諸王にも献上品があったとか、融和の兆しか・・・唐との関係が悪化したのかもしれない。二十七日に多紀皇女(託基皇女)・山背姬王(山背大兄王の地)・石川夫人(大蕤娘)を伊勢神宮に遣わしている。

五月庚子朔戊申、多紀皇女等至自伊勢。是日、侍醫百濟人億仁、病之臨死、則授勤大壹位、仍封一百戸。癸丑、勅之大官大寺封七百戸、乃納税卅萬束。丙辰、宮人等増加爵位。癸亥、天皇始體不安、因以於川原寺說藥師經、安居于宮中。戊辰、饗金智祥等於筑紫、賜祿各有差、卽從筑紫退之。是月、勅遣左右大舍人等掃淸諸寺堂塔、則大赦天下、囚獄已空。

五月九日に多紀皇女等が伊勢より到着している。この日侍医の百濟人億仁が危篤になって、すぐさま勤大壹位と一百戸を封じたと記載している。十四日、大官大寺に七百戸を封じて、税三十万束を納め、十七日に宮人の爵位を増している。

二十四日、天皇は体が心許なくなり始めて、川原寺で藥師經を説いたり安居を行ったと述べている。二十九日に筑紫で新羅の使者達を饗応し、禄を与えている。その後直ぐに筑紫を退いている。この月、大舎人達を遣わして諸寺堂塔を掃き清めさせている。大赦し、獄中が空になったとか。

六月己巳朔、槻本村主勝麻呂賜姓曰連、仍加勤大壹位、封廿戸。庚午、工匠・陰陽師・侍醫・大唐學生及一二官人、幷卅四人授爵位。乙亥、選諸司人等有功廿八人、増加爵位。戊寅、卜天皇病、祟草薙劒、卽日送置于尾張國熱田社。庚辰、雩之。甲申、遣伊勢王及官人等於飛鳥寺、勅衆僧曰、近者朕身不和、願頼三寶之威、以身體欲得安和。是以、僧正僧都及衆僧、應誓願、則奉珍寶於三寶。是日、三綱律師及四寺和上・知事、幷現有師位僧等、施御衣御被各一具。丁亥、勅之遣百官人等於川原寺爲燃燈供養、仍大齋之悔過也。丙申、法忍僧・義照僧、爲養老各封卅戸。庚寅、名張厨司災之。

六月初め、「槻本村主勝麻呂」(出自の場所はこちらを参照)に「連」姓を与え、勤大壹位と二十戸を封じている。何か良いことを成したのであろうか?・・・。翌日に工匠・陰陽師・侍醫・大唐學生及一二官人等、計三十四人に爵位を授け、また七日には功績のあった諸司人二十八人に爵位を増している。十日、天皇の病気が良くならないのは草薙劒の祟りだと占いに出て、それを「尾張國熱田社」に送り置いたと記載している。十二日に雨乞い。効果なし、所詮は祟りなどではなかったかも。

十六日に伊勢王と官人を飛鳥寺に向かわせ、衆僧に朕の病を三寶の威でもって和らげないかと思っているので誓願するようにと告げさせ、衣服などを施している。十九日に百官達を川原寺に遣わし、燃燈供養、悔過ための大齋を行ったと記している。二十八日、二僧の養老のため各三十戸を封じている。二十二日に名張の厨司(厨房のあるところ)が火災している。

<尾張國熱田社>
尾張國熱田社

「草薙劒」が保管されている神社、となれば”熱田神宮”ではないか・・・勿論、国譲りされた結末であろう。

尾張國に「熱田」の地形を探すことにする。「熱」=「埶+灬(炎)」と分解する。「埶」=「小高く盛り上がった様」と読み解いた。「勢」にも含まれる文字要素である。

地形象形的には「熱」=「小高く盛り上がった地から[炎]のような山稜が延びている様」と解釈される。纏めると熱田=小高く盛り上がった地から延び出た山稜の麓で田が広がっているところと読み解ける。

ところが、尾張國と推定される地域は、現在ではゴルフ場・団地・高速道路と開発されて一部を除いて全容は不確かな有様である。国土地理院航空写真1961~9年を参照しながら「熱田」が表す地形を探索すると、図に示した場所が見出せる。現在の小倉東ICに変貌している場所である。

”熱田神宮”(名古屋市熱田区神宮)も山稜の先端にあり、当時は周囲を海に囲まれた地形の場所にあると思われる。実に丁寧な”遷宮”を行ったものである。日本人らしさ満点の国譲りである。

秋七月己亥朔庚子、勅、更男夫着脛裳・婦女垂髮于背、猶如故。是日、僧正僧都等、參赴宮中而悔過矣。辛丑、詔諸國大解除。壬寅、半減天下之調、仍悉免徭役。癸卯、奉幣於居紀伊國々懸神・飛鳥四社・住吉大神。丙午、請一百僧讀金光明經於宮中。戊申、雷光南方而一大鳴、則天災於民部省藏庸舍屋。或曰、忍壁皇子宮失火延燒民部省。癸丑勅曰、天下之事、不問大小、悉啓于皇后及皇太子。是日、大赦之。甲寅、祭廣瀬龍田神。丁巳詔曰、天下百姓由貧乏而貸稻及貨財者、乙酉年十二月卅日以前、不問公私皆免原。

七月二日に男女の衣裳・髪型などについて、かつて改めたものを元に戻している。不評だっだのであろう。同日、僧正・僧都が宮中に参内して悔過を行っている。三日に大解除(大祓)。翌日に租税を半減、労役を免除したと記載している。五日に幣(ミテグラ)を「紀伊國々懸神」・「飛鳥四社」・「住吉大神」に奉納している。八日に百人の僧に金光明經を宮中で上げさせている。

十日に南の方で雷が光ってが鳴っている。「民部省藏庸舍屋」が被災したが、それは「忍壁皇子」の宮から失火したせいだと言われたようである。<民部省藏庸舍屋は忍壁皇子の近隣、古事記の忍坂大室の谷間の出口辺りか?>。十五日に天下のことについては大小を問わず、皇后と皇太子に告げよと命じられている。十六日に恒例の「廣瀬龍田神」を祭祀している。十九日に百姓に貸した稲やら資材は、即位十四年十二月三十日以前については免除しろ、と命じられている。

<紀伊國々懸神>
紀伊國々懸神

紀伊國の「國縣神」として書紀中たった一度の登場である。調べるとこの神は「日前神」(天照大御神が天石屋に雲隠れする時に、一書曰で登場する)と一対になった、あるいは別名のような名称であることが分かった。

現在、和歌山市に日前神宮と国縣神宮の二社がある。その由来にも上記に関連することが、また、神武天皇の東征の時が両宮の起源とも記載されている。

これで書紀記述との繋がりが見えて来るようである。國縣=大地が[縣]の様と読み解ける。「紀國」の「紀」が示す地形の見方を少々変えたと言うことであろう。

日前=[炎]の地の前である。古事記で記述される五瀬命が戦死した紀國之竈山の麓であろう。[炎]は「竈の中で燃える炎」を表している。即ち二社並立ではなく、日前國縣神である。書紀の記述が読み取れず、二つの名前があるから二社にしたのであろう。天石屋の騒動に駆り出され、ご登場の神様も二つに分けられて、未だに騒動収まらずの有様である。

紀伊国一宮で、旧社格は官幣大社。現在は神社本庁に属さない単立神社、とのこと。本社と竈山神社及び伊太祁󠄀曽神社の参詣を「三社参り」と言われるそうである。「竈山」の由来こそ、重要な意味を持っているのであるが、「記紀」に記載された文字を並べて祭祀、である。

<高市皇子・縣主許梅・高市社・身狹社・金綱井>
飛鳥四社

飛鳥にある神社(宮)は、先ずは石上神宮(現在の香春神社辺り)であろう。「記紀」の登場回数では伊勢神宮に匹敵する頻度であり、重要な位置付けにあることが分かる。

残りの三社は途端に登場の回数が減少するようである。それらしき神社が記載された図を再掲する。

天武天皇紀の『壬申の乱』において、将軍吹負が西方からの敵の攻撃に備えている時に神のお告げがあったと言う記事に二社、高市社(事代主神)、身狹社(生靈神)が登場する。そして「捧幣而禮祭高市・身狹二社之神」と述べている。

さて、残りの一社は如何に?…「飛鳥」の地とは少し離れているように思われるが、上記の二社の記述に続いて村屋神が登場する。西方から飛鳥に向かう入口に当たる場所(現地名田川市夏吉)である。どうやら、「飛鳥」を中心にして東西に並ぶ四社を「飛鳥四社」と読んだのではなかろうか。

<住吉大神>
住吉大神

「住吉」は書紀の伊弉諾尊が”筑紫日向”で禊祓をした時に誕生した「底筒男命・中筒男命・表筒男命、是卽住吉大神矣」で初登場する。また仁徳天皇の御子に「住吉仲皇子」と記述されている。

対応する古事記の記述は、墨江之三前大神であり、現地名では遠賀郡岡垣町と推定した。また住吉仲皇子に対応するのが、墨江之中津王となり、現地名では京都郡苅田町である。「住吉」⇄「墨江」(隅にある入江)として、各地にあった場所を表現しているのであろう。

「住吉」の文字列は地形象形しているのであろうか?・・・今までのところ、言い換えてもきちんと象形されていたが・・・案じることはなかったようである。

「住」=「人+主」=「谷間に真っ直ぐに延びた山稜がある様」、「吉」=「蓋+囗」=「蓋をしたような様」の文字が示す場所であることが解る。「吉」の解釈は前出の讚吉國伊吉博德などに類似する。住吉=谷間に真っ直ぐに延びる山稜が蓋をしているようなところと読み解ける。

それでは、この「住吉大神」の「住吉」は何処の場所を表しているのであろうか?…ずっと後になるが、攝津國住吉郡があったことが伝えられている。「攝津國」は難波津に接する地、現地名では行橋市矢留辺りと推定した。この”矢”のような山稜が、難波津を蓋するように延びている様を表現していることが解る。

「大神」が鎮座する場所については、些か曖昧であるが、図に示した高台、現在の清地神社辺りにあったのではなかろうか。上記の槻本連が麓に蔓延っていた場所である。「大神」の場所を匂わせる、ご登場だったのかもしれない。

戊午、改元曰朱鳥元年朱鳥(此云阿訶美苔利)、仍名宮曰飛鳥淨御原宮。丙寅、選淨行者七十人以出家、乃設齋於宮中御窟院。是月、諸王臣等、爲天皇造觀世音像、則說觀世音經於大官大寺。

七月二十日に元号「朱鳥(アカミトリ)」とした。宮の名前を飛鳥淨御原宮としたと記している。二十八日に淨行者から選んで出家させ、宮中の御窟院で「設齋」している。この月、諸王臣等は天皇の為に観世音像を造り、大官大寺で観世音経を説かせている。

八月己巳朔、爲天皇、度八十僧。庚午、度僧尼幷一百、因以、坐百菩薩於宮中、讀觀世音經二百卷。丁丑、爲天皇體不豫、祈于神祗。辛巳、遣秦忌寸石勝、奉幣於土左大神。是日、皇太子・大津皇子・高市皇子各加封四百戸、川嶋皇子・忍壁皇子各加百戸。癸未、芝基皇子・磯城皇子各加二百戸。己丑、檜隈寺・輕寺・大窪寺各封百戸、限卅年。辛卯、巨勢寺封二百戸。

八月初め、八十人の僧を出家させている。翌日に僧尼併せて百人を出家させ、菩薩百体を宮中に坐せ、観世音経二百巻を読んだと記載している。九日に天皇の病気の為に神祗に祈っている。十三日に「秦忌寸石勝」を遣わして土左大神(北九州市若松区乙丸、戸脇神社辺りか?)幣を奉納している。この日、皇太子(草壁)・大津皇子・高市皇子に各四百戸を、川嶋皇子・忍壁皇子には各百戸を封じている。

十五日に芝基皇子(施基皇子)・磯城皇子に各二百戸増やしている。二十一日に檜隈寺・輕寺・大窪寺に、三十年間に限り、各百戸を封じている。二十三日に巨勢寺に二百戸を封じている。皇太子及び各皇子は既出。

<秦忌寸石勝>
檜隈寺檜隈坂合陵近辺であろう。輕寺は前記の輕部朝臣足瀬の近隣と思われる。巨勢寺巨勢臣発祥の地、おそらく山裾かと思われるが、詳細は不詳である。

大窪寺はついては情報少なく、調べると神武天皇陵に関係する場所と言われているようである。畝火山北方白檮の場所の窪んだところにあったのかもしれない。

初登場の「秦忌寸石勝」の出自の場所を求めておこう。

● 秦忌寸石勝

調べると葛野秦造河勝の子と知られているようである。「勝」だらけの地であるが、「石」と見做せる山麓の地が「河勝」の東側に見出せる。その地が出自の場所と推定される。後の文武天皇紀(續紀)に「石勝」の子が登場するが、その時に述べることにする。

九月戊戌朔辛丑、親王以下逮于諸臣悉集川原寺、爲天皇病誓願、云々。丙午、天皇、病遂不差、崩于正宮。戊申、始發哭、則起殯宮於南庭。辛酉、殯于南庭、卽發哀。當是時、大津皇子、謀反於皇太子。

九月四日に親王以下諸臣全て川原寺に集まって天皇病気を誓願している。九月九日、崩御された。十一日に發哭を始め、殯宮を南庭に建てている。二十四日に殯を行ったが、この時に当たって、大津皇子が皇太子に謀反をしようとしたと述べている。

甲子平旦、諸僧尼發哭於殯庭乃退之。是日、肇進奠卽誄之。第一大海宿禰荒蒲、誄壬生事。次淨大肆伊勢王、誄諸王事。次直大參縣犬養宿禰大伴、總誄宮內事。次淨廣肆河內王、誄左右大舍人事。次直大參當麻眞人國見、誄左右兵衞事。次直大肆采女朝臣竺羅、誄內命婦事。次直廣肆紀朝臣眞人、誄膳職事。乙丑、諸僧尼亦哭於殯庭。是日、直大參布勢朝臣御主人、誄太政官事。次直廣參石上朝臣麻呂、誄法官事。次直大肆大三輪朝臣高市麻呂、誄理官事。次直廣參大伴宿禰安麻呂、誄大藏事。次直大肆藤原朝臣大嶋、誄兵政官事。

九月二十七日に諸僧尼は殯庭で發哭し、退出している。奠(供物)をし、誄(弔辞)をしたと述べている。第一に「大海宿禰荒蒲」が壬生(皇子の養育係)について、次に伊勢王が諸王について、次に縣犬養宿禰大伴が宮内について、次に河内王が左右大舎人について、次に當麻眞人國見(當摩公楯に併記)が左右兵衛について、次に采女朝臣竺羅が内命婦について、次に紀朝臣眞人(紀大人臣に併記)が膳職について、それぞれ誄したと記載している。

二十八日に僧尼が殯庭で發哭している。この日、布勢朝臣御主人(布勢臣耳麻呂に併記)が太政官について、次いで石上朝臣麻呂が法官について、次いで三輪朝臣高市麻呂が理官について、次いで大伴宿禰安麻呂が大藏について、次いで藤原朝臣大嶋が兵政官について、それぞれ誄したと記載している。

丙寅、僧尼亦發哀。是日、直廣肆阿倍久努朝臣麻呂、誄刑官事。次直廣肆紀朝臣弓張、誄民官事。次直廣肆穗積朝臣蟲麻呂、誄諸國司事。次大隅・阿多隼人及倭・河內馬飼部造、各誄之。丁卯、僧尼發哀之。是日、百濟王良虞、代百濟王善光而誄之。次國々造等、隨參赴各誄之。仍奏種々歌儛。

二十九日、僧尼が發哀している。この日、阿倍久努朝臣麻呂が刑官について、次に紀朝臣弓張(紀大人臣に併記)が民官について、次に穗積朝臣蟲麻呂が諸國司について、次に大隅・阿多隼人及び河内馬飼部造誄したと記載している。三十日に僧尼が發哀している。この日、百濟王良虞(郎)が百濟王善光()に代わって誄し、次いで國々造等が随時参上して誄し、種々の歌舞を奏じたと記載している。

<大海宿禰荒蒲>
● 大海宿禰荒蒲

大海皇子を養育した人物であろう。その「大海」を引継いでいる。と言うことは、大海皇子の出自の場所に関わる地となる。

既に読み解いたように「石上」の水辺である。「海」(水辺で母が両手で抱える様)の地形、「荒」(山稜が海で隠れてしまう様)、「蒲」(山稜が水辺で広がった様)の三つの要件を満たす場所が見出せる。

宿禰の居場所は明解ではないが、図に示したところかと推測される。育ての親が弔弔辞を述べるとは、特別なことなのであろうか。人と人の深い繋がりを示唆しているような感覚である。

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漸くにして、天武天皇紀が終了した。凄まじいばかりの登場人物であったが、ほぼ全ての出自の場所を求めることができたようである(二名の「王」が不詳)。勿論、古事記の舞台に、である。未だ天皇家は九州の片隅に在していたと思われる。