天渟中原瀛眞人天皇:天武天皇(22)
十二年春正月己丑朔庚寅、百寮拜朝庭。筑紫大宰丹比眞人嶋等、貢三足雀。乙未、親王以下及群卿、喚于大極殿前而宴之、仍以三足雀示于群臣。丙午、詔曰「明神御大八洲倭根子天皇勅命者、諸國司國造郡司及百姓等、諸可聽矣。朕、初登鴻祚以來、天瑞非一二多至之。傳聞、其天瑞者、行政之理協于天道、則應之。是今當于朕世、毎年重至、一則以懼一則以嘉。是以、親王諸王及群卿百寮幷天下黎民、共相歡也。乃小建以上給祿各有差、因以大辟罪以下皆赦之、亦百姓課役並免焉。」是日、奏小墾田儛及高麗・百濟・新羅三國樂於庭中。
正月二日に百寮が朝庭で拝謁し、筑紫大宰大宰丹比眞人嶋等が「三足雀」を貢いでいる。前記でそれを見つけたような記述があったが、やはり貢いでいた。と言うことは、またもや・・・下記する。七日に親王以下郡卿と宴を開き、その雀を示したと記載している。単に見せたわけではなく、「示」=「諭し教える」だったのかもしれない。
十八日に「明神御大八洲倭根子天皇」の勅命として、諸國司國造郡司及百姓等に以下のことを伝えている。皇位を継いでから「天瑞」(天からの吉兆)を一度や二度ではなく多く得たが、それは「天道」(天の道理)に行政が叶っていたからと伝え聞いた。我が世も年を重ねて来た。共に喜んで小建以上に禄を給い、死罪以外の者を赦されている。更に百姓の課役を全て免除するとも述べている。この日小墾田舞及び三韓の樂を庭で行ったと記している。
筑紫三足雀
三本の足に見えるような山稜が延びている場所と思われるが、これが意外に見出せないでいた。ヒントは「雀」であろう。「雀」=「小+隹」と分解される。「小さな鳥」で通常用いられる意味になる。この文字は、古事記の大雀命(仁徳天皇)に含まれていた。通常の意味で読むと「大きい小さな鳥」となって、意味不明な文字列である。
如何に?・・・雀=頭が小さな鳥の様と読み解いた(こちらを参照)。ところが決して簡単に見つかるわけではなかった。前記の筑紫大鐘で山稜の端の小高いところを開拓したと推測したが、「雀」も同じような場所か?・・・この類推が重要であった。
図に示した場所の平らな頂に、何と、小さな頭が見出せたのである。三本の足のような山稜が延びて麓に達していることも解った。現地名は北九州市小倉北区小文字である。
書紀編者の戯れと思わざるを得ないような表記であるが、解けると納得であろう。筑紫の献上物は小高いところの天辺を開拓した事例なのである。そして群臣に「示」(諭し教える)したのである。
三本足とくれば八咫烏と関連付けた解釈がなされているようである。古事記に三本足とは記されていない。後代の勝手な解釈である。また中国の故事に倣った見方もされる。いずれにしても書紀編者が読み手に勝手な解釈を仕向けた表現と理解すべきであろう。
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少々余談になるが、現代のキーワードは「多様」と「分断」である。「多様」=「非敵対的葛藤」であり、「分断」=「敵対的葛藤」と定義する。実在するものは常に「葛藤」している。現象は「敵対的」か「非敵対的」かの違いである。「記紀」の解釈を「分断」で読んではその本質には至らないであろう。「分断」の解は一方の消滅であるが、「多様」の解は新たな「葛藤」を生み出すことである。この作業を「記紀」が成してる。おそらく「万葉集」もそうであろう。世界に類を見ないこれらの書物の解読が全くなされていないことに忸怩たる思いである。
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明神御大八洲倭根子天皇
勿論、天武天皇のことを示すことは明らかである。以前に類似の名称があった。明神御宇日本倭根子天皇(孝徳天皇)、見事な地形象形表記であることを明らかにした。「八洲」⇔「宇日本」の違いなのだが、同様に地形象形しているのであろうか?…太安萬侶が著した古事記序文に飛鳥淸原大宮御大八洲天皇と記載されている。
結論から述べれば、完璧な地形象形表記であることが解った。古事記の「御大八洲」をそのまま引き継ぎ、そして孝徳天皇の「明神」及び「倭根子」もそのまま受け取った表現であろう。
「明」=「日+月」と分解され、炎と月の地形が背中合わせになった様である。頻出の「神」=「示+申」として、曲がって延びる高台である。
倭根子=嫋やかに曲がって延び出た山稜の端を表すと読み解いた。これらの地形要素を全て併せ持った場所に坐した天皇であったことを示しているのである。
孝徳天皇紀には解読不能の故に一般的な日本の天皇の呼称のように言われている。「大八洲=日本」だから今回も同じであろう・・・そう読めるような文字使い、それでは貴重で詳細な情報を破棄したような勿体なさであろう。
二月己未朔、大津皇子、始聽朝政。三月戊子朔己丑、任僧正・僧都・律師、因以勅曰、統領僧尼如法、云々。丙午、遣多禰使人等、返之。夏四月戊午朔壬申、詔曰、自今以後必用銅錢、莫用銀錢。乙亥詔曰、用銀莫止。戊寅、祭廣瀬龍田神。六月丁巳朔己未、大伴連望多、薨。天皇、大驚之則遣泊瀬王而弔之。仍舉壬申年勳績及先祖等毎時有功以顯寵賞、乃贈大紫位、發鼓吹葬之。壬戌、三位高坂王薨。
二月一日、初めて大津皇子が朝廷の政事に参加している。三月二日に「僧正・僧都・律師」を任じ、僧尼を統べるのは法に従うこと、と命じている。十九日に多禰に遣わした使者が帰っている。四月十五日、銅銭を使って、銀銭は使ってはいけないと命じているが、十八日に銀を用いることは止めてはいけないとも命じている。
二十一日に恒例の「廣瀬龍田神」を祭祀している。六月三日、「大伴連望多」(大伴連馬來田)が亡くなり、天皇は大いに驚いている。「泊瀬王」を弔問させ、乱の功績及び先祖の含めた功に褒賞し、大紫位を贈ったと述べている。六日、三位の高坂王(難波皇子の子)が亡くなっている。
「大伴連馬來田」は、別名「望多・望陀」があったと知られる。「馬來田」は、山稜の端が延びた場所を示すと解釈したが、その先端は遥か遠く、また麓の崖からもぐんと離れたところである。その地形を「望多・望陀」で表していると思われる。「長德」の弟である。
また「泊瀬王」は草壁皇子の別名表記と思われる。功績大の者への弔使であろう。雄略天皇の宮名は「泊瀬朝倉宮」であり、その場所に居た皇子と解釈して来たが、その「泊瀬」を用いたのであろう。
秋七月丙戌朔己丑、天皇幸鏡姬王之家、訊病。庚寅、鏡姬王薨。是夏、始請僧尼安居于宮中、因簡淨行者卅人出家。庚子、雩之。癸卯、天皇巡行京師。乙巳、祭廣瀬龍田神。是月始至八月、旱之。百濟僧道藏、雩之、得雨。八月丙辰朔庚申、大赦天下。大伴連男吹負卒、以壬申年之功贈大錦中位。
七月四日に天皇は「鏡姫王」の家に出向き、病を見舞ったが翌日亡くなったと記している。天智天皇の妃、後に藤原鎌足の正妻になったと知られるが、万葉歌を数首残しているようだが、出自は不明とのことだが、「鏡王」の娘と解釈して、前出の鏡王・額田姫王に併記した。
この夏、僧尼に宮中にて「安居」(4/15~7/15間の講説)をさせている。また「淨行者」三十人を出家させている。七月十五日、雨乞いを行った。十八日に京師に巡行している。二十日に恒例の「廣瀬龍田神」を祭祀したと記載されているが、実に神仏混淆の有様である。
この月から八月まで旱魃の気候で、百濟僧道藏が雨乞いして、雨が得られたようである。八月五日に恩赦している。仏様の力は侮れない、だったのかもしれない。大伴連男吹負(男が付加、さもありなんであるが)が亡くなって、乱の功績から大錦中位を贈っている。大活躍だったのだが、評定はこの程度?…不詳である。「望多」兄弟が相次いで亡くなっている。
九月乙酉朔丙戌、大風。丁未、倭直・栗隈首・水取造・矢田部造・藤原部造・刑部造・福草部造・凡河內直・川內漢直・物部首・山背直・葛城直・殿服部造・門部直・錦織造・縵造・鳥取造・來目舍人造・檜隈舍人造・大狛造・秦造・川瀬舍人造・倭馬飼造・川內馬飼造・黃文造・蓆集造・勾筥作造・石上部造・財日奉造・泥部造・穴穗部造・白髮部造・忍海造・羽束造・文首・小泊瀬造・百濟造・語造、凡卅八氏賜姓曰連。
冬十月乙卯朔己未、三宅吉士・草壁吉士・伯耆造・船史・壹伎史・娑羅々馬飼造・菟野馬飼造・吉野首・紀酒人直・采女造・阿直史・高市縣主・磯城縣主・鏡作造、幷十四氏賜姓曰連。丁卯、天皇狩于倉梯。
九月二日に大風が吹いている。二十三日に以下の三十八氏に「連」姓を与えたと記載している。「倭直・栗隈首・水取造・矢田部造・藤原部造・刑部造・福草部造・凡河內直・川內漢直・物部首・山背直・葛城直・殿服部造・門部直・錦織造・縵造・鳥取造・來目舍人造・檜隈舍人造・大狛造・秦造・川瀬舍人造・倭馬飼造・川內馬飼造・黃文造・蓆集造・勾筥作造・石上部造・財日奉造・泥部造・穴穗部造・白髮部造・忍海造・羽束造・文首・小泊瀬造・百濟造・語造」
十三日に天皇は「倉梯」で狩りをしたと述べている。前出の齋宮を設けた倉梯河の畔辺りを示しているのであろう。新しく賜った各「連」の場所については、既出をそれぞれのリンクで示した図を参照。以下で若干の補足を行うことにする。
水取造は書紀では初出である。古事記では、神倭伊波禮毘古命(神武天皇)が宇陀で兄宇迦斯と戦ったが、その時味方に付いた弟宇迦斯が祖となった地、宇陀水取に含まれている。弟宇迦斯は、紛うことなく物部一族なのである。
矢田部造の出自を調べると、仁徳天皇の后、八田皇女(古事記では八田若郎女)の名代から派生したと記されている。西隣が母親の矢河枝比賣の場所である。どうやら「矢田」は「八田」と「矢河枝」に跨る場所を表していると思われる。
藤原部造は、勢い藤原京に掛けたくなるが、「藤原」も”地形”を表す表記であって、”地名”ではない。古事記で登場した品陀和氣命(応神天皇)の御子、若野毛二俣王の比賣に藤原之琴節郎女が誕生している。藤=蔓状に池が並んでいるところと解釈した場所である。「部」が示す地形も併せると、この地を示していると思われる。また、天智天皇の御子、建王が夭折して埋葬した場所である今城谷も近隣と推定した。「琴」=「珡+今」が通じている。
凡河內直は、そのものずばりが、古事記の天照大御神と速須佐之男命の宇氣比で誕生した天津日子根命が祖となった凡川内國造に由来を持つ場所と思われる。「造」→「直」となっているのは、少しばかり下流域に入った場所を示しているようである(更に下流域は、次の川内漢直となる)。なんとも古めかしい土地柄であるが、由緒正しき、なのかもしれない。
葛城直は書紀では既出のようであるが、古事記で品陀和氣命(応神天皇)が娶った葛城之野伊呂賣の近隣と思われる。「葛城」では珍しく「直」な地形を示す場所である。上記と同様に、おそらくもう少し下流域が中心であったのではなかろうか。藤原部造の西隣である。
殿服部造は初出であり、殆ど情報らしきものが見当たらない状況のようである。「殿」は「臀」の略字とすると、山稜の端っこが明確になっている場所と思われる。
香春一ノ岳の東北麓にその地形を見出すことができる。現地名は香春町の殿町である。「服」は「箙」の略字とすると、その地形が山腹に見られる。
勿論「殿」は残存地名であろう。隣町の「本町」も同様に岡本宮の名残を残す地名と思われる。香春岳周辺には多く残存する地名があることが解る。
鳥取造の「鳥取」は既出であり、「記紀」共に垂仁天皇紀に登場する。全く異なる状況での出現であり、それぞれの思惑が見え隠れする箇所で興味深いが、横道に逸れるので、後日としよう。
川瀬舍人造は、古事記の河瀬舍人を示すと思われる。長く延びた山稜の西側が「造」の居場所であろう。舎人としてはかなり古くから人材輩出していた土地と思われる。
川内馬飼造は、近隣はすっかり埋まっていたのだが、すっぽりと抜け落ちていた場所であろう。空だから埋めた、ではなく、しっかり「馬」の地形があり、また「飼」=「食+司」の地形も見られる。
「川内」の中では、なかなかに広い場所であって、現在では隈なく水田稲作が行われている様子が伺える。現地名は京都郡みやこ町勝山黒田である。
勾筥作造は前後に全く出現しない。「勾」を頼りに探すと、それらしき場所が見出せる。古事記に「伊波禮」の地に多くの天皇が宮を構えたと記載されている。
「甕栗」とは、実に地形そのものを表現していて、それぞれの山稜の端に宮を造ったと解釈した。現在も小・中学校名に残る「勾」である。
「筥」=「竹+呂」と分解される。「麻呂」の「呂」は垂直に見て積み重なった様を表すと読むが、水平に見ると「背骨の様」である。本来の象形であろう。「作」=「人+乍」で「狭い谷間」を表すと解釈される。
纏めると勾筥作=くの字に曲がった地で背骨のように凹凸のある狭い谷間と読み解ける。図に示した北側の「栗」と「甕」との隙間を示していることが解る。この地も神倭伊波禮毘古命(神武天皇)が「伊波禮」に達して以来の土地であり、早くに開拓されたのであろうが、人材の輩出は見られなかったようである。
後に川原連加尼が登場する。加尼=背中合わせ地が押し合わされたところと読み解ける。出自の場所は「金箸」の先端辺りと思われる。また持統天皇紀に大倭大神が登場する。「勾金」の地の中央辺りではなかろうか。後に登場したところで補足することにする。
石上部造は、調べると書紀の欽明天皇の御子に石上部皇子がいたと記載されていることが分かった。対応する王は古事記の伊美賀古王である。現地名では行橋市福丸辺りである。谷間から流れ出た川(小波瀬川:古事記で吉野河と推定)が大きく蛇行している場所であり、当時は「磯」の状態であったと推測される。「石上」の名称も金辺川流域に限られるわけではないことが解る。
財日奉造は、とても日本人名とは思えないような感じであるが、「日奉=日祀(ヒマツリ)」のように解釈されているようである。また、齋宮の名代だと言われている。
それを信じて、取り敢えず泊瀬齋宮辺りを散策すると、何だかそれらしき場所に行き当たったようである。
図に示した齋宮の東側の山稜が奉=丰+廾+手=両手で盛り上げたような様であり、その隙間が財=貝+才=谷間を遮るように山稜が延びている様と見做すことができる。両手で盛り上げられた日=太陽のように見える地形が加わった場所を表していると思われる。
尚、現在は地形が大きく変形した場所である。国土地理院航空写真1974~8年を参照(こちら)すると、既に変形が始まっているが、「日奉」の地形を明瞭に確認することができる。
前出の「朝明郡」の主要な一部を占めるところである。齋宮に注力して行こうとする天皇にとっても重要な地であったのではなかろうか。
<百濟造・益田直金鍾> |
小泊瀬造は、小泊瀬稚鷦鷯天皇(武烈天皇)の名前に関わる場所と思われる。古事記の小長谷若雀命であり、現地名は田川郡香春町採銅所の黒中辺りと推定した。
百濟造は紛うことなく百濟の地であろう。「造」の地形を求めると、図に示した場所が見出せた。「倭漢直」で多くの人物が登場したが、この地の出自は全くなかった。
尚、『壬申の乱』において、将軍吹負が策略を練り、武器を準備した百濟家も併せて示した。倭國の百濟の範囲がおおよそ知り得る図となっている。「百濟連」となっては、その場所は全く不明か、誤ってしまうことになる。
後に益田直金鍾が登場する。調べると…、
益田氏には、東大寺大仏殿の造立に功績があり、後に連姓を賜与される大工の益田縄手などがおり、東大寺の前身が「金鐘寺」であることから、姓は異なるが、金鐘も東大寺に関連の深い一族の出身であったものと見られる。
…と記載されている。おそらく「百濟」の地に関係する一族と推測される。それを背景に「益」=「八+八+一+皿」と分解すると、地形象形的には益田=谷間に挟まれて平らに広がり田になったところと読み解く。百濟川が大きく曲がる場所と思われる。
金鐘=三角形の地にある鐘の形をしたところと読むと、その曲がり角の場所を表していることが解る。東大寺の前身に「金鍾」の文字が含まれているとは、驚きである。
伯耆造は何だか見慣れた感じの文字列であるが、書紀中で初出である。「鳥取」も決して多くはなく、極僅かである。「出雲」のとの差が激しい。
それはともかく、伯=人+白=谷間がくっ付く様であり、耆=老+日=炎の地が海老のように曲がっている様と読み解くと、鳥取の北方の谷間に目が留まる。実に的確な表記であることが解る。
この地もかなり古くから開けた場所であり、人々が弛まず暮らして来ていたのであろう。それを見逃さずに「連」姓を与える、古代の官人達は生真面目さが伝わって来るようである。
船史は、調べると「河内国丹比郡野中郷」と記載されている。孝徳天皇紀に登場した野中川原史滿に関連する場所であることが解った。現地名は京都郡みやこ町勝山大久保の図師である。「史」の地形を「船」で表現したものであろう。
紀酒人直は「紀臣」一族であろう。既に述べたことではあるが、「酒」の解釈は古事記と大きく異なる。言えば、古事記の解釈が極めて特異で、「酒迎え」の儀式を理解しなければならなかった。
本来の文字解釈に立ち戻れば、酒=氵+酉=搾って水を出す様と解説されている。それを地形で表している場所を求めることになる。
図に示した場所を見ると、谷間(人)に皺が寄ったような山稜(酒)があって真っ直ぐに麓に届く(直)ところであり、四つの文字が求める地形を表していることが解る。
多くの人材を輩出している地ではあるが、まだまだ余裕であろう。東南の方角に紀臣阿閉麻呂の出自の地がある。現地名は、同じく豊前市川内である。
娑羅々馬飼造・菟野馬飼造について補足の図を示す。上記で引用したようにこれらは正妃菟野皇女の出身地を「連」に昇格させたと思われる。
皇女の名前がその地の特異な地形に基づいて複数の名称となっている。その地形に住まう人々を表しているのであろう。馬飼=谷間に縊れたところがある様を示している。
また後に菟野大伴、罪人故に姓が省略されているようだが、この人物も菟野にある大伴の地形が居場所であったと思われる。「菟」の谷間の入口にある山稜を示している。
やっとこさ、計五十二氏の場所を求めてみたが、歴史の表舞台には出ない古豪に「連」姓を与えていることが分かる。由緒があって筋のはっきりとした一族を評定した結果なのであろう。地形象形に基づいた「連」ではなくなり、「姓」として一人歩きが始まったのである。別名表記をお願いしたいところだが、書紀も終盤を迎えているようである。
十一月甲申朔丁亥、詔諸國習陣法。丙申、新羅、遣沙飡金主山・大那末金長志、進調。十二月甲寅朔丙寅、遣諸王五位伊勢王・大錦下羽田公八國・小錦下多臣品治・小錦下中臣連大嶋、幷判官・錄史・工匠者等、巡行天下而限分諸國之境堺。然、是年不堪限分。庚午、詔曰、諸文武官人及畿內有位人等、四孟月必朝參。若有死病不得集者、當司具記申送法官。又詔曰、凡都城宮室、非一處必造兩參、故先欲都難波。是以、百寮者各往之請家地。
十一月四日に諸国に「陣法」(兵法)を習わせている。十三日、新羅が進調。十二月十三日に「伊勢王・羽田公八國(矢國)・多臣品治・中臣連大嶋」及び「判官・錄史・工匠」を遣わして諸国の境界を調べて分けたが、全てには至らなかったと述べている。「伊勢王」は舒明天皇紀以降でも二回亡くなっている。世襲なんであろう。詳細が語れないので居場所は本来の場所、寶王(別名糠代比賣王)とする。
十七日に文官・武官及び畿内で位のある者は四季の初めの月には必ず朝廷に参じること、あるいは、亡くなったり病気に罹っていたらその旨を法官に申し出ること、と命じている。また、都や宮は一ヶ所に限らない故に難波に都を造ろうと思うので、家地を求めよ、と申し付けている。
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即位十二年(西暦683年)も静かに暮れて行ったようである。さて、翌年には如何なる出来事が・・・。