日本根子高端淨足姫天皇:元正天皇(13)
養老四年(西暦720年)十月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀1(直木考次郎他著)を参照。
冬十月戊子。以從四位上石川朝臣石足。爲左大弁。從四位上笠朝臣麻呂爲右大弁。從五位上中臣朝臣東人爲右中弁。從五位下小野朝臣老爲右少弁。從五位下大伴宿祢祖父麻呂爲式部少輔。從五位下巨勢朝臣足人爲員外少輔。從五位上石川朝臣若子爲兵部大輔。正五位上大伴宿祢道足爲民部大輔。從五位下高向朝臣大足爲少輔。從五位上車持朝臣益爲主税頭。從五位上鍜治造大隅爲刑部少輔。從五位下阿倍朝臣若足爲大藏少輔。從五位下高橋朝臣安麻呂爲宮内少輔。從五位下當麻眞人老爲造宮少輔。從五位下縣犬養宿祢石次爲彈正弼。從五位下大宅朝臣大國爲攝津守。從五位下高向朝臣人足爲尾張守。從五位上忍海連人成爲安木守。丙申。始置養民。造器及造興福寺佛殿三司。壬寅。詔遣大納言正三位長屋王。中納言正四位下大伴宿祢旅人。就右大臣第宣詔。贈太政大臣正一位。
十月九日に以下の人事を行っている。石川朝臣石足を左大弁、笠朝臣麻呂を右大弁、中臣朝臣東人を右中弁、小野朝臣老(馬養に併記)を右少弁、大伴宿祢祖父麻呂(牛養に併記)を式部少輔、巨勢朝臣足人を員外少輔、石川朝臣若子(君子)を兵部大輔、大伴宿祢道足を民部大輔、高向朝臣大足を少輔、車持朝臣益を主税頭、鍜治造大隅(鍜造大角)を刑部少輔、阿倍朝臣若足を大藏少輔、高橋朝臣安麻呂(若麻呂、笠間に併記)を宮内少輔、當麻眞人老(東人に併記)を造宮少輔、縣犬養宿祢石次(橘三千代に併記)を彈正弼、大宅朝臣大國(金弓に併記)を攝津守、高向朝臣人足(色夫智に併記)を尾張守、忍海連人成(押海連)を「安木守」に任じている。
十七日に初めて養民・造器の司、及び興福寺(藤原氏の氏寺、元興寺に併記)の仏殿を造る司を設置している。二十三日、大納言の長屋王、中納言の大伴宿祢旅人、右大臣邸に遣わして、詔を伝えさせ、太政大臣正一位を贈っている。
羅列人事の最後に何の前触れもなく「安木國」の登場させている。しかも續紀中これが最初で最後である。調べても混迷の有様が伝わって来るだけで、全くの不詳であろう。
どうやら「安藝」と「安来(現地名島根県安来市)」と関連付けられているようである。「藝」を省略して伝写したとの解説もあるが、頻出の「安藝」を、たった一度だけ省略して書き写したとは到底思えない。
と言うことで、「安藝國」、「伯耆國」があったと推定した現在の宗像市東部の地を探索することにする。ところで「安」=「山稜に挟まれた嫋やかに曲がる谷間」と解釈したが、「木」は山稜?・・・。
古事記の木臣(國)の表記に類似すると気付かされた(こちら、こちら参照)。「木」=「枝を延ばした木のような形をした山稜が延び出ている様」である。纏めると安木=山稜に挟まれた嫋やかに曲がる谷間に木のような山稜が延び出ているところと読み解ける。伯耆國の南側、現地名は宗像市池田である。安木守は、多分、図に示した場所辺りを示していると思われる。
十一月丙辰。南嶋人二百卅二人。授位各有差。懷遠人也。乙亥。河内國堅下堅上二郡。更号大縣郡。
十一月八日に南嶋(多褹・夜久・菴美・度感等)の人、二百三十二人にそれぞれ位を授けている。遠方の人を懐柔するためである。二十七日、河内國の「堅下・堅上」の二郡を改めて「大縣郡」としている。
河内國堅下郡・堅上郡:大縣郡
またまた河内國の郡名が記載されている。旧名に含まれる堅=臣+又+土=谷間に手のような山稜が延びている様と解釈され、山稜の端が幾つかに枝分れした地形を表している。
前記の若江郡の南隣にある「堅」の上下の地に名付けられていたと思われる。確かに「堅」が示す地形は、もう少し小ぶりな意味合いが込められて来たようであり、些か違和感がある感じでもある。
そんな背景(?)から、一気に趣を変えた表記に改めたようである。手を広げたと見做すのではなく、”拳”として縣=首+系=首をぶら下げたような様に置き換えたと述べている。勿論、大=平らな頂の山稜である。
天武天皇紀の「八色之姓」の記述の中に「庚戌、錦織造小分・田井直吉摩呂・次田倉人椹足(椹此云武規)石勝・川內直縣・忍海造鏡・荒田・能麻呂・大狛造百枝・足坏・倭直龍麻呂・門部直大嶋・宍人造老・山背狛烏賊麻呂、幷十四人賜姓曰連」があった(こちら参照)。この中の幾人かが若江郡・大縣郡に出自を持つ人物と読み解いたが、古事記の近淡海國の時代から大きく発展した場所だったのであろう。
十二月己亥。詔除春宮坊少属少初位上朝妻金作大歳。同族河麻呂二人。并男女雜戸籍。賜大歳池上君姓。河麻呂河合君姓。癸夘。詔曰。釋典之道。教在甚深。轉經唱礼。先傳恒規。理合遵承。不須輙改。比者。或僧尼自出方法。妄作別音。遂使後生之輩積習成俗。不肯變正。恐汚法門。從是始乎。宜依漢沙門道榮。學問僧勝曉等轉經唱礼。餘音並停之。
十二月二十一日に以下のように詔されている。春宮坊少属の「朝妻金作大歳」、同族の「河麻呂」の二人、併せて息子・娘の雜戸籍を除き、大歳には「池上君」姓、河麻呂には「河合君」姓を授けている。
二十五日に以下のように詔されている。概略は、仏教の教義は極めて深淵であり、経典を転読したり、唱礼(願文などを唱えること)を行うには規則がある。それらは道理として容易く改めるべきではない。昨今僧尼が勝手に別の方法を考え出し、ついには後進の者がそれを慣習としてしまうことになろう。よって唐僧道栄や学問僧の勝曉の方法に従い、その他の方法を禁止する、としている。
● 朝妻金作大歳・河麻呂
直近で朝妻手人龍麻呂が登場していた。この匠に「海語連」姓を授けたと記載されていた。現地名は行橋市前田辺りと推定した。広大な団地になっており、最早地形探索は不可能か?…と諦めかけていたが、そうではないようである。
”好字二字”に拘ることのない金作大歳の名前は、おそらくありったけの地形を表しているのであろう。一文字一文字を読み解いてみよう。
金=[金]の文字形の様、作=人+乍=谷間にギザギザと山稜が突き出ている様、大=山稜が平たくなっている様、歳=戌+歩=鎌のような山稜が延びている様と解釈される。四つの地形が寄り詰まった場所、図に示した「朝妻」に含まれる屮(簪)の北側に当たる。
池上君の姓を貰ったと記されている。池=氵+也=川が曲がり畝って流れる様と解釈したが、地図に記載されているような”池”ではなく、当時は線状の川であったのではなかろうか。その上が君の居処と推定される。
河麻呂の河=氵+可=谷間の出口の水辺と読み解いた。すると図に示した場所と推定される。現在の標高10mで区切って推定した海岸線が一層明確に当時地形を表していると思われる。賜った河合君の姓の「合」=「亼+口」と分解される。開いた口に蓋を被せた様を象形した文字であり、これで通常の意味を表していると解説されている。
現在の姓としても多く見られる河合=谷間の出口の水辺に蓋をしたようなところと読み解ける。「川合」=「二つの川が寄り合わさったところ」とは異なる地形であることが解る。彼らの出自場所の現地名は、行橋市長木である。