2021年7月28日水曜日

日本根子高端淨足姫天皇:元正天皇(15) 〔531〕

日本根子高端淨足姫天皇:元正天皇(15)


養老五年(西暦721年)二月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀1(直木考次郎他著)を参照。

二月甲申。地震。壬辰。大藏省倉自鳴有聲。癸巳。日暈如白虹貫。暈南北有珥。因召見左右大弁及八省卿等於殿前。詔曰。朕徳菲薄。導民不明。夙興以求。夜寐以思。身居紫宮。心在黔首。無委卿等。何化天下。國家之事。有益萬機。必可奏聞。如有不納。重爲極諌。汝無面從退有後言。甲午。詔曰。世諺云。歳在申年。常有事故。此如所言。去庚申年。咎徴屡見。水旱並臻。平民流沒。秋稼不登。國家騒然。萬姓苦勞。遂則朝庭儀表。藤原大臣奄焉薨逝。朕心哀慟。今亦去年災異之餘。延及今歳。亦猶風雲氣色。有違于常。朕心恐懼。日夜不休。然聞之舊典。王者政令不便事。天地譴責以示咎徴。或有不善。則致之異乎。今汝臣等位高任大。豈得不罄忠情乎。故有政令不便事。悉陳无諱。直言盡意。无有所隱。朕將親覽。於是。公卿等奉勅詔退。各仰属司令言意見。

二月七日に地震があったと記している。十五日、大藏省の倉が自然に鳴り響いている。十六日に太陽に暈(カサ)が架かって白い虹が貫通したように見え、その暈の南北の端に耳飾りのような輪があった。よって左右の大弁及び八省の卿等を殿前に集めて以下のように詔されている。概略は、朕には民を導くほどの德が少なく、寝ても醒めてもその方策を思い続けている。身は宮中の奥深くにあるが、心は黔首(庶民)の許にある。汝等に政治を任せて民を導こうとしているが、国家のことについて有益なことがあれば必ず奏上し、朕が聞き入れなければ何度でも厳しく諫めるようにせよ。汝等は面前で服従したふりをして、退出後に蔭口をたたくようなことはするな、と述べられている。

翌十七日に以下のように詔されている。概略は、世の諺に申年には災いがあると言うが、庚申(養老四[720]年)には旱魃と洪水が起こって収穫も不作し人々が苦労をしている。また朝廷の模範であって右大臣の藤原不比等がにわかに逝去している。朕の心は恐懼し、古典を尋ねると、それは王者の政令が天地にそぐわない故に起こるとも記されている。汝等臣下の者は政令に不都合なことがあれば総て上申し、遠慮せずに真っ直ぐに考えていることを隠してはならない、と言われ、公卿等は各所管の官司に意見を言上させている。

三月癸丑。勅日。朕君臨四海。撫育百姓。思欲家家貯積。人人安樂。何期。頃者旱澇不調。農桑有損。遂使衣食乏短。致有飢寒。言念於茲。良増惻隱。今減課役。用助産業。其左右兩京及畿内五國。並免今歳之調。自餘七道諸國亦停當年之役。乙夘。詔曰。制節謹度。禁防奢淫。爲政所先。百王不易之道也。王公卿士及豪富之民。多畜健馬。竸求亡限。非唯損失家財。遂致相爭鬪乱。其爲條例令限禁焉。有司條奏。依官品之次定畜馬之限。親王及大臣不得過廿疋。諸王諸臣三位已上二駟。四位六疋。五位四疋。六位已下至于庶人三疋。一定以後。隨闕充補。若不能騎用者。録状申所司。即校馬帳。然後除補。如有犯者。以違勅論。其過品限。皆沒入官。辛未。以從五位下路眞人麻呂爲散位頭。以從五位下高橋朝臣廣嶋爲刑部少輔。」勅給右大臣從二位長屋王帶刀資人十人。中納言從三位巨勢朝臣邑治。大伴宿祢旅人。藤原朝臣武智麻呂。各四人。其考選一准職分資人。

三月七日に、人々が安楽に暮らせることを願っているが、最近、気候が不順で干害と水害が起こって農耕と養蚕に被害を与え、ついには衣食にも事欠き飢えと寒さに苦しむような事態となっている。よって課役を軽減し、生業を助けるため左右の京及び畿内五ヶ国の各々の調を免じ、他の七道の諸國についても今年の力役を停止する(概略)、と勅されている。

九日に以下のように詔されている。奢侈と淫乱を禁じることは政事の優先すべき事柄であるが、官人や富豪の民が丈夫な馬を競って養っている。これでは際限なく家財を損失するだけではなく、ついには争い乱闘するまでに至るであろう。そこで条例を定め制限するようにせよ、と述べている。条例の概略は、親王及び大臣は二十匹以下、諸王・諸臣のうち三位以上の者は二駟(八匹)、四位は六匹、五位は四匹、六位以下庶民までは三匹とする。死んだり騎乗できなくなった分は補充せよ、また反すれば違勅罪を適用する、としている。

二十五日に路眞人麻呂を散位頭、「高橋朝臣廣嶋」を刑部少輔に任じている。また、勅されて、右大臣の長屋王に帶刀資人十人、中納言の巨勢朝臣邑治大伴宿祢旅人藤原朝臣武智麻呂に各四人を与えている。その選考は職分資人に準じたと記載している。

<高橋朝臣廣嶋・嶋主>
● 高橋朝臣廣嶋

「高橋朝臣」は、元は「膳臣」であって、連綿とその地を出自とする人物が登場している。直近では高橋朝臣安麻呂(若麻呂、父親の笠間に併記)宮内少輔に任じられていた。

この系列はしっかりと記録に残されていたようであるが、これとは異なる系列があって、こちらの系譜は定かでなかったようである。「膳臣」の東西二つの山稜の麓で分れていたのであろう。

その一人に「嶋麻呂」が登場していて、西側の山稜の先にある”中州”が出自と推定した。おそらくその”中州”が広がったいる場所が廣嶋の出自だったと思われる。後に高橋朝臣嶋主が登場する。系譜など不詳のようであるが、「廣嶋」の東隣と推定される。

夏四月丙申。分佐渡國雜太郡。始置賀母羽茂二郡。分備前國邑久赤坂二郡之郷。始置藤原郡。分備後國安那郡。置深津郡。分周防國熊毛郡。置玖珂郡。癸夘。令天下諸國。擧力田之人。乙酉。征夷將軍正四位上多治比眞人縣守。鎭狄將軍從五位上阿倍朝臣駿河等還歸。

四月二十日に佐渡國の「雜太郡」を分けて初めて「賀母・羽茂二郡」を、備前國の「邑久・赤坂二郡」の郷を分けて初めて「藤原郡」を、備後國安那郡を分けて「深津郡」を、周防國の「熊毛郡」を分けて「玖珂郡」を置いている。二十七日に天下の諸國に力田の人(農耕に努めている人)を推挙させている。九日、征夷將軍の多治比眞人縣守、鎭狄將軍の阿倍朝臣駿河等が帰還している。

<佐渡國雜太郡:賀母郡・羽茂郡>
佐渡國雜太郡:賀母郡・羽茂郡

佐渡國は既出であって、佐渡國=渡嶋の傍らにある國と読み解いた。現地名は北九州市門司区丸山と推定した。この國の郡名が記載されるのは、これが初めてであって、雜太郡そのものも含めて場所を特定することになる。

「雜」=「集+衣」と分解される。古事記に幾度か登場する「衣」=「山稜の端の三角(州)の地」と解釈した。纏めると雜太=山稜の端の三角州が集まって平らに広がった様と読み解ける。

図に示したように佐渡國の西南部一帯を表していることが解る。この郡を分けて二つの郡、賀母郡・羽茂郡と名付けたと記載されている。頻出の文字列である賀母=押し広げられた谷間にある両手で抱えるようなところであり、東側の地形を示している。

幾度か登場しているが、あらためて述べると、「茂」=「艸+戊」と分解される。「戊」=「覆い被さる様」を表すと解説されている。すると羽茂=羽のように広がった地に後ろに覆い被さるような形の山稜があるところと読み解ける。雜太郡の西側の地域を示していることが解る。現在の行政区分も同様にその地形に従って分れているようである。

佐渡に雜太郡、賀母郡、羽茂郡と名付けられた郡があったとされる。がしかし、それらは明治十一年に行政区画として名付けられたものであり、幕府統治の時代にはまったく用いられていないようである。幾度か述べたように類似の地名及びその配置があるから邪馬台国東遷なんて呑気なことを公にしている学者(?)もいる。

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全くの余談だが、東京2020オリンピックが開幕した。その開会宣言を天皇陛下が行うことになっているのであるが、五輪憲章で文言(英文)は決まっていて、大概がその開催地の言語に訳されるそうである。原文は…、

I declare open the Games of  (name of the host) celebrating the (number of the Olympiad) Olympiad of the modern era.

”celebrating”は”祝す”の意味であるが、天皇陛下は”記念して”と発声されている。疫病に苦しむ民に寄り添う姿勢を貫かれた発言と拝察される。

それにしても、昨今のドタバタは日本人の負の意識があからさまになったようである。と言うか、旧態然たる呑気な頭の持ち主がのさばっている現状であろう。千年以上も以前に記述された、世界に誇るべき史書の解釈が、不詳満載の本居宣長を越えることができない、呑気な歴史家達が巣食っているのは、無関係ではない。

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<備前國邑久郡・赤坂郡:藤原郡>
備前國邑久郡・赤坂郡:藤原郡

かつて備前國を六つの郡に分割し、別途美作國を設置していた(こちら参照)。そこには更なる郡が存在することはできない様子なのであるが、今回では邑久郡赤坂郡があったと記載している。

現地名では下関市永田郷と推定したのだが、その北側に接する豊浦町との境界は曖昧なままであった。即ちかつての備前國は現在の豊浦町の一部を含んでいたことを示しているのかもしれない。

これを背景に上記の二郡及びそれらを纏めた藤原郡の場所と求めてみよう。「邑」=「囗+巴」と分解され、「邑」=「大地が渦巻く、寄せ集めた様」と解釈される。「久」=「くの字形に曲がる様」であり、邑久=くの字形に曲がっている地を寄せ集めたところと読み解ける。

図に示したように大きな谷間に幾つかの延びた山稜が寄せ集められたような場所を示している。頻出の文字列であるが、「赤」=「大+火」と分解して解釈するが、「火」が示す地形が麓の山稜ではなく、赤坂=平らな頂で火のように突き出た三つの峰の麓で山稜が延びているところと読み解ける。東側に隣接する郡であることが解る。「坂」=「土+厂+又」と分解して解釈することに変わりはない。

二郡の郷を割いて新しく設置した藤原郡藤原=水溜まりが積み上がっている谷間の広がった平らなところと読み解ける。二つの郡の間にある谷間が中心ならば「赤坂郡」からの供出は少なかった?…のかもしれない。いずれにしても備前・備後の発展は目覚ましかったように伺える。尚、数年後に藤野郡(東野郡とも)に名称変更されている。”広がった平らな”地形ばかりではなかったからであろう。

通常、「邑久郡」は岡山市・備前市の一部、瀬戸内市の全域、また「赤坂郡」は岡山市・赤磐市の一部とされている。明治十一年に行政区画として発足させた郡名である。さて、以下の郡は?・・・。

<備後國安那郡:深津郡>
備後國安那郡:深津郡

「備後國安那郡」にあった「茨城」を廃城にしたと記載されていた(こちら参照)。その時には安那郡の谷間奥行が不明であったが、今回の記述で幾らかその詳細が解るようである。

「安那郡」を分割してできた深津郡に含まれる既出の「深」=「氵+穴+又+火」と分解される。全て地形象形する文字要素から成り立っている。深=大きく開いた谷間に山稜が火のように延び出て川が流れている様と解釈される。

その地形が現在の内日ダムの東側に見出せる。当時は二つの谷間から流れ出る川がを形成していたと推測される。要するに「深津郡」は、ダム湖の底に沈んでしまったと言うことになろう。

勿論、上記の備前國各郡と同様に明治十一年に行政区画として名付けられたものである(広島県福山市・岡山県笠岡市辺り)。天皇統治の時代となって、復活させた?…のではなく、全く関係のない地名だったと思われる。

<周防國:熊毛郡・玖珂郡>
周防國:熊毛郡・玖珂郡

直近では周防國が白鹿を献上していた。すると「白鹿」ではない他の場所となろう。一目で熊毛郡の所在が見出せる。熊毛=隅にある鱗のようなところである。

古事記の多紀理毘賣命(奧津嶋比賣命)が坐した島の東側となる。予期せぬ地名の出現に些か戸惑うところではあるが、忠実に地形象形表記に従って辿り着いた結果である。

「玖」=「玉+久」=「玉のような地が[く]の字形に連なっている様」と解釈される。古事記でそれなりに用いられている文字である。既出の「珂」=「玉+可」=「谷間の出口に玉のような地がある様」と解釈される。

纏めると玖珂=[く]の字形に曲がって連なる玉が谷間の出口にあるところと読み解ける。「熊毛郡」の東半分を分けたと述べている。上記の各郡と同様に明治十二年になって行政区画として発足したようである(現在の山口県光市周辺)。幕藩体制下には郡もなければ、類似する名称も存在しない。愕然とする事実ばかりである。

五月己酉。太上天皇不豫。大赦天下。辛亥。令七道按察使及大宰府。巡省諸寺。隨便併合。壬子。詔曰。太上天皇。聖體不豫。寢膳日損。毎至此念。心肝如裂。思歸依三寳。欲令平復。宜簡取淨行男女一百人。入道修道。經年堪爲師者。雖非度色。並聽得度。以絲九千絇。施六郡門徒。勸勵後學。流傳万祀。(六郡=六部?)戊午。右大弁從四位上笠朝臣麻呂。請奉爲太上天皇出家入道。勅許之。乙丑。正三位縣犬養橘宿祢三千代。縁入道辞食封資人。優詔不聽。

五月三日に太上天皇(元明天皇)が病気になり、天下に大赦を行っている。五日、七道の按察使及び大宰府を諸寺を巡察させ、適宜併合している。六日、以下のように詔されている。概略は、太上天皇の容態が不調であり、仏法に帰依しようと思う。そこで行いの清浄が男女百人を選び出家させよ。年長者で出家の条件を備えていない者も得度を許せ。絹糸などを六つの集団の僧徒に与え、後進の学徒を励まして永久に広め伝えよ、と述べている。

十二日に右大弁の笠朝臣麻呂(滿誓)が太上天皇の為に出家入道したいと願い出て、許されている。十九日、縣犬養橘宿祢三千代が入道した故に食封資人を辞退したが、許されなかった、と記載している。


2021年7月24日土曜日

日本根子高端淨足姫天皇:元正天皇(14) 〔530〕

日本根子高端淨足姫天皇:元正天皇(14)


養老五年(西暦721年)正月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀1(直木考次郎他著)を参照。

五年春正月戊申朔。武藏上野二國並獻赤烏。甲斐國獻白狐。尾張國言。小鳥生大鳥。己酉。制。諸司官人。於本司次官以上致敬。常所聽許。自今以後。不得更然。若違此旨。一人到卿門者。到人解官。同僚降考。庚戌。雷。壬子。授正三位長屋王從二位。正四位下巨勢朝臣祖父。大伴宿祢旅人。藤原朝臣武智麻呂。從四位上藤原朝臣房前並從三位。從四位下六人部王從四位上。從五位上高安王。門部王。葛木王並正五位下。從五位下櫻井王。佐爲王並從五位上。正四位下多治比眞人縣守。多治比眞人三宅麻呂。正五位上藤原朝臣馬養並正四位上。從五位下藤原朝臣麻呂從四位上。從五位下下毛野朝臣虫麻呂。呉肅胡明並從五位上。」以大納言從二位長屋王爲右大臣。從三位多治比眞人池守爲大納言。從三位藤原朝臣武智麻呂爲中納言。」又授從三位縣犬養橘宿祢三千代正三位。庚午。詔從五位上佐爲王。從五位下伊部王。正五位上紀朝臣男人。日下部宿祢老。從五位上山田史三方。從五位下山上臣憶良。朝來直賀須夜。紀朝臣清人。正六位上越智直廣江。船連大魚。山口忌寸田主。正六位下樂浪河内。從六位下大宅朝臣兼麻呂。正七位上土師宿祢百村。從七位下塩家連吉麻呂。刀利宣令等。退朝之後。令侍東宮焉。辛未。地震。壬申。亦地震。甲戌。詔曰。至公無私。國士之常風。以忠事君。臣子之恒道焉。當須各勤所職退食自公。康哉之歌不遠。隆平之基斯在。災異消上。休徴叶下。宜文武庶僚。自今以去。若有風雨雷震之異。各存極言忠正之志。」又詔曰。文人武士。國家所重。醫卜方術。古今斯崇。宜擢於百僚之内。優遊學業。堪爲師範者。特加賞賜。勸勵後生。」因賜明經第一博士從五位上鍜治造大隅。正六位上越智直廣江。各絁廿疋。絲廿絢。布卅端。鍬廿口。第二博士正七位上背奈公行文。調忌寸古麻呂。從七位上額田首千足。明法正六位上箭集宿祢虫万呂。從七位下塩屋連吉麻呂。文章從五位上山田史御方。從五位下紀朝臣清人。下毛野朝臣虫麻呂。正六位下樂浪河内各絁十五疋。絲十五絢。布卅端。鍬廿口。算術正六位上山口忌寸田主。正八位上悉斐連三田次。正八位下私部首石村。陰陽從五位上大津連首。從五位下津守連通。王仲文。角兄麻呂。正六位上余秦勝。志我閇連阿弥陀。醫術從五位上吉宜。從五位下呉肅胡明。從六位下秦朝元。太羊甲許母。解工正六位上惠我宿祢國成。河内忌寸人足。堅部使主石前。正六位下賈受君。正七位下胸形朝臣赤麻呂各絁十疋。絲十絢。布廿端。鍬廿口。和琴師正七位下文忌寸廣田。唱歌師正七位下大窪史五百足。正八位下記多眞玉。從六位下螺江臣夜氣女。茨田連刀自女。正七位下置始連志祁志女。各絁六疋。絲六絢。布十端。鍬十口。武藝正七位下佐伯宿祢式麻呂。從七位下凡海連興志。板安忌寸犬養。正八位下置始連首麻呂各絁十疋。絲十絢。布廿端。鍬廿口。丙子。令天下百姓以銀錢一。當銅錢廿五。以銀一兩當一百錢。行用之。

正月一日に武藏・上野の二國が「赤烏」、甲斐國が「白狐」を献上している。また尾張國が「小鳥が大鳥を生んだ」と告げている。二日に、諸司の官人が所属する官司の次官以上にうやうやしく礼をすることは許されている。しかし今後はそのようなことをしてはならない。違反して卿(八省の長官)の門に入ったら、その者は解任し、同僚は考課を減じること、と制定している。三日に雷が鳴った。

五日に長屋王に從二位、巨勢朝臣祖父(邑治)・大伴宿祢旅人藤原朝臣武智麻呂藤原朝臣房前に從三位、六人部王に從四位上、高安王門部王葛木王に正五位下、櫻井王佐爲王(狹井王;葛木王に併記)に從五位上、多治比眞人縣守多治比眞人三宅麻呂藤原朝臣馬養(宇合)に正四位上、藤原朝臣麻呂(萬里)に從四位上、下毛野朝臣虫麻呂(信に併記)・「呉肅胡明」に從五位上を授けている。また、大納言の長屋王を右大臣、多治比眞人池守を大納言、藤原朝臣武智麻呂を中納言に任じている。また、縣犬養橘宿祢三千代に正三位を授けている。

二十三日に佐爲王・伊部王(師木玉垣宮?)・紀朝臣男人日下部宿祢老山田史三方(御方)・山上臣憶良(山於億良)・朝來直賀須夜紀朝臣清人・「越智直廣江」・「船連大魚」・「山口忌寸田主」・樂浪河内大宅朝臣兼麻呂(金弓に併記)・「土師宿祢百村」・「塩家連吉麻呂」・刀利宣令(康嗣に併記)等を退朝の後東宮(皇太子の宮)に伺候させよ、と詔されている。

二十四日に地震あり、翌日にもあったと記している。二十七日に以下のように詔されている。概略は、至って公平で無私であるのは優れた人物の習慣であり、忠をもって君主に仕えるのは臣下の常道である。よって各々が職務に勤め、食を減らして公に従えば自ずと天下は安らかになろう。そして天から災異が降ろされることもなく、吉徴(兆)は地上に現れることになる。よって文武の諸官人は、今後風雨雷震のような災異があれば、政治の不備を諫めるだけの忠義で正しい志を持つように心がけよ、と述べている。

また、文人と武士は国家の重んじるところであり、医術・卜筮及び方術(医術、陰陽、天文など)は昔も今も崇ばれている。そこで全ての官人の中から学業を深く習得して模範とするに足る者に褒賞を与え、後進の励みとしたい。

①明經(儒教の経典)第一博士の鍜治造大隅(鍜造大角)越智直廣江、第二博士の「背奈公行文」・調忌寸古麻呂(老人に併記)・額田首千足(父親の人足に併記)
明法(律令)の「箭集宿祢虫万呂」・塩屋連吉麻呂
③文章(中国の詩文、歴史)の山田史御方紀朝臣清人下毛野朝臣虫麻呂(信に併記)樂浪河内
④算術山口忌寸田主悉斐連三田次(文部此人に併記)・「私部首石村」
⑤陰陽大津連首(意毘登)・津守連通(道)・王仲文(背奈公行文に併記)・角兄麻呂余秦勝(余眞眞人に併記)・志我閇連阿弥陀(箭集宿祢虫万呂に併記)
⑥醫術吉宜呉肅胡明秦朝元(父親の辨正に併記)・「太羊甲許母」
⑦解工(用水工事)の「惠我宿祢國成」・河内忌寸人足(石麻呂に併記)・堅部使主石前・「賈受君」・「胸形朝臣赤麻呂」
⑧和琴師文忌寸廣田(馬養に併記)
⑨唱歌師の「大窪史五百足」・「記多眞玉」・「螺江臣夜氣女」・「茨田連刀自女」・置始連志祁志女(秋山に併記)
⑩武藝佐伯宿祢式麻呂(智連に併記)・凡海連興志(麁鎌に併記)・板安忌寸犬養(板持連內麻呂に併記)・置始連首麻呂(秋山に併記)

に各々絹織物などを与えている。二十九日に銀錢一枚は銅錢廿五枚に、銀一両は百錢に相当すると定めている。

<武藏國・上野國:赤烏>
武藏國・上野國:赤烏

久々に赤烏の登場であるが、勿論山麓の谷間を開拓し、公地として献上した物語であろう。武藏國の「武藏」が示す地形は、山稜が延びた場所であり、赤烏の地形を求めることは叶わない。上野國も同様に野には生息する筈もないのであるが・・・。

武藏國の本来の場所は、古事記で天照大御神と速須佐之男命の宇氣比で誕生した天菩比命の子の建比良鳥命が祖となった地を无邪志國と記載されている。

前記したように武藏(ムサシ)の由来である。即ち山稜が延びた先ではなく、延び出る谷間を示している。頻出の赤=大+火=平らな頂きの麓の山稜が[火]の形をしている様であり、その地形を図に示した場所に見出すことができる。現在麓は高蔵山森林公園となっている。

上野國も同じように谷間を遡ると、赤烏を見つけることができる。その麓はダムになって水没してしまったようであるが、谷合に拓けた地を垣間見ることができる。後に褒賞記述があるのか不明だが、正月早々、その冒頭に記載されているのは、公地開拓と言う重要な出来事であったには違いなかろう。

<甲斐國:白狐>
甲斐國:白狐

献上物語での甲斐國の登場は初めてかもしれない。「白狐」はこれまでに幾度か記載されていた。例えば、斉明天皇紀に登場する石見國の白狐見(石見國の地形の特徴を表す)があった。

狐=犭(犬)+瓜=平らな頂の麓にある瓜のような様と読み解いた。別表記では、これを「果」の表記を当てた場所である。山稜の端が丸く小高くなっている様を表現していると思われる。

甲斐國でそれを求めると図に示した場所に二つ並んでいるところが見出せる。その谷間を開拓したのであろう。池でも造って治水をしたように推測される。古事記の倭建命が滞在した酒折宮があった近辺と思われる。

<尾張國:小鳥生大鳥>
尾張國:小鳥生大鳥

これは續紀編者の戯れ表記であり、小鳥が大鳥を産んだとそのまま読み飛ばしては、真に勿体ない。がしかし場所の特定となると極めて難解な状況でもある。

「鳥」の地形を示す以前の記述を探すと、孝徳天皇紀の蘇我山田大臣事件に連座した者の一人、高田醜醜が登場し、「醜醜」=「之渠雄」と読む、と註されていた。

古事記以来、「訓」は重要な地形象形表記であり、その詳細を補足する役割を果たしていると解釈して来た。その「雄」(雄=厷+隹=羽を広げた鳥の形)に「鳥」が含まれていることが解る。

するとその「鳥」の地から延び出た山稜が平らに(現在は団地開発されているが)広がっているように見られる場所が見出せる。これを大鳥と表記したと思われる。大小の意味も含めながら、小鳥=三角形に尖がった鳥の地形を表しているのであろう。尾張國を出自を持つ人物が多く登場して来ているが、全くの空白の地をこんな表現で登場させている。ともあれ、この地の”地名”は”大鳥”としておこう。

<呉肅胡明(御立連呉明)>
● 呉肅胡明

「従五位上」で登場だから既に高名な人物、直後にその醫術で褒賞された者の一人として挙げられている。百済系渡来氏族と推定されるが、元のままの名前では如何ともし難いが、「御立連呉明」と名乗ったと知られている。

「御立」は、古事記の伊久米伊理毘古伊佐知命(垂仁天皇)の御陵在菅原之御立野中として記載された場所、現地名の田川郡福智町伊方辺りと思われる。

「呉明」は、元の「呉肅胡明」を捩ったように思われるが、きちんと地形象形しているようである。「呉」=「夨+囗」と分解され、「互いに交差する様」を表す文字と知られる。幾度か登場の「明」=「日+月」=「炎の地の傍らに三日月の地がある様」と読み解いた。併せると呉明=炎の地と三日月の地が交差するようなところと読み解ける。

御立連淸道と名乗ったとも言われるが、淸=氵+靑=水辺で四角く窪んだ様道=辶+首=首の付け根のような様から、おそらく別名として良さそうである。漢字を自在に取り扱える人物であったことには違いないであろう。

< 越智直廣江>
● 越智直廣江

「越智直」は、書紀の天武天皇紀に登場し、後岡本天皇陵(元は小市岡上陵、また持統天皇紀では越智山陵、こちら参照)に因む地域に住まう一族かと思われたが、調べると伊豫國が出自であったと分かった。

些か広範囲の伊豫國であるが、越智=山稜の端が鉞のようになった地に[炎]と[鏃]の形があるところの地形を探すと、図に示した場所が見出せる。古事記の大雀命(仁徳天皇)の西側の山稜の形から名付けたと思われる。

名前の廣江から出自の場所は、図に示した場所と推定される。直後に明經第一博士と記されているが、皇太子に進講するに値する人物だったのであろう。父親の武男の居処は、武男=[戈]のような山稜の先が突き出ているところであったことが解る。

在野において儒教の五経に通じる能力を有していたのであろうが、こんな人物を育む環境が整って来ていたことを伺わせる記述である。

<船連大魚・津史主治麻呂>
● 船連大魚

船史(連)一族であり、「船史」の出自の場所と推定した、現地名の京都郡みやこ町勝山大久保の一角を占める人物だったと思われる。この一族には法相宗の道昭がおり、文武天皇紀に長文の逸話が記載されていた(こちら参照)。

「連」姓を賜ってからの登場人物は「船連秦勝」(因幡守など)であり、大魚もその近隣と推定される。「魚」のそれなりに頻度高く用いられる文字である。全て魚の尻尾の形を模した表記と解った。

図に示したようにその前例に外れることなく、立派な魚が横たわっている場所が見出せる。出自の場所は道昭の西隣辺りと推定される。中国から朝鮮半島経由で渡来したのであろうが、既に倭風の「船」の氏名を持っていたのだが、書紀語る”船の司”を由来とするのは極めて怪しい。出自場所を曖昧にする戯言と思われる。

少し後に津史主治麻呂が遣新羅使に任じられたとして登場する。書紀の敏達天皇紀に「船史王辰爾弟牛、賜姓爲津史」と記載されている「津史」の後裔と思われる。津=氵+聿=水辺で山稜が筆のような形をしている様と読み解くと、図に示した場所が見出せる。

「船」と「津」の地形の違いに忠実な表記であることが解る。主治=真っ直ぐに延びた山稜の先に水辺で鋤のような形をしているところと読み解ける。出自は図に示した辺りと推定される。

<山口忌寸田主・佐美麻呂>
● 山口忌寸田主

「山口忌寸」一族も幾人かの登場を見たが、その系列ではない人物のようである。現地名は田川郡赤村赤の畑、戸城山東麓の谷間と推定した(こちら参照)。

主=山稜が真っ直ぐに延びている様と解釈すると図に示した場所が田主の出自の場所と思われる。別系列の「兄人」の西隣となる。

直後に算術が巧であったようで、褒賞を授かっているが、この谷間の人材は有能であったことが伺える。息子に山口忌寸佐美麻呂(別名:沙彌萬呂)が居たと知られている。佐美=左手のように延びた山稜の傍らで谷間が広がっているところあり、父親の北側の地と思われる。

別名の沙彌=水辺で尖った山稜の端が延びている様、また萬呂=蠍のように延びた山稜の傍で積み重なって高くなった様解釈される。詳細な地形を表していることが解る。いずれにしても、地形に忠実な命名である。

<土師宿禰百村・千村・五百村・御目>
● 土師宿祢百村

「土師宿禰」一族であり、彼等の地の中で出自の場所を求めることになる。調べると父親が弟麻呂と知られている。これで目星が付いたようで、弟=ギザギザとした様と解釈して東側の谷間の奥辺りと推定される。

するとその谷間の延長したところに山稜の端が小高くなった地形が見出せる。百村=手を開いたような山稜の端に連なった小高い地があるところと読み解ける。

多くの「土師宿禰」が登場したが、この谷間の奥に出自を持つ人物は見られなかった。更に峠を越えれば、阿倍朝臣一族の領域となる。

後(聖武天皇紀)に百村の子の土師宿祢千村・五百村が外従五位下を授けられて登場する。千村=谷間を束ねる手を開いたような山稜があるところと読み解ける。父親の対面に位置する場所が出自と推定される。五百村=[百村]が交差するところと読むと、父親の南側の谷間を示していると思われる。

その少し後に土師宿祢御目が同様に外従五位下で登場する。父親が「根麻呂」、兄が「甥」であったと伝えられている。御目=谷間を束ねるところと解釈すると、っ図に示した場所と思われる。上記と共に立派な由緒正しい家柄なのだが、聖武天皇の思惑で、先ずは”外”から昇進させることになったようである。叱咤激励の様相である。

<鹽家連吉麻呂>
● 塩家連吉麻呂

「鹽家連」は記紀には登場せず、調べると葛城襲津彦(古事記では葛城長江曾都毘古)の後裔と主張していたようである。但し、古事記で記載された祖は「葛城長江曾都毘古者、玉手臣、的臣、生江臣、阿藝那臣等之祖也」であり、更に分家した後のようである(こちら参照)。

現地名の田川郡福智町上野・弁城辺りで「鹽家」を探索する。以前にも述べたように旧字体での解釈でなければ地形象形表記として読み解くわけには行かず、意味不明となる。

鹽=監+齒=鑑のように平らな地に突き出たところがある様家=宀+豕=谷間で延びる山稜の端が豚口のような様と読み解いた。すると「曾都毘古」の南西側にその地形が見出せる。地表は大きく変っているが、当時を偲ぶことは可能であろう。

吉=蓋+口=口に蓋をするような様であり、福智川対岸の山稜とで大きな谷間にをするような地形となっていることが解る。尚、別名に古麻呂とも記載されたようで、「鹽」のに該当するのであろうが、地表の変化から明確にすることは叶わないようである。

<背奈公行文・王仲文・高金藏・高麥太>
● 背奈公行文・王仲文

明經第二博士として褒賞された人物であるが、出自を調べると高句麗系渡来人を集めて霊龜二年(716年)に新設された武藏國高麗郡に居住していたことが分った。

倭風の名前を用いて倭の地に馴染んでいたのであろう。流石に博士、地形象形表記など容易であった、かもしれない・・・のだが、直截的な表記で分り易い。

背奈=背後に山稜が小高くなっている様であり、図に示した山稜の端の麓を示していると思われる。公=ハ+ム=谷間にある小高く区切られた様であるが、既に用いられなくなった「公」(姓:眞人)として倭風名称らしくしているようでもある。

既出の行=真っ直ぐに連なって筋のようになっている様文=交差する様から段々になった山麓の地形を表していることが解る。父親が福德で、図では省略しているが、「行文」の北西側が居処だったと推定される。もう既に立派な倭風名称である。

また大寶元年(701)八月の記事に「三名の僧、惠耀{觮兄麻呂}・信成{高金藏}・東樓{王中(仲)文}を還俗させた」とあり、その一人である王仲文は、また養老二年(718)正月に従五位下に叙位されていた。渡来系高麗人ぐらいしか情報がなく、不詳としていたが、高麗郡の地形が見えて来ると、仲文が地形象形しているように思われて来た。仲文=谷間で真ん中を突き通す山稜が交差するところであり、図に示した場所の地形を表しているのではなかろうか。

同様に高金藏も高麗郡に住まっていたのであろう。あらためてその名前が示す場所を求めると、図に示した辺りかと思われる。金藏=金の文字形の麓にある長四角の形をしたところと解釈する。後(聖武天皇紀)に高麥太が登場する。麥=來+夂=山稜が岐れて広がり延びている様と解釈すると、図に示した辺りが出自の場所と思われる。

<箭集宿禰蟲萬呂-堅石・志我閇連阿彌陀>
● 箭集宿祢虫万呂・志我閇連阿弥陀

「箭集宿祢」を調べると古事記の伊迦賀色許男命の後裔であることが判った。御眞木入日子印惠命(崇神天皇)紀の”疫病多起”に際して神々を祭祀する役目仰せつかった、と記載されている。

內色許男命の比賣の伊迦賀色許賣命(伊賀迦色許賣命)が妹…後に皇太后…であり、皇統に深く関わる一族であった。その地で「箭集」の地形を求めることにする。

「箭」=「竹+前」と分解される。幾度か用いられている「前」=「揃」として、「箭」=「山稜が揃って並んでいる様」と解釈した。纏めると箭集=山稜が揃って並び集まっているところと読み解ける。

図に示した場所の地形を表していることが解る。頻出の蟲=山稜の端が細かく岐れている様であるが、図の解像度では確認し辛いようである。同様に萬=蠍のような地形であり、「箭」の山稜を示す表記と思われる。「伊迦賀色許」で表現された場所の細部を示している。別名が矢集とのこと、全く問題はないようである。

後(聖武天皇紀)に箭集宿祢堅石が外従五位上を叙爵されて登場する。堅石=谷間に延びた山稜が山麓で小高く区切られたようになっているところと読み解ける。「蟲萬呂」の東側辺りが出自と推定される。

志我閇連阿彌陀は、山田氏同祖(古事記の春日山田郎女、上記の山田史御方)と知られている。ならば春日の地が出自であろう。既出の文字列であり、志我閇=蛇行する川とギザギザとした戈のような地で閉じられたところと読み解ける。「志」は古事記の伊邪河を示している。”阿彌陀”が名前とは、何と不届きな!…ではなく、単なる地形象形表記であろう。阿彌陀=広がった台地の縁が崖のようになっているところと読み解ける。

<私部首石村>
● 私部首石村

文武天皇紀に私小田・私比都自等が登場している。攝津國に属する地、現地名では行橋市矢留に矢留山の北麓辺りを出自とする一族と推定した。

私部=[私]の近辺と解釈される。すると見事な首の地形が容易に見出せる。二つの池に挟まれた、あるいは池に突き出た”半島”のような場所である。

その”半島”の形が村=木+寸(又+一)=山稜が指を拡げて長さを計るような様と見做せることが解る。石=磯として解釈する。水辺にある山稜の端の地形を表していると思われる。

<太羊甲許母:城上連胛巨茂-眞立>
● 太羊甲許母

全くの古事記風地形象形表記であろう。ただ何処の地域なのかが不明であり、調べると後に「城上連」の氏姓を名乗っていたと知られているようである。

「城」が「葛城」を示すとして、この地形象形表記を読み解いてみよう。先ずは文字列をそのまま読み下すと、太羊甲許母=平らな頂の麓の谷間で兜のような山稜の麓にある母が両腕で抱えるようなところとなろう。

見事に当て嵌る場所が現地名の田川郡福智町上弁城に見出せる。”上弁城”は立派な残存地名と思われる。不慣れな地形象形表記を行ったのであろうが、以前にも述べたように、実に分り易くなっている。

後に「城上連」姓を賜った時に胛巨茂と記載されている。胛=月+甲=兜のような山稜の端に三角州がある様巨=谷間に山稜が延びている様茂=艸+戊=二つの山稜が並んで鉞のような形をしている様と読み解ける。「音」は同じくして、より詳細に地形を表した表記となっていることが解る。

後(聖武天皇紀)に城上連眞立が外従五位下に叙爵されて登場する。眞=鼎+匕=山稜に囲まれた窪んだ様立=竝=二つ並んでいる様と解釈して来たが、その地形が谷間の奥に見出せる。併せて図に記載した。

<惠我宿禰國成>
● 惠我宿祢國成

流石に解工(農業土木、用水工事)関連ともなると関連情報は皆無の有様のようである。解工使についてはこちらを参照。

と言うことで、何とかこの人物の出自の場所を求め、その地形をあからさまにすることを試みた。

「惠」は古事記の「惠賀」で用いられた文字で、「惠」=「叀+心」=「山稜に取り囲まれた地に小高いところがある様」と解釈した。例えば品陀和氣命(応神天皇)の川內惠賀之裳伏岡陵などに用いられている。

「我」=「ギザギザとした戈のような様」であり、纏めると惠我=山稜に取り囲まれた地にあるギザギザとした戈のような小高いところと読み解ける。國成=大地が平らに盛り上げられたところと解釈される。おそらく、「我」の中央付近の図に示した場所辺りが出自と推定される。下流域において無数に分岐した川の治水に長じていたのではなかろうか。

● 賈受君(神前連)

渡来系の人物名であろう。後に「神前連」姓を賜っていることが唯一の情報であって、ならば天智天皇即位四年(665年)二月の記事に百濟からの亡命者を近江國神前郡に入植させた、と記載されている。その後同國蒲生郡に移住するのであるが、残留の子孫だったと推測される。詳細な出自の場所を求めることは叶わず、現在の京都郡苅田町にある旭ヶ丘ニュータウンとしておこう。

<胸形朝臣赤麻呂>
● 胸形朝臣赤麻呂

「胸形」は天武天皇が娶った胸形君德善女尼子娘に登場していた。高市皇子の母親である。勿論古事記の「胸形」に該当するが、既に明らかにしたように現在の宗像市を表すのでではなく、その東南部の山稜に囲まれた地域(赤間・富地原・吉留など)を示していると思われる。

頻出の赤=大+火=平らな頂の麓に火のような山稜がある様であり、その地形を求めると図に示した場所に見出せる。城山(赤馬山とも呼ばれる)の麓にある蘿神社辺りが出自の場所と推定される。現地名の宗像市赤間の「赤」の由来は、城山(赤馬山)の南麓の地形であることが解る。

「解工」の五名の匠は、それぞれ特徴ある、言わば高難度開拓地を出自として、それを切り開いた人々であったように思われる。通常の登場人物とは大きく異なる出自を求める羽目になったが、極めて興味深い結果となったように思われる。

<大窪史五百足>
● 大窪史五百足

「大窪」は天武天皇紀に大窪寺で登場していた…大窪寺はついては情報少なく、調べると神武天皇陵に関係する場所と言われているようである。畝火山北方白檮の場所の窪んだところにあったのかもしれない…と述べて特定には至っていなかった。

と言うことで「五百足」の地形が見出せるかどうかを確認してみると、何とかそれらしき場所に辿り着けるようである。「唱歌師」とは、何となく分るようだが、詳しくは情報が見当たらず、これ以上の探索は難しいようである。

尚、「大窪寺」は現在の清祀殿辺りにあったのかもしれないが、これも殆ど他の情報がなく、概略の場所を示すに止めることにする。

<記多眞玉>
● 記多眞玉

全くの関連情報がなく、この四文字から出自の場所を求めてみよう。すると意外なところからヒントが得られることになった。それは・・・。

記=言+己=耕地が曲がりくねって連なっている様であり、これは蛇行する川が流れる深く長い谷間を示している。

幾つかの候補が挙げられるが、眞玉=玉のような地が寄り集まった様が重要な情報をもたらしてくれるようである。長く深い谷間に幾つもの玉のような小高いところがある地は、譯語田宮御宇天皇(敏達天皇)の居所、幸玉宮があった谷間と気付かされた。

多=山稜の端の三角州であり、図に示した場所が必要な地形要件を満足していることが解る。どうやら遷宮すると、その周辺に雅らかな振る舞いが伝播して行ったのではなかろうか。

<茨田連刀自女>
● 茨田連刀自女

「茨田連」は、古事記の神倭伊波禮毘古命(神武天皇)の御子、日子八井命が祖となった由緒ある「連」である。書紀は、この「茨田」が示す場所を曖昧にし、挙句に大雀命(仁徳天皇)の茨田堤と混同させる記述を行い、それにまんまと引っ掛ったままの有様である。

「茨田」は決して固有の地名ではない。「茨田連」の現地名は、京都郡みやこ町勝山松田であり、茨田(マツタ)は松田、即ち松葉の形を示すのである。その谷間の脇の山稜が、刀の形をしていると見做し、自=鼻=端が出自の人物と読み解ける。

何度も述べるように續紀の記述は、古事記に倣い、それを引き継ぐ表現を行っている。續紀が記載した『日本紀』は、日本書紀ではないと、ほぼほぼ確信できそうな雰囲気である。

<螺江臣夜氣女>
● 螺江臣夜氣女

「螺江臣」を調べると丸邇(和珥)一族であったと判った。現地名の香春町柿下辺りで「螺江」の地形を探してみよう。

「螺」=「虫+累」と分解される。「虫」=「蟲」=「山稜の端が細かく岐れている様」、また「累」=「畾+糸」=「山稜が積み重なるように集まっている様」と解釈される。

纏めると、螺江=山稜の端が細かく岐れて窪んだ水辺に積み重なるように集まっているところと読み解ける。図に示したように前記した柿本人麻呂の東側に当たる場所と推定される。

夜氣=谷間がゆらゆらと延びている様であり、この人物の出自の場所を求めることができたようである。古事記も含めて丸邇一族からは多くの登場があったが、この地が出自となった例がなかった。邇藝速日命の末裔、健在というところであろうか。





2021年7月20日火曜日

日本根子高端淨足姫天皇:元正天皇(13) 〔529〕

日本根子高端淨足姫天皇:元正天皇(13)


養老四年(西暦720年)十月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀1(直木考次郎他著)を参照。

冬十月戊子。以從四位上石川朝臣石足。爲左大弁。從四位上笠朝臣麻呂爲右大弁。從五位上中臣朝臣東人爲右中弁。從五位下小野朝臣老爲右少弁。從五位下大伴宿祢祖父麻呂爲式部少輔。從五位下巨勢朝臣足人爲員外少輔。從五位上石川朝臣若子爲兵部大輔。正五位上大伴宿祢道足爲民部大輔。從五位下高向朝臣大足爲少輔。從五位上車持朝臣益爲主税頭。從五位上鍜治造大隅爲刑部少輔。從五位下阿倍朝臣若足爲大藏少輔。從五位下高橋朝臣安麻呂爲宮内少輔。從五位下當麻眞人老爲造宮少輔。從五位下縣犬養宿祢石次爲彈正弼。從五位下大宅朝臣大國爲攝津守。從五位下高向朝臣人足爲尾張守。從五位上忍海連人成爲安木守。丙申。始置養民。造器及造興福寺佛殿三司。壬寅。詔遣大納言正三位長屋王。中納言正四位下大伴宿祢旅人。就右大臣第宣詔。贈太政大臣正一位。

十月九日に以下の人事を行っている。石川朝臣石足を左大弁、笠朝臣麻呂を右大弁、中臣朝臣東人を右中弁、小野朝臣老(馬養に併記)を右少弁、大伴宿祢祖父麻呂(牛養に併記)を式部少輔、巨勢朝臣足人を員外少輔、石川朝臣若子(君子)を兵部大輔、大伴宿祢道足を民部大輔、高向朝臣大足を少輔、車持朝臣益を主税頭、鍜治造大隅(鍜造大角)を刑部少輔、阿倍朝臣若足を大藏少輔、高橋朝臣安麻呂(若麻呂、笠間に併記)を宮内少輔、當麻眞人老(東人に併記)を造宮少輔、縣犬養宿祢石次(橘三千代に併記)を彈正弼、大宅朝臣大國(金弓に併記)を攝津守、高向朝臣人足(色夫智に併記)を尾張守、忍海連人成(押海連)を「安木守」に任じている。

十七日に初めて養民・造器の司、及び興福寺(藤原氏の氏寺、元興寺に併記)の仏殿を造る司を設置している。二十三日、大納言の長屋王、中納言の大伴宿祢旅人、右大臣邸に遣わして、詔を伝えさせ、太政大臣正一位を贈っている。

<安木國・安木守>
安木國:安木守

羅列人事の最後に何の前触れもなく「安木國」の登場させている。しかも續紀中これが最初で最後である。調べても混迷の有様が伝わって来るだけで、全くの不詳であろう。

どうやら「安藝」と「安来(現地名島根県安来市)」と関連付けられているようである。「藝」を省略して伝写したとの解説もあるが、頻出の「安藝」を、たった一度だけ省略して書き写したとは到底思えない。

と言うことで、「安藝國」、「伯耆國」があったと推定した現在の宗像市東部の地を探索することにする。ところで「安」=「山稜に挟まれた嫋やかに曲がる谷間」と解釈したが、「木」は山稜?・・・。

古事記の木臣(國)の表記に類似すると気付かされた(こちらこちら参照)。「木」=「枝を延ばした木のような形をした山稜が延び出ている様」である。纏めると安木=山稜に挟まれた嫋やかに曲がる谷間に木のような山稜が延び出ているところと読み解ける。伯耆國の南側、現地名は宗像市池田である。安木守は、多分、図に示した場所辺りを示していると思われる。

十一月丙辰。南嶋人二百卅二人。授位各有差。懷遠人也。乙亥。河内國堅下堅上二郡。更号大縣郡。

十一月八日に南嶋(多褹・夜久・菴美・度感等)の人、二百三十二人にそれぞれ位を授けている。遠方の人を懐柔するためである。二十七日、河内國の「堅下・堅上」の二郡を改めて「大縣郡」としている。

<河内國堅下郡・堅上郡:大縣郡>
河内國堅下郡・堅上郡:大縣郡

またまた河内國の郡名が記載されている。旧名に含まれる堅=臣+又+土=谷間に手のような山稜が延びている様と解釈され、山稜の端が幾つかに枝分れした地形を表している。

前記の若江郡の南隣にある「堅」の上下の地に名付けられていたと思われる。確かに「堅」が示す地形は、もう少し小ぶりな意味合いが込められて来たようであり、些か違和感がある感じでもある。

そんな背景(?)から、一気に趣を変えた表記に改めたようである。手を広げたと見做すのではなく、”拳”として縣=首+系=首をぶら下げたような様に置き換えたと述べている。勿論、大=平らな頂の山稜である。

天武天皇紀の「八色之姓」の記述の中に「庚戌、錦織造小分田井直吉摩呂・次田倉人椹足(椹此云武規)石勝・川內直縣・忍海造鏡・荒田・能麻呂・大狛造百枝足坏・倭直龍麻呂・門部直大嶋・宍人造老・山背狛烏賊麻呂、幷十四人賜姓曰連」があった(こちら参照)。この中の幾人かが若江郡・大縣郡に出自を持つ人物と読み解いたが、古事記の近淡海國の時代から大きく発展した場所だったのであろう。

十二月己亥。詔除春宮坊少属少初位上朝妻金作大歳。同族河麻呂二人。并男女雜戸籍。賜大歳池上君姓。河麻呂河合君姓。癸夘。詔曰。釋典之道。教在甚深。轉經唱礼。先傳恒規。理合遵承。不須輙改。比者。或僧尼自出方法。妄作別音。遂使後生之輩積習成俗。不肯變正。恐汚法門。從是始乎。宜依漢沙門道榮。學問僧勝曉等轉經唱礼。餘音並停之。

十二月二十一日に以下のように詔されている。春宮坊少属の「朝妻金作大歳」、同族の「河麻呂」の二人、併せて息子・娘の雜戸籍を除き、大歳には「池上君」姓、河麻呂には「河合君」姓を授けている。

二十五日に以下のように詔されている。概略は、仏教の教義は極めて深淵であり、経典を転読したり、唱礼(願文などを唱えること)を行うには規則がある。それらは道理として容易く改めるべきではない。昨今僧尼が勝手に別の方法を考え出し、ついには後進の者がそれを慣習としてしまうことになろう。よって唐僧道栄や学問僧の勝曉の方法に従い、その他の方法を禁止する、としている。

<朝妻金作大歳・河麻呂>
● 朝妻金作大歳・河麻呂

直近で朝妻手人龍麻呂が登場していた。この匠に「海語連」姓を授けたと記載されていた。現地名は行橋市前田辺りと推定した。広大な団地になっており、最早地形探索は不可能か?…と諦めかけていたが、そうではないようである。

”好字二字”に拘ることのない金作大歳の名前は、おそらくありったけの地形を表しているのであろう。一文字一文字を読み解いてみよう。

金=[金]の文字形の様作=人+乍=谷間にギザギザと山稜が突き出ている様大=山稜が平たくなっている様歳=戌+歩=鎌のような山稜が延びている様と解釈される。四つの地形が寄り詰まった場所、図に示した「朝妻」に含まれる屮(簪)の北側に当たる。

池上君の姓を貰ったと記されている。池=氵+也=川が曲がり畝って流れる様と解釈したが、地図に記載されているような”池”ではなく、当時は線状の川であったのではなかろうか。そのが君の居処と推定される。

河麻呂の河=氵+可=谷間の出口の水辺と読み解いた。すると図に示した場所と推定される。現在の標高10mで区切って推定した海岸線が一層明確に当時地形を表していると思われる。賜った河合君の姓の「合」=「亼+口」と分解される。開いた口に蓋を被せた様を象形した文字であり、これで通常の意味を表していると解説されている。

現在の姓としても多く見られる河合=谷間の出口の水辺に蓋をしたようなところと読み解ける。「川合」=「二つの川が寄り合わさったところ」とは異なる地形であることが解る。彼らの出自場所の現地名は、行橋市長木である。