2019年6月25日火曜日

天照大御神が生んだ五柱男子 〔355〕

天照大御神が生んだ五柱男子


天照大御神と速須佐之男命の宇氣比で初めに速須佐之男命が胸形三柱神を産み、それに続いて天照大御神が「五柱男子」を生んだと記載される。「天」に散らばった命達であるが、今一度その居場所を見つめ直してみようかと思う(前回参照)。

文中「八尺勾璁之五百津之美須麻流珠」についてはこちらを参照願う。古事記原文[武田祐吉訳]…、

速須佐之男命、乞度天照大御神所纒左御美豆良八尺勾璁之五百津之美須麻流珠而、奴那登母母由良爾、振滌天之眞名井而、佐賀美邇迦美而、於吹棄氣吹之狹霧所成神御名、正勝吾勝勝速日天之忍穗耳命。亦乞度所纒右御美豆良之珠而、佐賀美邇迦美而、於吹棄氣吹之狹霧所成神御名、天之菩卑能命。自菩下三字以音。亦乞度所纒御𦆅之珠而、佐賀美邇迦美而、於吹棄氣吹之狹霧所成神御名、天津日子根命。又乞度所纒左御手之珠而、佐賀美邇迦美而、於吹棄氣吹之狹霧所成神御名、活津日子根命。亦乞度所纒右御手之珠而、佐賀美邇迦美而、於吹棄氣吹之狹霧所成神御名、熊野久須毘命。自久下三字以音。幷五柱。
於是天照大御神、告速須佐之男命「是後所生五柱男子者、物實因我物所成、故、自吾子也。先所生之三柱女子者、物實因汝物所成、故、乃汝子也。」如此詔別也。
[次にスサノヲの命が天照らす大神の左の御髮に纏いておいでになつた大きな勾玉の澤山ついている玉の緒をお請けになつて、音もさらさらと天の眞名井の水に滌いで囓みに囓んで吹き棄てる息の霧の中からあらわれた神はマサカアカツカチハヤビアメノオシホミミの命、次に右の御髮の輪に纏かれていた珠をお請けになつて囓みに囓んで吹き棄てる息の霧の中からあらわれた神はアメノホヒの命、次に鬘に纏いておいでになつていた珠をお請けになつて囓みに囓んで吹き棄てる息の霧の中からあらわれた神はアマツヒコネの命、次に左の御手にお纏きになつていた珠をお請けになつて囓みに囓んで吹き棄てる息の霧の中からあらわれた神はイクツヒコネの命、次に右の御手に纏いておいでになつていた珠をお請けになつて囓みに囓んで吹き棄てる息の霧の中からあらわれた神はクマノクスビの命、合わせて五方の男神が御出現になりました。
ここに天照らす大神はスサノヲの命に仰せになつて、「この後から生まれた五人の男神はわたしの身につけた珠によつてあらわれた神ですから自然わたしの子です。先に生まれた三人の姫御子はあなたの身につけたものによつてあらわれたのですから、やはりあなたの子です」と仰せられました]

代わって須佐之男命が生ませた神は…、

①正勝吾勝勝速日天之忍穗耳命
②天之菩卑能命
③天津日子根命
④活津日子根命
⑤熊野久須毘命

<忍穂耳命>
…と記述される。一番目の天之忍穂耳命は幾度か古事記に登場する。また邇藝速日命の父親ということになっている。

前記したように現在の福岡県田川郡赤村に関連する「吾勝」「葛野」の由来かもしれない。が、古事記は語らない。情報が少ないが彼らの居場所を求めてみよう。

①正勝吾勝勝速日天之忍穗耳命
 
「勝」は「舟が浮かび上がっている様」を象った文字のようである。「天之常立神」との関連で大地が持ち上がった光景を連想させる。壱岐市勝本町の名前にも関連しているようであるが、不詳である。

「忍穂耳」を何と解釈するか、であろう。
 
忍(一見では分からない)|穂(稲穂の形)|耳(縁)

…「穂」は二つの川に挟まれた地形と解釈する。おそらく一方の川が小さく穂の形として判別し辛いところを表しているのであろう。「耳」=「耳の形」と思われる。図に示した勝本町新城東触にある新城神社辺りが該当すると解る。
 
<正勝吾勝勝速日>
さて、「勝」=「大地が持ち上がった様」と読んだが、一文字一文字を紐解いてみよう。

「勝」=「朕+力」と分解され、「舟が浮かび上がった様」を示し、際立っている状態を表す文字と解説される。地形象形的には「小高く盛り上がっている様」と紐解ける。

「正」=「囗+止」であり、「止」=「足を止めた様」即ち「足跡」を象った文字と言われる。図中に金文と甲骨文字を示した。

例によって「囗」=「大地」であろう。すると上記の「忍穂」の地形がその通りの形をしていることが解る。

同様に「吾」=「五+囗」の「五」の甲骨文字を図に載せたが、交差する状態、地形では縊れた様を表していると思われる。「正勝吾勝」は同じ場所の別表現であることが解る。忍穂耳命は偏平足ではなかった?…冗談ですが・・・。

更に「勝速日」は「日(炎)」の地形を「勝」が束ねている様を表している。「天津」に近付き、州の先端が寄り集まる山稜の端と接近する状態である。何とも丁寧な表記であろうか・・・皇統に係る重要人物、さすがに坐した場所の説明には力が籠っている、と解釈しておこう。

②天之菩卑能命

「菩卑」を何とするか?…後の記述に「卑=比」とされる。「菩」は仏教がらみの解釈が多くみられるが、時代が異なる。「菩」=「艹+咅」と分解すると「咅」=「ふっくらとしたつぼみ(子房)」と解説される。「卑」=「いやしい、低い」の意味を持つ。これらを併せると…、
 
菩(ふっくらとしたつぼみのようなところ)
卑(低い)・比(並ぶ)|能(隅)|命

…「並んだ(低い)ふっくらとしたつぼみのようなところの隅」の命と紐解ける。現地名の片山触にある標高73.1m76.0mのほぼ同じ形をした山が並ぶところがある。

「卑」と表記されることから、低い方の隅に坐していたのではなかろうか。敢えて二つの文字を使ってより詳細な場所を示す。幾度か行われている記述である(下図参照)。この神は出雲に降臨したのだが、梨の礫の行動を取り、天神達はお気に召されなかった様子である。これも籠められた表記であろう。その代りに息子の活躍が記載される。

③天津日子根命

現在の谷江川が複数の川と合流する最も津らしいところであろう。「天津」は…、
 
天(阿麻:擦り潰された台地)|津(集まる)

…「擦り潰された台地が集まったところ」を表している。「天の津」と解釈しても良し、だが、確実に地形象形表現と重ねられていると思われる。その近隣として比定できそうである。「日子根」とは…、
 
日子(稲穂)|根(根付く)

…「稲穂が根付くところ」の命と紐解くと、「天の津の傍らで稲穂を根付かせる命」となる。「日子」=「日(太陽)の子(生み出したもの)」の意味と表していると思われる。津の周辺を開拓したように受け取れるが、これでは居場所を示すには不十分であろう。

「日子」の意味は、上記のそれとして、地形象形しているのではなかろうか?…、
 
日([炎]の地)|子(生え出る)|根([根]の形)

<天石屋・伊都之尾羽張神>

…「[炎]の地から生え出た[根]の形のところ」と読み解ける。

既に登場した「伊都之尾羽張」とは「炎」の地から長く延びたところと推定した。

「日子根」は、それから更に延びたところを表していると解る。

その「根」の先に「天津」がある地形を「天津日子根」と表記したと紐解ける。

「伊都之尾羽張神」が坐していたところを示した。命が坐した詳細な場所までは特定されないが、「天津」に近接するところであったと思われる。現地名は新城東触(下図参照)。

④活津日子根命

「活」=「氵+舌」と分解すると川に挟まれた[舌]の形をした地形と思われる。上記の「天津」と同じく「活津」は…、
 
活([舌]の地形)|津(集まる)

…「[舌]の地形が集まったところ」と紐解ける。すると「天津」ではないところに同じ「日子」の「根」を見出すことができる。現在では、この津を境に勝本町仲触・北触・新城西触・西戸触に分かれるところである(下図参照)。

⑤熊野久須毘命

文字解釈を試みてみよう…、
 
熊野(隅の野)|久須(くの字の州)|毘(田を並べる)|命
 
<天照大御神の御子>
…「隅にある野で[く]の字形の州に田を並べる」命と紐解ける。

神岳の麓の川(天安河)が蛇行し、ほぼ直角に曲がるところ(隅)を示していると思われる。

更に「能」はなく「熊」の文字を使っているのは、その「隅」が「灬(炎)」の地形を示していると思われる。図を参照願う。

北九州に比べると何とものっぺらな地であるが、それなりに地形の特徴を掴むことが可能と判る。

天津日子根命を除き古事記が活躍を記述することが少ない神たちである。

彼らは壱岐で暮らし子孫を残していっただろう。がしかし「天神」一族は東へ東へと向かい立去って行ったのである。

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前回<速須佐之男命が生ませた五人の命〔174〕>も概ね御子達の居場所を言い当てていたようにも感じるが、やはり「活津日子根命」の場所は幾度か彷徨ったようである。「舌」の地形は、とりわけ「天」には多数出現していたからとも思うが、「日子根」の解釈が曖昧であったことが最大の理由であろう。

「正勝吾勝」の「正」と「吾」の文字解釈、解けて初めて漢字を用いた地形象形の奥深さを感じさせられた。この”文化”が今に残っていないことが不思議なくらいである。今暫くは「漢字学」とのお付き合いであるが、白川漢字学が持て囃されるとは、如何に漢字そのものへの理解が浸透していないか、と気付かされる。やはり訳の分からない「令和」の意味が横行するのも頷ける。

最後に、いつも参考させて頂いているブログサイトに謝意を込めて、引用させて頂く。

2019年6月17日月曜日

天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命:稻氷命 〔354〕

天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命:稻氷命


邇邇芸命の御子、火遠理命(山佐知)が豐玉比賣を娶って誕生したのが天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命であり、その御子が叔母の玉依毘賣を娶って稻氷命と他三人の御子が誕生したと、古事記は伝えている。いよいよ古事記の記述が神代の世界から人代へと進んで行く場面である。

古事記原文[武田祐吉訳]…、

是天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命、娶其姨・玉依毘賣命、生御子名、五瀬命、次稻氷命、次御毛沼命、次若御毛沼命、亦名豐御毛沼命、亦名神倭伊波禮毘古命。四柱。故、御毛沼命者、跳波穗渡坐于常世國、稻氷命者、爲妣國而入坐海原也。
[アマツヒコヒコナギサタケウガヤフキアヘズの命は、叔母のタマヨリ姫と結婚してお生みになつた御子の名は、イツセの命・イナヒの命・ミケヌの命・ワカミケヌの命、またの名はトヨミケヌの命、またの名はカムヤマトイハレ彦の命の四人です。ミケヌの命は波の高みを蹈んで海外の國へとお渡りになり、イナヒの命は母の國として海原におはいりになりました]

その四人の一人(次男)、「稻氷命」は妣国(母親、玉依毘賣の国)の海原に入ったと解釈されて来た。海神、綿津見神の居場所が母親の国とすれば、矛盾のない解釈であろう。しかしながら「妣」=「亡き母親」の解釈では、古事記に記された「妣国」は二つあることになる。

「妣国」は、やんちゃな速須佐之男命が伊邪那岐に引導を渡された時に登場する。速須佐之男命が「僕者欲罷妣國根之堅洲國、故哭」と言い、「天」に住まうことは罷りならぬと告げられる。「妣国」=「亡き母親の国」ならば伊邪那美が母親のようにも思われるが、古事記には明記されない。そらしき読み方ができるが、やはり「妣国」≠「亡き母親の国」である。

既に根之堅洲国について述べたように、「妣」=「女(嫋やかに曲がる)+比(並ぶ)」と分解して、比婆之山に挟まれた国の解釈と結論付けられた。黄泉国を示すのである。通説は玉依毘賣の場所、即ち豐玉毘賣と同じであろうが、不詳ながら宮崎県に伝承されると言う。「豐」と無関係だが、お構いなしである。


<妣国・海原>
では「海原」は何と解釈できるであろうか?…「海原(ウナバラ)」=「広々とした海(池、湖の水面)」が通常に使われる意味であろう。

「入坐」は、あたかも海の底に坐しているような雰囲気を醸しているが・・・。

「海原」=「海浜の開けた場所。海辺」の意味もあると言われる。海の傍らの原と読めるであろう。

これがヒントになって、繋がった。

息長帶比賣(神功皇后)が品陀別命(後の応神天皇)を生んだ場所「宇美(ウミ)」である。

実に戯れた表記と言わざるを得ない。「ウミ」に掛けた文字であり、当て字は「宇美」=「宇(山麓)+美(谷間が広がる地)」なのである。

息長帶比賣が筑紫国を彷徨った時の地名をあらためて図に示した。現在の様な広大な扇状地に至ってはなかったと思われるが、海辺の開けた場所として名付けられて申し分なしの地形と推測される。「宇美」=「海」であったことが再確認されたわけである。


<稻氷命>
ところで「稻氷命」の命名は、母親の近隣の地を表していると読み解いた。後に三川之穂と呼ばれる場所であって、筑紫嶋の南西端に当たる。

彼はそこから北端に近く開けた宇美に移ったのである。言い換えれば筑紫国の西部を縦断したことになる。

後に長男五瀬命と四男神倭伊波禮毘古命が一時滞在する筑紫之岡田宮はその道中にある。唐突に登場するように見えて、その実、次男が手掛けた宮であったことが伺える。

爲妣國而入坐海原也」は、妣国を治め、海原に侵入して坐したことを表している。海に入った、のではない、近隣の地を切り開いた命であったことを告げている。

伊邪那岐・伊邪那美が生んだ筑紫嶋の面四、そして筑紫国、豐国及び肥国(出雲国)、更に黄泉国が隣接する地でなければ稻氷命が果たした役割は全く理解の外であろう。

こんな齟齬を受け入れて、と言うか放置するのが、日本人的なのであろうか・・・昨今の「上級国民」の為体さに通じる、かもである。

余談はさて置き、「海(ウミ)」に関わる古事記の記述の奥深さを感じると共に、更なる読み解きを継続する勇気を与えてくれた件であった。

2019年6月9日日曜日

古事記の『蠅』 〔353〕

古事記の『蠅』


古事記には怪しげな生き物が登場する。大雀命(仁徳天皇)の御子、蝮之水齒別命に含まれる「蝮」もその中の一つであろう。既に述べたように立派な地形象形であった。正に蝮の歯(牙)のように二つ並んで延びた山稜を示していた。

今回取り上げるのもやはり虫偏が付いた「蠅」である。比賣の名前とするには些か憚れるように思われるのだが、古事記はお構いなしである。勿論、立派な地形象形の表記と思われるが、早速紐解いてみよう。

古事記原文…、

師木津日子玉手見命、坐片鹽浮穴宮、治天下也。此天皇、娶河俣毘賣之兄、縣主波延之女・阿久斗比賣、生御子、常根津日子伊呂泥命、自伊下三字以音、次大倭日子鉏友命、次師木津日子命。此天皇之御子等、幷三柱之中、大倭日子鉏友命者、治天下也。次師木津日子命之子、二王坐、一子孫者伊賀須知之稻置、那婆理之稻置、三野之稻置之祖、一子、和知都美命者、坐淡道之御井宮、故此王有二女、兄名蠅伊呂泥・亦名意富夜麻登久邇阿禮比賣命、弟名蠅伊呂杼也。天皇御年、肆拾玖歲。御陵在畝火山之美富登也。

第三代天皇、師木津日子玉手見命(安寧天皇)紀に、その孫の和知都美命の比賣、即ち曾孫に当たる比賣に「蠅伊呂泥・亦名意富夜麻登久邇阿禮比賣命」と「蠅伊呂杼」が居たと伝えている。そして下記するように、この二人の比賣が第七代天皇、大倭根子日子賦斗邇命(孝霊天皇)に娶られたと記されている。

大倭根子日子賦斗邇命、坐黑田廬戸宮、治天下也。此天皇、娶十市縣主之祖大目之女・名細比賣命、生御子、大倭根子日子國玖琉命。一柱。玖琉二字以音。又娶春日之千千速眞若比賣、生御子、千千速比賣命。一柱又娶意富夜麻登玖邇阿禮比賣命、生御子、夜麻登登母母曾毘賣命、次日子刺肩別命、次比古伊佐勢理毘古命・亦名大吉備津日子命、次倭飛羽矢若屋比賣。四柱。又娶其阿禮比賣命之弟・蠅伊呂杼、生御子、日子寤間命、次若日子建吉備津日子命。二柱。此天皇之御子等、幷八柱。男王五、女王三。

大年神の御子、羽山戸神の子孫が蔓延っていた地へ侵出したのだが、この地は「夜麻登」であり、決して広々とした谷間ではなく、誕生した御子達は各地に散らばることになる。その重要な地が吉備国であったと告げている。

さてそんな御子を産んだ比賣二人「蠅伊呂泥」と「蠅伊呂杼」に含まれる「蠅」は何を意味しているのであろうか?…間違いなく空中を飛び交うハエではなかろう・・・。
 
意富夜麻登玖邇阿禮比賣命

蠅伊呂泥(意富夜麻登玖邇阿禮比賣命)」及び妹の「蠅伊呂杼」は何処に居たのであろうか?…「伊呂泥・伊呂杼」は「同母の泥(兄/姉)・杼(弟/妹)」の表記であろう。これでは居場所は見出せない。だからきちんと別名が記されている、と思われる。

勿論それを伝えようとして別名「意富夜麻登玖邇阿禮比賣命」が記されていると思われる。これを頼りに先ずは「蠅伊呂泥」の居場所を突止めてみよう。既に紐解いたところと併せて述べる。

父親の和知都美命は淡道之御井宮に坐していた。淡海を挟んで淡道嶋の対岸にある「意富(出雲)」、既出の「夜麻登」(狭い谷間を挟む山稜が二つに分かれるところにある高台)、「阿」、「禮」も既に解釈した例に準じるであろう。「玖」を何と紐解くか?…と考えながら山の形状を眺めると…「玖邇阿禮」は…、
 
(三つの頂の山)|邇(近く)|阿(台地)|禮(山裾の高台)

…「風師山に近い山裾の高台がある台地」の比賣と紐解ける。出雲で山を登って辿り着く場所、現在の北九州市門司区にある小森江貯水池・小森江子供のもり公園がある谷間と推定される。

<意富夜麻登玖邇阿禮比賣命>
この地は須佐之男命の御子の大年神、その御子羽山戸神の子孫である夏高津日神、秋毘賣神が住まっていたところである。

対岸の淡道嶋の御井に居た和知都美命がこの地の比賣を娶って誕生したのであろう。

母親の出自は詳らかではないが、それには訳があった。大年神一族が支配する地に侵出したからであろう。

八嶋士奴美神の系列及び舞い戻らされた大国主命の系列も共にこの出雲の国から「天」へと逆流する羽目になった。激しい戦闘が繰り広げられた葦原中国に加え、羽山戸神の地も同様の有様であったと推測される。

大国主命及びその系列は北と南に挟まれた場所しか手にすることはできなかったと思われる。要するに速須佐之男命の系譜は出雲の取り合いで消耗してして行ったのであろう。邇邇芸命の降臨に先んじる速須佐之男命及び邇藝速日命の降臨は、天神達の永住の地を得るには至らなかったことを物語っているのである。

時代が過ぎて、淡道之御井宮に坐したことは天神達の粘り強い目論みを潜めていたのであろうが、結果として実現した。実に貴重な出来事であったと伝えている。更に憶測すれば「夜麻登」を冠するとは、如何にも天皇家にそもそも関わっていたかのような表記を用いている。「言向和」戦略の成功例の一つなのであろう。

裏返せば、「夜麻登(狭い谷間を挟む山稜が二つに分かれるところにある高台)」が汎用の表現であり、決して固有の地名を示すものではないことが判る。図に示したようにこの地も谷川が流れる狭い谷を登ったところを表している。

他国の史書解読にも関連して「ヤマト」は一般的な表現と思う、という説が従来よりあるが、根拠は希薄であろう。古事記がそのものズバリに答えているのである。1,300年間それに振り回された日本の歴史とは一体何なのかと思いたくなる有様である。


蠅伊呂泥・蠅伊呂杼


<蠅伊呂泥・蠅伊呂杼>
それはそれとして、何故「蠅」などという文字を使ったのか?…「伊呂泥・杼」が素直に解釈されることから、何となく見過ごされてしまう表記である。

勿論「蠅」に着目した記述は見当たらないようである。と言う訳で、地形象形的に解釈を試みる。

「蠅」=「虫+黽」と分解される。「黽」=「ハエ、カエルの膨らんだ腹」を象った文字と解説される。地形的には「こんもりと高くなったところ」と読み解ける。

現在の地図では、一見ダムかと見受けられるのだが、実際は小高くなったところで区切られている様子であることが判る。その小高いところを「蠅」と表記したのではなかろうか。


蠅(こんもりと高くなったところ)|伊(小ぶり)
呂(積み重なった台地)|泥(くっ付く)・杼([杼]の形)

…と読み解ける。実に良くできているのは、それを挟んで「呂」=「積重なった台地」が「泥」=「くっ付く、近接する」ところと「杼」=「杼(横糸を通す舟形の道具)」の地形を表している。姉と妹、それぞれが「蠅」を挟んで住まって居たと伝えている。

当時の地形との差異は否めないが、それらしき地形を読取ることができたようである。いずれにしても「意富夜麻登玖邇阿禮比賣命」と言う別名表記がなければ辿り着かない場所であろう。地図が拡大されれば、正に「夜麻登」の地形であることが解る。


比古伊佐勢理毘古命・亦名大吉備津日子命

ついでと言っては何だが、紐解き不十分と思われる、蠅伊呂泥の御子「比古伊佐勢理毘古命・亦名大吉備津日子命」について補足しておく。

<比古伊佐勢理毘古命(大吉備津日子命)>
「亦名大吉備津日子命」からは現在の下関市吉見を流れる西田川沿いの何れかであることは推定できるが、複数の津の存在が特定を困難にしていとも思われる。

この御子は母親の傍ではなく前記に登場した「姪忍鹿比賣命、生御子、大吉備諸進命」に関わるところと読み取れる。

それを背景にして「伊佐勢理」を紐解くと…既に登場した須勢理毘賣の「勢」と同様に解釈して…、
 
伊(僅かに)|佐(支える)|勢(丸く小高いところ)|理(整えられた田)|

…「僅かに丸く小高いところの下(麓)にある整えられた田」と読み解ける。これで図に示した場所に坐していたと導くことができる。比古・毘古が付加されているのは田・畑を作り定めていたのであろうか。


姪忍鹿比賣命」及びその御子「大吉備諸進命」が住まっていた場所の近隣であり、「吉備上」の中心の地であったことを示していると思われる。



2019年6月4日火曜日

宇遲能和紀郎子・大山守命:宇遲能和多理 〔352〕

宇遲能和紀郎子・大山守命:宇遲能和多理


応神天皇が亡くなられた後その命に従わず大山守命が天下を欲したという筋書きで騒動が起きる。既に宇遲能和紀郎子 vs 大山守命:戦闘場面の再現 〔119〕かで二人の戦闘場面を読み解いたが、その中で登場する「知波夜夫流 宇遲能和多理=流れの早い宇治川の渡場」について再考を試みた。

大山守命が宇遲能和紀郎子の策略にまんまと嵌って敢無く最期を遂げるのであるが、例によって歌など詠われる。その読み下しが、解ったようでどうもしっくり来ない、それも併せて読み解いてみよう。

古事記原文[武田祐吉訳]…、

於是、其兄王、隱伏兵士、衣中服鎧、到於河邊、將乘船時、望其嚴餝之處、以爲弟王坐其吳床、都不知執檝而立船、卽問其執檝者曰「傳聞茲山有忿怒之大猪、吾欲取其猪。若獲其猪乎。」爾執檝者、答曰「不能也。」亦問曰「何由。」答曰「時時也往往也、雖爲取而不得。是以白不能也。」渡到河中之時、令傾其船、墮入水中、爾乃浮出、隨水流下。卽流歌曰、
知波夜夫流 宇遲能和多理邇 佐袁斗理邇 波夜祁牟比登斯 和賀毛古邇許
[ここにその兄の王が兵士を隱し、鎧を衣の中に著せて、河のほとりに到つて船にお乘りになろうとする時に、そのいかめしく飾つた處を見遣つて、弟の王がその椅子においでになるとお思いになつて、棹を取つて船に立つておいでになることを知らないで、その棹を取つている者にお尋ねになるには、「この山には怒つた大猪があると傳え聞いている。わしがその猪を取ろうと思うが取れるだろうか」とお尋ねになりましたから、棹を取つた者は「それは取れますまい」と申しました。また「どうしてか」とお尋ねになつたので、「たびたび取ろうとする者があつたが取れませんでした。それだからお取りになれますまいと申すのです」と申しました。さて、渡つて河中に到りました時に、その船を傾けさせて水の中に落し入れました。そこで浮き出て水のまにまに流れ下りました。流れながら歌いました歌は、流れの早い宇治川の渡場に棹を取るに早い人はわたしのなかまに來てくれ

背景もあるので前記したところと重複するが、併記してみると・・・。

「宇遲能和紀郎子」はなかなかの策略家である。下からよく見える山の上にテントを張り、影武者を居させて、日常の状況を作り出して油断させ、船に細工をした上で河辺に兵士を待機させる。尚且「言向け」して、狙われていることを確信し、いよいよ実行である。世が世ならば、仁徳を凌ぐ天皇になったかも。


<訶和羅>
安萬侶くんが事細かに記述してくれている。それに応えてこの戦闘場面を再現してみよう。

和紀郎子がテントを張った山は何処であったか?…前記で紐解いた和紀郎子が居た場所であろう。


とすると現在の柿下と迫谷の境に近いところを示しているようである。視界も川を見張るにも、逆に下から眺めた時によく目立つところとなる。

では、渡渉を試みた場所は?…凹凸のある丘陵地帯で凹のところが道になっていて、丘に隠れながら川に近付き兵を隠すだけの空間があるところとなると、限られてくる。

宇遲能和多理」は現在の柿下温泉口駅の東、県道204号線の橋が架かっている辺りであろう。共に兵を隠して置いたという段取りである。

歌中に記載された文字列「宇遲能和多理」の「和多理」は…、
 
和(しなやかに曲がる)|多(山稜の端の三角州)|理(整えられた田)


<宇遲能和多理>
…「しなやかに曲がる山稜の端の三角州に田が整えられたところ」と読み解ける。

勿論これは「渡」の意味も重ねられている筈である。ほぼ上記の場所に特定できる表記と思われる。

これで最初の両者の接触場所が見えてくる。渡しの船頭に扮した和紀郎子が兄の大山守命の腹を探る場面となる。

しかしながら、歌全体を眺めると、どうやらきめ細かな地形描写のように感じられる。

「和多理」だけではなく、全文を紐解くことにする。

①知波夜夫流

「ちはやふる」は「神」、「宇治」に掛かる枕詞として知られている。武田氏は「流れの早い」とされているが、言い得ているようでもある。この文字列を紐解いてみよう。「知」=「矢+口」=「鏃」、「夜」=「(三角州のある)谷」として…、


知([鏃]の形)|波(端)|夜(谷)|夫([夫]の形)|流(広がる)

…「[鏃]の地形の端にあって谷が[夫]の形に広がっているところ」と読み解ける。「宇遲能(隅)」に延びる山稜の端を「鏃」の形に見做したと思われる。

その傍を流れる御祓川が山稜に挟まれて狭まり、谷が「夫」の形に広がっているところを表しているところ、即ち「宇遲能和多理」の場所を示していると解る。

②佐袁斗理邇
 
<大山守命:歌>
更にそこは「佐袁斗理」に近いところでもあると詠われる。

さて「佐袁」とは?…「棹」ではなく「竿」であろう。「竿」=「竹+干」と分解され「干」の古文字の地形象形と解読される。

実は、「佐袁」の解釈は、後の允恭天皇紀に登場する「木梨之輕太子」が島流しになった「伊余湯」があった場所の山稜を表した意富袁・佐袁袁の表記で紐解けた。

「佐袁」は山稜の端が二俣になった形を示している。

更にその二俣のところが「斗(柄杓)」の地形であることを「佐袁斗」と表記したと読み解ける。

そこに「理(整えられた田)」があり、その近隣の場所を表している。図に示したように「知」と「佐袁斗」が隣り合うところである。

③波夜祁牟比登斯

この文字列は難解…と言うか、一文字一文字では伝わらず意訳されているようである。何とか意味のある読み下しになるようにされてはいるが、何処かスッキリしない訳となってしまう。では上記のように紐解いてみよう。「斯」=「其(箕)+斤(斧)」(切り分ける)として…、


波(端)|夜(谷)|祁(高台)|牟([牟]の地形)|比(並ぶ)|登(登る)|斯(切り分ける)

…「谷の端にある高台が[牟]の地形をして並び登りながら切り分けられているところ」と読み解ける。大小二つの[牟]の地形の高台が隣り合っている様を述べていると思われる。大「牟」は、清寧天皇の伊波禮之甕栗宮に含まれる「甕」に該当する。御祓川の上流から下流へと進む、その右岸の地形を述べているのである。

④和賀毛古邇許牟
 
「毛古(モコ)」=「仲間」、仲間に来てくれと詠う…偽船頭とも知らずに助けを呼ぶ有様、何とも情けない情景を記している…助けを求めるだけではない故に歌にした、のであろう。命が消えかけている御人に川岸の情景を語らせる、非情とも言える古事記編者・・・最後の文節は…、


和(しなやかに曲がる)|賀(が)|毛(鱗状の)|古(小高い地)|邇(近い)|許(下)|牟([牟]の地形)

…「しなやかに曲がるところが鱗状の小高い地に近い下で[牟]の形になるところ」と読み解ける。谷が開けたところを示していると思われる。冒頭の図の「訶和羅」の場所である。現在の「香春」である。

大山守命が助けを求めて詠ったように読ませ、実はそこに彼が流れて行く川岸の様子を忍ばせる。正に万葉の記述である。今回もまた、古事記と万葉集、それは万葉仮名の世界であることに気付かされたようである。

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前記したごとく大山守命は「採銅」…おそらくは鉄も…の山の監督者であった。奔流に歯向かうだけの力を有していた、若しくはそんな気持ちを育んでいたのであろう。それだけ銅、鉄は大きな意味を持つモノであったろう。

天皇に山と海を統括しろ、と言われてやはりそれだけでは納得できなかったのかもしれない。これに加えて彼の出自は、「品陀」=「伊奢」の奔流の地に生まれた。長らく天皇家に媚び諂うことのなかった地、その中心である。大雀命は、後の島流しの場所、伊余湯の麓で生まれた。「伊奢」の外れである。

仁徳天皇紀に至る古事記記述の躍動感は見事である。一文字一文字に潜められた意味は、実に豊かな情報を提供してくれる。古事記新釈、道半ば、かもしれない・・・。