天渟中原瀛眞人天皇:天武天皇(23)
十三年春正月甲申朔庚子、三野縣主・內藏衣縫造二氏賜姓曰連。丙午、天皇、御于東庭、群卿侍之。時召能射人及侏儒・左右舍人等射之。二月癸丑朔丙子、饗金主山於筑紫。庚辰、遣淨廣肆廣瀬王・小錦中大伴連安麻呂及判官・錄事・陰陽師・工匠等於畿內、令視占應都之地。是日、遣三野王・小錦下采女臣筑羅等於信濃令看地形、將都是地歟。三月癸未朔庚寅、吉野人宇閉直弓、貢白海石榴。辛卯、天皇、巡行於京師而定宮室之地。乙巳、金主山歸國。
正月十七日に「三野縣主・內藏衣縫造」の二氏に「連」姓を与えている。二十三日に恒例の射会だが、この年は弓を好く射することができる者、侏儒の人、左右舎人が射したと記している。二月二十四日に新羅の使者を饗応。二十八日に廣瀬王・大伴連安麻呂及び「判官・錄事・陰陽師・工匠」を畿内に遣わして都とするに相応しい地を視察させている。
同日、三野王(美濃王)・采女臣筑羅(竹羅)を信濃國へ遣わして、地勢を視させているが、都を造らんとしたのか。三月八日に「吉野人宇閉直弓」が「白海石榴」を献上している。やはりその地を開拓したのか、下記で求めてみよう。翌日、天皇は京師に向かい、宮室を定めている。二十三日、新羅の使者が帰国。
<三野縣主> |
三野縣
「三野」は、実に錯綜した表記となっている。恣意的な表現のきらいも感じられるが、文脈に従って読み解く以外に打つ手はないようである。
「ミノ」と名付けられた地で「縣」の地形を有する場所が該当するとして探索すると、古事記の御眞木入日子印惠命(崇神天皇)紀に登場した意富多多泥古の居住地、河内之美努村を含む巨大な「縣」が見出せる。
神倭伊波禮毘古命(神武天皇)が娶った伊須氣余理比賣命の祖父、三嶋湟咋が切り拓いた地でもある。真に古くから開けた地である。直近では平石野として登場している。三野縣主の場所は、その「縣」の付け根辺りと推定される。古豪の復活、であろう。
● 內藏衣縫造
既出の大藏衣縫造麻呂の出自を現地名の田川郡香春町の五徳に求めた。「藏」、「衣縫」が表す地形は、この地に限られるわけではなかろうが、決して平凡な何処にでも見つかる場所でもないようである。
よく見るとこの地に「藏」が引き続いて並んでいることが解る。これで一気に解読は前進したようである。
「內」=「入+冂」と分解される。「冂」=「枠、建物」を表すと解説されるが、地形象形的には「谷間」となろう。內=谷間に入って行く様と読み解ける。
衣縫=衣のような形の山陵(衣)が寄り集まって盛り上がっている(縫)ところと読み解いたが、「藏」と併せて図に示した場所が見出せる。「大藏・內藏」として、五徳川の一部の直線的な流れに目を付けた表記かと思われる。この地も香春岳の西麓であり、古くから開けていたと推測される。「連」姓を賜って日の目を見た、のであろう。
宇閉直弓・白海石榴
「吉野」の人と付加されている。全く姓らしきもののない、”一般人”かもしれないが、権威ある史書に名を残したことになる。稀有な出来事であり、ありきたりの「白い海石榴(椿)」を献上したのではないことは、明々白々であろう。
勿論、通説では読み飛ばされてしまう記述である。既出の文字列の名前であり、宇閉=囲まれた地で長く延びた山稜が谷間を閉じる様と読み解ける。
直弓=真っ直ぐな地と弓なりの地が並んでいる様と読める。古事記の神倭伊波禮毘古命(神武天皇)紀に登場した吉野首等の地の南側、谷間が閉じるように見える場所が見出せる。
その閉じるところに白海石榴=椿の花のような丸く小高い地(海石榴)がくっ付いて並んでいる(白)ことが解る。図に山稜が描く「枝」を示すと、見事な大輪の花が咲いた椿の様相である。おそらく、この「花」の周辺、少し山麓を上ったところを開拓したのではなかろか。
急傾斜の法面に作られた耕作地、やはり特筆すべき事柄であったと推測される。ここまで読み進んで来ると、吉野人=吉野の谷間とも読むべきであろう。重ねた表記は自由自在である。書紀編者もしっかり戯れている感じである。また図に示したように矢山(椿原)と知られているようである。その由来は定かではないが、ひょっとしたら残存地名なのかもしれない。
夏四月壬子朔丙辰、徒罪以下皆免之。甲子、祭廣瀬大忌神龍田風神。辛未、小錦下高向臣麻呂爲大使・小山下都努臣牛甘爲小使、遣新羅。閏四月壬午朔丙戌、詔曰「來年九月必閲之、因以、教百寮之進止威儀。」又詔曰「凡政要者軍事也。是以、文武官諸人務習用兵及乘馬。則馬兵幷當身裝束之物務具儲足。其有馬者爲騎士・無馬者步卒、並當試練、以勿障於聚會。若忤詔旨、有不便馬兵亦裝束有闕者、親王以下逮于諸臣、並罰之。大山位以下者、可罰々之・可杖々之。其務習以能得業者、若雖死罪則減二等、唯恃己才以故犯者不在赦例。」又詔曰「男女並衣服者、有襴無襴及結紐長紐、任意服之。其會集之日着襴衣而長紐、唯男子者有圭冠々而着括緖褌。女年卌以上、髮之結不結及乘馬縱横、並任意也。別巫祝之類、不在結髮之例。」
四月五日、「徒罪」(軽い罪)以下は放免している。十三日に恒例の「廣瀬大忌神龍田風神」を祭祀している。二十日、高向臣麻呂・「都努臣牛甘」を新羅に派遣。閏四月五日に百寮の「進止威儀」(立ち振る舞い)を来年の九月に検閲すると述べてられる。前記で細かく命じたことが身に付いているか、かもしれない。
また政事は軍事だとして、文官と言えども怠ることがないようにしろ、と命じている。不足のものがあれば補えと、背くものは罪を科すと断じている。更に男女の衣服、髪結いについて、自由な恰好で良いとし、四十歳以上の女性の乗馬に殆ど規制なしのようにしたようである。乗馬に関係する記述が度々語られているが、騎馬戦の向上を目指していたのかもしれない。
<都努臣牛甘(飼)> |
● 都努臣牛甘
「都努臣」は、書紀中で初出である。武内宿禰(古事記では建内宿禰)の子孫の記述が欠落(?)していることから、さもありなん、なのであるが、ならば関連人物全て抹消かと思いきや、登場させる場合もある。
ここで唐突に出現するには、当然その出自があるわけで、それを全く未記載にするのは、やはり歪んだ記述と言わざる得ないであろう。要するに書紀編者が万策尽きた状況を示している。
古事記の木角宿禰が祖となった「都奴臣」の地で「牛甘」の場所を求める。この文字列は、図に示したように二つの山稜を牛の角に見立て、その麓に舌のように延び出た(甘)ところを表すと解釈される。後の表記では「牛飼」となっている。角が交差するような地形を飼で表したことが解る。
以前にも述べたが、この地は残存名がしっかりと見出せる。現地名は豊前市中村となっているが、角田川、角田神社、角田小・中学校などが見られ、「木角宿祢」が「木」(書紀では紀臣)と「角」の地を切り開いたのである。
壬辰、三野王等、進信濃國之圖。丁酉、設齋于宮中、因以赦有罪舍人等。乙巳、坐飛鳥寺僧福楊、以入獄。庚戌、僧福楊、自刺頸而死。
五月辛亥朔甲子、化來百濟僧尼及俗男女幷廿三人、皆安置于武藏國。戊寅、三輪引田君難波麻呂爲大使・桑原連人足爲小使、遣高麗。六月辛巳朔甲申、雩之。秋七月庚戌朔癸丑、幸于廣瀬。戊午、祭廣瀬龍田神。壬申、彗星出于西北、長丈餘。
閏四月十一日に三野王等が信濃國の図を献上している。派遣を命じられたのが二月二十八日だから、およそ二ヶ月半弱経っている。十六日に「設齋」を宮中で行い、舎人等を恩赦している。二十四日、飛鳥寺の僧、福楊を獄に入れたが、二十九日に首を刺して自殺したと告げている。
五月十四日に「化來」(自ら望んで帰化)の百濟の僧尼及び一般の男女、併せて二十三人を武藏國(前出の相摸國に併記)に安置している。二十八日、「三輪引田君難波麻呂」・「桑原連人足」を高麗に遣わしている。六月四日に雨乞い。七月四日、廣瀬に行幸され、九日に恒例の「廣瀬龍田神」を祭祀している。二十三日、彗星が西北に出て、長さは一丈余りとか。
武藏國は図から分かるように急峻な傾斜地である。その南側が駿河國であり、正に駿足の川が流れる地と記載している(古事記が走水海と記述した海に面する國)。そんな厳しい環境なのに百濟からの帰化人達を向かわせている。朝鮮半島の”難民”を取り込んで国土を開拓していったことを記しているのである。
「三輪」は頻出の地であり、現地名は北九州市小倉北区の足立山(古事記の美和山:その由来は三勾)西麓を示していると解釈した。
「引田」は大長谷若建命(雄略天皇)紀に登場する美和河(寒竹川)畔で衣を洗う引田部赤猪子に含まれる文字列であろう。引田=海辺で田を拡げた様と読んだ場所である。
図で青く示された地域は、当時海面下にあったと推定され、山稜の先端が直接海とぶつかる地形であったと思われる。所謂難波の地形である。
このやや長めの名前には「三輪」、「引田」、「難波」の三つの地形要素が組合わされている。これらを満足する場所を図に示した。三輪の地の登場人物も、妙見山の裾から次第に海辺を向かっている”針間から播磨”への流れであろう。
「桑原」の初出は、書紀の神功皇后紀の記述に葛城襲津彥が新羅遠征時に捕虜とした漢人を住まわせた地「桑原・佐糜・高宮・忍海」で登場する。
「佐糜」=「谷間にある左手(佐)のような擦り潰された山稜(麻)に米粒(米)の形をした地があるところ」(左図の熊野神社周辺)、「高宮」=「皺が寄ったような地(高)が山稜に囲まれた谷間の奥まで積み重なっている(宮)ところ」(左図の[玉手岡])と読み解ける。忍海はこちらも参照。
要するに「桑原」は葛城中心地(古事記では玉手)の周辺であることを示しているように思われる。
後に天武天皇の侍医である桑原村主訶都が登場する。既出の文字列をそのまま繋げて、訶都=谷間(可)の耕地(言)が交差する(者)ように集まった(邑)ところと読み解ける。図に併記した場所と推定される。
冬十月己卯朔、詔曰、更改諸氏之族姓、作八色之姓、以混天下萬姓。一曰眞人、二曰朝臣、三曰宿禰、四曰忌寸、五曰道師、六曰臣、七曰連、八曰稻置。是日、守山公・路公・高橋公・三國公・當麻公・茨城公・丹比公・猪名公・坂田公・羽田公・息長公・酒人公・山道公、十三氏賜姓曰眞人。辛巳、遣伊勢王等、定諸國堺。是日、縣犬養連手繦爲大使・川原連加尼爲小使、遣耽羅。
十月初めに、以下の「八色之姓」を作り、天下の「姓」を統一せよ、と命じられている。一曰眞人、二曰朝臣、三曰宿禰、四曰忌寸、五曰道師、六曰臣、七曰連、八曰稻置。同日、「守山公・路公・高橋公・三國公・當麻公・茨城公・丹比公・猪名公・坂田公・羽田公・息長公・酒人公・山道公」の十三氏に「眞人」の姓を賜れた。三日に伊勢王等(前出)が諸国の境界を定めている。この日、縣犬養連手繦(縣犬養連大伴に併記)・川原連加尼(勾筥作造に併記)を耽羅に遣わしている。既出の「公」は各リンクを参照。
八色之姓については、Wikipediaに以下の様に記載されている。
実際に賜ったのは、上の年表にあるように、真人・朝臣・宿禰・忌寸の上位四姓であった。旧来の臣・連・伴造(とものみやつこ)・国造(くにのみやつこ)という身分秩序にたいして、臣・連の中から天皇一族と関係の深いものだけを抽出し、真人・朝臣・宿禰の姓を与え、新しい身分秩序を作り出し、皇族の地位を高めた。上級官人と下級官人の家柄を明確にすると共に、中央貴族と地方豪族とをはっきり区別した。
ただし、すべての姓をこの制度に当てはめるということは行われず、従来あった姓はそのまま残された。そのために古くからあった姓、臣・連・伴造(とものみやつこ)・国造(くにのみやつこ)などもそのまま残っていた。従来から有った、臣、連の姓の上の地位になる姓を作ることで、旧来の氏族との差をつけようとしたという見方もできる。
また、のちの冠位制度上の錦冠の官僚を出すことのできるのは真人、朝臣、宿禰、忌寸の姓を持つ氏に限られていたようである。
前記で氏素性を明らかにせよと命じられていたが、それに基づいて実施されたのであろう。身分制度を明確にすることは、避けては通れなかった人間社会だっとと思われる。新「眞人」の出自の場所を補足する。
路公は初出である。本段以前の書紀には登場することはない。少々調べると難波皇子の孫(父親は石川王)と知られているようである。後に路眞人迹見が登場して、貴重な情報を提供してくれるようである。
「路」=「足+各」と分解される。「各」=「人が前後に足を開いた様」を象った文字と知られる。それをそのまま用いて路=山稜が岐れる様と解釈する。
「迹」は前出の迹太川にも用いられていたが、もう一度地形象形表記として解釈してみると、「迹」=「辶+亦」と分解される。「亦」は、夜麻登などに用いられる「夜」=「亦+夕」の文字要素でもあり、「複数の川が流れる谷間」を表すと解釈した。迹見=複数の川が流れる谷間が見えるところと読み解ける。図に示した谷間を一望にできる場所を示していると思われる。
「迹見」の別表記が「登美」と知られている。何を隠そう、この地は古事記で登場した登美能那賀須泥毘古の谷間だったのである。息子に大人がいたと言われてる。併せて平らな頂の谷間が出自の場所と推定した。
前後するが守山公も同じく難波皇子の系列と知られている。上記の「路公」には具体的な人物がとうじょうするが、守山公(眞人)については、ぐんと時代が進まないとそれらしき人物にお目にかかれることがないようである。上図で示すと高坂王と稚狹王の間が出自の場所と推定される。守山=谷間で両肘を張り出したように山稜が延びている山と解釈される。
難波皇子の後裔が広がって行く中でいつかは登場する地であったろう。邇藝速日命が降臨した時に既に人々が住まい、その地に侵出した神倭伊波禮毘古命(神武天皇)以後の天皇家が統治して来たのである。
高橋公の「高橋」の文字列は幾度か登場している。仁賢天皇の御子に「高橋大娘皇女」が誕生するが、対応する古事記の記述では「高木郎女」となる。
即ち「高橋」→「高木」と表現が異なっていることが分かる。勿論、書紀も地形象形表記を採用している筈であり、「高木」の地で「高橋」の地形を求めることになる。
頻出の「高」=「皺が寄ったような様」であり、高木=皺が寄ったような山稜があるところと読み解いた。図に示した現在の北九州市若松の藤木及びその麓の地である。
「橋」の文字は、極めて重要な地形象形文字であり、古事記の天浮橋で用いられていた。
繰り返すと「橋」=「木+喬」と分解され、「喬」=「夭+高」から成る文字で「高く曲がる様」を表すと解説される。古代の橋は”太鼓橋”であろう。すると橋=山稜(木)が小高く曲がっている(喬)ところと読み解ける。結果、高橋公は、皺の一つが高く長く延びて曲がったところが出自の場所であることを示していることが解る。
品陀和氣命(応神天皇)が多くの御子を誕生させた地であり、応神五世である袁本杼命(継体天皇)に皇統が移ったとしても正真正銘の皇祖の地である。その地を出自に持つ者に「眞人」の姓を授けたのであろう。
茨城公は書紀の「天津彥根命」が遠祖となった「茨城國造」に由緒を持つと思われる。対応する古事記では天津日子根命が茨木國造と記載されている(こちらを参照)。城=土地を盛り上げて整えたような様と木=山稜との違いとなろう。表記の意味するところに変わりがないようである。現地名は北九州市門司区吉志である。尚、「茨田」と全く同様に、茨=順序良く並べた様である。
息長公の「息長」の文字は、古事記の若倭根子日子大毘毘命(開化天皇)の御子、日子坐王が娶った息長水依比賣で初めて登場する。そして新羅の王子、天之日矛の後裔が絡んで息長帶比賣命(神功皇后)が誕生している。既に読み解いた「息長」の中心地は現地名行橋市長井と推定した。
ところが書紀では「息長」が登場するのは、継体天皇紀の息長眞手王(古事記も同じ表記)であり、それ以前には全く記載されていない。例えば上記の「息長帶比賣命」は「氣長足姬尊」となっている。氣=湯気の様に延びる様を使っても地形的には間違いではないが、息=狭い谷間の真ん中から延び出た端にある様の重要な位置を示す表現ではなくなってしまうのである。
明らかに恣意的に表記を変更した可能性が高いが、またその段の解釈の際に詳細に述べることにする。確かなことは、この地には皇統が多く関わった経緯があり、出自とする人物に「眞人」とするのはもっともなことかと思われる。
酒人公・山道公は、品陀和氣命(応神天皇)の孫、大郎子(別名意富富杼王、父親は若野毛二俣王)が祖となった地に登場する。「三國君、波多君、息長坂君、酒人君、山道君、筑紫之末多君、布勢君等之祖也」。三國公も含まれている。
古事記の表記をそのまま用いるならば「酒=坂」となる。峠を越えたら異国の地、帰国する時の「酒迎え」である。「搾って水を出す様」の地形と見れなくない、だから変えなかったのかもしれない。酒人公、山道公(全体図)を参照。応神天皇、意富富杼王、継体天皇の系譜が最上位に位置付けられていることが解る。
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国作りを着々と進めているように思われるが、即位十三年(西暦684年)は収まり切れなかった・・・。