2021年7月24日土曜日

日本根子高端淨足姫天皇:元正天皇(14) 〔530〕

日本根子高端淨足姫天皇:元正天皇(14)


養老五年(西暦721年)正月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀1(直木考次郎他著)を参照。

五年春正月戊申朔。武藏上野二國並獻赤烏。甲斐國獻白狐。尾張國言。小鳥生大鳥。己酉。制。諸司官人。於本司次官以上致敬。常所聽許。自今以後。不得更然。若違此旨。一人到卿門者。到人解官。同僚降考。庚戌。雷。壬子。授正三位長屋王從二位。正四位下巨勢朝臣祖父。大伴宿祢旅人。藤原朝臣武智麻呂。從四位上藤原朝臣房前並從三位。從四位下六人部王從四位上。從五位上高安王。門部王。葛木王並正五位下。從五位下櫻井王。佐爲王並從五位上。正四位下多治比眞人縣守。多治比眞人三宅麻呂。正五位上藤原朝臣馬養並正四位上。從五位下藤原朝臣麻呂從四位上。從五位下下毛野朝臣虫麻呂。呉肅胡明並從五位上。」以大納言從二位長屋王爲右大臣。從三位多治比眞人池守爲大納言。從三位藤原朝臣武智麻呂爲中納言。」又授從三位縣犬養橘宿祢三千代正三位。庚午。詔從五位上佐爲王。從五位下伊部王。正五位上紀朝臣男人。日下部宿祢老。從五位上山田史三方。從五位下山上臣憶良。朝來直賀須夜。紀朝臣清人。正六位上越智直廣江。船連大魚。山口忌寸田主。正六位下樂浪河内。從六位下大宅朝臣兼麻呂。正七位上土師宿祢百村。從七位下塩家連吉麻呂。刀利宣令等。退朝之後。令侍東宮焉。辛未。地震。壬申。亦地震。甲戌。詔曰。至公無私。國士之常風。以忠事君。臣子之恒道焉。當須各勤所職退食自公。康哉之歌不遠。隆平之基斯在。災異消上。休徴叶下。宜文武庶僚。自今以去。若有風雨雷震之異。各存極言忠正之志。」又詔曰。文人武士。國家所重。醫卜方術。古今斯崇。宜擢於百僚之内。優遊學業。堪爲師範者。特加賞賜。勸勵後生。」因賜明經第一博士從五位上鍜治造大隅。正六位上越智直廣江。各絁廿疋。絲廿絢。布卅端。鍬廿口。第二博士正七位上背奈公行文。調忌寸古麻呂。從七位上額田首千足。明法正六位上箭集宿祢虫万呂。從七位下塩屋連吉麻呂。文章從五位上山田史御方。從五位下紀朝臣清人。下毛野朝臣虫麻呂。正六位下樂浪河内各絁十五疋。絲十五絢。布卅端。鍬廿口。算術正六位上山口忌寸田主。正八位上悉斐連三田次。正八位下私部首石村。陰陽從五位上大津連首。從五位下津守連通。王仲文。角兄麻呂。正六位上余秦勝。志我閇連阿弥陀。醫術從五位上吉宜。從五位下呉肅胡明。從六位下秦朝元。太羊甲許母。解工正六位上惠我宿祢國成。河内忌寸人足。堅部使主石前。正六位下賈受君。正七位下胸形朝臣赤麻呂各絁十疋。絲十絢。布廿端。鍬廿口。和琴師正七位下文忌寸廣田。唱歌師正七位下大窪史五百足。正八位下記多眞玉。從六位下螺江臣夜氣女。茨田連刀自女。正七位下置始連志祁志女。各絁六疋。絲六絢。布十端。鍬十口。武藝正七位下佐伯宿祢式麻呂。從七位下凡海連興志。板安忌寸犬養。正八位下置始連首麻呂各絁十疋。絲十絢。布廿端。鍬廿口。丙子。令天下百姓以銀錢一。當銅錢廿五。以銀一兩當一百錢。行用之。

正月一日に武藏・上野の二國が「赤烏」、甲斐國が「白狐」を献上している。また尾張國が「小鳥が大鳥を生んだ」と告げている。二日に、諸司の官人が所属する官司の次官以上にうやうやしく礼をすることは許されている。しかし今後はそのようなことをしてはならない。違反して卿(八省の長官)の門に入ったら、その者は解任し、同僚は考課を減じること、と制定している。三日に雷が鳴った。

五日に長屋王に從二位、巨勢朝臣祖父(邑治)・大伴宿祢旅人藤原朝臣武智麻呂藤原朝臣房前に從三位、六人部王に從四位上、高安王門部王葛木王に正五位下、櫻井王佐爲王(狹井王;葛木王に併記)に從五位上、多治比眞人縣守多治比眞人三宅麻呂藤原朝臣馬養(宇合)に正四位上、藤原朝臣麻呂(萬里)に從四位上、下毛野朝臣虫麻呂(信に併記)・「呉肅胡明」に從五位上を授けている。また、大納言の長屋王を右大臣、多治比眞人池守を大納言、藤原朝臣武智麻呂を中納言に任じている。また、縣犬養橘宿祢三千代に正三位を授けている。

二十三日に佐爲王・伊部王(師木玉垣宮?)・紀朝臣男人日下部宿祢老山田史三方(御方)・山上臣憶良(山於億良)・朝來直賀須夜紀朝臣清人・「越智直廣江」・「船連大魚」・「山口忌寸田主」・樂浪河内大宅朝臣兼麻呂(金弓に併記)・「土師宿祢百村」・「塩家連吉麻呂」・刀利宣令(康嗣に併記)等を退朝の後東宮(皇太子の宮)に伺候させよ、と詔されている。

二十四日に地震あり、翌日にもあったと記している。二十七日に以下のように詔されている。概略は、至って公平で無私であるのは優れた人物の習慣であり、忠をもって君主に仕えるのは臣下の常道である。よって各々が職務に勤め、食を減らして公に従えば自ずと天下は安らかになろう。そして天から災異が降ろされることもなく、吉徴(兆)は地上に現れることになる。よって文武の諸官人は、今後風雨雷震のような災異があれば、政治の不備を諫めるだけの忠義で正しい志を持つように心がけよ、と述べている。

また、文人と武士は国家の重んじるところであり、医術・卜筮及び方術(医術、陰陽、天文など)は昔も今も崇ばれている。そこで全ての官人の中から学業を深く習得して模範とするに足る者に褒賞を与え、後進の励みとしたい。

①明經(儒教の経典)第一博士の鍜治造大隅(鍜造大角)越智直廣江、第二博士の「背奈公行文」・調忌寸古麻呂(老人に併記)・額田首千足(父親の人足に併記)
明法(律令)の「箭集宿祢虫万呂」・塩屋連吉麻呂
③文章(中国の詩文、歴史)の山田史御方紀朝臣清人下毛野朝臣虫麻呂(信に併記)樂浪河内
④算術山口忌寸田主悉斐連三田次(文部此人に併記)・「私部首石村」
⑤陰陽大津連首(意毘登)・津守連通(道)・王仲文(背奈公行文に併記)・角兄麻呂余秦勝(余眞眞人に併記)・志我閇連阿弥陀(箭集宿祢虫万呂に併記)
⑥醫術吉宜呉肅胡明秦朝元(父親の辨正に併記)・「太羊甲許母」
⑦解工(用水工事)の「惠我宿祢國成」・河内忌寸人足(石麻呂に併記)・堅部使主石前・「賈受君」・「胸形朝臣赤麻呂」
⑧和琴師文忌寸廣田(馬養に併記)
⑨唱歌師の「大窪史五百足」・「記多眞玉」・「螺江臣夜氣女」・「茨田連刀自女」・置始連志祁志女(秋山に併記)
⑩武藝佐伯宿祢式麻呂(智連に併記)・凡海連興志(麁鎌に併記)・板安忌寸犬養(板持連內麻呂に併記)・置始連首麻呂(秋山に併記)

に各々絹織物などを与えている。二十九日に銀錢一枚は銅錢廿五枚に、銀一両は百錢に相当すると定めている。

<武藏國・上野國:赤烏>
武藏國・上野國:赤烏

久々に赤烏の登場であるが、勿論山麓の谷間を開拓し、公地として献上した物語であろう。武藏國の「武藏」が示す地形は、山稜が延びた場所であり、赤烏の地形を求めることは叶わない。上野國も同様に野には生息する筈もないのであるが・・・。

武藏國の本来の場所は、古事記で天照大御神と速須佐之男命の宇氣比で誕生した天菩比命の子の建比良鳥命が祖となった地を无邪志國と記載されている。

前記したように武藏(ムサシ)の由来である。即ち山稜が延びた先ではなく、延び出る谷間を示している。頻出の赤=大+火=平らな頂きの麓の山稜が[火]の形をしている様であり、その地形を図に示した場所に見出すことができる。現在麓は高蔵山森林公園となっている。

上野國も同じように谷間を遡ると、赤烏を見つけることができる。その麓はダムになって水没してしまったようであるが、谷合に拓けた地を垣間見ることができる。後に褒賞記述があるのか不明だが、正月早々、その冒頭に記載されているのは、公地開拓と言う重要な出来事であったには違いなかろう。

<甲斐國:白狐>
甲斐國:白狐

献上物語での甲斐國の登場は初めてかもしれない。「白狐」はこれまでに幾度か記載されていた。例えば、斉明天皇紀に登場する石見國の白狐見(石見國の地形の特徴を表す)があった。

狐=犭(犬)+瓜=平らな頂の麓にある瓜のような様と読み解いた。別表記では、これを「果」の表記を当てた場所である。山稜の端が丸く小高くなっている様を表現していると思われる。

甲斐國でそれを求めると図に示した場所に二つ並んでいるところが見出せる。その谷間を開拓したのであろう。池でも造って治水をしたように推測される。古事記の倭建命が滞在した酒折宮があった近辺と思われる。

<尾張國:小鳥生大鳥>
尾張國:小鳥生大鳥

これは續紀編者の戯れ表記であり、小鳥が大鳥を産んだとそのまま読み飛ばしては、真に勿体ない。がしかし場所の特定となると極めて難解な状況でもある。

「鳥」の地形を示す以前の記述を探すと、孝徳天皇紀の蘇我山田大臣事件に連座した者の一人、高田醜醜が登場し、「醜醜」=「之渠雄」と読む、と註されていた。

古事記以来、「訓」は重要な地形象形表記であり、その詳細を補足する役割を果たしていると解釈して来た。その「雄」(雄=厷+隹=羽を広げた鳥の形)に「鳥」が含まれていることが解る。

するとその「鳥」の地から延び出た山稜が平らに(現在は団地開発されているが)広がっているように見られる場所が見出せる。これを大鳥と表記したと思われる。大小の意味も含めながら、小鳥=三角形に尖がった鳥の地形を表しているのであろう。尾張國を出自を持つ人物が多く登場して来ているが、全くの空白の地をこんな表現で登場させている。ともあれ、この地の”地名”は”大鳥”としておこう。

<呉肅胡明(御立連呉明)>
● 呉肅胡明

「従五位上」で登場だから既に高名な人物、直後にその醫術で褒賞された者の一人として挙げられている。百済系渡来氏族と推定されるが、元のままの名前では如何ともし難いが、「御立連呉明」と名乗ったと知られている。

「御立」は、古事記の伊久米伊理毘古伊佐知命(垂仁天皇)の御陵在菅原之御立野中として記載された場所、現地名の田川郡福智町伊方辺りと思われる。

「呉明」は、元の「呉肅胡明」を捩ったように思われるが、きちんと地形象形しているようである。「呉」=「夨+囗」と分解され、「互いに交差する様」を表す文字と知られる。幾度か登場の「明」=「日+月」=「炎の地の傍らに三日月の地がある様」と読み解いた。併せると呉明=炎の地と三日月の地が交差するようなところと読み解ける。

御立連淸道と名乗ったとも言われるが、淸=氵+靑=水辺で四角く窪んだ様道=辶+首=首の付け根のような様から、おそらく別名として良さそうである。漢字を自在に取り扱える人物であったことには違いないであろう。

< 越智直廣江>
● 越智直廣江

「越智直」は、書紀の天武天皇紀に登場し、後岡本天皇陵(元は小市岡上陵、また持統天皇紀では越智山陵、こちら参照)に因む地域に住まう一族かと思われたが、調べると伊豫國が出自であったと分かった。

些か広範囲の伊豫國であるが、越智=山稜の端が鉞のようになった地に[炎]と[鏃]の形があるところの地形を探すと、図に示した場所が見出せる。古事記の大雀命(仁徳天皇)の西側の山稜の形から名付けたと思われる。

名前の廣江から出自の場所は、図に示した場所と推定される。直後に明經第一博士と記されているが、皇太子に進講するに値する人物だったのであろう。父親の武男の居処は、武男=[戈]のような山稜の先が突き出ているところであったことが解る。

在野において儒教の五経に通じる能力を有していたのであろうが、こんな人物を育む環境が整って来ていたことを伺わせる記述である。

<船連大魚・津史主治麻呂>
● 船連大魚

船史(連)一族であり、「船史」の出自の場所と推定した、現地名の京都郡みやこ町勝山大久保の一角を占める人物だったと思われる。この一族には法相宗の道昭がおり、文武天皇紀に長文の逸話が記載されていた(こちら参照)。

「連」姓を賜ってからの登場人物は「船連秦勝」(因幡守など)であり、大魚もその近隣と推定される。「魚」のそれなりに頻度高く用いられる文字である。全て魚の尻尾の形を模した表記と解った。

図に示したようにその前例に外れることなく、立派な魚が横たわっている場所が見出せる。出自の場所は道昭の西隣辺りと推定される。中国から朝鮮半島経由で渡来したのであろうが、既に倭風の「船」の氏名を持っていたのだが、書紀語る”船の司”を由来とするのは極めて怪しい。出自場所を曖昧にする戯言と思われる。

少し後に津史主治麻呂が遣新羅使に任じられたとして登場する。書紀の敏達天皇紀に「船史王辰爾弟牛、賜姓爲津史」と記載されている「津史」の後裔と思われる。津=氵+聿=水辺で山稜が筆のような形をしている様と読み解くと、図に示した場所が見出せる。

「船」と「津」の地形の違いに忠実な表記であることが解る。主治=真っ直ぐに延びた山稜の先に水辺で鋤のような形をしているところと読み解ける。出自は図に示した辺りと推定される。

<山口忌寸田主・佐美麻呂>
● 山口忌寸田主

「山口忌寸」一族も幾人かの登場を見たが、その系列ではない人物のようである。現地名は田川郡赤村赤の畑、戸城山東麓の谷間と推定した(こちら参照)。

主=山稜が真っ直ぐに延びている様と解釈すると図に示した場所が田主の出自の場所と思われる。別系列の「兄人」の西隣となる。

直後に算術が巧であったようで、褒賞を授かっているが、この谷間の人材は有能であったことが伺える。息子に山口忌寸佐美麻呂(別名:沙彌萬呂)が居たと知られている。佐美=左手のように延びた山稜の傍らで谷間が広がっているところあり、父親の北側の地と思われる。

別名の沙彌=水辺で尖った山稜の端が延びている様、また萬呂=蠍のように延びた山稜の傍で積み重なって高くなった様解釈される。詳細な地形を表していることが解る。いずれにしても、地形に忠実な命名である。

<土師宿禰百村・千村・五百村・御目>
● 土師宿祢百村

「土師宿禰」一族であり、彼等の地の中で出自の場所を求めることになる。調べると父親が弟麻呂と知られている。これで目星が付いたようで、弟=ギザギザとした様と解釈して東側の谷間の奥辺りと推定される。

するとその谷間の延長したところに山稜の端が小高くなった地形が見出せる。百村=手を開いたような山稜の端に連なった小高い地があるところと読み解ける。

多くの「土師宿禰」が登場したが、この谷間の奥に出自を持つ人物は見られなかった。更に峠を越えれば、阿倍朝臣一族の領域となる。

後(聖武天皇紀)に百村の子の土師宿祢千村・五百村が外従五位下を授けられて登場する。千村=谷間を束ねる手を開いたような山稜があるところと読み解ける。父親の対面に位置する場所が出自と推定される。五百村=[百村]が交差するところと読むと、父親の南側の谷間を示していると思われる。

その少し後に土師宿祢御目が同様に外従五位下で登場する。父親が「根麻呂」、兄が「甥」であったと伝えられている。御目=谷間を束ねるところと解釈すると、っ図に示した場所と思われる。上記と共に立派な由緒正しい家柄なのだが、聖武天皇の思惑で、先ずは”外”から昇進させることになったようである。叱咤激励の様相である。

<鹽家連吉麻呂>
● 塩家連吉麻呂

「鹽家連」は記紀には登場せず、調べると葛城襲津彦(古事記では葛城長江曾都毘古)の後裔と主張していたようである。但し、古事記で記載された祖は「葛城長江曾都毘古者、玉手臣、的臣、生江臣、阿藝那臣等之祖也」であり、更に分家した後のようである(こちら参照)。

現地名の田川郡福智町上野・弁城辺りで「鹽家」を探索する。以前にも述べたように旧字体での解釈でなければ地形象形表記として読み解くわけには行かず、意味不明となる。

鹽=監+齒=鑑のように平らな地に突き出たところがある様家=宀+豕=谷間で延びる山稜の端が豚口のような様と読み解いた。すると「曾都毘古」の南西側にその地形が見出せる。地表は大きく変っているが、当時を偲ぶことは可能であろう。

吉=蓋+口=口に蓋をするような様であり、福智川対岸の山稜とで大きな谷間にをするような地形となっていることが解る。尚、別名に古麻呂とも記載されたようで、「鹽」のに該当するのであろうが、地表の変化から明確にすることは叶わないようである。

<背奈公行文・王仲文・高金藏・高麥太>
● 背奈公行文・王仲文

明經第二博士として褒賞された人物であるが、出自を調べると高句麗系渡来人を集めて霊龜二年(716年)に新設された武藏國高麗郡に居住していたことが分った。

倭風の名前を用いて倭の地に馴染んでいたのであろう。流石に博士、地形象形表記など容易であった、かもしれない・・・のだが、直截的な表記で分り易い。

背奈=背後に山稜が小高くなっている様であり、図に示した山稜の端の麓を示していると思われる。公=ハ+ム=谷間にある小高く区切られた様であるが、既に用いられなくなった「公」(姓:眞人)として倭風名称らしくしているようでもある。

既出の行=真っ直ぐに連なって筋のようになっている様文=交差する様から段々になった山麓の地形を表していることが解る。父親が福德で、図では省略しているが、「行文」の北西側が居処だったと推定される。もう既に立派な倭風名称である。

また大寶元年(701)八月の記事に「三名の僧、惠耀{觮兄麻呂}・信成{高金藏}・東樓{王中(仲)文}を還俗させた」とあり、その一人である王仲文は、また養老二年(718)正月に従五位下に叙位されていた。渡来系高麗人ぐらいしか情報がなく、不詳としていたが、高麗郡の地形が見えて来ると、仲文が地形象形しているように思われて来た。仲文=谷間で真ん中を突き通す山稜が交差するところであり、図に示した場所の地形を表しているのではなかろうか。

同様に高金藏も高麗郡に住まっていたのであろう。あらためてその名前が示す場所を求めると、図に示した辺りかと思われる。金藏=金の文字形の麓にある長四角の形をしたところと解釈する。後(聖武天皇紀)に高麥太が登場する。麥=來+夂=山稜が岐れて広がり延びている様と解釈すると、図に示した辺りが出自の場所と思われる。

<箭集宿禰蟲萬呂-堅石・志我閇連阿彌陀>
● 箭集宿祢虫万呂・志我閇連阿弥陀

「箭集宿祢」を調べると古事記の伊迦賀色許男命の後裔であることが判った。御眞木入日子印惠命(崇神天皇)紀の”疫病多起”に際して神々を祭祀する役目仰せつかった、と記載されている。

內色許男命の比賣の伊迦賀色許賣命(伊賀迦色許賣命)が妹…後に皇太后…であり、皇統に深く関わる一族であった。その地で「箭集」の地形を求めることにする。

「箭」=「竹+前」と分解される。幾度か用いられている「前」=「揃」として、「箭」=「山稜が揃って並んでいる様」と解釈した。纏めると箭集=山稜が揃って並び集まっているところと読み解ける。

図に示した場所の地形を表していることが解る。頻出の蟲=山稜の端が細かく岐れている様であるが、図の解像度では確認し辛いようである。同様に萬=蠍のような地形であり、「箭」の山稜を示す表記と思われる。「伊迦賀色許」で表現された場所の細部を示している。別名が矢集とのこと、全く問題はないようである。

後(聖武天皇紀)に箭集宿祢堅石が外従五位上を叙爵されて登場する。堅石=谷間に延びた山稜が山麓で小高く区切られたようになっているところと読み解ける。「蟲萬呂」の東側辺りが出自と推定される。

志我閇連阿彌陀は、山田氏同祖(古事記の春日山田郎女、上記の山田史御方)と知られている。ならば春日の地が出自であろう。既出の文字列であり、志我閇=蛇行する川とギザギザとした戈のような地で閉じられたところと読み解ける。「志」は古事記の伊邪河を示している。”阿彌陀”が名前とは、何と不届きな!…ではなく、単なる地形象形表記であろう。阿彌陀=広がった台地の縁が崖のようになっているところと読み解ける。

<私部首石村>
● 私部首石村

文武天皇紀に私小田・私比都自等が登場している。攝津國に属する地、現地名では行橋市矢留に矢留山の北麓辺りを出自とする一族と推定した。

私部=[私]の近辺と解釈される。すると見事な首の地形が容易に見出せる。二つの池に挟まれた、あるいは池に突き出た”半島”のような場所である。

その”半島”の形が村=木+寸(又+一)=山稜が指を拡げて長さを計るような様と見做せることが解る。石=磯として解釈する。水辺にある山稜の端の地形を表していると思われる。

<太羊甲許母:城上連胛巨茂-眞立>
● 太羊甲許母

全くの古事記風地形象形表記であろう。ただ何処の地域なのかが不明であり、調べると後に「城上連」の氏姓を名乗っていたと知られているようである。

「城」が「葛城」を示すとして、この地形象形表記を読み解いてみよう。先ずは文字列をそのまま読み下すと、太羊甲許母=平らな頂の麓の谷間で兜のような山稜の麓にある母が両腕で抱えるようなところとなろう。

見事に当て嵌る場所が現地名の田川郡福智町上弁城に見出せる。”上弁城”は立派な残存地名と思われる。不慣れな地形象形表記を行ったのであろうが、以前にも述べたように、実に分り易くなっている。

後に「城上連」姓を賜った時に胛巨茂と記載されている。胛=月+甲=兜のような山稜の端に三角州がある様巨=谷間に山稜が延びている様茂=艸+戊=二つの山稜が並んで鉞のような形をしている様と読み解ける。「音」は同じくして、より詳細に地形を表した表記となっていることが解る。

後(聖武天皇紀)に城上連眞立が外従五位下に叙爵されて登場する。眞=鼎+匕=山稜に囲まれた窪んだ様立=竝=二つ並んでいる様と解釈して来たが、その地形が谷間の奥に見出せる。併せて図に記載した。

<惠我宿禰國成>
● 惠我宿祢國成

流石に解工(農業土木、用水工事)関連ともなると関連情報は皆無の有様のようである。解工使についてはこちらを参照。

と言うことで、何とかこの人物の出自の場所を求め、その地形をあからさまにすることを試みた。

「惠」は古事記の「惠賀」で用いられた文字で、「惠」=「叀+心」=「山稜に取り囲まれた地に小高いところがある様」と解釈した。例えば品陀和氣命(応神天皇)の川內惠賀之裳伏岡陵などに用いられている。

「我」=「ギザギザとした戈のような様」であり、纏めると惠我=山稜に取り囲まれた地にあるギザギザとした戈のような小高いところと読み解ける。國成=大地が平らに盛り上げられたところと解釈される。おそらく、「我」の中央付近の図に示した場所辺りが出自と推定される。下流域において無数に分岐した川の治水に長じていたのではなかろうか。

● 賈受君(神前連)

渡来系の人物名であろう。後に「神前連」姓を賜っていることが唯一の情報であって、ならば天智天皇即位四年(665年)二月の記事に百濟からの亡命者を近江國神前郡に入植させた、と記載されている。その後同國蒲生郡に移住するのであるが、残留の子孫だったと推測される。詳細な出自の場所を求めることは叶わず、現在の京都郡苅田町にある旭ヶ丘ニュータウンとしておこう。

<胸形朝臣赤麻呂>
● 胸形朝臣赤麻呂

「胸形」は天武天皇が娶った胸形君德善女尼子娘に登場していた。高市皇子の母親である。勿論古事記の「胸形」に該当するが、既に明らかにしたように現在の宗像市を表すのでではなく、その東南部の山稜に囲まれた地域(赤間・富地原・吉留など)を示していると思われる。

頻出の赤=大+火=平らな頂の麓に火のような山稜がある様であり、その地形を求めると図に示した場所に見出せる。城山(赤馬山とも呼ばれる)の麓にある蘿神社辺りが出自の場所と推定される。現地名の宗像市赤間の「赤」の由来は、城山(赤馬山)の南麓の地形であることが解る。

「解工」の五名の匠は、それぞれ特徴ある、言わば高難度開拓地を出自として、それを切り開いた人々であったように思われる。通常の登場人物とは大きく異なる出自を求める羽目になったが、極めて興味深い結果となったように思われる。

<大窪史五百足>
● 大窪史五百足

「大窪」は天武天皇紀に大窪寺で登場していた…大窪寺はついては情報少なく、調べると神武天皇陵に関係する場所と言われているようである。畝火山北方白檮の場所の窪んだところにあったのかもしれない…と述べて特定には至っていなかった。

と言うことで「五百足」の地形が見出せるかどうかを確認してみると、何とかそれらしき場所に辿り着けるようである。「唱歌師」とは、何となく分るようだが、詳しくは情報が見当たらず、これ以上の探索は難しいようである。

尚、「大窪寺」は現在の清祀殿辺りにあったのかもしれないが、これも殆ど他の情報がなく、概略の場所を示すに止めることにする。

<記多眞玉>
● 記多眞玉

全くの関連情報がなく、この四文字から出自の場所を求めてみよう。すると意外なところからヒントが得られることになった。それは・・・。

記=言+己=耕地が曲がりくねって連なっている様であり、これは蛇行する川が流れる深く長い谷間を示している。

幾つかの候補が挙げられるが、眞玉=玉のような地が寄り集まった様が重要な情報をもたらしてくれるようである。長く深い谷間に幾つもの玉のような小高いところがある地は、譯語田宮御宇天皇(敏達天皇)の居所、幸玉宮があった谷間と気付かされた。

多=山稜の端の三角州であり、図に示した場所が必要な地形要件を満足していることが解る。どうやら遷宮すると、その周辺に雅らかな振る舞いが伝播して行ったのではなかろうか。

<茨田連刀自女>
● 茨田連刀自女

「茨田連」は、古事記の神倭伊波禮毘古命(神武天皇)の御子、日子八井命が祖となった由緒ある「連」である。書紀は、この「茨田」が示す場所を曖昧にし、挙句に大雀命(仁徳天皇)の茨田堤と混同させる記述を行い、それにまんまと引っ掛ったままの有様である。

「茨田」は決して固有の地名ではない。「茨田連」の現地名は、京都郡みやこ町勝山松田であり、茨田(マツタ)は松田、即ち松葉の形を示すのである。その谷間の脇の山稜が、刀の形をしていると見做し、自=鼻=端が出自の人物と読み解ける。

何度も述べるように續紀の記述は、古事記に倣い、それを引き継ぐ表現を行っている。續紀が記載した『日本紀』は、日本書紀ではないと、ほぼほぼ確信できそうな雰囲気である。

<螺江臣夜氣女>
● 螺江臣夜氣女

「螺江臣」を調べると丸邇(和珥)一族であったと判った。現地名の香春町柿下辺りで「螺江」の地形を探してみよう。

「螺」=「虫+累」と分解される。「虫」=「蟲」=「山稜の端が細かく岐れている様」、また「累」=「畾+糸」=「山稜が積み重なるように集まっている様」と解釈される。

纏めると、螺江=山稜の端が細かく岐れて窪んだ水辺に積み重なるように集まっているところと読み解ける。図に示したように前記した柿本人麻呂の東側に当たる場所と推定される。

夜氣=谷間がゆらゆらと延びている様であり、この人物の出自の場所を求めることができたようである。古事記も含めて丸邇一族からは多くの登場があったが、この地が出自となった例がなかった。邇藝速日命の末裔、健在というところであろうか。