2020年10月16日金曜日

天渟中原瀛眞人天皇:天武天皇(24) 〔461〕

天渟中原瀛眞人天皇:天武天皇(24)


即位十三年(西暦684年)が続く。引用は青字で示す。日本語訳は、こちらこちらどを参照。

壬辰、逮于人定、大地震。舉國、男女叫唱不知東西、則山崩河涌、諸國郡官舍及百姓倉屋・寺塔神社、破壞之類不可勝數。由是、人民及六畜、多死傷之。時、伊豫湯泉、沒而不出、土左國田菀五十餘萬頃、沒爲海。古老曰、若是地動、未曾有也。是夕、有鳴聲如鼓、聞于東方、有人曰「伊豆嶋西北二面、自然増益三百餘丈、更爲一嶋。則如鼓音者、神造是嶋響也。」甲午、諸王卿等賜祿。

十月十四日、「人定」(午後八時)に近付いた時に大地震が起っている。国中で男女が叫び、東西が分からなくなるほどだったと言う。山が崩れ、川が湧き出る有様、官舎、百姓の倉屋敷、寺塔、神社が悉く破壊されたと伝えている。これによって人民やら家畜が多数死傷している。同時に「伊豫湯泉」(古事記の伊余湯)が没して出なくなったようである。

「土佐國」の田畑が五十万「頃(ケイ)」(約12km2)余りが海に没したと記載している。古老は、こんなに地が動くことはなかった、と言い、またその夕刻には鼓のような音が東方に聞こえ、「伊豆嶋」の西北の二面が自然に三百丈(約500m)余り増え、更に「鼓」の音がして、これは神が島を造る時の音が響いたのだ、と噂された。十六日に諸王・卿等に禄を与えている。

<伊豆嶋地震>
伊豆嶋を震源地とする大地震があり、発生時の状況やら被害の詳細を記載している稀有な事例であろう。この震源地と伊豫湯泉及び土左國の位置関係を示す記述としても実に貴重と思われる。

伊豆嶋は、現在の藍島(地名は北九州市小倉北区大字藍島)と推定した(古事記の小豆嶋)。地形は、明らかに溶岩台地の形状であり、海底火山が噴出しても何ら不思議ではない場所である。

当然、今回は火山性地震であることを示していて、鼓音は、噴火に基づくものであろう。甚大な被害が発生したこと、死傷者多数と述べている。具体的な状況は土左國の人々に語らせている。勿論、この地が近接する国だったからである。

多くの田畑が海に没したとは、これだけの面積(3*4km2)となれば、地面の陥没ではなく、津波等による海面上昇と考えられる。本来この地は山稜の末端部であり、標高が低い場所である。古事記では沼名木と読んでいた國でもある。

鼓音を二回記述している。「東方」から聞こえると告げることと繋げていることが推測される。上図に埋め込んだ広域図を見ると、藍島は、北九州市と下関市が作るのような地形、その打面の真ん中に位置することが解る。即ち「東方」から聞こえるとは、打った場所のみならず、の胴からも聞こえて来るように錯覚したことを告げているのである。

対馬海流に伴う大気の流れによって、音は東に流されることもあろう。書紀編者はこの位置関係を述べるために「東」、「鼓」の小道具を持ち出したと思われる。古事記編者に劣らぬ戯れ、かもしれない。更に伊豆嶋の西北に島が現れたと告げている。現在の藍島の西北部にある貝島・姫島と思われる。現在は島状になっているが、誕生時には本島と繋がっていたのではなかろうか。長さが三丈(約500m)は、見事に一致するようである。

伊豫湯泉が没・不出は、温泉が出なくなったのではなく、狭くて急傾斜の谷間が崩落によって埋もれてしまったことを述べている。通説の様に、伊豆半島、伊豆大島辺りを震源地にして解釈しては、四国の土佐では噴火音は聞こえる筈もなく、ましてや鼓音など何を言っているのか皆目不明な状況であろう。

伊豆大島から直線距離で600km以上も離れた松山の伊予温泉が出なくなるなど、何か関係でもあるのか?…の有様となる。何とも解釈不能な状況に陥ったら、後日に報告されたことを付け足したに過ぎない・・・既に放棄の心情であろう。

十一月戊申朔、大三輪君・大春日臣・阿倍臣・巨勢臣・膳臣・紀臣・波多臣・物部連・平群臣・雀部臣・中臣連・大宅臣・栗田臣・石川臣・櫻井臣・采女臣・田中臣・小墾田臣・穗積臣・山背臣・鴨君・小野臣・川邊臣・櫟井臣・柿本臣・輕部臣・若櫻部臣・岸田臣・高向臣・宍人臣・來目臣・犬上君・上毛野君・角臣・星川臣・多臣・胸方君・車持君・綾君・下道臣・伊賀臣・阿閉臣・林臣・波彌臣・下毛野君・佐味君・道守臣・大野君・坂本臣・池田君・玉手臣・笠臣、凡五十二氏賜姓曰朝臣。

十一月一日に以下の五十二氏に「朝臣」姓を与えたと記している。大三輪君大春日臣阿倍臣巨勢臣膳臣紀臣波多臣物部連平群臣雀部臣中臣連大宅臣栗田臣石川臣櫻井臣采女臣田中臣小墾田臣穗積臣山背臣鴨君小野臣川邊臣・「櫟井臣」・柿本臣輕部臣若櫻部臣岸田臣高向臣宍人臣來目臣犬上君上毛野君角臣星川臣多臣胸方君・「車持君」・綾君下道臣伊賀臣・「阿閉臣」・林臣・「波彌臣」・下毛野君佐味君道守臣大野君坂本臣・「池田君」・玉手臣笠臣

大半は既出であるが、幾つかを補足する。

櫟井臣は、古事記の御眞津日子訶惠志泥命(孝昭天皇)の御子、天押帶日子命が祖となった壹比韋(イチヒイ)臣に該当するとされる。読みが類似する表記であるが、「櫟」=「木+樂」と分解され、更に「樂」=「糸+糸+白+木」から成る文字と知られる。既出の「藥」に類似し、山稜に挟まれた小高い地が並ぶ様と読み解ける。前出の桑内王の出自の場所、「壹比韋」の別表記として受け入れられるであろう。

<車持君>
車持君は書紀の履中天皇紀に登場していて、乗輿の役目を担った乗輿部の頭領のように記載されている。出自を調べると「上毛野」の地に関わり、古事記の御眞木入日子印惠命(崇神天皇)の御子、豐木入日子命(書紀では豐城入彦命)を遠祖に持つ一族と記載されている。

上記五十二氏の最後から三番目の池田君も同根のようで、現地名の築上郡上毛町の有田川の谷間を「池」と表記していると思われるが(出自は上毛町対大地原と推定)、「池田」のみでは特定はすることは困難であり、後日の登場人物に委ねることにする。

「車持」の読み解きには些か悩まされたのであるが、そのまま車を持っているような様と解釈するしか解はなさそうである。図に示した現在の上毛中学校がある円形の台地をと見做し、腕のような延びて連なる山稜でっている様を表していると解釈できる。

「上毛野・下毛野」からの「朝臣」姓が如何に多く記載されているかが分かる。天皇家草創期に関わった地であることを示している。通説は現在の群馬県辺りと比定するのであるが、何ら違和感なしの有様、空間感覚皆無の時代の解釈の域を一歩も抜け出していない日本の歴史学と言える。

<阿閉臣・阿閇朝臣大神>
阿閉臣については、古事記は全く関連するところを語っていないようである。書紀にのみに登場する文字列であって、かつ、「阿閉(閇)」はどうやら書紀編者のお気に入りのようで、幾つかの場所に適用されている。

文字が示す地形は、谷間が台地で塞がれた(閉じられた)ようなところなのであり、頻度高く出現してもおかしくない地形であろう。書紀によるとこの臣の出自は大彦命が始祖となった阿倍臣、膳臣等の氏族の一つに挙げられている。

古事記では大毘古命であり、彼の祖となった地は語られないのであるが、子に建沼河別命(阿倍臣の祖)、「比古伊那許士別命御眞津比賣命」(共に春日の谷間)がいたことが散見される。大毘古命の出自の場所は現地名の田川郡赤村内田の大坂であり、その麓の春日の地に後裔が広がったことは間違いないことであろう。

すると、小山で谷間が閉じられた場所が見出せる。図に示した春日の谷間の最奥である。膳臣、宍人臣等が活躍する中でこの地にも人々が住まっていたと推測されるが、何故か古事記では登場しなかった。大毘古命の後裔を系譜として語ることがないことも併せて資料上欠落していたのかもしれない。

後の續紀(元明天皇紀)に阿閇朝臣大神が登場する。具体的な姓名はこの人物が最初のようである。大神=平らな頂から伸びる山稜が高台のようになっている様と読み解ける。図に示した麓が出自の場所と推定される。「阿閉」の地の確からしさを支えてくれるご登場かと思われる。

波彌臣は、書紀中初出である。調べると、建内宿禰の子、波多八代宿禰の後裔のようである。書紀はこの係累を最小限しか記述しないから当然の結果であろう。更に古事記では、この地は速須佐之男命の孫、羽山戸神(父親は大年神)の子に彌豆麻岐神がいたと記載されている。「波彌」は「多・豆麻岐」の短縮表示であろう。

庚戌、土左國司言、大潮高騰・海水飄蕩、由是、運調船多放失焉。戊辰昏時、七星倶流東北則隕之。庚午日沒時、星隕東方大如瓮、逮于戌、天文悉亂以星隕如雨。是月、有星孛于中央、與昴星雙而行之、及月盡失焉。是年、詔、伊賀・伊勢・美濃・尾張四國、自今以後、調年免役・役年免調。倭葛城下郡言、有四足鶏。亦丹波國氷上郡言、有十二角犢。

十一月三日に土左國司が大潮で高く上がり海水が漂い揺れ動き、調の船が放たれて失ってしまったと告げている。「海水飄蕩」は単純な高潮を表すのではなく、上記の地震による津波(押し波・引き波)と思われる。震源地から直線距離で十数キロ、想像を絶する高波が押し寄せたと推測される。貴重な震災記録であるが、全く実感のない解釈となっているのが悲しい現実であろう。

十一月二十一から三日にかけて、星が東北~東方に流れる現象が見えたと記している。「星隕如雨」何とも不気味な夜空の状況を示している。月末には収まったらしい。この年、「伊賀・伊勢・美濃・尾張四國」に「調」と「役」のどちらか一方に免じたと述べている。この地震により、明らかに現在の紫川及び竹馬川流域の浸水が甚だしく、甚大な被害が発生したことを告げている。「鼓」の底に当たる地域であろう。企救半島が島であったことが明確に解る記述である。

また、倭葛城下郡が「四足鶏」、丹波國氷上郡が「十二角犢」がそれぞれあると言っている。献上していないが、言った以上差し出さないわけには行かなかったであろう。

<倭葛城下郡・四足鶏>
倭葛城下郡・四足鶏

倭葛城下郡は前出の桑原連人足の下流域を示すと思われる。要するに「玉手」の地の何処かに潜んでいる鶏であろう。がしかし、この地は細かな山稜がひしめき合う地であって、見定めが難しいようである。

何とか探し出すと、常福池の南側の斜面に潜んでいた。鶏冠及び尻尾の形が見られて、その足の部分が細かく岐れているように伺える。

現在は開拓されて居住区域と田畑が混在する地形となっている。些か元の地形が失われているようでもあるが、辛うじて判別可能と思われる。

当時に開拓された地故に現在の状況があると思えば、実に辻褄が合っていることになる。千年以上の出来事と繋げることは、少々危険かもしれないが・・・。

<丹波國氷上郡・十二角犢>
丹波國氷上郡・十二角犢

「丹波國氷上郡」は、前出の中臣鎌足の娘、氷上娘がいた場所であろう。行橋市の覗山南麓である。その近辺に「十二角犢(子牛)」を飼っていると告げている。

「子牛」の地形象形を如何に行っているのか?…それにしても「十二角」は凄まじい…どうやら「子牛」の顔を小高い山に見立てた様子である。

覗山山稜の裏側にその地形を見出すことができる。そしてその小山の裾野で山稜が細かく突き出ている様を「角」と見做したと思われる。何とも遊び心満載の記述ではなかろうか。しかし、幾つかの地名が確認できるわけでもある。

十二月戊寅朔己卯、大伴連・佐伯連・阿曇連・忌部連・尾張連・倉連・中臣酒人連・土師連・掃部連・境部連・櫻井田部連・伊福部連・巫部連・忍壁連・草壁連・三宅連・兒部連・手繦丹比連・靫丹比連・漆部連・大湯人連・若湯人連・弓削連・神服部連・額田部連・津守連・縣犬養連・稚犬養連・玉祖連・新田部連・倭文連倭文此云之頭於利・氷連・凡海連・山部連・矢集連・狹井連・爪工連・阿刀連・茨田連・田目連・少子部連・菟道連・小治田連・猪使連・海犬養連・間人連・舂米連・美濃矢集連・諸會臣・布留連、五十氏賜姓曰宿禰。

十二月二日に以下の五十氏に「宿禰」姓を与えたと記している。大伴連佐伯連阿曇連忌部連(忌部首)・尾張連・「倉連」・「中臣酒人連」・土師連掃部連境部連(坂合部連)・櫻井田部連・「伊福部連」・「巫部連」・忍壁連草壁連三宅連・「兒部連」・「手繦丹比連・靫丹比連」・漆部連・「大湯人連・若湯人連」・弓削連神服部連額田部連津守連縣犬養連稚犬養連・「玉祖連」・新田部連・「倭文連」・氷連凡海連山部連・「矢集連」・狹井連・「爪工連」・阿刀連(安斗連)茨田連田目連少子部連菟道連小治田連・「猪使連」・海犬養連間人連・「舂米連」・「美濃矢集連」・「諸會臣」・「布留連」。

上記でリンクを付けていない氏名の補足をする。

<倉連>
倉連については殆ど情報が得られない。「倉」(谷を表す)を含む名称は幾つか見られるが、何の修飾もなくでは、現地名の北九州市小倉南区の「東谷村」を示すと思われる。

「記紀」を通じて最大の谷間であろう。その中心地が「倉連」の出自の場所と推測される。東谷川と井手浦川の合流点近傍、谷の入口付近であり、その背後にある谷間の出口でもある。

天武天皇の吉野脱出行の際には、この地を通過した筈であろう。素通りさせた上に近江朝にも通報しなかったのかもしれない。一族の出自は闇の中だが、物部系(邇藝速日命の末裔)と思われ、すると政事に執着がなかったのかもしれない。

<中臣酒人連・中臣朝臣臣(意美)麻呂>
中臣酒人連は、勿論中臣一族の出自であろう。さて、多数の人材を輩出した地で残された場所があるのか、「酒」を頼りに探索である。

「酒」の用い方は、全く古事記と異なることを既に述べた。古事記が特殊なのである。原義に戻って酒=酒を搾って作る様と読み解く。

前記の紀酒人直と類似する解釈を行うと、「中臣鎌子連」の、更に奥の谷間に見出すことができる。現在は樹木に覆われた深い谷間の様相である。

後の持統天皇紀に中臣朝臣臣麻呂(なんと「臣」が三つ)が登場する。大津皇子謀反に連座したとされるが、後に釈放される人物である。臣=谷間の窪んだ様だが、至る所に見られて特定に至らずである。別名に意美麻呂があると言われる。既出の意=言+一+心=閉じ込められた様美=羊+大=谷間が広がる様とすると、「鎌子」と「酒人」との間にある谷間と推定される。上図に併記した。

現地名は北九州市小倉南区大字長行である。「蒲生」の南側一帯が「長行」の地名だったように伺える。いずれにしても、この地が中臣(藤原)の本貫の地であると本著は結論付ける。

<伊福部連>
伊福部連は書紀本文でこの段のみ一度の登場である。書紀編者の編集姿勢に些か頭を傾げるところもあるが、無駄な抵抗は差し控えて、調べると因播國の住人だったことが分かった。

既出の福=示+畐=酒樽のような高台と読み解いた。これも古事記の解釈とは異なる文字である。伊=人+尹(|+又)=谷間(人)で区切られた(|)山稜(手)とすると、図に示したように山稜の端がこんもりと高くなったところが見出せる。

前記で「瑞稻、毎莖有枝」と記載されたものの一つであろうか。現在の宗像市上八・鐘崎の周辺は、極めて古い土地であり、古事記の大国主命の説話(稲羽・素菟)に登場すると解釈した場所である。

書紀編者が出雲関連の表記に如何に神経を尖らせていたか、あらためて気付かされたようである。この人物の登場のさせ方、さもありなん、である。記載はするが、関連情報を伏せることにしたのであろう。

<巫部連>
巫部連も上記と同様な状況であり、調べると古事記の穂積臣の祖となった內色許男命を遠祖に持つ氏族と分かった。邇藝速日命の系統である。

それを信じると、穂積の地(現在の田川郡赤村内田)から尾張國(青雲之白肩津)にかけての地域を探索することにした。おそらく鈴鹿・三重・朝明・桑名が並ぶ地ではないであろう。

すると、今まで何故かその地の人物が登場しなかった、現地名の北九州市小倉南区志井が浮かんで来た。

「巫」の文字の解釈は尋常ではなかろうが、日子坐王と言う人物、若倭根子日子大毘毘命(開化天皇)の御子の「坐」の解釈に類似したものではなかろうか。二つの谷間が並び、それが合わさっているような地形を表していると思われる。

同族である物部一族は天皇家に深く関わったのだが、彼らはある程度の距離を置いた関係だったのかもしれない。時を経て、次第に融和の方向へと舵を切ったのであろう。先住の邇藝速日命一族との融和も天皇家にとって重要な課題だったと推測される。

兒部連は何と解釈するか?…この人物もやはり邇藝速日命一族のようである。と言うことで、上記のように東谷川を下って行くと、天武天皇が吉野脱出後、驛家を焼き払った地を隱郡と称していた。この由来は山の形状による。即ち四方を囲まれた凹んだ場所である。これを「兒」で表記したと思われる。

<手繦丹比連・靫丹比連>
手繦丹比連靫丹比連は「丹比」の地で求めると、図のようになった。「手繦(タスキ)」は縣犬養連手繦に用いられていて、山稜がピンと真っ直ぐに延びた様を表していると解釈した。

この地は幾度か登場し、直前では、「連」姓を与えられた「船史」と記載されていた。多分、「連」となって改名したのではなかろうか。別名表記の部類であろう。

「靫」は「ウツボ」、「矢を入れる道具」と言われ、形状は丸い筒状である。それで山稜の形を表したものであろう。古事記の『』の牙の片割れである。

丹比(古事記では多治(遲)比)は仁徳天皇以降、一時は宮が置かれた地でもある。難波に接する豊かな場所であったかと思われる。現在はゴルフ場などで辛うじて当時の地形を残している状況である。かつて、ブログで「まむし注意!」と書いたのを懐かしく思い出させられる。

大湯人連有間温湯があった麓と思われる。大=平らな頂の麓人=谷間であり、覗山の尾根及び山麓に谷間を示していると思われる。では若湯人連は如何に読めるであろうか?…並べて表記されるならば「若」は山の形状であろう。「若」の文字解釈は決して簡単ではなく、様々に試みて来たが、最近の「桑」の解釈から重要なヒントが得られた。

「桑」=「叒+木」と分解される。「叒」は実物の「桑」の象形であると言われ、「叒」は多くの枝・葉が寄り集まった様を表現している。「若」は「若(わか)い」の意味として通常用いられているが、実は漢語には、その意味はないようである。「若」=「叒+囗」と分解できる。桑のように「しなやか様」を表す文字と解説される。地形象形的には、端的に、若=叒+囗=多くの山稜が寄り集まった様と読み解けることが分った。

例えば古事記で讃岐國を若木と表記する。「木(山稜)に成りかけ」として、実際の地形に合せて谷間が浅い様子を表したと解釈したが、谷間が浅い、即ち多くの山稜が寄り集まってできる地形であろう。「若い」と言う、日本独特の意味に引き摺られた解釈であったことが分った。

前置きが長くなったが、すると若湯人連若湯=山稜が多く集まった麓の水が飛び散る川と読み解ける。「佐袁袁」と「意富袁」が寄り集まる伊余湯、書紀では伊豫温湯である。尾根は古事記の「若木」に繋がる場所となる。

<弓削連>
弓削連は、雄略天皇紀に登場しているが、その後に関する記述は見られていなかったようである。また「弓削」を含む名称は、物部弓削(守屋)大連などがある。

勿論、地形象形表記であって、弓削=弓の形のように削ぎ取られたところと解釈される。物部一族に用いられたのは、山稜の端が、その地形を示していることに拠るものであろう。

少々外部情報を探すと、「弓削連」の居処は河内國であったことが分かった。その地で「弓削」を示すと思われる場所を図に示したところに見出せる。「物部」の山稜の端の「弓削」より、ずっと広大で立派な、本来の「弓削」の地形であろう。

後になるが、この地は河内國若江郡に属することになる。諸説ある郡名が、これで明らかになったのではなかろうか。詳細は、後日に述べることにする。

<玉祖連>
玉祖連は、そのままの地形が見出せる。香春町採銅所駅の東側にある玉祖=玉のような段々に積みあがった高台、古宮八幡宮が鎮座する場所と思われる。

この特徴的な地も既に登場していても不思議のないところなのであるが、やはり、邇藝速日命に関連する人物が居住していたようである。「姓」を与えることは埋もれた氏族の発掘に繋がり、詳細な当時の血縁関係が明らかになって来るように思われる。

倭文連については、前出の倭漢文直麻呂を簡略表現したような名称と思われる。「漢」(大きく川が曲がる様)の文字が混乱を招く故か不明だが、この際表現を改めたように思われる。

「倭文」を「之頭於利」と読めと、註されている。之頭於利=蛇行する川(之)の先(頭)で旗がなびくように広がった地(於)が切り離されている(利)ところと読み解ける。「倭漢」の地形の特徴を表していると思われる。

矢集連は「矢が集まったような様」を示すのであろう。ならば、三尾が直ぐに思い浮かぶ地形である。また美濃矢集連が記載されている。所謂「美濃=三野=箕」の地形の別表記と見做せるであろう。

<爪工連>
爪工連も全くの初登場であり、調べると紀國造の肩書があることが分った。書紀では「紀伊國」である。少し前の記述に紀伊國伊刀郡が登場した。大きな茸を献上したと記載されていた。

「爪」の地形を探すと、図に示した上ノ山の南西麓の山稜が描く地形を表していることが解った。その麓が高台になっている様を「工」で表現したと思われる。

古事記で神倭伊波禮毘古命(神武天皇)が東行する際、兄の五瀬命が那賀須泥毘古と戦って瀕死の重傷を負い、結局亡くなって竈山の麓に葬ったと記載されている。神武危うしの場面である。

その竈山を上ノ山と推定したが、「竈で木を組んで燃やす様」と見做した命名と解釈した。それを「爪」で表現したと思われる。血染めの色、復讐に燃える心情を竈の火に掛けた見事な記述と称賛したが、平時なら「爪」かもしれない。

<猪使連・子首>
猪使連は、書紀の磯城津彥命、古事記では師木津日子玉手見命(安寧天皇)、が祖となったと記載されている。現地名の田川市夏吉の金辺川に突き出た山稜の端に当たる場所である。

その端に猪=犬+者=交差する平らな頂の山稜が作る谷間があり、更に使=人+中+又=谷間の真ん中に突き出た山稜がある地形となっている。

狭い場所なのであるが、求められる地形要素が盛り込まれていることが解る。何とも言い難い地形象形である。

「師木津日子」はこの地から葛城の「玉手」遠望していたのであろうか。天皇家が師木に届くまで、まだまだ多くの時間が必要な時代であった。

<舂米連>
舂米連は茨田屯倉に関連するようである。また「舂米(ツキシネベ)」とは脱穀の作業を意味する言葉と解説されている。

「舂」=「禾+手+手+臼」と分解され、正に臼で脱穀する所作を盛り込んだ文字である。ならば稲作すれば欠かせない作業で至る所に存在することになってしまうのであるが、「茨田」が決め手となろう。

廐戸皇子の兄弟に茨田皇子(古事記では茨田王)がおり、その彼らの居場所を図に示した。茨田王は現在でも見られるように長い谷間に棚田が作られた地が出自であろう。

「舂米」の地形は、些か曖昧であるが、その谷間の出口辺りに窪んだ(臼)場所があり、その近隣を表しているのではなかろうか。「屯倉」の場所を求めるなら、やはり谷間の出口辺りと推測され、脱穀場所として辻褄があったことになろう。

<檀弓岡>
諸會臣ついても多くの情報を望むべくもなく、「會」の文字を頼りに求めることになるようである。

前出の天國排開廣庭天皇(欽明天皇)の墓所、と言っても実に曖昧な記述しかされておらず、古事記の建小廣國押楯命(宣化天皇)が坐した「檜坰之廬入野宮」の文字解釈から探ってみることした。

それらを纏めた図は再掲すると、出自の場所は、彦山川と中元寺川が合流する三角州が示す「會」の文字形の地と推定される。現地名は田川郡福智町金田である。

布留連は、調べると改姓に伴って物部首→物部連→布留連→布留宿禰と変遷したことが解った。前出の「物部首日向」の出自の地が起点となったと思われる。

<物部首日向>
「首」、「日向」はきちんと地形象形していたが、布留は?…布のような地(布)が谷の隙間から広がり延びた(留)ところと読み解ける。

図を再掲したが、谷奥の「首」から井手浦川に沿って下流域の治水を行って広々とした地へと発展して行ったことが解る。現在、山間にも拘わらず、段差の少ない布を広げたような棚田を確認できる。実に的確な文字使いと思われる。

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以上「宿禰」姓を与えられた五十氏の出自の場所を求めた。改姓に伴って改名も行っている様子が伺えた。それは時と共に統治する領域の拡張を示していると推測される。解けると比定結果を更に確度高くする効果があったと思われる。怠ってはならない重要な作業であることを再確認させられたようである。

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癸未、大唐學生、土師宿禰甥・白猪史寶然、及百濟役時沒大唐者、猪使連子首・筑紫三宅連得許、傳新羅至。則新羅遣大奈末金物儒、送甥等於筑紫。庚寅、除死刑以下罪人皆咸赦焉。

十二月六日に唐への留学生であった土師宿禰甥(土師連千嶋に併記)・「白猪史寶然」及び百濟救援の戦役で捕虜となっていた猪使連子首(上記猪使連に併記)・「筑紫三宅連得許」を新羅が筑紫まで送り届けたと記している。十三日、死刑者を除いて恩赦している。

<白猪史寶然>
● 白猪史寶然

「白猪史」は欽明天皇紀に名前を授かっていて、敏達天皇紀に「吉備國」の地であることが分かるように記載されている…「遣蘇我馬子大臣於吉備國、増益白猪屯倉與田部。卽以田部名籍、授于白猪史膽津」。

いつもこうならば少々手間が省けるのであるが・・・取り急ぎ吉備國でその地を求めてみよう。先ずは既出の猪=犬+者=平らな頂から交差するように延びた山稜の地形を探すと、竜王山の北麓辺りが候補となるようである。

加えて、史=中+又(手)=真ん中を突き通す山稜を確認し、更に白=くっ付くように並んでいる山稜の端を見出せる。図に示した場所がその要件を満たしていることが解る。

「寶」=「宀+缶+王+貝」と分解される。寶=山稜に囲まれた丸く小高い地の傍にある凹んだ様と読み解ける。「然」=「肰+火」と分解される。然=平らな頂の山稜の端にある三角州の傍に炎のような地がある様と読み解ける。図に示した寄り集まった山稜の端にそれらしき場所が見出せる。若干「然」の地形の確認に曖昧さが残るが、地図の解像度の限界に近いようである。

<筑紫三宅連得許>
● 筑紫三宅連得許

「筑紫三宅」は、古事記の神倭伊波禮毘古命(神武天皇)の御子、神八井耳命が祖となった筑紫三家連の地であろう。

娜大津(長津)に届く山稜が三つに岐れている地形である。「得」=「彳+又(寸)+貝」と分解される。地形象形的には、四角く凹んだ様を表すと読み解ける。

図に示した場所がその地形を示し、許=麓とすると、その窪んだ前辺りが出自の場所と推定される。現地名は北九州市小倉北区赤坂(二)である。

「土師連」、「猪使連」共に「宿禰」姓を賜っているが、留学生だった「土師連」は「土師宿禰」と記し、捕虜だった「猪使連」はそのままの表記となっている。明解な対応が伺える。

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即位十三年(西暦684年)の記述が終わった。少々手間取った段であった・・・。