天渟中原瀛眞人天皇:天武天皇(25)
十四年春正月丁未朔戊申、百寮拜朝庭。丁卯、更改爵位之號、仍増加階級。明位二階・淨位四階、毎階有大廣、幷十二階、以前諸王已上之位。正位四階・直位四階・勤位四階・務位四階・追位四階・進位四階、毎階有大廣、幷卌八階、以前諸臣之位。是日、草壁皇子尊授淨廣壹位、大津皇子授淨大貳位、高市皇子授淨廣貳位、川嶋皇子・忍壁皇子授淨大參位。自此以下諸王諸臣等、増加爵位各有差。
正月二日、百寮が朝廷で拝礼している。爵位の號(呼び名)を改め、また階級を増したと述べている。①明:二階、②淨:四階、それぞれ大・廣で計十二階(以前の諸王の位より上位)、③正、④直、⑤勤、⓺務、⑦追、⑧進、それぞれ四階、大・廣で計四十八階(以前の諸臣の位)としている。
草壁皇子尊:淨廣壹位、大津皇子:淨大貳位、高市皇子:淨廣貳位、川嶋皇子・忍壁皇子:淨大參位を授かっている。諸王・諸臣、個別に爵位を増したと記載している。
二月丁丑朔庚辰、大唐人・百濟人・高麗人、幷百卌七人賜爵位。三月丙午朔己未、饗金物儒於筑紫、卽從筑紫歸之、仍流着新羅人七口附物儒還之。辛酉、京職大夫直大參巨勢朝臣辛檀努、卒。壬申、詔、諸國毎家作佛舍、乃置佛像及經、以禮拜供養。是月、灰零於信濃國、草木皆枯焉。夏四月丙子朔己卯、紀伊國司言、牟婁湯泉沒而不出也。丁亥、祭廣瀬龍田神。壬辰、新羅人金主山、歸之。庚寅、始請僧尼安居于宮中。
二月四日に大唐人・百濟人・高麗人計百四十七人に爵位を与えている。当然であろうが、新羅人は外されている。三月十四日に新羅の使者を筑紫で饗応。漂着した新羅人七人を伴って直ぐに帰国したようである。十六日に京職大夫直大參巨勢朝臣辛檀努(孝徳天皇紀に別名紫檀で登場)が亡くなっている。二十七日に家ごとに仏舎を作って礼拝供養しろと命じている。
三月に信濃國に灰が降って草木が枯れたと伝えている。さて、何処の火山が噴火したのであろうか?…翌四月四日、紀伊國司が言うには「牟婁湯泉」が没して出なくなったと述べている。後の七月二十七日に「東山道は美濃から東。東海道は伊勢から東の諸国」の課役が免除されたと記載されている。
間違いなく、この噴火に伴う措置かと思われるが、美濃・伊勢より東方?…通説の紀伊國の牟婁との位置関係が怪しくなっているが、お構いなしの有様であろう。四月十二日に恒例の「廣瀬龍田神」を祭祀している。十七日に新羅の使者が帰国。十五日に「安居」(七月十五日まで講説)させることにしたと記している。
<牟婁湯泉> |
牟婁湯泉
三月に灰を降らせた噴火に関連する地震があったのであろう。前記の伊豫湯泉の同じく谷間が崩れて埋まったと推測される。
「牟婁湯泉」は前出の牟婁温湯と錯覚させる記述であろう。通説は紀伊國にあったと勝手な解釈をしていたが、今度は紀伊國が付いているので、憚ることなく決め付けられている。
「牟婁」はそれが示す地形であって、固有の名称ではない。牟婁=二つの谷間が寄り集まった地(牟)の傍らに丸く小高いところが連なっている(婁)様と読み解いた。
紀伊國の曲がりくねった山稜の東麓の谷間にその地形を見出すことができる。古事記では倭建命が東方十二道遠征で立ち寄った足柄と記述された地である。
後の記述で「東山道は美濃から東。東海道は伊勢から東の諸国」の課役免除するほど被害が大きかったようである。東山道及び東海道の双方の水田の損害が大きいと言うことは、津波が東から押し寄せたのではなかろうか。
憶測になるが、現在の山口県小野田市にある竜王山辺りで噴火があったのかもしれない(直線距離で牟婁湯泉:北九州市門司区恒見約21km、信濃國:京都郡苅田町雨窪約26km、尾張國:小倉南区長野約28km、近江:行橋市約31km)。
五月丙午朔庚戌、射於南門。天皇、幸于飛鳥寺、以珍寶奉於佛而禮敬。甲子、直大肆粟田朝臣眞人、讓位于父、然勅不聽矣。是日、直大參當麻眞人廣麻呂卒、以壬申年之功贈直大壹位。辛未、高向朝臣麻呂・都努朝臣牛飼等、至自新羅、乃學問僧觀常・雲觀從至之。新羅王獻物、馬二匹・犬三頭・鸚鵡二隻・鵲二隻及種種寶物。
五月五日、射会を催し、天皇は飛鳥寺に行幸、宝物を捧げたと記している。十九日に粟田朝臣眞人は位を父に譲ろうとしたが、聞き入れなかったと述べている。また當麻眞人廣麻呂が亡くなり、乱の功績より直大壹位を与えている。二十六日に高向朝臣麻呂・都努朝臣牛飼等が新羅から帰国。學問僧觀常・雲觀が従ったと記している。新羅が「馬二匹・犬三頭・鸚鵡二隻・鵲二隻及種種寶物」を献上した。
六月乙亥朔甲午、大倭連・葛城連・凡川內連・山背連・難波連・紀酒人連・倭漢連・河內漢連・秦連・大隅直・書連、幷十一氏賜姓曰忌寸。秋七月乙巳朔乙丑、祭廣瀬龍田神。庚午、勅定明位已下進位已上之朝服色、淨位已上並着朱花朱花此云波泥孺・正位深紫・直位淺紫・勤位深緑・務位淺緑・追位深蒲萄・進位淺蒲萄。辛未、詔曰、東山道美濃以東・東海道伊勢以東諸國有位人等、並免課役。八月甲戌朔乙酉、天皇幸于淨土寺。丙戌、幸于川原寺、施稻於衆僧。癸巳、遣耽羅使人等還之。
六月二十日に以下の十一氏に「忌寸」姓を与えている。「大倭連」・葛城連・凡川內連・山背連・難波連・紀酒人連・倭漢連・河內漢連(高向漢人玄理の場所と推定)・秦連・「大隅直」・書連。即位十二年(西暦683年)に五十二氏に「連」姓を与えているが、概ねその名前に基づくもののようであるが、一部「直」姓の者も含まれている。
七月二十一日に恒例の「廣瀬龍田神」を祭祀している。二十六日に明から進位までの服の色を定めている。淨位から上は朱色で、以下正位:深紫、直位:浅紫、勤位:深緑、務位:浅緑、追位:深蒲萄(濃い青)、進位:浅蒲萄(淡い青)。二十七日については上記参照。
大倭連については、直近で連姓を賜った勾筥作造が改名したとして解釈する。「大倭」に当て嵌る地には額田部連などが思い付けるが、「宿禰」姓に昇格している。「勾筥作造」は白髮大倭根子命(清寧天皇)の「伊波禮之甕栗宮」に関連する場所であり、「大倭」の地形に含まれていると思われる。
大隅直は、勿論前記の「連」姓付与の対象ではなかったが、ここで「直」から「忌寸」に昇格されている。調べると大隅隼人の首領のような解説も見られるが、錯綜しているだけであろう。
「大隅」の文字は、応神天皇紀に難波にある「大隅宮」が登場している。一説には崩御の場所とも言われているようである。難波の大隅ならば、その場所を求めることは難しくなく、図に示したところと推定される。
孝徳天皇及び大友皇子の最後に関わって山碕宮、山前・河南とか書紀編者が工夫を凝らして記述している地である。それ故に「大隅」の表記も唐突に記載しているように伺える。現地名は京都郡みやこ町犀川花熊の高崎である。
①東山道:美濃から東、②東海道:伊勢から東の諸國と記載されているが、書紀に登場した国名を並べてみると…、
①東山道(美濃國~):紀伊國、甲斐國、茨城國、常陸國、陸奥國、若狹國、越國、信濃國
②東海道(伊勢國~):石見國、參河國、尾張國、科野國、周芳國、相摸國、駿河國、武蔵國
…がずらりと、ほぼ隙間なく揃うことになる。起点国を含めて計18ヶ国である。
<東海道・東山道> |
東海道の裏側には筑紫國・出雲國ある。東山道を更に向かうと阿多の地があり、そして蝦夷の国々が広がり、裏側には肅愼國があると読み解いて来た。東海道・東山道の国々は周防灘に面している。現在の曽根平野は奥の奥まで海面下にあり、巨大な潟となっていたと知られるが、この海に面する道を「東海道」と呼称していることが解る。
周防灘対岸にある竜王山(山口県小野田市)を図に示した。大きな入江のような海岸線であろう。前記の「鼓」は北九州市・下関市が作る西側であったが、今度はそれらに小野田市が加わって東側にある「鼓」となろう。遮るものがなく、灰やら津波が押し寄せて来たのではなかろうか。
九月甲辰朔壬子、天皇宴于舊宮安殿之庭。是日、皇太子以下至于忍壁皇子、賜布各有差。甲寅、遣宮處王・廣瀬王・難波王・竹田王・彌努王於京及畿內、各令校人夫之兵。戊午、直廣肆都努朝臣牛飼爲東海使者・直廣肆石川朝臣蟲名爲東山使者・直廣肆佐味朝臣少麻呂爲山陽使者・直廣肆巨勢朝臣粟持爲山陰使者・直廣參路眞人迹見爲南海使者・直廣肆佐伯宿禰廣足爲筑紫使者、各判官一人・史一人、巡察國司・郡司及百姓之消息。
九月九日に旧宮の安殿の庭で宴を催し、この日、皇太子以下忍壁皇子までに布を個別に与えている。十一日に「宮處王」・廣瀬王(既出;開化天皇が坐した地の伊邪河の畔)・「難波王」・竹田王・「彌努王」を京及び畿内に遣わして兵器を調べさせている。
十五日、都努朝臣牛飼を「東海」へ、「石川朝臣蟲名」を「東山」へ、佐味朝臣少麻呂(佐味君宿那(少)麻呂)を「山陽」へ、「巨勢朝臣粟持」を「山陰」へ、路眞人迹見を「南海」へ、佐伯宿禰廣足を「筑紫」への使者として、各判官一人・史一人を付けて、國司・郡司及百姓之消息を巡察させたと記載している。
宮處王の「宮處」については、舒明天皇紀に「造作大宮及大寺。則以百濟川側爲宮處。是以、西民造宮、東民作寺、便以書直縣爲大匠」と記載されていた。即ち百濟宮の場所を出自としていたと思われる。
「難波王・彌努王」については、全く情報がなく、難波王の「難波」も幾つかの場所があって特定には至らない。ひょっとすると難波皇子が居たところかもしれない。彌努王については後日の捜索に委ねることにする。
● 石川朝臣蟲名
古くは蘇我倉山田石川麻呂臣に付けられた名称に由来する。更には蘇賀石河宿禰に遡る名前である。父親が「蘇賀連大臣」であり、舒明天皇紀以降に多くの人材を輩出した家柄と言える。
蟲=小さな山稜が幾つも延びる様であり、頻出の名=山稜の端の三角州と読み解いて来た。
その地形を蘇賀の谷間の出口辺りに見出すことができる。現在の白川の支流である舟入川、更にその支流が寄り集まっている場所と思われる。図中の「安麻侶」との兄弟の関係と知られている。
<巨勢朝臣粟持> |
● 巨勢朝臣粟持
「巨勢」も多くの人材供給場所であったようである。その地で「粟」、「持」の地形を探索することになる。「粟」もかなりの頻度で用いられていて、「粟」そのものの象形を行っていると思われる。
「持」=「手+寺」と分解される。「手」=「腕を延ばしたような様」であり、幾度か登場した「寺」=「蛇行する川」を表すと読み解いた。古事記の伊邪那岐が「竺紫日向」で禊祓を行った時に生まれた時量師神で読み解いた。
纏めると、粟持=粟の様にしなやかに延びて曲がる山稜の傍らを蛇行する川があるところと読み解ける。來目臣鹽籠の場所北側、近津川が盛んに蛇行している畔と思われる。
東海・東山・山陽・山陰・南海・筑紫
<諸國巡察> |
「東海・東山・筑紫」は前出の通りであるが、「山陽・山陰」は初登場の表記である。勿論現在では馴染みのある言葉なのであるが、そもそもの意味を確認しておこう。「陽」と「陰」は、それぞれ「昜+阜」、「侌+阜」と分解される。「阜」=「土地が積み重なった様」を表す文字要素である。
「昜」=「日が昇る様」であり、陽=日当たりのよい南側を表し、一方の「侌」=「被せて塞ぐ様」であり、陰=日当たりのよくない北側を表すと解説されている。馴染み通りの解釈であって違和感は感じられないが、さて当地にそんな地形が存在するのか?・・・図に示した通り、「山陽」の地が吉備國周辺、現地名下関市吉見辺りにあり、「山陰」の地が出雲國周辺、現地名北九州市門司区大里辺りに見出せる。
「吉備國」と言わず「山陽」と表現したのは、それぞれ幾つかの国名を付け、例えば吉備國の近隣にある備後國のように複数の「國」に分割したことに基づくものであろう。出雲の周辺も幾つかに分割されていたのかもしれない。「肅愼國」を含めたいところであろうが、曖昧である。上図<東海道・東山道>参照。
南海は、南の海と読んで差支えなしであろう。筑紫は、勿論筑紫國以外の国はなく、故に「筑紫」と記載されている。相変わらずの九州島全体を表すような解釈は、混迷しかもたらさないであろう。「筑紫」以外も同じ状況だが、一体何年かけて踏査するつもりなのであろうか?・・・。
是日、詔曰、凡諸歌男・歌女・笛吹者、卽傳己子孫令習歌笛。辛酉、天皇、御大安殿、喚王卿等於殿前以令博戲。是日、宮處王・難波王・竹田王・三國眞人友足・縣犬養宿禰大侶・大伴宿禰御行・境部宿禰石積・多朝臣品治・采女朝臣竹羅・藤原朝臣大嶋、凡十人賜御衣袴。壬戌、皇太子以下及諸王卿、幷卌八人賜羆皮山羊皮、各有差。癸亥、遣高麗國使人等還之。丁卯、爲天皇體不豫之、三日誦經於大官大寺・川原寺・飛鳥寺、因以稻納三寺各有差。庚午、化來高麗人等賜祿各有差。
この日(九月十五日)、「歌男・歌女・笛吹者」はその術を子孫に伝えよ、と命じられている。十八日には「博戲」(博打の遊びか?)を行ったと言う。「宮處王・難波王・竹田王・「三國眞人友足」・縣犬養宿禰大侶・大伴宿禰御行・境部宿禰石積・多朝臣品治・采女朝臣竹羅(筑羅)・藤原朝臣大嶋(中臣連大嶋)」の十人に「衣袴」(衣服令による朝服の上衣と袴)を与えている。「難波王・竹田王」は上記と変わらず。
十九日に皇太子以下諸王卿の計四十八人に「羆皮山羊皮」を個別に与えている。二十日に高麗から使者が帰国。二十四日、天皇が病気になったので大官大寺・川原寺・飛鳥寺の三寺で経を唱えさせ、稲を個別に納めている。二十七日に自ら進んで帰化した高麗人に禄を与えたと記載している。
● 三國眞人友足
更なる後裔達は何処に散らばっていったのか?…尾根の近傍に住まう一族のその後を知る上において貴重な登場人物かと思われる。
既出の友=又+又=山稜が二つ並んで寄り添う様と読み解いて来た。その地形が尾根の東側に見出せる。その麓に辺りが出自の場所と推定される。正に山奥の谷間なのでるが、当時の人々が住まうことができた土地と推測される。
後に、續紀の文武天皇紀に三國眞人人足、また聖武天皇紀に三國眞人大浦が登場する。「友足」の更に東側に人形の山稜が延びている場所がある。その麓を出自としたのであろう。「大浦」の大=平らな頂の山稜の麓、浦=氵+甫=川がくっ付いて平らに広がった様と読み解くと、「人足」の東側の谷間を表していると思われる。現在の北九州市門司区、小倉北区、小倉南区の境となる地、今に繋がる國境と推測される。
冬十月癸酉朔丙子、百濟僧常輝封卅戸、是僧壽百歲。庚辰、遣百濟僧法藏・優婆塞益田直金鍾於美濃、令煎白朮、因以賜絁綿布。壬午、遣輕部朝臣足瀬・高田首新家・荒田尾連麻呂於信濃、令造行宮、蓋擬幸束間温湯歟。甲申、以淨大肆泊瀬王・直廣肆巨勢朝臣馬飼・判官以下、幷廿人任於畿內之役。己丑、伊勢王等亦向于東國、因以賜衣袴。是月、說金剛般若經於宮中。
十月四日に百濟僧の常輝(百歳)に三十戸を与えている。八日に百濟僧の法臓と「優婆塞」(在家信者)の益田直金鍾を「美濃」に遣わして「白朮」(漢方薬用の植物)を煎じさせている。十日に「輕部朝臣足瀬」・高田首新家・荒田尾連麻呂を「信濃」に派遣して行宮を造らせ、束間温湯に向かおうとしたのではなかろうか、と記している。
● 輕部朝臣足瀬
「輕部」は古事記の許勢小柄宿禰が祖となった場所であり、彦山川と遠賀川が合流する巨大な三角州の近傍の地と読み解いた。
「巨(許)勢臣」とは、勿論同族の関係になろう。かなり限られた地域と思われ、求める場所も容易に見出せるように思われる。
足=山稜が長く延びた様であり、古事記の「帶」と解釈することも可能であろう。それが「瀬」だと言う。瀬(瀨)=氵+賴=水辺が狭くなった様であり、水の流れが速くなっているところを表す文字である。足のような山稜に挟まれた地形である。その地形を図に示した場所に見出すことができる。
図では、現在の標高10mを当時の水辺と想定した。淡海の古遠賀湾の最奥に当たる場所、現地名は直方市感田である。書紀は巨勢(許勢)臣の出自を語ることがなく、その末裔の一族を登場させるという記述を行う。「巨勢」ばかりか「輕部」もここに登場させ、素知らぬ顔を決め込んでいるようである。
● 巨勢朝臣馬飼
巨勢朝臣馬飼は、その対岸の高台に「馬」の地形が見出せ(些か崩れてはいるが)、その南麓に、飼=食+司=なだらかな谷間で出口がくっ付くように狭くなっているところが見出せる。
古事記の解釈では、この地も「輕部」のように推測したが、「巨勢」の勢いが勝って侵出したのかもしれない。現地名は直方市頓野である。
後の持統天皇紀に巨勢朝臣麻呂・巨勢朝臣多益須の兄弟が登場する(父親は巨勢臣紫檀)。「麻呂」の表記では、何とも特定できないが、別名に萬呂があると知られている。太安萬侶と同様に「萬」(蠍)の地形を探すと、図に示した場所が見出せる。後の元明天皇紀に活躍され、従三位中納言になったと伝えられている。
弟の「多益須」は大津皇子の謀反に連座したが、赦されて、藤原朝臣史等と共に「判事」の任を与えられている。さて、出自の場所を求めてみよう。既出の文字列である。「多」=「山稜の端の三角州」、「益」=「谷間に挟まれて平らに広がった様」、「須」=「州」とすると、山稜の端にある三角州が平らに広がった地の傍らで州になったところと読み解ける。
上図に示した通り、いよいよ彦山川の川縁の場所に、ずらりと並んでいる。開拓は上流から下流へと進展して行った有様を示している。
十一月癸卯朔甲辰、儲用鐵一萬斤、送於周芳總令所。是日、筑紫大宰、請儲用物、絁一百匹・絲一百斤・布三百端・庸布四百常・鐵一萬斤・箭竹二千連、送下於筑紫。丙午、詔四方國曰、大角小角鼓吹幡旗及弩抛之類、不應存私家、咸收于郡家。戊申、幸白錦後菀。丙寅、法藏法師・金鍾、獻白朮煎。是日、爲天皇招魂之。己巳、新羅、遣波珍飡金智祥・大阿飡金健勳、請政、仍進調。
十一月二日に「儲」(官庁の備品)鉄一万斤を周芳総指令所に送ったと記している。本著は東海の真ん中辺りの場所と推定したが、全体を見渡すには都合の良い場所のように思われる。周芳國は、直近では赤龜献上で登場(上図の東海道❻)。同日、筑紫大宰が同じく備品各種を申請している。鉄、箭竹など武器用資材が主のように思われる。
四日に具体的な武器名「大角小角鼓吹幡旗及弩抛之類」は郡家に収めるように命じている。六日に「白錦後菀」に行幸。二十四日、十月八日に美濃へ向かわせた「法藏法師・金鍾」が「白朮」を献上している。「招魂」(鎮魂祭)を催している。二十七日、新羅が「請政」(政情を申し述べる)と進調をしている。
白錦後菀
何の修飾もなく登場されているとなれば、飛鳥近辺と推測して、「白錦」の文字が表す地形を求めることにする。白=くっ付いて並ぶ様であり、何が並んでいるかを読み解く。
錦=金+帛=谷間の高台で布が長く広がったような様と読み解ける。少し前に登場した錦織造小分に用いられていた文字である。
図に示した場所が、その要件を満たすと思われる。後菀=背後の庭園と解釈するが、その場所を特定するには至らない。現在、「田川四国東部第41番札所」と命名されたところが中腹に見える。庭園にできるような広さも伺えるようである。これ以上の情報は調べても入手不可で、候補として挙げるに留める。
十二月壬申朔乙亥、遣筑紫防人等、飄蕩海中皆失衣裳、則爲防人衣服以布四百五十八端、給下於筑紫。辛巳、自西發之地震。丁亥、絁綿布以施大官大寺僧等。庚寅、皇后命以、王卿等五十五人賜朝服各一具。
十二月四日、筑紫防人として派遣したのだが、漂流して海中に衣裳を失ったようで、すぐさま衣服を筑紫に送ったと記している。十日に西の方で地震があった。十六日、大官大寺の僧に綿布などを施している。十九日、皇后の指示で王卿等五十五人に朝廷で着用する服をそれぞれに一揃え与えたと記載している。
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なかなか終わりが見えて来ないが、挫けずに先に進もう・・・。