宇遲能和紀郎子・大山守命:宇遲能和多理
応神天皇が亡くなられた後その命に従わず大山守命が天下を欲したという筋書きで騒動が起きる。既に宇遲能和紀郎子 vs 大山守命:戦闘場面の再現 〔119〕かで二人の戦闘場面を読み解いたが、その中で登場する「知波夜夫流 宇遲能和多理=流れの早い宇治川の渡場」について再考を試みた。
大山守命が宇遲能和紀郎子の策略にまんまと嵌って敢無く最期を遂げるのであるが、例によって歌など詠われる。その読み下しが、解ったようでどうもしっくり来ない、それも併せて読み解いてみよう。
古事記原文[武田祐吉訳]…、
於是、其兄王、隱伏兵士、衣中服鎧、到於河邊、將乘船時、望其嚴餝之處、以爲弟王坐其吳床、都不知執檝而立船、卽問其執檝者曰「傳聞茲山有忿怒之大猪、吾欲取其猪。若獲其猪乎。」爾執檝者、答曰「不能也。」亦問曰「何由。」答曰「時時也往往也、雖爲取而不得。是以白不能也。」渡到河中之時、令傾其船、墮入水中、爾乃浮出、隨水流下。卽流歌曰、
知波夜夫流 宇遲能和多理邇 佐袁斗理邇 波夜祁牟比登斯 和賀毛古邇許牟
[ここにその兄の王が兵士を隱し、鎧を衣の中に著せて、河のほとりに到つて船にお乘りになろうとする時に、そのいかめしく飾つた處を見遣つて、弟の王がその椅子においでになるとお思いになつて、棹を取つて船に立つておいでになることを知らないで、その棹を取つている者にお尋ねになるには、「この山には怒つた大猪があると傳え聞いている。わしがその猪を取ろうと思うが取れるだろうか」とお尋ねになりましたから、棹を取つた者は「それは取れますまい」と申しました。また「どうしてか」とお尋ねになつたので、「たびたび取ろうとする者があつたが取れませんでした。それだからお取りになれますまいと申すのです」と申しました。さて、渡つて河中に到りました時に、その船を傾けさせて水の中に落し入れました。そこで浮き出て水のまにまに流れ下りました。流れながら歌いました歌は、流れの早い宇治川の渡場に棹を取るに早い人はわたしのなかまに來てくれ]
背景もあるので前記したところと重複するが、併記してみると・・・。
「宇遲能和紀郎子」はなかなかの策略家である。下からよく見える山の上にテントを張り、影武者を居させて、日常の状況を作り出して油断させ、船に細工をした上で河辺に兵士を待機させる。尚且つ「言向け」して、狙われていることを確信し、いよいよ実行である。世が世ならば、仁徳を凌ぐ天皇になったかも。
<訶和羅> |
和紀郎子がテントを張った山は何処であったか?…前記で紐解いた和紀郎子が居た場所であろう。
とすると現在の柿下と迫谷の境に近いところを示しているようである。視界も川を見張るにも、逆に下から眺めた時によく目立つところとなる。
では、渡渉を試みた場所は?…凹凸のある丘陵地帯で凹のところが道になっていて、丘に隠れながら川に近付き兵を隠すだけの空間があるところとなると、限られてくる。
「宇遲能和多理」は現在の柿下温泉口駅の東、県道204号線の橋が架かっている辺りであろう。共に兵を隠して置いたという段取りである。
歌中に記載された文字列「宇遲能和多理」の「和多理」は…、
…「しなやかに曲がる山稜の端の三角州に田が整えられたところ」と読み解ける。
勿論これは「渡」の意味も重ねられている筈である。ほぼ上記の場所に特定できる表記と思われる。
これで最初の両者の接触場所が見えてくる。渡しの船頭に扮した和紀郎子が兄の大山守命の腹を探る場面となる。
しかしながら、歌全体を眺めると、どうやらきめ細かな地形描写のように感じられる。
「和多理」だけではなく、全文を紐解くことにする。
①知波夜夫流
「ちはやふる」は「神」、「宇治」に掛かる枕詞として知られている。武田氏は「流れの早い」とされているが、言い得ているようでもある。この文字列を紐解いてみよう。「知」=「矢+口」=「鏃」、「夜」=「(三角州のある)谷」として…、
…「[鏃]の地形の端にあって谷が[夫]の形に広がっているところ」と読み解ける。「宇遲能(隅)」に延びる山稜の端を「鏃」の形に見做したと思われる。
その傍を流れる御祓川が山稜に挟まれて狭まり、谷が「夫」の形に広がっているところを表しているところ、即ち「宇遲能和多理」の場所を示していると解る。
②佐袁斗理邇
更にそこは「佐袁斗理」に近いところでもあると詠われる。
さて「佐袁」とは?…「棹」ではなく「竿」であろう。「竿」=「竹+干」と分解され「干」の古文字の地形象形と解読される。
実は、「佐袁」の解釈は、後の允恭天皇紀に登場する「木梨之輕太子」が島流しになった「伊余湯」があった場所の山稜を表した意富袁・佐袁袁の表記で紐解けた。
「佐袁」は山稜の端が二俣になった形を示している。
更にその二俣のところが「斗(柄杓)」の地形であることを「佐袁斗」と表記したと読み解ける。
そこに「理(整えられた田)」があり、その近隣の場所を表している。図に示したように「知」と「佐袁斗」が隣り合うところである。
③波夜祁牟比登斯
この文字列は難解…と言うか、一文字一文字では伝わらず意訳されているようである。何とか意味のある読み下しになるようにされてはいるが、何処かスッキリしない訳となってしまう。では上記のように紐解いてみよう。「斯」=「其(箕)+斤(斧)」(切り分ける)として…、
…「谷の端にある高台が[牟]の地形をして並び登りながら切り分けられているところ」と読み解ける。大小二つの[牟]の地形の高台が隣り合っている様を述べていると思われる。大「牟」は、清寧天皇の伊波禮之甕栗宮に含まれる「甕」に該当する。御祓川の上流から下流へと進む、その右岸の地形を述べているのである。
④和賀毛古邇許牟
「毛古(モコ)」=「仲間」、仲間に来てくれと詠う…偽船頭とも知らずに助けを呼ぶ有様、何とも情けない情景を記している…助けを求めるだけではない故に歌にした、のであろう。命が消えかけている御人に川岸の情景を語らせる、非情とも言える古事記編者・・・最後の文節は…、
…「しなやかに曲がるところが鱗状の小高い地に近い下で[牟]の形になるところ」と読み解ける。谷が開けたところを示していると思われる。冒頭の図の「訶和羅」の場所である。現在の「香春」である。
大山守命が助けを求めて詠ったように読ませ、実はそこに彼が流れて行く川岸の様子を忍ばせる。正に万葉の記述である。今回もまた、古事記と万葉集、それは万葉仮名の世界であることに気付かされたようである。
――――✯――――✯――――✯――――
前記したごとく大山守命は「採銅」…おそらくは鉄も…の山の監督者であった。奔流に歯向かうだけの力を有していた、若しくはそんな気持ちを育んでいたのであろう。それだけ銅、鉄は大きな意味を持つモノであったろう。
天皇に山と海を統括しろ、と言われてやはりそれだけでは納得できなかったのかもしれない。これに加えて彼の出自は、「品陀」=「伊奢」の奔流の地に生まれた。長らく天皇家に媚び諂うことのなかった地、その中心である。大雀命は、後の島流しの場所、伊余湯の麓で生まれた。「伊奢」の外れである。
仁徳天皇紀に至る古事記記述の躍動感は見事である。一文字一文字に潜められた意味は、実に豊かな情報を提供してくれる。古事記新釈、道半ば、かもしれない・・・。
では、渡渉を試みた場所は?…凹凸のある丘陵地帯で凹のところが道になっていて、丘に隠れながら川に近付き兵を隠すだけの空間があるところとなると、限られてくる。
「宇遲能和多理」は現在の柿下温泉口駅の東、県道204号線の橋が架かっている辺りであろう。共に兵を隠して置いたという段取りである。
歌中に記載された文字列「宇遲能和多理」の「和多理」は…、
和(しなやかに曲がる)|多(山稜の端の三角州)|理(整えられた田)
<宇遲能和多理> |
勿論これは「渡」の意味も重ねられている筈である。ほぼ上記の場所に特定できる表記と思われる。
これで最初の両者の接触場所が見えてくる。渡しの船頭に扮した和紀郎子が兄の大山守命の腹を探る場面となる。
しかしながら、歌全体を眺めると、どうやらきめ細かな地形描写のように感じられる。
「和多理」だけではなく、全文を紐解くことにする。
①知波夜夫流
「ちはやふる」は「神」、「宇治」に掛かる枕詞として知られている。武田氏は「流れの早い」とされているが、言い得ているようでもある。この文字列を紐解いてみよう。「知」=「矢+口」=「鏃」、「夜」=「(三角州のある)谷」として…、
知([鏃]の形)|波(端)|夜(谷)|夫([夫]の形)|流(広がる)
その傍を流れる御祓川が山稜に挟まれて狭まり、谷が「夫」の形に広がっているところを表しているところ、即ち「宇遲能和多理」の場所を示していると解る。
②佐袁斗理邇
<大山守命:歌> |
さて「佐袁」とは?…「棹」ではなく「竿」であろう。「竿」=「竹+干」と分解され「干」の古文字の地形象形と解読される。
実は、「佐袁」の解釈は、後の允恭天皇紀に登場する「木梨之輕太子」が島流しになった「伊余湯」があった場所の山稜を表した意富袁・佐袁袁の表記で紐解けた。
「佐袁」は山稜の端が二俣になった形を示している。
更にその二俣のところが「斗(柄杓)」の地形であることを「佐袁斗」と表記したと読み解ける。
そこに「理(整えられた田)」があり、その近隣の場所を表している。図に示したように「知」と「佐袁斗」が隣り合うところである。
③波夜祁牟比登斯
この文字列は難解…と言うか、一文字一文字では伝わらず意訳されているようである。何とか意味のある読み下しになるようにされてはいるが、何処かスッキリしない訳となってしまう。では上記のように紐解いてみよう。「斯」=「其(箕)+斤(斧)」(切り分ける)として…、
波(端)|夜(谷)|祁(高台)|牟([牟]の地形)|比(並ぶ)|登(登る)|斯(切り分ける)
④和賀毛古邇許牟
「毛古(モコ)」=「仲間」、仲間に来てくれと詠う…偽船頭とも知らずに助けを呼ぶ有様、何とも情けない情景を記している…助けを求めるだけではない故に歌にした、のであろう。命が消えかけている御人に川岸の情景を語らせる、非情とも言える古事記編者・・・最後の文節は…、
和(しなやかに曲がる)|賀(が)|毛(鱗状の)|古(小高い地)|邇(近い)|許(下)|牟([牟]の地形)
大山守命が助けを求めて詠ったように読ませ、実はそこに彼が流れて行く川岸の様子を忍ばせる。正に万葉の記述である。今回もまた、古事記と万葉集、それは万葉仮名の世界であることに気付かされたようである。
――――✯――――✯――――✯――――
前記したごとく大山守命は「採銅」…おそらくは鉄も…の山の監督者であった。奔流に歯向かうだけの力を有していた、若しくはそんな気持ちを育んでいたのであろう。それだけ銅、鉄は大きな意味を持つモノであったろう。
天皇に山と海を統括しろ、と言われてやはりそれだけでは納得できなかったのかもしれない。これに加えて彼の出自は、「品陀」=「伊奢」の奔流の地に生まれた。長らく天皇家に媚び諂うことのなかった地、その中心である。大雀命は、後の島流しの場所、伊余湯の麓で生まれた。「伊奢」の外れである。
仁徳天皇紀に至る古事記記述の躍動感は見事である。一文字一文字に潜められた意味は、実に豊かな情報を提供してくれる。古事記新釈、道半ば、かもしれない・・・。