2019年6月9日日曜日

古事記の『蠅』 〔353〕

古事記の『蠅』


古事記には怪しげな生き物が登場する。大雀命(仁徳天皇)の御子、蝮之水齒別命に含まれる「蝮」もその中の一つであろう。既に述べたように立派な地形象形であった。正に蝮の歯(牙)のように二つ並んで延びた山稜を示していた。

今回取り上げるのもやはり虫偏が付いた「蠅」である。比賣の名前とするには些か憚れるように思われるのだが、古事記はお構いなしである。勿論、立派な地形象形の表記と思われるが、早速紐解いてみよう。

古事記原文…、

師木津日子玉手見命、坐片鹽浮穴宮、治天下也。此天皇、娶河俣毘賣之兄、縣主波延之女・阿久斗比賣、生御子、常根津日子伊呂泥命、自伊下三字以音、次大倭日子鉏友命、次師木津日子命。此天皇之御子等、幷三柱之中、大倭日子鉏友命者、治天下也。次師木津日子命之子、二王坐、一子孫者伊賀須知之稻置、那婆理之稻置、三野之稻置之祖、一子、和知都美命者、坐淡道之御井宮、故此王有二女、兄名蠅伊呂泥・亦名意富夜麻登久邇阿禮比賣命、弟名蠅伊呂杼也。天皇御年、肆拾玖歲。御陵在畝火山之美富登也。

第三代天皇、師木津日子玉手見命(安寧天皇)紀に、その孫の和知都美命の比賣、即ち曾孫に当たる比賣に「蠅伊呂泥・亦名意富夜麻登久邇阿禮比賣命」と「蠅伊呂杼」が居たと伝えている。そして下記するように、この二人の比賣が第七代天皇、大倭根子日子賦斗邇命(孝霊天皇)に娶られたと記されている。

大倭根子日子賦斗邇命、坐黑田廬戸宮、治天下也。此天皇、娶十市縣主之祖大目之女・名細比賣命、生御子、大倭根子日子國玖琉命。一柱。玖琉二字以音。又娶春日之千千速眞若比賣、生御子、千千速比賣命。一柱又娶意富夜麻登玖邇阿禮比賣命、生御子、夜麻登登母母曾毘賣命、次日子刺肩別命、次比古伊佐勢理毘古命・亦名大吉備津日子命、次倭飛羽矢若屋比賣。四柱。又娶其阿禮比賣命之弟・蠅伊呂杼、生御子、日子寤間命、次若日子建吉備津日子命。二柱。此天皇之御子等、幷八柱。男王五、女王三。

大年神の御子、羽山戸神の子孫が蔓延っていた地へ侵出したのだが、この地は「夜麻登」であり、決して広々とした谷間ではなく、誕生した御子達は各地に散らばることになる。その重要な地が吉備国であったと告げている。

さてそんな御子を産んだ比賣二人「蠅伊呂泥」と「蠅伊呂杼」に含まれる「蠅」は何を意味しているのであろうか?…間違いなく空中を飛び交うハエではなかろう・・・。
 
意富夜麻登玖邇阿禮比賣命

蠅伊呂泥(意富夜麻登玖邇阿禮比賣命)」及び妹の「蠅伊呂杼」は何処に居たのであろうか?…「伊呂泥・伊呂杼」は「同母の泥(兄/姉)・杼(弟/妹)」の表記であろう。これでは居場所は見出せない。だからきちんと別名が記されている、と思われる。

勿論それを伝えようとして別名「意富夜麻登玖邇阿禮比賣命」が記されていると思われる。これを頼りに先ずは「蠅伊呂泥」の居場所を突止めてみよう。既に紐解いたところと併せて述べる。

父親の和知都美命は淡道之御井宮に坐していた。淡海を挟んで淡道嶋の対岸にある「意富(出雲)」、既出の「夜麻登」(狭い谷間を挟む山稜が二つに分かれるところにある高台)、「阿」、「禮」も既に解釈した例に準じるであろう。「玖」を何と紐解くか?…と考えながら山の形状を眺めると…「玖邇阿禮」は…、
 
(三つの頂の山)|邇(近く)|阿(台地)|禮(山裾の高台)

…「風師山に近い山裾の高台がある台地」の比賣と紐解ける。出雲で山を登って辿り着く場所、現在の北九州市門司区にある小森江貯水池・小森江子供のもり公園がある谷間と推定される。

<意富夜麻登玖邇阿禮比賣命>
この地は須佐之男命の御子の大年神、その御子羽山戸神の子孫である夏高津日神、秋毘賣神が住まっていたところである。

対岸の淡道嶋の御井に居た和知都美命がこの地の比賣を娶って誕生したのであろう。

母親の出自は詳らかではないが、それには訳があった。大年神一族が支配する地に侵出したからであろう。

八嶋士奴美神の系列及び舞い戻らされた大国主命の系列も共にこの出雲の国から「天」へと逆流する羽目になった。激しい戦闘が繰り広げられた葦原中国に加え、羽山戸神の地も同様の有様であったと推測される。

大国主命及びその系列は北と南に挟まれた場所しか手にすることはできなかったと思われる。要するに速須佐之男命の系譜は出雲の取り合いで消耗してして行ったのであろう。邇邇芸命の降臨に先んじる速須佐之男命及び邇藝速日命の降臨は、天神達の永住の地を得るには至らなかったことを物語っているのである。

時代が過ぎて、淡道之御井宮に坐したことは天神達の粘り強い目論みを潜めていたのであろうが、結果として実現した。実に貴重な出来事であったと伝えている。更に憶測すれば「夜麻登」を冠するとは、如何にも天皇家にそもそも関わっていたかのような表記を用いている。「言向和」戦略の成功例の一つなのであろう。

裏返せば、「夜麻登(狭い谷間を挟む山稜が二つに分かれるところにある高台)」が汎用の表現であり、決して固有の地名を示すものではないことが判る。図に示したようにこの地も谷川が流れる狭い谷を登ったところを表している。

他国の史書解読にも関連して「ヤマト」は一般的な表現と思う、という説が従来よりあるが、根拠は希薄であろう。古事記がそのものズバリに答えているのである。1,300年間それに振り回された日本の歴史とは一体何なのかと思いたくなる有様である。


蠅伊呂泥・蠅伊呂杼


<蠅伊呂泥・蠅伊呂杼>
それはそれとして、何故「蠅」などという文字を使ったのか?…「伊呂泥・杼」が素直に解釈されることから、何となく見過ごされてしまう表記である。

勿論「蠅」に着目した記述は見当たらないようである。と言う訳で、地形象形的に解釈を試みる。

「蠅」=「虫+黽」と分解される。「黽」=「ハエ、カエルの膨らんだ腹」を象った文字と解説される。地形的には「こんもりと高くなったところ」と読み解ける。

現在の地図では、一見ダムかと見受けられるのだが、実際は小高くなったところで区切られている様子であることが判る。その小高いところを「蠅」と表記したのではなかろうか。


蠅(こんもりと高くなったところ)|伊(小ぶり)
呂(積み重なった台地)|泥(くっ付く)・杼([杼]の形)

…と読み解ける。実に良くできているのは、それを挟んで「呂」=「積重なった台地」が「泥」=「くっ付く、近接する」ところと「杼」=「杼(横糸を通す舟形の道具)」の地形を表している。姉と妹、それぞれが「蠅」を挟んで住まって居たと伝えている。

当時の地形との差異は否めないが、それらしき地形を読取ることができたようである。いずれにしても「意富夜麻登玖邇阿禮比賣命」と言う別名表記がなければ辿り着かない場所であろう。地図が拡大されれば、正に「夜麻登」の地形であることが解る。


比古伊佐勢理毘古命・亦名大吉備津日子命

ついでと言っては何だが、紐解き不十分と思われる、蠅伊呂泥の御子「比古伊佐勢理毘古命・亦名大吉備津日子命」について補足しておく。

<比古伊佐勢理毘古命(大吉備津日子命)>
「亦名大吉備津日子命」からは現在の下関市吉見を流れる西田川沿いの何れかであることは推定できるが、複数の津の存在が特定を困難にしていとも思われる。

この御子は母親の傍ではなく前記に登場した「姪忍鹿比賣命、生御子、大吉備諸進命」に関わるところと読み取れる。

それを背景にして「伊佐勢理」を紐解くと…既に登場した須勢理毘賣の「勢」と同様に解釈して…、
 
伊(僅かに)|佐(支える)|勢(丸く小高いところ)|理(整えられた田)|

…「僅かに丸く小高いところの下(麓)にある整えられた田」と読み解ける。これで図に示した場所に坐していたと導くことができる。比古・毘古が付加されているのは田・畑を作り定めていたのであろうか。


姪忍鹿比賣命」及びその御子「大吉備諸進命」が住まっていた場所の近隣であり、「吉備上」の中心の地であったことを示していると思われる。